映画・ドラマ・本などの感想記事は基本的にネタバレです。ご注意を

2010年06月20日

Howard Roffman Photography

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Howard Roffman Photography

すごく綺麗な少年たちの写真がいっぱいあって見惚れてしまう。

ええ、これどういうこと?FIFA公認なんすか^^;

infibeam.comFIFA Howard Roffman
ラベル:写真 同性愛
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2010年06月09日

ルシアン・カー醒めやらず『そしてカバたちはタンクで茹で死に』

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えーん。ベン・ウィショー『Kill Your Darlings』の映画製作が殆どもう絶望な中、ジャック・ケルアックとウィリアム・バロウズがルシアン・カーを描いた『And the Hippos Were Boiled in Their Tanks』の翻訳『そしてカバたちはタンクで茹で死に』がすでに出版されてたのね。

本屋にも殆どいくことがないので全く気付かず、今日図書館へ行ったら一番前に置かれてたんで飛び付いたのさ。
まだページをめくってみたくらいなのだが、ルシアンがどんなに魅惑的な若者だったかが描かれていて(作品中ではフィリップになっとるんですが)またまたベンがこれを演じていたなら、と悔やまれてならない。
あああ、どうにかならないのかねえ。
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2010年06月05日

『マジック』リチャード・アッテンボロー

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MAGIC

内気な青年コーキーは小さなレストランでマジックを見せる芸人だが誰からも注目されることがない。
が、腹話術人形ファッツと相棒になってからは人格が変わったかのように巧みな話術で客を惹きつけTV局でのショーをマネージャーから持ち込まれるまでになる。
だがその為には身体検査が必要だと聞いた途端、コーキーは生まれ育った故郷に逃げてしまうのだった。

昔むかし観て以来の久しぶりの観賞だった。こういうサイコ的な話は好きなのだが、昔観た時何故マネージャーがコーキーとファッツが話しているのを観て「お前は狂っている」と思ったのかが疑問だった。芸人なら自分の部屋でも練習するのは当然だろうしむしろ熱心だと褒めてもいいくらいだしマネージャーとしては彼がおかしかろうが観客に受けて金が儲かれば万々歳なわけでノリノリで練習して見事な腹話術をやってる彼を観て失望するわけはないと思ったし、今もそう思うのだがねえ。身体検査でそういうのが異常だとか判明するのか。腹話術師の皆さんはほぼこういうタイプじゃないのかなと以前も今も思うのである。
ただこれはマネージャーから見た感想で恋人だったら話は別だ。この時点でコーキーの恋人になるペグはファッツの話を喜んでいるがもし二人が本当に暮らすようになってしょっちゅうこの調子だったらきっと苛立つこと間違いなし。恋人とマネージャーの感想が逆ではないかと思うのだ。

そういう自分的にはしっくりいかない部分もあるのだけどさすがにアンソニー・ホプキンスの演技には見入ってしまう。人形ファッツ君の演技にも恐れ入る。ペグの亭主をじっと見る目つきはどう見ても本物みたいだった。アンソニーが離れたのに一度瞬きをする場面があったのだが、あれは一体どういうことだったんだろう。本当に魂が入ったのかと驚いた。

コーキーは内気な青年という設定だが売れなかったマジックの席でも好きなペグの前でも突然激昂するような、やはりどこか切れてしまう異常性がある。アンソニー・ホプキンスはそんな内気さと激しさが混じり合うコーキーの人格そしてファッツの人格までも巧みに演じていく。
コーキーがファッツに「お前がいないと何もできない」と言いファッツは君は一人でやっていたんだ、と答える。その通りなのだがそれはやはりファッツという別の顔を通さなければ表現できないものだったのだ。

ペグを演じているアン・マーグレットが綺麗だ。コーキーのマネージャーにバージェス・メレディス。ロッキーのトレーナー役のイメージが強いあの人だ。

監督:リチャード・アッテンボロー 出演:アンソニー・ホプキンス アン・マーグレット バージェス・メレディス エド・ローター ジェリー・ハウザー デビッド・オグデン・スティアーズ E・J・アンドレ
1978年アメリカ
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2010年06月01日

『ハートブルー』キャスリン・ビグロー

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POINT BREAK

あらゆる場面が殺伐としてあらゆる台詞が口汚い、いかにもアメリカ映画らしいガサツさでできているが、こういう掴みどころがなく取り留めない展開というのは却って米映画にしては珍しいのか。

『ダークナイト』を思い起こさせるのは変なお面を被った銀行強盗場面が凄まじいだけではなく、リーダーのボーディが特殊な人生の哲学を持っていてFBIである主人公ジョニーまでもその魅力に洗脳されてしまうからだろうか。
ま、私は『ダークナイト』が嫌いな奴なのだが、むしろジョーカーより本作のボーディをお勧めしたい。何しろ菩薩(ボーディサットヴァ)からついたボーディである。今人気の『聖☆おにいさん』みたいである。水には強いが。且つ修行中の身ではあるが。

アメリカ映画というのは大体において簡潔明瞭でそこがいい所でもあるし、物足りなくもあるのだが、この映画はなんとなくぐだぐだ感があってよく判るような判らんような気持になってしまう。
物凄く大切なことを訴えたいようでいて何か奥歯に物が挟まったままで終わったような気がするのだ。無論これを好きと思う人もいるのだから伝えていることはいるんだろうけど。
まず疑問なのは女の子の使い方だ。しかもこの監督は女性、言わずと知れたキャスリン・ビグローさんだが、監督が女性でありながらまるで男性が作ったような女性の扱いではないか。なんとなく出てきて主人公とのラブシーンを入れる為だけの役でしかも主人公に都合のいい展開。この女性との関係なんかを描く時間でもっとボーディとの関係を深く描き出して欲しかった。
ジョニーという男こそ菩薩(ボーディサットヴァ)によって覚醒させられていくわけで、その為のこのあだ名であるだろう。ジョニーが女性も仕事もすべて必要でなくなりボーディのような生き方に目覚めてしまう過程を突きつめて欲しかったのである。

ボーディは恋敵であるはずのジョニーを一目見て自分と同じ生き方をする男だと見抜き、そしてジョニーは彼が誘導するのに従ってサーフィンもスカイダイビングも怖れなくなりその快感に酔いしれていく。
逮捕される直前でありながらただサーフィンをしたいと頼むボーディの心をジョニーは理解しきっている。その快感がどんなに強烈なものか。
世の中のつまらない生き方を止めスリルを持って生きることこそがすべてだという意志を持つボーディにジョニーは同化してしまったのだ。

そういう志向であると思うのだが、この描き方ではいまいちくすぶって終わった感が拭えない。
もっとジョニーがボーディに耽溺していく様を描写してくれたなら。
この感覚ってビートニクな感じもするのだが、どうだろう。
近い内、映画化される『路上』ではこんな関係が観れるかもしれないし、違うかもしれない。サル・パラダイスとディーン・モリアーティがどんな風に描かれるのかな(って全然関係ない話で終わってしまった)

あ、私には「サーフィン」と言えば『ビッグウェンズディ』だが、彼の映画のサーファー3人仲間の一人がゲイリー・ビジー、本作のベテラン刑事役、だった。だもんで彼の顔を見ただけでサーフィンな感じが蘇ってくる。

あ、キアヌーが若くてハンサムだった。

監督:キャスリン・ビグロー 出演:キアヌ・リーブス ジェームズ・レグロス パトリック・スウェイジ ロリ・ペティ トム・サイズモア ゲイリー・ビジー
1991年アメリカ
ラベル:友情 哲学
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2010年05月23日

