映画・ドラマ・本などの感想記事は基本的にネタバレです。ご注意を

2009年11月11日

『DEAN/ディーン』マーク・ライデル

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JAMES DEAN

実在の人物を演じる中でも有名な映画俳優を演じるというのははっきりとその姿が記録されているだけにやりにくいだろうし、特にジェームズ・ディーンは個性的でもあり熱烈なファンも多いのだから大変なことだろうなと思いながら観始めた。
なるほど確かにやや真似し過ぎというのか演技過剰のような気がしなくもないが同じジェームズであるフランコもディーンと同じようなのめりこみ型の俳優じゃないかと思えるせいもあってちょっとぞくぞくするような作品であった。

本当のディーンもこのような感じだったんじゃないかと思わせるような笑い方である。人懐こくてなんだかかまってやりたい気にさせる。
物凄く感情的でドキリとする行動をするのだが、それが酷く印象的で頭から離れない。
この作品のフランコにはまるでディーンが入り込んでしまったのじゃないかと思わせてくれる。
それにしても本当に細くて可愛らしい若者なのである。

ジェームズ・ディーンの映画『エデンの東』と『ジャイアンツ』(それと端役のも)は少し前に観たのでまだ強烈な記憶が残っている。
『エデンの東』の物語は優れた原作とはかなり違ったものなのだが、そんなことはどうでもいいと思えるほど心を揺さぶられる作品となって生まれ変わっている。それは本作でも演じられたキャルが父親にすがりつくシーンなどに現れている。父親役の俳優が戸惑うほどこの場面はディーンが作ってしまったキャルなのだ。
私は映画は観ていたがディーン本人がこのように父親との深い確執があるとは知らなかった。
『エデンの東』は彼そのものだったのだ。あの悲しみが溢れるような演技は大げさなものではなかったのだ。
ディーンはピア・アンジェリを愛していたことからも絶対的なゲイなのではないのだろうが、映画人に多いゲイの男性相手にもあまり反感を持つこともなく甘えていたのを見ているとやはりそこに父親の愛情を見ていたのかなとも思わせる。映画のスタッフたちを家族だと言って泣き出す場面は彼の辛い少年期を見ているとぐっときてしまう。

ついついフランコが演じているのだということを忘れてディーンのことを思い出してしまう。
走る列車の上に座ったキャルが寒さのあまり自分を抱きしめるようにする場面は彼の心をそのままあらわしているようだった。誰もが彼の姿に自分を重ねてしまうに違いない。

ジェームズ・フランコは後ではかなり体を鍛え上げているが、ここではまだ華奢と言う言葉が合っている。細いズボンのウエストがだばだぼとして見えるほどに細く、首や胸もまだ少年ぽい。悲しそうな表情とはっとするほどの笑顔を持っていて絶えず観ていたい気持ちにさせられる。
ほんとにこの間、ディーンが舞い降りて着てたんだろうな。
短いTV映画だがディーンとフランコの両方を愛してしまう、そんな作品だった。

監督:マーク・ライデル 出演:ジェームズ・フランコ マイケル・モリアーティ ヴァレンティナ・チェルヴィ エンリコ・コラントーニ エドワード・ハーマン
2001年アメリカ


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2009年11月08日

『ゴスフォード・パーク』ロバート・アルトマン

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GOSFORD PARK

ロバート・アルトマンというと『M★A★S★H』はじめいかにもアメリカンな印象であるのに1930年代イギリス貴族の物語とはどんな仕上がりになるのだろうかとやや訝しんでもいたのだが、雨の降る冒頭場面から絶対面白くなりそうな予感をさせそれ以上に楽しめた映画であった。

内容はアルトマンお得意の群像劇ミステリーで大きな屋敷の中で上階段と呼ばれる貴族階級とそれぞれのお付きの者たち下階段の連中。屋敷の使用人たちに警部も登場する大所帯だが、複雑な設定展開を判り易く紹介説明していく手際の良さは見事なものだった。

ロンドン郊外の『ゴスフォードパーク』と呼ばれるマナーハウスに様々な客が集まって来た。お付きの者も加わり屋敷の中はごった返しの騒々しさである。中にはアメリカハリウッド映画関係者も登場するのは無論アメリカ観客に共感を持たせる為であり、また彼のハリウッドへの長距離電話の内容が物語の説明にもなっている。また彼の付き人であるハンサムな青年の行動も謎を含んでいて面白さに一味加えている。

この映画作品、映画製作に詳しい人、役者関係に詳しい人ほど面白いだろうし、その演出手法を細かに説明賛辞していけばきりがないほどのものだと思うのだが、私にはそのような知識才能はないので止めるが、素人ですら脚本や演出の卓越した技術・センスの凄さはそのまま作品の深い味わいになっていることが伝わってくる。
殺人事件のミステリーだけではなく登場人物それぞれの謎解きもまた面白いのだ。

出演俳優陣の名前も相当なもので、最初に登場する伯爵夫人マギー・スミスの傲慢ぶりだとか屋敷の主人マイケル・ガンボンの暴かれる悪党ぶりだとかもさることながら、使用人チームの凄さ、執事にアラン・ベイツ、家政主任ヘレン・ミレン、従者デレク・ジャコビ、メイド=エミリー・ワトソン、付き人の一人クライブ・オーウェン、ハリウッド関係者付き人ライアン・フィリップ。
なんだか貴族より使用人たちが凄いってのが凄い。
こういう恐ろしいほどの役者たちがアルトマンの優れた監督技でこれ以上望めないほどイギリス貴族情緒たっぷりの殺人ミステリーが生まれたのだった。
作品時間も長いがこの内容でこの時間はさしたる問題でもないし、もっと観ていたいような気持にさえなってしまう。
アルトマン監督が「あの『ブライズヘッドふたたび』のような世界」だと言っていたのがむろんこれは小説の意味なんだけど妙に嬉しくなってしまう馬鹿な私であった。(註:ベン・ウィショー出演『情愛と友情』の原作のこと、念の為)

美味しい映画を心ゆくまで堪能し、アルトマンがブラックなアメリカンジョークばかりの監督ではないと今頃になってではあるが知ることができてよかった。先に観た『バレエ・カンパニー』でも驚かされていたのだがねえ。

監督:ロバート・アルトマン 出演:マギー・スミス マイケル・ガンボン ケリー・マクドナルド クリスティン・スコット・トーマス エミリー・ワトソン ヘレン・ミレン ライアン・フィリップ ジェレミー・ノーザム ジェームズ・ウィルビー リチャード・E・グラント アラン・ベイツ デレク・ジャコビ アイリーン・アトキンズ スティーブン・フライ ボブ・バラバン カミーラ・ラザフォード クライブ・オーウェン
2001年アメリカ
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2009年11月07日

『アナポリス/青春の誓い』ジャスティン・リン

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ANNAPOLIS

ジェームズ・フランコ観賞で観るのなら思い切りじっくり観れるし、設定物語も特に気に障るような嫌な部分はないので楽しんで観れるのだが、ほんとアメリカ映画って最初にジャンルありきで型どおりに作っていくのだろうなあ、と思わされてしまう。
規格外の男が士官学校へ入って厳しく鍛えられ友情を深めるという軍隊ものお決まりの展開なのは判るが入学前に酒場でからかい半分で知り合った女性が士官学校の教官だったって、『トップガン』の設定とそのまんま同じというのはあんまりすぎる。しかも『トップガン』のケリー・マクギリスと違いこちらの彼女はしごかれたはずなのにも関わらず物凄く細身で小柄で痛々しいくらいなのでいまいちピンとこない。マクギリスの方は役的にはあんなにたくましくなくてもよかったのだが、本作の女性教官こそあのマッチョさが必要だったのにねえ。
彼女とのセクシー場面があるわけでもなく彼女自身があまりエロティックでもないし何故彼女が必要だったのか判らない。まあ、こういう映画には一人こういう女性の存在があるべきというアメリカ映画としての必然性だったわけであろう。

とにかくフランコ目当てとしてはちょっと出だしのちょいぐれた風のフランコから士官学校で次第に揉まれていっちょ前になっていく過程を楽しめばいいんだろう。
それにどうやら本作の目的は士官学校内で行われるボクシング大会にあるようだ。
元いた工場ではいっぱしのボクサー気取りだったフランコ=ジェイクが士官学校の教官であり無敵のボクサーであるマット・コール(かっこいい)と戦うまでの過程が見どころなのである。
しかし同室の黒人くんがでぶっちょすぎてダイエットしてんのに細身のジェイクはコールと同じヘビー級になろうとバターやお菓子をドカ食いするって言ったってほんとに85キロにもなったんかなあ、信じがたい。
アジア系のルーの存在も不思議で(一見どう見たって悪い人に見えないのに)最初はジェイクを目の敵にしてるみたいでボクシング試合ではジェイクを甘く見過ぎてノックアウト(そんなバカな)その後突然親友の間柄に。マゾか。一番変てこな役回りだったと思う。
親友だったでぶっちょ黒人のナンスとも最後は尻切れトンボだし、工場の友人との話も宙ぶらりんだし、当たり障りのないような映画なのだがどれもこれも中途半端なんだよねー。
それでもむかっ腹を立てるほどもなくそんな怒ってもしょうがないような感じでむふふんとフランコを眺めているのが一番正しい観賞なのかもしれない。
話が話なんでいまいちあの魅力的な笑顔の効果も薄れるようだが、今回は鍛えられた肉体をかなり頻繁に披露しているということなのだ。
キュートでございました。

