映画・ドラマ・本などの感想記事は基本的にネタバレです。ご注意を

2010年03月09日

ジム・キャリーとユアン・マクレガーのレアな爆笑会見『フィリップ、きみを愛してる!』

ジム・キャリーとユアン・マクレガーのレアな爆笑会見映像が解禁!フランス人も大爆笑!

『フィリップ、きみを愛してる!』
中に記者会見映像あり。ユアンが可愛いぞ。ジムも素敵だ。

とにかく早く観たいよね!!


ラベル:同性愛
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2010年03月04日

『チャーリー・ウィルソンズ・ウォー』マイク・ニコルズ

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Charlie Wilson's War

先日アレクセイ・チャドフ出演『9 rota/The 9th Company』を観てもう少しアフガニスタンへのソ連介入の映画を観たくてこれを見つける。
気持ち的にすっかりロシア側について観ようとしてる昨今、この映画を観ていいものか、というか観通す気になるものか、と思いつつも観賞。しかも主演が好きの範疇にいないトム・ハンクスで脇にもっと好きの範疇でないジュリア・ロバーツときては一層観る気が萎えそうだったがこの内容ならあえてこの二人主演でよかったとここだけは安堵するのであった。

後で気づいたのだが監督がマイク・ニコルズだったのだ。どおりでよくできていて面白いわけなのではある。
チャーリー・ウィルソンという政治家が観るのもうんざりするほどのある意味典型的俗物政治家でありながらふと見たTV報道からアフガニスタン支援行動を促進する羽目になっていく。
彼を焚きつけるのが宗教と政治に鋼の意志を持ちながら介入していこうとするテキサスの富豪夫人ジョアン=ジュリア・ロバーツ。
「アメリカの理想として共産主義国ソ連を叩き潰す」のは冷戦状態であるアメリカとしては表立った行動は取れない。チャーリーはジョアンに誘導されながらイスラムの国アフガニスタンに武力支援をすることでソ連を撤退させ自国の優位を示し、世界平和に貢献したと自負している。
だが戦後のケアにまでは手が回らず武力支援は秘密裏に行われたことでアメリカが支援したことは人々の記憶に残らず、学校建設などで名を売ることも叶わなかったのだ、とチャーリーは言い訳をする。
一見アフガニスタンを支援することでアメリカの優位を示し、世界平和に貢献したはずの行為はその後、タリバンなどの過激派を育てることになり果ては9:11を引き起こすことになる、という図式が見えるというわけである。
ここでシーモア・ホフマン扮するガストが禅の師匠という小話をする。「ある少年が馬を買って喜んでいたが、師匠は「今に判る」というのである」
卑小な存在である一政治家がとんとん拍子でソ連攻撃を成功させ皆に讃えられたが「今に判る」ということになる。
しかしその後もアメリカは軍事介入を繰り返しては世界中から批判を引き出すことになってしまうのだが今度の「今に判る」が恐ろしい。

トムとジュリアのどちらも近寄りたくない人間の役であったので彼らが演じてくれてよかったと思う次第である。
チャーリーの美女秘書団はとても可愛らしかった、と逆に思ったんだけど。結構頑張ってたよ。
シーモア・ホフマンが上手いのはもう当然である。

チャーリーが秘書に少年時代の思い出を語る場面があるのだが隣人に住む嫌なイギリス人が自分の愛犬を残酷に殺したので彼の花壇を焼いた後、政治家だったその男を落選させる為に選挙権のないチャーリーが唯一持っていたトラクターの免許で黒人たちを95人投票所へ連れていき別の立候補者に投票させて難いイギリス人を落選させる、という話をする。彼はここで「その時アメリカという国が好きになった」と言う。やる気になれば少年でも嫌な奴をやっつける自由と力を持てるというのだろう。しかしこの話の中にすでに「嫌な外国人」を「黒人たち=力のない助けるべき人々」を利用して自分の理想を達成させるというチャーリーの「やり方」が萌芽してるのだ。ちょっと愉快な話のようにも聞こえるし、確かに愛犬にこんな仕打ちをする奴は許せないが、黒人を利用するあたり、なんだかむかつく男である。

監督:マイク・ニコルズ 出演:トム・ハンクス ジュリア・ロバーツ フィリップ・シーモア・ホフマン エイミー・アダムス ネット・ビーティ オーム・プリー エミリー・ブラント ケン・ストット ジョン・スラッテリー
2007年アメリカ
ラベル:戦争 政治
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2010年02月25日

『セルロイド・クローゼット』ロブ・エプスタイン ジェフリー・フリードマン 

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THE CELLULOID CLOSET

もうバレバレでしょうが先日ジェームズ・フランコが『ハウル』の主演だという記事で出てきたロバート・エプスタイン、ジェフリー・フリードマンの監督作品ということで観賞。
何しろ1996年製作の映画なので「ゲイ映画」をテーマとして取り上げたドキュメンタリーとして観るにはやや古きの感無きにしもあらず、だが、でもそんなに違和感がないっていうのはなかなかこの方面の成長の遅さを物語っているのかなあ。というわけでゲイ映画の筆頭に来るべき『ブロークバックマウンテン』は語られません。勿論我が愛するベン・ウィショーの『情愛と友情』もだね。『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』もまた。
とはいえ、ゲイ映画(男性同士、女性同士どちらも語られる)の代表作を挙げるなら、先に書いた映画を除けば(他にもあるけど、まあまあ)まず出てくるタイトルがずらり。今現在でやってもあまり変わらないかもしれない。

私が物凄く共感を持ったのはインタビューを受けるゲイの方たちが「ストレートを描いた映画の中に少しでもゲイ的な要素がないかと探し回った」というところ。
幸か不幸か残念ながら私はゲイではないがそういう場面を探し回る情熱だけはかなり持っている。威張ってもしょうがないが。
も少し言うならあんまり露骨に出てくるより「暗に匂わせた」「ゲイ的な象徴を使う」「含みを持った言い回し」などを感じるのが大好きである。きっと今本当のゲイの人から嫌な顔をされたかもしれない。
しかし確かにそれくらい映画はストレートが本道でゲイはここで語られる通り、怪物であり気持ち悪い存在として描かれその末路は死あるのみ、なのである。『 フリービーとビーン 大乱戦』は私もTVだかで観た記憶があるのだが女装したゲイがトイレの中で残酷なほど撃ちまくられ死んでしまう。ストレートな観客は気持ちの悪いファゴット(おかま)が酷い目にあって殺されるのですかっとして大笑い、ということらしい。私は随分昔に観たきりなのに記憶があるってことはかなりショックだったに違いない。アメリカ映画の中で「ゲイ」が描かれる代表みたいなもんだ。
かと言ってアメリカ映画において「ゲイ」を真剣に肯定的に描くことは無理だった。彼らはあくまで気持ちの悪い怪物でしかなかったのだ。
また当時の検閲がゲイを映画上に登場させることを許さなかった。
肯定的なゲイは皆切り捨てられてしまったのだ。
そこで「頭の良いゲイの製作者たち」は「頭の悪い検閲者たち」に判らない裏技を使った。「ストレート」に表現せず婉曲な表現方法で判る人に判らせる、という奴だ。
おかしかったのは『赤い河』での二人のカウボーイの会話、男がハンサムなモンゴメリー・クリフトに話しかける「いい銃だな、見せてくれよ」モン、少し恥ずかしげに腰から銃を取り男に渡す「いい銃だな、俺のも見るか」二人で互いの銃をじっくり見る。じゃああれを撃てるか、と言って二人で離れた缶の撃ち合いっこを繰り返す。
無論銃は男の象徴でそれを見せ合ってさすっては「いい銃だな」って言うので見てるゲイ君は思わずにやり。おまけにふざけて撃ちあいっこなんてね。
『ベン・ハー』なんてゲイっぽいとは思ったがこんなに意識して作っていたとは思わなかった。ヘストンに話すと演じきれなくなるから彼には適当に誤魔化して相手役の俳優のみに事情を話し、彼の役とベン・ハーは少年期に恋人同士で再会してよりを戻そうとしている、という演技をしてもらったらしい。すげえな。

