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2009年09月13日

『アララトの聖母』アトム・エゴヤン

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ARARAT

最後まで観通すのが苦しい映画だった。
いつもながら、どんな内容なのかあまりよく知らないまま観始めた。カナダに在住するアルメニア人たちの物語。
1915年アルメニアは突然トルコ人によって大虐殺をされた。戦争をしていたわけでもない中での出来事であり、トルコはそのことを今も認めていないと言う。
私が苦しかったのは多くの他の映画よりもこの作品に込められた憎悪の激しさだ。
他の批評などを見ると完全に客観視して内容の素晴らしさを褒めていたりまたは欠点を示していたりするものが多く見受けられたのだが、私はどうしてもこの映画を完全に自分に関係ない話としてその出来具合のみに点数をつけることはできない。
自分が日本人であることを完全に忘れてしまうことは不可能だからだ。
この映画では登場人物は個々であるよりまずどの国の人間かということが描かれている。何国人でありどこに所属しているか。無論アルメニア人の数は多いので彼らの人格はそれぞれに描かれている。だがトルコ人は劇中劇として登場する恐ろしいトルコの軍人を演じたハーフの男性のみが人格を持っていて後は単なる虐殺者としてしか登場しない。そして代表となるハーフのトルコ人の男性は結局「トルコ人によるアルメニア人虐殺は戦時下での仕方ない事件だった」というような説を半分だけ述べる。何故半分なのかと言えば役者である彼が映画監督に弁明しようとするのを監督自身が途中で遮ってしまうからなのである。
無論私がこの映画が恐ろしい苦しさを感じたのは自分の属する国民としては絶対にトルコ人側であると感じるからだ。日本はまた逆に虐殺をされた国でもある。だがこの映画のような直に人間対人間の形で残虐な大量殺人を犯した、という意味合いではどうしてもトルコ側の存在であり、また今でも日本人がそういう虐殺は行わなかったのだ、という説を通す人々が多いのを見ても同列なのを感じないわけにはいかない。作中の映画監督が「今でもこんなに悲しみが湧いてくるのはいまだに我々が憎まれていると感じるからなのだ」という言葉にも思い当たる点が多いからなのだ。
日本人を虐殺した国アメリカに対しては「行いには怒りを感じ二度と起きてはならないとしてもその国にはむしろ愛情を感じ深く親交している」のは何故なのか。
私自身、アメリカへの怒りより自国がした虐殺のほうを強く恥じてしまうのは何故なのか。
それらのこととアルメニアの悲劇をそのまま重ねるのは出来ないことなのだろう。
ただこの映画から恐ろしいほど沸き立っている怒りの念を自分としては無関係の他人事としては観きれないのである。

作品自体としてはその怒りのせいかやや破綻している部分も感じられてしまう。とはいえそれは自覚したわざと、なのかもしれない。
主人公の青年ラフィの父親がテロリストだったことはほのめかされているがその行為は語られるだけで映像ではないのでアルメニア人が受けた暴虐場面の壮絶さとは違い映像として訴えていない。またラフィはどんな理由であれ麻薬密輸をしてしまったのに「彼は真実を言っていた。わざとではなかった」とすり替えてしまったのは逆効果なのではないか。
アルメニア虐殺を直接ではなく作品の中の映画撮影として描いていく、という手法は惨たらしい数々の暴力・レイプ・拷問の場面をいくらかやわらげてくれる。これは観客の為というより作り手側の怒りがあまりにも爆発しすぎない為なのかもしれない。
この手法に関してはとても好きなやり方であり効果的であると思う。
それにしても少し不思議なのはアルメニア人たちの表現で、これらの個性はかの国では美徳もしくは魅力的なものなのだろうか。
どの人物もあまりにも目力が強くて何かしら人を批判しようとする。息子は母に母は息子とその恋人に恋人は義母に激しい怒りを持っている。(特にゴーキーの娘の描き方は何の意味があるのか。彼女の怒りの答えが最後に判るのかと思っていたが、私には無理だった。トルコ人が相手でもないのに、なぜ彼女があそこまで精神崩壊しているのか。それも虐殺のせいなのか)
作品の中にわずかもゆったりした部分がなく常に苛立ち憎悪だけで生活しているような雰囲気が却って共感できなくなってしまう。などと言うとまた加虐側の人間という負い目がある国民としては「そういう風にしか考えてないから怒ってるんだ」と言われそうな気がしてまた挫けるのだが。(こういう言い方もまたいけないような)
そうかもしれない。やはり自分の考え方は所詮同じような虐殺をされた民族ではないからしてしまうのかもしれない。
最後に「トルコはいまだに虐殺を認めていない」という文字が記されている。
やはり、と大きなため息をつくしかない。

映画の中に込められた憎悪をここまで感じたことはなかったかもしれない。はっきり言って「いい作品」などという表現のものではないだろう。
虐殺され謝罪されなかった人々はここまでの怒りと悲しみを抱いて生き続けているのだ。そのことはどんなに苦しいことだろうか。
作品の中にはどの和解も希望も感じることができなかった。ハーフのトルコ人のように認めもせず謝罪もなしに「もう忘れて仲良くしようよ」ということは受け入れられないのだ。

もうひとつ疑問点がある。二つか。
税関の麻薬取締官をする退職間際の老人がいるのだが、彼の息子がゴーキーの絵が展示されている美術館の職員、そして彼の同性の恋人が映画中映画で悪役を演じるトルコ人ハーフの男性となっている。余計な勘ぐりと言われればそれまでだが、憎い敵役の唯一の人格を持つトルコ人がゲイという設定なのはホモフォビア的な感情からの設定ではないのか。またアルメニア人は何故か美男美女ばかりなのにトルコハーフの彼はどうもすっきりしたハンサムとは言い難い風貌である。まあ、ここまでは言いがかりとでも言えるが、最も引っかかるのは宗教的な描き方である。
どうやら美術館員の男性は女性と結婚した過去があって幼い息子がいるのだが、ゲイのトルコ人恋人との生活の為に離婚し息子は父親(空港税関取締官)にあずけていて時折訪ねてくる、ということになっているようだ。そこで可愛い息子はきクリスチャンとしての食事の祈りをあげるのだが、父親が「アーメン」と言わなくなったことに疑問を抱いている。これはトルコ人の恋人がムスリムであることが原因しているからだが、小さな少年が彼に「神様を信じていないのでしょ」と言うのは描き方としてちょっとまずいのではないか。確かにその後で弁護してはいるのだが、イスラムにはイスラムの神があり神を信じていないわけではないのだから。というかそういう排他的な考えが結局戦争と暴虐を生んでいるのではないのか。

監督:アトム・エゴヤン 出演:デヴィッド・アルペイ シャルル・アズナブール マリ=ジョゼ・クローズ アルシネ・カンジアン イライアス・コティーズ アーシーニー・カンジャン
2002年カナダ


ラベル:歴史 虐殺
posted by フェイユイ at 23:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 北米 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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