映画・ドラマ・本などの感想記事は基本的にネタバレです。ご注意を

2010年06月01日

『放浪記』成瀬巳喜男

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先日観た1974年製作の『砂の器』の演出には酷く時代の違いを感じ古臭く思ってしまったのだが、本作『放浪記』は1962年の作品なのにむしろ今現在作られたかのような驚きを感じてしまった。
これは決して大げさに言ってるつもりではない。この不況の昨今、学校は出ているものの飛び抜けた学歴でもなく何とか女一人生き抜いていこうとするふみ子が何ともふてぶてしく日本映画の女性像の中でとんでもないアウトサイダーではないかと見入ってしまったのだった。

タイトルが『放浪記』であるからもっと早く観るべきだったと思う。が、どうしても舞台のあれのせいもあってどこか敬遠してしまっていた(舞台を観たわけでもなく、勝手な食べず嫌いである)どこか好きになれそうにないものを感じていたのだ。
TVで時折観る森光子さんの元気いっぱいで明るい可愛いふみ子といったドラマを観るのは気が進まなかった。
ところが本作、映画『放浪記』で高峰秀子が演じるふみ子の不器量なことといったら。まん丸顔で下がった眉なのだがいつも不貞腐れ愛嬌のいうものなどまったくない。優しくされても好みでない男は見向きもせず美男子には惚れっぽい。しかも惚れた男がことごとく碌でもないという男運のなさ。うん、これって時と場所を変えればすっかり今の働く女性そのものじゃない?男に振られて泣きだしても暫くすればけろりと起き上がって小説を書き出すたくましさ。
微塵も女の可愛らしさ、だとか守ってあげたい、だとかどーでもいい話なのだ。
欧米もので女流作家の映画っていうのも数々あって観てしまうのだが、大体においてタフである。日本の女流作家も決して引けをとってはいないじゃないか。

ふみ子と言う女性の酷く辛い人生を描いた作品である。食べるのにも困る貧乏生活、だらしのない男達、そしてやっと念願の作家になれば締め切りに追われ眠ることもままならない。
47歳という若さで亡くなった。まさに「花の命は短くて苦しきことのみ多かりき」の人生だった人だ。
だが映画は苦しさよりふみ子のにらみ付ける顔が印象的だ。何度も男に騙されてほろりとしてしまう弱さが普通は嫌いだがここでは救いになっている。
蝋燭一本立ててがむしゃらに原稿を書いていく、ふみ子。綺麗な女給さんが見惚れるのも判る。かっこいいなあ。

共演者の顔ぶれが物凄い。ふみ子のお母さんが田中絹代だし。優しい安岡さんが加東大介だ。素敵なのになあ。

監督:成瀬巳喜男 出演:高峰秀子、田中絹代、宝田明、加東大介、小林桂樹、草笛光子、仲谷昇、伊藤雄之助、加藤武、文野朋子、多々良純
1962年日本
ラベル:女性 人生 小説家
posted by フェイユイ at 23:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『ハートブルー』キャスリン・ビグロー

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POINT BREAK

あらゆる場面が殺伐としてあらゆる台詞が口汚い、いかにもアメリカ映画らしいガサツさでできているが、こういう掴みどころがなく取り留めない展開というのは却って米映画にしては珍しいのか。

『ダークナイト』を思い起こさせるのは変なお面を被った銀行強盗場面が凄まじいだけではなく、リーダーのボーディが特殊な人生の哲学を持っていてFBIである主人公ジョニーまでもその魅力に洗脳されてしまうからだろうか。
ま、私は『ダークナイト』が嫌いな奴なのだが、むしろジョーカーより本作のボーディをお勧めしたい。何しろ菩薩(ボーディサットヴァ)からついたボーディである。今人気の『聖☆おにいさん』みたいである。水には強いが。且つ修行中の身ではあるが。

アメリカ映画というのは大体において簡潔明瞭でそこがいい所でもあるし、物足りなくもあるのだが、この映画はなんとなくぐだぐだ感があってよく判るような判らんような気持になってしまう。
物凄く大切なことを訴えたいようでいて何か奥歯に物が挟まったままで終わったような気がするのだ。無論これを好きと思う人もいるのだから伝えていることはいるんだろうけど。
まず疑問なのは女の子の使い方だ。しかもこの監督は女性、言わずと知れたキャスリン・ビグローさんだが、監督が女性でありながらまるで男性が作ったような女性の扱いではないか。なんとなく出てきて主人公とのラブシーンを入れる為だけの役でしかも主人公に都合のいい展開。この女性との関係なんかを描く時間でもっとボーディとの関係を深く描き出して欲しかった。
ジョニーという男こそ菩薩(ボーディサットヴァ)によって覚醒させられていくわけで、その為のこのあだ名であるだろう。ジョニーが女性も仕事もすべて必要でなくなりボーディのような生き方に目覚めてしまう過程を突きつめて欲しかったのである。

ボーディは恋敵であるはずのジョニーを一目見て自分と同じ生き方をする男だと見抜き、そしてジョニーは彼が誘導するのに従ってサーフィンもスカイダイビングも怖れなくなりその快感に酔いしれていく。
逮捕される直前でありながらただサーフィンをしたいと頼むボーディの心をジョニーは理解しきっている。その快感がどんなに強烈なものか。
世の中のつまらない生き方を止めスリルを持って生きることこそがすべてだという意志を持つボーディにジョニーは同化してしまったのだ。

そういう志向であると思うのだが、この描き方ではいまいちくすぶって終わった感が拭えない。
もっとジョニーがボーディに耽溺していく様を描写してくれたなら。
この感覚ってビートニクな感じもするのだが、どうだろう。
近い内、映画化される『路上』ではこんな関係が観れるかもしれないし、違うかもしれない。サル・パラダイスとディーン・モリアーティがどんな風に描かれるのかな(って全然関係ない話で終わってしまった)

あ、私には「サーフィン」と言えば『ビッグウェンズディ』だが、彼の映画のサーファー3人仲間の一人がゲイリー・ビジー、本作のベテラン刑事役、だった。だもんで彼の顔を見ただけでサーフィンな感じが蘇ってくる。

あ、キアヌーが若くてハンサムだった。

監督:キャスリン・ビグロー 出演:キアヌ・リーブス ジェームズ・レグロス パトリック・スウェイジ ロリ・ペティ トム・サイズモア ゲイリー・ビジー
1991年アメリカ
ラベル:友情 哲学
posted by フェイユイ at 00:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 北米 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする