
GENGHIS KHAN
昨日、日本映画『蒼き狼 地果て海尽きるまで』(澤井信一郎監督/角川春樹総指揮)を観て「これが英雄・チンギス・ハーンの姿なのか?」とどうしても腑に落ちなかった私なのである。
反町隆史=チンギス・ハーンは英雄というより単なる愚者で男の風上にも置けないような卑怯で優越感のみが際立っている(群集を前に威張っているだけの情けない男にしか見えない)
映画自体にも何の感動もなく物語にも訴えるものがない。男のロマンも愛も感じない。しかも映像としてはやたらに大草原と青空と群集を映すばかりで映画としての美しさ、壮大さなどどこにもない。
一体これのどこが英雄なのか、これが尊敬される男なのか、モンゴルの勇者というのはこういうものなのか、なぜそういうものに憧れ映画にしたのかすら伝わってこない映画作品であり、何の価値もない英雄の姿である。
以前から観ようかと思いつつ、そのままになっていた中国映画の『蒼き狼 チンギス・ハーン』の中に求めている答えがあるかもしれない、とすがってみた。
以下、二つの『蒼き狼』をくどくどと比較していく。うんざりされることうけあいである。
本作は中国映画になっているが、監督はサイフ/マイリース夫婦監督、どちらも内モンゴル出身の映画監督であり、日本では『天上草原』が有名だろうか。私もこれは鑑賞済みであった。
モンゴル出身監督が作り上げたこの作品はさすがにはっと打たれるような凄みがあった。昨日観た奇妙な映画は一体なんだったのだろうか。
サイフ/マイリース『チンギス・ハーン』を観ればこれが映画だと思える壮大さ、重厚さが溢れている。
日本版にまったくなかった爽快感、騎馬というもののかっこよさ、戦いの壮絶さもここでは描かれていた。
なんだか日本をこき下ろして中国版を褒め称えてばかりでは不甲斐ないというものだが、比べてみれば一目瞭然なのだから仕方ない。
日本チンギスはやたらぺちゃくちゃしゃべって男の風格を落としてしまうのだが本作の彼は無口であんなにくどくど話していない。
ナレーションが彼自身の心の内を語るのがここではうまく作用している。
日本版とこの数年前に作られた本作はストーリー自体は驚くほど似ている。多分にこの作品から様々な場面を借用したことが見て取れる。筋が似てるのは歴史だから仕方ないとしても演出そのものが同じというのは
不思議ではないか。
しかもまた奇妙なことに物語の大事な部分、感動的な箇所はすべて抜き取られ、余計な装飾が加えられているのは理不尽としか言いようがない。いっそのこと、全部盗用したほうがいや今流行のリメイクと称して作らせてもらった方がよほどよかったのではないだろうか。
日本版大草原はいつもいい天気でのどかな風景だが、モンゴル版は自然の荘厳さが常にある。
ここでテムジンの母は草原の中でテムジンを産み落とす(この話ははっとした。『射[周鳥]英雄伝』で郭靖の母は草原で彼を産むのだが、あれはテムジンの話をなぞったものだったのだと初めて知ったのだ)
族長だった父が死に仲間がテムジンの家族を見捨てて逃げた後、彼らは過酷な冬を過ごす。食べ物がなく兄弟は飢え、同じく飢えているはずの母親はすでに大きい子供達にその母乳を与えるのだ。乳が満足に出るわけもないのに。また母親は飢えた子に食わせる為、ゲルの周りをうろつく狼を殺しに行く。小さなナイフだけで。
日本版に出てくる女達はただの飾りにしか過ぎず一人兵士だと言い張って何もしないのもいたが、本作での女たちは女として戦い生きている。
本当の英雄はテムジンの母親のことではないのか、と思える。テムジンもまた母親を尊敬し続ける。
こうやって書いていくと本当にそうだったかはわからない、という言い方もあるだろう。
だが、問題にしているのは映画が事実だったかどうかではなく、そこで何が語られ、表現されているかなのである。
日本版のかっこつけただけの英雄と何もしない女達を見た後、本作の男と女を観ているとその違いが天と地ほども違うのに叩きのめされる。
テムジンの描き方の違いも顕著である。
