映画・ドラマ・本などの感想記事は基本的にネタバレです。ご注意を

2010年05月04日

『四川のうた』賈樟柯(ジャ・ジャンクー)

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二十四城記

ずっと観なきゃと思いつつ最近の嗜好と異なる題材であったので後回しになっていた。
今回珍しく観る前に若干予備知識を仕入れたところ、本作は元々ジャ・ジャンクー監督がドキュメンタリーを撮るつもりで取り壊される工場で働いていた人々とそれに関係する人々のインタビュー撮影をしていたのだが途中でそれらをまとめ実際の人たちと俳優の演技による映像を織り交ぜたほうがよりリアルで面白い作品になるのではという発想で作られたものであるらしい。
監督によれば出演した俳優陣は中国では有名な人ばかりで誰もがこの部分は演技だと判る、のであるらしい。中国には『三国志』と『三国志演義』があるが人は『演義』つまり面白く脚色したものに惹かれるのだと言う。
なるほど、そうかもしれない。ただし「有名な俳優ですぐ演技と判る」という部分と本物の人、の区別が私にはできなかったのが残念だった。皆俳優のようにも素人のようにも思える。
「工場のマドンナ」であったと言う女性と最後の若い女性はさすがにちょっと違う美しさであったが。
工場で働く人のドキュメンタリーだが女性が目立つほどなのはやはり共産主義であったせいだろうか。典型的な3人家族、という言葉もまた中国らしい。

そして映像の独特の美しさにも惹かれる。
美しい、と言っても一般的に言う綺麗さとは違う質のものだ。長い年を経て老廃化した工場の佇まい、殺風景な中国の建物などがジャ監督にかかると奇妙にも美しく見えてきてしまうものなのか。もともと自分が工場萌え的な要素があるせいなのか。古びた機械とそこで働く人たちの姿に見入ってしまうのである。
それは監督のどの作品でも感じられる殺風景な美かもしれない。
またどの映画にもあるジャ監督特有の微笑ましい遊び。今までもTVで『男たちの挽歌』があってたりレスリー・チャンの歌が流れてたり突然遠景にUFOが飛んでたり少女の部屋にジェイ・チョウのポスターが貼ってあったり、と時代を反映しながらちょっと笑わせてくれる遊びがあったのだが本作では工員が昔語りで「山口百恵の『赤い疑惑』」を持ちだし何故か百恵ちゃん本人ではなく中国の歌手らしい歌声が流れ(歌詞があちこちおかしな発音になるのですぐ判る)恋人の髪型が百恵ちゃんと同じだったと言うのである。
また最後の若い女性が恋人と住んだマンションの名前が花様年華、というのが愉快。本当にあるのかな。

こうしてあちこち結構楽しみながら、中国の移り変わりを感じさせる工場で働いてきた男女の話に聞き入る。
ソ連のミグを修理してきただとか工場と言っても軍部のようなもので遠い故郷から工場へ向かう航路の途中で子供を見失っても探すこともできなかったとか昔は残業ばかりで真面目に働き続けたのに世の中の変化で工場が廃れリストラされた工員たちの嘆きだとか、から若い人たちの意識の変化まで様々であった。

ジャ・ジャンクー監督の、次は清朝末期の物語や時代物も手掛けてみたい、という発言にも期待してしまう。
ちょいと変わった仕掛けがまた観れるかもしれない。

監督:賈樟柯(ジャ・ジャンクー) 出演:ジョアン・チェン チャオ タオ チェン・ジェンビン リュイ・リーピン
2008年中国
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2010年04月30日

『戦場のレクイエム』馮小剛 (フォン・シャオガン)

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集結合

久しぶりのフォン・シャオガン監督作品。先の『女帝』を別にすればコメディの大御所というお方である。ところが本作はのっけから重厚な戦闘場面が続きしかもその容赦ない過激な描写は今流行りというべきなのか「徹底したリアル」と評されるようなもので自分的にはそういう「リアル」というのはさほど感激はしないのである。猛烈なスピードで展開される残虐な戦闘場面体が裂け肉片が飛び尚且つ突き進んで血飛沫があがる、という『プライベートライアン』的戦闘場面が最上と評価をしたくない者である。本作の前半はまさにそういう「リアル」(と言われてもそれがリアルなのか私には判らない)な描写であり且つやや過剰な感動場面があちこちに配されている。つまり部下思いの勇敢な上官である主人公谷子地(グー・ズーティ)と彼を慕う兵士たちの姿の描き方が中国的或いはアジア的というのだろうか日本人にも通じるものなのだがややべたべたと感じられてしまう。
ところがこの前半を過ぎた後から物語の調子は変わっていく。
准海戦役の熾烈な戦闘で連隊の部下全員を戦死させてしまったグーはただ一人生き残りだが自分も目に傷を負い僅かしか視力が残っていない。ところが彼の連隊は遺体が確認されない為に兵士たちは皆失踪扱いとなる不名誉しか与えられなかった。軍にも運命にも失望した彼は周囲から冷たい目で見られながらも部下である戦友たちの遺体を見つけようと山を掘り返し続けるのだった。
なんとこれも昨日の『ミッシング』と同じ、愛する人を探す話であったのだ。
彼がどんな思いで彼らを愛していたのかを示す為に前半の激しい戦いと主従の深い親愛を描く必要があった。それは省いてもよかったかもしれないがだがもしなければ同じ気持ちで観れたかどうかは判らない。
前半やや醒めた目で観ていたのだが、後半になってからのグー隊長はもう冷ややかには観ていられなかった。
戦闘であれほど勇敢で男らしく見えていた彼が戦争が終わればただ頭のおかしい老兵としか見てもらえない。
グーが見えない目で死体を捜す為に山を掘り返し続けるのを周囲は憐れみの目で見るだけだ(とはいえそれは優しいと思ったが)
グーの遺体探しは無謀だったが、彼に恩義を感じて接してくれるアルドゥや元ラッパ吹きの兵士たちの奔走で彼の連隊は国の為に勇敢に戦死した烈士として勲章を受けることになった。
他から見ればそれは些細なことにしか思えなくてもグーにとってはどんなにか大切なことだったろう。
最後はここ最近ないほど涙が溢れて困ってしまった。
グーの同期であるリウに怒りを爆発させた後、やはり友のことを思う姿に胸がつまってしまう。

最後にグー・ズーティが両親を赤ん坊の時に失い拾われて育てられ名前を与えてもらったことが記される。
過酷な運命にありながらどこか他の人に助けられる支えもある。赤ん坊の時は別としても彼の人格がそうさせた、と思わせてしまうのは彼を演じた張涵予の眼差しのせいかもしれない。

追記:主人公に「最後まで戦え」の指令を下す戦友を胡軍(フー・ジュン)が演じている。中国メジャー映画監督シャオガンの配役として今迄にない地味な無名俳優が使われている本作で一番外国でも有名な役者で、やはり知ってる顔を見るとなんだか入りやすい。もっと観ていたかったけどね。

監督:馮小剛  出演:張涵予 ケ超  袁文康
2007年中国
ラベル:戦争 歴史
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2009年12月11日

『花の生涯〜梅蘭芳〜』陳凱歌

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梅蘭芳

この映画がこういう映画き方になってしまったのは「実話である」という枷の為なんだろうか。
かつて『覇王別姫』でレスリー・チャンが狂おしいほどの情熱を持って兄と呼ぶ京劇の相手役に恋したことを鮮やかに描いたものがここでは隠されてしまっている。
それは映画の冒頭で邱如白が奇しくも「京劇は厚塗りで表情を隠してしまっている」と言ったことそのものなのだろうか。
タイトルロールである梅蘭芳の表情から彼が何を思うのかをつかみ取るのは難しい。