『セントアンナの奇跡』スパイク・リー

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MIRACLE AT ST. ANNA

よく練られた複雑な物語なのであるが、その長さと饒舌な内容に沈鬱な気持ちに襲われてしまう。というのは長さに辟易したと言うより、核心をあまり目立ち過ぎないようこの長さが必要だったように思えるからだ。
第二次世界大戦。イタリアを舞台にしてアメリカ軍とナチスそしてパルチザンの戦いがある。今迄の殆どの映画は白人がほぼ占めていてアメリカ軍であっても黒人兵士が活躍した話などあったのだろうか。或いはかっこいい白人兵士の勇敢さを見せる為に無残に攻撃された黒人兵士を助ける白人兵士なんていう場面の為に登場したかもしれない。もしくは料理担当だったかも。せいぜい一人登場する程度なのでキャラクターも決まりきったものになってしまう。ここで数人の黒人兵士たちにそれぞれの性格分けをしているようなそういう表現など望むこともできなかったはずだ。
タイトルの『奇跡』はイタリア・セントアンナでナチスに襲われ逃げ延びた愛らしい少年を救ったアメリカ黒人兵士が長い時を経て奇跡に出会う、ということを示しているのかもしれないが、むしろ自分にはイタリアで彼らが白人達と何の差別意識もなく交流ができたことを意味しているようにさえ思えた。突然アメリカ黒人兵達に入りこまれたイタリア人家族は怯えるがそれは彼らが黒人だからではなく敵国であるアメリカ軍人だからであり彼らを汚いもののように蔑むアメリカ白人たちの対応とは全く違うものであった。
暫くして落ち着いた彼らは黒人兵達を教会でのダンスパーティに招きダンスに誘う。素晴らしい美人のレナータにも侮蔑の気配はまったくない。彼女の目にはただ異国の男性としてしか映ってないことを黒人兵達は感じてしまうのである。それは今迄受けた白人女性の視線から感じられることのない好意であり彼らにとって奇跡と言っていいのではないんだろうか。私にはこの映画が語りたい部分はまさにここであるのにそれをあまり露骨に表現するのが気恥ずかしく様々な出来事で隠してしまったような気さえしてしまうのだ。しかも黒人兵ヘクターと白人女性レナータの絡みはあまりアップではなく影になってよく見えないキスと服に手をかけたところで終わっており強烈な台詞のわりには気の弱い展開であった。アメリカが舞台で白人女性とこのような場面を撮るのは無謀であるらしいからいくらイタリアであるとはいえぎりぎりの挑戦だったのかもしれない。
またヘクターはイタリア語も上手いのだが、これも白人が主流の映画ではほぼ観れない光景なのでは。無学な黒人兵が白人兵より外国語が上手いわけはない、ということで黒人ヘクターが流暢にイタリア語を話すのも他では観れない特別な場面なのでは。(ここんとこ『イングロリアス・バスターズ』でのブラッド・ピットのど下手なイタリア語を思い出すとより一層面白いかも。大体においてアメリカ人は外国語を話せず相手に英語を話してもらうものだ)
また可愛らしいイタリア少年が大きな黒人兵トレインになついて離れないのもまたしかり。彼をチョコレートと間違えてぺろりと顔を舐めるのも今迄観たことのない行為かもしれない。
そしてナチスとの激しい銃撃戦。これまで第二次世界大戦で黒人兵がこんな活躍をすることもなかったろうし作中での台詞もあるように黒人は掃除か料理をするだけで勇敢に戦うなんて思ってもいなかった、ということに対しての抗議のように見えてくる。
いわば今迄白人兵士であれば色んな映画で表現されていた外国でのラブシーンや子供へのいたわりや敵との勇敢な戦いなどを黒人兵も同じようにできるはずだ、という映画のように思えてなかなか胸が詰まってくるような沈鬱さを感じてしまったのだ。
こういう枷を感じさせず当たり前に自然にさらりと黒人主演の映画というものがアメリカで作られる、差別意識などと言う言葉など全く忘れていた、なんていうことはあるのだろうか。いやまさか、ない、ということはないだろうね。

この奇跡に比べれば再会の奇跡はそう奇跡ではないかもしれない。

監督:スパイク・リー 出演:デレク・ルーク マイケル・イーリー ラズ・アロンソ ジョン・タトゥーロ
2008年アメリカ

記者役でジョセフ・ゴードン=レヴィットが出演。可愛いよね。
ラベル:戦争 歴史
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2010年05月21日

『マトリックス』ラリー&アンディ・ウォシャウスキー

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THE MATRIX

作品をきちんと観たことは一度もないのだが、何しろ話題になった映画でTV放送をちら観したり何かと取り上げられているのを何度も観ているので少なくとも見どころ場面はすっかり観てしまっていた。
今回やっと観通すことができたがさすがになかなか面白い映画であった。ただ没頭し熱愛する、とまではならないのではあるが。柔術だのワイヤーアクションだの(柔術と言いながら何故かカンフー)アジアンテイストがかなり入り込んでいて笑える要素が多いのも楽しかった。

それにしても最先端のようなものが題材なのにも関わらず設定物語は大昔からまったく変わらないのだね。「選ばれし者」が「救世主」となり仲間と力を合わせ、人類を脅かす恐ろしい敵と戦う。主人公が勝利を掴むのは敵と違い「愛の力」があったから、という。
そういうスタンダードな筋立てだからこそこのとんでもない世界の表現が飲み込めるのではあるだろうけど。
主役のキアヌー・リーブスは確かに本作めちゃハンサム。

のけぞったキアヌーの上を弾道が走る、だとかまっ白な背景から物体が飛び出してくるだとか何度も映画以外で繰り返し観ることになる特殊な映像が満載である。
しかし人一人殺すのに銃弾の浪費が酷過ぎる。どうしてもしみったれてるんで一弾必殺でやれんのかと思ってしまう。
どうしてもあまり書くことがない。
せめて続きの2・3弾を観ればまたそれなりに思うことがあるかもしれない。

監督:ラリー&アンディ・ウォシャウスキー 出演:キアヌ・リーブス
ローレンス・フィッシュバーン キャリー=アン・モス ヒューゴ・ウィーヴィング ジョー・パントリアーノ グロリア・フォスター
1999年アメリカ
ラベル:SF
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2010年05月19日

『K−19』キャスリン・ビグロー

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K−19: THE WIDOWMAKER

例によって内容をよく確かめもせず観始め、しかも『K-19』が何なのかをまったく知らなかったのでまさかハリソン・フォードがソビエト人になるとは。認識に数分かかった。まさか、何故どういうこと。あそうか、なる、アメリカ人でソ連人をねー。そうだったのねー。
いやちょっと混乱した。

且つ英語で進行することも納得しアメリカ人のアメリカ人によるソ連軍にも慣れてきて物語に集中していった。
キャスリン・ビグロー監督作品は初めて観るのだが、女性ながら非常に硬質な作品を撮る、という噂にたがわぬ硬派で男っぽい男達が熱い血潮を見せてくれる作品であった。
それにしても原子力と聞いただけで背中がぞっとしてくるのは日本人として当然のことなのだろうか。そしてやはり原子炉の事故が起き、その上防護服がまったく用意されておらずレインコート程度の上着を被って若き乗組員たちが入り込むとなった時は映画とは言え恐ろしさに居た堪れなくなってしまった。原子炉の修理の為10分間入っただけで皮膚は焼けただれ18分入った中尉は目が見えなくなった。彼らは全員その後数週間で死亡しているのだ。
彼らの様子を見て驚いていることからも被曝することでどうなるのか誰も知らなかったのだろう。
実を言うと私もこんな状態になってしまうとは思いもせずただただ恐ろしがっていた。

