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2007年04月23日

ウラジーミル・ナボコフの「ロリータ」と映画「ロリータ」

今日は小説「ロリータ」をメインに書いてみたい。キューブリック映画「ロリータ」と比較しながら。といっても別に原作はこうなのに映画はなっとらん、みたいなことではなくて。
キューブリックは「シャイニング」でも原作の主旨と全然違うと作者スティーブン・キングが怒ったりしてるように小説をそのまま再現する人ではないのである。
それしても「狂気」というイメージのあるキューブリックがこの作品では随分と大人しい。少女を愛するだけで充分狂っているといわれてもやはり物足りない。

映画の冒頭はハンバートがロリータの足の爪にペディキュアするところから始まる。足、というのは西洋では(東洋でだってそうだが)性的な意味を持つ。男の手がその爪を優しく手入れしているのは性的でもありその足の持ち主に従順でありまたその足の持ち主を支配していることも示しているようだ。
この表現が結局この映画の中で最も二人の関係を示しているのかもしれない。

小説「ロリータ」は冒頭からしてかなり気色悪い。小説はよく出だしの部分を紹介されると思うが確かにこの1ページ目だけでハンバートの少女愛の本質が表現されていると思う。そういう意味でも名文ではないんだろうか。口に出して読むのも嫌なほど気持ち悪いんだけど。小説でもこの冒頭部分が様々な事を暗示しているようだ。

小説で感心したのはハンバートの思い描くニンフェット像だ。ニンフェットというのはハンバートのような男が理想とする少女の総称。その最も理想の形がロリータなのだ。
ロリータを代表とするニンフェット(ロリコン男が好きになる少女)と言うのは必ずしも美少女ということではない。美少女でもニンフェットではない少女もいる、というのだ。だがニンフェットを見ればハンバートの心はすぐに反応しそれとわかるのだ。
ロリータはその姿、顔かたち(並より小柄であるのがいいようだ)といいだらしなく気ままな性格すべてがハンバートの理想だった。映画のロリータはブロンドだが、ハンバートの愛するロリータは濃い茶色の髪なのだ。それは随分違うイメージだと思える。そして少年のように狭い腰と細い足でなければいけない。
だが彼女は神秘的な神々しいばかりの美女ではなく軽薄なことしか考えない普通の女の子、といった感じでむしろそれが怖ろしく思える。彼女はこの世に存在しないほどの稀な存在ではない。どこにでもいる女の子なのだ。
ニンフェットなどという枠を作り普通の女の子たちをその中に入れてしまう。このやり方だったらどんな男でも自分の好みをニンフェットだといえばよろしい。難しいテストは必要ないのだ。

ハンバートは可愛いロリータの賞味期間も15歳までと決めていてそれを越えてしまえばただの女になると言い切っている。なのに後半17歳になって他の男の子供を孕んだロリータを見て愛しているなどという嘘を並べ立てるのだ。そのくせロリータを失ったからと言って少女を愛するのをやめたわけではない、と認めている。まったくナボコフのハンバートの描き方の巧みなことといったら!自分の理想のロリータを追い求めるその姿に絶対共感しない、と言ったら嘘になるだろう。ロリータを愛する、と言うハンバート。ロリータの本名ドロレスではなく彼が慈しむのはあくまでもローティーンのロリータであって15歳を越えた彼女ではない。

映画の前半で名演を見せるのはロリータのママを演じるシェリー・ウィンタースだ。なぜだかこのママは可愛いロリータを嫌っていじめている。おまけにロリコン男ハンバートに熱を上げてしまい、結婚を迫るのだ。映画ではこの部分がやたら長い。だもんで観客はなんとなくロリータママに同情してしまわないだろうか。なにしろハンバートはロリママをデブのオバサンとしか見ておらずその娘に入れ込んでいるのだから。そしてロリータと暮らせることだけが目的で結婚する。そして唐突に自動車事故で死んでしまうのだ。
小説ではこの部分はまったくあっさり書かれているのではないか。所詮このママは邪魔なだけなのだ。そして信じられないスピードで死ぬ。映画の長さは必要ない。映画ではここまで半分を費やしてしまうのだ。
ママはロリータをハンバートの前に連れてくるだけの役目なんだから。

小説ではハンバートは一人称で物語を語っていく。というのはこの物語は後にハンバートが記したものだからなのだ。
ということはすべての記述が事実かどうかはわからない、ということでもある。実に奇妙な事故だ。
映画では一人称というのはあやふやになるのでここでも差がついてしまう。こういった話は一人称で吐露していくものなのだ。

映画の半分をママとの葛藤に使ってしまったため重要なロリータとの逃避行、愛するニンフェットとのハンバートの夢の時間は短くなってしまった。と言っても中年男と少女との肉体関係を伴った旅行記を60年代の映画で描けるわけもなく(今でもやれるんだろうか。エイドリアン・ライン監督作品ではどのくらい描けているのか)
作者ナボコフが当時起きた、中年男が少女を伴って性的関係を持ちながら全米を転々とした、というローカルニュースをもとにこの話を書いたということらしい。ロードムービー好きとしてはもっとこの部分に力を入れて欲しかった。セックスシーンは抜きでもいいから。

小説と映画の一番の違いは筋書きではない。これは小説を読んでみれば一目瞭然なのだが、小説に注ぎ込まれた情報量の凄まじさなのだ。それら全部を読みこなし読み解くのは簡単なことではない、というか無理なのだろう。少なくとも私は注釈を読んでなんとか少し解ったつもりになっているようなものだ。
言葉遊び、様々な文献からの引用、ハンバートの趣味嗜好、ロリータの魅力、ニンフェットのあり方などがとくとくと語られていく。しかもナボコフは推理小説が好きだということもあって謎解きの面白さサスペンスも含まれている。
そしてそれらが飽きさせない面白さを持っていて何度も読ませられてしまう。映画にはそういった饒舌さがないので物足りなくなってしまうのはしょうがない。

面白い、と思ったのはロリータがハンバートに都合のよい男嫌いの少女ではなく当たり前に男性に興味のある女の子だということだ。
ヨーロッパから来たハンバートはアメリカ娘ロリータの奔放さに振り回される。ハンバートはロリータを独り占めしようとし、あっけなく逃げられる。ロリータは劇作家でこれもロリコンのクィルティが好きだったのだ。なんと別のロリコン男にロリータを奪われてしまうとは(と言っても彼は不能らしい)その上、ロリータはクィルティにえげつないエロ映画に出演させられそうになりここも逃げ出す。
なんとか働きながら出会った青年(純朴そうなのだけが取り得の貧しい若者)と結婚してしまう。17歳にして酷くやつれてしまったロリータはそれでもハンバートの元へ帰ろうとはしない。愛するロリータを失いハンバートは現実の辛さを思い知っただろう、といいたい所だが、結局ロリータはもう17歳。ハンバートの好む年齢ではないのだ。
ハンバートはロリータを愛していたのか。誰かを愛するという時それは多くの場合「永遠に」「ずっと」「死が二人を分かつまで」である。ハンバートがロリータを愛したのは彼女が12歳から15歳までの二人が自動車で旅をした間の時間である。
そしてロリータはその愛らしい時間をハンバートに与え、普通の女になって去ってしまった。「愛していると言ってたくせに」どーのこーのと騒ぎになるより都合よい終わり方ではある。かくして都合よくロリータを手に入れ都合よく別れられ奪った男に復讐し、病死している、都合のよいハンバート。
しかし読まずにはおられない不思議な怖ろしい魔力の小説なのである。


ラベル:小説
posted by フェイユイ at 23:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 北米 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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