映画・ドラマ・本などの感想記事は基本的にネタバレです。ご注意を

2007年07月27日

小説「エデンの東」ジョン・スタインベック

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凄く気になった名作映画「エデンの東」あまりの不思議な名作に気になってついにこの年齢になって初めて原作を読む。勿論日本語訳である。

とりあえず断っておくと映画と原作は別物なのだからして、どこがどう違うからどうだというわけではない。
映画は映画としての作品なのであの内容で多くの賛辞を得た名作として残っているのだし、あの内容だから認められ売れたのだと思う。
スタインベック原作は原作で高い評価を受けているはずだと思うのだが、ここでは同じ名作として残る(映画のほうが有名だと思うが)二つを比べて楽しんでみるだけである。まさかこんなに違うとは思いもしなかったのである。

前書きが長くてしょうがないが私は昔から斜め読み走り読みの悪癖があるのだが今回もその通りで読んでしまった(というか読んでる途中)である。
勘違い、読み飛ばしは多々あるかもしれないがご容赦願いたい。追々読み込んで間違い訂正や追加を入れるかもしれない。

勿論スタインベック「エデンの東」ネタバレになるのでご注意ください。

そして原作「エデンの東」はかなりの長編で映画はその後半を映像化したものなのだが、ここではその部分だけを取り上げる。

映画を観て様々な違和感を覚え、原作を初めて読んであっと驚いた事実がある。それは映画と原作を徹底的に違うものにしているのだ。ジェームズ・ディーン演じたキャルの家族トラスク一家に中国人の召使リー老人がいたのである。
彼はよく欧米小説にあるお飾り的な中国人の登場人物ではない。キャルたちが誕生する前から存在し、女手のないトラスク一家の家事を一人でこなしている。
その上、非常に経験豊富で頭脳明晰であり哲学的ですらある。父親アダム、アロン・キャル兄弟、そしてアブラまでがこのリー老人に深い信頼と愛情を持っているのだ。
私は「このアブラどうしてこうおせっかいなんだろう」と訝しんだものだ。10代の少女らしからぬ言動を見せるのでちっとも可愛くないのである。
当然だった。映画でアブラが母親ぶって忠告したり諌めるのはこのリー老人の役目だったのである。
確かにこの老人が言うのなら理解できる。映画のアブラは老人が語る言葉を言わされていたのだ。少女なのに。

このリー老人。ちょっとかっこよすぎるくらいかっこいい。この映画化された部分では切ってしまっているのだが、もともとは弁髪だったのだ。
両親は中国(広東語圏)からアメリカへ渡ってきて鉄道を敷く過酷な労働を強いられる中で赤ん坊を産み、母親は男と偽って渡って来ていた為惨殺される。
赤ん坊のリー老人はそういう環境で育ったのだった。
アメリカに渡った中国人が低賃金で働くということで過酷な労働にあてがわれたという白人が書いた小説を初めて読んだきがしたし、差別を受けながらもリー老人が毅然とした態度で生活している様子も興味深かった。そして召使とはいえトラスク家での彼の存在は殆ど妻か母親のような意味を持っているのにも惹き付けられた。
父と二人の息子は何かとリー老人の助言を受け、頼っているのだ。そしてリー老人も一度家を出ようとしたのに寂しくなって帰ってくるという箇所があるほど一家を愛している。
リー老人は料理が大変うまいだけではなく医学の知識も医者以上でラスト、アダム氏が具合が悪くなり倒れる辺り、彼の腕の見せ所である。
私が「アブラのラストの言葉は感動した」といったあの台詞アブラがアダム氏の耳元で囁く「あなたの息子を助けてあげてください」というのはリー老人の言葉なのだ。

一体なぜこれほどまでに「エデンの東」という物語を支えているリー老人が映画では姿を消してしまったのか。
無論それは彼が中国人だったからだろう。
中国人がこの名作の全ての舵を取り回すわけにはいかなかったんだろう。
あのキャルがアブラを抱きしめてる表紙絵だってジェームズ・ディーンと中国老人が抱き合ってる絵になっててもよかったんだから(そんなシーンはないが、でも原作ではアブラとキャルはキスしたりしてないしね)