リーアム・ニーソン演じる艦長が突然の交代を命じられ仕方なく新艦長(ハリソン・フォード)と共にテスト航行に従う。
前艦長を慕っていた乗組員達は、規律と任務に厳しい新艦長の命令を快く思っていない。
一見嫌な奴と思われたハリソン演じる新艦長にも実は深い考えがあることが判り、前艦長であるポレーニンが彼と対立しながらも軍人としての誇りと規律を守ろうとする姿勢に打たれる。
時代と政治体制による様々な欠陥がありながらも仲間の為に命を犠牲にして事態をなんとか好転しようとした兵士たちにはどういう言葉で讃えていいのか判らない。

非常に緊迫感のある面白さであってソ連体制下ではついに秘されたままだった実際の出来事をアメリカ映画ながらほぼ歪められてはいないのではないかと思えるリアルさと尊厳を持って作られている。
監督が女性である為なのかどうかは判らないが若い兵士たちが美青年ぞろいであったように思えるのだが。ソ連人に見えるような真面目で色の白い(?)白人青年を選んだせいだろうか。ガムくちゃくちゃやってるような品のない顔だとロシア人に見えないしね。
あんまり可愛いのが多いので米軍にお尻を出す場面が馬鹿にしているというよりエロっぽい意味があるみたいだった。

監督:キャスリン・ビグロー  出演:ハリソン・フォード リーアム・ニーソン ピーター・サースガード クリスチャン・カマルゴ ピーター・ステッビングス
2002年 / アメリカ/イギリス/ドイツ
ラベル:歴史 実話 友情
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2010年05月18日

『イングロリアス・バスターズ』クエンティン・タランティーノ

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INGLOURIOUS BASTERDS

ナチスとユダヤ人というコメディにはし難い題材でありながらタランティーノとしての役割を臆することなくやり遂げた勇気ある作品に仕上がっていた。
印象的に滅茶苦茶を繰り広げる馬鹿映画、みたいな受け止め方をされるんだろうけど滅茶苦茶な馬鹿はアメリカ兵だけでナチスとフランス人とユダヤ女性はあくまでもシリアスなのである。ブラピ率いるバスターズが出てくる箇所さえ切り捨ててしまえば真面目な一作となるのではないか(違うか?)
とにかくブラッド・ピットを筆頭になにこのアメリカ兵たち?この映画ではナチスはランダ大佐が威圧的に怖いだけであの映画を除けば残虐行為流行ってない。冒頭のフランス人農家でのユダヤ人狩りも床を通しての銃殺というタランティーノにしては奥床しい表現になっている。
それに比べブラピ=アルド・レイン中尉がインディアンの血を引く、という説明もあってバスターズにナチスの頭の皮を切り取らせるという観るに堪えない惨たらしさ。ナチス将校が怯え震えあがる非道な行為を任務として遂行し何らの呵責もない。どのアメリカ映画でも正義の味方として登場するアメリカ兵士がナチスも泣きだす最低最悪の殺人鬼となっているのがおかしいのだ。
そういう頭のおかしい(ブラピは頭のおかしい役をやるといつも上手い)アメリカ軍はおいといてナチスのランダ大佐の堂にいった親衛隊ぶり。4ヶ国語を駆使して冴え渡る頭脳。家族を惨殺されやっとの思いで逃げ延びたユダヤ女性ショシャナの復讐と彼女を支える黒人男性の愛情。兵卒でありながら英雄に仕立て上げられショシャナがユダヤ人だと気づかず愛するフレデリックのでもやはり彼もまたナチスの傲慢さを持っている。ドイツ人でありながら連合軍側に着く女優、ナチスに扮したがアクセントと指でのサインに気づかれてしまうイギリス人将校など滅茶苦茶ではなく緊迫したサスペンスがあり非常に面白いのだが、それをあのアメリカ語しか話せない馬鹿なアメリカ人バスターズが全部ぶち壊してくれるのである。無論これはタランティーノへの賛辞だけど。かっこよかったランダ大佐も無軌道なアメリカ人にぶっ壊されてしまうのだ。
ほんとにブラッドは狂った人がうまいんだよね。

ナチスが可哀そうに見える映画って。

それにしてもこういう酷い映画(賛辞である)にドイツ人がナチス役で多数出演しているのだから時代も移り変わったということなのか。

監督:クエンティン・タランティーノ 出演:ブラッド・ピット メラニー・ロラン クリストフ・ヴァルツ ダイアン・クルーガー ミヒャエル・ファスベンダー イーライ・ロス ダニエル・ブリュール ティル・シュヴァイガー B・J・ノヴァク
2009年アメリカ
ラベル:戦争 コメディ
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2010年05月17日

『アバター』ジェームズ・キャメロン

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Avatar

アメリカ製の高予算映画に対していつも悪態をついている気がするのだけど、この作品は心底好きになってしまった。
なんだかもう邪魔で醜い地球人なんか来ないといいのに。ナヴィの星の物語の部分だけをいつまでも観ていたかった。

白人優位主義の傲慢さがにじみ出てるとか別の作品のモノマネだとかまあ色々批判はあるようだが、観てる時はそんなことはどうでもよくてただもう主人公ジェイクに魂が乗り移ったが如く共鳴してしまって彼と同じようにどちらが現実であるか判らなくなりたいほどだった。
だもんでジェイクがネイティリに導かれパンドラの自然に溶け込んでしまうあのくだりだけを観ていたい気がする。
憎々しい科学者の戦争馬鹿のオヤジを一体どうやったら殺せるだろうかとマジに考えてしまった。何故あんな奴らが必ずいるんだ?
それに比べパンドラとナヴィの美しさがどんなに素晴らしいものなのかを見せつけられる。地球の自然をもっとスケールアップした夢の中で見るような世界。ナヴィたちの容姿もまた同じように幻想的に美しい。
気の狂ったよそ者が来ないのなら私もナヴィになってこの世界で生きてみたい。ジェイクがネイティりに恋しナヴィの仲間になるのは当然のことだと思う。
ハリウッド映画にやや反感を持ちがちな自分もこの作品の魅力に酔ってしまった。非常に判りやすい物語も駆使されるCGもアメリカ映画の特徴が最大限に生かされた素晴らしい娯楽映画なのだ。

と、この位陶酔しきった自分ではあるのだが、その感激を持ってしても訝しむところもある。
一体この戦いをどう決着つけるのだろう、と心配だったのだが、なんということはない、あの恐ろしい戦争の権化のような大佐をやっつける、というので終わってしまった。
地球人ってそんなお人よしだとは思えない。この報告を受けた地球側としてはパンドラの状況が掴めたわけで、この程度の住民ならどんな攻撃を与えればいいか、次回はあっという間に抑え込むことができそうだ。
未来の話なので攻撃方法も現在より多数あるだろうが懐柔策としても様々な方法を見つけられるし、個々を潰していくか、種族別に抹殺していくか、細菌兵器、生物だけを焼き殺す爆弾などどんな殺戮方法でもゴマンとあるではないか。彼らが狙う資源がそれほどの値打ちのある代物ならパンドラの住民すべてを抹殺してもどうせ虫けらほどにしか思っていない地球人には何の躊躇いもないはずだ。美しい自然自体にはあまり関心がないようだからどうにでも破壊できるのではないんだろうか。
勝利を信じてナヴィの一員となったジェイクだが実際の物語ならそう長い時間もかからずパンドラの自然と住民は一掃されてしまうだろう。
大佐が冒頭で「この星は地獄だ」と言うのだがさほど地獄な描写は感じられなかった。
地球人を寄りつかせたくないのならパンドラの神「エイワ」がもっと星のレベルではねつけてしまわなければどうしようもない。大気の中に入ること自体が無理だとか。地球人はそう簡単に諦めたりはしない。利権が絡む限り。(なにこの変な威張り方)

