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2007年06月28日

「エコール」ルシール・アザリロヴィック

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この映画を観てしまい興奮気味なのである。一体なんという面白さであろうか。こんなにも惹き付けられ惑わされた映画を他に知らない(てなことばっかり言ってはいるが)

高い塀に囲まれた森の中に少女たちが住んでいる。
そのイメージだけでもなんともエロティックな匂いを嗅ぎ付けてしまうではないか。
森は濃い緑の陰を落としある時は裸で戯れる、ある時は白い短いスカートを穿いて道を歩く少女達を包み込んでいる。少女達の世話をするのは幾人かの老婆とまだ若く美しい二人の女教師たち。少女達には日課が与えられ、バレエの授業があるが他は自由に遊んでいていいようである。但しその森の一角を囲う塀の中において。
その塀を越え脱走した者には重い罰が下されるという。

なぜどうして少女達がここにいるのか、というような「余計な」説明は省かれている。
判るのは少女達に起きる出来事、提示される物事が全て明確な暗示によるものであるということ。不思議の国のアリスは謎めいた世界に入り込んでしまうが少女と謎々、というのはいい組み合わせなのだろうか。溢れてくる謎解きの面白さに猫のように目が輝いてしまう。

この物語は幼女から少女そして大人へという成長を表している。ビーナスは泡から生まれるというが(しかも海に落ちた男根から生じた泡だそうだが)最初に水の流れと泡が画面いっぱいに映される。暗い地下道は胎内を示す。まだ何も考えていないような幼女が目覚める。幼女は年上の少女に憧れながら色々な事を学んでいく。好奇心は強いがまだ幼い。少女達は高い塀に囲まれ勉強していかなければならない。森は危険なものを暗示するが少女達は高い塀で囲まれた安全の中にいる。その中では老婆(母親たち)がいつも見守っている。少女達はそれがうっとおしく早く外の世界(大人の世界)へ出て行きたいと願う。中には我慢できず脱走するものがいる。現実の世界にもいる大人の世界へ入り込んでしまう少女達だ。非行だとか不良だとかいわれる行為のことである。大人になった教師がつぶやく「早く外に出たがるけど外もいいものばかりではないわ」外へ飛び出した少女には往々にして罰が待ち構えているものだ。ボートには穴が開き、水に飲み込まれる。大人社会を甘く見てしまった少女のはまった罠だ。別の少女は逞しく塀を乗り越えて走っていく。だが犬の吼える声と狩人たちの銃声が聞こえる。まだ無知で愛らしい少女がどのように狩られてしまうか。その声が聞こえる方向へ走っていく少女の姿は痛々しく闇は酷い。
なんというモラリスティックな物語なのであろう。少女達はそのモラルによって守られているがまた同時に高いモラルこそが強いエロティシズムを感じさせるものである。

年に一度少女達の様子を見に来る校長がいて特に美しく才能のある少女だけを外へと連れて行く、というのも当然考えられる状況である。一人の少女は強くそれを願い果せずに終わってしまう。
バレエというものが少女達が女性へと変わるための勉強として表現されているのであろうか。そのためビアンカはその途中で初潮を見る。

最も判りやすい暗示は蝶の変態である。幼女が少女にそして大人となるように青虫が蛹となり蝶となって交尾する。少女の事をニンフェットというが、なるほど蛹=ニンフなのだ。
物語は最初幼女であるイリスの目線で語られ、途中から大人に近いビアンカに代わっていく。ビアンカはニンフェットの最後の時間を過ごしているのだ。ラスト近くビアンカは蝶の羽をつけて踊ることでニンフェット期を終えたことを表している。

ビアンカたちは成長し、この森から出ることを言い渡される。ビアンカは「出て行きたくない」とつぶやく。これは女性なら誰でも判るだろう。大人に憧れながらも少女時代にさよならを言う寂しさを。
だが森を出、今までの教師達に別れを告げ、噴水の中で服を脱ぎ、若いハンサムな男の子と出合ったビアンカはもうそんな子供時代は忘れてしまったかのようだ。気に入った若い男と噴水の水を浴びるビアンカの姿は勿論性的な暗示をされているわけでまあこれが判らないというものはいないだろう。性的描写が御法度の国では水を浴びる事がセクシーさを表すことになるらしいがここでも使用されたわけである。
森の家では新しい幼女が目を覚まし少し成長したイリスがその幼女を見守る。やがてイリスもビアンカのように女性となるのであろう。
森の中での生活は窮屈だが安全に成長する為に忍耐が必要なのである。と物語っている。
少女達が大人たちと関わるために時計を通っていく。時を経て、というイメージである。

いやまったく、お堅い、と言っていいほど規律あるモラルに守られた少女達の物語であった。
だが先にも言ったが、モラルが高いほど少女へのエロティシズムというのは強まるわけで、大体においてきちんと統制のとれた少女達の生活ぶりや白い清潔な服装、リボンをつけた清楚な髪型などが却って少女達に危険な魅力を与えている。
少女達の周りには彼女達の聖域を侵してしまうような男達はいないのだが、深い森そのものが怪しく性的な欲望を持っているように思える。
少女達が水浴びをし、ブランコに乗る時(これもどちらも性を暗示させる)森の中に少女達を侵そうとする目を感じる。
別にこの映画の中で何か猥褻な出来事があったわけでもなく、男性すらも殆ど登場しないのに、ロリータ趣味の男性達がむずむずとした欲望にかられてしまうのは無論登場する少女達の愛らしさのせいではあるが画面のいたるところに男性を示す象徴が置かれていて少女達を脅かしているからではないだろうか。その隠微な妖しさのせいで怒る人すらいるようだが、少女とはそういう視線の中に存在せざるを得ないものなのである。

一瞬、前半でイリスが慕っているビアンカを追いかけて行った建物の中でベッドの少女に注射を打っているような場面があったが、あれは何を意味しているのか、判らなかった。というかあの場面があったために私はてっきりビアンカが夜訪れている建物は何かいかがわしい主人のアブノーマルな遊びの為にあるものではないかと疑ってしまったのだったが、それは邪推にすぎなかったようで、その箇所が謎として残ってしまった。

二人の女性教師は同性愛の関係ではないかと思うのだが。外の世界(異性愛の世界)へ行かず少女達の世界に留まっているということで。でももしそうなら同性愛者といっても社会の中で生きているのは同じなのだから外の苦しみは味わっているはず、と思うのだが性的な意味でのみ、ということになるのだろうか。

監督ルシール・アザリロヴィックは公私ともにギャスパー・ノエのパートナーであるということでノエの映画に最近になって深く共鳴した自分としてはこの作品はとても観たいものであった。
本作が女性監督によるものでしかもこのように女性を描いた優れた作品であったということは嬉しく思う。
私は男性が多く登場する映画を観ることが多いのだが、女性の映画がもっと増えて欲しいし、もっと観たいと願っている。
とはいえ女性監督作品と言われて観ても共感できることはまだ少ない。
女性にとって少女期というのがどういうものなのかこの作品は非常に計算されまた美しく描きだしている。
同監督の他の作品も是非観たいものである。

監督:ルシール・アザリロヴィック 出演:ゾエ・オークレール ベランジェール・オーブルージュ リア・ブライダロリ マリオン・コティヤール エレーヌ・ドゥ・フジュロール
2004年ベルギー/フランス

この映画ですぐ思い出したのは小説「わたしを離さないで」だった。少女達の存在がなんなのかわからない、という点で。静かな空気の中、という点で。
そして小説ゲド戦記第2章「こわれた腕環」のテナーを。


posted by フェイユイ at 22:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 欧州 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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