映画・ドラマ・本などの感想記事は基本的にネタバレです。ご注意を

2009年03月04日

『悪夢探偵』塚本晋也

悪夢探偵1.jpg

続編『悪夢探偵2』もすでに公開され早く観たいと思っているのだが、あれ一作目がどんな内容だったか思い出そうとすると何も浮かばない。
強烈な印象があってよさそうなのに困った。しかし大変面白かったという記憶だけはある。これは塚本監督に非があるのではなくまったく私の記憶力のせいであるからして再び鑑賞することにした。
再度面白く観れたからある意味お得な人間だ。うん。実に面白かった。

お父さんは『探偵物語』というのでさっそうとしてかっこよかったのに、息子さんは『悪夢探偵』ってなあ。しかもいつも顔をしかめている苦しい探偵だ。他人の夢の中に入ることができるのだが、だからと言って何かできるわけじゃない、と彼は言う。それに辛くて危険だからもう頼まないで欲しいという探偵である。
いつも画面が暗くてびちょびちょしてて気持ち悪いし、包丁が嫌だし、血や内臓がどんどん出てきておっかない。
かなり陰鬱な作品なのだが、それでも悪夢探偵の松田龍平は凄くいい。「いやだいやだ」という決め台詞もとてもいい。
女刑事のhitomiも棒読みの話し方が気になる感じでこれもまたいい。
いつも不気味な役の塚本監督も相変わらず殺人鬼な風貌である。
いつも江戸川乱歩世界を思わせる塚本作品だがこれは見直しているとむしろデヴィッド・リンチ的な感じがして、フランシス・ベイコン風の顔ぶるぶるなんかは特にそうかもしれない。
警察の裏の捜査というのもなんだかありそうな、というかあったら面白そうである。

こういうダークヒーローというのに凄く惹かれてしまう。2もできたわけだが、連続TVドラマにして欲しい。松田龍平じゃないと嫌だからちょっと無理かもしんないが。
松山ケンイチでもいいんだけどなあ。

監督:塚本晋也 出演:松田龍平 hitomi 安藤政信 大杉漣 原田芳雄 塚本晋也
2006年日本


ラベル:松田龍平 ホラー
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2009年03月03日

『スカイ・クロラ The Sky Crawlers』押井守

The Sky Crawlers.jpg

戦争を肯定するかのような台詞があり、戦闘機に乗り込む兵士たちがいずれもハイティーンほどの子供達であるということも含めてやや不評気味のアニメーションだが、何故か非常に観たくなってしまい、相当ぶりに日本のアニメ映画をマジで観ることになった。

などと言っても自分は元々はアニメしか観ないというくらいのアニメ人間であったのだが、ガンダム1代目が終わり、宮崎駿が単一で目立ちだした頃から離れていったものだ(一体いつのことだか^^;)
そういう人間にとってはこのアニメはある一つの疑問の答えを出してくれたような感慨深いものがあった。
大体戦争ばかり繰り返しやっているアニメ、戦士もしくは兵士が子供であるアニメ、というのは殆ど目新しいものじゃあなくそれどころか私が子供の時からアニメと言うのは「地球を守る為に常に戦い続ける」のであって命を懸けて戦う主人公はいつも子供であった。
アメリカのマンガは『スーパーマン』だとか『バットマン』だとか太々とした「大人の男」であって少女の目からは気持ちの悪い存在にしか見えなかった。それに比べ日本アニメのヒーローは常にほっそりとりりしい少年なのであってまだ幼いと言っていい彼らが命をかけて怖ろしい敵と戦う姿を食い入るように観たものだ。若い仲間達が死んでしまってもそれは地球を守る為なのだから「潔い戦死」として子供心に納得していたわけである。それは『マジンガーZ』であり『ガッチャマン』でありその他多くのそういう戦う少年ヒーローたちである。時は移り『宇宙戦艦ヤマト』『機動戦士ガンダム』と続いても状況は同じであった。
そして自分がもう観なくなった昨今でも『エヴァンゲリオン』などという作品もまったく同じなのである。
子供の時は疑問でもなかったそういう状況がさすがにこの年齢になってくると「はあ、なんで子供ばっかりで戦争ごっこやってるわけ?」という目で件のアニメに侮蔑の眼差しを送ることになってしまうのだ。
ではこのアニメ映画はどうなのか、というと見事にその辺を暴き出してくれたのであった。
「私たちは永遠に子供で永遠に戦い続けなければならないの。それを止めるには死ぬしかない」
これは日本アニメで永遠に繰り返される子供戦士たちの悲痛な声じゃないか。(←いや笑ってるんですが)
ワカメちゃんは永遠に子供だが近寄って見ると小じわがある、という小話である。
一体何故日本のアニメの戦士は子供なのか、馬鹿な女にうつつを抜かしているデブいスーパーマンなど見たくないからである。つるりとした丸い頬の細い足首の少年少女が戦士でなければ「萌え」ないのである。
さらに少女戦士は言う「私たちは生まれた時からこの姿で本当は子供時代もないのでは」
そしてこの作品の中で年老いた少女である草薙は繰り返される戦争の中の永遠の少年兵士である反逆として煙草を吸い、酒を飲み、少年をセックスに誘い、子供を産んでいる。
今までの「永遠の少年少女ヒーロー」像としてはあってはならない反抗なのではないだろうか。
何故日本のアニメ(だけではなく他の分野でもそうだが)では子供が命懸けで戦わなければならないのか。他の国では「大人の男、大人の女」であるのに。
たとえそう反論されてもその伝統は続いていくんだろうと思う。永遠に彼らは子供であり戦い続けるのだ。「それを観たいから」
この作品の中で「私たちに戦争をさせ続けることで彼らは安心できるの」と言われている「彼ら」は日本のアニメおたく(最近は外国おたくもみたいだが)のことじゃないか。

「キルドレ」の永遠のライバルである敵のエースが「大人の男」だというのは面白い。しかもティーチャだというのがおかしい。

『エヴァンゲリオン』あたりで大いに不満を感じむずむずとした疑問がしこりとなっていたものがこの作品でやっと解けてほっとした感がある。
この作品、実際の戦争と重ねて考えるより今までの日本のアニメの解答として極めて明快に表現してくれている面白い作品だった。
ラストのラスト、やっぱり永遠に続くのだね。

背景がリアルでも人物は日本のアニメらしいマンガの絵である。頬のこけたアメコミでは嫌だからである。
あくまで可愛いマンガの絵でなければアニメじゃないのだ。(←アニメおたくとしてはそういうことでしょう)

ところでこの作品、あの『エヴァンゲリオン』をよく知らないのでなんとなくだが意識して対抗しているような気がするのだがどうだろう。
あの作品が酷く嫌いな自分としては『スカイクロラ』には非常に頷いてしまったのだった。

アニメ論だけで終わってしまって本作の感想を書いていないようだ。
はっきりとした設定説明をしないぼんやりとした物語であることやどこの国かわからないやや廃れた街のような雰囲気がとてもいい。
昔のアニメで満足していた私にはやや描きすぎくらいの感じがするが技術の高さには感心してしまう。
キャラクターも媚びてなくて適度に可愛らしさがあって文句の付け所はないキがする。
こんなに面白いならまたアニメ世界に戻ろうかな、と思ったほどだが、なかなかここまで凄い作品はないだろうな。

監督:押井守
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2009年02月22日

『田園に死す』寺山修司

田園に死す.gif田園に死すb.jpg田園に死すc.jpg

この映画(と『草迷宮』)を遠い昔に観て、日本には怖ろしいほど強烈な表現をする作家がいるのだ、と感心してしまったのだった。それまでぬめぬめとして田舎臭く恥ずかしいものだと思っていた日本土着のものがだからこそ意味がありぞくぞくと戦慄さえ覚えるような力を持っているのだということを寺山修司の世界で知ったのではなかっただろうか。
それは例えば言葉の訛りであり、切ろうとしても切れない家族のつながりであり、東京などの都会とは違う明らかにお粗末な生活の風景、古びた家、陰湿な人々の噂、奇妙に恐ろしさを感じてしまう貼紙にも悲しげにつながれて逃れることのできない家畜にも田舎ならではの因習や閉じられた社会で生きることしかできない女達の姿などに強い反発を覚えながらも得体の知れない好奇心でそれらを凝視してしまうのだ。
この作品以外の彼の作品も最近観直したりしたのだがやはりこの作品(と『草迷宮』)が寺山修司の世界、というイメージを最もくっきりと表しているのではな
いだろうか。

物語、というようなものではなく作品自体が寺山修司の独白のような作品でありその端々に彼の短歌が挿入されるのだがむしろこの幾つかの短歌がこの作品をそのまま表しているくらいの密度がある。鮮烈な歌である。この短歌を読んだ時、この短い言葉の中に一つの映画と同じくらいの或いはそれ以上の物語があることに驚いた。言葉というものがこんな力を持つのだと打ちのめされたのだ。
音楽が映画の相乗効果で感動を盛り上げることがあるが、短い幾つかの言葉が映画との相乗効果で一つの世界を作り上げることもあるのだ。