そんな風にして多くのストレート映画で関係者たちはこっそりとメッセージを送り続けたのだ。

だがやはり本当ははっきりと表現したい、という気持ちが真実だろう。だがはっきりと表現すればそれは殆どが悲劇として描かれてしまう。
差別され暴力を受け切り離され殺される。
或いは恐ろしい殺人鬼として描かれる。
隠れたメッセージでなければ同性愛者がまともな存在としては登場しないのだ。

長い映画の歴史の中でそれはほんの少しずつ変化してきているが、それでもまだまともに当たり前の存在として表現されることは少ない、と思う。
本作でインタビューを受けるゲイの出演者たちの声の多くは「最後に死なないゲイの映画を求める」って言ってると感じたがそれは私も強く思うことでまずそこからだと思うのだ。それは『モーリス』の後書きで作者のE・M・フォースターが言っていた「この物語はどうしてもハッピーエンドにする必要があった」という言葉に表されている。あの映画が今のアメリカででもゲイ映画の上位にランクインされているのはそこにあると思うのだよね。

それにしても思うのは男同士はまだそれでも描かれているがことビアンに関してはほぼ皆無と言ってもいいのではないだろうか。
先日観た『噂の二人』のなんと言う悲劇。本作でも取り上げられていて主人公の一人を演じたシャーリー・マクレーンが「あの時作品のテーマの重要さをまったく認識しないで演じてしまった。私が演じた彼女は泣いて恋人に謝る。本当は戦うべきだった」と語っている。素晴らしい発言だが仕方なかったと思う。しかしその映画を見たビアンの女性は「昔の映画だ、とはいえあの映画を観るとやはり自分の姿だと思う。いつもは自分自身に誇りを持っていてもどこかで彼女と同じ悲しみを感じているの」と言っていた。シャーリーの演技はそう思わせるだけの力を持っていたと私も思う。悲しくて二度は観たくないけど。
映画界は殆ど男性で出来上がっている。例えゲイ男子が多くてもやはり男だ。ビアンの映画は所詮ストレートの男の為のエロ映画の一つになってしまう。大好きな『テルマ&ルイーズ』はあくまで女の友情物語であってビアンとは言い難い。スーザン・サランドンが話してた「ラストシーンでキスをするのはただ絆を確かめただけ。『明日に向かって撃て』のブッチとサンダンスもキスすればよかったのよ。でも彼らはその代わりに男らしく銃を抜いたってわけ。実際にイチモツ(と言ってた)を出すわけにはいかないもの。そうしたら警察にもっと撃たれる理由を作ったわね」なるほど。
ゲイ映画を語るドキュメンタリー、と言っても女性同士はなかなかこれというのがない。

ビアン映画って本当にこれというのがなくてしかも「暗喩」なんていうのもあんまりないだろう。
ここで取り上げられていたヒッチコックの『レベッカ』のデンヴァース夫人は確かに今は亡き女主人レベッカに恋をしていたのだろう。あの物語が大好きだったのはデンヴァースのレベッカへの愛の為に主人公が虐めぬかれるという設定だったからだ。
私にとって一番心惹かれたビアンものは手塚治虫プロで制作された『アンデルセン物語』の中の『雪の女王』で山賊の娘がゲルダを好きになるのだが彼女はカイを助ける為に自分を行かせてと頼む。娘が辛い気持ちでゲルダを手放すのが切なくてたまらなかった。
この物語にどのくらい手塚氏が介入しているかは判らないが手塚治虫さんは少年マンガ界で最もゲイを描いていることは確かだろう。
私が最も愛するブラックジャックの恋人は男性だ。昔は女性だったが男性になった。ブラックジャックの手で。
今思うと別に男性にしなくてもよかったんでは?と思ってしまうのだが、ブラックジャックの趣味だったのでは?と疑ってしまう。しかもその男性になった人に恋をしてしまう男子まで登場する。「あの人は昔女性だったんだ」というのが彼の恋の理由だが、今男性なのにその理由って?やはり手塚氏の漫画は性を超越してる。
話がそれてしまった。

悲しむべきは日本映画のゲイシーンなのではないだろうか。私は他の点では日本映画の素晴らしさを讃える者であるが同性愛を表現する、という点においては「ほのめかし」を探すのも大変な気がする。先日観た『TAJOMARU』も桜丸を主人公にしてくれてたらと思ってしまうのだが。この辺に関しては中国・韓国映画の方がどんどん先に進んでいってしまってるのではないだろうか。

暗喩やほのめかしを探すのも楽しいがやはり求めるのは素晴らしく上質の感動的なゲイ映画、なのだ。
男性同士だけでなく女性同士も増えて欲しい。そのためには女性監督がもっと増えることが不可欠なんだろうな。昨今、少しはビアン的な話題が増えてきてるような気もしているのだが。男同士に比べたら僅かなものとしても。その男同士もなかなか難しいのだからな。ホームズとワトソンが怪しいのは昔からです。

監督:ロブ・エプスタイン ジェフリー・フリードマン 出演:トム・ハンクス スーザン・サランドン ウーピー・ゴールドバーグ シャーリー・マクレーン トニー・カーティス アントニオ・ファーガス
1996年 / アメリカ
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2010年02月21日

『ハウル』アレン・ギンズバーグをジェームズ・フランコが演じてたのだね

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なんだかちっともチェックしてなかった第60回ベルリン映画祭。寺島しのぶさんが女優賞を取られてめでたい!などと喜んだりした後でコンペ部門の作品名を今頃見る始末。
うひゃあ、となったのは遅すぎて恥ずかしいのだが『ハウル』!
なんとアレン・ギンズバーグの物語なのではないか。しくしく。今頃気づくなんて。
しかも監督はロバート・エプスタイン、ジェフリー・フリードマン。ギンズバーグを演じているのがジェームズ・フランコではないか。とほほ。馬鹿馬鹿。今頃知るなんて。
まあ早く知ってもどうせ観れないけど。
と開き直ってる場合ではなくこれはもう気になるではないか。
ベン・ウィショーの『Kill Your Darlings』の行方がどうなるか不明な今、ギンズバーグを映像化している方々がいらっしゃったのねー。
しかも監督がロバート・エプスタイン、ジェフリー・フリードマン。主演がジェームズ・フランコ!しつこい・・・。
ああ〜。これはもう観れるのね。いや日本に来るかどうかは判らないわけだが。DVDでいいので早く見せてくれー。

しかしギンズバーグがジェームズ・フランコ?あの…全然似てない・・・んですけど。いいのか?いいのかな?いいか。
ルシアン・カーは登場するのかなあ。

ジェームズがアレンが好きなのは嬉しいね。
ラベル:同性愛 芸術家
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2010年01月26日