本作の製作年2006年って彼は『トリスタンとイゾルデ』『フライボーイズ』もあるのだ。大変忙しい年だったのだね。どれも剣士・兵士という役。私的には『フライボーイズ』は大好きで秀作と言ってよい作品だ。『トリスタンとイゾルデ』も佳作と思うが本作はちと評価に困る。
役としても私は『フライボーイズ』の時が一番良かったなあ。

監督:ジャスティン・リン  出演: ジェームズ・フランコ タイリース・ギブソン ジョーダナ・ブリュースター ドニー・ウォルバーグ チー・マクブライド シャイ・マクブライド ヴィセラス・レオン・シャノン
2006年アメリカ
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2009年11月06日

『サンセット大通り」ビリー・ワイルダー

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SUNSET BOULEVARD

図らずも昨日に引き続き概念に取りつかれた女性の狂気であった。
すでに引退したかつての大女優がいつまでも自分はスターである、ありたいという執念から彼女を狂気に追い込んでいくと言う話だ。こういう物語は「女は辛い」とかすぐ言われそうだが、男も結局は同じことで役者に限らずどの仕事でも老いは必ず人を能力(美でも体力でも頭脳でも)を衰えさせていくものである。彼女の場合は幸運にも財力には恵まれていたのだし(私は途中まで本当は金ももう底をついているのでは、と思ってた。やはりハリウッド女優は破格なのか)こんな若い色男がのこのこ家へ入り込んできて短い間とはいえ(と言ってもかなりいたのだよね)彼を虜にできたうえ、都合が悪くなるとすっかりボケてしまえるのだから幸せだなあとしかいいようがない。
私が驚いたのはノーマの自殺未遂ですっかりギリスが動揺してしまい彼女の家にいついてしまう箇所でつまり彼女が助かったのも見届けたのだし、あそこで出て行けばいいのを止めたのは彼が元々そういう素質を持っていたんだ、ということだった。そういえばこれまでアメリカ映画(に限らないが)こういう男は決まってしょうもない脇役のはずで主人公の男が情にほだされたんだか金目当てだかその二つが入り混じっただかで金持ち中年女のヒモになってしまう話ってないのではないか。
仕立屋で「どうせ女に買ってもらうんだろう」などと屈辱的な言葉をかけられたり、本人がひた隠しにしている様子、好きになった女性の蔑視を見ても彼の立場は男性にとってこれ以上ないほどの悲惨な状況であるようだ。またノーマに忠実に仕える執事が実は彼女の最初の映画監督であり最初の夫であったと言う驚愕の落ちもあってその彼が彼女を悲しませないことが自分の仕事なのだと映画撮影が始まると信じ切っているノーマの為に嘘のカメラマンを用意して撮影の振りをしていく最後など、感動すべきなのかコメディなのか紙一重というかんじですらあった。いや、笑っていいのかもしれない。涙も流しながら。
ノーマを演じたグロリア・スワンソンの目をむいた演技も壮絶で、ぞっとさせながら泣かせながらのコメディであるのではないだろうか。

監督:ビリー・ワイルダー 出演:ウイリアム・ホールデン グロリア・スワンソン エリッヒ・フォン・シュトロハイム バスター・キートン ナンシー・オルソン ブレット・クラーク
1950年アメリカ
ラベル:サイコ
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2009年11月04日

『悪い種子(たね)』マービン・ルロイ

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The Bad Seed

この映画のタイトルを知ったのは昔、森茉莉の『甘い蜜の部屋』で娘に甘いパパが可愛いモイラを評して「『悪い種子』の子供のようには悪くないが・・・」みたいなことを言っていたのでどんな映画かとぼんやり思っていて特に探しもしなかったのだが何となく見つけて(って随分長い時間が経ち過ぎてるが)ようやく観ることになった次第。
舞台がかった演技はやはり元演劇だったようだが、この物語にちょうど合っているしその演出が面白くて食い入るように観てしまった。

ぼんやり思っただけだが、日本ではこういう「悪い子供」という設定の話はさほど目立たない気がするが西洋では「子供は天使のように清らかで可愛い」という考えと対立するようにしてこういう悪魔的な子供の物語が結構存在しているようである。
そして本作ではもうひとつ付随してそれがタイトルにもなってるがこういう悪魔的な人間になるのは遺伝(つまり種子)なのかそれとも環境なのか、という問題である。
自分としてはどちらか一つということではなくそれらやまた他の条件も重なっていくことで人格が形成されるんじゃないかとしか言えないが、本作でも遺伝(種子)によって恐ろしい子供が生まれた、という展開にしながら最後の最後の場面は教育が大事、と言っているようであるが。
とは言え、本作の見どころはそういう原因と結果をつきとめることではなく、ローダというまだ8歳の可愛くておませでお行儀もよい良家の少女が欲望が湧きだすままに行動していくことで起こっていく事件とそれにまつわる大人たちの言動が芝居がかって大げさでありながら実にリアルで目が離せなくなってしまうのである。
これは親になってから観ると恐怖はさらに倍増してしまう。特に母親はとても他人事としては観ていられない。
こんないい家庭のいい夫婦に何故こんな子供ができてしまったのか。両親があまりに善人過ぎて子供を厳しくしつけきれなかったのか、自分がいい人間だから娘に他人を憐れむ気持ちをあえて教えなくても判るはず、と考えてしまったのかもしれない。では自分はきちんと教えているのだろうか。
それにしてもローダの悪さにどこか惹かれていはいないか。息子を殺されたと酔っぱらって文句を言いに来る母親の方に悪意を持って観ているような気がするし、おどおどしっぱなしの母親に同情しながらもあまりのふがいなさに苛立ちもする。脅迫するリロイにも腹立たしさを感じてしまうし、ローダを嫌っているという女性教師にも好感を持てないのは何故なんだろう。

何となく『ヘレン・ケラー』の悪魔版、という気がした。ヘレンは元々目も耳も口もきけない、ということで甘やかされているがその姿を見たサリバン先生は「彼女は人間ではない」と考えて教育しついに彼女に光を与えることに成功する。
ここでのローダは逆に何でもできる優秀な子供だ。だがその心を矯正することはできなかった。無論ここにはサリバン先生は登場しないわけだが。

ローダの悪魔的な魅力に惹かれながらもそれは恐ろしいことで認めるわけにはいかない、と対立する感情に襲われる。
結果、あの結末で終わるしかないのだろう。神の御技でしか彼女を抑えることはできなかった、ということで物語を終わらせる。だが、その先の物語があるように思えてしまうのだ。

監督:マービン・ルロイ 出演:ナンシー・ケリー パティー・マコーマック ウィリアム・ホッパー ヘンリー・ジョーンズ アイリーン・ヘッカート
1956年アメリカ
ラベル:サイコ 家族
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2009年11月03日

『モナリザ・スマイル』マイク・ニューウェル

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MONA LISA SMILE

ちょいと気になって観たんだけど、それなりに面白いなあと思う部分と退屈な部分とが重なっていた。

こういうお堅い学校の話、というのは凄く好きだ。凄く自由だったり、荒れ果てていたりする学校にはさほどの魅力はないが、抑圧された学校ほど面白い題材であると思う。自分がそこにいたいかというのは別問題だがね。

非常に興味深い面白い作品だった。だが非常に残念でもあった。
最も勿体なかったと思うのは主人公のジュリア・ロバーツで生徒役や他の教師役はなかなか面白いキャスティングだったのに、何故主役に彼女を持ってきてしまったのか。今まで彼女の作品と言うのは殆ど観たこともなくマット・デイモン絡みで『オーシャン』そして昨日観た『ジキル&ハイド』がたまたま彼女主演だったが、軽いコメディか『ジキル&ハイド』の時のように個性の笑顔を殺してしまいできるだけみすぼらしい姿をしている時は却ってその美しさが引き立つように思えたし、サイコホラーというジャンルのせいもあったと思うのだが、本作のような雰囲気を持つ作品の主人公としてあの彼女独特の笑顔はどうなのだろうか。モナリザスマイルはほんの少し筆を入れただけでその魅力は失われてしまうと言うほどの微妙さを本髄とするものだったはずだが。
ま、そういう揚げ足取り的な言い方は別としても彼女だけが時代に合ってないのはまさか進歩的な女性という設定のせいではないだろうが(あ、また揚げ足)
好き嫌いだろうが私としては彼女が主人公でなかったらもう少しいい作品に思えたような気がする。

