



どういう映画なのかをまったく知らずして監督がポン・ジュノであることだけで観ていた。冒頭の幻想的な野原でのダンスからゆったりと始まりどうやら母親とやや知能に問題のある息子の物語なのかと思い始めた途端、物語が危険な予感のするサスペンスミステリーへと進み始める。これは『殺人の追憶』側の物語だったんだとあの恐ろしい闇の中から飛び出してくる影を思い出した。
観ていくだけでひりひりするような痛みを感じてしまう。常に何かおぞましいことが起きるような気がして進んでいくのが怖いのだ。
母親、という言葉を見た時、多くの場合、深い愛情を思う。優しいぬくもりを感じるのと同時に子供に対する愛情が狂気へ走らせる異常さを感じさせる。それは真逆のことのようで同じものなのだろう。狂気に走るほどの愛だからこそどこまでも包み込むように優しいのであり、冷静さを欠かない程度であるなら優しさもまたその程度なのだ。
物語は数えきれない程の糸が絡み合って出来ている。トジュンの知能と時折蘇る記憶。母親の強い波長を持つ精神。
心中というものが愛情なのか身勝手なのかという論議がある。母親は息子が一心同体だと言って心中を試みた。結果生き延び、息子は記憶の底からそれを思い出し母親を憎悪する。
息子の殺人を隠す為母親が犯した殺人現場に置き忘れた彼女を証明してしまう品物を息子が持ち帰り母に渡す。またいつ息子がそのことを思い出して誰かに話してしまうか、それは判らない。
母親は鍼師である。太ももに嫌な記憶を消すツボがあるという。最後、彼女は自ら記憶を消すツボに鍼を刺し、踊り出す。
本当に記憶が無くなったのか、記憶を無くしたふりをしているのか、彼女の体を包む夕陽はやがて沈み、また深い闇が彼女を脅かすのだろうか。
痛みを伴う恐怖と愛情、という物語は韓国映画にはなくてならないものみたいだ。特にポン・ジュノ監督はその表現が際立っている。
作品中にも言われるトジュン役のウォン・ビンの綺麗な目の可愛らしさ、母親役のキム・ヘジャの母親というものの権化のような表情。
そういえばポン・ジュノ監督は『グエムル』の時、主人公家族に母親がいないのは何故なのかを聞かれ「母親がいれば怪物を怖れることがない」というようなことを答えていたように覚えている。父親しかいないから家族があたふたするのだと。母親はグエムルより強いのだ。(この映画に母親を出さなかったので今回出て来たのかもしれない)
殺人という最も恐ろしいものを二つも母親は飲み込んでしまった。飲み込んで腹に収めて忘れてしまおう、と決めてしまった。もし自分が死んだり自首したりしていなくなれば息子が楽に生きていける保証はないのだ。そうするしかない。
同じ話ではないが鬼子母神を思い出す。
真犯人とされてしまった青年には母親がいない。彼を守る人はいないのである。
監督:ポン・ジュノ 出演:キム・ヘジャ ウォン・ビン チン・グ ユン・ジェムン
2009年韓国