『チェンジリング』クリント・イーストウッド

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CHANGELING

イーストウッド監督作品はとにかく判りやすい、ひたすら飽きさせない。恐ろしい社会問題などを取りあげてもあくまで観客が面白く観れるよう娯楽性を失わない姿勢は徹底している。
『チェンジリング』と言うタイトルで子供が可愛くない子と入れ替わるとは判ったし、当時の警察の腐敗を描いているとも聞いたのだがまさかそこから「いつもの」連続猟奇殺人事件につながっていくとは思わなかった。
しかしイーストウッド監督は健全さを失わない。話題は刺激的でも登場する子供達が直接惨たらしい行為を受けたり、残酷な映像をさらけ出すことをしないのは偉いものだ。
物語は極めて迅速に進行していく。場面展開は的確で構成は骨太でラストの処理に至るまで申し分ない。男親の存在しない家族で、母親が行くえ不明になった息子を探し求めるという物語はドラマチックでありながら全く涙を誘わない乾いた質のもので爽快ですらある。

と書くと一体褒めてるのか貶めているのか判らないが、私にとってイーストウッド監督作品はいつも面白くて嫌ではないがそれ以上にのめりこむような世界観ではないのだ。しかし彼は別にそれでいい、と言ってるような気さえする。べたべたと好きだとか言うのではなくがっと観てなるほどと頷いてよし、という実にさっぱりと突き放した感覚でありそれ以上に変な芸術性だとか問題作だとか追求してはいないんだろう。しっかりとした内容でなにか一つのテーマを描き切ればいいという率直なスタイルのアメリカらしい映画なのだ。

本作を観て気になったのは部屋の中が昼間でも暗いこと。夜なら本当に真っ暗である。他の映画では何となくライティングしてしまうせいか部屋の中でもいつも明るいがここでは凄く暗い。それは作品的なイメージなのか、当時の部屋の中はそういうものなのか、その当時のアメリカの生活を知らないので何とも言えないが私が生きている間の昔の日本の家の中も何となく暗かったような気がする。
この暗さがホントっぽく思えたのである。

昨日まで観続けていたコロンボ警部から50年ほど前のロサンジェルス警察がこんなものだったのだなあ、と感慨深いものである。

少し前に日本映画の『休暇』で死刑にされた囚人の体を支える役、というのを知って驚きだったが、これを観る分にはアメリカではやはりそういうことはやっていないのか。どうなんだろう。必要なんだろうか。気になる。

監督:クリント・イーストウッド 出演:アンジェリーナ・ジョリー ジョン・マルコビッチ ジェフリー・ドノヴァン コーム・フィオール ジェイソン・バトラー・ハーナー エイミー・ライアン デニス・オヘア
2008年アメリカ
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2010年01月09日

『ヴィレッジ』M・ナイト・シャマラン

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The Village

これは一体どうしちまったんだろう。これから、というところで終ってしまった気がする。
この映画、まさかこの物語が物凄いどんでん返しだと思わせるものなんだろうか。
レイ・ブラッドベリ『びっくり箱』などのSF日本のSFマンガ手塚治虫だとか佐藤史生だとか諸星大二郎なんかが好きな連中ならこういう隔離された村、疑似社会なんていう設定はもう手垢が付くくらい繰り返し使われてきた題材である。
この映画の前半が面白かったのはそういう設定展開がもう見えてはいても主人公の少女が盲目であるとかその彼氏が口蓋裂らしい傷があるとかもう一人は知能障害があるとかでもしかしたらこの作品は映像にできないような危ないモノを描こうとしているのか、と何やら思いこんでしまったのである。だがどうやら近親による受胎が原因とは言えないまだ社会を作った者たちの子供の段階のようなので血が濃くなったせいでの結果ではないようであるし彼らの障害の原因が何故かは特に説明もなかったようだ。

現実社会を嫌悪し莫大な財産があることを利用して隔離された疑似村を作り、子供たちには「この森には恐ろしい「語ってはいけないもの」が住んでいる。彼らの縄張りを侵してはならない」という偽の掟を作るのはいい。が、本当に恐ろしいのは無論疑似村に住む人間のこころである。
ここまでの段階で何も破綻は起こらなかった、といえるのだろうか。知能障害のあるノアのおかげで我々はここに住み続けることができる、と最後に言う台詞があるが、そのノアの狂気、知能障害という誤魔化しがある為に判りづらくなっているが少なくとも「作り上げた偽物の恐怖」が彼をやってはいけない行動に走らせた。人々を陥れ、さらに殺人を犯したのだ。
エドワード・ウォーカーは自分たちがイノセンス=無垢であることを強調するがイノセンスそのものであるノアが真っ先に村の中で犯罪を起こしてしまう。この後、この村がどんな恐ろしい状況になっていくのか、それを描くのが作品なのだが、何故かこの映画はその出だし部分で終わってしまう、という不思議な作品になっている。
この映画の落ちは冒頭15分ほどで出してしまい、その後を描いていくものなのではないだろうか。
現実世界を知った盲目の少女はその後口をつぐんではいないだろう。少なくとも夫になるルシアスはそれを知り自分も再び旅立とうとする。後に続く者、それを阻止しようとする者、様々な諍いが生まれる。よしんばこのまま閉じられた村を継続したとしてもこの文章の始めで危惧したような事態は生まれる。昔からどういう狭い村社会でも離れた土地からの花嫁をもらい(あるいは奪い)たがったはずである。そうして新しい血を入れることをしてきたのだが、こんな少人数の村社会だけの交配など考えたくもない。どうせ異性を求めて若者たちは出ていくはずだがそこでまた恐ろしい殺戮があり、狂ったウォーカーが全員を抹殺したりするんだろうか。「イノセンス」と叫びながら。

ブラッドベリのような素晴らしいイマジネーションのファンタジーでもなく血塗れのホラーSFにもなれず使い古された疑似村、という段階で完結した奇妙な映画だった。
禁断の赤い実、だとか安全な黄色の服、だとか「彼のカラーが見える」だとか前半は物凄く期待させたのだが。
「ある日本の島で殺人事件が起きて騒ぎになるが時間が経つと皆ぼーっとして気のせいだったと思う」という話は手塚治虫のだったか。凄く面白いと思ったものだ。
そうえいば今日佐藤史生『精霊王』の『アシラム』読んでた。これも疑似村作品で面白かったが。
何故盲目の少女だったんだろう。
この疑似村をそのままとある国に置き換えてみたりとかもできるかもしれないが。

監督:M・ナイト・シャマラン 出演:ホアキン・フェニックス エイドリアン・ブロディ ブライス・ダラス・ハワード ウィリアム・ハート ブレンダン・グリーソン チェリー・ジョーンズ シガニー・ウィーバー  マイケル・ピット 
2004年 / アメリカ
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2010年01月06日

『ロング・グッドバイ』ロバート・アルトマン

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THE LONG GOODBYE

これもずーっと観ねばと思いつつ今頃になった、という作品。猫が出てきていつもと違うキャットフードにそっぽを向く、と言う場面があると聞いて是非観たいと思っていたのだ。
その場面は冒頭からであった。真夜中3時お腹がすいたと言う猫の鳴き声に置きだしたマーロウは買い置きが切れていた為に缶詰を買いに外へ出る。
という出だしなのだがこれがなんとも倦怠感溢れるものでなかなかいい。
とはいえその調子が最後まで続く映画なのである。エリオット・グールドが演じるマーロウはほどよく男っぽくて軽みもありハードボイルドアレルギーの私にとっても非常に魅力的であったが、これを若い時に観てたらさすがに退屈したかもしれない。今はこういうまったり感が凄く好きでいい時期に観たのかもしれない。

