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2008年04月04日

そして『DEATH NOTE』に辿りつく・後編

デスノートd.jpg

『DEATH NOTE』は話が薄い、などということを書いた罰があたったのか、昨晩は後編の感想を書こうとしてまとめきれなかった。
今夜とて自信はないが、まあ書いてみよう。
ここに書くのはすべて映画の『DEATH NOTE』についてである。漫画に関しては全く知らないし、今のところ読む気はない。

『DEATH NOTE』の物語には様々な矛盾点があるし、ストーリー自体が好きなわけでもない。思想とそれから産み出た結論も取り立てて驚くようなことでもないだろう。それらの欠陥は物語自体のものであるのにも関わらずこの作品に酷く惹き付けられてしまうのは何故だろう。

まずはライトの思想というものが大概の人間なら一度は考えたことがあることだから。凶悪な犯人をTVニュースで見て「こんな奴は死んでしまえばいい」と考えたことが一度もないという人間は少ないだろう。
そういった殺人衝動を抑圧する為に登場するのがLである。
先日Lが左でライトは右なのか、と書いたがこの二人がつまりは一人なのではないか。特に意味はないが右脳と左脳のようなものであり、またジキル博士とハイド氏を意味している(無論この二人は一人だから)
Lがキラ(ライト)は自分によく似ている、というのも当たり前である。
こうして自分で殺人衝動を感じ、自分でそれを抑えようとする。だが二人は同じ人格なのでL自身もその殺人を止めるために別の殺人を犯すという行動を取っていく。全く違う人格による思想というものがそこには感じられない。
Lとライトがチェスをする場面があるが一人でゲームをしているようなものでぐるぐる同じことを繰り返していくばかりなのではなかろうか。

この物語で最も衝撃的な話はライトが父親を殺害する行動を取る場面だろう。父殺し、というテーマは西洋文学で繰り返し描かれているものであるが、優秀で正義感溢れる父親に対し、ライトが表面上は従順で尊敬を持っているように見えてその実どのような屈折をしていったのかは想像してみるしかない。完璧な正義感を持つ父親に対し同じように優秀であるがゆえにライトの精神はなんらかの歪みを持ってしまったのかもしれない。本来ならこの部分こそもっと深く描かれるべきなのだろうが。
(それにしても物語を創作する上で西洋的なモチーフというものが多く使われるし、自分も思いついてしまう。例えばここでライトがリュークに与えるリンゴは旧約聖書で蛇が人間に知恵の実だと教えたものをイメージしているのだろう(リンゴではないと言う説はあるがイメージとしては定着している)ここではライトではなくリュークが食べているのだが、能力を持ったという意味でライトの傍に出てくるイメージなのだと思われる。
この話と関係ないが日本的なイメージを描くなら悪魔というか悪鬼払いとして桃を投げつけたりしてもよいが漫画でもそういうことをやるのは諸星大二郎さんくらいだ。桃じゃ絵にならないというのか。可愛すぎるのか。どうしても西洋的なイメージの方が「かっこいい」ということなのか)

そして最もほっとする場面はLがライトの父親に対し「あなたは立派な父親です」と言ってまるで彼の息子にでもなったかのような微笑を浮かべるところだ。
息子が父親に対して反抗心を持つと同時に愛情も持っていることを表現しているかのように思える。

映画の中でライトとLの死期が近いのも当然なのだろう。Lは自己の死の覚悟なしにはライトを消せなかった。
ジキル博士とハイド氏の結末も死によるものだったはずだ。
Lとライトが同じような年齢で背格好が似ているのもまた当然のことになる。

上に書いたことはLとライトが役割として一つのものが二つになったということなのであって、二人が同一人物だったと言っているわけではない。当たり前だが。

この物語、娯楽映画としてこのようにミステリー的に描いていったのは成功だったと思うが、藤原竜也が主人公の為か舞台で語りと仕草だけで演じていくのも面白そうである。
無論ライトは絶対藤原竜也しか演じられないと思うが、もしかしたら舞台ならLも藤原竜也が同時に(というのはおかしいが)演じてくれるかもしれない。

Lを演じた松山ケンイチはもう何者にも取り替えられないものになってしまった。
年齢も彼の経験もちょうどぴたりの時期だったのだろう。
細い体も白塗りのせいで華奢な女の子のように見える顔も今の時期を逃したら違ったイメージになってしまう。
独特のしゃべり方も仕草もLという人格そのものになって観る者を魅了する。
だがそれにしたって藤原竜也のライトは素晴らしい。
こうして見返してもこの役はなまじっかでは演じきれるものではない。
この映画が「観れる」映画になったことについて藤原竜也の演技なしには語れないだろう。
一見天使のように見える美しい顔が本当は悪魔の心を持っていたことを藤原竜也は演じきってみせた。

楳図かずおの『神の左手 悪魔の右手』というタイトルを思い出した。漫画を読んだわけではないが。しかし「我が右の手は悪しき者を滅ぼす悪魔の右手」というのはちょっと通じる所があるような。





ラベル:松山ケンイチ
posted by フェイユイ at 22:03| Comment(5) | TrackBack(0) | 松山ケンイチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
>その魅力は竜也・松ケンが殆ど生み出しているものだろう。
上の記事のこれに同意です…
月はアニメだとデフォルメし過ぎて笑っちゃいましたが
藤原君のノートを持ってる時の変貌ぶりは良かったと思います…
別の誰かでリメイクとかもうしない方が…

>桃を投げつけたりしてもよいが漫画でもそういうことをやるのは諸星大二郎さんくらいだ。
そ・それは私のトラウマ漫画のひとつです…
Posted by at 2008年04月05日 16:28
すみません…名前入れてませんでした(汗)
Posted by may at 2008年04月05日 16:30
Lに比べるとどうしても地味なのですがやっぱり藤原竜也は凄いですよ!
といっても勿論Lも松ケンでなくてはいやですけどね(笑)

日本の映画について分析していてもどうしても西洋的なものがイメージとして使われていることが多いですね。
といっても考え方は日本人なわけですけど。
日本的なものがモチーフとして使われてもいいような気もするのですが、どうなのでしょうかねー。

諸星さんがトラウマですか?!
Posted by フェイユイ at 2008年04月05日 17:08
厳密には、恐いもの見たさで妖怪ハンターシリーズを読んでました(笑)
観てはないんですが、沢田研二で映画になりましたね…
(【生命の木】は阿部寛で)
機械と人間がくっつくのとかも本当にあったらどうしよう!?てと
一旦、考えだしたら止まらなくなるんです私…
Posted by may at 2008年04月07日 15:00
くくく。私大好きですよ〜くっつく奴。口と電話がつながったりってやつですね。
パソコンとつながっちゃう人多そうですね。あ、携帯が多いか。

妖怪ハンターも好きだし、中国系のとか諸星漫画が大好きな私です。
Posted by フェイユイ at 2008年04月07日 17:36
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