本作はどうしても『覇王別姫』と比較して観てしまうが大きく違うのは女形である主人公が恋する相手が『覇王別姫』では男役の男性だったのに本作では男役の女性であることと、『覇王別姫』では蝶衣の恋心が作品の核になっていたのに本作は梅蘭芳に恋するマネージャーの邱如白の思いが中心となっていることだろう。
彼は代々官吏であった名家の子息で海外留学をし、すでに役所勤めをしていながらすべてを投げ捨て梅蘭芳と京劇に人生を賭けた男である。本作で観る分には結婚も恋人もなく彼の為だけに生きている。果たしてそれだけの為に人生を賭けてしまう男性がいるものなのか。彼が梅蘭芳に常に寄り添いながらその恋心はまったく性的なものではなかったのか。『覇王別姫』では描けたものが年を経た本作では隠されてしまっているのは「実話」という枷なのか。

この物語で切ないのは梅蘭芳と孟小冬の恋ではなく邱如白の思いだった。
彼は京劇に対し酷い偏見があったのだが梅蘭芳を観てまさに魂を奪われてしまう。
この映画を観た多くの人が『覇王別姫』と比較して何らかの落胆を感じてしまうのではないかと思うのだが、それは物語のダイナミックさが平板になり激しく感じられたエネルギーが静かに落ち着いてしまったこともあるだろうが、あれにはくっきりと描かれていた同性愛の感情がここではまるでないことのように濁されてしまっているからではないだろうか。

レオン・ライの表情は激しく変わることがなく、最も愛した孟小冬との別れもかつて蝶衣が落ち込んだほどの惨めさがない。それはレオンがいけないのではなくそういう風にしか演じられなかったのである。彼が最小限の演技で心の動きを感じさせているのは伝わってくる。
それよりも邱如白を演じた孫紅雷はもう少し梅蘭芳への気持ちを深く語っているように思える。
だがそれでも二人の互いへの感情が明確に表現されることはなく観る者が察するしかないのである。彼ら二人の心情をもっと描き出していたらもう少しこの作品のテーマがはっきり判ったのではないかと思うのだが。

残念ながらレオン・ライの演じた梅蘭芳には感情移入できるほどのイメージが持てなかったのだが、孫紅雷は今までの悪役とは一味違う人間像で常に梅蘭芳だけを思い続ける姿には惹きつけられるものがあった。彼の容貌もまた魅力的であったのに、もう少し彼らが触れ合う瞬間のような場面があれば、と悔やまれてしまう。

見どころの一つであった安藤政信の将校役。彼の美貌にはまったく見惚れてしまうのだが、惜しいのは今の俳優に多い活舌の悪さ。現代劇だとさほど気にならないのだが時代ものだと露見してしまうのだ。
それにしてもチェン監督は日本軍の描き方が甘すぎるのではないだろうか。

監督:陳凱歌 出演:レオン・ライ チャン・ツィイー 孫紅蕾 安藤政信
2008年中国
ラベル:歴史
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2009年08月10日

『レッドクリフ Part II -未来への最終決戦-』ジョン・ウー

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前篇より面白くない、という評判だったようなのだが、そうだねえ、もうこれは誰でも知っている物語なわけで、そうれをどう映像化されてて観る者はそれをどう楽しむかってことなんだろうけど。私的にはかなり愉快に観ておりました。

そうなのだ。この映画っていくつものエピソードを数珠つなぎにしていってるような感じなのだね。つまり10万本の矢を3日で集める話、水軍の参謀二人をどうやって暗殺するかと言う話。東南の風を待つ為にどうするかと言う話。
一番気になったのは本筋とはちょっと外れた女スパイ尚香と蹴球(中国語では足球だけど)の名選手・孫叔材の不思議な友情物語。
尚香が怪しいスパイ活動(伝書鳩を飛ばす)をしてるのに全く気付かず一目見て尚香が気に入って仲良くなろうとするのんびりした兄ちゃんが叔材なんだけど一体何故そこまで気に入ったんだか理解し難いほど尚香をとことん可愛がるのだ。長らく中国映画を観ていてもここまでするか、と思うような情熱があるものなのだが、彼の感情というのは普通に考えればやっぱ恋心なのかなあ、としか思えない。彼の心情を表わす台詞なんかはまったくないので想像するしかないのだが、戦場で物凄く可愛い顔の男の子に出会ったのでどっと好きになってしまったんだろうな。なんかそれはもう同性愛とかいうんでもなく単に恋心みたいなもんだとしか言えないんだけど。曹操軍の人間は一応悪役なので皆そういう負のイメージで描かれているわけだがそれら全部をひっくり返してしまうほど叔材があまりにお馬鹿でお人よしすぎて一番の悲劇のキャラクターになってしまってる。多分ずっと彼のことだけを覚えていそうな気がする。勿論ジョン・ウーの創造した人間なのだろうが。
普通なら「あんまり可愛いから女の子じゃないのか」だとか最後に尚香が女性だと知って死ぬだとかはあるけど。彼の場合は純粋に同性として好きになって男だと信じたまま友達として死んでしまうのだからなんていい奴でしかも馬鹿で可哀そうなんだろうかと涙してしまうじゃないか。
兵卒がそれなら大将も同様でこちらは美女に完全にしてやられてしまうのだ。東南の風を待つ為に美女が自分の色香を利用するとは、傾国の美女というがこういうものなのだろうかと納得したりする。リン・チーリンのヴィッキーとはまったく異なるしっとりとした美貌でもってあのしなかやかな手つきでお茶を淹れてもらえるなら男たるもの多少時間を遅らせてしまうのはむべなるかな。
それにしても髪がほどけてしまうのをあれほどに嫌がるのはあれって恥なのか。

そして主人公の周瑜よりはるかに目立ってしまった感があるのが孔明の金城武。なんだかいつもそよ風が吹いているような爽やかさでさすが天才の誉れ高い軍師の貫禄に思えてしまうから不思議だ。いつも若干おバカっぽいというイメージであるみたいだが、ここではもう孔明の霊が入ってしまったかの如き(誉めすぎ?)神々しさが見えてくる。彼のせいでトニー・レオンの周瑜の聡明さが霞んでしまったようで、まあ二人の優れた軍師の競い合いでもあり、彼らも頭脳を媒介にしてただならぬ関係のようにも見えるのだからいいだろう。
失火氏『三国志』といえば普通劉備たちの物語なのに特に後半の彼らの影の薄いこと。味方も欺く作戦だったからしょうがないものの大の男が固まって団子作りをしていた図は爆笑ものだったなあ。胡軍までお団子作ってるのだもの。可哀そうだった、っぷぷぷ。
冬至には家族で団子を食べるのが習慣といって戦いの前に皆で食べたり何故か周瑜に1個ずつあげたり(あれは年長者にあげるのだとかいう習慣があるのかしら)あげてるのになかなか小さなお椀が一杯にならないのが不思議だったり、皆からもらった団子を一気飲みする周瑜にびっくりしたり、だった。なんだか小さなお団子が物凄く美味しそうに見えたんだよねー。甘い汁に入ってるのかな?