日本版ではテムジンが弟を殺す原因がよそ者の子だと言われたという自尊心からきていて、それだけで弟を殺した反町テムジンの非常さにあきれたが、本作では飢えた状況で一人だけ盗み食いをする弟を許さず殺すことになる。それを知った母はテムジンの心の狭さを嘆く。テムジンは人の命の尊さを教えられ、仲間を怒りで殺す事はしまいと誓うのだ。
日本版ではチンギス・ハーンとはなんと無情の者かと思い、なぜこんな男に人が従うか理解できない。モンゴル版でこそ母に教えられ成長していくテムジンに共感できる。
また何と言っても日本版のテムジンへの嫌悪は血のつながらないジュチへの冷たさである。口だけでは息子への愛を語るが実際は酷い仕打ちをするだけだ。失った後で涙を流す姿はしらじらしく腹立たしい。
モンゴル版では自分の誕生がタタールの族長の手でなされたことを知ったテムジンが世の中のめぐり合わせ、命の尊さを感じ、敵の子を身ごもった妻を受け入れ、その子供を息子とする心の広さを持つことを学ぶ。
こっちのテムジンの子だったら松ケンも幸せだったのに、残念である。
「ジュチ」の意味も日本版では「よそ者」こちらは「客人」だ。微妙に意味合いが違うのがおかしい。
映像の違いもはなはだしい。
映画の美しさ、自然の苛烈さを本作で味わって欲しい。
角川版は人数の多さを誇示したいのか、やたらと遠景で撮っていたために絵でも眺めているかのような空々しさがあるがこちらではカメラがぐっと中に入ってくる力強さがある。
日本映画というのはこんなに弱々しい情けないものかと思ってしまうが、サイフ/マイリースの映画にはどこか日本映画で観た雰囲気もある。『天上草原』でのインタビューで彼らは「黒澤明から随分学びました」と言っていた。なるほど、この映画の力強さ、爽快さ、重厚感は黒澤からきたものでもあるのかもしれない。
そう思うと複雑である。
黒澤のそれは日本版にはなかった。
いつも晴れ渡った日本版の草原と違い、本作では凍てついた大地、雪と氷の草原もある。
戦闘場面が夜の闇の下、松明の炎の中で起きる。激しく燃え盛る中での激しい戦いは壮絶である。
馬の撮り方も素晴らしい。スピード感が全く違う。ぐっとせまって動きを追っていくために生まれる迫力がある。
光線と影の使い方も絶妙で重厚さがある。草原の中に視線を落としている為、風が草をなびかせる美しい場面もある。
テムジンの若き花嫁が全裸で草の中を歩く場面もある。
これを観て映画というものがいかに美しく力強いかが伝わってきた。草原の勇者の勇猛さも女たちの勇敢さも。
日本版のあれはあえていうなら女の腐ったような奴である。
せっかくのいい作品を日本映画『蒼き狼 地果て海尽きるまで』(澤井信一郎監督/角川春樹総指揮)との比較に使ってしまい、申し訳ない気持ちだが、まさかここまで見比べて真似をしたように思える箇所もある上に、いい部分は真似されていないことをむしろ残念に思える。
救いは鑑賞した多くの人が当然いい評価はしていないことである。
まさかあれがチンギス・ハーンの姿だと信じる人もいないだろうし。
反町チンギスが群集の前でこれ見よがしに大見得を切る場面は最も醜い場面だが(アレを見ると変なインチキ宗教家かヒットラーでも思い出さずにはいられない)本作では簡単に「テムジンは後にチンギス・ハーンと呼ばれるようになった」とナレーションが入るのみである。
美しく優しい妻の悲しい運命を受け入れたテムジンが家族と共に馬で草原を駆けるシーン、なおも征服を続けたテムジンがやっと幸せに暮らせるようになった母親のもとで戦いの疲れを癒し、孤児達を母に託すというラストこそ英雄の話にふさわしい締めくくりなのではなかろうか。
監督:サイフ/マイリース 出演:テューメン アイリア バヤェルツ ベイスン キナリツ
1998年中国
映画の冒頭で「男は別の種族の女を略奪し子供を産ませた。遠い土地の女との間に生まれる子ほど優秀な子供ができるからだ」てな説明が入る。
これは私の中国人老師もおっしゃっていて「だから中国人と日本人の間に子供が出来たら優秀な子になるのよ」と言われたのだった。
これは中国&モンゴルでは通説なのであろうか。
優しかった老師を思い出してしまったよー。ぐすん。