主人公が白塗りの顔の少年という不思議な感覚。少年は母親と二人暮らしの密接から逃れたいと願い、母親はそんな息子を放すまいとしている。できることなら母を殺そうとすら思いながら彼は大人になってもそれを果すことはできないのだ。

主人公の虚構である記憶と真実の苦味が今見てもはっとするようなイマジネーションで構成されていく。
ここまで異常な世界を明確に描くことができる作家はそういないのではないだろうか。
恐山で死者と会話する少年、妖しげなサーカスの人々、噂話をする長い数珠を繰っている黒装束の片目の女たちなどが怖ろしい。
きっと初めてこの映画を観た人は見てはいけないものが入っている箱の蓋を開けてしまったような戦慄を覚えるだろう。もう二度と近寄るまいと逃げてしまう者もいるだろうし、怖いもの見たさで再び覗き込む者もいるに違いない。そういう者はこの世界の虜になってもう逃れることはできないだろう。

監督:寺山修司 出演:菅貫太郎 高野浩幸 八千草薫 原田芳雄 斎藤正治 春川ますみ
1974年日本
ラベル:寺山修司
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2009年02月19日

『お遊さま』溝口健二

お遊さま.jpg

今まで観た溝口健二の作品で一番好きかもしれない。そしてさすがに美しい映画だった。
『お静』というタイトルにしたくらい音羽信子が演じたお静さんが愛おしくなってしまう作品なのだが、無論彼女が愛した女性が『お遊さま』なのでこのタイトルでいいのである。
これはもうこれ以上なく美しいビアンの物語だろう。お静が愛していたのは最初から最後までお姉さまであるお遊さまなのだ。

あまりに美しくて時代がいつかよく判らないほどだが、大正期だろうか、裕福な人々の贅沢で上品な世界の物語で柔らかな京都言葉もあいまってこの上ない優美な映像に暫し耽溺する。
谷崎潤一郎が原作と後で知ってさもありなんと思ったわけだが、フランス映画のような不思議な味わいを持った作品なのである。
お遊さまはすでに一児を持つ身なのであるが夫はすでに他界し、富裕な家で一人っ子を見守っていくだけで贅沢な暮らしを許されている。
彼女には妹と呼ぶ仲のよい静というこれもいい家のお嬢様がいてお遊さまは静の仲人としてお見合いの席へと向かう。
ところが見合い相手の慎之介が見初めてしまったのはお遊さまのほうだったのだ。
その理由は慎之介が幼い時に死に別れた母親がきっとこのような女性だったに違いない、という思い込みからなのだが、慎之介は立場上どうしようもなく苦しむ。
とうとう慎之介と静は結婚することになってしまうが、初夜の場で静は「形だけの夫婦となってお姉さまを幸せにしてあげて欲しい」と頼むのだった。
なんという思いやりか!と思ってしまいそうだが、これはどう考えたって静はレズビアンなのであってずっとお遊さまをお姉さまと呼んで愛していた、と考えたほうがわかりやすい。
お遊さまも静の結婚話が持ち上がるたびに邪魔をした、ということからもビアンぽいところはあったのだろうが話からして静は本当のビアンでお遊さまは自覚していないビアンかもしれない。
まあお遊さまはすでに別の男と結婚して子供もいるのだから絶対的ビアンではないのだろう。
お姉さまも慎之介が気に入っているようで、ここで最初からお遊さまと慎之介が結婚できるようにしてもいいのだがそれでは静の入る隙間がなくなってしまうので静としては自分が慎之介と結婚し、お遊さまに片思いの慎之助を懐柔しながら3人でいつも会うようにすればお姉さまといつもいられる、と考えたのだろう。無論男性との性関係は持ちたくないので最初からきっぱりと兄妹の関係でいたい、と打ち明けたわけである。
まあ谷崎が原作なのでそれほど驚くこともなかったのだが、観ていた時は知らなかったのでとんでもない展開にどうなることかとどきどきしてしまった。
それにしてもはっきりとお姉さまに告白するわけにもいかない静が切ないではないか。
慎之助も悪い男ではないのでけなげな静に同情しながらもお遊さまへの思いを断ち切れない、苦しい心情なのである。

世間、という煩い圧力に苦しみ、3人の危うい関係は崩れてしまう。
裕福な夫の家との絆である一人息子を亡くしてしまったお遊さまは里帰りした後、別の富裕家に嫁ぐことになる。
慎之助・静夫婦は経済力を失ったのだろうか。小さな家に移り住み、そこで子に恵まれる。だが産後の肥立ちが悪かった静はお遊さまの小袖を身にまとって死んでしまう。
悲しみにくれる慎之介は生まれた子供をお遊さまに預ける。二人の思いを知ったお遊さまは泣き崩れる。

お遊さまを互いとも愛し続けた慎之助と静の子供が彼女の懐で抱かれることになる。なんと不思議で切ない愛の物語なのか。
お遊さまもまた慎之助と静のどちらも愛し、どちらとも契るわけにはいかない時代の悲しい恋なのである。

静の音羽信子は可愛らしく、はっきりと同性愛なのだとは言えない愛情に苦しむ女性を演じていた。
お遊さまの田中絹代の美しさ。芸に秀でた上品な奥方なのだが、取り澄ましているのではなく温かく優しげな雰囲気で二人から狂おしいほど愛されるにふさわしい魅力であった。どこか『天上桟敷の人々』のギャランスを思い出させる。

映像の美はどの場面を観ても一幅の絵のようなというべきで、日本の富裕層の上品な美意識を感じたいならば是非一見の価値あり。堪能できる。

監督:溝口健二 出演:田中絹代 乙羽信子 堀雄二 柳永二郎 進藤英太郎
1951年 / 日本
posted by フェイユイ at 23:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『さらば箱舟』寺山修司

さらば箱舟.jpg

寺山修司の世界と言えば青森弁と切り離せない、と思っていたら突然自分には聞きなれた九州弁で物語が始まったのに驚いた。
言葉は九州本土のものだが舞台はいかにも沖縄である。凍てつく冬のイメージ東北の詩人が最後に作った映画が南の島のものであるということに意味はあるのだろうか。
原作はガルシア・マルケス『百年の孤独』だという。ラテンアメリカの物語を原作とするなら青森よりは沖縄の方がイメージしやすいかもしれないがそのことだけではなく沖縄という場所は死後の世界へつながっているというイメージが湧いてくるのだろうか。他の映画にも「死」をテーマにして沖縄を舞台にしたものが幾つもある。沖縄の概念「ニライカナイ」死後7代して死者の魂は親族の守護神になるという信仰がこの映画に活かされているようだ。

『百年の孤独』がどんな物語なのか知らないが、粗筋だけを読むとある一族の百年の歴史が描かれているのだという。
本作では沖縄のある村と思しき小さな村で時任という一族が権力を持っていることが語られる。時任家の本家は村中の時計を取り上げ捨ててしまい、その名前「時任」が示すとおり本家だけに時計があって村中の時を任されているのだ。
本家の大作は権力を欲しいままにしておりそのことは闘鶏で常に勝っている事からもわかる。だがある日分家の捨吉が闘鶏で大作に勝ってしまう。
捨吉は本家のスエという娘と禁じられた結婚をしている。二人はいとこ同士になる為、もし子供が生まれたら犬のような子が生まれるだろうと危惧されスエは父親に貞操帯をつけられてしまっているのだ。夫婦でありながら性交することを許されない二人は村中の笑いものだった。特に捨吉は不能なのだという嘲笑を受けていて闘鶏に負けた大作は腹いせに捨吉を馬鹿にする。怒った捨吉は本家の大作を刺し殺してしまうのだ。
時を任された家でありながら時任家には子孫ができない。
大作は子供をなさないまま死んでしまい、捨吉・スエは子供を作ることが許されない。
捨吉はスエと共に村を出る事を決意するが何日も彷徨った末、もとの家に戻ってしまう。(家の中の火が消えない、というのが二人の生活が続くことを暗示している)
また殺された大作も霊になって捨吉の前に現れる。二人ともこの場所から逃れることができないのだ。
霊になった大作はしょっちゅう捨吉の前に現れて会話する。それまで交流のなかった二人が殺害によって触れ合うことになる。
年をとって物忘れの激しくなった捨吉はあらゆるものに名前を書いた札をつけていく。一方スエはまったく年をとらずいつまでも若く美しい。
捨吉は家に時計を飾るが村に時計が二つあると混乱するという村人たちに殺害されてしまう。捨吉が死んだ後、スエの貞操帯が外れる。
村のある場所に大きな穴が出現する。その穴は時間や空間を越えてどこかへつながっているらしい。
時任家に夫が本家を継ぐはずだったという母子が訪ねてくる。子供が穴に落ちてしまうが上がってきたときには大人に成長している。
時任家に大量の時計が持ち込まれどれが本当の時間か判らなくなってしまう。そして時間が止まってしまうのだが訪ねて来た母子の子供が大人になって大作と関係のあった娘、そしてスエと性交することで再び時計が動き出す。
時任家の歴史が再び動き出したのだ。