アルトマンらしい、というのか気取るほどかっこつけているわけでもないが、昔風に煙草を加え続け、話す時も煙草の脇から声を出す、といった具合。マーロウの住む向かいの部屋にはこれまた時代を思わせるヨガに夢中の娘たちが裸で身をくねらせている。自我を解放しようとしている、っていうのか。
作品は音楽と共にゆったりとした感覚で流れていき、派手なドンパチなどはなく極めてオフビートなハードボイルドなのかもしれない。
女を口説くシーンはなく猫にかまけているシーンだけなのだ。
うーん、でもやっぱり早く観るべきだったのだろうな。こんなに早くにハードボイルド破りのハードボイルドがあったのだから、
これを観てたらこういう感覚の私立探偵もの、ってよいなあ、などと今更思ってしまった。

猫は慣れたものしか食べないのだよね。元の缶に詰め直したって(ぷっ)無理なのだ。

監督:ロバート・アルトマン 出演:エリオット・グールド ニーナ・ヴァン・パラント スターリング・ヘイドン ヘンリー・ギブソン
1973年 / アメリカ
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2009年12月18日

『フランティック』ロマン・ポランスキー

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FRANTIC

これまたポランスキー非常に上手い、非常に楽しめる、そしてやはりとても暗い彼のテイストが溢れんばかりの作品だったなあ。

前回観た『赤い航路』よりもソフトでしかも娯楽性が強いので結構軽く楽しめるのだが、そのくせやはりミステリアスな美少女だとか淫靡な雰囲気だとかなんともやるせないラストだとかはしっかりロマンらしさを表現している。と言ってもエマニュエル・セニエはこれに出てから『赤い航路』で妖艶な美女(というか美少女と言う方が似合ってるのだけど)を演じているのだね。たどたどしく愛らしい英語は共通してる。

医学学会で発表する為パリを訪れたアメリカ人医師リチャード・ウォーカーとその妻サンドラ。ホテルに着きリチャードがシャワーを浴びていた僅かの間に妻が忽然と消えてしまった。
ちょうどその時かかって来た電話で話した後、サンドラは何者かに連れ去られたようなのだ。
果たしてサンドラの行方は。言葉の通じないフランスで頼りないパリ警察に愛想をつかしながらウォーカーは走り回る。

ゆったりとした導入部からとんでもない事件に巻き込まれていく、という展開はポランスキーの形式のようであるが、どれもとてもいいのだよな。これはまた車で移動しながらパリへ入り込んでいく風景が私好みでたまらないのである。
シャワーを浴びている間に妻が消えてしまう、というのはなんだかヒッチコック風な感じ。ヒッチに負けないくらいのユーモア感覚もたっぷり含みながらハリソン・フォードらしい男っぽいアクションも楽しめる。
ハリソンが大柄でいかにもアメリカ人らしい武骨な感じなのもキュートで、どんどんわけが判らなくなって追い詰められ、泣き出してしまうのも可愛いのである。
大げさには演出しないのだが笑わせてくれるユーモアのセンスは本作でもたっぷりなのだが、男らしいハリソンが女の子が渡っていけた屋根の上をぐらぐらしながら歩いて結局滑ってしまい大切な謎を秘めたスーツケースを屋根の上のアンテナに引っ掛けてしまい中身がばらばらに落ちていく顛末は高所恐怖症(私が)なので怖いやらおかしいやらで困ってしまった。可哀そうなのはハリソン=ウォーカーで彼こそがずるずる滑る屋根の上で縮みあがった上に愛しい妻を助ける鍵であるスーツケースの中身をばらまいてしまい、靴を脱いだら靴下ごと落ちてしまい踏んだり蹴ったり。ついに裸足で歩かねばならない惨めな姿になってしまう。
しかも女の子をかっこよく助けようとしたら思い切り殴られて気絶。アーメン。
奥さんが行方不明、多分誘拐で笑いごとではないのだがでかすぎて頭をぶつけてしまうようなハリソン=ウォーカーが女の子に助けられながらパリを彷徨う姿は情けなくもいじらしいのであった。

ハリソン=ウォーカーが一途な男性らしくエロチックな少女には誘惑されず、ひたすら妻を探し続けるのはちょっとじーんとしたりして。
エマニュエル演じるミシェルはどうしてあそこまでこだわってしまったのかなあ。この辺のつきつめ方が次の『赤い航路』でも発揮されてるようである。
若い女の子とおじさんであるウォーカーの食い違い方もどこも同じだな、という感じでこれもおかしい。
セニエが出てるのもあるが本作と『赤い航路』は共通点が多いのかもしれない。
パリが舞台で異国人(本作がアメリカ人であちらはイギリス人)がパリに対して憧れと溶け込みきれない感覚がある。それはエマニュエルが演じるパリの少女によってさらに強く印象付けられる。裕福だが平凡で幸福な夫婦が危機を迎え再び幸福を取り戻す。
それはやはりパリとパリの少女という異国人には憧れの存在によってもたらされる不思議な体験なのである。

監督:ロマン・ポランスキー 出演:ハリソン・フォード ベティ・バックリー  エマニュエル・セニエ 
1988年アメリカ
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2009年12月17日

2009年12月13日

『リカウント』ジェイ・ローチ

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RECOUNT

政治問題に疎い(なんにでも疎いが)私でも2000年のアメリカ大統領選挙のすったもんだはさすがに覚えている。ニュースでは、見開きの投票用紙に穴を開けて機械で集計ができる最新型のはずだったのがどこに穴を開けるのかがよく判らずしかも紙が硬くて開けにくくお年寄りが特に失敗してしまい短時間で集計できるというのが目的だったはずなのに却って物凄い時間と労力がかかり集計ができないの無効だのという騒ぎだった。いくら他所の国の出来事とはいえ一体何をやってるんだいという見世物だったが、その結果ジョージ・ブッシュが大統領になりこのような世界になってしまったんだから笑い話ではすまされない「穴」の話である。

非常に細心丁寧な出来栄えのドラマで私にも飲み込めるよう説明してもらえたのだが、もっとよく知る為には付属しているドキュメンタリーや対談、コメンタリーも観たほうが(無論他での勉強もだが)いいんだろうが取り敢えず本編を観たのみでの感想である。

これを観た限りで判らないのは「何故この方式で投票をしたのか」である。
そのことを後でウジウジ言ってもしょうがないからなのか(少なくともこの争いの途中で愚痴っても仕方ない)そこには触れていないが、ぱっと見穴を開ける場所を勘違いしそうでしかも穴を開ける力が相当必要だ、というような投票用紙を誰がデザインし、どうして許可が下りたのか。最高に優秀な人材がそろいに揃っているはずなのに何故誰も用紙の不備からくる失敗を予想しなかったんだろう。
ここではそのことが共和党ブッシュに有利な結果になったわけだが、それは共和党にとって予想されていたことだったんだろうか。

そしてほんの少しの票も欲しいはずなのに案外投票方式に関するとりこぼしが多々あるのだが、特に犯罪者と似た名前に人物(多くは黒人など有色人種つまり民主党派の可能性が高い)が投票拒否になっていた人数が2万人であるのにそういった事実をまったく知らずにいたという失敗。
悔やんでも悔やみきれない、というミスが次から次へと湧いて出てくる。大統領選挙は4年に一度だし、経験者ばかりがいるわけでもない。投票方法も初めてのやり方と言う中で、本作の主人公であるロン・クレインも手探り状態でなんとか今にも手放しそうになってしまう勝利へと糸口を掴もうと必死にもがき苦しむ。
途中で「一体ゴアが好きなのか判らなくなってきた」というのがおかしくて、もう自分のやっていることがゴアを大統領にしたいのか単に集計し直し(リカウント)をすることが目的なのか、観てるこっちもゴアが出てくるわけでもないからただもう集計するのしないのという不可思議なシーソーゲームの成り行きを見つめているしかない。結果は知っているにも関わらず歯噛みしたくなるドタバタ劇だ。
しかし、と思うのは結局対岸の物語、というかこちら側の物語でもよくは判らないんだが、民主党側からの作品なので共和党陣営があまりに憎々しく描かれているのは当然のことなんだろうな。私としてもブッシュ側の描き方としては何の不満も持たないが。
とはいえ主人公ロン・クレインが一度ゴアから首を切られたという苦々しい過去があり作品中でも「ゴアが好きなのかよく判らなくなってきた」と言うのに比べ、敵のトム・ウィルキンソンが何故ブッシュに尽くしているのかと言えば、ウィルキンソンはかつて民主党だったのに妻の死で落ち込んでいた彼を励ます為にブッシュが政治活動を勧めて元気づけてくれたからだという人情物語が核にあったのだというのがまさか勝敗を決める心意気の差であると言っているのではあるまいな。案外そういう気持ちの差がブッシュとゴアの差だったりしたとか。