反対に女学生たちは楽しめる人揃いであった。ビッチ的魅力溢れるマギー・ギレンホールは最初観た時は変な顔の人だなあと思っていたんだが観れば見るほどよく見えてくるから不思議。今風なアメリカ女性という感じがいつの時代設定でもよさそう。
物凄い憎まれ役のベティ=キルスティン・ダンストがマギー演じるジゼルに暴言を吐く場面で彼女の暴言が実は寂しさから出ているものだと察知するのが大人びてかっこいい。実生活ではなんだか複雑な関係だった二人のようだがここではグリニッジ・ビレッジで同居する関係に。この映画の中の結果としては一番彼女らが気になる。
ジュリア・スタイルズも何かと観ることが多い女優だったりするのだが、彼女の顔も一般的美人というんでもないと思うんだけど、どこか気になるタイプで今はやっぱりこういうちょいファニーな感じの方がいいような。ロバーツ=キャサリンのある意味ごり押し的な態度にきっちり自己主張をする役が合っていた。

1950年代、アメリカ東海岸の保守的な女学校を舞台に優等生な女学生たちにある指針となった女教師の物語、なのだが、キャサリンがジュリア・ロバーツであったことで嘘っぽくなってしまった。
それに彼女を主体にするんではなく女生徒の一人から見た感じの方が私はよかったのではないかと思う。
物語の中でキャサリンの恋の部分はなんとなくうっとおしいのだが、生徒が主人公だったらもう少し違った表現になっていたのではないだろうか。ビルの人格が彼女を描き出すことに効果的だったのだろうか。

監督:マイク・ニューウェル 出演:ジュリア・ロバーツ キルステン・ダンスト ジュリア・スタイルズ マギー・ギレンホール ジニファー・グッドウィン
2003年アメリカ
ラベル:女性 歴史 思想
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2009年11月01日

『トリスタンとイゾルデ あの日に誓う物語』ケビン・レイノルズ

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Tristan & Isolde

あちらの国では非常に有名な悲恋物語『トリスタンとイゾルデ』だが我が国では無名の物語ではなかろうか。ワーグナーの楽劇として御存じの方もおられるだろうが。
自分もトリスタンが円卓の騎士の一人としてしか知らず、従って本作を観て初めてどんな話なのか知ったという次第。元の物語とはどうやらあちこち違っているようだが、どうせ知らないので映画の本作としてだけの感想として書いてみる。

これってタイトル『トリスタンとイゾルデ』じゃなく『マーク王』にすべきじゃないのか。
かっこいい。泣ける。男の中の男だ。私がイゾルデならトリスタンを裏切って王の方を選ぶんだがなあ。
と、何故か不倫ものの映画を観るといつも本夫のほうが魅力あるように思えてしまうのは何故なんだろ。最初の婚約者だって顔はあれだが結構いい人だったかもしんないのに。
多分恋してかーっとなって馬鹿な行動をする男をあんまし可愛いとか思わないのかもしれない。
(余計なことだが同じく円卓の騎士のグィネビアとランスロットとアーサーでもアーサーが好きだし)
確かに若気の至りというのか若い情熱に燃え上がった恋、なのだろうけどトリスタンって別にそれほどなあ(って演じてるジェームズ・フランコ目的で観てるのに言うのもなんだけどさ)それに引き換え王様は手を失ってまでトリスタンを守ったり、窮地に立った時も部下の信頼と忠義の厚さを見ればどんなにいい人か判るし、イゾルデを深く愛した心も二人を許す優しさもこの上ない人ではないか。容姿だってハンサムですらりとして文句なしだもんね。
イゾルデから二人が知り合った経緯を聞いて全てを悟る理解力と結局国を再建できたというのがまた凄い。軽率な行動を取ってしまう若造のトリスタンとでは比較になりませんな。

というわけでマーク王が一番かっこいいこの映画って一体。

とはいってもやはりここでもトリスタン役のジェームズ・フランコはとてもひたむきで美しくやはり才能ある人だと再認識。
彼の顔は色んな場面で色んな人に思わせてくれる。彼が演じてもいるジェームズ・ディーンに見える時もあるしヒース・レジャーみたいな表情の時も。でも一番思うのはジュリアーノ・ジェンマなのだが。判ってもらえるだろうか^^;

どこの国でも(って言ってもこれ作ってるのはアメリカですか)皆が知る不朽の名作というのはやはり面白いもので時代に応じて作りかえられたりするのもまた興味深いところなんだろう。
現代では変に思われてしまうような激しい恋も忠義の心も描くことができる。時代物、というのがいつまでもあり続けるのはそういうものを求めているからなんだろうな。

監督:ケビン・レイノルズ 出演:ジェームズ・フランコ ソフィア・マイルズ ルーファス・シーウェル マーク・ストロング デビッド・パトリック・オハラ
2006年アメリカ
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2009年10月31日

『コットンクラブ』フランシス・フォード・コッポラ

cotton_club_ver2.jpgcotton_club.jpgB00005IA7Y_01_LZZZZZZZ.jpgcotton_club_ver4.jpgcotton_club_ver3.jpg1227121660.jpg←彼らがニコラスブラザーズ

THE COTTON CLUB

今年の8月に『オーケストラの妻たち』という他愛のないコメディ映画の中で初めて知った“ニコラスブラザーズ”物語と何の脈絡もなく最後の最後に突然彼らのダンスが披露され、それまでの馬鹿馬鹿しい(と言っては申し訳ないが本当)物語を吹き飛ばしてしまう数分間の彼らのダンスに唖然となってしまった。そこでふと頭に浮かんだ言葉が「タップで殺せ」
これは確か昔観た『コットンクラブ』で白人から屈辱を受けた黒人ダンサーが仲間にその怒りをぶつけ「殺してやる」と叫ぶ。仲間は「お前にはダンスがある。俺は踊れないから白人の中に入っていけない。だがお前は違う」となだめる。その言葉に気を静めた黒人ダンサーは「判った。タップシューズで殺す」と言うのである。
白人しか出てこないアメリカ映画の中に数分見せたニコラスブラザーズのタップダンスは確かに主役の白人俳優たちをタップシューズで殺してしまった。この映画を観た人は多分彼らのダンスしか記憶に残らないだろう。
そういうわけでその時から『コットンクラブ』をもう一度観ようと思ったのだが。

これがなかなかレンタルできなかった。無論その間に他の観たい映画も多かったせいもあるが。
ところでよくは判らないが多分この作品はコッポラの作品の中ではさほど高い評価ではなさそうだ。というか『ゴッドファーザーT、U』『地獄の黙示録』でカリスマ的評価を受けた後は『ランブルフィッシュ』『アウトサイダー』の佳作はあったものの後の評価はガタ落ちになっていったという印象がある。本作はちょうどその間にある作品でもあり、ここらからコッポラのカリスマ性は失われていったのではないだろうか。
本作を評価しない方としては物語の薄さとリチャード・ギアという二枚目なだけの役者を主役に置いたことのようである。
しかしこうして観返してみるとタイトルが『コットンクラブ』であることが示しているようにまさにこの時代のコットンクラブこそが舞台であり主役であり物語であるのだと感じさせてくれる。
やや甘めに思える物語も昔をよかったと思い起こさせるノスタルジーのなせる技なのだろう。
何の身寄りもないコルセット吹きの男がその美貌だけでハリウッドスターになり、同じように貧しい少女がその若さと美しさだけでマフィアボスの愛人となってクラブの女主人となり豪華な生活をする。ボスの手下と愛人という許されない関係ながら愛し合う二人はボスの死によって結ばれ旅立つというハッピーエンド。
マフィアたちの馬鹿馬鹿しい銃撃戦と男女の愛の駆け引き、黒人と白人の様々な形の葛藤や争いが繰り返されながらコットンクラブでは黒人たちが歌と踊りを白人だけの客に披露する。
お目当ての、つまりニコラスブラザーズがモデルなのであろうグレゴリー・ハインズらが演じた黒人ブラザーズは確かに目を見張る素晴らしさではあったのだが、悲しいかな、本物のニコラスブラザーズには遠く及ばないものであった。それがハインズの力なのかコッポラのせいなのかは判らない。ニコラスブラザーズのタップは本作より遥か昔なのにその切れと振付は人間技とは思えないものだったのだ。(フィルムを早回ししているようにしか思えない)
グレゴリー・ハインズのタップこそがこの映画の見どころだというのは誰もが認めることのようだが、実はそこだけ逆に残念だった。ニコラスブラザーズを見なければそうは思わなかったのだろうが(と言っても彼らを見なければ本作を観なかったのだが)