時間が止まったままの村の隣町はどんどん繁栄していた為、村人はそちらへと移り住んでしまい村は空っぽになってしまう。
そして百年経った頃、村人の子孫達が集まって記念写真を撮るのだっった。

溢れるようなイマジネーションに見惚れてしまう。主役級が山崎努、小川真由美、原田芳雄といういわば普通の役者陣だがさすが寺山修司の世界になってしまうのである。
とはいえいずれも名優ぞろい、非常に見やすくしかも色気のある演技であった。
出演者としては他に石橋蓮司、高橋洋子、そして高橋ひとみと三上博史の美しさは二人とも目を見張る美しさである。

映像も独特の色彩と光と影が素晴らしい。そしていつもの寺山修司の異様な世界は健在である。
この作品は寺山修司の遺作であり、撮影当時すでに体を壊していたという。死を意識した作品だったのだろう。
『さらば箱舟』の箱舟とはノアの箱舟のことだろうか。
世界の終末から逃れるために家族が作った箱舟。
百年後に箱舟から家族は地に降り立ったのか。
その中には捨吉とスエが念願の夫婦となって子供を産んでいる。
寺山修司自身もまた百年後に再生するのかもしれない。

監督:寺山修司 出演:小川真由美 山崎努 原田芳雄 高橋洋子 高橋ひとみ 石橋蓮司 天本英世 三上博史 新高けい子
1982年 / 日本
ラベル:生と死 寺山修司
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2009年02月17日

『みかへりの塔』清水宏

みかへりの塔.jpg

この映画が作られた1941年というと太平洋戦争が始まった年でそんな時代の映画というとナンだか偏ったものを思わせるし「素行の悪い子供達が収容された学校の物語」というイントロダクションを読んで興味は非常に持ったもののもし嘘っぽく教訓じみたような作品なら途中で止めるかと思いながら見出したものの最初から引き込まれて結局最後まで観てしまったのだった。

非行少年少女を厳しい戒律の元で更生する学校、というともともと奔放な性質の少年少女が自由を奪われ、逃れようと反抗する映画作品を思い浮かべるが、ここに描かれている非行少年少女は(幾人かの例外はあっても)物凄く礼儀正しく集団能力があって一体これは真実なのか「こうであって欲しい」という願望なのか、観ている内によくわからなくなったりもする。
なんだかある種の投薬をされて精神をコントロールされているSF映画のようにすら思える、と思うこと自体が精神が歪んでいるのだろうか。
虚言癖、盗癖などの問題を抱えた二百人ほどの少年少女たちが収容されている学校なのだが、その殆どはまだ児童というべき幼さである。彼らは広い校内に分散して建つ「家庭」と名づけられた家々に集団で寝泊りし自分達で家事を分担している。幼い彼らを見守るのは「お母さん」と呼ばれている保母たちである。脱走、怠けなどを繰り返しながらも彼らは集団生活の中で少しずつ規律を守ることを習得していくのである。
冒頭に裕福な家の娘だが父親に反抗して財布から金を盗み夜遊びをしていたことで預けられることになった少女・タミが入所してくる。彼女が物語の大筋を追っていくような形になっている。
この少女もまたいかにもお嬢様的に丁寧な言葉で反抗していくので、金持ちでもいかにも不良な言葉遣いの今の不良娘とはかけ離れている。言葉は丁寧だが反抗心は最も強い少女で下働きのようなことばかりさせられ粗末な食事をしなければならないことに苛立っていて他の少女達からも孤立している。そんなタミも懸命に子供達を更生させようとする若い「お母さん」にいつしか愛情を持ち従うようになっていく。
日常の様々な仕事や畑仕事、水汲みなどを走り回ってこなしていく小さな子供達を見ていると現在の感覚では痛々しくも思えるし、こんな勤勉な不良ってなんだ、もうすでに現在のゲームばっかやってる子供達よりはるかに真面目じゃないかと思える。先生や保母さんに対する礼儀も心が洗われるようだ。
笠智衆さんが演じる先生を始めすべての先生・保母さんが教育に熱心で子供たちを心から愛しているようだ。不埒なスケベおやじなどいやしない。子供たちも喧嘩したり嘘をついたりオネショをしたりと問題があるとは言っても先生・保母さんを慕っていて可愛らしい。
こういう話には胸が痛むような問題が起きるのが普通だが、せいぜい脱走した子供たちを捕まえた、のと反抗的なタミを保母さんが叩いたことで自信を失う、と言うくらいである。
そして井戸の水不足を解消する為、泉から水を引く計画を立て先生と子供たちが一丸となって鍬をふるい、水路を通すエピソードは勢いよく流れる水の中を子供達が駆け回るという感動的な結果となる。
どうしても信じられない問題児たちと先生たちの感動作なのだが、問題児が題材だからこそ、こうであって欲しいという理想をこの作品の中に見てしまうのだろうか。
誰かのお母さんが学校を訪ねて来たのを子供達が見つけた時、自分の母親でなくても「○○のお母さんが来たぞー」と叫んでそれを聞いた子がさらに叫んで声を伝達していくことで嬉しいニュースを知らせる場面など不思議な感動がある。
あんまり美しくてどう感じていいかちょっと判らなくなってしまった。素直に感動していいものかと迷うというのも自分の心が歪んでいるからなのだろうなあ。
いい先生達に見守られながら少しずつ成長し自分を戒めながら卒業していく子供達が強く生きていくことを願いたい。
しかし歴史的にはこの後、子供達は戦争の中で生きることになるのだ。悲しい。

監督:清水宏 出演:笠智衆 奈良真養 森川まさみ 横山準 古谷輝男 三宅邦子
1941年 / 日本
ラベル:子供 教育
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2009年02月12日

『炎上』市川崑

炎上.jpg

こういう言い方はおかしいのかもしれないが、なんと50年以上昔の映画なのにこうも複雑に異常な精神を繊細に描いた作品があるとは。
などと言っても現在の映画作品がそれほど細やかな描写をしているばかりとは言えないがどこか昔の映画は大らかで単純といまだに思っていた自分が恥じ入ってしまう。
それにしてもこの歪んだ精神の主人公を市川雷蔵という気品ある二枚目が演じていてまるで他の雷蔵を思い起こさせもしない、というのはなんということだろうか。しかもこの時28歳だと思うが10代からやっと二十歳頃の危うい青年にしか見えない。まさに何かが憑依したとでも言うのか、そういった青年そのものにしか思えなかったのである。

息を呑むほどに美しいモノクロームの優れたカメラワークに見惚れてしまうが、反面、登場する人間達の生々しい造形はどうだろう。
どの人物も一面だけではなく精神と感情が複雑に揺れ動いている。どの人物も善と悪を併せ持っているのだ。
主人公・伍市は酷い吃音に強い劣等感を持っていてその為に無口になり常に人の心を推し量っている。だが美しいものに憧れていて、人を尊敬したいと願ってもいる。
物語は伍市が国宝である驟閣寺に放火して取調べを受けている場面から始まる。
何故この大人しそうな青年がそんな犯罪を犯したのか。だが物語から明確な動機を知ることはできない。
彼が慕い尊敬していた僧である父親がその美しさを褒めちぎり伍市も同じように驟閣寺の美しさを永遠のものとして信じていた。
友人となった男・戸刈が生き物は皆変わっていく、という言葉に怯えた伍市が驟閣寺の美しさを永遠にする為には燃やしてしまうしかない、と考えたのだろうか。
だが何故。父親のように尊敬していた老師が次第に自分に冷たくなり芸者を囲うような男だと判った為か。
その老師もまた己の心の善と悪に苦しんでいる。
伍市にはその苦しみは見えず優等生から落ちこぼれ老師から見捨てられた存在になってしまった自分を愛する驟閣寺の中で燃やしてしまうつもりだったのか。愛する父が死後に炎で焼かれたように。
伍市には二人の友人が現れる。前半、人嫌いの伍市に心優しく接してくれる友。彼は容姿も精神もとても優れている人物だ。彼は唯一この作品の中で善だけの存在のようで途中で死んでしまう。
後半、入れ替わるように登場するのが戸刈で彼は身体が不自由で大きく足を引きずって歩かなければならないことを伍市の吃音のように激しい劣等感として口にする。
友人の善悪が入れ替わったのと同じように伍市の精神も変わっていく。
戸刈は伍市が上手く表現できないでいる心の中のもやもやを吐き出すかのように口にするのだ。そのせいか伍市は戸刈から離れられない。彼が他人を罵倒し、伍市を操れば操るほど戸刈との結びつきが強くなっていく。が、戸刈はそんな伍市に吃音を嘲笑う悪口を止めることはしない。
別の老僧が老師を訪ねてきたのを伍市は「自分を見抜いてください」と嘆願する。老僧は笑って伍市の問いに答えない。
彼を見るやや冷めた伍市の視線に彼の失望がある。
誰も自分を知ってくれる人はいない。
伍市の苦悩は現在の人間の寂しさと同じものがあるのではないか。一見見栄えのよい優等生で高い自尊心を持ちつつ、何か強い劣等感を持ち心を閉ざしている。
彼が母親を責め続けているように他の人の欠点を許すことができない。
人の繋がりが今よりもあったと思える昔の物語の中にこんな孤独感、失望感を描いた作品があるとは。伍市が次第に転落していき、誰とのつながりもなくなってしまったと感じてしまう怖ろしい孤独感。
無論これの原作を三島由紀夫が書いたので自分は未読なのだがその小説の中に人間の虚無感が描き出されているのだろうか。
この作品は現在にこそもっと観られていいものではないだろうか。