なーんて言うような感じでたくさんのエピソードを色々感心したり不思議がったりして楽しく鑑賞したのだった。
あ、孔明と魯粛の10万本の矢のやりとりもおかしかった。物凄く心配している魯粛さん、優しい。でも孔明が無口過ぎてかかしを相手にしだすなんていうのも面白かった。

あ、日本のパロディおたく系マンガでこういう『三国志』のパロディみたいのあるじゃないですか。それを映画でやってるような気もするのだが。もっとパロった『三国志』なんて観てみたいよね。勿論やおい系で。

監督:呉宇森(ジョン・ウー) 出演:トニー・レオン、金城武、チャン・チェン、リン・チーリン、ヴィッキー・チャオ(ジャオ・ウェイと呼んでましたがねー)、チャン・フォンイー、胡軍、中村獅童
2009年中国・香港

ラベル:歴史 戦争
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2009年07月08日

劉[火華](リウ・イエ)フランス女性と結婚

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おお。『藍宇』で私たちを魅了してくれたリウ・イエが先日フランス人女性と結婚されていたのですねー!!
いやめでたい。→ここ
ラベル:結婚
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2009年05月20日

男同士の激しい濡れ場あり!!【第62回カンヌ国際映画祭】

男同士の激しい濡れ場あり!!【第62回カンヌ国際映画祭】

今になってやっと気づいたロウ・イエ監督『スプリング・フィーバー』
観たいなあ!!
ロウ・イエ監督といえば私は周迅主演『ふたりの人魚』ですがこれはもう特別に好きな映画です。
あんな雰囲気があるのでしょうか。うーん、早く観たい!!!
ラベル:同性愛
posted by フェイユイ at 08:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 中国 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年04月11日

『レッドクリフ Part I』ジョン・ウー

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赤壁

いやあ文句なしに楽しめる映画だった。手に汗握る、画面を食いつくようにして観続けた2時間余り、あっという間に過ぎてしまった。

とにかくだらだらした部分がなくて知ってて当たり前的な展開が心地よいし主要登場人物が見知らぬ髭面おっさんじゃなくて知ってる顔ばかりなのも嬉しい限り。何と言っても主人公が劉備ではなく孫権の参謀・周瑜と劉備の参謀・孔明なのがいいねえ。っていうかあの江森備『三国志』を読んだ方ならこの二人が主役というのを聞いた時はよからぬ想像をしてしまったに違いないと思うのだがどうだろう。私なんか二人が眼差しを交わすたびに「あらま、ほんとにそういう気持ちがあるのかしらん」と熱い思いがこみ上げてきてどきどきしたのだった(そういう気持ちで食いついていたのね)
しかも金城武はいつもハンサムであるのだが、この作品ではその美しさにさらに磨きがかかているようでしかも他と違う一人だけ真っ白な衣装を身にまとって綺麗だったらありゃしないのだ。
常に冷静で微笑を絶やさない美顔は、彼よりは硬派な美丈夫である周瑜と素晴らしい一対ではないか。指揮棒を置いて戦いの中に身を躍らせ、敵を倒したのは自分が頭だけではなく勇気と武力も併せ持つと孔明に見せたかったのではと思ってしまった。
この作品を観ても二人の軍師に深い友情というのか敬愛の念で結びついていたので自分としてはこれ以上ないほど嬉しくむずむずする感覚を抑えられないのだった(こういうことばかり言ってていいのか)

冒頭からして胡軍演じる趙雲の大活躍ですっかりはまり込んでしまった。私にとって胡軍はそりゃ『藍宇』はいいに決まってるけど何と言っても『天龍八部』の喬峯なのでこういう武将はまさにぴたりである。
劉備・関羽・張飛の三義兄弟は本作ではちょいと脇に追いやられているがさすがに闘将のイメージは崩さない。特に声がでかくて人間離れした強さの張飛が素敵である。
悪将の曹操には張豊毅。『覇王別姫』で蝶衣(レスリー)の思い人になるあの方だが、劉備&孫権側には美形をたくさん揃えておいて魏軍のほうは不細工(失礼)ばかりで構成するというわかりやすさである。
孫権なんてチャン・チェンなんだもん。父と兄の武功に自虐的になる若い王で可愛らしい。その妹に趙薇。気の強いはねっかえりというのが合っている。
この映画の大きな話題の一つがトニー・レオン=周瑜の妻・小喬を演じたリン・チーリンでさすがに素晴らしい美貌だ。但しかなりの長身(175センチくらい?)なので小柄なトニー・レオンと並んでいるのにトニーの方が背が高くなるというのはなあ。やっぱり男性のほうが低いと駄目なのか?(そして今ジェイが苦しんでいる^^;)金城武と並ぶ時も時々同じ背になっている。足元がどうなっているのかばかり気にする私がいけないのか。小喬とのベッドシーンも彼女の足のほうが長く見えてしまわぬよう随分気をつけてトニーを下にしてチーリンを少しずらして足を曲げさせているし^^;
いや、そんな下らぬ詮索などどうでもいい(じゃ言うなよ)なんといってもこの映画は周瑜のものなのだ。ということは劉備側でもないことになるのだよね。
トニーといえば『楽園の瑕』の弱視の剣士がめちゃかっこよかったわけでここでも頭脳だけでない男っぷりを見せ付けてくれる。
多くは周瑜と妻小喬のアツアツぶりを楽しんでいただければよいが、私たち(って何)はやはり周瑜と孔明よねー(きゃっ)

というわけで興奮のうちにPartTはあっという間に終わり心はすでにPartUへ。あー、また待たなきゃ。

監督:ジョン・ウー 出演:トニー・レオン 金城武 チャン・フォンイー チャン・チェン ヴィッキー・チャオ フー・ジュン 中村獅童 リン・チーリン
中国/香港/台湾/日本2008年
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2009年02月25日

『華の愛 遊園驚夢』楊凡ヨン・ファン

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遊園驚夢 Peony Pavilion

宮沢りえがこの映画に出演したこととビアンな作品であるということは聞いていたが、こんなにいい作品だったとは。もっと早く観ればよかったっ。

退廃的上流社会のビアンな映画ということで、つい先日観た溝口健二『お遊さま』と並べてしまうが、金持ち具合はさすがにあちらのほうは豪華絢爛というしかない。
阿片の煙漂う豪奢な退廃美、という堪えられない設定である。宮沢りえは日本人ということはまったく関係ない役柄で台詞は吹き替えによるものなのでほぼその美貌を見せるための存在なのだが、元歌姫であり没落していく名家の第五夫人となった美女を演じている。
忘れようもないが超人気アイドルだった彼女が同じく超人気だった貴乃花と結婚するのかという大騒ぎになった後結婚が破棄になり、なんだかよく判らないが突然バッシングの嵐のようになってしまった。親がどうだとか将来太ってしまうに違いない、だとか今思うとなんだかよく判らないバッシングだった。
傷心のせいかふっくらしていた彼女が骨ばかりのように痩せてしまい、そのまま日本の芸能界からいなくなってしまった。
暫くしてこの映画に出てモスクワ国際映画祭で最優秀主演女優賞を受賞したという話で驚いてしまったものだ。
さらにその後日本映画界で大活躍することになるが、この映画を観ればさもありなん、という雰囲気に溢れている。
はじけるような元気に満ちていた彼女がここではもうしっとりとした悲しみを湛える女性に変化している。
人気絶頂だった歌姫が飾りにしか過ぎない第五夫人になり阿片漬けの夫からは見向きもされず(一人娘をもうけるが)若い第二執事に心寄せられ、若い芸人との密会が原因だったのかよく判らないが離縁され家を追い出されてしまう。
なんだか彼女自身の過去と結びつくような内容だがそれが為か宮沢りえの眼差しにすべてに疲れきってしまったような悲しみとあきらめのようなものが感じられる。台詞が吹き替えのため、彼女の表情や体からも漂ってくる寂しさがある。
無論これは彼女のわけありを知っているから考えてしまうこともあるだろうが、モスクワで主演女優賞を取ったのは伊達ではないだろう。