やや紋切り型の展開ではあるがこの時代独特の雰囲気、大人びているようで実は子供っぽい世界である、を楽しませてもらった。
勿論私がこの時代のアメリカの雰囲気が好きだから面白く観れるのかもしれない。
コッポラらしい倦怠感もまたいい。

俳優陣がなんとも懐かしい顔ぶれである。あの人もこの人も、という懐かしさも古い人間に楽しめるものであった。

監督:フランシス・フォード・コッポラ 出演:リチャード・ギア ダイアン・レイン グレゴリー・ハインズ ロネット・マッキー ニコラス・ケイジ ローレンス・フィッシュバーン トム・ウェイツ
1984年アメリカ

グレゴリーじゃなくてやぱりニコラスを



やっぱこれだったから、『コットンクラブ』で白人客を殺せた(魅了した)んじゃないんでしょうかねえ。

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2009年10月29日

『フライボーイズ』トニー・ビル

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FLYBOYS

『ミルク』でハーヴェイ・ミルクの同性の恋人スコットを演じたジェームズ・フランコが主演なので可愛い顔をもう一度観れればいいや的なノリで観たのだが、これが物凄い儲け物であった。

しかし戦争映画である。しかも本作は昔懐かしい戦争の中での青春友情物語、という風情のものでなんとも大らかに主人公は英雄であり、友を愛し、敵を叩き潰す、という描き方である為に真っ当な平和主義者からは間違いなく反発を食らいそうである。
第一次世界大戦時とはいえ、戦争を題材にした場合は必ず戦争は悲惨で愚かだと描かなければならないという暗黙の掟のようなものがあると思うし、私もとりあえずそう思ってはいるのだが、何故かなあ、すっかり好きになってしまったのだ。

それは多分、時代も登場する戦闘機も(搭乗する、でもいか)古めかしいものである為、ノスタルジーに騙されてしまったのであろうか。
敵機であるドイツ機を容赦なく撃ち落とす主人公たちに見惚れてしまっているのだから私もしょうがない。
こういう感想記事を書いていること自体、どうも許せん、いつもと違うではないかと言われてしまいそうな肩身の狭さを感じつつも。

第一次世界大戦。ドイツ軍と戦うフランス軍と共に闘う為にアメリカの青年たちが義勇兵として入隊を志願する。
物語は思い切り紋切り型、というのか、正義感溢れる主人公ローリングスが仲間の為に命がけで戦ったり、出会ったフランス娘と恋に落ち、また彼女を救う為に軍規を無視して戦闘機を飛ばしたり、という軍隊青春物を突っ走った展開である。
とはいえ、ローリングスを演じたフランコがまさにいかにもな二枚目ぶりで一本気な若者を演じて見せてくれる。
特にちょっとはにかみ加減の笑顔がたまらない魅力の持ち主で、軍法無視で愛する女性とその甥っ子たちを助けた後、大尉からお咎めなしと言われた時の笑顔は悩殺なのだった。

そして何と言っても圧巻なのはぺらぺらの飛行機による空中戦。は、昨日観たトムキャットによる『トップガン』よりも恐ろしい迫力であった。
それは無論映像技術が『トップガン』の時より勝っているからでもあるし、この数年前まで飛行機がなかった、という時代の恐ろしく簡単で無防備な戦闘機、銃撃を浴びると表面がペラペラにめくれ上がり、薄いべ子べこの羽が針金で固定されているし、肩から上は空中に出てるわけだし、弾を撃ち続けていると途中で弾が詰まってしまうのでトンカチで詰まりを直さねばならない、飛びながらしかも敵機は傍にいるのに(涙)
こういう手合いの戦闘機が敵も味方も入り乱れて空中で撃ち合うのだ。頭を守っているのは薄い皮の帽子だけ。敵が現れると手で合図をする「あそこだ」
こういうのが空から自分の頭上に飛び込んでくる物凄い恐怖。落ちる時はゴーグルを外すように。目にガラスが刺さるからね。
あっという間に自分が乗っている戦闘機は穴だらけになってしまう。
そして彼らは志願してから初めて飛行機に乗ったのである。操縦だけでなく乗ったことさえないだろうし。なんつートップガンだろ。訓練期間は2週間くらいで命がけの空中戦をやるわけなのだ。『トップガン』より確かに怖い。

おもちゃのような飛行機での激しい戦闘に息をのみ、『ミルク』の時よりまた一層可愛らしい短髪のジェームズ・フランコに参ってしまったのだった。

監督:トニー・ビル 出演:ジェームズ・フランコ ジャン・レノ マーティン・ヘンダーソン ジェニファー・デッカー タイラー・ラビーン
2006年アメリカ

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2009年10月27日

『ミルク』ガス・ヴァン・サント

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MILK

ガス・ヴァン・サント監督がこの映画を作ると聞いてからハーヴェイ・ミルクという人物のことを知り、またドキュメンタリー映画がDVDでレンタルされていたので参考にと思って観賞したのだがそのドキュメンタリーが非常に優れた作品で初めて知ったハーヴィーにすっかり魅了されてしまった。
そのせいもあって実を言うとサント監督の『ミルク』の方が不安だった。正直ショーン・ペンは幾つか観ているけどどうも好きになれないのだ。先日もティム・ロビンス監督作品と共演作品を観たが筋張った切れそうな男の演技とあの表情も好意を持って観れない。ハーヴィー本人は物凄くのっぽで凄く優しそうな明るい顔のハンサムでショーンとは全く違うイメージである。何故サント監督が彼を選んだのか、やはりネームバリューのある俳優だから注目されたい目的なのかと思い、観るのすらためらわれていたのである。彼のことはドキュメンタリーを観て知ったからもういいや、とも思った。

まあでもサント監督の作品は観たいし、ショーンのことはなんとか我慢しようという気持ちで観始めたのだが。
とんでもなかった。
いつ観ても嫌だったショーンの顔はそこになくてあの映像で観たハーヴィーそのもののような顔と雰囲気だった。それはちょっとした仕草や表情にも感じられたし今までいいとは思ってなかったけどやはり皆が認めるだけあって力のある役者なのだと今更判ったのだった。
それは勿論私が嫌だと感じる腫れものみたいな男っぽさを消してしまっていつも笑顔や冗談を交えた話しぶりや時々すっかり女っぽくなってしまうのが私には好ましく思えるからなんだろう。
観る前までの不安はどこへやらすっかりもうハーヴィーを観てるんだと言う気持ちで入り込んで観てしまった。

ドキュメンタリーを観ていたせいもあったし、物語もほぼあれで語られていたことそのままのようだったのでそれに物語と登場人物の肉付けをしたような感じで観て行くことができた。
何と言っても感心してしまうのはジョシュ・ブローリンで彼はブッシュも演じたわけだが、よくこんなにも嫌われる人物を恐れることなく演じられると思ってしまう。誤解されることもあるのではないだろうか。ショーンにミルクが乗り移ったのならジョシュにもホワイトが入り込んでしまっているような嫌らしさ。それでも彼が単なるゲイフォビアなのだけではなく、複雑な強迫観念に苦しめられていると感じさせた。彼の刑期が短すぎることが却って彼を自殺させてしまったのかもしれない。ゲイを嫌悪し差別しなければいけないとする考えや社会が彼を追い込んでしまったのではないだろうか。
しかしそんな原因や理由が何であれ、何故ミルクのような素晴らしい政治家が殺されてしまうのだろうか、という単純な疑問を感じてしまう。
彼がもっと生きていてくれたら。政治家としてだけではなく、彼自身も自分を隠し続けてきてやっとカムアウトし、これから自由に生きていける、というはずだったのに。
(ハーヴィーが「自分がゲイだと隠し続けたことで恋人たちを自殺未遂に追いやった」と苦しむ。そして、彼がゲイ解放の為に忙しく働くことで恋人を死に追い込んでしまう。この経緯は悲しかった)
ゲイフォビアの人たちはこの映画を観てもやっぱり気持ち悪いと思うのかしら。今まで嫌いだったけど彼を観てそうでなくなった、という人が少しでも増えることを願いたい。

それにしてもガス・ヴァン・サント監督。私の不安感と不満感を見透かしたかのようにショーンの脇に凄く可愛い男たちをずらりとそろえていたのだねえ。知らなかったのだ。
物語の中でハーヴィーの最初の恋人スコットにジェームズ・フランコ。えー凄く可愛い。最初の巻き毛ヘアーから短髪お髭。私は短髪髭が好き。眼鏡君にエミール・ハーシュ。何か軽いノリで可愛い。そしてハーヴィーの2番目の恋人にディエゴ・ルナ!これがすんごく可愛いの。何故かお馬鹿なんだけど。ひたむきで…、なのに…あんな最後なんて。
最後に役者と実在の人物が出てくるんだけど本物の方が皆ハンサムと言う(笑)不思議。

