映画・ドラマ・本などの感想記事は基本的にネタバレです。ご注意を

2010年02月25日

『セルロイド・クローゼット』ロブ・エプスタイン ジェフリー・フリードマン 

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THE CELLULOID CLOSET

もうバレバレでしょうが先日ジェームズ・フランコが『ハウル』の主演だという記事で出てきたロバート・エプスタイン、ジェフリー・フリードマンの監督作品ということで観賞。
何しろ1996年製作の映画なので「ゲイ映画」をテーマとして取り上げたドキュメンタリーとして観るにはやや古きの感無きにしもあらず、だが、でもそんなに違和感がないっていうのはなかなかこの方面の成長の遅さを物語っているのかなあ。というわけでゲイ映画の筆頭に来るべき『ブロークバックマウンテン』は語られません。勿論我が愛するベン・ウィショーの『情愛と友情』もだね。『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』もまた。
とはいえ、ゲイ映画(男性同士、女性同士どちらも語られる)の代表作を挙げるなら、先に書いた映画を除けば(他にもあるけど、まあまあ)まず出てくるタイトルがずらり。今現在でやってもあまり変わらないかもしれない。

私が物凄く共感を持ったのはインタビューを受けるゲイの方たちが「ストレートを描いた映画の中に少しでもゲイ的な要素がないかと探し回った」というところ。
幸か不幸か残念ながら私はゲイではないがそういう場面を探し回る情熱だけはかなり持っている。威張ってもしょうがないが。
も少し言うならあんまり露骨に出てくるより「暗に匂わせた」「ゲイ的な象徴を使う」「含みを持った言い回し」などを感じるのが大好きである。きっと今本当のゲイの人から嫌な顔をされたかもしれない。
しかし確かにそれくらい映画はストレートが本道でゲイはここで語られる通り、怪物であり気持ち悪い存在として描かれその末路は死あるのみ、なのである。『 フリービーとビーン 大乱戦』は私もTVだかで観た記憶があるのだが女装したゲイがトイレの中で残酷なほど撃ちまくられ死んでしまう。ストレートな観客は気持ちの悪いファゴット(おかま)が酷い目にあって殺されるのですかっとして大笑い、ということらしい。私は随分昔に観たきりなのに記憶があるってことはかなりショックだったに違いない。アメリカ映画の中で「ゲイ」が描かれる代表みたいなもんだ。
かと言ってアメリカ映画において「ゲイ」を真剣に肯定的に描くことは無理だった。彼らはあくまで気持ちの悪い怪物でしかなかったのだ。
また当時の検閲がゲイを映画上に登場させることを許さなかった。
肯定的なゲイは皆切り捨てられてしまったのだ。
そこで「頭の良いゲイの製作者たち」は「頭の悪い検閲者たち」に判らない裏技を使った。「ストレート」に表現せず婉曲な表現方法で判る人に判らせる、という奴だ。
おかしかったのは『赤い河』での二人のカウボーイの会話、男がハンサムなモンゴメリー・クリフトに話しかける「いい銃だな、見せてくれよ」モン、少し恥ずかしげに腰から銃を取り男に渡す「いい銃だな、俺のも見るか」二人で互いの銃をじっくり見る。じゃああれを撃てるか、と言って二人で離れた缶の撃ち合いっこを繰り返す。
無論銃は男の象徴でそれを見せ合ってさすっては「いい銃だな」って言うので見てるゲイ君は思わずにやり。おまけにふざけて撃ちあいっこなんてね。
『ベン・ハー』なんてゲイっぽいとは思ったがこんなに意識して作っていたとは思わなかった。ヘストンに話すと演じきれなくなるから彼には適当に誤魔化して相手役の俳優のみに事情を話し、彼の役とベン・ハーは少年期に恋人同士で再会してよりを戻そうとしている、という演技をしてもらったらしい。すげえな。

そんな風にして多くのストレート映画で関係者たちはこっそりとメッセージを送り続けたのだ。

だがやはり本当ははっきりと表現したい、という気持ちが真実だろう。だがはっきりと表現すればそれは殆どが悲劇として描かれてしまう。
差別され暴力を受け切り離され殺される。
或いは恐ろしい殺人鬼として描かれる。
隠れたメッセージでなければ同性愛者がまともな存在としては登場しないのだ。