こうした旧中国社会から新しい社会へと移り変わるこの時代の雰囲気が好きなものには堪らない映画でもある。『お遊さま』と並べて観るのも楽しいことだろう。
作品としてはどちらも捨てがたい。ビアン的な見地からもどちらにもなかなか見せるものがあるので(同時にどちらにも悲しい部分があるので)甲乙つけがたい。
りえさん自身背は高いほうだがジョイ・ウォンはさらに高いので驚く。ジョイ・ウォンといえばそりゃ勿論『チャイニーズ・ゴースト・ストーリー』であるがあの時の彼女はほんとに愛らしいお嬢さんだったのだがここではすらりとした男前になっている。
彼女の側にいると宮沢りえは凄く華奢で淑やかで支えていないと折れそうな、という手弱女で可愛いったらない。
そういえば最近彼女の結婚の噂は中国でも騒がれていたようだが、やはりこの作品の影響なのだろうか。

なんだか噂話のほうが幅を利かせる感想文になってしまったが、この映画は筋書きだとか謎解きだとかいうようなカテゴリでないからかもしれない。
この映画はやっぱり観て感じるものである。この廃れゆく美しさの中に身をゆだねるべきものだろう。
りえを愛するジョイがこともあろうに浮気心を起こしてしまう美丈夫に呉彦祖(ヨン・ファン監督『美少年の恋』の)が扮し、美しく引き締まった肉体を惜しげもなく披露している。整った顔立ちに盛り上がる筋肉美に見惚れてしまうこと間違いなし。
そして彼の体に一時溺れたジョイがりえの元に戻ってほっとしたのだが、最後に彼女にもたれたりえはすでにこの世の人ではないのか。
美に酔いしれる作品である。

監督:楊凡ヨン・ファン 出演:宮沢りえ ジョイ・ウォン 呉彦祖
2000年中国
ラベル:同性愛
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2009年02月15日

『靖国 YASUKUNI』李纓

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ようやく観ることができた。このドキュメンタリー映画の感想を書くのは内容によってはかなり大変なことなのかな、とも思ってしまう。
なにしろ、他の方の感想批評文を読むとこの作品に立腹している人が多くて思った以上の罵倒で溢れていたので小心者としては冒頭に逃げを打ちたくなってしまったのだ。

などと言うことを書いたのは自分はとても面白いと思って観てしまったわけで、それすら日本人としては許されない感想なのか、と思ってしまう。
とにかく私は靖国神社という遠い場所へ行ったことがないし、多分一生行く事はないだろう。行きたくないとかいうのではなく、今まで考えたことすらなかったからだが、この映画を観てたらどんな雰囲気なのか一度行ってみたい、とさえ感じたのであるが。
そういえば以前中国俳優の姜文が靖国神社に行ったことで中国人から大顰蹙を買ったという報道をみたが、ちょっと行ってみたくはなると思う。無論中国人である姜文さんとは意味が違うだろうが怖いものみたさみたいな感じである。
多分この辺でも私の軽薄さに激怒されている方がいそうである。
他の方の感想では「日本人なら・・・」というフレーズで括られている文が多いのだが自分は徹底的に日本人だがこの作品に激怒だとか不快だとかはまったくなくて難しい題材なのによく頑張ってここまで作られたものだと感心してしまう。
妙に生真面目で厳かな空気が満ちていて不思議な場所である。その中で軍服姿で行進する人もいれば、昔話をする年配のご婦人方が座るベンチに「サッポロビール」と書かれているのが変におかしかったり、先祖を連れ帰りたいと激昂する台湾の女性、国歌斉唱する人々の前で反対を叫ぶ日本人青年、アメリカ国旗を掲げるアメリカ人、そしてたくさんの静かに歩く日本人達。
どこか気分が高揚していて何かあると喧嘩が起こり大騒ぎとなる。そしてそれを抑え止める人々。
どの人にも様々な歴史があり思いがあるのだから、これが真実だ、これが正解だ、という単純なものがあるはずもなく。
刀鍛冶の老人が中国人である監督に問いかけるが答えられるわけもなく老人もうまく答えられない。二人の会話が国の違いと年齢の違いとで(老人の話し方も危ういので)うまく噛みあわないことが答えのようにも思える。
この日本刀を問題のシンボルのようにして批判していることに不快を覚える人もいるようだが、作品を形作る技巧としてうまく効いていると思えた。日本人の精神を表すものとして使われることも度々あるわけでやはり使い道を間違えば、というか武器なので鞘から抜けば危険なのである。注目されてしまう鍛冶職人のご老人には気の毒だが刀作りの工程も興味深く、やや淡々とした作品に緊張感を持たせてくれる場面であった。

映画の内容についての感想をまだ書いてないようだ。
「戦争は人を狂わせる」と思う。
この作品を観ていてもやはり戦争のせいで人間はおかしくなってしまうのだ、と判る。こんなに年月を経てもその影響は消えはしないし、その年月の間にまた生まれる苦しみもある。
普段は温厚でも戦争という苦しみが人を変えてしまう。
その強烈さを逆に利用する人もまたいる。
そしてまた、自分が悪だとは思いたくない。この映像作品一つでもなかなか受け入れることが難しくなってしまう。現実にそうだとしても何か難癖をつけ、言い訳を探してしまうのだ。
賛同する人にも反感を持つだろう。
だがそれも仕方ない、とも思う。歴史の中で刻まれた深く鋭い傷跡は長い長い年月をかけなければ癒されることはないのだろうから。
そんな中でもこういう作品が製作され迫害を受けそうになりながらも観ることができたのは意義あることではないだろうか。

ところでこの映画を観て初めて「ラッパのマークの正露丸」の意味とあの音楽が食事の合図だということを知った。(食事=腹痛っていうのが凄い)あー、本当に何も知らない自分である。

監督:李纓
2007年 中国/日本
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2008年10月05日

『トゥヤーの結婚』王全安

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図雅的婚事

昨日観た『ぜんぶ、フィデルのせい』と続けて観なければ絶対思わない比較だろうが全然違う話なのに昨日と今日の作品は非常に似通った主張が込められているみたいである。

『フィデル』の主人公アンナがまだ9歳の少女であり本作の主人公トゥヤーはすでに2人の子持ち30歳くらいかという大人の女性だが常にぷんぷんと自己主張していく様はそっくりである。
そして二人が最も大切にしているのは家族のつながりであり自分の強い意志を持つことであり、自由を奪われないことである。
だがフランスの裕福な家庭の白人の娘であるアンナとは違いトゥヤーは動けなくなった夫と2人の子供を養う為に殆ど砂漠のようなモンゴル草原で休むことなく羊を飼い水を汲み続けなければならない。彼女の体は限界に来ており、義姉は弟と離婚して再婚することを勧めるのだった。