私にとってサント監督の映像がなによりの好物なんだけど、ここでも大好きな移動する風景が出てきて嬉しかった。あのがさついた荒い映像も好きなのだ。

監督:ガス・ヴァン・サント 出演:ショーン・ペン エミール・ハーシュ ジョシュ・ブローリン ジェームズ・フランコ ディエゴ・ルナ ルーカス・グラビール ヴィクター・ガーバー ジョセフ・クロス
2008年アメリカ
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2009年10月14日

『ブロードウェイ♪ブロードウェイ コーラスラインにかける夢』ジェームズ・D・スターン/アダム・デル・デオ

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EVERY LITTLE STEP

このDVDの存在を知って観てみたい、早く観ようと思いながらつい先延ばしにしてたら偶然前日TVでこの映画の「ポールのオーディション」の部分のみ(若干前後)を観てしまった。突然TVをつけてなにやらオーディションみたいでこりゃ『コーラスライン』だよね、と思ってたらあの青年のオーディション風景のあの演技。あまりの出来事に驚いて後で新聞観たら自分が先延ばしにしていたアレだと気づいて慌ててしまったのだった。いつもだけど早く観なきゃねえ。

ブロードウェイの凄まじい生き残り世界。大陸各地からその地に憧れて数えきれないほどの若者が集まってくる。一つのミュージカルの為に何千人というダンサーが集まり歌い踊り演技する。審査員は同じものを何度も繰り返し見続け、気に入らなければいとも簡単にバッサと切り捨てる世界で、何度も聞いてきた台詞をある青年が繰り返したことで審査員がそろって泣き出す、そういうことがあるなんて。信じられなかった。
ホントに早く観てみなきゃと自分を叱咤しながらレンタル。やっと観ることになった。

アッテンボローの映画『コーラスライン』は少し前にも観たから(何度も観てるが)まだ記憶が生々しく残ってる。
TVで偶然観てしまって私を慌てさせてくれたジェイソン・タムが演じていたポール役は特に印象的な役なのだ。
彼はゲイでずっと両親に引け目を感じていた。ある日彼の仕事場の舞台裏に両親が訪ねてきていて、ポールは女装して踊っている姿を見られ激しく動揺する。
だが父親がプロデューサーに頭を下げて「息子をよろしくお願いします」と頼んでいるのを見たポールは初めて父親が自分のことを息子と呼んでくれたことに涙する、という感動的な告白をする役なのである。
その役に挑んだジェイソン・タムはずっと選考に残っているのだから歌も踊りも上手いはずでその上で彼らを泣かせるほどの演技をしてみせたのだ。他の人は多くが台詞を書いた紙を持っているのにジェイソンは何も持っていなかったからきっとあの演技は彼の中に入り込んでしまってたんだろう。あの時点で審査員が「彼に決まりだな」と言っているから決定したんだろうけど、却って観れる時間が少なくなってしまったのが残念なほどだった。彼の全部の演技を観てみたい。

そして彼の部分だけでなくあの映画にも負けないほど感動的なドキュメンタリー映画だった。
これも少し前TVで話は聞いていたコニー役に挑戦した沖縄出身のユカ・タカラ(高良結香)さん。かつてコニー役だったバイヨークは最初彼女が気に入らなくて別のアジア系に一票入れてたんだけどオーディションが物凄い長期戦な為か最後の審査ではユカの方が圧倒的に魅力が勝っていてついにコニー役を勝ち取ってしまった。
この長期戦というのは他の候補にも影響してて半年前の演技は素晴らしかったのにそのやり方を忘れてしまったのがシーラ役の女性で私も最初素晴らしい魅力があると思っていたのに運命とは残酷なものである。そして代わりに輝いたのは黒人女性の演じたシーラだった。この役も印象的で覚えているが登場人物の中では年かさの女性でしたたかな強さを持っている女性の役なのだ。

あのおっぱいとお尻のダンスをするヴァル、絶対的に上手くなければやれない元スターのキャシーなどの白熱するオーディションが続くが、映画で一番飛び抜けていた「サプライズ」の黒人青年の場面はなかったのが少し残念。

それにしてもこの映画はオーディションに打ち込む若者たちの姿だけではなく、『コーラスライン』を作りあげた亡きマイケル・ベネット、彼と共に振付をし審査員の中心人物ボブ・エイヴィアン、初演でコニー役だったバイヨーク・リーなどの青春もまた彷彿とさせる。ジェイソンの演技で涙したのは彼の台詞を聞いているうちに初演の時の思いが蘇ったのではないのだろうか、と感じさせる演出でもある。
そしてこのミュージカルが最初から完全なものではなくあの「おっぱいとお尻」のダンスナンバーがネタばれだったと気づいてタイトルを変えただとか、2度目のチャンスを願って挑戦したキャシーが当初は落選されていたことがいまいち感動を失わせていてある上演時にそれを指摘されたことからキャシーがメンバーに選ばれるように脚本を変えたらその時から人気が出ただとか、とんでもない変更もされていたのだった。
確かにあんなに懸命に踊りプライドも捨てて嘆願するキャシーが選ばれないならがっかりしてしまうだろう。そう言えば昨日観たティム・ロビンスの『未来は今』もセカンドチャンスというのがテーマだった。

『コーラスライン』そのもののオーディションドキュメンタリー映画。選ばれる者がいれば勿論落とされる者もいる、非情な世界だがそれだけに選ばれたダンサーたちの喜びは大きい。日本人のユカさんはじめ、選ばれた見知らぬダンサーたちの喜びの涙についつりこまれてしまった。
ダンサーという人々にこうも惹きつけられてしまうのは何故なんだろう。また映画も観たくなってしまった。

いやできるならこの登場人物たちのダンスと演技を観てみたいものだ。

監督:ジェームズ・D・スターン/アダム・デル・デオ 出演:マイケル・ベネット ドナ・マケクニー ボブ・エイヴィアン バイヨーク・リー
2008年アメリカ
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2009年10月07日

『イヤー・オブ・ザ・ドラゴン』マイケル・チミノ

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Year of the Dragon

私は男臭い映画が好きな割にはマフィアものが苦手なのだが、マフィアものが苦手というのは男臭い映画を好きとは言えないのかもしれないな。多分男の夢はマフィアものにあるのだろうから。
とにかく小さな街中で男の夢だとかプライドみたいなものを掲げていい気になっている物語というのがどうしても馬鹿馬鹿しくてうんざりしてしまうのだが、それでもマフィアものというのは一つの社会を描く幾つかの設定の中で底辺だとか闇だとかを描くにはもっとも判り易く効果的で強烈なのだろう。
アメリカ映画でイタリアンマフィア作品の数は多いし名作もあるが、チャイニーズマフィアをここまで描いたものはないだろうしこの後作られてもいないかもしれない。それは彼らが自分たちをアメリカ社会で大っぴらにするのはよしとしなかったのかもしれないが。
そして主人公スタンリー刑事と同じくらいのバランスでマフィアの新ボスを描いているというのもアメリカの他の作品にはないのではないか。

ある種の均衡を保っていたチャイナタウンと周辺と警察の関係がスタンリー刑事の着任と亡き義父に代わって新ボスとなったジョーイ・タイの過激な行動によって急変してしまう。
チャイニーズマフィアの様相はイタリアンのそれとは(映画で観る限り)かなり違う。上層部と下で働くチンピラたちの重さがまるで異なっている。イタリアンはチンピラでも人間だが、チャイニーズの下っ端は人間ではない。ただの虫けら。その命には何の価値もないのだ。まだ子供のような彼らが何の存在価値も与えられないまま殺されていく様子はチミノ監督『ディア・ハンター』に描かれるベトナム戦争でのベトナム人たちの死と同じように見える。

チャイナタウンの奥はよそ者であるスタンリーにもまたアメリカ生まれの中国系アメリカ人である女性TVリポーター・トレイシーにもよく見えないのだろう。すべては謎に包まれていて奥の奥、底の底があるように思える。祖国から移住してきた人々はアメリカが建設されていった昔鉄道を引く為に過酷な労働に従事しその名を残されることもなく死んでいった先人たちと変わりない。彼らは香港からの移住者が多かったそうだが、このチャイナタウンの住人も香港系なのである。カナダのマーは普通語を話しているので彼らとは違う出自になるのだろうか。
新ボスとなるジョーイはアメリカ生まれではなくやはり香港出身で苦労してこの座まで登ってきた男らしい。そのためにやり方が過激で波乱を起こしてしまったのだろう。

スタンリーはポーランド系で彼もアメリカではあまり優位な立場ではない。彼のチャイニーズマフィアへの入れ込みというのはそういう劣等感も関係しているのかもしれない。

カンフーと関係なしにアメリカで有名になった中国系男優はジョン・ローンくらいかもしれない。本作でのジョンのクールなかっこよさは当時人気のあったミッキーと互角であった。
あの美貌でもってアメリカ映画でも活躍するのでは、と思っていたがやはり東洋系の需要というのはないものなのだな、と気づかされてしまった。
しかしジョン・ローンのかっこよさもあるのか、この映画は日本ではかなり人気があるようだ。
私も『ゴッドファーザー』がその成り立ちが面白かったようにこの映画もチャイナタウンの混沌とした様相が垣間見えるだけでもとても興味深い作品だと思う。

