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2009年05月01日

『愛をつづる詩(うた)』サリー・ポッター

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Yes

台詞が多くて説明的過ぎる映画は面白くないがこれはもう台詞を聞かせる為の映画なのであった。
ベルファスト生まれでアメリカ育ち、イギリス人の夫を持つ裕福な生活をしている科学者である主人公は宗教に疑念を抱き細胞の研究に明け暮れていた。夫との仲は冷え切り会話もない。孤独に佇む彼女に声をかけたのはレバノン人の男だった。彼は学んでいた医学を捨てベイルートを離れてイギリスで一人コックとして生計をたてている。宗教、人種、置かれている立場や生活が全く違う二人だが互いに惹かれ愛し合うようになる。

イギリスで白人女性にいきなりレバノン男性が情熱的な愛の告白をすることがあるのかどうかは判らないが、それ以後の二人の会話、そして主人公の夫と少女も関わってきて愛憎劇が繰り広げられる。そしてそれらの物語を家や他の場所での掃除婦たちが見つめていくという形式になっている。特に家の掃除婦は「何も残さないでいられることはない。すべては“NO”ではなく“YES”なのである」「私たちは神に忘れられた寄生者」というような言葉を次々と話しかけ、掃除婦である自分たちの存在は見えてないものと同じであると言うのだ。

この作品は実にたくさんの問題を投げかけていて次々と様々なことを考えさせられる。
一つに、主人公とレバノン男性は全く異なった生活環境で愛し合っていてもいつしか人種、宗教、生活水準の違いが二人の間に亀裂を生んでしまう。だが思いをぶちまけ聞いていくことで理解しあう。それと違って夫は自分の美徳は感情を抑えることだと言って何も言おうとしない。それでは理解し合えない、と言うことも語っている。ここでは主人公側の言い分だけでなく夫の妻への思いも訴えられていて確かに主人公の欠点も見えてくるのである。
 
それにしても最後の彼女と彼のキスシーンが細胞の動きと重ねられ「よく見ると何も消えてはいない。形が変わるだけ」という台詞はその前に語られた「右から左へ動いただけ」という台詞も含めて何か皮肉っぽく聞こえる。

不倫も恋人たちが互いを罵る言葉も叔母の死も非常に苦々しい状況ばかりを描きながらやはり引き込まれてしまう。
二人が愛を取り戻したのが遠いキューバの浜辺だったのは互いが対等で見つめあいたいということだったんだろうか。それにしてもキューバの雰囲気って素敵だ。行ってみたい。

レバノンの彼が彼女に「君を洗いたい」と言って彼女が「私は穢れているの」と言って怒り出すところがある。まさに彼女は穢れているのだがそれを気づかない。彼にとって彼女の態度言葉はやはり傲慢なのだが彼女には判らないのだ。同じことを叔母も死の床で思っている。彼女が自分の死を見て泣き出し清められることを。
叔母の死には間に合わなかったが彼は生きている。彼女が彼との愛を長らえるよう願いたい。

この作品の原題は『Yes』だが、「Yes」という言葉について以前思ったのはこの言葉の意味って私にはまだつかめていないということ。
日本語では単に「はい」と訳されてしまうが英語圏の人々には「Yes」と言う言葉はとても重要な意味を持つようだ。「No」=否定、何もない状態、ではなく「Yes」=肯定、そこに存在すること、話したり行動したことは消えてしまうことはなく印を残すと掃除婦である女性が言う。掃除をし続けることが仕事だがすべてが消え去ってしまうことはないのだと。この地球で生きていて様々な民族の間でも、また夫婦の間でも絶えず何かの言葉と行動があり、それらの記憶を消してしまうことはできない。だがそれでもやり直すことはできるしそのためにはまた言葉と行動が必要になる。悲しいYesから喜びのYESに変えることはできるのではないだろうか。

監督:サリー・ポッター 出演:ジョーン・アレン シモン・アブカリアン サム・ニール シャーリー・ヘンダーソン シーラ・ハンコック
2004年アメリカ/イギリス


posted by フェイユイ at 23:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 欧州 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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