


この映画(と『草迷宮』)を遠い昔に観て、日本には怖ろしいほど強烈な表現をする作家がいるのだ、と感心してしまったのだった。それまでぬめぬめとして田舎臭く恥ずかしいものだと思っていた日本土着のものがだからこそ意味がありぞくぞくと戦慄さえ覚えるような力を持っているのだということを寺山修司の世界で知ったのではなかっただろうか。
それは例えば言葉の訛りであり、切ろうとしても切れない家族のつながりであり、東京などの都会とは違う明らかにお粗末な生活の風景、古びた家、陰湿な人々の噂、奇妙に恐ろしさを感じてしまう貼紙にも悲しげにつながれて逃れることのできない家畜にも田舎ならではの因習や閉じられた社会で生きることしかできない女達の姿などに強い反発を覚えながらも得体の知れない好奇心でそれらを凝視してしまうのだ。
この作品以外の彼の作品も最近観直したりしたのだがやはりこの作品(と『草迷宮』)が寺山修司の世界、というイメージを最もくっきりと表しているのではな
いだろうか。
物語、というようなものではなく作品自体が寺山修司の独白のような作品でありその端々に彼の短歌が挿入されるのだがむしろこの幾つかの短歌がこの作品をそのまま表しているくらいの密度がある。鮮烈な歌である。この短歌を読んだ時、この短い言葉の中に一つの映画と同じくらいの或いはそれ以上の物語があることに驚いた。言葉というものがこんな力を持つのだと打ちのめされたのだ。
音楽が映画の相乗効果で感動を盛り上げることがあるが、短い幾つかの言葉が映画との相乗効果で一つの世界を作り上げることもあるのだ。
主人公が白塗りの顔の少年という不思議な感覚。少年は母親と二人暮らしの密接から逃れたいと願い、母親はそんな息子を放すまいとしている。できることなら母を殺そうとすら思いながら彼は大人になってもそれを果すことはできないのだ。
主人公の虚構である記憶と真実の苦味が今見てもはっとするようなイマジネーションで構成されていく。
ここまで異常な世界を明確に描くことができる作家はそういないのではないだろうか。
恐山で死者と会話する少年、妖しげなサーカスの人々、噂話をする長い数珠を繰っている黒装束の片目の女たちなどが怖ろしい。
きっと初めてこの映画を観た人は見てはいけないものが入っている箱の蓋を開けてしまったような戦慄を覚えるだろう。もう二度と近寄るまいと逃げてしまう者もいるだろうし、怖いもの見たさで再び覗き込む者もいるに違いない。そういう者はこの世界の虜になってもう逃れることはできないだろう。
監督:寺山修司 出演:菅貫太郎 高野浩幸 八千草薫 原田芳雄 斎藤正治 春川ますみ
1974年日本
ラベル:寺山修司