そういえば昨今ブログでの『炎上』なるものが流行ったりしている。あれもまた孤独な人々がその虚無感ゆえに起こしてしまう過ちのように思えてしまう、というのはまあ無理強いすぎるか。

映画を観ながら思い出したのは山岸凉子『負の連鎖』で知った『津山三十人殺し』の犯人。そして昨今起き続ける意味のない大量殺人。
どちらの事件の犯人も容姿や己の無力さに強い劣等感を持ち誰からも相手にされない孤独感から怖ろしい殺傷事件を犯してしまった。
映画では人命ではなく国宝を破壊する。
想像だが三島作品では美しい国宝に火をつけることに滅びの美学があったのかもしれないが映画の国宝である寺はさほど耽美は感じられない。
そのためより己の虚無感から『尊い国宝』=『尊い人命』を奪ってしまうという衝動に共通点を見てしまう。
主人公が放火以前にも他人の貴重な剣を傷つけたり、女性を突き飛ばしてしまうなど彼がかっとなると酷い加虐性があることが示されている。狂気がどのような形で爆発するかは判らないのだ。
もしかしたらラストだけは昔風の行動なのか。死を選ぶことで自らを罰したかのように見える最期。現代の伍市なら「自分は間違っていない。世の中がおかしいのだ」と主張し続ける場面で終わるのかもしれない。

監督:市川崑 出演: 市川雷蔵 仲代達矢 中村玉緒 新珠三千代 浦路洋子

1958年 / 日本
ラベル:市川雷蔵
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『書を捨てよ町へ出よう』寺山修司

書を捨てよ.jpg

若い時、寺山修司の、それまでにない過激な表現にたじろぎ慄いた。詩歌にしても映像にしても確固たる彼の世界というものがあった。訛りを消そうともしない青森弁の言葉にも彼の強い意志が感じられた。その世界の鮮やかな異色性に打ちのめされ、惹かれ、ある時は怖れさえ感じたのだ。

怖いものに惹かれるようにして覗き込んだ寺山修司の世界だったが、若い時観たのはほんの僅かの部分でしかなかっただろう。
作品以外で彼を近しく感じたのは竹宮惠子『風と木の詩』でジルベールについて語っているのを読んでうれしく思ったり、あしたのジョー』の登場人物・力石徹の“葬儀”で葬儀委員長を務めたということを後で知ったりして妙に感心したものだ。
そして私が寺山修司と詩の世界で触れ合ったのは彼の詩集ではなく新書館から出ていた寺山修司編集『99粒のなみだ―あなたの詩集』という一般の女性から募った詩の本で普通に考えると大人の男性が関心を持ってくれるとは思えないような少女の甘い夢の世界を一人の有名な詩人が真面目に受け止めていることに驚いたのだった。
寺山さんが亡くなったというのを聞いた時は驚いたが、今その享年の年齢(47歳)を見るとその若さに改めて驚いてしまう。
彼の作品は強烈だが一言ではとても表現できない。
激しい劣等感と強い自我と美しいものへと憧れと共に醜いものへの憧憬も感じられる。一つ一つの言葉が鮮烈で叩きつけられるような痛みがありながら、優しさもまたあるのだ。
彼の独特の世界はやはり彼が東北青森の生まれでありそのことが彼の世界そのものとして描かれていて、九州人である自分には羨望でもありその激しさが謎ですらあった。
松山ケンイチを好きになった自分としては寺山の自己主張と松ケンのイメージがどこか重なって感じられるのだがこの映画の主人公を見ているとさらにその気持ちが強くなった。
とはいえ、「映画は嫌いで、もうこの世界には戻らない」と語っている本作の主人公とは違い松山ケンイチはこの嘘の世界と現実の世界をこれからも往復していくのだろうなと思うが。

前置きが長すぎたが寺山修司をそれほど知ってはいないが深い憧れと尊敬を持っていたことを書きたかった。
さて本作の鑑賞はある程度彼の作品を知っているかどうかで随分違った受け止め方になるに違いない。
それにしても冒頭から「映画館の暗闇で、そうやって腰掛けて待ってたって何も始まらないよ」と青森訛りで語りかけてきてあっという間に寺山の世界へ入ってしまう。
寺山修司の代弁者であるような若者が物語っていく作品である。風変わりな家族を持ち、大学生でもないのにある大学のサッカー部に行ってはそこの掃除をし、キャプテンである男を慕って彼からも可愛がられている、という存在である。
女性にも晩生であり内気で大人しい主人公が最後攻撃的な言葉を投げつけるまでを描いている。
映画の中の出来事は現実と夢想を行き来しているようでもあり支離滅裂な感じであるが寺山が好きな世界が次々と映像化されていく、という感じでやはりイメージの鮮烈さに圧倒されてしまう。
ちょっとした背景にも部屋の美術にも寺山修司の詩が感じられるのだ。
無論サッカー部であることも「玉が大きいほど男らしい」という美意識からきているもので何と言っても野球が全盛だった当時としてはそれすらも反逆的な意見だったのだ。
内気である主人公が時折叫ぶ台詞が詩のように鋭く響く。
彼が初めて女性と関係を持った時、妹が男性に強姦された時、苦悶する泣き声が画面を覆う。
どもりの青年の独白が印象的だ。この青年を含め朝鮮人という言葉が何度も出てくる。人力飛行機で祖国へ飛ぼうとして落下する、という強烈なイメージがある。
突然不思議な売春宿(?)で入浴をしている美貌の娼婦を美輪明宏が演じている。その魔力ともいうべき魅力の凄さ。
久し振りに寺山修司の映像(と言ってもこの前『ボクサー』を観たが)に耽溺した。

監督:寺山修司 出演:佐々木英明 平泉成 美輪明宏 斎藤正治 浅川マキ 小林由起子 平泉征 森めぐみ
1971年日本
ラベル:寺山修司
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2009年02月02日

『ドモ又の死』奥秀太郎

ドモ又の死.jpg

確か以前こんな映画ができてる、と記事にしたように思うが、有島武郎の戯曲を織り交ぜた女性ばかりが出演する作品、ということで一体どんな映画になるのかと期待したが、これは予想以上に面白い作品だった。

短めな作品で独特のタッチの映画でもっとわけのわからないものになってしまうのかと思いきや意外にきっちりした世界を作り上げていて共感できるものだった。
薬物中毒者更生施設で共同生活を送る若い女性たちがスパルタな指導官のもとで絵画、レスリング、木工など様々な試みをする中で有島武郎の戯曲を演じることになる。
『ドモ又の死』という戯曲の暗唱と彼女達の精神のゆれ・行動が不思議に交錯していき現実と虚構の物語が混沌としていく。
大正時代の台詞回しと彼女達の現代の言葉が入り混じっていく独特の味わいが面白い。
薬物中毒から更生しようとする彼女達の中でも最も荒んだ感のある戸部はドモ又とあだ名されている。
彼女ととも子、九頭竜の娘が同性愛的な関係でもある。

とにかく映画を観てみなければ味わえない不思議な感覚がある。ドラッグ厚生施設の少女達というとウィノナ・ライダーの『17歳のカルテ』があるがあれも面白かった。思うに男性・少年のこういう物語というのは数多くあるのだが女性もの、というのは案外少ないしあっても勘違いなセクシー路線で的外れな作品だったりすることがままあるものだ。
本作では綺麗な女性が出演しているとはいえ着ている服装も思い切り普通のもので生活も地味な当たり前のものだというのが却って驚きだったりする。男性ばかりの作品というのも多いし面白いことが多いものだ。女性ばかりの作品というのももっと作られていいのではないだろうか、と思う次第である。
映画の中で別の芝居を織り交ぜていく、という構成演出はとても好きでこの作品でもとても効果的に使われている。

この作品に興味をもったのは何と言っても萩尾望都が出演されていることで更生施設の院長という役柄である。車椅子に乗って幾つかの台詞もある。堂々とした演技だった。知性が顔に出てます。

監督:奥秀太郎 出演:江本純子 三輪明日美 藤谷文子 野村恵里 高野ゆらこ つるうちはな 片桐はいり 萩尾望都
2007年日本
ラベル: ドラッグ
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2009年01月25日

