映画・ドラマ・本などの感想記事は基本的にネタバレです。ご注意を

2010年05月14日

『ザ・グラディエーターII ローマ帝国への逆襲』ティムール・ベクマンベトフ

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THE ARENA

邦題が『ザ・グラディエーターII』なので昨日観たアレの続編みたいだけど原題は『THE ARENA』で無論続編ではない。というかDVDとしては『ザ・グラディエーター 復讐のコロシアム』という映画のシリーズUになってるのだが、それの続編でもないようだ。

とにかくなんのことやら判らないが2000年当時やたら剣闘士物が作られていたのか、いつも作られているのか。
本作はあのB級映画と言われる低予算映画のプロデューサーで有名なロジャー・コーマンプロデュースによるティムール・ベクマンベトフ監督のオリジナルビデオ作品となっているのでベクマンベトフ監督のデビュー作ではないのだな。昨日のやたらと金だけは湯水のように使ったであろう『グラディエーター』と比べれば一目観て手作り感溢れる低予算映画だと感じられる。何しろ、舞台がローマではない。しくしく。なんとドサ回りの地方巡業であった。しくしくしく。永遠に続くほどの北方へ移動したというから監督の故郷ロシアまで行ったんであろう。大都市ローマから遥か北の国の田舎での統治をまかされた総督がその地でローマを彷彿とさせるコロシアムを建立させ、ローマから剣闘士を運ばせて俄か仕立ての剣闘を楽しもうと試みるのだ。
なんとも地味で世知辛い設定ではないか。でも私としては昨日の資本主義だけが目立つ教科書的作品より本作の方が面白く観れてしまった。
取り敢えず、本作の目玉は絶大な人気であったらしいプレイメイトのカレン・マクドゥーガルとリサ・ダーガンのダイナマイトボディだったのだろうし、それが楽しめる設定・筋書きになってはいる。
だが、昨日の結局は勝者であるローマ軍の将軍の物語より、ローマ軍に襲われ捕えられて奴隷となった異民族の女性が勇気と知恵を持って反逆を起こすという本作により共感を持って観てしまうのである。

奴隷となった彼らはローマ人にとってはただの見世物で動物にすぎない。男も女もその特性でローマ人に仕え彼らの欲望を満たす為には誇りも命も捨てなければないらないのだ。
ヒロイン・ボディシアは剣闘士の若者に恋をするが彼はあっという間にその若い命を奪われてしまう。そしてボディシアはローマ人の慰みものになる(この辺が取り敢えず見せ場)
勝利者であるローマ人の権力と奴隷である彼らの惨めさがより伝わってくる。が、ローマ人はますます増長し奢りを極める。剣闘士が足りなくなり女性たちを剣闘士として戦わせる。流血が禁じられた祝日に試合を行い、妊娠した女性を殺させてしまう。ボディシアは仲良くなったジェスミナと戦うことになるが二人は力を合わせ総督を倒し自由を勝ち取るのだった。
ジェスミナとボディシアの美貌が際立っているし剣闘の場面もなかなか迫力あった。ボディシアが好きになる剣闘士君の体も凄かったけど。

ベクマンべトフ監督としては彼女たちの魅力を大いに映さねばならなかったろうし、予算的にも厳しかったのだろうけど、こうして観ると後で製作された『ウォンテッド』や『ナイトウォッチ』『デイ・ウォッチ』などで表現されるものと似通っている部分がちらほら観えるようだ。

監督:ティムール・ベクマンベトフ  出演:カレン・マクドゥーガル リサ・ダーガン ヴィクトル・ヴェルズビツキー アナトリー・マンベトフ
2001年 / アメリカ/ロシア


ラベル:歴史
posted by フェイユイ at 23:07| Comment(0) | TrackBack(0) | ロシア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

マット・デイモン『GREEN ZONE』

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マット・デイモン『GREEN ZONE』

こちらも『GREEN ZONE』

ポール・グリーングラス監督作品、さらにぐらぐら感スケールアップしてるみたいですねー。悪酔いしませんように。
posted by フェイユイ at 11:20| Comment(3) | TrackBack(0) | マット・デイモン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

J・ケルアック「路上」映画化。監督はウォルター・サレス

キルステン・ダンスト、J・ケルアック「路上」映画化に出演

同じくビートニク映画でベン・ウィショーがルシアン・カーを演じることになっていた『Kill your darlings』がほぼ絶望的になってる現在、あちこちでぽつぽつビートニク映画が製作されているようだ。
本作も何故かケルアックの分身であるサルをイギリス人俳優サム・ライリーが演じてたりするのだが、何と言っても監督が大好きなウォルター・サレスなので放ってはおけない。ロード・ムービーだからして『モーターサイクル・ダイアリーズ』を彷彿としてしまうしね。
あちらがチェ・ゲバラの若き頃と言う活躍する未来を感じさせる題材なのにこちらはかなり絶望的物語であるが。

『路上』は自分も若き頃読んで広大なアメリカ大陸を疾走する彼らに思いを馳せてみたりした作品であるし、期待高まってしまうではないか。
posted by フェイユイ at 08:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 北米 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『グラディエーター』リドリー・スコット

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GLADIATOR

なんだか突然の『グラディエーター』である。前から気になってなくはなかったのだが、監督並びに俳優陣も絶対と言うほどでもなかったので延び延びになってしまった。
観てしまった感想としては非常に丁寧に作られているとは思うのだが、設定とストーリーがまるで古代ローマ物語の教科書的構造で全部知っていた話をもう一度観てるみたいだった。目玉は何と言っても主役ラッセル・クロウのベアー系の魅力であろうしそこは私も納得だったのではあるが、ホアキン・フェニックスのコモドゥスが憎らしすぎて印象としては彼の方が勝ってしまうかも。また史実的にはコモドゥスって映画とは真逆でハンサムで民衆や軍隊から厚い支持を受けてたらしいしおまけに姉とは近親愛どころか反目しあってるみたいだし全然違うのだ。つまりやっぱりいかにもの古代ローマ風の発想、近親相姦だの暴君だの、という設定にせねば主人公のかっこよさが引き立たなくなってしまうから、の設定になってたのだ。
私としては安彦良和『我が名はネロ』みたいにホアキン皇帝とラッセル・グラディエーターのアブナイ関係みたいな方が喜ばしかったけどそれは無理であるか。
でもアメリカ・メジャー映画であるにも拘らず結構同性愛やら少年愛っぽい雰囲気もちょこちょこ醸し出されていたようには思える。
おまけに何度も「父・前皇帝があなたを愛した」とラッセルに言う台詞があるのでやはりそういう関係だったのかなー皇帝ベアー系だったのかなーと妄想してしまう。しかもこの作品、何故か女性っ気が物凄く乏しい。ラッセルの奥さまはイメージ映像のみだし、ヒロインは皇帝の姉君のみ。子持ちだしそれほどいかがわしい場面があるわけでもなく、他の綺麗どころはまったく登場しない。物凄く抑えられた形ではあるがまだしも同性愛的な箇所が感じられる。とはいえ抑え過ぎてて騒ぐほどでもなく。田亀源五郎『ウィルトゥース』を期待しても駄目だったかしらん。