トゥヤーはまだ若く夫は年をとっているのだが、彼女は働けなくなった夫を愛していて離婚する気はない。だがこのままでは家族が生きていけない。ここで彼女が取った解決策は「寝たきりの夫とは離婚するが彼ごと家族を養ってくれる男性でなければ結婚しない」というものだった。
こういう考え方がモンゴルでは在り得ることなのか、と驚くのだが、多くの求婚者が(離婚したトゥヤーを求めて次々と求婚者が現れる。すごい)さすがにこの条件でしり込みするのと最後息子が「二人の父親がいる」と笑われて喧嘩しているのを見てもこういう選択が当たり前というわけではないのがわかる。
そしてトゥヤーの前に金持ちの男が登場する。彼はトゥヤーの元夫バータルを施設に入れ、子供たちも寄宿制の学校に入れてこの草原から離れようとする。しかし迷った末トゥヤーはやはりバータルとも子供とも別れず、住み慣れた草原に戻ることにしたのだった。
新しい道を模索しながらも古い生活に固執するのもアンナと似ているのだがアンナが結局は新しい世界へと向かっていくようにトゥヤーもいつかは草原を後にする日がくるのかもしれない。
古いものか新しいものかどちらかを選べと迫られトゥヤーはそのどちらも大事だと思い、その二つを両立させようと必死で頑張ってきた。その間涙を流すこともなく。
その姿は古いモンゴルが新しい国へと変化する様子と重なるのかもしれない。トゥヤーの思いを男たちはまったく考えず争ってばかりいる。
辛抱強く耐えてきたトゥヤーもついに涙を流してしまう。
トゥヤーの努力で望みはかなったがこれからの将来もまた苦悩は続いていくのだろう。

最後、トゥヤーがプロポーズを受けた結婚相手でなくセンゲーと結婚式を挙げていたので驚いた。
ほんとに自分の意志を貫く人である。だがどうもこれからも大変そうな予感がするのは否めない。(まったく男ってガキだよね)

過酷な生活を強いられるモンゴルの草原(といっても殆ど砂漠)だが自然の壮大な美しさには目を引かれる。
トゥヤーの求婚者たちが馬やバイク、そして高級車で現れてくるのも面白い。センゲーが乗ってくる三輪車やトラック、井戸掘り工作機なんかが砂漠に現れるのも楽しい光景である。
 
トゥヤーは物凄い着膨れでいつも頭にはスカーフをすっぽりかぶっているので殆ど顔だけしか表面がわからないがすらりとした綺麗な女性であるしなんといってもその勝気な精神が心地よい。
吹雪になりそうな冬の草原で行方不明になった息子を探しだしまだ小さな息子が「狼がいる」と言ってすがりつくと「狼はお母さんが食ってやる」というのが泣けた。たくさんの羊もそのまま置いて小さな息子の体を自分のコート(っていうかいかにも毛皮って感じの奴)で包んであげるのが温かく感じた。

トゥヤーがいつも注いでいるのがバター茶というのだろうか。

出てくる駱駝がふこふこして可愛い。

監督:ワン・チュアンアン  出演:ユー・ナン バータル センゲー パン・ホンシアン
2006年中国
ラベル:モンゴル 家族
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2008年07月03日

『呉清源 極みの棋譜』田壮壮

呉清源 極みの棋譜 4.jpg呉清源 極みの棋譜 3.jpg
The Go Master

こんなに物語と登場人物の説明をしようとしない映画もあまりないのではないだろうか。そのことがいっそのこと心地よい。他の饒舌で煩いなくせに大して何も語られていない作品などよりも。
ここでは語られることは最小限のことで観る者はその映像から多くを感じ取らねばならない。
とはいっても何も難しい事柄を述べているわけでもないし、表現がシュールなわけでもない。
棋士・呉清源の人生を切り取って見せていくかのような画面である。余計な台詞や演出というものを廃した静かな語り口である。私は残念ながら棋というものいまだに理解しないでいるのだが、この映画はまさに棋の如く進んでいるのかもしれない。

それにしてもチャン・チェンは美しい人である。
丸眼鏡をかけ碁盤をじっと見つめている風情はなにか悲しげにさえ見えてしまうではないか。笑うとはっとするほど可愛らしいのだが。
台湾人である彼が殆ど日本語の演技をしなければいけないのがここでは却って彼の静けさを表しているようであった。
大げさに出来事を言い立てない映画なのでほぼ文字の説明で棋士としての呉清源が負けなしの勝負をしていく比類なき才能を持っていることがわかる。
だがその一方で彼は紅卍会という宗教にも深く入り込んでいて一時期は囲碁を止めて信仰の道を歩んでいる。
私のように無宗教な者はその選択がいかにも勿体ない時期のように思えてしまうのだが彼自身は囲碁と同じように宗教も大切なのだろう。

田壮壮監督の静かな眼差しは日本人に対しても同じように注がれているようだ。
どうしても戦時中の中国人と日本人の関係を描いた映画を観ることになると事実とはいえ胸が痛むことになってしまうものだ。
ここでも中国人である呉清源一家に対して日本人の嫌がらせらしき場面はある。らしき、というのはこの部分も田監督はクローズアップすることなく起きた事柄を述べているだけなので中国人一家に対しどんな言葉が投げられたのかは想像するしかないのである。
また中国を侵略していく日本軍に対して喜ぶ日本人達を後に呉清源が離れていくシーンにも言葉はないのに迫ってくるものがある。
彼が川端康成と草原で横たわって話し合っている場面も酷く言葉少なく寂しさがある。囲碁の天才少年として日本へ招かれた呉清源の心にはいつもそうした寂寥感が静かに溜まっていたのではないだろうか。
それにしても彼の周囲の日本人の彼に対する接し方は暖かいもので観ていてほっとしたのだ。それは自然と呉清源さん自身がとても素晴らしい人格者で皆から愛されておられることを意味しているのだ。

日本人女性を妻とした彼が、寒い冬に生まれた赤ん坊のほっぺに触る前に手を擦り合わせて暖めるところはなんともほんわかとした気持ちになったものだ。

チャン・チェンの佇まいに見惚れるばかりの作品だったが、他の日本人出演者も素晴らしかった。
呉清源を日本へ招いた瀬越憲作の柄本明は申し分ない雰囲気である。松坂慶子、伊藤歩という女性陣。
川端康成を野村宏伸が演じていたのも面白かったが私的にびっくりしたのが呉清源の相手として登場する橋本宇太郎に大森南朋が出ていたのだった。いつものことだがチャン・チェン以外まったく出演者を知らずにいたので驚くやら嬉しいやらここでも彼に会えるなんて。棋の相手ということで渋い雰囲気を見ることができた。
そして呉清源の母親にシルビア・チャン。

今まで何度も棋は知っておかなきゃなと思いながら果せないでいたがやはり少しは学ぶべきだと再び思っている自分である。

ところで呉さんと「棋」中国語発音は「ウー」と「チー」で違うのだが日本語的には同じ「ご」っていうのは凄く判りやすいです。日本で活躍した方なのだし、仕事と名前って不思議とつながってたりするような気がします。

監督:田壮壮 出演:チャン・チェン 柄本明 シルヴィア・チャン 伊藤歩 仁科貴 松坂慶子 大森南朋
2006年中国

呉清源 極みの棋譜.png呉清源 極みの棋譜 2.jpg

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2008年06月13日

期待のイケメン集結!ドラマ版「テニスの王子様」ついに登場

チン・ジュンジェ.jpgテニプリ.jpg

期待のイケメン集結!ドラマ版「テニスの王子様」ついに登場―上海市

なんと言っても『王妃の紋章』でジェイの弟だった秦俊杰くんが主人公なので気になります。
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2008年06月11日

なんで三国志の孔明と周瑜がキューピーに?その名も孔ピー!周ピー!

孔ピー(写真左)と、周ピー.jpg

なんで三国志の孔明と周瑜がキューピーに?その名も孔ピー!周ピー!

