映画・ドラマ・本などの感想記事は基本的にネタバレです。ご注意を

2010年05月23日

『赤軍-P.F.L.P.世界戦争宣言』若松孝二 足立正生

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『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程(みち)』を作った若松孝二が監督の一人であったので興味をそそられ、しかも製作が1971年というまさにその時代の記録とはいかなるものかと観てみたのだが。

まさか、ここまでだるい内容だとは。作品の構成などが単純であるのは予算などの問題もあって仕方のないことかもしれないが語られる言葉があまりにも子供なのだ。
考えてみれば当然かもしれない。当時は自分自身が子供で世の中で恐ろしいことを起こしている若者(というより自分にとっては比較的若い大人)がいるのだとぼんやり感じている程度だった。時が経ち自分が成長した時点では彼らはもう話題になることも無くなってしまった。時折思い出しても彼らのことを語るものが少なすぎた。無論これは自分が本気で調べようとしてなかったせいもあるのだが、ドラマや映画や小説や漫画などで評判になるような作品は暫くの間なかったと思う。
自分が年をとって本作を観ると逆にその未熟さに唖然としてしまう。当時自分がまだ彼らと同調できる年齢でなかった為懐かしさなどという感慨がないせいもあるのだろうか。
言葉を覚えた子供がそれを使いたくて何度も口にすることがあるが、「世界戦争」「プロパガンダ」「武装闘争」などという言葉を何度も繰り返す。通常使う言葉ではない口調で語られる論理はまったく整然としておらず区切りもないままにだらだらといつまでも続けられる。話す方も聞く方も意味が判っていたのだろうか。
悲しいのはプチブルであることを捨てプロレタリアートであるレバノンの人々と同じ生活をすることによって真の闘争ができる、というくだりだ。その土地に住みながら土地を追われた人々は彼らの言葉そのものの「生きる為に戦う」のだが、安全な場所で育ちながらあえて他の国に乗り込んでいった彼らが「生きる為に戦う」というのとではまったく意味が違う。多分裕福な育ちながら貧困層の為にゲリラとなったチェ・ゲバラを理想としているのだろうが、自分たちの思想の表現がこんなにまとまりなく伝わりにくいのではインフォメーションの役割を果たしていない。彼らによるとインフォメーションとは真実を伝えることなのだそうだが。

ただただ当時、ある思想のようなものを抱いたと思い、拙いプロパガンダを抱いて行動を起こし、常軌を逸した数々の事件を巻き起こしていった若者たちがいたのである。
その思想は時を経て聞けば覚えたての新しい言葉の羅列に過ぎなかったのではないだろうか。
平和の為に武力闘争をすると信じ自我をなくして団結し殺人を犯していくことが本当に正しいことだと繰り返す彼ら。
本来なら恥ずべき過去として葬ってしまいたい映像なのかもしれない。
そうした時代を映し撮ったこの映像は確かに翻って考えれば貴重なものなのだ。

監督:若松孝二 足立正生
1971年日本


posted by フェイユイ at 23:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『セントアンナの奇跡』スパイク・リー

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MIRACLE AT ST. ANNA

よく練られた複雑な物語なのであるが、その長さと饒舌な内容に沈鬱な気持ちに襲われてしまう。というのは長さに辟易したと言うより、核心をあまり目立ち過ぎないようこの長さが必要だったように思えるからだ。
第二次世界大戦。イタリアを舞台にしてアメリカ軍とナチスそしてパルチザンの戦いがある。今迄の殆どの映画は白人がほぼ占めていてアメリカ軍であっても黒人兵士が活躍した話などあったのだろうか。或いはかっこいい白人兵士の勇敢さを見せる為に無残に攻撃された黒人兵士を助ける白人兵士なんていう場面の為に登場したかもしれない。もしくは料理担当だったかも。せいぜい一人登場する程度なのでキャラクターも決まりきったものになってしまう。ここで数人の黒人兵士たちにそれぞれの性格分けをしているようなそういう表現など望むこともできなかったはずだ。
タイトルの『奇跡』はイタリア・セントアンナでナチスに襲われ逃げ延びた愛らしい少年を救ったアメリカ黒人兵士が長い時を経て奇跡に出会う、ということを示しているのかもしれないが、むしろ自分にはイタリアで彼らが白人達と何の差別意識もなく交流ができたことを意味しているようにさえ思えた。突然アメリカ黒人兵達に入りこまれたイタリア人家族は怯えるがそれは彼らが黒人だからではなく敵国であるアメリカ軍人だからであり彼らを汚いもののように蔑むアメリカ白人たちの対応とは全く違うものであった。
暫くして落ち着いた彼らは黒人兵達を教会でのダンスパーティに招きダンスに誘う。素晴らしい美人のレナータにも侮蔑の気配はまったくない。彼女の目にはただ異国の男性としてしか映ってないことを黒人兵達は感じてしまうのである。それは今迄受けた白人女性の視線から感じられることのない好意であり彼らにとって奇跡と言っていいのではないんだろうか。私にはこの映画が語りたい部分はまさにここであるのにそれをあまり露骨に表現するのが気恥ずかしく様々な出来事で隠してしまったような気さえしてしまうのだ。しかも黒人兵ヘクターと白人女性レナータの絡みはあまりアップではなく影になってよく見えないキスと服に手をかけたところで終わっており強烈な台詞のわりには気の弱い展開であった。アメリカが舞台で白人女性とこのような場面を撮るのは無謀であるらしいからいくらイタリアであるとはいえぎりぎりの挑戦だったのかもしれない。
またヘクターはイタリア語も上手いのだが、これも白人が主流の映画ではほぼ観れない光景なのでは。無学な黒人兵が白人兵より外国語が上手いわけはない、ということで黒人ヘクターが流暢にイタリア語を話すのも他では観れない特別な場面なのでは。(ここんとこ『イングロリアス・バスターズ』でのブラッド・ピットのど下手なイタリア語を思い出すとより一層面白いかも。大体においてアメリカ人は外国語を話せず相手に英語を話してもらうものだ)
また可愛らしいイタリア少年が大きな黒人兵トレインになついて離れないのもまたしかり。彼をチョコレートと間違えてぺろりと顔を舐めるのも今迄観たことのない行為かもしれない。
そしてナチスとの激しい銃撃戦。これまで第二次世界大戦で黒人兵がこんな活躍をすることもなかったろうし作中での台詞もあるように黒人は掃除か料理をするだけで勇敢に戦うなんて思ってもいなかった、ということに対しての抗議のように見えてくる。
いわば今迄白人兵士であれば色んな映画で表現されていた外国でのラブシーンや子供へのいたわりや敵との勇敢な戦いなどを黒人兵も同じようにできるはずだ、という映画のように思えてなかなか胸が詰まってくるような沈鬱さを感じてしまったのだ。
こういう枷を感じさせず当たり前に自然にさらりと黒人主演の映画というものがアメリカで作られる、差別意識などと言う言葉など全く忘れていた、なんていうことはあるのだろうか。いやまさか、ない、ということはないだろうね。

この奇跡に比べれば再会の奇跡はそう奇跡ではないかもしれない。

監督:スパイク・リー 出演:デレク・ルーク マイケル・イーリー ラズ・アロンソ ジョン・タトゥーロ
2008年アメリカ

記者役でジョセフ・ゴードン=レヴィットが出演。可愛いよね。
ラベル:戦争 歴史
posted by フェイユイ at 01:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 北米 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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