監督:マイケル・チミノ 出演:ミッキー・ローク ジョン・ローン アリアーヌ ヴィクター・ウォン レナード・テルモ アリアーヌ ヴィクター・ウォン レナード・テルモ カロライン・カハ
1985年アメリカ
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2009年09月27日

『愛についてのキンゼイ・レポート』ビル・コンドン

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KINSEY

研究対象がなんであれ、その時代に反抗しながら突き進むのは困難なものだが、その研究が「セックス」であるとなれば現在でも様々なニュアンスで敬遠され、或は講義を受けていた生徒たちのようにくすくす笑いで迎えられるか同僚の教授や息子のように毛嫌いされてしまうのはあまり変わらないのかもしれない。

どこの国でもあることだろうがアメリカという国は自由さと厳格さが極端な形で存在しているように思える。この物語は1950年頃の物語なのだが程度の差はあれ、そういった自由さと厳格さはいまだに続いていることのようにも思える。
最近になって知ってえっとなったことがある。
『アイラブルーシー』というアメリカTVコメディドラマがあって(ちょうどキンゼイリポートと重なるか少し後くらいだが)出演中のルーシーが現実に妊娠してしまい、どうせ若妻役のドラマなのだから、そのまま主人公が妊娠したことにしようかという話になったのだが、当時のアメリカTVでは妊娠した女性を登場させるのは「はなはだ猥褻なことだ」と叩かれるに決まっているので散々苦悶した、というのである。
「妊娠した女性が猥褻」という意味が判らなかったのだが(普通に結婚している夫婦だし)とにかく妊娠してるっていうのは「セックスをイメージさせるから御法度」だということだったらしい。
私としてはそういう風に考えることがあるということすら思いつかなくてひっくり返ってしまったのだが、そういう時代、そういう国だったのだね。
まあ、聖母マリアは処女で懐妊なされたのだからそう思っとけばいいような気もするが。
とにかく『アイラブルーシー』はそういった当時のタブーを打ち破りルーシーのおなかは実際にどんどん大きくなり、アメリカ中の妊娠した女性が実に励まされた、というのだからやはりタブーを打ち破るのは大変だが大切なことなのだ。(となればこの「妊娠した女性が主人公」のドラマは当時かなりショッキングであり貞節な家庭では観なかったのかもしれないね)

何だかちっとも『キンゼイ』に行かないがそういう国だったのである。

キンゼイは実在の人物であるから、またまた「実際はこうでなかった」とかいう話も転がってはいるのだが、映画は映画という作品として観てみよう。
彼の父親が異常なほど厳格で威圧感のある人物だったことが彼の研究の発端であるように思えるし、昆虫採集の標本の出来栄えの気が遠くなるような細かな作業(小さな小さな紙片をピンで刺しそれに虫がのっかってる)を見ているとこの根気があるからこそ大陸の隅々までサンプルをとって行こうという忍耐力が生まれるのだろう。
また彼が男女ともに性的な関心があることも研究にとっては大事な点で、もし彼が女性だけ(か男性だけ)にしか興味がないのならこうした研究は難しいはずだ。同性愛に反発を覚える人はどうしても拒絶反応を抑えきれないようだから。そして獣姦、SMなどというような性的志向のサンプルを集めていくのだが、最後あたりで幼児性嗜好を持った男が現れ「思春期前の少年や少女と多くの性関係を持った」と言う時だけ「気持ちが悪い」と言って博士の助手が席を立ち、キンゼイ自身も他と違い明らかに不快感を持っているのはやはり今最もタブーとされているのはそういう幼児性嗜好だからなのだろうか。この男だけは気持ち悪い存在として醜く、反感を持って描かれていた。

周囲から好奇の目か軽蔑の目で見られ続け資金も工面できずキンゼイは疲れ果ててしまう。
だがある日の面接で、結婚していた女性が同性を愛してしまい家族から見放されるがキンゼイの本で多くの仲間がいると知り、命の恩人だと感謝される。
「人々を解放するつもりが私のせいでよけい縛りつけてしまった」と嘆いたキンゼイを救う一言だった。
また長い間確執を抱えたままの父子が父の少年期の告白によって少し和らぐ。厳格な父親もまた悩んでいたのだ。

研究者グループ内で肉体関係のいざこざがありキンゼイ夫婦も一人の男性と互いに関係を持つという他では深刻な問題もどこか研究の為、とでもいうような奇妙なニュアンスを漂わせてしまう。

「セックスは統計がとれるが愛は測れない、我々は愛に無知だ」
やはり最後は「愛こそが大切」という幕切れであることが必然であるな。

ピーター・サースガード、可愛い。

監督:ビル・コンドン 出演: リーアム・ニーソン ローラ・リニー クリス・オドネル ピーター・サースガード ティモシー・ハットン
2004年 / アメリカ/ドイツ
ラベル:セックス 科学
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2009年09月25日

『ブッシュ』オリバー・ストーン

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W.

えー偶然昨日に引き続きオリバー・ストーンである。偶然というのはこのDVDレンタル開始して間もないのにすでに在庫だらけ。一応希望が多いと見たのかやたら在庫数あるのに登録者の数は驚くほど少ないのだ。確かにやっと任期が終わってほっとしたのに何が嬉しくて2時間以上もジョージの顔を観ねばならんのか、という現れであるのか、もうすでにどうでもいい存在なのか。私としては続けて観れるのはよかったが、それでも物凄く嬉しいというわけではないし。

さて観通して印象的だったのは猛烈に食事のシーンがあること。以前にも何度も書いてるのだが、私はアメリカ映画の多くで食べるシーンというのはタブーなんだな、と感じているのだ。日本人は食べるシーンがとても好きだしいや、アメリカ以外はアジア各地でもヨーロッパ映画でも食事のシーンと言うのはとても心を通じ合うとかいいイメージで使われると思うのだがアメリカ映画では物をガツガツ食うのは大概馬鹿のイメージで無作法だとか無遠慮だとか無神経だとかとにかくかっこいい主人公の男女は「あまり欲しくない」と言ってすぐ食べるのを止めてしまう。繊細さを見せつける為だと思う。私はこれが嫌いでいつも苛々してしまうのだが、本作の主人公ブッシュの食うこと飲むこと、これまでのアメリカ映画の主人公の中で一番食ったのではないだろうか。私がいつもむかっときてしまうハンバーガーを投げ捨てるだとかそういうことはせず、ひたすら食う。人のまで食う。コーラだかアイスコーヒーだかもぐいぐい飲む。酒も(酒はどの映画でも飲むからいいんだが)がんがん飲む。残したりせず綺麗に平らげてしまうのである。
明らかにこれはブッシュの無神経さを笑っているんだろうなあ、と思ったのである。
彼が最も苦悶した場面はしこたま酒を飲んだ次の日に気持ちが悪くなるのと、TVを見ながらスナック菓子をぱくついてたらのどにひっかかって苦しみぬくシーンなのではないか。
とにかく彼の行った政治への反感は彼をあさましく描くことで表現されていて、それが物凄い食欲だとか口の中に指をつっこんで歯につまったものを取る仕草だとか、トイレで用を足しているシーンだとか、ヒーローものなら決して取り上げない映像がたっぷり盛り込まれているのだ。

しかしそんな無神経直情型人間だと嘲笑いながらも彼の繊細さを見せている部分もある。思いすごしなのかどうなのか、父ブッシュはジュニアである自分より弟ジェブを愛しているんだという悲しみである。彼の場合若い頃が酷過ぎるのでそのせいもあるだろうが或いは酒びたりになったのも出来のいい弟への負い目だったのかもしれない。そしてその苦しみが彼を大統領にさせ父から褒めてもらいたい、お前を一番誇りに思うと言ってもらいたい、と願いが、結局はさらに彼をどうしようもないところまで追いつめていってしまったかのように思えてくるではないか。親子の軋轢から戦争まで引き起こされてはたまらないが歴史というものはそういうものなのかもしれない。

作品の中に何度となく野球のシーンも出てくる。彼が野球好きで選手でもあったというのは例の「靴投げられ事件」の時に知った。ついでにあまりうまくなかったという注釈つきだったが。しかしあれで彼がどんなに反射神経が鋭いのかを知った。あの年齢であの状況でよく避けたものだ。
本作でも本当は野球選手かコミッショナーか、になってみたいと願い、TV中継を観、球場に行ってセンターポジションに立つのが好きだと言う台詞がある。そしてラストシーンは彼がセンターで高いフライを待ち構える。これを取れば間違いなくヒーローだ。ところがボールは落ちてこない。ブッシュはヒーローになれる大事なフライを見失ってしまう、という皮肉で幕が下りる。