キューピーが大好きなのでつい反応してしまいました(笑)やっぱりお髭のある孔ピーが特に欲しいですね。頭よさそうです。でも周ピーもやはり対でそろえたいものですねー。これで妖しい関係ごっこができます(笑)

モチロン映画も楽しみです!!!
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2008年05月06日

チェン・カイコー、新作『梅蘭芳』で再び男性愛を描く

チェン・カイコー、新作『梅蘭芳』で再び男性愛を描く

男性愛ってなにかと思いました。男性同性愛ですね。そりゃあどうしても『覇王別姫』と似るところはあるでしょう。そこも含めて楽しみです。
ラベル:同性愛
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2008年04月29日

『中国の植物学者の娘たち』ダイ・シージエ

学者.jpg
Les Filles du Botaniste Chinois

真っ先に結論を書くと何かとまずいからちょっと後にするけど、いつまでたってもこういう話なのかねーと思いつつ、いつか新しい物語が観れるだろう、それまで我慢我慢とつぶやいたりもしてみる。

植物園の緑の色彩の美しいこと。主役の若い女性たちの美しい肢体に見惚れているだけで時間は過ぎていった。濃厚な湿気と香りを感じさせる花と緑の園で愛する人を見つけた女性たち。その相手は自分と同性であったのだ。
美しい彼女達と見てるだけで癒されていくような画面に惹き付けられて観てしまった。

なのにこの物語はなんだろう。
繰り返し繰り返し作られる「最後に死を迎える同性愛映画」というものにはもううんざりである。
実話だから、というのは言い訳に過ぎない。そういう題材をあえて選んでいるのだから。
思わず涙がこぼれてしまうほどひたむきに愛し合う二人の女性。見入ってしまう美しい裸体とあまり露骨ではない夢見るような同性の触れ合いの場面。
そして最後に全てを破壊してしまう死の場面。

なんでなのかな。
結局観たい場面だけ見せておいて「でも同性愛は禁止だからね。死刑だよ」というラスト。
それを美しいと思わせてしまう狡猾さ。
金庸の物語でも同性愛ではないけど禁じられた恋人達は自分達だけの世界で生き続けたじゃないか。
昔だからというのも言い訳で、武侠もののはもっと昔だしね。

悪人として登場する父と兄の描き方も一方的過ぎると思うのだが。
自分としてはこの監督は全てを支配している父親そのもののように思える。二人の美しい女性を利用するだけ利用しておいて最後にあっさり殺してしまうのだから。
自分に歯向かう者を許さない父権でもって同性愛者だった娘を殺してしまうのだ。その体を性的な目で眺めていながら。
もしそうでないなら何故二人が生き延びるという創作にしないのか。好奇心は満たしたからもういいや、というこの殺し方。
それらを全て誤魔化してしまうための綺麗な映像で騙されてしまう。

例えば『ブロークバックマウンテン』で生き延びていくイニスの苦しみがここにはない。
イギリスドラマ『荊の城』での二人のような未来も与えずに。

綺麗なだけの同性愛場面を見せ付けて最後に殺すという映画に何の意味があるのか。
主役の二人と映像の心地よい美しさに酔いしれていただけにいっそう腹立たしくなってしまう。

これを観て同性愛者を弾圧・嫌悪するのはよそう、という意味合いなのだろうか。
もういい加減判ろうよ。
その次の段階に行きたいんだよ。

監督:ダイ・シージエ 出演:ミレーヌ・ジャンパノイ リー・シャオラン リン・トンフー グエン・ニュー・クイン ワン・ウェイドン
2006年カナダ/フランス

私なんか親父死んだ時「やった!」って思ったもん。後は二人で植物園やっていけばいいし。心臓悪かったからわかりゃしないって。
そうして二人はおばあちゃんになって死ぬまで植物園で愛し合いました。でいいのにさ。
兄貴が邪魔か。ちぇっ。
ラベル:同性愛
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2008年04月28日

『長江哀歌(エレジー)』ジャ・ジャンクー

山峡好人b.jpg
山峡好人

これもまた期待に期待を重ねていた作品だが、それ以上の素晴らしさで却ってなんと言っていいのか判らない。
褒め言葉を並べ立てることになってしまうのだが、本当に見ごたえのある面白い作品なのである。
急激な発展開発を進めて行く中国政府と実際にそこに住む人々とのすれ違いがリアルでありながら滑稽さも交えつつ描かれていく。
物語を展開していく主人公が現地にいる夫或いは妻を捜しに来た他の地の人間であるために鑑賞者は彼らと共に山峡の土地開発を奇異の目で見ていくことが出来る。
美しい壮大な自然と飾り気のない人々見ているとここは現代ではない遠い昔のことのように思えているのに突然出てくるTVに衣映される『男たちの挽歌』(古い映画ではあるが。レスリー(涙))やけたたましい携帯の音が時代は今なのだと教えてくれる。
急激な開発が古き人々の住居を壊していく。それは突如現れるUFOやヒロインの背景になっている奇怪な建物がスペースシャトルのように打ち上げられてしまうことでいかに理不尽なことが起きているかを表現しているのだ。また醜怪な建物を邪魔だとばかり追い払ってしまったかのようにも思える。
観る者は主人公達と同じように誰か(何か)を探しながらも思うようにいかない苛立ちを覚えてしまうだろう。
そして彼らは探し人を見つけた時、一人はその人と別れ新たな道を歩き出し、一人はその人と暮らす道を選ぶ。
答えは一つではなく自分で見つけるのだというように。

監督はこの映画で中国の過激な変化と混沌に大きな不安を感じ訴えているのだが、自分は勝手ながら昔と今が同時に存在するような不可思議なこの国を描きだした映画に物凄い興味を抱いてしまうのだ。
それが監督の意図とは違うものかもしれないのだが。
だが多分感動を覚えた人々は国を憂えて告発した作品ということだけでなしに、広大な国の小さな一地域に住む人々の生活を見せられた面白さに惹きつけられたはずなのである。
それにしても華々しいイルミネーションに飾られた大きな橋の側を走っていく車の寂寥感というものは例えようもない。

この映画は監督が友人のドキュメンタリーを撮る為にさほど興味もなかった山峡に行った際に突然映画として撮りたいと思い立ち、町がなくなってしまう前にと大急ぎで撮影されたということらしい。
このような面白さのある作品がそんな短期間に製作されたとは驚きだが、それだからこそ勢いのある作品になったのだろうか。
昨日ぼやいていたカット多すぎの『ボーン・アルティメイタム』とは大きく違いゆっくりと画面を観ていくことができる作品である。とはいえ、ジャ・ジャンクー監督作品としてはかなりにカットが多いのではあるが。

小難しい作品を望んでいるわけでは決してないがこのように混沌きわまりなく面白く不思議な世界を見せてくれる中国映画、もっともっと観たいのだがなあ。

監督:ジャ・ジャンクー 出演:チャオ タオ ハン・サンミン ワン・ホンウェイ リー・チュウビン マー・リーチェン

ラベル:歴史
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2008年03月11日

『蒼き狼 チンギス・ハーン』サイフ/マイリース

チンギス・ハーン.jpg
GENGHIS KHAN

昨日、日本映画『蒼き狼 地果て海尽きるまで』(澤井信一郎監督/角川春樹総指揮)を観て「これが英雄・チンギス・ハーンの姿なのか?」とどうしても腑に落ちなかった私なのである。
反町隆史=チンギス・ハーンは英雄というより単なる愚者で男の風上にも置けないような卑怯で優越感のみが際立っている(群集を前に威張っているだけの情けない男にしか見えない)
映画自体にも何の感動もなく物語にも訴えるものがない。男のロマンも愛も感じない。しかも映像としてはやたらに大草原と青空と群集を映すばかりで映画としての美しさ、壮大さなどどこにもない。
一体これのどこが英雄なのか、これが尊敬される男なのか、モンゴルの勇者というのはこういうものなのか、なぜそういうものに憧れ映画にしたのかすら伝わってこない映画作品であり、何の価値もない英雄の姿である。
以前から観ようかと思いつつ、そのままになっていた中国映画の『蒼き狼 チンギス・ハーン』の中に求めている答えがあるかもしれない、とすがってみた。
以下、二つの『蒼き狼』をくどくどと比較していく。うんざりされることうけあいである。