しかしなあ、確かにこれでブッシュ対ゴア(共和党対民主党)はうやむやの中で共和党ブッシュになったと思われても結局彼は2期目までやってしまうのだ。
それは一体どういう顛末だったんだ。ラストでクレインたちが4年後に会おうって言ってるが結局何もできなかったのか。
この作品が作られるのが遅すぎたのかもしれない。

本作で一番印象的なのは何と言ってもキャサリン・ハリスのローラ・ダーン。ハリケーンのような化粧と共にあの表情あの話しっぷり。記憶から消し去ることができなさそう。

監督:ジェイ・ローチ 出演: ケビン・スペイシー ボブ・バラバン エド・ベグリー・Jr ローラ・ダーン ジョン・ハート デニス・リアリー トム・ウィルキンソン ブルース・マッギル ブルース・アルトマン ジェイン・アトキンソン デニス・レアリー エド・ベグニー・ジュニア
2008年アメリカ
ラベル:政治 歴史
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2009年12月06日

『ロープ』アルフレッド・ヒッチコック

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Rope 

イギリス人のヒッチコックがアメリカで映画製作を初めて随分経ってからの作品だが舞台劇を意識してのせいもあるのか、どう観てもイギリスの味が濃厚に出ている。といってもどの作品もあんまりアメリカ的とは思えないけどね。

加えるにこの作品は当時としては信じられないくらい主人公の二人が同性愛の関係であること、また教師もそれに加わっていることが描かれている。
台詞としても「君のそういうところが魅力的だが」とか「彼は君が好きな男だ」などというやり取りを男二人で交わしている、しかも二人はこのパーティが終わると片方の田舎の家に行って閉じ込められるんだ、とか二人で休暇をとって旅行をしよう、などアメリカ男なら少なくともこういう言い回しはしないだろうが、これがイギリス映画か舞台ならしかも裕福な貴族階級というのならしっくりいくのだがな、という感じなのである。アメリカ男性でこれを観るのはちと尻がかゆくなりそうだ(変な意味じゃないが)

若い男二人が住むアパートはかなり高層建築のマンションで豪華な部屋である。単なる遊びでお手伝いを頼んでパーティを開くという贅沢さ。
ここで二人は「優秀なものは殺人を犯してもいい。殺される奴は劣等な人間だ」という自分たちの考えを立証するためだけに友人を絞殺するのである。それに使われるのが『ロープ』なのだ。
非常に奇妙な物語でとても昔のアメリカ人が考える話とは思えない。
しかし実際これは当時アメリカで起きた事件でもあったらしい。裕福な家の青年二人が事実同性愛関係であり、自分たちの思想の為に友人を殺すという事実があったのだという。
それが元となってイギリスで舞台劇ができたということらしいのだが、現実にはアメリカでそういう事件はあった、というのが面白い、と言ってはいけないだろうか。
だがまあ、本作では成人した男二人がかつて学校時代敬愛していた舎監先生の教えを貫いて行動に移した、という展開になっている。
その深いつながりを持つ舎監先生がジェームズ・スチュアート演じるルパートである。(大体名前がブランドン、ルパート、デイヴィッドと呼んでいるのがアメリカ風じゃないし。いいけどさ)
彼は変わり者として人気を博していた先生で多分同性愛的な導きもしていたのではと思われる。且つ先に述べた「優秀な者と劣等な者」という過激な思想を生徒たちに与え殺人という概念を他の凡人とは違う視点で考える趣味を持っていた。つまりブラックユーモアを楽しむことを愛する教え子たちと分かち合っていたのだが、特にブランドンはその主義を実行に移すことこそが使命だと考えた。
という発想がこの物語の発端となるわけだ。
つまりこの映画自体が撮影も実験的なら物語も実験的なものであり大いにブラックな笑いを楽しんで観てみよう。この辺りもアメリカ的思考ではなくイギリス的に切り替えて観ないと味わい損なってしまう。
(しかし実際に起きた事件をシリアスに映画化することも考えられそうだ。実際幾つも作られているらしい)

メイキングで脚本の方が「殺害現場を入れてしまったのはヒッチのミスだ」と言っていたが、どうなんだろう。
確かに彼の言うとおり、殺人現場を見せず、ただこのキャビネットに死体が入っているのかどうか、というサスペンスもあるだろうが、見せたことで半減した気は私はしなかったが。むしろそれ以降はただの木の箱にしか過ぎないその家具の存在が気になって仕方ない、という演出効果の凄さに参ってしまった。ただの箱なのに!
「あの中に先程殺した男の死体が入っている」という観念があるだけで人が近づく度はらはらし通しだ。やはり殺害場面は入っていてよかったんではないか。アメリカ映画は判り易くないといけないし。
途中何度もあそこを開けてみようなんていう話になるのか、と気になった。やっとパーティが終わりかと思ったら(ほとんど犯人の気分で観てるな)お手伝いさんがてきぱきとキャビネットを片付けていく場面はさすがにフィリップなみに血の気が引きそうであった(何を慌てる自分)

もしかして死んではいなかった、とかブランドンがフィリップごと騙してるんじゃ、とか考えてもみたのだが、本当に死は死だったことでやはりヒッチの底意地の悪さというか徹底した執着心を感じてしまう。一つの室内だけでの撮影で映画を作りきってしまう技術とともに同性愛的なものを消してしまわない度胸と殺人に関する偏執的な嗜好ぶりは徹底している。
冒頭であっさり青年を絞殺し、死体を隠したキャビネットをテーブルに仕立てての食事、しかも殺された青年の父親と(本当は両親のはずだった。さすがに母親に息子の死体の上で食事させるというのは気が引けたのか)叔母と婚約者を招待するという悪質さなどは並みのホラー映画では味わうことができないほどの気持ち悪さである。
主人公ブランドンを演じるジョン・ドールの高慢な態度、フィリップを演じるファーリー・グレンジャーのいかにもゲイ青年的なハンサムで繊細な様子も魅力的だった。
対するジェームズ・スチュアートはいかにもあっさりした様子でホモ・セクシャルな雰囲気をまったく感じさせないのは彼の巧さなのか。判断しかねる。
少なくとも重苦しい感じにならないのだった。

部屋の大きなガラス窓から見える景色が時間が夕暮れから夜へと移っていくのを表現しておりラストにルパートが窓を開けることで街の騒音やパトカーのサイレンなどが素晴らしい効果になっている。
あまり面白くない、と思う人もいるようだけど、一つの部屋だけでの芝居、見えない死体の恐怖、おぞましいほどの演出、様々な台詞の意味合い、同性愛関係なども含めてこんなに面白い映画というのもそうありはしない、と思う。