ブッシュ役のジョシュ・ブローリンはこの役を頼まれた時物凄く嫌がったそうだが、当然だろう。しかも「そっくり」と見えるほどに完成されている。嬉しいものか嬉しくないものか。
しかもさすがにハンサムなのでちょっと素敵に思えてしまうのはマイナスか。
マッチョなテキサス男なのに父親を「パピー」と呼ぶのはやっぱり笑えるのかな。そしてやはりおぼっちゃま。いい学校に行くので例の変てこなフリーメイソンみたいな儀式を受ける。記憶力がいい、という才能を見せる。

無神経さが強みの彼も最後になるとさすがに弱点を突かれていく。持ち前の口のうまさも反射神経もしどろもどろになっていく。
実際の映像でオバマに大統領の席を渡した時は随分ほっとしたように見えたのだが、心中はどうだったのだろうか。

監督:オリバー・ストーン 出演:ジョシュ・ブローリン リチャード・ドレイファス スコット・グレン ジェフリー・ライト タンディ・ニュートン ジェームズ・クロムウェル エレン・バースティン
2008年アメリカ
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2009年09月23日

『ワールド・トレード・センター』オリバー・ストーン

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World Trade Center

話題にもなりオリバー・ストーン監督差品ということで早く観ねばと思いながらどうしても勇気が出せないのと、どこかでストーン監督とはいえ、アメリカ側こそに非があるのではないかと思われるような難しい状況をうまく描けるのだろうかという懸念がなかなか観る決心をつかせないでいた。
実際、観出して暫くはやたらと突然の悲劇に襲われたアメリカ国民、という表現だけが描かれているのか、という気がして迫力ある画面がむしろ押しつけがましいような気さえしていたのだが、途中からまさしくこれは「突然の悲劇に襲われたアメリカ国民」という部分だけを描いているのだとやっと気づいたのだった。

つまり観る前は、この作品の中に監督の9:11の惨劇についての総括というようなものが描かれているのかと思っていたのだが、全く逆だった。
ここに描かれていたのは事件後すぐに救助に向かった港湾警察のマクローリンとヒメネスの二人(とその家族)のみに焦点を当てたもので他のことは一切(と言っていいのではないか)表現されていない。
どの国の誰がどういう目的で行ったことだとか、そのことについてアメリカ政府がどう思ってるだとか、また貿易ビルの大勢の人々のことも逃げ惑う姿だけであってよくある様々な思い、という表現はされず(わずかにあるが)突然の大惨事に飛び出していった警察官とその家族がどう思いどう行動したか、だけが描かれている。
これはちょっと驚きだった。
よく「相手側の言い分もある」というような反発を書かれていたりするが、この作品はそういう政治的な意味での映画ではないのだった。

それは最後に「確かにこの日、「悪」が襲ったが人々の「善意」もまた感じることができた」という丁寧な説明があってその通りの映画なのだろう。
無論こういう惨劇が起きることは絶対に望まないが、こうした場合にそれまで自分が気づかない人々のつながりを感じることができる、という話はどこかで自分たちを勇気づけてくれる。
神がかりな海兵隊の男性の出現はさすがに「大丈夫か、こいつ」みたいな恐れを感じてしまったのだが、結局そういうパワーほど強いものはないのだろうか。彼がその後、再入隊してイラクへ行ったという部分にひっかかるかもしれないが、それもまた現実だったということなんだろう。

少しでも言葉を間違えば政治的な反発をくらうし、実際にあった物語を捻じ曲げてはいけないし、このどうしようもない滅茶苦茶な惨劇の中で人々がどんなに支え合い、助け合っていったのかを描くための映画だった。
TVでちらりと映るブッシュは安全の為どこへ行ったかも判らない、ということだった。

監督:オリバー・ストーン 出演: ニコラス・ケイジ マイケル・ペーニャ マギー・ギレンホール ジェイ・ヘルナンデス マリア・ベロ スティーヴン・ドーフ
2006年 / アメリカ

ラベル:歴史
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2009年09月22日

『オーメン』リチャード・ドナー

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The Omen

『エクソシスト』『サスぺリア』と並ぶ三大ホラーの一つ。と言う説明は違うかな。私としてはそういう認識なのだが。

この映画の一番の成功は主役にグレゴリー・ペックという破格な名優を置いたところだろう。物語的にはなんだかぶつぶつ言ってるだけの作品のようにも見えるのだがとにかくグレゴリーの存在感だけで全部見せてしまうのである。2番目はダミアンくんの顔がとても可愛くてしかも怖いと感じさせてくれるところ。殆どのシーンはグレゴリーが占めていてダミアンが小出しに出てくるのもうまいし、ほんの小さな少年にしているので台詞があまりないのも効果的なんだろう。
とにかくこの映画の真似というかリスペクトして作られた作品は五万とあるだろう。小さな子供が実は悪魔で次々と殺人を招いていく(特別彼が手を下さなくても「引き起こした」ということでいい)というのは猟奇的且つ原因不明の殺人事件になるのだからどうにでもやれる。
しかも元々はキリスト教からの引用なので同じキリスト教徒は思い切り怖いし、違う宗教の者は興味本位で観ていられる。

などとばかり書いてるとまた腐してばかりと言われそうだが、実に面白いことは確かなのである。
乳母の首吊り、神父の串刺し、吹き抜けになった2階の手すりのそばで母親が乗っているテーブルに思い切り当たる三輪車に乗ったダミアン、病院の上の階から飛び落ちてしまう母親(なんとお母さんは2回も落とされてしまう)カメラマンの首がガラスでざっくり、など殺人シーンのどれもがとても印象的なのだ。
そしてグレゴリーが演じていることもあって全体の雰囲気がとても重厚で格調高い。
妻を愛する夫の心遣いから死んだ実の子の代わりに同日に生まれた赤ん坊を我が子と偽ったということが恐ろしい物語の始まりとなる。妻への愛情とは言え、彼女を騙してしまうのである。
『オーメン』という言葉の響きも悪魔の数字「666」というキーワードもぞっとする効果を生み出してくれる。
それにしても(ああまた笑い話になってしまうが)観てるとほんとに怖くて愉快でしょうがない。何もかもパロディに置き換えて観てしまう(観てしまえる)のだ。
黒犬がじっとこちらを見てる!ってのも「怖!」でおかしいし、「666」なんてほんといじめられっ子が書かれたりしてたし(酷いよな)新しい乳母さんが悪魔の子ダミアンに仕えるのも受ける。
しかしこういう物語って見方を変えればほんとに頭のおかしくなった大人たちが子供を虐待しているとしか見えないわけでその違いをどう理解するか、っていうか映画だから信じてるけど「この子は悪魔だ」って言って殺そうとしている親がいたら絶対そいつが異常者だもんね。一体どうやって見分ける?
政治界に悪魔は現れる、っていうのも意味深で。

この映画のおかげでいまだに「666」にまつわる恐怖は忘れられていないのではないだろうか。
恐怖というのは心に深く刻まれるものなのである。

監督:リチャード・ドナー 出演:グレゴリー・ペック リー・レミック デビッド・ワーナー ハーヴェイ・スティーブンス ビリー・ホワイトロー レオ・マッカーン パトリック・トラウトン
1976年アメリカ
ラベル:ホラー 宗教 家族
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2009年09月13日

『アララトの聖母』アトム・エゴヤン

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ARARAT

最後まで観通すのが苦しい映画だった。
いつもながら、どんな内容なのかあまりよく知らないまま観始めた。カナダに在住するアルメニア人たちの物語。
1915年アルメニアは突然トルコ人によって大虐殺をされた。戦争をしていたわけでもない中での出来事であり、トルコはそのことを今も認めていないと言う。
私が苦しかったのは多くの他の映画よりもこの作品に込められた憎悪の激しさだ。
他の批評などを見ると完全に客観視して内容の素晴らしさを褒めていたりまたは欠点を示していたりするものが多く見受けられたのだが、私はどうしてもこの映画を完全に自分に関係ない話としてその出来具合のみに点数をつけることはできない。
自分が日本人であることを完全に忘れてしまうことは不可能だからだ。
この映画では登場人物は個々であるよりまずどの国の人間かということが描かれている。何国人でありどこに所属しているか。無論アルメニア人の数は多いので彼らの人格はそれぞれに描かれている。だがトルコ人は劇中劇として登場する恐ろしいトルコの軍人を演じたハーフの男性のみが人格を持っていて後は単なる虐殺者としてしか登場しない。そして代表となるハーフのトルコ人の男性は結局「トルコ人によるアルメニア人虐殺は戦時下での仕方ない事件だった」というような説を半分だけ述べる。何故半分なのかと言えば役者である彼が映画監督に弁明しようとするのを監督自身が途中で遮ってしまうからなのである。
無論私がこの映画が恐ろしい苦しさを感じたのは自分の属する国民としては絶対にトルコ人側であると感じるからだ。日本はまた逆に虐殺をされた国でもある。だがこの映画のような直に人間対人間の形で残虐な大量殺人を犯した、という意味合いではどうしてもトルコ側の存在であり、また今でも日本人がそういう虐殺は行わなかったのだ、という説を通す人々が多いのを見ても同列なのを感じないわけにはいかない。作中の映画監督が「今でもこんなに悲しみが湧いてくるのはいまだに我々が憎まれていると感じるからなのだ」という言葉にも思い当たる点が多いからなのだ。
日本人を虐殺した国アメリカに対しては「行いには怒りを感じ二度と起きてはならないとしてもその国にはむしろ愛情を感じ深く親交している」のは何故なのか。
私自身、アメリカへの怒りより自国がした虐殺のほうを強く恥じてしまうのは何故なのか。
それらのこととアルメニアの悲劇をそのまま重ねるのは出来ないことなのだろう。
ただこの映画から恐ろしいほど沸き立っている怒りの念を自分としては無関係の他人事としては観きれないのである。