『フラガール』李相日

フラガール.jpg

昨日観た『舞妓 Haaaan!!!』の対極にある、と言ったら言い過ぎかもしれないがかなり反対側に位置する作品ではないだろうか。
個人の為でもありながら地域の人々とのつながりがあってこその存在、というような人情味溢れる物語であった。
そして男から見た「舞う女」の『舞妓 Haaaan!!!』の逆に女の立場での「舞う女」『フラガール』虚構の世界と現実の世界、という対極でもあった。
その上、華やかな京都からものすごい田舎町へと移動して、方言もさることながらそういう背景の違いも極端で二つの映画を続けて観る面白さも感じてしまった。

この映画でも最初ぐっと来てしまうのは「自分はこうなりたい」と願う少女が父親の反対に会い自分を抑えて妹弟たちのために踊りを捨ててしまう場面である。彼女の場合は仕方がない、とはいえ、やはり悲しかった。最後の最後まで彼女が戻ってくることはないのかと期待したりもしたのだが。無論彼女のような人もたくさんいただろうし、彼女の存在が親友を引き入れ、先生との間を緊密にしていく、という設定は素晴らしくうまいものだったと思う。
題材は突飛なようで田舎町に不釣合いにモダンなものが登場し田舎の人々を翻弄しながらもそのなかに溶け込んでいく、というパターンはそれほど目新しいものではないし、設定も物語もよくある型どおりとも思えるのだがそんなことがどうでもいいほど感情に訴えてくる。
踊りなどやったことも見たこともないであろう少女達が(やや大人もいるが)次第に熱心に練習をしていく場面を見るだけでじわっと来てしまうのだからしょうがない。
母の愛、兄の思いやり、そしてハワイアンセンターのやしの木を枯らすまいと必死になってストーブを集める姿がもうこてこてにお涙頂戴なんだけどまんまと涙をこぼしてしまう自分なのである。

松雪泰子がかっこよく、豊川悦司が魅力的で、 蒼井優は可愛くて踊りが上手くて、しずちゃんもかわいくて、 富司純子さんが貫禄で、とこれも素直に感動したい作品だった。

監督:李相日 出演: 松雪泰子 豊川悦司 蒼井優 山崎静代 池津祥子 徳永えり 三宅弘城 寺島進 志賀勝 高橋克実 岸部一徳 富司純子
2006年日本
ラベル:友情 愛情
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『舞妓 Haaaan!!!』水田伸生

maikohaaaan.jpg

阿部サダヲ全力疾走という感じでさすがにちょっとてんこ盛りすぎて騒々しいのではあるが、それでもたっぷり楽しめる作品だった。

無理矢理つなげるのではないが先日観た『ペネロピ』と比較してしまう。
他人が見れば背けたくなるほどの異常性を持つ主人公がなんとか自分の道を見つけ出していこう、と邁進していくのが共通項なのではないか、と自分的には感じたのだが。
色彩豊かな映像美と溢れるような創意工夫を凝らしたコメディである、というのも似通っているし「人間の姿かたちの美」にこだわったものであるということ、というのも同じである。
監督も男性ということが同じだが、そのせいなのか主人公の進む結果が全く違っていて「男だとこういう結果になるわけね」と関係ない映画に対して目くじらをたてたくなってしまう。
というのはこの映画で大騒ぎをする主人公、京都へ修学旅行をした時、舞妓はんに出会って人生のすべてが舞妓はんを追いかけることだけになってしまったという他人から見ればとんでもなくアホな男である。一般的に言えば異常に気持ち悪いオタクである、が、彼にとっては舞妓はんこそが生きることなのだ。そして彼はそれを実行し、生涯舞妓はんの為に生きることになる。
豚鼻を持っていることと舞妓はんの為にだけ生きていることとどちらが異常なのかは判断しかねるが、「私はこのままの私が好き」と言ったペネロピが普通人になってしまったのに対し、公彦は「そのままの自分」を貫き通していく。
一過性の思い出、というだけでなく自分が好きになったものを変えなかった公彦を見ると「そうなよなあ」と頷き、再び自分を見限ったペネロピに侮蔑とは言わないが無念の眼差しを向けたくなる。
舞妓はんを追いかけたいなら追いかければよし、豚鼻の自分を愛するなら豚鼻であればよし、である。
それがもし「男性監督の作品」ということで「主人公が男性なら自由を認める」が「主人公が女性なら自由は認めない」ということになったのなら悲しい。
なぜ男性の場合は「他人と違うおたくであること」を貫き、女性のペネロピは「他人と違う顔」ことをやめざるを得なかったのか。自分が「そのままが好き」と言ったにも関わらず。
『舞妓 Haaaan!!! 』を観て再度『ペネロピ』に憤慨してしまう自分だった。

『ペネロピ』への怒りはこのくらいにして本作についても書きたいが、とにかく面白おかしくて阿部サダヲが爆発しまくっている画面に圧倒され続け、舞妓はんの可愛らしさに見惚れたり、田舎もんにとってはやはり京都は憧ればい、などと思いながら目くるめくような超特急の展開に翻弄されながらも楽しんだ、という印象でそれらにことさら(上に書いた以上の)解釈や理屈はいらないだろう。
舞妓はんを好きになった男、というだけの話でありながら何故か清純な物語で、途中から舞妓はんそっちのけで男同士の戦いの話になっていってしまったり、それでも強引に最後をまとめてしまう辺りに製作者たちの心意気を見る、ということだろうか。

途中で今は亡き植木等さんを見た時は酷くはっとした。
北村一輝のお医者にもはっとした。

監督:水田伸生 出演:阿部サダヲ 堤真一 柴咲コウ 小出早織 京野ことみ 酒井若菜 キムラ緑子 大倉孝二 生瀬勝久 山田孝之 須賀健太 Mr.オクレ 北村一輝 植木等 木場勝己 真矢みき 吉行和子 伊東四朗
2007年日本
ラベル:コメディ
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2009年01月19日

『雨月物語』溝口健二

雨月物語.jpg

続けて溝口を3作観た。今まで鑑賞したことがなかった自分である。
溝口、というとまず映像が並外れて美しく独創性に富んでいることが言われる。無論自分のように観る目がないものでもはっとするような衝撃を覚える場面がいくつもある。
だがそれ以上に驚いたのは美しいとだけ聞いていたのだがその美しさというのが虚飾的なものではなくリアリティの中で感じられるものだった、ということだった。
特に溝口というと『雨月物語』ということを聞いていたので多分幻想的な美に彩られたような作品を創作する人なのかと思い込んでいたのだが、本作を観てもそこにしっかりと描かれているのは『山椒大夫』でも観た貧しい人々の暮らしぶりである。
そしてどちらも貧しくても愛のある落ち着いた生活こそが最上の幸せなのだ物語っているのである。
つまりは非常にノーマルな考えから成り立った作品に仕上がっているのでとても受け入れやすいテーマなのではないだろうか。
だがこの作品で最も観ていて楽しいのは源十郎が妖しい美姫から求愛され桃源郷の日々をすごした後美姫が怨霊の如き風貌に変わり源十郎を逃がすまいとすると源十郎の体には阿闍梨が記した文言が覆っており魔性の美姫は近づくことができない。果たして源十郎が美姫と過ごした邸宅は焼け落ちた邸の幻影であった、という箇所と夢から醒めた源十郎が家に戻ると妻子が待っており妻は甲斐甲斐しく源十郎の労をねぎらう。安堵の思いで眠った源十郎が目を覚ますと妻はすでに盗賊から殺されていたことを知る、という二つの話である。
特に魔性の美姫を演じた京マチ子の妖しい美しさは類なきものでほんのわずかな化粧の違いだけで妖艶な美女が怖ろしい悪霊に変化してしまう箇所はぞっとするものがある。
そして故郷の家に戻った減十郎が家をあちこち探しても姿が見えないのにカメラがぐるりとまわるとそこにある囲炉裏で妻が食事の支度をしながら待っている姿が見える、という不思議な撮り方になっている。
源十郎が我が家で心からほっとすると愛する妻は実は幽霊だった(もしくは源十郎の幻想だった)ということになる。優しい妻は田中絹代が演じていて確かにほっとする情愛に満ちている。

とはいえ、この作品構成としては兄夫婦と弟夫婦の物語が絡んで語られていく。
弟夫婦の話は侍になって立身出世を望んだ夫がその間に愛する妻がそういった下っ端の侍たちに輪姦され娼婦になっていたのに驚き反省してもとの百姓に戻る、という話でさほど面白いものでもない。
弟夫婦の話はなくともいいのかもしれないが、兄が妻を亡くしてしまうために弟に妻が生き残っていた幸せを感じさせ対比しているのかもしれない。

自分が観た前2作は主演男優にやや不満を感じたが源十郎を演じた森雅之はとてもよかった。
妖しい美姫に惚れこまれ、妻子からも愛される真面目で優しい男性らしい魅力があったと思う。

監督:溝口健二 出演:京マチ子 森雅之 水戸光子 田中絹代 小沢栄 小沢栄太郎
1953年日本
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2009年01月18日

