映画・ドラマ・本などの感想記事は基本的にネタバレです。ご注意を

2006年10月18日

続・「サラ、いつわりの祈り」

さら.bmp

一日挟んで書いてます。といっても何となくつらつら思っただけのことですが。

映画のネタバレはいつもの事ですが原作にも触れますのでご了承ください。

前の記事でも書いたけど、映画化になるなど夢にも思わず原作を読んでいた。まさかこれが映画化されるとはなあ。
というのは7歳くらいからローティーンまでの主人公の少年の性的な物語を映画にできるとはちょっと思えないではないか、それもアングラとかではなく。

で前に書いたように原作と映画は肝腎なところが違う。
監督・脚本・主演のアーシアは「大好きなリロイの小説を忠実に映画化した」と言っていて確かにそうなのだが、だのに全然違う。
その上で私は映画作品が非常に好きなのだが、原作に思い入れが強い人はかなりがっくりかもしれない。
なぜなら多分読者が一番読みたい(観たい)部分主人公の少年の性的虐待嗜好部分がなくなっているからだ。
映画だけ観ると幼い少年が鞭打ちなどの虐待を受け叫んでいるので可哀想と受け取る人が多いだろう。
でも小説ではジェレマイアはその「鞭打ちを受けたい」と願っている被虐嗜好の少年なのでまったく話は違ってくる。
それはジェレマイアが虐待を受ける事と愛情を受ける事を同一化してしまった、ということなのだろうが、それこそがこの小説の最も忌むべき核心なのである。
「少年が虐待して欲しいと願っている、という作品を世間で認めるわけにはいかない。児童虐待に歯止めが利かなくなるではないか」
アーシアは「児童虐待の場面はできるだけ控えた」と言っているのだが、それではこの物語の本質が消し去られたことにはなってしまう。

それはアーシア自身が幼い娘の母親で惨たらしい児童虐待シーンを赤裸々に演出するのは耐え難いものだったからなのか。
子供のいない男性(しかも同性愛的資質のある)ならもっと露骨な映画に仕上がっていたのだろうか。何となく「ターネーション」に似た感じになりそうである。
だが映画作者が女性且つ母親であったために映画は少年の性的嗜好を表現するのではなく、どこにも行き場がなく互いを頼りにするしかない母子の物語となった。一般基準の愛情とは程遠いがそれでも彼らは愛し合っているのだ。
そしてその自暴自棄な堕落振り、救いのなさは少年ではなく若さを失いつつある女を主体にすることで(あくまで少年の目を通してではあるが)より面白く深みのあるものになったのではないか、と感じている。

追記:「そして、一粒のひかり」と「サラ、いつわりの祈り」が似てる感じがしたのは主人公がマリアとサラという聖書でも馴染みの深い名前だからなのでもあった。
マリアは勿論、イエスの母マリアでサラは旧約聖書のアブラハムの妻で年を取ってから子供を産んだ女性の名前でしたね。
勿論聖書から取られた名前は多いわけですがどちらも母をイメージする名前なのでしょうか。


ラベル:家族
posted by フェイユイ at 21:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 北米 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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