本作は中国映画になっているが、監督はサイフ/マイリース夫婦監督、どちらも内モンゴル出身の映画監督であり、日本では『天上草原』が有名だろうか。私もこれは鑑賞済みであった。
モンゴル出身監督が作り上げたこの作品はさすがにはっと打たれるような凄みがあった。昨日観た奇妙な映画は一体なんだったのだろうか。

サイフ/マイリース『チンギス・ハーン』を観ればこれが映画だと思える壮大さ、重厚さが溢れている。
日本版にまったくなかった爽快感、騎馬というもののかっこよさ、戦いの壮絶さもここでは描かれていた。
なんだか日本をこき下ろして中国版を褒め称えてばかりでは不甲斐ないというものだが、比べてみれば一目瞭然なのだから仕方ない。

日本チンギスはやたらぺちゃくちゃしゃべって男の風格を落としてしまうのだが本作の彼は無口であんなにくどくど話していない。
ナレーションが彼自身の心の内を語るのがここではうまく作用している。
日本版とこの数年前に作られた本作はストーリー自体は驚くほど似ている。多分にこの作品から様々な場面を借用したことが見て取れる。筋が似てるのは歴史だから仕方ないとしても演出そのものが同じというのは
不思議ではないか。
しかもまた奇妙なことに物語の大事な部分、感動的な箇所はすべて抜き取られ、余計な装飾が加えられているのは理不尽としか言いようがない。いっそのこと、全部盗用したほうがいや今流行のリメイクと称して作らせてもらった方がよほどよかったのではないだろうか。

日本版大草原はいつもいい天気でのどかな風景だが、モンゴル版は自然の荘厳さが常にある。
ここでテムジンの母は草原の中でテムジンを産み落とす(この話ははっとした。『射[周鳥]英雄伝』で郭靖の母は草原で彼を産むのだが、あれはテムジンの話をなぞったものだったのだと初めて知ったのだ)
族長だった父が死に仲間がテムジンの家族を見捨てて逃げた後、彼らは過酷な冬を過ごす。食べ物がなく兄弟は飢え、同じく飢えているはずの母親はすでに大きい子供達にその母乳を与えるのだ。乳が満足に出るわけもないのに。また母親は飢えた子に食わせる為、ゲルの周りをうろつく狼を殺しに行く。小さなナイフだけで。
日本版に出てくる女達はただの飾りにしか過ぎず一人兵士だと言い張って何もしないのもいたが、本作での女たちは女として戦い生きている。
本当の英雄はテムジンの母親のことではないのか、と思える。テムジンもまた母親を尊敬し続ける。

こうやって書いていくと本当にそうだったかはわからない、という言い方もあるだろう。
だが、問題にしているのは映画が事実だったかどうかではなく、そこで何が語られ、表現されているかなのである。
日本版のかっこつけただけの英雄と何もしない女達を見た後、本作の男と女を観ているとその違いが天と地ほども違うのに叩きのめされる。

テムジンの描き方の違いも顕著である。
日本版ではテムジンが弟を殺す原因がよそ者の子だと言われたという自尊心からきていて、それだけで弟を殺した反町テムジンの非常さにあきれたが、本作では飢えた状況で一人だけ盗み食いをする弟を許さず殺すことになる。それを知った母はテムジンの心の狭さを嘆く。テムジンは人の命の尊さを教えられ、仲間を怒りで殺す事はしまいと誓うのだ。
日本版ではチンギス・ハーンとはなんと無情の者かと思い、なぜこんな男に人が従うか理解できない。モンゴル版でこそ母に教えられ成長していくテムジンに共感できる。
また何と言っても日本版のテムジンへの嫌悪は血のつながらないジュチへの冷たさである。口だけでは息子への愛を語るが実際は酷い仕打ちをするだけだ。失った後で涙を流す姿はしらじらしく腹立たしい。
モンゴル版では自分の誕生がタタールの族長の手でなされたことを知ったテムジンが世の中のめぐり合わせ、命の尊さを感じ、敵の子を身ごもった妻を受け入れ、その子供を息子とする心の広さを持つことを学ぶ。
こっちのテムジンの子だったら松ケンも幸せだったのに、残念である。
「ジュチ」の意味も日本版では「よそ者」こちらは「客人」だ。微妙に意味合いが違うのがおかしい。

映像の違いもはなはだしい。
映画の美しさ、自然の苛烈さを本作で味わって欲しい。
角川版は人数の多さを誇示したいのか、やたらと遠景で撮っていたために絵でも眺めているかのような空々しさがあるがこちらではカメラがぐっと中に入ってくる力強さがある。
日本映画というのはこんなに弱々しい情けないものかと思ってしまうが、サイフ/マイリースの映画にはどこか日本映画で観た雰囲気もある。『天上草原』でのインタビューで彼らは「黒澤明から随分学びました」と言っていた。なるほど、この映画の力強さ、爽快さ、重厚感は黒澤からきたものでもあるのかもしれない。
そう思うと複雑である。
黒澤のそれは日本版にはなかった。

いつも晴れ渡った日本版の草原と違い、本作では凍てついた大地、雪と氷の草原もある。
戦闘場面が夜の闇の下、松明の炎の中で起きる。激しく燃え盛る中での激しい戦いは壮絶である。
馬の撮り方も素晴らしい。スピード感が全く違う。ぐっとせまって動きを追っていくために生まれる迫力がある。
光線と影の使い方も絶妙で重厚さがある。草原の中に視線を落としている為、風が草をなびかせる美しい場面もある。
テムジンの若き花嫁が全裸で草の中を歩く場面もある。

これを観て映画というものがいかに美しく力強いかが伝わってきた。草原の勇者の勇猛さも女たちの勇敢さも。
日本版のあれはあえていうなら女の腐ったような奴である。
せっかくのいい作品を日本映画『蒼き狼 地果て海尽きるまで』(澤井信一郎監督/角川春樹総指揮)との比較に使ってしまい、申し訳ない気持ちだが、まさかここまで見比べて真似をしたように思える箇所もある上に、いい部分は真似されていないことをむしろ残念に思える。
救いは鑑賞した多くの人が当然いい評価はしていないことである。
まさかあれがチンギス・ハーンの姿だと信じる人もいないだろうし。

反町チンギスが群集の前でこれ見よがしに大見得を切る場面は最も醜い場面だが(アレを見ると変なインチキ宗教家かヒットラーでも思い出さずにはいられない)本作では簡単に「テムジンは後にチンギス・ハーンと呼ばれるようになった」とナレーションが入るのみである。
美しく優しい妻の悲しい運命を受け入れたテムジンが家族と共に馬で草原を駆けるシーン、なおも征服を続けたテムジンがやっと幸せに暮らせるようになった母親のもとで戦いの疲れを癒し、孤児達を母に託すというラストこそ英雄の話にふさわしい締めくくりなのではなかろうか。

