映画・ドラマ・本などの感想記事は基本的にネタバレです。ご注意を

2009年09月12日

『愛の嵐』リリアナ・カヴァーニ

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The Night Porter/Il Portiere di notte

よくもこんな恐ろしい映画が1973年という時点で作られたものだと思ってしまう。ユダヤ人収容所においてナチス将校からおぞましい虐待を受けた少女ルチアが戦後時を経てアメリカ人指揮者の妻として彼の前に現れる。
ナチス将校だったマックスは今は小さなホテルのフロント係となって生計を立てている。彼女の出現は彼のこれからの生活を破壊してしまうものになる。
だが再会したルチアとマックスは激しく抱き合い愛し合うのである。

アウシュビッツでの惨劇を知る者なら二人が愛し合っている、という物語に激しい拒絶反応を感じてしまうのではないか。
冷酷な将校マックスの異常な性的虐待を受け続けていた少女が再会して夫を捨てて彼との性戯に溺れてしまうというのは、しかもここでも彼女は観てる者が憤りを感じるほどの暴力を受けるのにも拘らず彼と離れられなくなってしまうのである。
こういう事態や感情があるということを認めてしまうことだけでも恐ろしいことのように思える。
人間としての尊厳を全く無視したマックスの行為。裸にしたユダヤ人たち特に美しいルチアの全裸をフィルムカメラで撮り続け、銃を向けて裸で逃げ回るルチアを眺める。彼女にナチス将校の衣装を着けさせ、ただし上半身は裸で細い体にサスペンダー、そして帽子というこの映画の紹介の時必ず映されるあのスタイルで歌い踊るルチアにご褒美だと言わんばかりに差し出される箱の中には彼女が嫌っていた男の首が入っていた。
マックスはこれが二人の聖書物語だと言う。もしそれがそのままならあの男はルチアが愛していたことになるのかもしれないが。

マックスは本当に彼女しか愛した女性はいないのかもしれない。ルチアもまたこの異常な愛を受け入れている間に精神が歪んでしまったのかもしれない。
再会してからの二人も愛している、と言いながらの行為は明らかに異常なもので殴打する、素足でいるところへわざとガラスを割ってけがをさせる、鎖でつなぐ、そして極限までの餓えの中で抱き合う姿は狂気としか思えない。
もうどこへも行くこともできない彼らは渡ろうとした橋の上で撃ち殺されてしまう。
二人はそれでよかったんじゃないだろうか。彼らの愛は収容所での数年と再会した数日あまりの中で充分だったのではないか。だからこそマックスは彼女を伴って外へ出たはずだ。死が二人の愛を終わらせてくれると思って。
こんな恐ろしい愛はないだろう。という言い方は決してこの作品を否定しているわけではない。舞台や設定が違えど似た愛情もしくは情欲というものは存在するわけで。ただ多くの人々が最も忌むべき形の虐待・暴力を与えた者・受けた者の間にこういう愛が存在するのだというのは認めたくないものだろうと思ってしまう。
つまり今でも絶え間なく続く苛め、という問題の中で同じように性的嗜好を確立している少年少女もいるはずで。だからこそ苛めはいけない、という言い方はおそらくされていないだろうが。
よく言われる退廃美とかの賛美とはずいぶんかけ離れた言い方になってしまった。
SMというのは他者からは滑稽なものに見えてしまうことが多いがそういうおかしさを出さずに酔いしれさせてくれるのはやはり凄い作品なのだ(どうしても毒を含んでしまうなあ)

この作品は結局シャーロット・ランプリングをいかにマゾヒズムに貶めてしまうか、ということだけで最高に成功しているわけで、それでもういいのだ。
何度観ても裸にサスペンダーの踊りの場面の美しさにはぞっとする。女性的な美しさを捨ててしまったかのように痩せた小さな乳房の裸がこんなにエロチックであるとは。
短く刈られてしまった髪も射るように冷たい眼差しもただもう見惚れるばかりだ。
餓えて瓶からジャムを貪り舐める場面も酷くいやらしい。
少女時代も大人になった時もまったく変わっていない、という描き方に何の違和感もない人なのである。

監督:リリアナ・カヴァーニ 出演:ダーク・ボガード シャーロット・ランプリング フィリップ・ルロワ
1973年イタリア 


posted by フェイユイ at 00:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 欧州 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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