ブルーレイにて観賞。

監督:ジェームズ・キャメロン 出演:サム・ワーシントン ゾーイ・ザルダナ シガニー・ウィーバー スティーヴン・ラング ミシェル・ロドリゲス ジョバンニ・リビジ ジョエル・デヴィッド・ムーア CCH・パウンダー
2009年アメリカ
ラベル:SF
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2010年05月14日

J・ケルアック「路上」映画化。監督はウォルター・サレス

キルステン・ダンスト、J・ケルアック「路上」映画化に出演

同じくビートニク映画でベン・ウィショーがルシアン・カーを演じることになっていた『Kill your darlings』がほぼ絶望的になってる現在、あちこちでぽつぽつビートニク映画が製作されているようだ。
本作も何故かケルアックの分身であるサルをイギリス人俳優サム・ライリーが演じてたりするのだが、何と言っても監督が大好きなウォルター・サレスなので放ってはおけない。ロード・ムービーだからして『モーターサイクル・ダイアリーズ』を彷彿としてしまうしね。
あちらがチェ・ゲバラの若き頃と言う活躍する未来を感じさせる題材なのにこちらはかなり絶望的物語であるが。

『路上』は自分も若き頃読んで広大なアメリカ大陸を疾走する彼らに思いを馳せてみたりした作品であるし、期待高まってしまうではないか。
posted by フェイユイ at 08:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 北米 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『グラディエーター』リドリー・スコット

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GLADIATOR

なんだか突然の『グラディエーター』である。前から気になってなくはなかったのだが、監督並びに俳優陣も絶対と言うほどでもなかったので延び延びになってしまった。
観てしまった感想としては非常に丁寧に作られているとは思うのだが、設定とストーリーがまるで古代ローマ物語の教科書的構造で全部知っていた話をもう一度観てるみたいだった。目玉は何と言っても主役ラッセル・クロウのベアー系の魅力であろうしそこは私も納得だったのではあるが、ホアキン・フェニックスのコモドゥスが憎らしすぎて印象としては彼の方が勝ってしまうかも。また史実的にはコモドゥスって映画とは真逆でハンサムで民衆や軍隊から厚い支持を受けてたらしいしおまけに姉とは近親愛どころか反目しあってるみたいだし全然違うのだ。つまりやっぱりいかにもの古代ローマ風の発想、近親相姦だの暴君だの、という設定にせねば主人公のかっこよさが引き立たなくなってしまうから、の設定になってたのだ。
私としては安彦良和『我が名はネロ』みたいにホアキン皇帝とラッセル・グラディエーターのアブナイ関係みたいな方が喜ばしかったけどそれは無理であるか。
でもアメリカ・メジャー映画であるにも拘らず結構同性愛やら少年愛っぽい雰囲気もちょこちょこ醸し出されていたようには思える。
おまけに何度も「父・前皇帝があなたを愛した」とラッセルに言う台詞があるのでやはりそういう関係だったのかなー皇帝ベアー系だったのかなーと妄想してしまう。しかもこの作品、何故か女性っ気が物凄く乏しい。ラッセルの奥さまはイメージ映像のみだし、ヒロインは皇帝の姉君のみ。子持ちだしそれほどいかがわしい場面があるわけでもなく、他の綺麗どころはまったく登場しない。物凄く抑えられた形ではあるがまだしも同性愛的な箇所が感じられる。とはいえ抑え過ぎてて騒ぐほどでもなく。田亀源五郎『ウィルトゥース』を期待しても駄目だったかしらん。

色々書いたけどでも結局この作品はラッセル・クロウにグラディエーターの格好させて楽しみたかっただけ、っていうものではないのだろうかねえ。元老院役にデレク・ジャコビが登場するし。

監督:リドリー・スコット 出演:ラッセル・クロウ ホアキン・フェニックス コニー・ニールセン オリバー・リード リチャード・ハリス デレク・ジャコビ ジャイモン・フンスー トーマス・アラナ
2000年アメリカ
ラベル:歴史
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2010年05月11日

『ホワイトナイツ/白夜』テイラー・ハックフォード

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WHITE NIGHTS

昔観たはずなのだけど例によって殆ど内容は忘れている。グレゴリーとミハイルの踊りが凄かったんだよなあ、と何となく思っていただけだったのだが、今回観なおしてとんでもなく面白い映画だったんだと確認した。
どうしてもバリシニコフ自身の履歴と役柄においてソ連から抜け出し自由の国アメリカで踊りたいのだ、という熱い思いと彼らの置かれる状況が噂通りに酷いのでアメリカ礼賛、ソ連批判のような印象が持たれてしまうのだろうけど、アメリカ人のグレゴリーが何故ソ連へ亡命したのか、アメリカに対しての失望と批判も描かれているところはなかなか配慮されているのではないだろうか。
この映画では無論バリシニコフとハインズという素晴らしい踊り手がそれぞれの持ち味を充分に出しながら競演(まさに競いあうダンスの妙技!盗撮しているKGBのチャイコに見せつけてやろうという二人のダンスの素晴らしさ)しているのだが、ハインズには申し訳ないけどここでのヒーローはバリシニコフになってしまう。
踊り、歌などの芸術は、しばしば抑圧され苦悩するところから爆発するように生まれることがある。黒人であるハインズも『コットンクラブ』ではその悲しみ、苦しみを吐き出すように見せてくれる。
そういう意味でもこの作品での悲劇はバリシニコフ演じる亡命者のダンサー・ロドチェンコであるのだ。(ロドチェンコ、と名前を書き変えなくてもバリシニコフ、と言う名前そのままでも同じ意味になるのだろう)
本作の踊りの圧巻はロドチェンコがかつてソ連で活躍した豪華な劇場で元パートナー・ワガノワの前で踊る場面だ。
ソ連では聞くことを禁じられた歌手ヴィソツキーの歌をこっそり聞いているワガノワは愛していたロドチェンコに昔計画して逹せなかったバランシンを踊りたいと言う。
ヴィソツキーはソ連において体制批判を情熱的に歌い上げた歌手なのだ。ロドチェンコ=バリシニコフはバランシンはアメリカでもう踊って来た、と言う。ワガノワが隠れて聞くヴィソツキーの音を大きくして「彼の歌のように叫ぶように踊りたい」と言いながら踊ったバリシニコフのその踊りはまさに叫んでいるようだった。
小柄なせいか少年のようにも見える体が躍動するバリシニコフがここで見せるのは華麗なジャンプを見せる踊りではない。むしろ地を這い身をよじり体を縛られ苦しんでいるかのような慟哭のような踊り。自由に踊りたくても踊れない、自分を思い切り表現したいのにそのしなやかな腕も脚も縛られとんとんとつま先で跳ねるしかできないのだ、判るかい、と言わんばかりの悲しい踊りだった。
パートナーである恋人ワガノワを演じたのがヘレン・ミレン。愛した人の踊りに彼の心を感じとってしまう。

グレゴリー・ハインズ=レイモンドとロシア人の妻ダーリャはロドチェンコの世話と見張りをするうちに次第にソ連の国家体制の息苦しさを感じだす。ロドチェンコと会う前はソ連の生活に慣らされていたレイモンドはロドチェンコと踊り合ううちにかつて彼も感じていたダンスへの情熱を思い出してしまったんだろう。
芸術を描く時は恐ろしいほどの弾圧があればあるほどその芸術家の魂が輝いて見えてしまうのは困ったことだが真実である。
本作ではソ連という国家体制が上手く使われてしまった。現在はロシアはチェンジしたはずだが、あまりそうは思えないのはどういうことなのか。いやこれは余談。