色々書いたけどでも結局この作品はラッセル・クロウにグラディエーターの格好させて楽しみたかっただけ、っていうものではないのだろうかねえ。元老院役にデレク・ジャコビが登場するし。

監督:リドリー・スコット 出演:ラッセル・クロウ ホアキン・フェニックス コニー・ニールセン オリバー・リード リチャード・ハリス デレク・ジャコビ ジャイモン・フンスー トーマス・アラナ
2000年アメリカ
ラベル:歴史
posted by フェイユイ at 00:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 北米 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月13日

妻夫木&松ケン、激動の60年代描く「マイ・バック・ページ」で初共演

妻夫木&松ケン、激動の60年代描く「マイ・バック・ページ」で初共演

ひっさしぶりに松ケン話題^^;
うはーしかも山下敦弘監督だし。松ケンが左翼だし。楽しみだなあ。

以前妻夫木の映画挨拶で松ケンが客として質問してたんで「なんかありそうだな」と予感がしたりもあったのだよね。
松山くんもやっとこういう(?)役が来た感じでちょいと嬉しいです。

妻夫木聡が新聞記者役、松山ケンイチが左翼学生役で初共演決定!激動の日本を描く映画『マイ・バック・ページ』

妻夫木&松ケンが初共演 ベトナム、全共闘の激動の時代を疾走!
この記事に一番どきどき。
この辺りの話、凄く知りたいのだけど意外とあまり作品ないような気がする。期待。
ラベル:松山ケンイチ
posted by フェイユイ at 09:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 松山ケンイチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『戦場でワルツを』アリ・フォルマン

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VALS IM BASHIR/WALTZ WITH BASHIR

とても変わった手法の作品だった。映画監督である主人公アリが突然友人に不思議な夢の話を聞かされる。26匹の狂犬に吠えたてられる、というものだ。友人は2年ほど前からその夢に苦しめられているのだが、彼にはその犬が何なのかをすでに察している。さらに20数年前に従軍したレバノン内戦での記憶が彼にその夢を見させたのだと言う。
主人公はその話を聞いたことから自分も共に従軍した戦争の記憶を探ろうとする。ところが彼はその時の記憶がすっぽり抜け落ちてしまっているのだ。
主人公アリが失われた記憶を取り戻す為、共に従軍した戦友たちや心理学者などから話を聞いていく、というドキュメンタリー映画でありながらアニメーションである。
それは中で戦友が要求した「絵は書いていいが写真は駄目だ」と言うことからきているのだろう。本人役で出演している人たちもアニメーションになることでこの重く苦しい過去を語る映像に登場する負担がが少しは緩和できるかもしれない。またドキュメンタリーの部分(インタビューの場面)と夢や過去を映像化した部分がアニメーションであることで違和感なく一つの作品にまとめられている。

アニメが大好きな日本人が作るアニメとは随分違うアニメである。一旦撮影したものをアニメに置き換える、というのもあまり日本のアニメファンの好みではないのではないか。自分もそうだったのだが、この作品ではあえてアニメに置き換えることにも意味があったので納得できたし、またアニメ自体の技法も優れていてとても美しいと感じた。
それにしても巧妙に作られた作品だと思う。
突然の恐ろしい予感をさせる導入部。26匹の吠える犬の理由。この夢にしろアリの中に僅かに残った記憶にしろ何故同じ戦争を体験した彼らの中でこのような形で残っているのかが釈明されていく過程に惹きこまれていく。
つまり私のように何も知らなかった者や知っていたけど主人公と同じように記憶が失われてしまっていた人々は彼と同じように記憶を辿っていくことになる。
まだ何も判らない若者だった主人公や戦友たちは戦争の狂気の中に巻き込まれていく。
そして自分たちもまた残虐な加害者になっていくのだ。
それはかつて愛する家族・同胞に非道な虐待・殺戮を犯したナチスと同じではないかという苦悩となり彼らの記憶から虐殺の部分を抹消してしまう。そうしなければとても耐えて生きていることができなかったのだ。
彼らの犯した虐殺の場面でホロコーストを持ちだすことに反感を持つ向きもあるようだが、両親をアウシュビッツで亡くしてしまう過去を持つ者がナチスの行為と自分の行為を重ねてしまうのは当然のことであるし、それこそが彼らとって最も認めたくない事実だったはずだ。
アリがその時の記憶を夜の海に浸っている自分たち、という記憶にすり替えていまったのは、博士が言う「夜の海は恐怖を意味している」からなのだろう。

祖国の暗部を告白した厳しい作品だが、どこか却ってほっとするような気持ちになるのは今迄記憶の底に抑え隠していた苦々しいもの、醜悪な夢を掘り起こし見つめ直したことで逆に救われたからなのではないか。
私自身イスラエルに対し「何故彼らがナチスと同じようなことを」と最近訝しく思っていただけにこの作品を観てほんの少しだけ救われた気がした。
とはいえ、本当に苦しいのはパレスチナの普通の人々であることは違いない。

監督・脚本・出演:アリ・フォルマン
2008年イスラエル
posted by フェイユイ at 00:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 西アジア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月11日