『近松物語』溝口健二

近松物語2.jpg近松物語.jpg

不義密通は引き回しの上磔という時代にその罰を受けても愛し合った二人の物語。

物語は現在の意識ですればとんでもない不条理を感じてしまうものだが、その不条理さがあるからこそ、不義の上での愛に真実を感じてしまうものなのだろうか。
映像がシンプルでありながら計算された極め付きの美しさであり、悲恋の儚さが際立って感じられる。
茂兵衛が崖を下っていくのをおさんが追いかける場面は先日観た『山椒大夫』で厨子王が逃げ延びるために崖を下る構図カメラワークとほぼ同じものでどちらも登場人物の心も表現しているような迫力のあるものになっている。
特に本作では追いかけるおさんと逃げようとする茂兵衛の気持ちが伝わってくるものだった。

一体この作品で一番悪いのは誰なのか、などというのは仕方のないことかもしれないが出来が悪く妹に何度も金の無心をしておきながら本人は脳天気な兄、大金を儲けていながら妻の苦悩を和らげてやることもしない吝嗇な夫、商人を利用しておきながら最後には権力で押しつぶしてしまう侍か。それら権力の上に立つものと、それらに従うしかない奉公人、女性など虐げられる存在の人間たち。
茂兵衛もおさんもどこかでどうにかなるのではないか、と上の者を信じて頼ってしまった甘さがあって観ている者は歯噛みするしかない。
茂兵衛もおさんも何の下心もなく不義を行ったわけでもないのにとんでもない邪推から負われる身の上となってしまい、「こんな辱めを受けるくらいなら」と泣くおさんの為に茂兵衛は心中を覚悟する。
ところが死を目の前にして茂兵衛はおさんにずっと慕い続けていたことを告白する。身分違いの立場ではあるものの。
それを聞いたおさんは「生きていたい」と思う。もとより年の離れた夫とは実家の為の愛なき結婚であり、おさん自身も茂兵衛に思いを寄せていたのだろう。
その茂兵衛から愛されていることを知り、おさんは初めて愛される喜びを感じたのではないだろうか。
死を決意した水の上の舟の中でおさんは茂兵衛にすがりつき、生きたい、と願うのだ。
支えあいながら山へ逃げる二人だがか弱い奥方のおさんには険しい山道は過酷である。
まして追っ手がいることを懸念して茂兵衛は一人崖を下ろうとする。それを追いかけるおさん。この場面が美しい。
足を痛めたおさんが倒れてしまったのを見かねて茂兵衛は飛び出し、おさんの白い脚の傷を口で吸う。
そしてもう離れないと誓うのだった。

二人の道に外れた愛はおさんの嫁ぎ先である富豪の商家・大経師を取り潰しにしてしまう。茂兵衛の父親も村人にも何らかの沙汰があったのかもしれない。番頭(とんでもなく悪党の番頭だったが)にも罰が下る、というとんでもない状況を引き起こしてしまい、二人はその罪の罰として「引き回し磔」となる。
だが町中を引き回されるという辱めを受けながら、二人の顔は喜びに輝いていた。

引き回しにされる時、二人は一頭の馬に背中合わせに乗り縊られているのだが、その手はしっかりと握り合わされている。
厳しい規則の中の道ならぬ恋というのは何よりも激しいものなのだ。
おさんを演じた香川京子の「お家様」と呼ばれるお内儀がしとやかな中にも色香があって美しい。
茂兵衛には長谷川一夫。私はずっと長谷川一夫さん、という方はとても美しい演技者だとイメージしていたのだが、この前観た『雪之丞変化』でもそうだったが、どうしても一人異質な感じがしてしまうのだ。
稀代の美形役者と認められていた男性にそういう感覚を持ってしまうのは時代が変わったからなのか。まして田舎出の奉公人という顔に思えなくて彼の存在だけはやや不思議に思えてしまう。
先日の『山椒大夫』でも主役男性のみが不満だったので一体どういうものか、と言う気もするがあの人と比べればさすがに長谷川一夫のほうが見せてくれる。

そうした主演男優がいまいち腑に落ちないものだとはいえ、溝口映画の素晴らしさは確かに納得できる。
お内儀のヘアスタイルや服装も現在よくある時代物に出てくるものとはまったく違ってかっこいい。お歯黒もしているのに美しく見えるのである。男性の髷も違うものだ。
そうしたファッションや家財道具などを見ているのも楽しいものでこういうものでさえ現代ではなかなか表現できないものになっているのだろうか。

監督:溝口健二 出演:長谷川一夫 香川京子 南田洋子 進藤英太郎 小沢栄太郎 菅井一郎 田中春男 浪花千栄子 十朱久雄
1954年日本
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2009年01月16日

『山椒大夫』溝口健二

山椒大夫.jpg

狙ったわけではないのだが、昨日の子売りの話に引き続き人身売買の話である。
『山椒大夫』といえば昔アニメで観たせいなのか、お伽話のようなイメージを持っていたが、本作はその題材がリアリティを持って表現されている。どこか現在の派遣社員の話題とも重なるような(というのは言い過ぎなのか、その通りなのか)思いさえしてしまうのであった。

世間の風潮に流されていれば何不自由ない暮らしを送れたはずの貴族の親子がある日を境に地位を失ってしまう。
「人は平等であるべき。自分を戒めても他には情けをかけなければいけない」という信念を持った父親が上に逆らって年貢の取立てや徴兵を行わなかった為に左遷されてしまったのだ。
母と兄妹・安寿と厨子王は母の実家へと向かうがそこでも邪険にされ居た溜まれず、召使を一人連れただけでなんとか父君の元へと彷徨い歩くこととなる。
(昔観たのでは姉弟だったがここでは兄妹になっている)
母子は悪党どもに騙されて2艘の船で別々の場所へ売り飛ばされる。安寿と厨子王が売られた先が山椒大夫の屋敷だった。
とここまでは大体イメージどおりだが山椒大夫の屋敷にいる奴たちと安寿と厨子王の過酷な労働ぶりがなんともリアルな描写なのである。
そして父親から「絶対守るように」と言われた言葉を厨子王は蔑ろにして他の奴たちに酷い仕打ちをするようになっていく。
だが安寿は真直ぐな心を忘れず、兄を逃がす為に自殺する。
逃げ延びた兄は都で関白からその身分を認められて丹後の守となり、山椒大夫を追い出し、虐げられた奴たちを救う。そして妹の死を知る。
厨子王は守の地位を投げ出し、佐渡にいるという母を捜し訪ねる。
砂浜でぼんやりと座る年老いた女性が母であった。
父の意志を守り、富と名誉を捨てた厨子王は母に謝る。
だが母は父君の言うことを守ったからこそ会えたのだと言い、二人は抱きしめあうのだった。

幻想的な童話ではなく、リアルな描写で観る『山椒大夫』はなんとも怖ろしい物語だった。
裕福になって母を迎えるのではなく、何もかも失った厨子王が老いた母と再会を喜びあう場面はそれまでの二人の人生を思うと涙をこらえることができない。
様々なものを失ってしまっても互いをいたわる姿に感動してしまうのだ。

美しい映像と共に大変素晴らしく見応えある作品だったが、なんとも惜しいのは厨子王役の花柳喜章が酷く見劣りしてしまうことだ。
何故この人なのか、とさえ思ってしまうのだが、甲高い声も動作も貴族の御曹司とは思えない品格のなさである。母役田中絹代と安寿の香川京子は申し分ないのだが。
やはり厨子王が主役として、本当は貴族なのに、という気品ある魅力を持っていて欲しい。
関白に訴えようとする場面などどうもいただけない。

とにかく今の世相にも重なるようなこの物語。
今頃になってやっと観た溝口なのだが、さすがに迫力ある作品だった。

山椒大夫の長男が何故かいい人で残忍な父親を嫌って家を出て行く。後で厨子王たちと絡むのかと思ったら何もなかった(と思うが)
彼はいったいどうなったんだろうか。

監督:溝口健二 出演:田中絹代 花柳喜章 香川京子 進藤英太郎 菅井一郎 河野秋武
1954年日本
ラベル:世相 家族
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2009年01月14日

松田龍平の『蟹工船』

松田龍平の『蟹工船』撮影現場を直撃!虐げられた労働者姿で登場

SABU監督作品ということもあり、松田龍平、西島秀俊出演ということで非常に気になる本作品。
それになにより『蟹工船』というと男だけの世界ゆえ年長者が若い新入りにちょっかいを出すというゲイシーンがあるのだがそれが映画ではどうなっているのかが、気になるところ(そういうとこだけ気になる私^^;)
松田龍平くんは結婚おめでたと喜ばしいニュースもあるが、そういう雰囲気も期待させてくれるのでありますよねー。
とにかく楽しみな作品だ。


ラベル:松田龍平
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2009年01月09日

『黄色い涙』犬童一心

黄色い涙.jpg

この映画、なんとなく気になるが絶対観るぞというほどもなかったのはやはり私にとって犬童一心監督が『ジョゼと虎と魚たち』は◎だが『メゾンドヒミコ』は二重×で嵐さんたちは嫌いじゃないけど是非観たいという人たちでもない、という微妙なところだったからなのだが、とにかく原作の永島慎二さんの映画化というのが気になってしまうのだった。