物凄く久しぶりに観てバリシニコフの素晴らしさ。ヴィソスキーの歌にのせた踊りが脳裏に焼き付いてしまった。古さなどまったくない。

監督:テイラー・ハックフォード  出演:ミハイル・バリシニコフ グレゴリー・ハインズ イザベラ・ロッセリーニ イエジー・スコリモフスキ ヘレン・ミレン ジェラルディン・ペイジ ジョン・グローバー マリアム・ダボ
1985年アメリカ
ラベル:バレエ 自由
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2010年04月29日

『ミッシング』コスタ・ガブラス

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こういう政治や軍事を扱った物はリアルさを追求すると難解で堅苦しくなりがちなのだが物語の本筋に父親と息子そして義理の娘、という愛情に重点を置いている為に非常に判り易く心に響いてくる。
ジャック・レモン扮する信仰深い実業家の父親は息子夫婦チャーリーとベスの結婚生活が不真面目だという強い不満がある。息子夫婦は定まった職業もなく南米チリでまだ形をなしていないアニメーション映画製作と新聞社の請負仕事をしているだけで厳格で成功した父親から見れば自堕落な貧乏暮らしにしか見えないのだ(っていつも思うけど日本住居から見れば豪邸だわ)
そんな折、彼らが住む町ではクーデターが起こる。二人は別々に外出したのだが、その夜も激しい銃撃があり戒厳令が出されている為ベスは帰宅しそびれる。翌朝戻った時チャーリーの姿はなかった。彼は一体どこへ行ってしまったのか。

アメリカから不平をこぼしながら息子探しに来た父親と義娘のベスは互いに苛立ち反目しあう。だがそんな状態の中でチャーリーを探すうちに二人は次第に互いの気持ちを判り合っていくのだった。
考え方の違いですれ違ってはいてもどちらも純粋でひたむきに生きているからだろう、互いの思いが愛する人に向けられているのだと気づいていく。
何も判っていない父親に反感を持つベスだが、愛する息子を救う為ならなんでもすると言う父親の姿に彼女が感動する心に共感してしまうのだ。
まただらしなく見えていたベスが実は勇敢で思慮深い女性だと気づく義父に頷く。
父と子の和解がこうした不幸な状況でできたのはなんともやりきれないことだが辛い状況で手を添えられることはやはり嬉しいことだ。

弱い個人の力ではどうにもならない無力感、それぞれの国の違いはあれ、どちらの国にも隠された陰謀がある。
地獄絵のようなクーデターの恐怖感に脅え、ジャック・レモン、シシー・スペイセクの義理の父娘関係の描き方に見入ってしまう。力強い作品だった。
監督のコスタ・ガブラスは『ぜんぶ、フィデルのせい』の監督ジュリー・ガブラスの父親なのだ。これも素晴らしい映画だった。凄い父娘である。

監督:コスタ・ガブラス 出演:ジャック・レモン シシー・スペイセク ジョン・シェア ジョン・シーア メラニー・メイロン チャールズ・シオッフィ
1982年アメリカ
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2010年04月22日

『ワルキューレ』ブライアン・シンガー

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VALKYRIE

実話である、ということも作用して面白い作品だった。本作の場合は何度か観なおして背景やら人物相関図やら製作の裏話なども調べたほうがより面白いのかもしれないがここでは単に観ただけの感想。
取り敢えず監督のブライアン・シンガーはアメリカ人監督とはいえユダヤ人であるにも拘らず「ドイツ人にもこういう人間がいる、ということを証明するのだ」という熱い思いを抱いたドイツ軍人たちを描いている、ということがまず興味深いかもしれない。
ブライアン・シンガー監督と言えば『ユージュアル・サスペクツ』が評判であったと思うが自分としてはスティーブン・キング原作の『ゴールデン・ボーイ』が強い印象の面白い映画だった。
これもまたナチス将校を描いた作品なのだが、「もし自分ちの近所にナチス将校が隠れ住んでたら?」というキングお得意のぞくぞくするような怖いようなとんでもない話である。
アメリカ人は表面ではナチスを悪の権化として徹底的に批判しているくせに心の奥底では密かに彼らの行為に対して強い好奇心を持っている、ということが一人の優等生的白人少年によって明らかになっていく。小説で読むだけでも人間の心理を暴露していく恐ろしい(が面白い)物語であるのにそれを映像化してしまうブライアン・シンガー監督、しかも彼自身がユダヤ人なのにユダヤ人を恐ろしい目に合わせた将校の話をぞくぞくしながら聞きだす、というのはやばくなかったのであろうか。まあ、その少年はその年老いたナチス将校を苛めぬくのではあるが。
そして今回は「中には正義の人間もいたナチス軍人」という物語である。またまたまずいことにはならなかったのであろうか、親戚関係では。
と大いに興味を抱かせる物語ではあるが、多くの人が疑問に思ったろうし私もそれが原因ですぐ観る気がしなかった「トム・クルーズが主演」という事実。やはりシンガー監督はアメリカ人、ということなんだろうか。どこかで最初この主役はドイツ人俳優トーマス・クレッチマンがやるはずだったのにクルーズに変えられた、とのこと。クレッチマンは本作でワルキューレ作戦に関わった「反逆者」を逮捕するレーマー少佐に扮している。真逆の役になったわけだ。クレッチマンは『戦場のピアニスト』でユダヤ人である主人公を救ってくれる(実際は他の幾人ものユダヤ人を救ったらしい)高潔なナチス将校を演じていてイメージ的にもぴったりであったろうに一体どういう経緯があって降板させられてしまたんだろう。確かにアメリカ映画に置いてクレッチマンが主役であるのとクルーズが主役なのでは観客動員の数は物凄い差になってしまう予感はする。どうせ英語で製作される国籍不明な映画になるのだし作りとしても明らかに娯楽性の高いアクション映画なのだから作品のテーマである「いいナチスもいた」ことが表現できてしかもより多くの人に観てもらえるクルーズの方が意味がある、となったのかもしれない。
(それにしても小柄なクルーズを小柄に見せない為にヒットラーも随分小柄、他の人たちも小さめだった。クレッチマンだったら標準でできたろうにねえ)
それにこの配役では「やはりユダヤ人監督としてはドイツ人に正義の人をやらせたくないのだ」としか思えないではないか。
そういう様々な逡巡もあったのかもしれないが。

当然ではあるがナチス軍服がきっちりかっこよく見えてくる。ナチスマニアのユダヤ人、って。かなりアブナイ人なのかもしれない、この監督。これは褒め言葉だよ。

監督:ブライアン・シンガー 出演:トム・クルーズ ケネス・ブラナー ビル・ナイ トム・ウィルキンソン カリス・ファン・ハウテン トーマス・クレッチマン テレンス・スタンプ エディ・イザード
2008年アメリカ
ラベル:戦争 歴史
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2010年04月20日

『めぐりあう時間たち』スティーヴン・ダルドリー

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THE HOURS

神経症な女性が3人も出てくるので自分の好みとしてはぽうんと放り出したい気分だったが物語自体が時間と舞台が交錯するという自分の好む構成でしかも非常に精密だったのでそういう意味ではなかなか楽しめた。