監督:アルフレッド・ヒッチコック 出演:ジェームス・スチュアート ファーリー・グレンジャー ジョン・ドール
1948年アメリカ
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2009年12月04日

米誌が選ぶ過去10年の「重要な映画」50本

米誌が選ぶ過去10年の「重要な映画」50本。第1位は「マルホランド・ドライブ」

こういうのっていつも「え〜??」という時が多いんだけど、これはなんだか私も加わっていたかのようなラインアップ。
1位の『マルホ』は判るとしても5位に王家衛の『花様年華』というのが嬉しい。

一方、過去10年間で最も大コケした失敗作は、エディ・マーフィのアノ作品!
は観てないものが多いので何とも言えないが7位がダニエル・クレイグ目的で観た『インベーション』でこれは確かにねえ。
タランティーノ『グラインドハウス』が入っているのは彼としてはむしろ狙うところ?
ラベル:映画 受賞
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2009年11月29日

『チャイナタウン』ロマン・ポランスキー

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CHINATOWN

ポランスキー観賞シリーズもこれで4作目になる。今までの感想がどれも「優れた演出だがどうしても嫌悪感を覚えてしまう」というものばかりだったのだが、本作はまったくそういうことを忘れてしまうほど面白かった。

とは言え、作品自体は彼の持ち味ではあるだろうが非常に重くやり切れない暗い影が覆っている。それはむしろ私には好ましい雰囲気であるし、ラストの苦々しい後味もどんよりとした空気もたまらない魅力であった。

不思議に思うのは、私は煩いほど言ってるのだがハードボイルドが嫌いなのである。
そこに登場する気だるさを売り物にしてその気になってるような主人公の男に反感を持つのが通例のことであった。
なのにポランスキーが作ったハードボイルドに今までにない好感を持ってしまったというのは一体どういうわけなんだろう。
マイナスとマイナスでプラスになってしまったということか。

というのは出まかせだが、一つは主人公が大好きなジャック・ニコルソンで彼はあまり男の美学みたいなものをちらつかせたりしないからなのと確かに本作では彼がいかにもタフガイというような活躍する場面もなく従ってかっこつける見せ場もなかったからかもしれない。
ジャックが演じるジェイクは社会の巨大な力に対しては個々の人々はどうしても抗えないのだという無力感を味わうだけの惨めな存在でしかない。
私は今まで観たポランスキー映画に登場する女性がいつも流されるだけでしかないのが嫌悪の対象だったし、本作はハードボイルドの定番として他以上に運命から逃れきれない女性の憐れさが描かれているのだが、この物語としてはそれこそが作品の堪え切れないほどの虚無感を生み出すことになっている。
一見凛としているように見えるイブリン(フェイ・ダナウェイ)が説明することもできない恐ろしく惨めな過去を持ち、好きになったジェイクにだからこそ言えない、という悲しさとやっともう少しで手に入れられる幸せが一瞬にして砕かれてしまう最後は他の映画でも感じたことのない悲しいものだった。
演出はいつものように冴えまくっている。
やっと出会えた愛する娘と車で走り去るイブリンが黒幕である父親の手先でしかない警官に撃たれ死んだことが、彼女が倒れて鳴りやまないクラクションで示される。
イブリンもその娘も権力を持つ男たちに翻弄されるしかない悲しい存在なのだ。そしてジェイクもまた己の惨めさを噛みしめるしかない。

『チャイナタウン』というタイトルにも惹かれてしまうのだが、一瞬先に何が起こるか誰も判らないという混沌とした街を思わせてくれるのだろう。
この作品だけでも私にとってポランスキーはやはり優れた映画監督の一人として数えてしまうだろう。

ずっと昔観ていたのに記憶になかったのはしょうがない。これはかなり大人の作品ではないだろうか。ポランスキー監督自身がチンピラヤクザに扮してジャックの鼻にナイフを突っ込んで切り裂く場面以外は淡々とした展開である。実に重厚な深みのある物語で苦い味が舌に残る、という映画なのである。

監督:ロマン・ポランスキー 出演:ジャック・ニコルソン フェイ・ダナウェイ ジョン・ヒューストン バート・ヤング ペリー・ロペス ロマン・ポランスキー
1974年アメリカ
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2009年11月28日

『吸血鬼』ロマン・ポランスキー

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The Fearless Vampire Killers

ポランスキーと言う人は本当に映画を作るのが巧い。これなんかコメディでありホラーであり、という代物なのだけど、その両方の水準が非常に高くてマジでホラーにしてもいいほどの格調の高さと映像の美しさを持っている。独特の味わいを持った優れたコメディなのだがきっちりと吸血鬼伝説を踏んでいてどこか勉強をしながら楽しめるとでもいうような仕上がりになっていて数多くあるバンパイア映画の中でも秀逸の出来栄えなのだ。

だがしかし、ここでもどうしても自分的には満足できないのは女性の描き方なのである。
いかにもお飾り的に登場するサラに私としては魅力を感じることができない。あまりにも馬鹿まるだしで何の意識も意志も持っていない女性なのだが、一体ポランスキーという人はこういうまるで人形みたいな女性が好きで描いているのだろうか。
ホラーには単なる飾り的な美女が登場するのが当然、かもしれないがそれでも僅かな台詞や行動に作り手の意識というものが感じられるはずである。
彼女は習慣が止められないという理由で風呂に入り続け尻を叩かれおっぱいを見せてそして最後昨日と全く同じで吸血鬼になってしまっている。僅かの反抗も意志表明もない女性にエロティシズムはあるのか。やはりこういうすべてに従順な女性が好みだということなのか。
同じようなホラーコメディにウド・キア主演の『処女の生血』があるがあの作品に登場する女性たちとは全く違うようである。無論私は『処女の生血』のほうが断然好きである。

何も言わず何もしない美女、というのが好きな人は多いのだろうか。『ローズマリーの赤ちゃん』同様本作も高く評価する人は多いようだ。いや、私もあの脳みそが半分しか入ってないのかと思えるサラのローズマリーと同じく鳥肌がたつようなボケ顔を除けばまったく楽しいホラーコメディの最高作と言っていいのだが、何と言っても作品の華である美女にときめきを覚えないのなら評価は半減してしまう。
『オリバー・ツイスト』の時にあまりそういう反感がなかったのはあれは男ばかりだったからなのだな。
ポランスキーは女性が好きなんだろうか。嫌いなんだろうか。
彼自身の噂を聞かず本作だけを観たなら激しい女嫌いなんだろう、と考えてしまったに違いないのだが。

逆に教授と助手(ポランスキーご自身)の関係なんかはとても愉快で楽しい。おっかない吸血鬼伯爵に、その息子が美男子で助手にぞっこんになって迫ってくる、なんていうのも抱腹。伯爵家に仕えるコーコルなんかも一途で泣けてくるし男性たちの描き方は凄くいいのになあ。ほんとにこの監督、女性が好きなんですか?
女のほうは宿の女将もなんとなく出てくるだけだし、舞踏会に登場する女性たちもしかり。そしてサラともう一人出てくる若い女性が同じ人物に見えてどっちがどっちかよく判らず混乱したのだった。女性には誰一人感情移入もできないし、血が通っているようにも思えない。

というわけでこの作品も非常に高度な技術で作られているがどうしても嫌悪感を抱いてしまう、という同じ感想になってしまった。
技術の高さは本当にずば抜けたものだと思うんだけど。

ポランスキー、忘れていたけど『水の中のナイフ』も観てたんだった。でも何も覚えていない。
そして『戦場のピアニスト』も確かTVでちょっと観たんだが、ある場面で物凄い反感を覚えてしまったのだが、これも記憶がないのできちんとした評価はできないでいる。(しかしこれはもう観直すことはないと思う。そのくらい強い反発だったので)

