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2009年02月12日

『炎上』市川崑

炎上.jpg

こういう言い方はおかしいのかもしれないが、なんと50年以上昔の映画なのにこうも複雑に異常な精神を繊細に描いた作品があるとは。
などと言っても現在の映画作品がそれほど細やかな描写をしているばかりとは言えないがどこか昔の映画は大らかで単純といまだに思っていた自分が恥じ入ってしまう。
それにしてもこの歪んだ精神の主人公を市川雷蔵という気品ある二枚目が演じていてまるで他の雷蔵を思い起こさせもしない、というのはなんということだろうか。しかもこの時28歳だと思うが10代からやっと二十歳頃の危うい青年にしか見えない。まさに何かが憑依したとでも言うのか、そういった青年そのものにしか思えなかったのである。

息を呑むほどに美しいモノクロームの優れたカメラワークに見惚れてしまうが、反面、登場する人間達の生々しい造形はどうだろう。
どの人物も一面だけではなく精神と感情が複雑に揺れ動いている。どの人物も善と悪を併せ持っているのだ。
主人公・伍市は酷い吃音に強い劣等感を持っていてその為に無口になり常に人の心を推し量っている。だが美しいものに憧れていて、人を尊敬したいと願ってもいる。
物語は伍市が国宝である驟閣寺に放火して取調べを受けている場面から始まる。
何故この大人しそうな青年がそんな犯罪を犯したのか。だが物語から明確な動機を知ることはできない。
彼が慕い尊敬していた僧である父親がその美しさを褒めちぎり伍市も同じように驟閣寺の美しさを永遠のものとして信じていた。
友人となった男・戸刈が生き物は皆変わっていく、という言葉に怯えた伍市が驟閣寺の美しさを永遠にする為には燃やしてしまうしかない、と考えたのだろうか。
だが何故。父親のように尊敬していた老師が次第に自分に冷たくなり芸者を囲うような男だと判った為か。
その老師もまた己の心の善と悪に苦しんでいる。
伍市にはその苦しみは見えず優等生から落ちこぼれ老師から見捨てられた存在になってしまった自分を愛する驟閣寺の中で燃やしてしまうつもりだったのか。愛する父が死後に炎で焼かれたように。
伍市には二人の友人が現れる。前半、人嫌いの伍市に心優しく接してくれる友。彼は容姿も精神もとても優れている人物だ。彼は唯一この作品の中で善だけの存在のようで途中で死んでしまう。
後半、入れ替わるように登場するのが戸刈で彼は身体が不自由で大きく足を引きずって歩かなければならないことを伍市の吃音のように激しい劣等感として口にする。
友人の善悪が入れ替わったのと同じように伍市の精神も変わっていく。
戸刈は伍市が上手く表現できないでいる心の中のもやもやを吐き出すかのように口にするのだ。そのせいか伍市は戸刈から離れられない。彼が他人を罵倒し、伍市を操れば操るほど戸刈との結びつきが強くなっていく。が、戸刈はそんな伍市に吃音を嘲笑う悪口を止めることはしない。
別の老僧が老師を訪ねてきたのを伍市は「自分を見抜いてください」と嘆願する。老僧は笑って伍市の問いに答えない。
彼を見るやや冷めた伍市の視線に彼の失望がある。
誰も自分を知ってくれる人はいない。
伍市の苦悩は現在の人間の寂しさと同じものがあるのではないか。一見見栄えのよい優等生で高い自尊心を持ちつつ、何か強い劣等感を持ち心を閉ざしている。
彼が母親を責め続けているように他の人の欠点を許すことができない。
人の繋がりが今よりもあったと思える昔の物語の中にこんな孤独感、失望感を描いた作品があるとは。伍市が次第に転落していき、誰とのつながりもなくなってしまったと感じてしまう怖ろしい孤独感。
無論これの原作を三島由紀夫が書いたので自分は未読なのだがその小説の中に人間の虚無感が描き出されているのだろうか。
この作品は現在にこそもっと観られていいものではないだろうか。

そういえば昨今ブログでの『炎上』なるものが流行ったりしている。あれもまた孤独な人々がその虚無感ゆえに起こしてしまう過ちのように思えてしまう、というのはまあ無理強いすぎるか。

映画を観ながら思い出したのは山岸凉子『負の連鎖』で知った『津山三十人殺し』の犯人。そして昨今起き続ける意味のない大量殺人。
どちらの事件の犯人も容姿や己の無力さに強い劣等感を持ち誰からも相手にされない孤独感から怖ろしい殺傷事件を犯してしまった。
映画では人命ではなく国宝を破壊する。
想像だが三島作品では美しい国宝に火をつけることに滅びの美学があったのかもしれないが映画の国宝である寺はさほど耽美は感じられない。
そのためより己の虚無感から『尊い国宝』=『尊い人命』を奪ってしまうという衝動に共通点を見てしまう。
主人公が放火以前にも他人の貴重な剣を傷つけたり、女性を突き飛ばしてしまうなど彼がかっとなると酷い加虐性があることが示されている。狂気がどのような形で爆発するかは判らないのだ。
もしかしたらラストだけは昔風の行動なのか。死を選ぶことで自らを罰したかのように見える最期。現代の伍市なら「自分は間違っていない。世の中がおかしいのだ」と主張し続ける場面で終わるのかもしれない。

監督:市川崑 出演: 市川雷蔵 仲代達矢 中村玉緒 新珠三千代 浦路洋子

1958年 / 日本


ラベル:市川雷蔵
posted by フェイユイ at 23:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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