1920〜40年代の時間『ダロウェイ夫人』というこれもある女性の一日を描いてその中で彼女の人生と死について思いを巡らす、というものであるらしい小説の作者ヴァージニア・ウルフ、現在の時間はかつて愛した男性リチャードから「ダロウェイ夫人」とあだ名されるクラリッサ、そしてその半ばほどの時間にウルフの『ダロウェイ夫人』を愛読している主婦ローラ、まったく違う3人の女性の人生に対する苦悩を描いていくうちに3つの人生が触れ合う瞬間を感じさせる。
3人の女優の演技には見入ってしまう。特にウルフを演じたのが驚きのニコール・キッドマンで最初名前が出てるのに全然出てこないじゃないかと気づかなかった。奔放というのか、精神を病んでいるのだと言われてもそうではなくて苦しんでいるのだと言い返す。心優しい夫に恵まれていながらそれを幸せとは感じられずむしろそれが彼女を縛る鎖となっているだけなのだ。それはそのまま一見幸せそうな主婦ローラにつながっていく。自殺するヴァージニアとは違いローラは死ねず夫と子供を捨てて生きる道を選ぶ。そのローラから捨てられた子供がリチャードでありクラリッサの元恋人ということで時間はめぐり合うのだ。
計算された構成が心地よく時間の流れを扱った作品はSF好きにはたまらない設定なのであるが、主要人物がめそめそ型女性なのが腹立たしい。男のめそめそしたのはいいのだが女のめそついたのには我慢ならないのだ。
ウルフはニコールの素顔がかっこいいので見惚れてしまったしジュリアンは泣き顔が似合うとしてもメリルがめそめそするのはちょっとやだなあ。それに取り敢えずビアンな要素が入っているのになんだかしっとり愛し合う場面はないのだねえ。まだまだビアンな表現は遠慮がちなのが伝わってくる。せめてメリルがリチャードより女性の恋人への愛情を強く見せてくれればいいのだが、不満。

しかしこういった何不自由ない暮らしなのに人間としての欲求が満たされないという苛立ちを描く作品を観てると戦争やら飢饉やらの時には平和や食事さえあればいい!というくせに人間というのは何と欲深な動物なのであろうかと嘆息を禁じ得ない。『戦場のピアニスト』を観せたらどうなんだろうか、などと言ってもこの人たちからは「あなたには私の苦しみは判らないのよ」と罵られそうだ。あああ。
作品と女優たちの技量の高さは感心する。そしてこの物語の持つ苦悩と言うものを確かに私も感じている。感じているのだがしかし一緒にそうよねえと言いたくない。解脱したい。この作品もそう言ってるって?私も結局めそついた女の一人だと認めるべきか。やだやだ。
つまりこんな風に何もかも求めて悟りたいとまた求めてしまう女性の一人なのだと自覚したくないので反感を持ってしまうだけなのかもしれない。
やはり自分の情けなくも醜い欲望は隠しておきたいものなのだ。
どうせ私もあなたたちの一人でしょうよと認めさせられる作品なのかもしれない。

原作者マイケル・カニンガムの『イノセントラブ』も死と水が関係する。というか幾つもの作品でこういう人生と死を考える物語には死と水が関連してくるのである。それは日本などアジアでも同じような表現になることが多い。面白い、というか興味深い。

監督:スティーヴン・ダルドリー  出演:ニコール・キッドマン ジュリアン・ムーア メリル・ストリープ トニ・コレット クレア・デーンズ ジェフ・ダニエルズ スティーヴン・ディレイン ミランダ・リチャードソン エド・ハリス
2002年アメリカ
ラベル:女性 人生
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2010年04月19日

『裏窓』アルフレッド・ヒッチコック

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Rear Window

ヒッチコックの中でも最も有名なタイトルなのではないだろうか。何やら気になる意味ありげで興味を惹かれる。
と、観てみればつまり「覗き」というのが題材になってるので若干後ろ暗い気持ちになってしまう向きもあるかもしれない。しかしヒッチコックの映画と言うのはほぼどこか異常な性質を持っているものなのである。
エアコンというものがない時代の夏の日は窓を思い切り開け放している、ということで成り立つのかもしれないこの設定。今ではちょっと難しい。あえて言えば盗撮などの状況を考え出せばこれに似た作品が出来上がるのかもしれない。

それにしてもこの作品ですっかり忘れてしまってたのは本作の殺人がバラバラ殺人だった、ということだ。
というか実はこの映画、殺人現場も死体も犯人の自供もなければ警察側のこれという発表もなく実際に殺人事件が起きたのかを明確にしていない、というちょっと変わった表現になっている。
一体どうしてなのか。見どころは「どうなるんだろう」というサスペンスにあるので恐ろしいバラバラ殺人事件はぼかしてしまった、ということなのか。それでも小犬が「何か」を埋めた場所を何度も掘り返すので殺してしまう、という可哀そうな殺害は犯しているのだ。そして「それは帽子の箱の中に入っているので見るかね?」という台詞があるのだからソーワルドが妻をバラバラにしてしまったのは疑いない。

このおぞましいバラバラ殺人事件と覗きという陰湿で悪趣味な題材を救ってくれるのが見ているだけで爽やかな風が吹き抜けるようなグレース・ケリーの美貌だろう。まったく作品中「完璧すぎる女性」とジェームズ・スチュワート扮する恋人ジェフが困惑するほど一部の隙もない美しさ。なんだかもう動いているお人形みたいなんである。彫刻したかのようなクールな顔立ち。そして理想的としかいいようのないプロポーション。痩せすぎでなくほっそりとしかも女らしい柔らかさのあるどうしてこんな体が出来上がるのか不思議である。特に剥き出しにした腕の形はうーん、誰かが作り上げたとしか思えない綺麗なラインなのだよねえ。甘すぎず、且つ女性らしくあんまり上等過ぎて確かにジェフでなくとも妻にするには考えてしまうかもしれない。私も以前はあんまりセクシーでもなくつまらない気がしてたのだが今見るとやはり見惚れてしまう美人で、彼女がやれば不法侵入も許される、ということなのだろうね。

ヒッチコックは古臭い、と思われるかもしれないけど彼の作品はできるだけ観てたほうが他の映画を観る際に何かと役に立つ気がする。
というのはおかしいかもしれないけど自分はそう思ってしまうのだよね。映画を作る人ならもっとだろうけど。
人間の中にある異常心理や事件のサスペンスの様々な要素が詰まっている。単純かつ効果的。
ジェフが覗き見るたくさんの裏窓の様子は今ならたくさんのモニター画面みたいな。バラバラ殺人はいつも今も起きているし。
男を骨折させといて女を動かす、というのも楽しい演出である。

監督:アルフレッド・ヒッチコック 出演:ジェームス・スチュアート グレース・ケリー レイモンド・バー ウェンデル・コーリー セルマ・リッター
1954年アメリカ
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2010年04月16日

『ウォンテッド』ティムール・ベクマンベトフ

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WANTED

この映画を観る人の目的の殆どはアンジェリーナだろうなあ。主人公を演じるジェームズ・マカヴォイファンも多いのだろうか。
私としてはロシア映画『ディ・ウォッチ』『ナイト・ウォッチ』が面白かったのでこの映画を作ったのがベクマンベトフ監督だと後で気づいて観てみたくなったのである。
で、内容としてはほぼ『ナイト・ウォッチ』シリーズと同じであった。

どちらもモロオタク的感覚作品で自分も同じ穴のムジナであるから気持ちは判るけどいやもう露骨に内に籠った世界なのだよね。つまり現実とは思えない夢想的世界なんである。
よほどこういうスタイルが好きなんだろう。『ウォッチ』と同じ設定。古から伝わる掟、とそれに従って生きる特殊能力の人々が普通の人間社会の中でその力を見せつける、という。そして父と子の絆。息子が暗黒世界へ入ってしまうというのも同じで。
いやいや文句をつけてるわけではないのだよねー。こういうのっていうのはつまらない現実社会の中で抑圧されているオタクサラリーマン&ウーマンが夢想したくなる世界ということで。今迄何の才能もなく馬鹿にされ叩かれてきた若者が実は超能力を持っていることを知らされる。それも超のつく美女に。
激しい訓練で傷ついてもすぐに癒される回復風呂に入り、何日かの修行で才能を目覚めさせる。いやもうたまりませんね。
人もネズミもどんどん殺されてしまい惨たらしいも残虐も言ってられない。どーせ映画なんだから楽しむだけ楽しんでそれでいいではないかと。

