
REBELLION THE LITVINENKO CASE
「ドイツ人は皆ナチスなのか」「そうではない。ナチスとそれを容認している人々だ」という話が本作の中で語られる。実際に恐ろしい行為をする人はごく少数だがそういう行為に無関心でいる多数者がそれらの犯罪を野放しにしエスカレートさせていくのだと。
この映画の作者は自分がそういう無関心である為に自国が腐敗していくのを見過ごしてはいられず声をあげたのだろうが、なんという勇気なのかと思いやってしまう。
まったく無勉強である自分だがそんな私でもこのリトビエンコ事件はさすがに耳に入って来たし最近になってロシアではジャーナリストたちの不審死が度々起きたことも聞いた。
暫くはまるで平和な国になり着実に自由な国の一つになっているのだろうと思い込んでいたのだが。
ロシア人は独裁者を求めているのではないか、という問いかけに監督はそんなことはない、と否定する。だがどこか不安げに聞こえなくもない。そんな体制を求めることがあるのだろうか、と思いながらも帝政ロシア、ソビエト、そして今のプーチン政権を思うとあの広大な大地の国の本質はなんなのだろうか、私には判りようもない。
ただ本作の冒頭からあちこちで映し出される赤ん坊までも含む様々な暴動による被害者の痛ましい傷跡(幼い子供達が手足を失い泣いている姿)を見るのは忍びない。
平和で豊か少なくとも衣食住の足りた生活を送りたいのはすべての人々の願いだろう。
そして穏やかな精神でいられる社会。
友人はいるが誰が密告者か判らない、などという世界は恐ろしいではないか。
最近になってロシア映画に興味が湧き、幾つか観たところでアレクセイ・チャドフにはまり込んでしまって当初の目的からずれてしまった。それはそれで嬉しい予定外だが。
それにしてもこんな政権下で自由な映画を作るなんて無理に決まっている。あの『チェチェン・ウォー』の凄まじさもこういう体制の為に許される映像なんだろうか。それにしてもあの作品には裏返した体制批判があるのだと思うのだが。
リトビネンコが美しい奥さんと可愛らしいまだ幼い息子と一緒に仲睦まじく歩いている様子はごく当たり前の幸せそうな家族で朗らかに笑って跳ねている男の子がいじらしい。彼が自分はどうなってもいいが息子の為に亡命したのだという言葉が切ない。この可愛い少年はパパから愛され一緒に歩くのが嬉しくてしょうがなかったはずなのに。
正しいことをする為には命を賭けなければならない。奇妙な言い回しである。
監督:アンドレイ・ネクラーソフ
2007年ロシア