しかしそれでも彼の作品はもう少し観て行こうと思う。

監督:ロマン・ポランスキー 出演:ジャック・マッゴーラン フィオナ・ルイス ロマン・ポランスキー シャロン・テート アルフィー・バス ファーディ・メイン
1966年アメリカ
ラベル:コメディ ホラー
posted by フェイユイ at 23:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 北米 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『ローズマリーの赤ちゃん』ロマン・ポランスキー

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ROSEMARY’S BABY

この映画のことを自分はちらりと観ただけにすぎないと思っていたのだが観ているうちに全部観ている、と思いだした。
それに気づいたのはローズマリーが新居のアパートの洗濯場で出会った若い女性がペンダントを見せた場面である。
編んだような細かい細工の施された球体のペンダントでその中には「タニス草」という顔をそむけるほどきつい匂いのものが入っているのだ。隙間から出るその匂いで周囲の人が気づくほどなのだが、映画そのものよりそのペンダントが記憶に残っていたらしく時折思い出しては「何の記憶なんだろう」と思っていた。それ自体が内容に深く関わってくるのではないのだが、ローズマリーがこの物語の中に導かれていく最初のきっかけになっていたのではないだろうか。

こうして観てみると無論評判通り非常に面白く作品としての完成度というのか演出・構成など実に卓越した技術で見入らせてしまう。
では何故覚えてなかったのか。
これはもうこの作品があまりに自分に嫌悪感を与えるぞっとする仕上がりなので封印してしまったのではないか、とさえ思ってしまう。
キリスト教徒ではないので悪魔の話などは興味本位で楽しめるものだし、そういう話が嫌いなわけではない(実を言うとそれほど好きではないが)誰も信じられなくなるというサスペンスやホラーは大好きである。
では何故か。
最も嫌な気持ちになるのはミア・ファローの演技とローズマリーの描き方である。
ミアの演技が比類ないほどうまいのは判る。まるでいたいけな少女のように見える大きな青い目や細い体がこういう映画には得難いほどの魅力であるのも彼女のか弱さがよりサスペンスやホラーをかき立てるのも判るのだが。
やはり時代のせい、というのもあるのだろうが。昔からこういう男性や周囲の言いなりになっている女性を描いたものが嫌いだった。しかも窮地に追い込まれるとあたふたと間抜けな行動を起こし結局何もできない。だからこそ物語が面白くなるのだろうが、どうしてもこういう話が嫌なのである。
自分の生活の場に他人が入り込んでくるという物語がまず嫌いでそれを言いだせない、という設定の主人公のほうにむかついてしまう。何故いちいち亭主に相談するのかが理解できないし、こうだと思えばさっさとやってしまえばいいのである。
でもそれではこの物語が成立しない・・・・。
か細くて誰かを常に頼っていなければ生きていけない女、そういう女だから悪魔に見こまれたのだろう。悪魔だって強情な女に手を焼きたくはないはずだ。
だんだんやせ細ってめそめそめそめそ。だんだん苛々して早く死んでしまえ、という気持ちにさえなってしまう。
そして最後の最後で悪魔と戦うか!(つまり赤ん坊を殺すのか)と思ったら悪魔と手を結んでやんの。てめえには自我というもんがねえのか!

あああああ。女って。
っていうか。
こういう風に女を描くことって?
やはりポランスキーという監督には女とはこういうものだ、という意識なのだろうね。
なんも考えてなくてわがままで、セックスを求めて、子供を欲しがって、魂を悪魔に売った夫に唾を吐きかけるが、自分もなりゆきまかせなのに夫を軽蔑できるのか。それで最後は母の愛は強し、ってそうか?ただ流されてるだけにしか思えない。
いやその通りなのかもしれないが。

しれないが、嫌だ、こんなうじうじした偽善的な女なんて。
では、どんなのなら好きだったのか。
ローズマリーと夫が逆になるのである。
なかなか芽が出ない夫の為にローズマリーが悪魔と契約するのだ。夫は急に湧いた幸運に驚く。
夫が泥酔し気絶した間にローズマリーが妊娠する。「あなたが酔っぱらってやったのよ」と言われ納得する。無論実際やったのは悪魔。
嫌っていた隣の老夫婦と仲良くなるローズマリーに夫は苛立つが彼女は自分の妊娠を盾に夫を説得する。ハッチがローズマリーの異変に気付き彼に教えようとするがその前に死亡。残された本で夫はローズマリーの契約に気づく。
出産を目前にして夫はなんとかして彼女と悪魔崇拝者たちを切り離そうとするが逆に監禁されて彼女は出産。悪魔の母親として威厳を持っている。
という筋書きだ。ラストはかっとなった夫が赤ん坊を殺すか、多分続編の為に生き残るか。

面白いかどうかは保証しないが。

そして好き嫌いは別として本作が名作として残るのは確かだろう。ミア・ファローのぶりっ子としか思えない仕草もおえーっだが(受話器のコードを噛むとか、唇を噛むとかがキモ)ポランスキー派の趣味嗜好やはりロリ系を好む方々にはたまらんのかもしれんし、なんといってもこの作品自体のうまさは確かなもので苛々させる悪魔集団のおせっかいぶりも含め(なんで悪魔一派ってあんなに世話焼きなんだ?)そして妊娠した女性の不安やつわりなどの体調不良をサスペンスと絡ませるうまさ。この部分は男女が逆だと演出できないのだ。
今回何故自分がこれを忘却の彼方に追いやっていたかも判り、何故こんなに嫌なのかも認識できた。
そういえば先日観たポランスキーの『オリバー・ツイスト』も作品完成度の高さは評価するが締めくくりの監督の意思に反感を持ったのが何故なのかもこれで明白となった。

技術は高さは認めるががどうやら好きではないようだ。

ポランスキーの『吸血鬼』も観る予定である。
さてどう思うか。
自分自身の趣味の問題ながら、なんだか期待してしまう。

本作の夢の場面のあの雰囲気は凄く好きだ。ローズマリーの不安定さ、不安感が幻想的に描かれている。

監督:ロマン・ポランスキー 出演:ミア・ファロー ジョン・カサヴェテス モーリス・エヴァンス ルース・ゴードン シドニー・ブラックマー ラルフ・ベラミー チャールズ・グロディン
1968年アメリカ
posted by フェイユイ at 00:33| Comment(2) | TrackBack(0) | 北米 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月25日

ローズオニール『キューピー』WOWOWアニメ全26話!