それにしたってこの魅力的な中国の哲学者のような老人を一切姿かたち出さないとは。
小説を読み進め、彼に惹かれながら茫然としてしまっても当然だろう。

この全てを覆してしまう事実の中には原作で非常に重要な台詞アダム氏が最後に口にするヘブライ語の「ティムシェル!」というものもある。
この言葉はリー老人と仲間の中国人が聖書を学びながら悟りえた言葉「汝、意思あらば、可能ならん(Thou mayest)」という真理なのである。
映画ではこの部分も消えていた。難しすぎたのだろう。最後の決め台詞なのだが。

後はまあ色々、違う部分、箇所はたくさんある。
重要な部分から言っていけば双子の兄弟アロンとキャルの印象である。
映画ではあくまでもジェームズ・ディーン演じるキャルを若者の代弁者、ヒーローとするために彼を盛り立て泣ければならない。
が、原作ではキャルは容貌としては暗くジミーのようにハンサムではないようだ。そしてどうしても曲がった行動をとってしまう、というアベルをモチーフとした行動がはっきり伝わるように書いてある。だが映画にはないアロンへの愛情も強くて決してアロンを嫌っているのではないのだ。
一方映画では嫌なイメージしかないアロンは原作では金髪碧眼の美少年で誰からも愛された、とある。
映画では描かれてなかったようだが、父親がアロンを偏愛してるのはいい子だからではなくアロンが家出した美人の母親の容貌にそっくりだからなのだ。つまりパパは美少年のアロンが可愛かったのだった。
キャルは外見も可愛くないし、自分でもコントロールできないほど人に嫌われる行動をとってしまうので「いい子になりたい」とお祈りしたりする。でも兄弟二人は仲よしで映画のようなそっけない感じではない。
映画では可愛くないアブラも原作では少女らしい雰囲気である。確かに最初アロンが好きで途中そっけなくなってしまうアロンに失望していきキャルに惹かれていくのだが、自然な感じで描かれていて映画のようにいきなりキスしたりはしない。
アロンを嫌いになるのもアロンがあんまり教会に没頭してしまうからなのだ。牧師に嫉妬したりする場面もある。このアロン、深読みかもしれないがちょっと同性愛的な印象がある。
そして母親の正体を見せられ入隊して戦地で死ぬ。カインとアベルをきちんと踏んでいる。映画では死んでしまうとキャルが悪者になってしまうので途中で終わったんだろう。
が原作ではあくまでもキャルは「悪い事をしてしまう人」なのである。それを救う、というのが話しなのでジミーをあんまり悪人にしない程度に不良にする、というのでは人気を気にして物語の意味をなさない。
家出した母親も原作ではもっと悪辣な印象だが、映画では少し甘くなっていた。これも酷すぎると母親としてあんまりだという配慮だろう。そして自殺するがそうされるとジミーが悪者過ぎるのでこれまた省略。

キャルの父親アダム氏は映画で随分キャルに冷たいが原作ではそうでもない。母親の面影があるアロンをより好きではあるがキャルだけに冷たくはないのだ。
父親とキャルが腹を割って話し合う場面もある。
あの贈り物の金を拒絶する場面も逃げ出すキャルに「怒らないでくれよ」と声をかけている。固いが優しいんである。これも驚きだった。映画ではジミーが父にすがりついたりする「名演技」をしているがキャルはただ出て行くだけで涙も出てこない、とある。その後、アロンを母親の元に連れて行くが。

私が気になったキャルが遊びで付き合ったメキシコ娘というのは(多分)登場しなかった。売春宿で遊んではいるようだが、映画では売春宿に行くよりはメキシコ娘と遊ぶ設定のほうがよかったんであろうか。どっちがいいのかよくわからない。

以上走り書きである。
結局映画ではジェームズ・ディーンを悩める不良少年として描きたいがためにあんまり酷いとこは柔かくし、難しいとこは省きとしてるためにかなり設定・物語が歪んでしまっている。
重要なリー老人が登場しないのはどうしたって歪みの大元になってる。
が、原作を読むきっかけになってよかった。このように面白い小説だとは考えもしなかった。
アブラも映画と違い可愛い少女であった。特に11歳頃のアブラ、キャル・アロン兄弟のエピソードがあるのだが、ませたことを言って二人をやり込めるアブラはとても面白い。
心理描写は当たり前だが映画と違い解りやすくて共感できるものであった。

原作に忠実なリメイク映画というのも企画されたようだが製作されたのだろうか。
最初からの映像化は一体何時間になるのか、これはこれで端折った感じになりそうで怖いが少なくともリー老人がきちんと描かれた映画というのは観てみたい気がする。


ラベル:小説
posted by フェイユイ at 22:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 北米 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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