『ホワイトナイツ/白夜』テイラー・ハックフォード

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WHITE NIGHTS

昔観たはずなのだけど例によって殆ど内容は忘れている。グレゴリーとミハイルの踊りが凄かったんだよなあ、と何となく思っていただけだったのだが、今回観なおしてとんでもなく面白い映画だったんだと確認した。
どうしてもバリシニコフ自身の履歴と役柄においてソ連から抜け出し自由の国アメリカで踊りたいのだ、という熱い思いと彼らの置かれる状況が噂通りに酷いのでアメリカ礼賛、ソ連批判のような印象が持たれてしまうのだろうけど、アメリカ人のグレゴリーが何故ソ連へ亡命したのか、アメリカに対しての失望と批判も描かれているところはなかなか配慮されているのではないだろうか。
この映画では無論バリシニコフとハインズという素晴らしい踊り手がそれぞれの持ち味を充分に出しながら競演(まさに競いあうダンスの妙技!盗撮しているKGBのチャイコに見せつけてやろうという二人のダンスの素晴らしさ)しているのだが、ハインズには申し訳ないけどここでのヒーローはバリシニコフになってしまう。
踊り、歌などの芸術は、しばしば抑圧され苦悩するところから爆発するように生まれることがある。黒人であるハインズも『コットンクラブ』ではその悲しみ、苦しみを吐き出すように見せてくれる。
そういう意味でもこの作品での悲劇はバリシニコフ演じる亡命者のダンサー・ロドチェンコであるのだ。(ロドチェンコ、と名前を書き変えなくてもバリシニコフ、と言う名前そのままでも同じ意味になるのだろう)
本作の踊りの圧巻はロドチェンコがかつてソ連で活躍した豪華な劇場で元パートナー・ワガノワの前で踊る場面だ。
ソ連では聞くことを禁じられた歌手ヴィソツキーの歌をこっそり聞いているワガノワは愛していたロドチェンコに昔計画して逹せなかったバランシンを踊りたいと言う。
ヴィソツキーはソ連において体制批判を情熱的に歌い上げた歌手なのだ。ロドチェンコ=バリシニコフはバランシンはアメリカでもう踊って来た、と言う。ワガノワが隠れて聞くヴィソツキーの音を大きくして「彼の歌のように叫ぶように踊りたい」と言いながら踊ったバリシニコフのその踊りはまさに叫んでいるようだった。
小柄なせいか少年のようにも見える体が躍動するバリシニコフがここで見せるのは華麗なジャンプを見せる踊りではない。むしろ地を這い身をよじり体を縛られ苦しんでいるかのような慟哭のような踊り。自由に踊りたくても踊れない、自分を思い切り表現したいのにそのしなやかな腕も脚も縛られとんとんとつま先で跳ねるしかできないのだ、判るかい、と言わんばかりの悲しい踊りだった。
パートナーである恋人ワガノワを演じたのがヘレン・ミレン。愛した人の踊りに彼の心を感じとってしまう。

グレゴリー・ハインズ=レイモンドとロシア人の妻ダーリャはロドチェンコの世話と見張りをするうちに次第にソ連の国家体制の息苦しさを感じだす。ロドチェンコと会う前はソ連の生活に慣らされていたレイモンドはロドチェンコと踊り合ううちにかつて彼も感じていたダンスへの情熱を思い出してしまったんだろう。
芸術を描く時は恐ろしいほどの弾圧があればあるほどその芸術家の魂が輝いて見えてしまうのは困ったことだが真実である。
本作ではソ連という国家体制が上手く使われてしまった。現在はロシアはチェンジしたはずだが、あまりそうは思えないのはどういうことなのか。いやこれは余談。

物凄く久しぶりに観てバリシニコフの素晴らしさ。ヴィソスキーの歌にのせた踊りが脳裏に焼き付いてしまった。古さなどまったくない。

監督:テイラー・ハックフォード  出演:ミハイル・バリシニコフ グレゴリー・ハインズ イザベラ・ロッセリーニ イエジー・スコリモフスキ ヘレン・ミレン ジェラルディン・ペイジ ジョン・グローバー マリアム・ダボ
1985年アメリカ
ラベル:バレエ 自由
posted by フェイユイ at 23:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 北米 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『カティンの森』アンジェイ・ワイダ

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KATYN

映画には観る者を圧倒するエネルギーを持つ場合がある。
その為には作る者が人に訴えたい大きな思いとそれを伝えることができる技巧とが必要なのだ。この映画にはそれらがあり、時に身がすくむほどの激しい感情と見惚れる美しさがあった。

冒頭、思いつめた表情で一つの橋を渡ろうとする群衆がある。ところが向こう側からも駆けてくる人影がある。
彼らこそがポーランド人の姿で両側にある強大な国であるドイツとソ連から挟まれ追われながら危うい橋の上を行ったり来たりしながら歴史を刻んできたことを物語っているかのようだ。

物語の大半はポーランド将校を夫や父・兄に持つ女性たちを描くことに費やされる。将校たちはソ連兵たちに連行されてしまった。まるで何も抵抗することもないかのような彼らの姿にもポーランドの存在が感じさせられる。

残された女たちの戦いは自分らの誇りを捨てずに耐え抜くことができるか、ということなのだ。結婚すれば有利になれる赤軍将校からの求婚を拒否すること、カティンの虐殺はナチスの所業だという虚偽の証言を脅されても口に出さないこと、墓石に家族がどこでどう殺されたかを記すこと。
しぶとく生き抜く為なら上手く立ち回るのかもしれないが、彼女たちは誇りを捨てることができなかった。(その誇りがある意味弱さであるようにも思えるのだが)

重く苦しい物語の中で束の間きらめく様に若者たちの恋が描かれる。だがその恋も青年のとった小さな反抗の為にあっという間に消えてしまう。彼らには残った僅かの誇りさえ捨てなくてはならないのだ。

そして最後の場面。人間の尊厳も将校としての品格も完全に無視されまるで家畜の屠殺でもあるかのように次々と運搬車から降ろされ殺され運ばれ捨てられる。淡々としたその映し方、その後の暗転。
真っ暗な画面の前で何を思うか。

歴史は繰り返される。
この映画を今観た人はほぼ先日起きたポーランドの大統領の事故を思ってるだろう。
『カティンの森』追悼式典に参加するはずだったその名もカティンスキー大統領の事故死。
これは一体何を意味するのか。
こうした悲劇がポーランドの歴史なのか、とつい思ってしまうのだ。