それにしても自分としてはベクマンべトフ目的だったんだけど、結構い役者が出てるのだねコレ。
モーガン・フリーマンにトーマス・クレッチマン、テレンス・スタンプまで出てた。コンスタンチン・ハベンスキーは「ロシアン」役で登場。そのままじゃないか。
フリーマン氏が出てくるだけで映画の格がぐっと上がって本物っぽくなってしまう気がするし、ドイツ人は相変わらず悪役で登場だが息子がスコットランド人?ですか。いいけど。かっこよかったなあ。クレッチマン。登場時間は少ないが彼を見る為だけでもこれ観てよかったよ。
テレンス・スタンプ。何故?もう少し変な役作りでもよかったような。でもやはり嬉しい。
少々文句があるのはアンジェリーナで。好きですが、いくらなんでも痩せすぎじゃないでしょうか。まるで収容所から出て来たばかりみたいに痛々しい。あと10キロくらい太っていいんじゃないでしょうかねえ。こんな痩せたのを良しとするのは危険じゃないか。

なんといっても映像処理が煩いし、ここまで内向的な世界を見せつけられるとさすがに危ぶまれてしまう。殆ど「アリス・イン・ワンダーランド」的映像だと。
すべてが夢、と思えてしょうがない。

クレッチマンがすてきでそこだけもう一度観たい。

言葉にこだわるのはやはり外国の監督だからだろうなあ。「アイムソォリィ」って。

監督:ティムール・ベクマンベトフ 出演:アンジェリーナ・ジョリー ジェームズ・マカヴォイ モーガン・フリーマン テレンス・スタンプ トーマス・クレッチマン マーク・ウォーレン デヴィッド・オハラ コンスタンチン・ハベンスキー
2008年アメリカ
ラベル:オタク SF
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2010年04月09日

『エイリアン3』デビッド・フィンチャー

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ALIEN3

そして何故か突然『エイリアン3』である。というか先だって『Uボート』を観てたらこれを思い出して観たくなったのだ。
ギーガーのあの恐ろしい一度観たら絶対忘れられない『エイリアン』のデザインはもとより映画作品としても秀逸だと思うが自分は特にこの3作目が好きで、好きなのだが今まできちっと観たことがなかったのでこの際観てみることにしたのだ。
まあどんな作品だってそうだろうが、この『エイリアン3』も観る人にによって駄作だったり秀作だったりするようだ。私にとってはこんなに面白いのはない、くらいなんだけどそれぞれだからしょうがない。
それにしても渋い作品である。シガニー・ウィーバーが出てなかったら物凄く陰鬱な映画になってしまいそうだ。普通、彼女と恋仲になる男くらいちょっとした色男にしてくれてもよさそうなもんなのにかなり酷い面々である(すまん)シガニーが美女である上に男前も兼ねてるみたいなもんなのでまあいいけど。一番良い役で宗教家的存在の黒人眼鏡氏くらいだろうか。アジる時の声がかっこいいっす。
シガニーは坊主頭がさらに男前ですらりとした長身に惚れ惚れ。その辺ですね。

さて舞台は牢獄惑星。住人は囚人と看守合わせてたった25人ほど。黙々と労働と宗教で毎日を過ごす平和な場所であったらしい。そこへたった一人の女であるリプリーが転がり込みとんでもない疫病神となってしまう。
彼女とともに入り込んできたエイリアンが次々と彼らを食い物にしていく。リプリーとただ一人肉体関係を持つことになった医師までが命を落とす。パニックになる囚人たち。そんな中でリプリーは体の変調を感じる。彼女の体内にエイリアンの子供が産みつけられていたのだ。

とにかく全編気持ちのいい場面が一つもないような作品である。おぞましい星の悲しい住人達。エイリアンに襲われても誰からも救助される望みもない。
大概のアメリカンストーリーならばリプリーのアイディアと皆の力でエイリアンをやっつけリプリーも手術なりを受けてめでたし、で終わりそうなもんなのに彼らがどんなに勇気を持って果敢に闘っても全員が殺されてしまう、たった一人だけを除いて。その彼もただ他の牢獄に移されるだけなんだろう。リプリーの選択した道は体内に宿った悪魔ごと灼熱の地獄に落ちること、自己を犠牲にするしかなかった。その姿は磔になるキリストのようでもあり、また我が子を抱き抱えるマリア像のように美しいのだった。
この物語のどこが面白いんだろう。未来SFでありながら舞台となる場所はまるで時代を遡ったかのような古めかしさで機械類は壊れた物ばかり。人々は松明を持ち、肉体労働を強いられている。
彼らの拠り所は宗教で禁欲を心がけていた為女性が現れても突然反応することがなかった。
リプリー達は何の武器もない状態でエイリアンと戦うことを決意する。それは松明を持ち自分たちの肉体を餌にして奴をおびき出し焼けた鉛を浴びせる、という旧時代のアイディアに頼るしかない。
迷路のような狭い地下道を走り回り叫び声で合図する。情けないほどの作戦に命を賭ける囚人たち。だがそんな彼らの切ない必死の行動も恐ろしい怪物の前には何の意味もなく無残に次々と襲われ喰われてしまう。憐れな人間でしかないのだ。美しいヒロインは自殺し、彼女を守った勇敢な男たちも怪物には惨めに喰われてしまうのだ。こんなに恐ろしい物語があるんだろうか。
そして目的を達成することができなかったユタニ(湯谷?)社はため息をついて惑星を閉鎖する。

あの通路を走り回る場面が一体どうなってるのやら判らないのだがとにかく怖いではないか。しかも全然逃げ切れないのだよ。人間がここでは追いまわされる虫けらにしか過ぎない。何の命の重さもないんだ。簡単にぐちゃって潰されて体液が飛び散ってしまって終わりなんだよ。
こんなに侘しいアメリカ映画ってそれほどないのじゃないか。
その虚しさがたまらない後味の一作だ。それがいいのだよ。

監督:デビッド・フィンチャー  出演:シガニー・ウィーバー チャールズ・ダンス チャールズ・S・ダットン ランス・ヘンリクセン ポール・マクガン ポール・マッギャン ブライアン・グローヴァー
1992年アメリカ
ラベル:SF
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2010年03月24日