といっても私にとって永島慎二は一昔前の漫画家さんなのであって青春に影響を受けた、という存在ではない。作品も殆ど知らないという有様である。
だがかつてある時、ふと読んだ雑誌に僅か数ページのマンガが載っていてそれは暑い夏の日、ある少年(小学校中学年くらいだろうか)が母親が外出するので年若いおばさんの家へ夕方向かう途中で友人に金魚を少しだけ見せてもらって金を払う。物凄くおっぱいの大きな女性をみて「すげー」とか言ったりする。
おばさん(といってもお姉さんくらいの若さ)の家でテレビを観てると恋人同士がチューしたりしてる。お姉さんが「なんでそんなテレビ見てるの」なんていうと少年は「うーん」なんて言ってる。
暫くするとお姉さんが『ギャー』と叫ぶので見るとおっぱいのとこにゴキブリがいる。少年がつかまえようとするとゴキブリは逃げてお姉さんのおっぱいをぎゅっと掴んでしまう。
おねえさんは子供相手だから「チェッ。逃げられたじゃない」とか言ってふてくされてるが少年はお姉さんのおっぱいがぼよんとした感触だったのに衝撃を受けてしまう。
そしていきなり家に帰ると言って飛び出して金魚を買うのである。
という内容でまだ若かりし私は一体なんだこのマンガ、起承転結もあったもんじゃない、何の意味もないじゃないか、とあきれたが何故か不思議に物凄く気になって何度も何度も性懲りもなく何度も読み返した。ほんの数ページだし。
一体このマンガが何を描いているのか何度読んでも判らなかったし、何故こんなに気になるのかもわからなかった。
ただ夏の日を表現する影の描き方とか金魚が涼しげに描かれていて上手いなあとは思った。
そして読まなくなっても数十年時折思い返してはあれは不条理なマンガだったな、なんとなく描かれたイメージだけのマンガだ、と何度も考えた(馬鹿だ)
たまたま夫もそのマンガを読んでいてある日永島慎二絶賛会になった。絵が抜群にうまくて子供達が可愛くて物語が他の人と全然違う。凄い人だ。
「でもあのマンガは意味がわからない。雰囲気だけがいいが何も言っていない」と私が言ったら「あれはテレビでキスしてるとか胸の大きな女の人を見てるだけじゃ感触が判らない。少年は叔母さんのおっぱいを触って柔かさを知ったんだ。金魚も遠くで見てるだけじゃなく飼ってみることで本当の感触や実態が観察できるということ。つまりバーチャルじゃなく実体験をしようという意味だ」と言われ、数十年の疑問がやっと解けた。そういった夫も「今まで気づいてなかったのに説明しようとしたら勝手に思いついた」と笑った。なるほどなあ。
この話で何が言いたいのかというとそのくらい永島慎二さんは私にとって長い間忘れられない謎をかけた人だったのである。

永島慎二というと浮かんでくるのがつげ義春である。
私はどちらかといえばつげさんに惹かれたのだと思う。強烈なエロティシズムとそれこそ本当に不条理な世界。
そして同じように衝撃を受けその世界に魅せられた人たちが幾つもの映画作品としても表現されてきた。
なぜなんだろう。
強烈な世界を表現したつげ作品に比べ、永島慎二の世界は今ではあまり語られることが少ないのではないだろうか。私自身つげ作品のほうに惹かれていた。それはどうしてもつげのほうが強烈な性と生を描いていたからだろう。
それがこの映画の中でも語られていることでもある。

始めにも書いたが、自分は永島慎二の作品をさほど読んではいないので書くことが間違っているのかもしれない。
自分が知る範囲では永島慎二はこの映画の主人公が語っているとおり自分の信じる世界だけを描いた、それは青臭くて恥ずかしいほど純粋な世界のように思える。
それは私が大好きで読んだ『少年期たち』のイメージなのであるが。
ちょうどこの映画の最後に主人公が描いている手作りに飛行機を飛ばす話が入っている作品集である。
この作品集にはタイトルどおり少年期の切なく一途な思いが込められていてまさに珠玉の作品集なのだ。

話があまりに散乱しすぎた。
映画に戻ろう。

さて冒頭に書いたようにそれほど切望して観たのではなく途中で嫌になったらやめようかなどと思いながら観出した。
なんとなく散漫な作りで映画的でもなく嵐さんたちの演技もややおかしみを覚えたのだが結局最後まで観てしまった。
私にとっては単にこの映画を鑑賞したというより、映画を観ながら永島慎二のマンガを思い出し、キャラクターを重ねてみたり、また自分自身がこれと同じような青春の時期を送ったこともあってとても客観的に観れるものではなかった。
映画の中でまだその時間にいながら彼らは「この夏のような時期を送ることはないだろう」というセンチメンタルな感慨に襲われている。
だが年取って振り返ればさらにこの感慨は深いものになる。
他の青春映画と違い彼らのやっていることといったらせいぜいぐうぐうお腹をすかせて知り合いを訪ねまわったりたまに金が入るとご飯を食べて酒を飲むくらいの他愛のないことばかり。麻薬もセックスも犯罪もないノーマルな世界で青臭く夢を語る彼ら。狭いアパートの一室でギターをかき鳴らして歌うだけの彼ら。そんな青春を懐かしく思い出す彼らなのだろう。
またもや「これは一体何の意味があるのだろう」と思うのかもしれない。ここにはなにも描かれていないと。
だがこれは思い描いた夢なのではなく、皆が体験する青春なのだ。
自分の青春を思い出すことなのだ。

嵐さんたちはさすがにちょっと綺麗過ぎではあるだろうが(特に二宮くんと永島さんを重ねにくい)純粋なイメージはぴったりなのではないだろうか。
自分は小さい頃から二宮くんが(小さい頃、は二宮君にかかる)大好きであの頃はもっとクールできかん気のようだったがいつの間にか優しげなイメージになったし役者としてこんなに活躍するとは思いもよらなかった。ここでもさすがに格段の上手さである。ただしここでは何故か桜井翔に一番惹かれた。
女性は登場するがあまりどろどろとした恋愛沙汰は描かれていない作品だ。唯一二宮くんが元カノにいきなりキスをするシーンがどきっとするものがあって驚いた。

昭和を描いた作品の一つでもあった。
とにかく携帯電話が出てこないのがうれしい。

監督:犬童一心 脚本:市川森一 出演: 嵐(二宮和也 相葉雅紀 大野智 松本潤 櫻井翔) 香椎由宇 韓英恵 高橋真唯 菅井きん 志賀廣太郎 本田博太郎 田畑智子 松原智恵子
2007年日本
ラベル:青春
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2008年12月14日

NHKオンデマンド

NHKオンデマンドというのがあるのですねえ。
というのは新井浩文さんが出演していた『最後の戦犯』というのを検索してたら見つけたわけですが。

といってもこれは14日までで。観たい人はいますぐどうぞ^^;

NHKオンデマンド『最後の戦犯』
ラベル:テレビ番組
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2008年12月06日

『クローズZERO』三池崇史

クローズZERO.jpg

愛に溢れた作品でしたねえ。
男同士の喧嘩を描いた映画というのはそのまま男同士の絡みであり、体と体のぶつかり合いでつまり触れ合いでつまり体でお互いの心を探りあっているわけですが、まさにそういう類の作品だったですね。

『青い春』では九條と青木の関係が気恥ずかしいほど熱いものだったのですがここではもうあちこちで熱い関係が築かれていて観ていてほんとにあちーぜおいてな感じでした。エンケンさんのやべさんに対する愛とかね。
自分的には小栗くん扮する源治&拳より多摩雄&時生の関係が好きでこれはそれこそ九條&青木を彷彿とさせる雰囲気だったりします。かといって多摩雄たちの顔が好きだったわけではなくて顔的には牧瀬の高橋 努が一番好きだったですが。
喧嘩が強い猛者どもというわりには全体に可愛らしい美形男子が多くて映画だからそちらの方が受け入れられるのでしょうがもっとおっかない顔の人が多くてもよかったのかもしれませんが三池監督のご趣味で選ばれたのかもしれませんね。

とにかく古めかしいスタイルの不良喧嘩ムービーであります。喧嘩一筋という一途な連中でして、煙草はいっぱい吸ってますが酒はビールがちょこっと出てきたくらいで今流行りの麻薬の類はやってません。女関係は皆無と言っていいくらい。一応黒木メイサがなんとなく登場してますがこういう映画にしては意外に地味な格好でまったく肌を露出しないTシャツにジーンズという服装であります。しかも主人公との接触はなし。
男達の目的は常に男同士の殴りあいであって「あの男とやりたいのならまず俺とやるんだな」(←こういう台詞がそのままあったかどうかは保障できないが)みたいな真っ赤になりそうな言葉を言い合っているのである。
源治が昔(って中学生ってことなんだけど。子供)時生と友人で今は多摩雄といい仲になっているっていうのもなんだか三角関係って感じでぐふふなのだ。
時生が夕日を見ながら「昔、源治と綺麗な夕日を探して歩いたけど今はもう変わってしまった。お前とも変わってしまうのかな」と多摩雄に問いかけるシーンがあって多摩雄が「いつまでも一緒だよ」みたいなことを答えるのが鳥肌ものなのだ。もー恥ずかしい恥ずかしい。