監督:アンジェイ・ワイダ 出演:マヤ・オスタシェフスカ アルトゥル・ジミイェフスキ マヤ・コモロフスカ アンジェイ・ヒラ
2007年ポーランド
ラベル:家族 戦争 歴史
posted by フェイユイ at 00:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 欧州 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月09日

『シルクロード 第一部 絲綢之路』第二集「黄河を越えて〜河西回廊1000キロ〜」

昨日とは大きく違い、どっと見知らぬ異国へと入り込んでいく。
黄河の水をくみ上げる左公車という巨大な水車があり、さすがスケールがでかい。というか日本のようにこじんまりした国に住む者には河も砂漠も磨崖仏も涅槃仏も何もかもがでか過ぎ大き過ぎである。こういう場そに住む人々は精神構造が絶対違ってくるのだろうな。

昔の人々は東西を行き来する為に黄河を渡り、そして水のないゴビ砂漠を渡らねばならなかった。半日をかけて次のオアシスに辿り着くという命がけの道を探しだしたのだという。乗りものが馬ではなくラクダになると突如感じられる異国情緒。砂漠の尾根をラクダの一行が通っていく情景はそれだけで必ず潜む危険と何か宝物が隠されているようなわくわくするものがあるのではないか。
漢民族が西域から求めたものが早く駆ける馬であってその理想を燕を踏んで駆けていく馬の像にして表している。天馬の如く駆けていく。これもやはり広大な土地を縦断横断せねばならない人々だからこその願いでこういう望みも日本にはあまりなかったんではないだろうか。

張掖の町は当時の漢民族が作り上げたオアシスの町でも第2に大きな町で特に東西の交流が盛んだったという。13世紀末、マルコ・ポーロが1年間滞在したらしいのだ。

そして万里の長城の最西にそびえたつ嘉峪関。ここには故郷を離れ西域から国を守る為、兵士となって戦う若者たちが集った。
様々な時代の様々な土地に生死の物語がある。
そしてそういう物語によってシルクロードも続いていったのだ。
posted by フェイユイ at 22:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月08日

『シルクロード 第一部 絲綢之路』第一集「遥かなり長安」

何だかNHKづいてるようだが、またもNHKの昔の番組『シルクロード 絲綢之路』第1集「遙かなり長安(1980年4月7日)」を観た。
問題も色々とある番組みたいなのだが、ここではその内容についてのみの感想である。
私としては昨日までシベリアをうろうろしてたので少し南下したのであった。

NHKのドキュメンタリー番組と言えばまずこの名前が挙がってくるだろうと思うし、自分も観ていたことは確かだが、やはりこれもすんなり頭に入っているわけもない。

デジタルリマスター版となっているがそうなのかな、と思うほど映像の肌理が荒く思えるしシンプルと言うべきか非常に単純な作りに見える。
喜多郎(またまた。鬼太郎ではない^^;)の音楽と石坂浩二さんのナレーションがなかったらかなりとっつきにくかったんではなかろうか。
しかし1980年に製作されたということですでに30年の月日が経っている。映像の中の酷く昔のように見える中国と人々の様子。服装は殆どあの味気ない(というか今観れば不思議な味わいの)人民服である。
兵馬俑が発見されて数年後まだまだ恐ろしい数の兵馬さんが発掘途中でNHKスタッフが現地の人に2000年になってまたおいで、と言われていたりする。現在はそれをまた通り越してしまってるわけで。
一旦観始めると面白くなってしまう。
これは昔観ててもさっぱり判っちゃいなかったはずだ。
それにしても兵馬俑はじめ様々な絵画・工芸に見入ってしまう。兵馬の技術・デザインには目を見張る。西から伝わってきたキリスト教の絵画のキリストはすっかり東洋人みたいだ。それはインドからきた釈迦の顔もまたしかりだけど。

シルクロード・絹の道は長安に始まり長安に終わる。かつて絹の価値はその重さの金と同じであったという。
今のウイグル自治区であるホータンにはその当時絹が生産できなかった。が、蚕の繭は輸出が禁じられていた。そこでホータンの王は中国から花嫁を迎える際に蚕の繭を隠し持ってきてくれと頼み花嫁はその冠に繭を隠して嫁いだという。なんともスリリングな話ではないか。
1500年前のトルファンで作られた絹の造花が乾燥のおかげでまるで今作られたかのような形で残っているのにも驚きだ。

今回はこの長安での物語。距離だけでなく時間もまた遠くなった。
30年の月日は今回もまたこれから観る景色も人もどのように変えてしまったんだろうか。
ちょぼちょぼと折を見つけて観てみようかと思う。
posted by フェイユイ at 22:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

NHKドラマ『ゲゲゲの女房』ずっと観てるんだよね、これが

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まじ(本気)で珍しくTVドラマ『ゲゲゲの女房』を観ている。リアルタイムでTVドラマを楽しみにしてるってどのくらいぶりだろ。
前回ここで書いた時はしげる夫妻が結婚前で二人よりも周りのベテラン陣を褒めていたが、上京して二人の生活が物凄い貧乏生活が始まってからはベテラン陣の出演はなくなってしまったのだが、今はもう主演二人にすっかり見惚れていて彼らの一喜一憂を見守っているのである。
私が主演二人の他の顔を知らないせいもあってか、より二人がしげる夫妻そのもののように入り込んでしまってるようだ。

何しろ二人とも古い昭和の夫婦である。自然と男女差差異があり、亭主は威張り、妻はそれに仕える、という風情が当然の世界である。でもそれがしげる夫妻として観ていると微笑ましくてなんともよいではないか。それはしげるさんが自然体で優しい人だし、奥さんが大きな女性でありながら身を小さくするようにして健気にしげるさんに寄り添っている様子が可愛らしいからなんだろう。
原作を読んだ時も奥さんの古い女性らしさに打たれたのだが、ドラマの奥さんもとても素敵なのだ。
ドラマを作っている人たちは若い世代の方たちでこういう本当の貧乏というのを本当は知らない、と書かれていたが、だからこそある意味憧れのようなものを含んでこのドラマを作っているのではないんだろうか。
毎回貧乏生活がおかしくて悲しくてほのぼのとしてくる。時々見える怖いはずのお化けたちもなんだかとても親しみを覚えてしまう。