『消えたフェルメールを探して 絵画探偵ハロルド・スミス』レベッカ・ドレイファス

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STOLEN

とても不思議なドキュメンタリーでまるで作られた物語のような設定やエピソードの上に登場する絵画探偵なるハロルド・スミス氏(名前からして創作みたい。いや英語名が判るわけでもないが。ハロルド・スミス。やっぱり作った感じ)のキャラクターがまたずば抜けて異彩を放っておりこれは本当にドキュメンタリー?風の映画?ともう一度確かめたほど。
絵画探偵、という響きも珍しくて実在するのかなあ、と思ってしまうが彼の息子さんも同じ職業をしておられ物凄く忙しい状態のようで、それは無論彼らが優秀であるからこそなんだろうけどアメリカ各地で絵画が盗まれては彼らが呼び出され犯人を捕まえ貴重な美術品を助け出しているのである。
なんだか少女漫画にでも出てくるような設定だがスミス氏の容貌が一目見てはっとなってしまうのである長身痩躯の紳士然とした身なりで老体とは言い難いほどのかっこよさだがその顔全面が焼けただれているのだ。実は皮膚癌で全身を冒されているのだという。青年期の写真は特別と言っていい美男子でありながらまだごく若い時にその病にかかり、片方の目には大きな黒い眼帯をつけ鼻はなくなって付け鼻になっているという姿でありながらご本人はまったく意に介しておられない様子で威風堂々たる雰囲気なのだ。そして盗まれた絵画を取り戻す為には時間を忘れて没頭する仕事ぶりであり、驚くほどの多くの人々と出会い絵画盗難の原因を突き止めていく。多くの人と接するその様子に映画監督は敬意を表している。どんな相手に対しても変わらない態度。権力者に会っても怖れず犯罪者に会っても軽蔑することをしない。このドキュメンタリーは彼を撮る為に作られたものではなかったらしい。
本意は盗まれたフェルメール『合奏』の行方を捜すことと同時にこの絵が展示されていたボストンにあるイザベラ・スチュワート・ガードナー美術館とそれを作ったイザベラの人生を描くことだったのだろうが企画途中で知り合ったハロルド・スミス氏のキャラクターがあまりに素晴らしくて中心になってしまったということであるらしい。
なにしろ日本語タイトルは『絵画探偵ハロルド・スミス』である。原題は『STOLEN』だけだからして。
さてもう一つ不思議、というか当然なのかもしれないがこの映画はドキュメンタリー、それも進行形でのドキュメンタリーであった為に目的である「盗まれたフェルメールの『合奏』の謎」は未解決で終わってしまうのだ。ハロルド・スミス氏の魅力は充分伝わったが彼の探偵としての成功を見ないままに終わってしまうのはちょっと残念かもしれない。これがもしTVドラマシリーズの一つの回ならまだしもだが、というかそう思ってしまうほどハロルド・スミスという人物が際立っていたのだった。

監督であるレベッカ・ドレイファスは若い頃その絵をガードナー美術館で見て以来何度も足を運んだのだそうだ。私の方はそんな思い出は悲しいかなあり得ず、美術の本にあの有名な「牛乳を注ぐ女」の絵が載っててページを開けるたびに飽きもせず眺めたものだ。一体どうして普通のおばさんが牛乳注いでる絵にそうも見入ってしまうものか、と不思議だったが多くの人がそうなのであったのだ。黄色と青の色彩の美しさ、窓からの光がどうのと理屈をこねなくても絵画であるにも拘らずただの教科書の絵を見てるだけにも関わらずどうしても牛乳が注ぎ込まれているようにしか思えない一瞬がそこにあることにいつまでも観続けてしまうのだ。

そして映画はそういった絵画を集め自分の理想の美術館を作り上げることに一生を費やした女性イザベラ・スチュワート・ガードナーの人となりを、彼女と組んでヨーロッパで数々の名作絵画をアメリカへ運んだ男性との書簡を読みながら描き出していく。


私は前にも書いたけど、絵画ミステリーというのに凄く惹かれる。それは絵画自体のミステリーでもよいし、これのように絵画が盗まれるというミステリーでもいい。というのはどちらにしても単に絵の代金、というだけではない『絵画』というものに込められている魔力に多くの人が惹かれてしまい操られてしまうからだろう。
「エロイカ」が美術品の泥棒であることに私は大いに共感してしまうのである。

って共感してはいけないか。
本作でフェルメール『合奏』を盗まれたことに大きな悲しみと怒りを感じている人々を見ればやはり泥棒はいかんのである。

監督:レベッカ・ドレイファス
2005年アメリカ
ラベル:犯罪 歴史 美術
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2010年03月17日

『ジュリア』フレッド・ジンネマン

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遠い昔の少女の頃、観たはずなのだが正直言ってまったく覚えてなかった。つまりまったく内容が理解できなかったんだろう。
覚えているのは(と言ってももしかしたら他の何かの映像での記憶かもしれないのだが)ジェーン・フォンダ扮するリリアン・ヘルマンがタイプライターを窓から放り出すとこと重要な任務を背負った汽車の旅が物凄い緊張感で怖かったことくらい。それと彼女が住んでいる家の目の前に海と砂浜があって物凄く羨ましかったというようなことであった。

確かにこうやって観なおすとそんなに難しいわけではないのだが当時の西洋の状況をまったく知らないままではすんなり感動しにくかったろう。
それでもリリアンとジュリアの関係がかっこよく大人の女性の世界と映画ではそれほど濃密に描かれることがあまりない女同士の友情が緊迫感のある状況の中で表現されていることに強く惹かれたのだった。

リリアンは幼い少女期から自分より遥かに大人の雰囲気を持つジュリアに憧れている。ジュリアがリリアンをどう思っているのかは詳しく語られることはないがそれでも幼馴染であり無二の親友として長い間深い友情を感じているのは伝わってくる。
ジュリアは若い時から非常に頭がよく勇気のある女性で裕福な家庭に生まれ育ちながら労働者階級の人々に強い関心を持っていた。リリアンはそんなジュリアを尊敬し、その美しさを感じるのだ。
『ジュリア』は映画作品ではまだ少ないレズビアンの愛情を描いた作品としても挙げられるが、この作品で表現されたことだけでは友情と言って欲しい気もする。それほど女同士の友情を描いた作品は少ない、ということなのかもしれない。(作品中で嫌な男から二人の関係を揶揄される場面があってリリアンが怒る。男は肉体的なことを指していてリリアンとしては二人を汚されたようで腹がたったのだ。私としてはどちらでもいいのだが、この作品としては友情でいいと思う)

リリアンがジュリアの願いを引き受けてナチス時代にユダヤ人でありながらベルリン経由でロシアへ向かう旅の緊迫感は耐えがたい。大きすぎて目立つ帽子の中に仲間を救う為の大金を詰め込んであるのだ。
リリアンを常に誰かが見守っているのだが、彼女自身はそれが判らない。誰が敵で味方なのか、捕まれば自分が処刑されるかもしれない恐怖を押し殺してやっとジュリアに会えるのだが。
長い間待ち望んだジュリアとの再会は僅かな時間で、彼女は暴動の時に受けた怪我で義足になっていた。
止めようとしても止まらないリリアンの涙。若く美しかったジュリアは今も美しいが彼女はあまりにも大きな責務を背負っていた。
そして彼女には赤ん坊がいてリリアンに養育をお願いしたいと言うのだ。その赤ん坊の名は「リリー」ジュリアは娘にリリアンと同じ名前を付けたのだった。

その後、ジュリアは暗殺され、リリアンは必死で彼女の娘「リリー」を探し出そうとするがあまりにも手がかりがなかった。
リリアンは嘆き悲しむ。夫であるダシール・ハメット(無論あのダシール・ハメットである)はリリアンを慰め「君は僕より長く生きるよ。しぶといからね」と言う。

やがて夫も亡くなり一人物思いにふけるリリアン。とても悲しい物語なのに心の中に灯りがともっているような気がする。

大人になってずっと年取って観なおしてもやはりかっこいい映画だった。ジュリアが素敵で私も惚れてしまう。いいとこばかり見せすぎって思う人もいるみたいだけど、こういう人、こんな風に思える人っていると思うしそれがまた女性だというのが惚れ惚れ。
リリアンが作品が書けずに夫に当たり散らしてるとこも好きだな。ダシールさんもかっこいい。
あんな風に海辺の家で執筆してること自体がかっこいい。
夫と暮らし戯曲を書きながら遠い国に住み、力なき労働者達の為に活動する友を思う。
うーん、やっぱりかっこよすぎかも。でも憧れる。浜辺の焚き火の傍で酒を飲むのも素敵。

監督:フレッド・ジンネマン出演:ジェーン・フォンダ ヴァネッサ・レッドグレイブ ジェイソン・ロバーズ 
1977年アメリカ
ラベル:友情 女性 歴史
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