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2009年02月12日

『書を捨てよ町へ出よう』寺山修司

書を捨てよ.jpg

若い時、寺山修司の、それまでにない過激な表現にたじろぎ慄いた。詩歌にしても映像にしても確固たる彼の世界というものがあった。訛りを消そうともしない青森弁の言葉にも彼の強い意志が感じられた。その世界の鮮やかな異色性に打ちのめされ、惹かれ、ある時は怖れさえ感じたのだ。

怖いものに惹かれるようにして覗き込んだ寺山修司の世界だったが、若い時観たのはほんの僅かの部分でしかなかっただろう。
作品以外で彼を近しく感じたのは竹宮惠子『風と木の詩』でジルベールについて語っているのを読んでうれしく思ったり、あしたのジョー』の登場人物・力石徹の“葬儀”で葬儀委員長を務めたということを後で知ったりして妙に感心したものだ。
そして私が寺山修司と詩の世界で触れ合ったのは彼の詩集ではなく新書館から出ていた寺山修司編集『99粒のなみだ―あなたの詩集』という一般の女性から募った詩の本で普通に考えると大人の男性が関心を持ってくれるとは思えないような少女の甘い夢の世界を一人の有名な詩人が真面目に受け止めていることに驚いたのだった。
寺山さんが亡くなったというのを聞いた時は驚いたが、今その享年の年齢(47歳)を見るとその若さに改めて驚いてしまう。
彼の作品は強烈だが一言ではとても表現できない。
激しい劣等感と強い自我と美しいものへと憧れと共に醜いものへの憧憬も感じられる。一つ一つの言葉が鮮烈で叩きつけられるような痛みがありながら、優しさもまたあるのだ。
彼の独特の世界はやはり彼が東北青森の生まれでありそのことが彼の世界そのものとして描かれていて、九州人である自分には羨望でもありその激しさが謎ですらあった。
松山ケンイチを好きになった自分としては寺山の自己主張と松ケンのイメージがどこか重なって感じられるのだがこの映画の主人公を見ているとさらにその気持ちが強くなった。
とはいえ、「映画は嫌いで、もうこの世界には戻らない」と語っている本作の主人公とは違い松山ケンイチはこの嘘の世界と現実の世界をこれからも往復していくのだろうなと思うが。

前置きが長すぎたが寺山修司をそれほど知ってはいないが深い憧れと尊敬を持っていたことを書きたかった。
さて本作の鑑賞はある程度彼の作品を知っているかどうかで随分違った受け止め方になるに違いない。
それにしても冒頭から「映画館の暗闇で、そうやって腰掛けて待ってたって何も始まらないよ」と青森訛りで語りかけてきてあっという間に寺山の世界へ入ってしまう。
寺山修司の代弁者であるような若者が物語っていく作品である。風変わりな家族を持ち、大学生でもないのにある大学のサッカー部に行ってはそこの掃除をし、キャプテンである男を慕って彼からも可愛がられている、という存在である。
女性にも晩生であり内気で大人しい主人公が最後攻撃的な言葉を投げつけるまでを描いている。
映画の中の出来事は現実と夢想を行き来しているようでもあり支離滅裂な感じであるが寺山が好きな世界が次々と映像化されていく、という感じでやはりイメージの鮮烈さに圧倒されてしまう。
ちょっとした背景にも部屋の美術にも寺山修司の詩が感じられるのだ。
無論サッカー部であることも「玉が大きいほど男らしい」という美意識からきているもので何と言っても野球が全盛だった当時としてはそれすらも反逆的な意見だったのだ。
内気である主人公が時折叫ぶ台詞が詩のように鋭く響く。
彼が初めて女性と関係を持った時、妹が男性に強姦された時、苦悶する泣き声が画面を覆う。
どもりの青年の独白が印象的だ。この青年を含め朝鮮人という言葉が何度も出てくる。人力飛行機で祖国へ飛ぼうとして落下する、という強烈なイメージがある。
突然不思議な売春宿(?)で入浴をしている美貌の娼婦を美輪明宏が演じている。その魔力ともいうべき魅力の凄さ。
久し振りに寺山修司の映像(と言ってもこの前『ボクサー』を観たが)に耽溺した。

監督:寺山修司 出演:佐々木英明 平泉成 美輪明宏 斎藤正治 浅川マキ 小林由起子 平泉征 森めぐみ
1971年日本


ラベル:寺山修司
posted by フェイユイ at 00:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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