あれから人気は出てきたんだろうか。その辺は知らないんだけど、このドラマはやっぱりとても素晴らしい。
水木しげるさんのファンだという若者が「水木先生の漫画は怖いんだけどどこかとても懐かしい」と言う台詞がある。このドラマもどこか懐かしい風情がある。
奥さんがしげるさんに中古自転車を買ってもらっては泣き、マンガの手伝いをして褒められたり、それが一冊の本になっては泣いてしまう。そんな小さな感動にこちらも泣けてしまうのだ。

布美枝さん役の松下奈緒さん、すらりとした美女なのにここでは大女だの一反木綿だのと言われてしまう。けなげに献身的な姿と泣き顔につられてこちらも泣いてしまうよ。
しげるさん役の向井理さん。最初はあんまりハンサムなのではないかと思ったがだんだん本物のように思えてきた。水木さんは戦地で片腕を失っておられるのでドラマではどうなるのかと思ったのだけど、これも自然な感じでされているように見える。でもマンガを描く時は確かに片腕で原稿用紙を押さえるわけで大変だと思った。ぶっきら棒だけど優しい。素敵だなあ。
何だか毎日とてもアツアツの仲良しぶりを見せつけられてる感じ。こんないたわり合ってる夫婦の姿って今のドラマではあまり見られないのではないのかな。
ラベル:TVドラマ
posted by フェイユイ at 20:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月07日

『Serko』ようやく6000マイル到着

はああ、ようやく最後まで観通した。6000マイルの旅。

アレクサンドル3世の御代。彼の息子である小さな王子はフラゴナールの影絵に大いに感心する。そして彼のとりなしで皇帝に会う為白い小さな馬で6000マイルの旅を果たした若きコザック・ドミトリーの謁見を許す。緊張したドミトリーは言葉も出ないがフラゴナールと仲間のアジア女性の口添えで彼の願いはかなえられた。
ドミトリーは旅の途中で彼を助けてくれたモンゴル女性のセムジードを連れて故郷へ戻り花嫁にしたのであった。

命を助けてくれる旅の途中の女性は忘れられるのが常だが本作ではちゃんと結婚することになるっていうのが心憎い。
フランス映画ということもあってフランス人の影絵劇団が(リーダ以外の二人はアジア人だけど)主人公を助ける美味しい役柄でもあるし、彼の語りで物語が進行していくのも何だかほんとに影絵劇を観ていってるような不思議な感覚を味わわせてくれる。

しつこく繰り返すけどこの時のアレクセイはすんごく可愛くて白い小馬にぴったりなのだ。
軍服姿もいいけど、やっぱり旅をしてる時の帽子ともこもこ上着姿が愛らしい。
旅で物凄く臭くなっているはずなのに二人のアジア女性は彼を抱きしめて温めてくれたのだねえ。
こんないい映画が日本では観れないとは。勿体ない。あの氷原の美しさはとても見ることはできないのだから、せめてこうして映画ででも観ておきたいものなのになあ。

アレクセイの映画もまだもっと観たいのだが・・・次観れるのはいつ、どの映画になるのかな。
posted by フェイユイ at 22:39| Comment(0) | TrackBack(0) | アレクセイ・チャドフ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『Serko』続き。だが到達できず。Joël Farges

最後まで訳しながら観てしまうつもりだったが、アレクセイの顔にも見惚れてしまうせいか、思った以上に時間が早く経ってしまい、到着できなかった。

さて、不思議なおば様達の家で養分補給をしたドミトリーはセルコにまたがり旅を続ける。
寒い真夜中、ドミトリーは騒ぐ声を聞く。それは馬車を横倒しにしてしまった影絵劇団だった。
フランス人のリーダー・フラゴナールと何ともエキゾチックなアジア系美女二人。アジア美女はドミトリーが気になってしょうがない風。彼らの乗った馬車の後に続くセルコにまたがったドミトリーにしきりに話しかける。
ところが再度彼を見るとドミトリーは気を失ったのかセルコから落ちてしまったのだ。二人はフラゴナールに彼を助けてと頼む。
ドミトリーは医師の診察を受け薬が必要だと言われる。そんな金はないと言うフラゴナールにドミトリーはあの生きている死体の中国人の家から持ち出したシルクを金に換えて欲しいと頼む。シルクはいい値で売れ彼らは御馳走にありつけた。

ドミトリーと別れた影絵劇団はドミトリーの物語を上演することにした。若きコザック・ドミトリーは故郷の馬達がギャングどもに殺されてしまわないよう皇帝にお願いする為遥か遠い道のりを白い小型馬に乗って冒険の旅に出る。途中、化け物や熊に襲われた彼は勇敢にナイフで熊を倒してしまう。観客は大喝采で上演は大成功だった。
ドミトリーはようやく宿屋で休息を取ることにした。セルコを馬小屋につないで部屋で休んでいるドミトリー。
その頃、ドミトリーの故郷の人々を苦しめた男はドミトリーの行動を確認し彼の皇帝謁見を阻止しようとしていた。
ドミトリーは逮捕され牢屋に入れられそうになっていた。それを救ったのがまたもや影絵劇団であった。
ドミトリーは長旅ですっかり酷い体臭になってしまっていたので体を洗い軍服を身につけた。
食事をしながら彼はフラゴナール達に感謝する。それに気づいた周囲の人たちもドミトリーに挨拶する。彼はフラゴナールの劇で有名人になっていた。
フラゴナールは王子の前で影絵劇を上演する。王子は感心した様子であった。

フラゴナールの劇と現実が交錯するような作りになっていてどちらがどちらか、という感じになるのだが、そういう演出が凄く好きだ。
白い馬のセルコに乗ったドミトリー、という絵がとても美しい。
もう少しで旅も終わるのだが、時間がなくなってしまった。かなり端折った気もしたのだが、物凄く没頭してたようなのだ。昔このくらい熱心に勉強したらよかったんだけどねえ。

監督:Joël Farges 出演:アレクセイ・チャドフ Jacques Gamblin
2006年フランス
posted by フェイユイ at 00:34| Comment(0) | TrackBack(0) | アレクセイ・チャドフ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月05日

『タイムジャンパー』アンドレイ・マニューコフ


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BACK IN TIME/My iz budushchego