監督:サイフ/マイリース 出演:テューメン アイリア バヤェルツ ベイスン キナリツ
1998年中国

映画の冒頭で「男は別の種族の女を略奪し子供を産ませた。遠い土地の女との間に生まれる子ほど優秀な子供ができるからだ」てな説明が入る。
これは私の中国人老師もおっしゃっていて「だから中国人と日本人の間に子供が出来たら優秀な子になるのよ」と言われたのだった。
これは中国&モンゴルでは通説なのであろうか。
優しかった老師を思い出してしまったよー。ぐすん。



ラベル:歴史
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2008年02月04日

『続・西太后』李翰祥 

続西太后.jpgThe Empress Dowager.jpg
西太后/The Empress Dowager

『西太后』の続編。
前回に比べるとかなりスキャンダラスでエロティックな内容になっている。とはいえ中国映画なので露骨にセックスを描いたシーンはないもののある意味それ以上にキワドイ雰囲気を感じてしまう。
まずは夫である前皇帝を亡くし未亡人となった西太后の入浴シーンでちらりと小さく裸体が映るだとか、寝室であえぎ声がするのをカメラが映すと西太后がお気に入りの宦官・小李に足指をマッサージさせているのだとか、色っぽいのかナンなのか、何しろ西太后ももう40歳を間近という年齢でもあるし熟女趣味の者にしかあまり興味も持てない色気と言う気はするが。
しかしこの宦官・小李は実は偽宦官で西太后はその子供を生んでいるというのだからこれはスキャンダルだ。その子供はどうなったのだろうか。
それにしても西太后が女性のおっぱいを吸っている場面はどういう意味があるのだろうか。つまり直接乳房からお乳を飲んでいるのだが。
美容と健康のために母乳を飲む、ということなのか。それともレズビアン的な行為を暗にほのめかせたシーンだったのか?他に意味が?

今回の皇帝・同治帝は陳道明が演じている。大好きではあるがこの時彼は30代半ばだろうに、同治帝は17〜19歳ほどの時期。「もう子供ではない」などという台詞を言わねばならないから凄いなあ。
しかし皇帝とは名ばかりで実際の権威を持っているのは二人の母親、東太后と西太后である。彼の実の母は西太后なのだが、彼は優しい東太后の方にばかり甘えていくという不思議な関係である。

若い同治帝は召使の一人桂連という少女(コン・リー)を気に入ってしまう。
桂蓮が宮中の奥に向かうのを目にした同治帝は後を追う。そこは華やかな宮中とは違い寂れ果て年老いた女性達がたむろしているのだった。彼女達は前皇帝の側室の成れの果てで絹のクズを集めて刺繍の内職をし、宦官に街で売ってもらいなんとか暮らしていっているのだった。

西太后は同治帝が桂連に夢中になっているのが気に入らず、小李に頼み彼女を外へ出してしまう。小李はとんでもないことに桂連を我が物にしようと企む。だが言う事を聞かない桂連に腹をたて売春宿へ追い込んでしまうのだ。
とことん気の強い桂連をコン・リーが演じている。といってもこの映画に出てくる女性は皆本当に気が強い。というか荒々しいというか。コン・リーはいつもそうだが、似合っている。

さらに西太后は同治帝の皇后になった娘も気に入らず(その娘は東太后が選んだ娘なのだが、自分の選んだ側室を同治帝がまったく相手にしないので怒ったのだ)会うことすら禁じてしまう。
同治帝はお忍びで街へ出ては花街へ向かう癖がついてしまい、性病を患うことになるのだ。
またこの時妊娠していた皇后に対し、西太后は殴る蹴るの暴行を加ええる。
心優しい東太后は西太后のあまりの冷酷さにさすがに怒りの声を上げる。他には傲慢な西太后も東太后には歯向かうことができない。東太后は前皇帝から「東太后を守るように」という命令が入った小箱を持っていていざとなればそれを用いて西太后に罰を下す事ができるのだ。西太后はその力には対抗できなかったのである。
東太后の怒りはついに西太后に落ちようとしていた。だがここで彼女はいかに自分が憎まれ役となって皇帝と国を守ってきたかを訴える。言い終えて倒れた西太后の足から血が流れる。側女がその血は東太后を救うために西太后が自らの太ももの肉を切って特別の飲み物を作ったのだという。東太后は西太后の思いやりに涙し、前皇帝の命令書を焼き捨てる。西太后の口元にうっすらと笑みがこぼれる。

以後、西太后は同治帝の皇后に拷問を加え殺害。東太后は謎の死を遂げる。
それ以降。西太后はさらに権力を増していくのだった。

皇帝とは名ばかりで西太后の前で跪かねばならないし、非常な緊張をしいられている。天然痘で亡くなった、と言う建前だがじつは性病が原因だったという話。
東太后の死も西太后の仕業だったのかそでうなかったのか。
また西太后が本当にこのような残忍な性格だったのか、と疑えばきりがない。
ひ弱な10代の皇帝を陳道明が演じている。やはりステキである。
劉暁慶の西太后は本当におっかない。こんな女性だったように思えてくる。
コン・リーはいつもチャーミングな女性だ。

同治帝のお忍びシーンで当時の風俗を感じられて楽しい。これではお忍びもしたくなるというものだ。

監督:李翰祥 出演:劉暁慶 陳道明 コン・リー
1989年中国

ラベル:歴史
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2008年01月19日

中国映画ドラマの思い出『橘子紅了』『夜奔』

『藍空』までは(というかそれ以前はというべきか)中華圏映画ドラマにどっぷり浸っていた私。今はすっかり世界的になってしまいましたが時々懐かしくもなります。
その頃好きだった作品が幾つかあって次第に韓国・台湾ドラマブームなどが訪れそういった優れた作品も日本語字幕・吹き替え付きで楽しめることができるようになるのか、と期待したのですがブームはアイドル路線に留まっている状態のようです。
『ニエズ』もなかなかお目にかかれずにいますし、いい映画作品もアメリカ映画に比べるとDVD化されないままの寂しい状況はあまりかわりません(韓国ものは結構観れそうですが)

というわけで思い出の作品を少しだけ紹介してみようかと思います。

まずは、周迅主演中国ドラマ『橘子紅了』
橘子紅了.jpg
これは「藍空」でも紹介したのですが、周迅を大好きになった作品の一つです。
清朝も末期、中国に新しい時代が訪れるその狭間。まだ纏足の美少女が富豪の屋敷の第3夫人として迎えられるという古風な世界で物語は展開していきます。
重厚な雰囲気と物語の面白さはイギリスの作品に負けない、それ以上の濃厚さに満ちています。
文芸作品といってもいいのでしょうが、堅苦しいわけではなく、ホアン・レイと周迅が美男美女で華やかさを出しています。
特にこの作品の周迅の愛らしさは目を奪われるものがあります。ドラマなので長いのですが私は全体を通じて高い水準の作品だと思っています。
『藍空』での記事(ネタバレです)『ニエズ』同様せっせと訳しながら観たので参考までに。
「橘子紅了」周迅
「橘子紅了」其の二
「橘子紅了」其の三

そして台湾映画では『夜奔』
夜奔.jpg夜奔2.jpgfleeingbynight.jpg
これにもホアン・レイが出ています。チェロを弾く音楽青年と舞台役者のほのかな同性愛の感情が漂っている美しい映画です。二人の間に立つ少女にレネ・リウ。彼女もまた素晴らしい女優です。この映画は絶対日本版DVDにしたらいいのに。残念です。

「夜奔」

夜奔

「夜奔」ストーリー
夜奔3.jpg夜奔4.jpg
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