映画・ドラマ・本などの感想記事は基本的にネタバレです。ご注意を

2010年05月11日

『ホワイトナイツ/白夜』テイラー・ハックフォード

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WHITE NIGHTS

昔観たはずなのだけど例によって殆ど内容は忘れている。グレゴリーとミハイルの踊りが凄かったんだよなあ、と何となく思っていただけだったのだが、今回観なおしてとんでもなく面白い映画だったんだと確認した。
どうしてもバリシニコフ自身の履歴と役柄においてソ連から抜け出し自由の国アメリカで踊りたいのだ、という熱い思いと彼らの置かれる状況が噂通りに酷いのでアメリカ礼賛、ソ連批判のような印象が持たれてしまうのだろうけど、アメリカ人のグレゴリーが何故ソ連へ亡命したのか、アメリカに対しての失望と批判も描かれているところはなかなか配慮されているのではないだろうか。
この映画では無論バリシニコフとハインズという素晴らしい踊り手がそれぞれの持ち味を充分に出しながら競演(まさに競いあうダンスの妙技!盗撮しているKGBのチャイコに見せつけてやろうという二人のダンスの素晴らしさ)しているのだが、ハインズには申し訳ないけどここでのヒーローはバリシニコフになってしまう。
踊り、歌などの芸術は、しばしば抑圧され苦悩するところから爆発するように生まれることがある。黒人であるハインズも『コットンクラブ』ではその悲しみ、苦しみを吐き出すように見せてくれる。
そういう意味でもこの作品での悲劇はバリシニコフ演じる亡命者のダンサー・ロドチェンコであるのだ。(ロドチェンコ、と名前を書き変えなくてもバリシニコフ、と言う名前そのままでも同じ意味になるのだろう)
本作の踊りの圧巻はロドチェンコがかつてソ連で活躍した豪華な劇場で元パートナー・ワガノワの前で踊る場面だ。
ソ連では聞くことを禁じられた歌手ヴィソツキーの歌をこっそり聞いているワガノワは愛していたロドチェンコに昔計画して逹せなかったバランシンを踊りたいと言う。
ヴィソツキーはソ連において体制批判を情熱的に歌い上げた歌手なのだ。ロドチェンコ=バリシニコフはバランシンはアメリカでもう踊って来た、と言う。ワガノワが隠れて聞くヴィソツキーの音を大きくして「彼の歌のように叫ぶように踊りたい」と言いながら踊ったバリシニコフのその踊りはまさに叫んでいるようだった。
小柄なせいか少年のようにも見える体が躍動するバリシニコフがここで見せるのは華麗なジャンプを見せる踊りではない。むしろ地を這い身をよじり体を縛られ苦しんでいるかのような慟哭のような踊り。自由に踊りたくても踊れない、自分を思い切り表現したいのにそのしなやかな腕も脚も縛られとんとんとつま先で跳ねるしかできないのだ、判るかい、と言わんばかりの悲しい踊りだった。
パートナーである恋人ワガノワを演じたのがヘレン・ミレン。愛した人の踊りに彼の心を感じとってしまう。

グレゴリー・ハインズ=レイモンドとロシア人の妻ダーリャはロドチェンコの世話と見張りをするうちに次第にソ連の国家体制の息苦しさを感じだす。ロドチェンコと会う前はソ連の生活に慣らされていたレイモンドはロドチェンコと踊り合ううちにかつて彼も感じていたダンスへの情熱を思い出してしまったんだろう。
芸術を描く時は恐ろしいほどの弾圧があればあるほどその芸術家の魂が輝いて見えてしまうのは困ったことだが真実である。
本作ではソ連という国家体制が上手く使われてしまった。現在はロシアはチェンジしたはずだが、あまりそうは思えないのはどういうことなのか。いやこれは余談。

物凄く久しぶりに観てバリシニコフの素晴らしさ。ヴィソスキーの歌にのせた踊りが脳裏に焼き付いてしまった。古さなどまったくない。

監督:テイラー・ハックフォード  出演:ミハイル・バリシニコフ グレゴリー・ハインズ イザベラ・ロッセリーニ イエジー・スコリモフスキ ヘレン・ミレン ジェラルディン・ペイジ ジョン・グローバー マリアム・ダボ
1985年アメリカ


ラベル:バレエ 自由
posted by フェイユイ at 23:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 北米 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『カティンの森』アンジェイ・ワイダ

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KATYN

映画には観る者を圧倒するエネルギーを持つ場合がある。
その為には作る者が人に訴えたい大きな思いとそれを伝えることができる技巧とが必要なのだ。この映画にはそれらがあり、時に身がすくむほどの激しい感情と見惚れる美しさがあった。

冒頭、思いつめた表情で一つの橋を渡ろうとする群衆がある。ところが向こう側からも駆けてくる人影がある。
彼らこそがポーランド人の姿で両側にある強大な国であるドイツとソ連から挟まれ追われながら危うい橋の上を行ったり来たりしながら歴史を刻んできたことを物語っているかのようだ。

物語の大半はポーランド将校を夫や父・兄に持つ女性たちを描くことに費やされる。将校たちはソ連兵たちに連行されてしまった。まるで何も抵抗することもないかのような彼らの姿にもポーランドの存在が感じさせられる。

残された女たちの戦いは自分らの誇りを捨てずに耐え抜くことができるか、ということなのだ。結婚すれば有利になれる赤軍将校からの求婚を拒否すること、カティンの虐殺はナチスの所業だという虚偽の証言を脅されても口に出さないこと、墓石に家族がどこでどう殺されたかを記すこと。
しぶとく生き抜く為なら上手く立ち回るのかもしれないが、彼女たちは誇りを捨てることができなかった。(その誇りがある意味弱さであるようにも思えるのだが)

重く苦しい物語の中で束の間きらめく様に若者たちの恋が描かれる。だがその恋も青年のとった小さな反抗の為にあっという間に消えてしまう。彼らには残った僅かの誇りさえ捨てなくてはならないのだ。

そして最後の場面。人間の尊厳も将校としての品格も完全に無視されまるで家畜の屠殺でもあるかのように次々と運搬車から降ろされ殺され運ばれ捨てられる。淡々としたその映し方、その後の暗転。
真っ暗な画面の前で何を思うか。

歴史は繰り返される。
この映画を今観た人はほぼ先日起きたポーランドの大統領の事故を思ってるだろう。
『カティンの森』追悼式典に参加するはずだったその名もカティンスキー大統領の事故死。
これは一体何を意味するのか。
こうした悲劇がポーランドの歴史なのか、とつい思ってしまうのだ。

監督:アンジェイ・ワイダ 出演:マヤ・オスタシェフスカ アルトゥル・ジミイェフスキ マヤ・コモロフスカ アンジェイ・ヒラ
2007年ポーランド
ラベル:家族 戦争 歴史
posted by フェイユイ at 00:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 欧州 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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