名前の付け方も変な語呂合わせみたいで源治と拳、多摩雄と時生って。

主人公・源治の小栗旬はほんとに可愛くてかっこいいですね。舞台では
蜷川幸雄に愛されてましたが、三池崇史映画でもそのかっこよさは存分に発揮されています。独特の髪型も短ランも長身の彼は似合ってました。
血だらけになった男ってやっぱりセクシーでありますね。

監督:三池崇史 出演:小栗旬 山田孝之 黒木メイサ やべきょうすけ 高岡蒼甫 岸谷五朗 桐谷健太 高橋努
2007年日本
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2008年12月04日

『雪之丞変化』市川崑

雪之丞変化4.jpg

こちらの市川崑『雪之丞変化』をまだ長谷川一夫存命の頃に観て度肝を抜かれたのを覚えている。映画の内容も驚きだったが女形と色男の二役を演じて様になる力量に目を見張ったのだ。それから間もなくして長谷川一夫の訃報を聞き遅れてファンになったものだと残念に思ったものだ。

そういう思いいれのある作品だったのだが、昨日のマキノ作品を観た後、鑑賞してみると意外にキレの悪い散漫な作品のように感じてしまったのだった。
同じ物語であるとはいえ、マキノ『雪之丞』は時間も90分を切っておりその分テンポよく設定も構成も非常に判り易い。
それに比べると市川『雪之丞』は知っていても導入部分から入りにくく感じてしまうのだ。
マキノ版はまず闇太郎とおはつから見た「江戸に来た若く美しい上方役者」という出だしで何者だろう、という興味を惹くのだが、市川版では舞台にたつ雪之丞の目線から始まり視線の先に仇敵を見つけるところから始まる。
マキノ版が映像と行動で物語っていくのに対し、市川版はシェークスピア劇のように台詞で物語っていくのでくどく感じてしまうのだ(シェークスピアが悪いわけじゃないが^^;)
マキノ版の方が古い映画なのに一人二役の雪之丞・闇太郎が揃って出る場面もその他の役者との掛け合いも自然なのに市川版はいかにも二役のようなぎこちない画面になり市川監督の手法のせいなのか闇の中に個々の役者がぽつねんと立っているような撮り方なのでこれも舞台で一人ひとりにライトが当たっているような他の人物との触れ合いが感じられない奇妙な映像になっている。
そして今更言うのも気が引けるが昨日の若くて美しい大川橋蔵=雪之丞を観た後では長谷川一夫=雪之丞(市川版での)はあまりに年老いていて若い女性が恋焦がれる女形としては無理があるように思える(昨日の橋蔵さんは綺麗だったからなあ^^;)
奥方さまが今自分のご贔屓の若尾文子さんで彼女の美しさと並べては気の毒だ。彼女が美しいとぽーっとなるためには彼女と張り合う美貌でなければならないだろうに。いくら長谷川一夫さんといえど酷な設定だったのではないだろうか。
昨日の橋蔵さんなら確かに奥方と並んでもひけをとらない若い美貌があったのだ。
確かに市川版のほうが『雪之丞』という意味では雪之丞の立ち回りが多かったかもしれない。が、肝腎の雪之丞にぽーっとなる魅力があまり感じられなかったのである。
マキノ版の雪之丞は若いだけに仇といってもどこか清々しさというか単純な率直さがあって却ってそれが初々しく愛らしかった。
市川版の『雪』は仇に怨念がこもっていて年をとっているだけに怖ろしく、普通はそれでいいのだが橋蔵=雪之丞が可愛かったのでなんだか損してしまったようである。
雪之丞だけでなく闇太郎も橋蔵のほうが俄然かっこよかったし、おはつさんとの関係もマキノ版のほうが好きだった。

ひとつだけよかったのは昼太郎。といってもこれはマキノ版には登場しなかったので比較はできない。
闇太郎と何故か張り合っているというかわいそうな笑われ役なのだがこれをどうしたものか愛しの市川雷蔵さんが演じておられる。
みんなから一目置かれる闇太郎と違って軽んじられている昼太郎。やせっぽちな体つきがかわいいのだ。今までまったく思わなかったがこの昼太郎の市川雷蔵さんはなんとなく松山ケンイチっぽいのである^^;
松ケンもこんなコミカル雷蔵さんと似てると言われてもー、だろうが、なんだか表情が似てておかしかった。他の時は似てません(笑)
市川雷蔵さんと松ケンの類似点を見つけただけでもよかったかな。

とにかく市川崑監督作品で以前感銘を受けた長谷川一夫『雪之丞変化』の再観だったので懐かしく観たのだが感想は意外にもあれれというものだった。
そのくらい昨日のマキノ『雪之丞』はよかったんだなあ。改めてマキノ雅之『雪之丞変化』はすっごく面白かった、と思ってしまうのだ。
同じ長谷川一夫主演の衣笠貞之助監督というのを観れるものなら観てみたい。

監督:市川崑 出演:長谷川一夫 山本富士子 若尾文子 市川雷蔵 勝新太郎 船越英二
1963年日本

posted by フェイユイ at 23:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月03日

『雪之丞変化』マキノ雅弘

雪之丞変化.jpg

『雪之丞変化』は昔長谷川一夫がやったのを見てぽーっとなったものだが(それは明日また観る予定)今回初めて大川橋蔵主演を観た。

橋蔵さんといえばやっぱり銭形平次親分というイメージなので二枚目なのは知っているが女形もやれるとは思っていなかった。
『雪之丞変化』では闇太郎と雪之丞の二役になるので闇太郎はイメージどおりの男っぽい二枚目、雪之丞では初めて観る橋蔵さんの女形を拝見してその魅力を再確認することとなった。

面白いのはこの物語、それこそ昨日みたジェシー・ジェームズ団が大活躍する話なのだった。
しかもこちらのジェシーは仲間からめちゃくちゃ愛され信頼されている様子。橋蔵さんの役の一つ闇太郎のことなんだけどね。
ピストルをバンバン撃つのはどうしても好きになれないがこっちのジェシーこと闇太郎は刀すら持たず我が身一つで大勢の敵をばったばったとなぎ倒しちゃうかっこよさなのである。

実はこの物語元々は外国小説が元ネタで書かれたお話だったのだね。そのせいもあるのか、粋で洒脱な作品なのだ。
江戸で興行を始めた上方歌舞伎の中村雪之丞という美しい女形がいた。彼はかつて長崎で父親を冤罪で死刑に陥れた宿敵を討つ為、歌舞伎の世界に身をやつし機会を伺っていたのだ。
その初演の日、仇・土部三斎が里帰りしていた娘をつれて観劇していたのだ。娘は大奥で側室という身分ながら艶やかな雪之丞にぞっこん惚れてしまうのだった。
娘の機嫌をとる為、父・土部三斎は雪之丞を屋敷に招きいれる。

優美な奥方様と女形姿の雪之丞が寄り添う姿はなんとも倒錯した世界でこれはやはり日本ならではの妖しい美学でありますなあ。
しかし女装した美形の男性にぽーっとなっている日本女性は現在でもたくさんいるのでこういう美意識というのは変わらぬものなのでありましょうか。
雪之丞は親の仇のために近づいた奥方様なのではあるが彼に惚れた奥方様はそれを知っても雪之丞を助けようと高貴な身の上で江戸の町を駆けていくのでありました。

もう一つ物語が絡んできてここでもまた土部三斎とその仲間が米を隠しこんでは値段を上げて江戸の人々を苦しめていたのだが、庶民の味方ジェシーこと闇太郎たち泥棒一味は悪党金持ちからは盗み出し、庶民のために米を安く売りさばかせてしまうのだ。
雪之丞もすてきだが、闇太郎さんもかっこいいんだわあ。
おまけに姐さんと呼ぶ不思議な関係の女性がいるのだが、焼もちをやきながらもその女性に雪之丞との間を取り持ってやったりする(ま、自分なんだけどさ)姐さんも闇太郎が好きみたいなのに「雪之丞に惚れたわ〜」なんて騒いだりしてこの辺もまた独特の奇妙な味わいでございます。
雪之丞もおはつ姐さんに襲われたりするんだが(ここがまた不思議。姐さん、雪之丞に短刀で切りつけるのだ)軽く身をかわして颯爽と小船で逃げてしまう。その鮮やかさに姐さん、また恋してしまうわけで(笑)

とにかく粋でかっこいい話なんだなあ。
何度も何度も映画化されているみたいだが、この面白さは確かにずっと映像化していきたいものでありますね。

監督:マキノ雅弘 出演:大川橋蔵 淡島千景 大川恵子 若山富三郎 進藤英太郎
1959年日本
posted by フェイユイ at 22:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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