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可愛いらしいキューピーを嫌いな人がいるだろうか?
と言いたいがどうやら苦手な人もいるらしい。
人の好みは如何ともしがたいが私はとにかく大好きである。ていうかちょい前にローズ・オニール著『キューピー村物語』クレスト社を読んでからその愛くるしいキューピッシュラブにめろめろなんである。ぽっちゃりぷっくりのほっぺとおなかとお尻を見てるとそれだけでほんわか幸せになってしまうではないか。

そんな折、どうやらWOWOWで『ローズオニール キューピー』全26話なるものが放送されるらしい。スタッフを見ると日本でのアニメ化ということなのか。
期待される。
つか。
可愛いといいな。

12/2(水)午前8:00スタート「スクートルズの大冒険・その1」
ということでキューピー人魚のマーキュープや全裸にエプロンという超セクシーなクックちゃんに会えるのも間近か。
毎週水曜午前8:00が楽しみになると嬉しい。

もしかして。キューピーブーム到来か。
いつも人気はあると思うけどね。各地のおみやげキューピーとか。

ラベル:アニメ
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2009年11月18日

『フィリップ、きみを愛してる!』



『フィリップ、きみを愛してる!』

ジム・キャリー好きだ。これ観たいよねー。

ラベル:同性愛
posted by フェイユイ at 01:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 北米 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月15日

『今宵、フィッツジェラルド劇場で』ロバート・アルトマン

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A PRAIRIE HOME COMPANION

最近になってロバート・アルトマン作品をぼちぼちと観続けたのだが、晩年になるほど面白くなっていくような凄さがあるな。
これなんか、年寄りの為の年寄りによる映画という風情で思い切り渋いのだが作り方はエネルギッシュで情熱溢れると思うのだがどうだろう。

『ゴスフォードパーク』では素晴らしいオールドイングリッシュな世界を楽しませてくれたアルトマン監督がここでは戻ってじっくりアメリカの演歌的世界を堪能させてくれる。
実を言うとカントリーって凄く苦手で聞きたくはないのだが、もしこの映画をそのまま日本に置き換えて演歌というか昭和の歌謡番組の年取った歌手たちの話にしたなら(昭和歌謡曲も一部を除いてかなり苦手)どちらも歌もだがあの雰囲気というかあの人間関係というかあの感じがたまらなく鳥肌ものなのだ。
というとこの映画なんてまったく観れなくなってしまいそうだが、そういうゾゾゾ感も含めて極めて演歌調のこのムードを楽しませてもらったのだった。アルトマン監督でなければ、さすがに受け入れがたかったかもしれない。
最後のダイナーで出演者たちが今後の話をしている光景なんかも思い切り日本的演歌的に見えてくるのは何故なんだろう。あの雰囲気。

打ち切りになるラジオ番組の公開生放送の模様の舞台上と舞台裏をなんとも上手く取り混ぜながら出演者たちの人生を物語っていく。
歌手たちは誰もかれも年取った男女で打ち切りにならずとももう引退してもいいような年齢。だが、歌を愛し歌い続けたいと願っている。
長年続けてきた番組だから出演するのもなんだか余裕ありである。それぞれがそれぞれの持ち味を生かして歌っていく。
そこへ一人登場する若い娘。出演者の一人(メリル・ストリープ)の愛娘なのだが生き生きとした老人たちと違い自殺だとか殺人だとか死のことばかり興味を持っているのがおかしい。そういうものなのかもしれない。
だが突然の演出で娘が歌い始めるとこれが凄く愛らしくやはり瑞々しいのである。年老いた者から若い者へやはり歌は受け継がれていくんだろう。

アルトマン作品は前回でも唸ったが勢いがある半面実に細かい部分にも色んな細工をしているというさすが熟練工の腕前なのである。
登場する人の名前や台詞にも抜かりなく面白さを加えている。
美人の天使役も特別な意味があるのだろうなあ。無論彼女は天使で死へと誘うのであるから、彼女の姿を見た最後の彼らは。

これがアルトマン監督の遺作となったのだが、最期に我が身と重ねながらも彼らしい皮肉めいた面白い作品を作るとは。
まったく持ち味の変わらない技量にも感心するしかない。

監督:ロバート・アルトマン 出演:ウディ・ハレルソン メリル・ストリープ トミー・リー・ジョーンズ ケビン・クライン リンジー・ローハン バージニア・マドセン リリー・トムリン ギャリソン・キーラー
ラベル:人生 音楽
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2009年11月14日

『ニジンスキー』ハーバート・ロス

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Nijinsky

昔からバレエというものに憧れの目を向けてきてそのくせあまり知識もない私である。
ニジンスキーという名前は多分山岸凉子『アラベスク』で知っただろうか。この映画を観た時は写真でしか見ることのできないニジンスキーの素晴らしさを少しでも知ることができたような感動があった。
彼と彼の保護者で才能の理解者であったディアギレフとの関係や伝説として聞くことしかできない彼の並はずれたバレエを観ることができたような気がした。無論本当のニジンスキーの跳躍を再現することは不可能だろうし、物語の真実というのは判るはずもないが、そう言ったことを抜きにしてとても優れた作品だと思う。
当時は監督がアメリカ人だというのが奇妙に思えたのだが、ロス監督自信ダンサーで振付家で他にも多くのダンス映画を作っているのだから至極頷けることである。
とはいえ当時、アメリカ人映画監督の作品でここまで主人公とその庇護者が同性愛関係にあることをはっきりと描いているのはまだ珍しかったのではないだろうか。そこら辺は昔の外国人だからというエクスキューズがつくのだろう。

ディアギレフを演じたのはアラン・ベイツで、無論私が知るわけもないがまさにディアギレフという人はこういう人だったのではないかなあ、と思わせてくれる。多分実物よりハンサムになっているのではないかとも思えるし、はっきり言って嫌な感じの男なのだが、ハンサムさでほっさせてくれるかも。
驚きだったのはニジンスキーである。一体彼を演じきれる人がいるんだろうか、イメージ的にかけ離れていては嫌だと思ったものだが、昔観た時も今もとても可愛らしくて魅力的なダンサーを選んでくれたものだと感心してしまう。
確かに写真で見ることのできるあの超人的な太腿の太さではないし、全体的にほっそりとしている男性ではあるが、小柄でまっすぐな黒髪であまり彫りの深すぎないやや東洋人ぽいワスラフを感じさせてくれる(私としてはニジンスキー本人の体つきが凄く好きなのだが)次第に心が離れていくディアギレフを一途に思う表情が痛々しい。昔観た時はそうまで思わなかったのに捨てられて狂気の世界に入っていく彼が酷く悲しかった。彼の場合、捨てられなくてもいつかはそうなる運命だったのかもしれないが。
ニジンスキーの伝説の跳躍を観ることは叶わないが幾つかの写真で彼の放つオーラを感じとることはできる。
全体にずんぐりとした体つきで顔も繊細な面立ちでもないのだが(都会的というより確かにロシアの大地を耕す農民なのであろう)酷く愛くるしい笑顔に惹かれてしまう。本当に純粋な薔薇の精のような存在だったのではないかと思ってしまうのである。
映画でのジョルジュ・デ・ラ・ペーニャはそんなニジンスキーを魅惑的に再現してくれているのではないだろうか。
ディアギレフとの場面でもそうだがやはり舞台に立つニジンスキーの演じるものに憑依されたかのような踊り。
薔薇の精の愛らしさ、牧神のあの眼差しはエロチックでゾクゾクしてくる。舞台では観ることはできない映画ならではの視線で彼の魔性を映しだしていく場面は恐ろしいほどの緊張感がある。
ニジンスキーがのめりこみ過ぎて狂気を垣間見せる『春の祭典』の震える踊りの凄まじさ。
逆に愛らしいテニスをバレエにした『遊戯』にも見惚れてしまう。
そして『ペトリューシュカ』の踊りはまるで彼自身とディアギレフを表現しているようでおどけた悲しさが込められているではないか。

他で知った彼らの物語とは違う部分も多々あるが、ニジンスキーの素晴らしさを想像させてくれる素晴らしい映画だと思う。

惜しむらくは今この映画を観る方法が殆どないのではないかということだ。
有名な映画監督作品であるし、題材も有名なのにどうしてDVD化されないのだろうか。
変な映画は溢れているのに優れた映画が埋もれ過ぎている。
(と嘆くことの何と多いことか。いい映画をどんどん観れる時代はいつ来るんだろうか)

監督:ハーバート・ロス 出演:アラン・ベイツ ジョルジュ・デ・ラ・ペーニャ  ジェレミー・アイアンズ 
1979年イギリス
posted by フェイユイ at 23:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 北米 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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