
寺山修司さんが監督ということでずっと観なきゃと思っていた(一体いつからだ)やっと観た。
足に障害のある若いボクサーを清水健太郎が、かつてボクサーだったが今はすっかり落ちぶれ果てた男を菅原文太が演じている。
文太さんはいつもかっこいいが清水健太郎のこの時はなんとも目が悲しげで魅力的である。
作品中殆どがボクシングの練習か試合をしているストレートなボクサー映画なのだがそこは寺山修司。街の様子も登場人物も奇妙な雰囲気に溢れている。
健太郎さんはその後のイメージが強いので意識すると差しさわりが出てくるかもしれないが、この作品のみに集中して観て欲しい(何かと大変だな)
足に障害があることでボクシング・ジムから見放されてしまった青年・天馬は仕事中、恋敵を事故死させてしまう。死なせた男の兄がかつてボクサーだった隼だった。彼は勝てた試合を途中で放棄したことがあるのだ。試合に負けてしまった天馬は隼にトレーナーを依頼する。
どうしても寺山作品だということを思いながら観てしまう。命懸けのボクシングの試合、貧しいが明るく騒がしい下町の人々、自暴自棄になった中年男が犬と共にポスター貼りをしているところも一つ一つが詩のようだ。それら一つ一つに寺山修司の思いいれが強く感じられるのだ。
足がうまく動かないボクサー天馬の夢を見るような光る目にも殴られてマットに倒れこむ姿にもこめかみから血を流し鏡にその血がついてしまってまるで鏡自体が血を流しているかのように見えるのも寺山の詩の中の男として描かれているのだ。
沖縄出身という彼が「父を憎み母を憎み沖縄を憎みすべてを憎む」という言葉は寺山の詩そのものに聞こえる。
それでいて彼はただボクシングだけにとりつかれた男なのでありそういう憎しみというもので動いているようにも思えない。隼はその天馬に弟を事故死とはいえ殺され娘を手篭めにされたというのに彼を勝たせることだけに生き甲斐を持ってしまう奇妙な中年男である。
そういった奇妙さも寺山は詩だからと思えば納得させられてしまうのだ。
ここでは次第に視力を失っていく元ボクサーの中年男と足が思うように動かない若いボクサーが貧しさの中で体を鍛え殴りあう練習をしている姿が詠われているのだ。
それにしても目が殆ど見えなくなった隼の前で血だらけになりながらも試合に勝った天馬が彼の元に倒れ掛かる最後の場面でつい涙が溢れてしまうのは困ったことである。
薄汚れた街の名もなき貧しい人々と壊れかけた体の二人の男のやはり美しい詩のような映画だった。
監督:寺山修司 出演:菅原文太 清水健太郎 小沢昭一 春川ますみ 地引かづさ 具志堅用高
1977年日本