

「昔の日本映画」を観る場合は名作・傑作と評価されたものが多いせいもあり、そうした「昔の日本映画」を観てはその面白さと新鮮さに驚くことが度々ある。
だが、無論数多く観ていくと別の意味で驚いてしまう場合もある。当然ではあるが今の感覚との違い、というだけで納得できないほどの違和感を持った時で、本作がそうであった。
先日『砂の器』を観た時に感じた違和感は演出において、であった。以前観た時はそこまで思わなかった音楽や悲劇的な語り口に必要以上の誘導性を感じ反発してしまったのだ。
今回は一体何だろう。演出としては地味で淡々としているので問題ないのだが、登場人物の人間性に疑問を感じた、ということになるのだろうか。
一番の疑問と嫌悪の対象は貧しい身の上の娼妓・杉戸八重である。
登場した時から奇妙な声でくつくつ笑うこの娘はどういう役割だったのか。この笑い声で私はもうどっと引いてしまったのだが。ある犯罪に巻き込まれ、大金を持って逃げる男・犬飼が怯えるのを嘲笑いながら恐山のイタコのふりをして布団を被り犬飼に覆いかぶさ「戻る道ないぞ、帰る道ないぞ」と笑いながら言う演出は八重の屈託のなさを表現しようとしたものなのかよく判らないが、むしろ犬飼の運命を彼女が覆いかぶさり運命から逃れられないという恐ろしい預言のようにすら感じてしまうのだ。
本作はこの娘をどういう女として描いているのか。表面上は田舎生まれの素朴な女が金を与えられた恩義のある男に対し一途に感謝し続ける姿を純真に描き伝えているように見える。その健気さをただ気持ち悪いと思っているだけならまだよかったが、10年後、恩人である犬飼が善行で新聞に載っていたのを見つけ、その人の家を訪ねていくのだ。
八重は犬飼が警察に追われている犯罪者であることも犬飼と自分が接点があることを警察が嗅ぎつけていることも知っている。その上で犬飼の家を訪ねることがどういう結果を引き起こすのか、まさか貧乏人や娼妓に考える能力がないというのではあるまい。結婚している男性の家へ若い女性が訪問するという行為だけでも浅はかなのに八重は知らぬふりをする犬飼に謝りながら恨み事を言い、挑発までする。これが時代の感覚なのか、この八重と言う女性が異常なのか。恩義のある人にまるで仇を返すような仕打ちではないか。何故本当に感謝であるのなら気持を察してすぐに帰らないのか。
これは、一見まるで純朴な女性の様相でありながら確かに八重は犬飼が善人へ戻ることはできないという預言を果たすが為に訪問したのではないか。感謝の言葉を伝えたいなどという八重がただただ恐ろしい。彼女は善人に帰ろうとした犬飼を帰させてくれない運命の女である。そう考えなければ何故彼女が愚かな行動をとったのかさっぱり判らない。彼女がひたすら犬飼を思い続けたのは感謝ではなく、何か恐ろしい思念が彼女を操ったと考える方が私には納得できる。
犬飼は八重を信じられなかったのではなく彼女のもたらす恐ろしい運命を感じとったから殺害したのだ。
彼女が犬飼を訪問さえしなければ事件は迷宮入りのまま終わったはずなのに。
警察の面々も皆、疑問である。
犬飼が書生と八重を殺害したのは映像として出るから明白だが10年前の事件は彼の言うとおり証拠がない。ここで警察が犬飼に対して発する言葉や行為はいかにも前時代的な権力主義でこの部分も映画が極悪な犯人に対する当然の行動・台詞として表現しているのか、権高な警察を批判しているのかいまいち判らない。というのは退役刑事の言動も「かつての事件で犬飼が燃やしたと思われる灰を見せて感情に訴える」という浪花節なものだし、高倉健演じる警察の取り調べは犬飼を罵って吐かせてみせる、という態度なのだ。ただ追い詰めてどうにかしようというのも科学捜査ができない時代ゆえではあるだろうが映画の上でもこの状態では現実の正義は望むべくもない。そのくせ船の上から献花をする時は手錠を外しているという意味不明の甘さを見せる。
かくして犬飼は海へ飛び込み、事件の真相は闇に葬り去られた。
私は犬飼が気の毒でならない。八重という女にさえ会わなければよかったのだが、運命というのはそうしたものだろう。金を渡さなくてもあの女は何か理由を見つけて追いかけてきそうだ。気持ちの悪い女だ。実際どっちなんだろう。可哀そうなのか、妖怪じみてるのか。両方なのか。ぞっとする。
警察も気持ち悪い。高倉健は大好きなのにこの刑事は耐えられない愚かしさだ。弓坂刑事は頑張りは判るけどやはりお粗末で哀れだった。威張って命令する上司がまた無様なのだが、これも本来どちらで見せたかったのか警察を良しとしてるのか悪としてるのか。この取り調べでは冤罪が多くなるのも頷ける。黙秘権を使うつもりか、って言う脅しはなんだろう。この時はまだ金持ちでも弁護士を通して、というのが通例化していないのだろうが、警察の権威をここまで悪質に描くのはどういうつもりだったのだ。
これは飢餓だけが問題ではない。時代によって同じ国の人間がエキセントリックにも不気味にも思える、ということなのだろうか。
監督:内田吐夢 出演:三國連太郎 左幸子 高倉健 伴淳三郎 三井弘次 風見章子 加藤嘉
1965年日本
posted by フェイユイ at 21:36|
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