これはやはり現代のいい加減な若者たちに喝を入れようという主旨の映画なんだろうか。
一見悪ふざけのようでその志は国を憂う?その気持ちは判らんでもないがでもあんまり好きじゃねえ。

そこそこ面白いのではある。
というか始まってから暫くはそれこそ変なワルノリの若者4人の馬鹿話かという感じで撮り方も今風なのが気に障り止めようかと思ったのではあるが。
ロシア人でありながらナチスにかぶれて腕にハーケンクロイツ(なのか?)を彫り込んでいる筋肉男やラップ狂いのドレッドヘア男を含む4人仲間のうちの一人が趣味人の男に勲章などを見せて売りつけている。その後通りかかる女の子たちを冷やかしながら彼らが向かったのは郊外。何もないような草原を掘り返し始める。その間も4人はなんやかやとケンカばかり。が、突然一人が小屋らしきものを発見した。その中からは拳銃と弾丸が見つかる。目論見通りそこは元戦場でソ連兵とナチスドイツが戦った場所なのだ。
気を良くした彼らの前に謎の老婆が通りかかり牛乳を飲ませてくれる。そしてこの戦場で昔息子が戦死した。その形見の煙草ケースを探して欲しいと言う。4人はふざけながら安請け合いをする。
そして4人が見つけた4つの兵士手帳。そこには何故か4人の名前が書かれていた。

さてここからどういう展開になるか、色々な方法があると思う。現代のままでこの謎を解いていくとかもできるだろう。が、彼らは「老婆に言われるままに湖で泳いでいたら第二次世界大戦中にタイムスリップしてしまう」のであった。
ナチスびいきの男がナチスに酷い目にあったり、すでに歴史ではソ連が勝利したことを教えてあげたり、ラップ男が兵士たちの前で得意のラップを披露したり、そこにいた美人看護兵に恋したり、となかなか面白い展開になる。とは言え無論4人はすぐにでも現代に帰ろうと試みる。だが湖に潜っても今度はタイムスリップしない。これはあの牛乳のお婆さんとの約束を果たさねば戻れないのだと4人が気づく。
お婆さんの息子を探しだそうとするうちに現代の戦争を知らない若者4人、今迄のほほんと暮らしていた4人が「本物の戦争」を体験していくことになる。銃で撃たれれば痛いし、戦場へ向かうのは恐ろしい。軍の規律を守らねば罰を受ける。そういう今では体験できないものを4人が味わっていく。
やっとの思いでお婆さんの息子の煙草ケースを手に入れるが、愛し合った美しいニーナは小屋ごと爆破されてしまう。
戦争の恐ろしさを知った4人は湖に潜って現代に戻る。街には平和ボケした若者たちがたむろしている。
4人は国を守る為の戦争を体験してきたのだ。

ということなんだろう。
冒頭で戦争ゲームをしている場面がある。恐ろしい敵を次々と殺してまるで自分が戦士になったような気になる。それは所詮ただの遊びでしかない。
極端に言い表しているんでもないのだが、戦争も知らないくせに格好ばかりつけるなよ、と若者に苦言を呈している作品なのではないだろうか。
そういうニュアンスが感じられるし、戦争を体験した、ということでなにやら彼らが特別な存在になったかのような映し方が何となく好きにはなれない。
台詞などではっきりと意思を説明しないのがここでは狡い気がするのだ。このラストが違ってたら、と思うのだが、多分作り手がそういう思いで作っているのだからこうなったんだろう。

美人看護兵ニーナ、凄く可愛い人だった。ソ連の戦争ものは女性兵士がよく出てくるのが特徴で楽しみの一つなのではないかな(こんな美人がいたかどうかは問わないとして)
しかし看護兵ってあんなに頑張って治療に行かねばならないのか。大変だ。

監督:アンドレイ・マニューコフ 出演:ダニーラ・コズロフスキー アンドレイ・テレンチェフ ウラジミール・ヤグリッチ カテリーナ・クリモワ
2008年ロシア
ラベル:戦争 SF
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2010年05月04日

『ウイグルからきた少年』佐野伸寿

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yashi

これも昨日に引き続き(と言うのか)監督の説明が不可欠な作品。ドキュメンタリー風のフィクションというのが前提なのである。だが納得できた昨日の映画とは真逆に説明のせいでさらに疑問が湧いてくる本作だった。
時間が60分ほどという短めの映画である。しかもその内容が台詞や文字による説明などはごく僅かでなんとなくなイメージ映像に近いのである。遠い見知らぬ異国で肩を寄せ合って住む3人の少年少女たち。彼らはロシア人、カザフスタン人、中国から来たウイグル人と言葉も宗教も別々である。ロシア人の少女は母親の顔も声も知らず売春をして生き延びてるがその体はすでに病に冒されている。カザフスタンの少年はどうやら裕福な家の子供らしいのにも関わらず彼らと寝食を共にし彼らには優しいが、いつも何かに苛立って町の少年たちに喧嘩を吹っ掛ける。また彼に近づいてくるキリスト教徒(?)の外国の老人を罵倒して金を巻き上げる。中国に住む両親から他の国へ行って自分の未来を切り開いて、と言われたウイグル人の少年は頼るすべもなく自爆テロの組織に使われてしまう。
監督の説明によると「日本人が殆どカザフスタンという国とそこに住むウイグル人について知らないのに気付き実情を知って欲しくてこの映画を作った」というのがほぼその動機であるらしい。
しかもその後に肝心の「ウイグル人がこのような自爆テロをすると勘違いされてしまうのが懸念だった」と続く。
確かに作品の冒頭でウイグル人の男性が「ウイグル人は報復ということをしない」という説明をする。とはいえその言葉を作品の最後まで覚えていて少年の行動はウィグル人としては普通ではないのだ、と理解しながら観ることができる人は相当解釈力が高いとしか思えない。そういうウイグル人の特徴がありながらあえて少年が自爆の道を進んだ、と考えさせたいのならもう少しクドク台詞説明をした方が判りやすいのだろうが、万事この作品はそういう説明を入れずに仕上がっているのである。
DVDなら何回も観て咀嚼すべし、でいいだろうけど映画館などで観る人にはなかなか一遍ですべてを解釈するのは難しそうだ。
なにしろ監督自身が「日本人が知らないウイグル人を教えたい」と言っているのだからもう少し説明過多であってもいいのではないか、と普段は説明を嫌うくせに想うのである。
ただ主旨が「なんだこれは?と思ってもらえればよい、後は各自で調べてくれ」ということなら確かに見知らぬ土地と人があるのを知ってもっと知ってみたい、と思ったのだから成功だと思うのであるが。

