映画・ドラマ・本などの感想記事は基本的にネタバレです。ご注意を

2008年06月09日

『赤目四十八瀧心中未遂』荒戸源次郎

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舞台やら物語やら設定やらすべてが物凄い好きな世界なので心から楽しんで観てしまった。主人公生島がなにやら時代がかった昭和初期かそれ以前の書生みたいな話し方・考え方なのも非常に嬉しい。本音を言えば今の若者の話し方はどうも入り込むのに大変なのだ。

生島が最初はっきりとした説明はないが人生に絶望し「尼崎」という町に流れ着く。そこは彼が今までに味わったことのないような凄まじい生活を強いられる場所だった。
汚いアパートの一室で来る日も来る日もモツに串を刺し続けるという仕事を与えられた生島の部屋を色々な人々が訪れる。血を含んだ生々しい臓物と彼を取り囲む人々が重なって感じられる。耐えられないほど痛む刺青の彫り物師から背中に迦陵頻伽を彫られた朝鮮系の女性・綾の妖しい美しさ。生島は地獄のようなこの世界に顔は人間で体は鳥だという迦陵頻伽を背負った彼女に惹きつけられてしまう。
映画の中で蝶が飛んでいるのはこの迦陵頻伽と対になっているからだろう。
生島は居場所がないとこの町に来ていつも怯えているのだが絶えず他人から何かを頼まれ続け嫌ということが出来ずにいる。物語はほぼ人からの他の見事を引き受けることだけで進行していっているような感じである。
綾から「この世の外へ連れ出して欲しい」と頼まれた生島は彼女が約束の場所に来ないことを願うが彼女は到着し待っていた生島に喜ぶ。
二人は赤目四十八瀧を彷徨う。そこはまるで極楽のように美しい場所だった。
マイナスイオンがたっぷりでひんやりとした空気と苔が感じられるようだった。そこで生島は死を恐れ、綾はそんな彼の気持ちを知ったのか知らないままだったのか(きっと感じていたのだと思う)すべてをあきらめることを決意する。
最後に抱き合う二人。生島の履いていた下駄が滝つぼに落ちていき、そこには綾が浮かんでいる。
ここで綾は死んでしまったのだ。(でもそうでないことを願いたい)
水面に浮かぶ女性というと気のふれたオフィーリアであり、彼女が恋人ハムレットから「尼寺へ行け」(売春宿へ行け、の意味である)と言われたことと重ねて観てしまう。生島が強引に綾と逃げることもできたろう。生島のあやふやな態度はそのまま綾に「売春宿へ行け」と示しており綾はそれを感じ取ったに違いない。だが綾は生島の苦悩も愛情も感じていたのでそうとは言わなかったのだ。
帰りの電車の中で綾は突然ここで降りると立ち上がる。情けない生島は下駄を履き損ねて綾と離れてしまう。この大事な時に下駄を履こうとした馬鹿な男だよ。裸足で駆け出せばよかったのだ。
彼女を失った生島はコインロッカーに残されているはずの彼女の下着を取り戻しに行く。だがそこにそれはなくあったのは彼が部屋に置いて来た辞書だった。生島はまだ彼女を愛する資格がない。もっと勉強しろ、ということだな。
居場所がない、生きる価値がない、とおたおたとする生島はぶざまであるが、それは無論自分自身の姿なのだ。
生まれも育ちも決して恵まれていたわけではないがさっそうと生きる綾は迦陵頻伽そのままなのだ。

内容は全く違うのだが上村一夫『昭和一代女』を思い出した。きりっとした強い女とおたおたした男の話なのだ。

寺島しのぶの主演映画は初めてだった。変な顔とも見えるし他にないほどの美しさにも思えるし不思議な女性だ。忘れられない魅力を持っている。
主役・生島の大西滝次郎。聞いたことも見たこともなかった。自信もなく希望もなくだが妙に自意識は高い。あやふやで情けない男をこれも魅力的に演じている。
目的である新井浩文。突然ドアを開けて臓物をどさりと置いていく男役。ただし雇い主にはへこへこする奴。刺青をされて呻いている男を笑った為に頭を彫られて叫び声をあげる場面がちょっとステキだった(なんのこっちゃ)作業服が似合う。
後はもう内田裕也氏のわけのわからなさがここではすごくよかったな。
綾のお兄さんが『ゲルマニウムの夜』のあの人だった。ぎゃ。

監督:荒戸源次郎 出演:寺島しのぶ 大西滝次郎 大楠道代 内田裕也 新井浩文 大楽源太 大森南朋
2003年日本



posted by フェイユイ at 00:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 新井浩文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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