
先日観た1974年製作の『砂の器』の演出には酷く時代の違いを感じ古臭く思ってしまったのだが、本作『放浪記』は1962年の作品なのにむしろ今現在作られたかのような驚きを感じてしまった。
これは決して大げさに言ってるつもりではない。この不況の昨今、学校は出ているものの飛び抜けた学歴でもなく何とか女一人生き抜いていこうとするふみ子が何ともふてぶてしく日本映画の女性像の中でとんでもないアウトサイダーではないかと見入ってしまったのだった。
タイトルが『放浪記』であるからもっと早く観るべきだったと思う。が、どうしても舞台のあれのせいもあってどこか敬遠してしまっていた(舞台を観たわけでもなく、勝手な食べず嫌いである)どこか好きになれそうにないものを感じていたのだ。
TVで時折観る森光子さんの元気いっぱいで明るい可愛いふみ子といったドラマを観るのは気が進まなかった。
ところが本作、映画『放浪記』で高峰秀子が演じるふみ子の不器量なことといったら。まん丸顔で下がった眉なのだがいつも不貞腐れ愛嬌のいうものなどまったくない。優しくされても好みでない男は見向きもせず美男子には惚れっぽい。しかも惚れた男がことごとく碌でもないという男運のなさ。うん、これって時と場所を変えればすっかり今の働く女性そのものじゃない?男に振られて泣きだしても暫くすればけろりと起き上がって小説を書き出すたくましさ。
微塵も女の可愛らしさ、だとか守ってあげたい、だとかどーでもいい話なのだ。
欧米もので女流作家の映画っていうのも数々あって観てしまうのだが、大体においてタフである。日本の女流作家も決して引けをとってはいないじゃないか。
ふみ子と言う女性の酷く辛い人生を描いた作品である。食べるのにも困る貧乏生活、だらしのない男達、そしてやっと念願の作家になれば締め切りに追われ眠ることもままならない。
47歳という若さで亡くなった。まさに「花の命は短くて苦しきことのみ多かりき」の人生だった人だ。
だが映画は苦しさよりふみ子のにらみ付ける顔が印象的だ。何度も男に騙されてほろりとしてしまう弱さが普通は嫌いだがここでは救いになっている。
蝋燭一本立ててがむしゃらに原稿を書いていく、ふみ子。綺麗な女給さんが見惚れるのも判る。かっこいいなあ。
共演者の顔ぶれが物凄い。ふみ子のお母さんが田中絹代だし。優しい安岡さんが加東大介だ。素敵なのになあ。
監督:成瀬巳喜男 出演:高峰秀子、田中絹代、宝田明、加東大介、小林桂樹、草笛光子、仲谷昇、伊藤雄之助、加藤武、文野朋子、多々良純
1962年日本