ところでもう一つ気になったのは、最近やたらと「児童保護」にまつわるタブーが多いのであるが、ここで題材となっている3人の少年少女たちがかなり際どい領域に入っていると感じてしまうこと。
露骨に酷い場面があるわけではなくても最近の映画としては珍しくぎりぎりのところまでやらせて撮っているのではないか。そこをどう感じとるかでも評価が著しく変わってくるに違いない。
妄想の中での少女の水泳シーンは綺麗というだけでないエロチックなものだし。
ウイグル少年のテロ訓練がかなりハードでありすぎて可哀そうに見えるのは、そこが問題提議なのだとしても実際にやらせているのが気にかかる。
カザフスタン少年が同性愛を匂わせる初老の男から金を巻き上げるという話があるのだが、少年が売春をしているという設定なのだろうか。
少年は売春をするつもりだったのに、男が手を出さずに何度も家へ招いては少年に話ばかりしていることに少年が苛立ってしまっただけのようにも見える。「金をもらうようなことをしていない」だとか「一体何をやりたいんだ」とかいう台詞からしてもこの老人、本当に買春したいのではなく宗教活動だったのかもしれない。そして最後にクリスチャンの同性愛者(かどうかよく判らんが)の男を恫喝した少年が路上で刺殺されてしまうというのもどの事柄からの結末であるのか。
どの子供の話も児童愛好者が好んで観る為のようにも思えてくる。

あくまで冒頭に「フィクションです」という前置きがあっての映画作品。文句を言わずイメージを受けとめればいいのかもしれないがなら何故の監督の言葉。

多くの疑問を抱えてしまった。
今後観る映画や世界の出来事で少しずつ何かが判ってくるのかもしれない。
ともかくもロシアとアジアに凄く興味を惹かれている自分としては何かしらの謎かけをされたようであった。

監督:佐野伸寿  出演: ラスール・ウルミリャロフ カエサル・ドイセハノフ アナスタシア・ビルツォーバ ダレジャン・ウミルバエフ
2009年日本/ロシア/カザフスタン
ラベル:児童虐待
posted by フェイユイ at 22:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『四川のうた』賈樟柯(ジャ・ジャンクー)

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二十四城記

ずっと観なきゃと思いつつ最近の嗜好と異なる題材であったので後回しになっていた。
今回珍しく観る前に若干予備知識を仕入れたところ、本作は元々ジャ・ジャンクー監督がドキュメンタリーを撮るつもりで取り壊される工場で働いていた人々とそれに関係する人々のインタビュー撮影をしていたのだが途中でそれらをまとめ実際の人たちと俳優の演技による映像を織り交ぜたほうがよりリアルで面白い作品になるのではという発想で作られたものであるらしい。
監督によれば出演した俳優陣は中国では有名な人ばかりで誰もがこの部分は演技だと判る、のであるらしい。中国には『三国志』と『三国志演義』があるが人は『演義』つまり面白く脚色したものに惹かれるのだと言う。
なるほど、そうかもしれない。ただし「有名な俳優ですぐ演技と判る」という部分と本物の人、の区別が私にはできなかったのが残念だった。皆俳優のようにも素人のようにも思える。
「工場のマドンナ」であったと言う女性と最後の若い女性はさすがにちょっと違う美しさであったが。
工場で働く人のドキュメンタリーだが女性が目立つほどなのはやはり共産主義であったせいだろうか。典型的な3人家族、という言葉もまた中国らしい。

そして映像の独特の美しさにも惹かれる。
美しい、と言っても一般的に言う綺麗さとは違う質のものだ。長い年を経て老廃化した工場の佇まい、殺風景な中国の建物などがジャ監督にかかると奇妙にも美しく見えてきてしまうものなのか。もともと自分が工場萌え的な要素があるせいなのか。古びた機械とそこで働く人たちの姿に見入ってしまうのである。
それは監督のどの作品でも感じられる殺風景な美かもしれない。
またどの映画にもあるジャ監督特有の微笑ましい遊び。今までもTVで『男たちの挽歌』があってたりレスリー・チャンの歌が流れてたり突然遠景にUFOが飛んでたり少女の部屋にジェイ・チョウのポスターが貼ってあったり、と時代を反映しながらちょっと笑わせてくれる遊びがあったのだが本作では工員が昔語りで「山口百恵の『赤い疑惑』」を持ちだし何故か百恵ちゃん本人ではなく中国の歌手らしい歌声が流れ(歌詞があちこちおかしな発音になるのですぐ判る)恋人の髪型が百恵ちゃんと同じだったと言うのである。
また最後の若い女性が恋人と住んだマンションの名前が花様年華、というのが愉快。本当にあるのかな。

こうしてあちこち結構楽しみながら、中国の移り変わりを感じさせる工場で働いてきた男女の話に聞き入る。
ソ連のミグを修理してきただとか工場と言っても軍部のようなもので遠い故郷から工場へ向かう航路の途中で子供を見失っても探すこともできなかったとか昔は残業ばかりで真面目に働き続けたのに世の中の変化で工場が廃れリストラされた工員たちの嘆きだとか、から若い人たちの意識の変化まで様々であった。

ジャ・ジャンクー監督の、次は清朝末期の物語や時代物も手掛けてみたい、という発言にも期待してしまう。
ちょいと変わった仕掛けがまた観れるかもしれない。

監督:賈樟柯(ジャ・ジャンクー) 出演:ジョアン・チェン チャオ タオ チェン・ジェンビン リュイ・リーピン
2008年中国
posted by フェイユイ at 00:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 中国 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月02日

『ホロコースト-アドルフ・ヒトラーの洗礼-』コスタ・ガブラス

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AMEN. 