長い映画の歴史の中でそれはほんの少しずつ変化してきているが、それでもまだまともに当たり前の存在として表現されることは少ない、と思う。
本作でインタビューを受けるゲイの出演者たちの声の多くは「最後に死なないゲイの映画を求める」って言ってると感じたがそれは私も強く思うことでまずそこからだと思うのだ。それは『モーリス』の後書きで作者のE・M・フォースターが言っていた「この物語はどうしてもハッピーエンドにする必要があった」という言葉に表されている。あの映画が今のアメリカででもゲイ映画の上位にランクインされているのはそこにあると思うのだよね。

それにしても思うのは男同士はまだそれでも描かれているがことビアンに関してはほぼ皆無と言ってもいいのではないだろうか。
先日観た『噂の二人』のなんと言う悲劇。本作でも取り上げられていて主人公の一人を演じたシャーリー・マクレーンが「あの時作品のテーマの重要さをまったく認識しないで演じてしまった。私が演じた彼女は泣いて恋人に謝る。本当は戦うべきだった」と語っている。素晴らしい発言だが仕方なかったと思う。しかしその映画を見たビアンの女性は「昔の映画だ、とはいえあの映画を観るとやはり自分の姿だと思う。いつもは自分自身に誇りを持っていてもどこかで彼女と同じ悲しみを感じているの」と言っていた。シャーリーの演技はそう思わせるだけの力を持っていたと私も思う。悲しくて二度は観たくないけど。
映画界は殆ど男性で出来上がっている。例えゲイ男子が多くてもやはり男だ。ビアンの映画は所詮ストレートの男の為のエロ映画の一つになってしまう。大好きな『テルマ&ルイーズ』はあくまで女の友情物語であってビアンとは言い難い。スーザン・サランドンが話してた「ラストシーンでキスをするのはただ絆を確かめただけ。『明日に向かって撃て』のブッチとサンダンスもキスすればよかったのよ。でも彼らはその代わりに男らしく銃を抜いたってわけ。実際にイチモツ(と言ってた)を出すわけにはいかないもの。そうしたら警察にもっと撃たれる理由を作ったわね」なるほど。
ゲイ映画を語るドキュメンタリー、と言っても女性同士はなかなかこれというのがない。

ビアン映画って本当にこれというのがなくてしかも「暗喩」なんていうのもあんまりないだろう。
ここで取り上げられていたヒッチコックの『レベッカ』のデンヴァース夫人は確かに今は亡き女主人レベッカに恋をしていたのだろう。あの物語が大好きだったのはデンヴァースのレベッカへの愛の為に主人公が虐めぬかれるという設定だったからだ。
私にとって一番心惹かれたビアンものは手塚治虫プロで制作された『アンデルセン物語』の中の『雪の女王』で山賊の娘がゲルダを好きになるのだが彼女はカイを助ける為に自分を行かせてと頼む。娘が辛い気持ちでゲルダを手放すのが切なくてたまらなかった。
この物語にどのくらい手塚氏が介入しているかは判らないが手塚治虫さんは少年マンガ界で最もゲイを描いていることは確かだろう。
私が最も愛するブラックジャックの恋人は男性だ。昔は女性だったが男性になった。ブラックジャックの手で。
今思うと別に男性にしなくてもよかったんでは?と思ってしまうのだが、ブラックジャックの趣味だったのでは?と疑ってしまう。しかもその男性になった人に恋をしてしまう男子まで登場する。「あの人は昔女性だったんだ」というのが彼の恋の理由だが、今男性なのにその理由って?やはり手塚氏の漫画は性を超越してる。
話がそれてしまった。

悲しむべきは日本映画のゲイシーンなのではないだろうか。私は他の点では日本映画の素晴らしさを讃える者であるが同性愛を表現する、という点においては「ほのめかし」を探すのも大変な気がする。先日観た『TAJOMARU』も桜丸を主人公にしてくれてたらと思ってしまうのだが。この辺に関しては中国・韓国映画の方がどんどん先に進んでいってしまってるのではないだろうか。

暗喩やほのめかしを探すのも楽しいがやはり求めるのは素晴らしく上質の感動的なゲイ映画、なのだ。
男性同士だけでなく女性同士も増えて欲しい。そのためには女性監督がもっと増えることが不可欠なんだろうな。昨今、少しはビアン的な話題が増えてきてるような気もしているのだが。男同士に比べたら僅かなものとしても。その男同士もなかなか難しいのだからな。ホームズとワトソンが怪しいのは昔からです。

監督:ロブ・エプスタイン ジェフリー・フリードマン 出演:トム・ハンクス スーザン・サランドン ウーピー・ゴールドバーグ シャーリー・マクレーン トニー・カーティス アントニオ・ファーガス
1996年 / アメリカ


posted by フェイユイ at 22:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 北米 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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