なんという大人の映画なんだろうか。先日観た『ミッシング』もその手法の巧さと共に訴えてくる情愛に打たれたが、本作にもまた優れた技法と感情が込められている。
ナチスの非道とユダヤ人の悲劇を描いた映画は数多いがややもすればその描き方に好奇心が現れている場合もある。それはスティーブン・キングが『ゴールデンボーイ』で表現したような恐ろしい情景を観たいという欲望にもなる。本作はその類の趣味嗜好を持つ者をがっかりさせてしまうだろう。なにしろここにはそうしたナチの残虐行為、憐れにやせ衰えた人々が苦しみのたうつ姿や様子がまったく描かれないのだから。
そして機関車はその扉を閉めて走り、帰りは開け放して走る。閉められた扉の中に誰がいるのかは判るはずだ。そして彼らがどこへ運ばれ、どういう運命が待っているのかも。
こうした表現の上で彼らの為に何かをしようと行動をとった二人の男。一人はナチス親衛隊の中尉。もう一人はカソリックの若き神父。二人ともユダヤ人は敵対する存在でありながら同じ人間としてユダヤ人の不幸を見過ごせず権力と戦おうとする。
SSであるゲルトシュタインはヒトラーとナチスが非アーリア人や障害者を収容してはガス室に送り込み殺戮しているのに気付き、この行為を世界に知らせようと奔走する。あえて親衛隊に残り自国の残虐行為を証言しようと考えたのだ。
カソリックの総本山ローマ教皇の側近の父を持ち自らも信頼を受けている若い神父リカルドはゲルトシュタインが親衛隊でありながらユダヤ人を救おうとしている姿に触発されまた自分が傍観者であったことに罪の意識を抱いて我が身にユダヤ人の印をつけ輸送機関車に乗り込むのである。
彼らの必死の抗議がすぐ理解されることは叶わなかった。ゲルトシュタインが家族と別れ命がけで書いた報告書は20年後に認められたという。
自分たちが属するものを裏切ることになっても、目の前にいる人々が殺されていくのを見過ごせなかった二人。その結末がどちらの人生においても無情なものだったことが悲しい。ただこのような人たちの行動が時を経て認められたこと、こういう素晴らしい映画として観ることができ多くの人に感動を与えたことが彼らの魂を少しでも癒せたらと思うのだが。

ゲルトシュタインの友人を装って狡猾に生きのび南米へ逃れる将校こそが昨日観たメンゲレ医師であったのか。

監督:コスタ・ガブラス 出演:マチュー・カソヴィッツ ウルリッヒ・トゥクール マーセル・ユーレス ウルリッヒ・ミューエ ミシェル・デュショーソワ ハンス・ジシュラー
2002年 / フランス/ドイツ/ルーマニア/アメリカ

ラベル:信仰 愛情 歴史 戦争
posted by フェイユイ at 22:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 欧州 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『MY FATHER マイ・ファーザー 死の天使 アウシュヴィッツ収容所 人体実験医師』エジディオ・エローニコ

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My Father, Rua Alguem 5555

ほぼ戦争映画ブログと化しつつあるがどうしても気になるので止められない。
で今夜はこれだが本作の場合は映画そのものというより主役のトーマス・クレッチマンを観たいからであった。映画の内容は邦題が示すようにナチス親衛隊将校であり、医師として恐ろしい人体実験を次々と行いアウシュビッツ収容所で死の天使と呼ばれたヨーゼフ・メンゲレの罪を追っていくものではあるが、主軸はその息子ヘルマンの父親に対する懊悩を描くことにある。
クレッチマンが演じるヘルマンは終始父の犯した罪とそれに与えるべき罰を自らが行うか司法へ送り込むかそれとも息子として見逃すべきなのか、を迷い続ける。彼の友人であるロベルトや父親からも「お前は何を考えているのかさっぱり判らない」と言われ続けるのだがヘルマンは最後まで自分の考えを割り切ってしまうことはできないのだ。
残虐非道な人体実験を行ったメンゲレをチャールトン・ヘストンが威厳のある演技で見せ、苦悩し続ける息子ヘルマンをトーマス・クレッチマンがその素晴らしい肉体にそぐわないほど気弱にさえ見える繊細さで演じている。クレッチマンは180センチを超える大柄であるのに父親のヘストンや友人が彼より遥かに大きい為華奢にさえ見えてしまう。また他では多く彼自身がナチス将校を演じて軍服をまとっていたがここではまっさらのTシャツ姿なのであるがそれが却って彼を美しく見せていて他にないほど魅力的だ。思いつめるあまり熱を出し友人のベッドに寝込んでしまう様などなんて愛らしい姿なんだろう。愛しく思えてしまうではないか。
が、気になる、というか若干恐ろしい気がするのは父親の思想と行為を憎み、差別的な言葉を口にする友人ロベルトをたしなめているヘルマンだが結婚相手に選んだ女性がドイツ北部生まれの金髪碧眼であるというまさに父親が選別したかのような容姿であること、ブラジルの黒い肌で黒髪の女性から誘惑されそのつもりになろうとしても接触することすらできず嘔吐してしまうなどヘルマンの奥深い無意識では父親の思想もしくは選別が働いているのではないかと感じられる表現である。これがメンゲレの息子である人の描写であったのか、映画製作者の演出だったのか。
ナチス将校の父と現代に生きる息子。観ている途中ではあまりにも通例どおりの表現なのではないかという気がしていたがこうして思うとなかなか深く考えさせられるのではないか。後々思い出していくのかもしれない。

最初の目的だったトーマス・クレッチマンを観るという意味では文句なしにじっくり観れる。彼はナチス将校を演じるには表情が優しすぎるのだがこの揺れ動く苦悩の青年役はぴったりであった。

監督:エジディオ・エローニコ 出演:トーマス・クレッチマン チャールトン・ヘストン F・マーレイ・エイブラハム トーマス・ハインツ ドニーズ・ワインベルク
2003年イタリア/ブラジル/ハンガリー
posted by フェイユイ at 00:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 欧州 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月01日

再び。映画『フィリップ、きみを愛してる!』予告編 ロシアバージョン



これもう観たよ、の、映画『フィリップ、きみを愛してる!』予告編 でありますがただロシアバージョンなので嬉しくなって。ジムとユアンも勿論ロシア語で会話しとります。

で、下は日本バージョン。もうすでにやりましたがどうぞ。
ラベル:予告
posted by フェイユイ at 00:56| Comment(0) | TrackBack(0) | ロシア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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