作品自体としてはその怒りのせいかやや破綻している部分も感じられてしまう。とはいえそれは自覚したわざと、なのかもしれない。
主人公の青年ラフィの父親がテロリストだったことはほのめかされているがその行為は語られるだけで映像ではないのでアルメニア人が受けた暴虐場面の壮絶さとは違い映像として訴えていない。またラフィはどんな理由であれ麻薬密輸をしてしまったのに「彼は真実を言っていた。わざとではなかった」とすり替えてしまったのは逆効果なのではないか。
アルメニア虐殺を直接ではなく作品の中の映画撮影として描いていく、という手法は惨たらしい数々の暴力・レイプ・拷問の場面をいくらかやわらげてくれる。これは観客の為というより作り手側の怒りがあまりにも爆発しすぎない為なのかもしれない。
この手法に関してはとても好きなやり方であり効果的であると思う。
それにしても少し不思議なのはアルメニア人たちの表現で、これらの個性はかの国では美徳もしくは魅力的なものなのだろうか。
どの人物もあまりにも目力が強くて何かしら人を批判しようとする。息子は母に母は息子とその恋人に恋人は義母に激しい怒りを持っている。(特にゴーキーの娘の描き方は何の意味があるのか。彼女の怒りの答えが最後に判るのかと思っていたが、私には無理だった。トルコ人が相手でもないのに、なぜ彼女があそこまで精神崩壊しているのか。それも虐殺のせいなのか)
作品の中にわずかもゆったりした部分がなく常に苛立ち憎悪だけで生活しているような雰囲気が却って共感できなくなってしまう。などと言うとまた加虐側の人間という負い目がある国民としては「そういう風にしか考えてないから怒ってるんだ」と言われそうな気がしてまた挫けるのだが。(こういう言い方もまたいけないような)
そうかもしれない。やはり自分の考え方は所詮同じような虐殺をされた民族ではないからしてしまうのかもしれない。
最後に「トルコはいまだに虐殺を認めていない」という文字が記されている。
やはり、と大きなため息をつくしかない。

映画の中に込められた憎悪をここまで感じたことはなかったかもしれない。はっきり言って「いい作品」などという表現のものではないだろう。
虐殺され謝罪されなかった人々はここまでの怒りと悲しみを抱いて生き続けているのだ。そのことはどんなに苦しいことだろうか。
作品の中にはどの和解も希望も感じることができなかった。ハーフのトルコ人のように認めもせず謝罪もなしに「もう忘れて仲良くしようよ」ということは受け入れられないのだ。

もうひとつ疑問点がある。二つか。
税関の麻薬取締官をする退職間際の老人がいるのだが、彼の息子がゴーキーの絵が展示されている美術館の職員、そして彼の同性の恋人が映画中映画で悪役を演じるトルコ人ハーフの男性となっている。余計な勘ぐりと言われればそれまでだが、憎い敵役の唯一の人格を持つトルコ人がゲイという設定なのはホモフォビア的な感情からの設定ではないのか。またアルメニア人は何故か美男美女ばかりなのにトルコハーフの彼はどうもすっきりしたハンサムとは言い難い風貌である。まあ、ここまでは言いがかりとでも言えるが、最も引っかかるのは宗教的な描き方である。
どうやら美術館員の男性は女性と結婚した過去があって幼い息子がいるのだが、ゲイのトルコ人恋人との生活の為に離婚し息子は父親(空港税関取締官)にあずけていて時折訪ねてくる、ということになっているようだ。そこで可愛い息子はきクリスチャンとしての食事の祈りをあげるのだが、父親が「アーメン」と言わなくなったことに疑問を抱いている。これはトルコ人の恋人がムスリムであることが原因しているからだが、小さな少年が彼に「神様を信じていないのでしょ」と言うのは描き方としてちょっとまずいのではないか。確かにその後で弁護してはいるのだが、イスラムにはイスラムの神があり神を信じていないわけではないのだから。というかそういう排他的な考えが結局戦争と暴虐を生んでいるのではないのか。

監督:アトム・エゴヤン 出演:デヴィッド・アルペイ シャルル・アズナブール マリ=ジョゼ・クローズ アルシネ・カンジアン イライアス・コティーズ アーシーニー・カンジャン
2002年カナダ
ラベル:歴史 虐殺
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2009年09月10日

『フロスト×ニクソン』ロン・ハワード

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FROST/NIXON

一体どんな映画なんだろうとわくわくしながら観始めた。ニクソンはつい先日オリバー・ストーン監督作品を観ていたのでかなり役にたった。知っている人ならなんてこたないが私はそれまでニクソンのことなど「ウォーターゲート事件に関係した大統領」くらいの知識しかなかったもんで。とにかく悪名高き強面の大統領であるというイメージ。
キッシンジャーとお祈りしたエピソードなどはあの映画で登場するのでふむふむという感じ。未見の方なら是非これでの予習をお勧めする。
片やフロスト。こちらは全く聞いたこともないお方。その二人の対決とは何ぞや。興味津津。

観始めてすぐますますとんでもないことになったと感じる。
フロストというTV番組司会者が辞任したニクソン元大統領との対談番組を思いつく、というのは判るが、そのフロスト氏、政治関係に強いニュースキャスターだのアンカーだのという肩書ではなく、他愛のない軽い娯楽番組の司会者でしかもイギリス人でありしかも当時オーストラリアでニクソンの退陣を知る、という全く思い違いも甚だしいというべき人物でTV視聴率だけを見込んで60万ドルという破格の出演料をニクソンに提示する。プラス200万ドルの経費を彼は自費と借金で賄うのである。
悪役の印象を拭い去り再び政界に戻りたいと望むニクソン陣営はこの間抜けな(失礼)お調子者の外国人を踏み台にしてやろうという意気込み。笑顔と人柄だけが売り物(且つプレイボーイらしい)のフロスト氏は完全に舐められているのである。
フロストの相棒であるプロデューサージョン・バードは彼の才能を認めながらも企画の大きさに戸惑いがち、計画が進むにつれ、撮影が進むにつれますますぶつかった相手のでかさと自分たちの卑小さに恐れをなしていく。
またフロスト陣営に加担した二人の参謀はニクソンに対し怒りを抱きながらも歯の立つ相手ではないと自覚し始める。
猫の首に鈴をつけに立ち向かったネズミたちが相手が猫ではなく虎だったと間際で知ったかのごとくだ。
大統領なんて出会ったこともないから判らんがニクソンに会う前に「あんな奴と握手なんかするか」と言っていたレストンが会ってしまうとつい握手してしまうようにやはりそういう人物というのは例え悪人だと言っても他人にはない威圧感、独特のオーラというものがあるものなのだろう。
ケヴィン・ベイコン演じるジャックのニクソンを見つめる目が心からの尊敬と憧れを持っている、という演じ方だったのがちょっとおやっと思ってしまったのだ。こういう悪人の政治家を描く時って味方からも反感を持たれているように表現することが多いと思うが本作ではニクソンの周りの人間たちは(すでに失脚しているにもかかわらず)彼を慕っているように描かれている。フランク・ランジェラ演じるニクソン自身もむしろ好感が持てるような風格で単なる観客としてはにやけ笑いのフロスト氏より確かに頭脳も器も優れているように見えてしまうではないか。
ジャックの献身的な態度がより彼の威厳を増すようで固い絆で結ばれたニクソン側とまるきり頼りなくケンカばかりのフロスト側との対決は日を見るより明らかというところ。本当にフロストの逆転はあるのか、と信じられなくなってくる。
そしてこの結末は。
もしかしたらこの最後ってそれまでの緊迫感の答えにしてはあっけない幕切れだと感じられてしまいそうな気もする。確かにフロストが追い込まれ崖っぷちに立たされたところで折れてしまわず作戦を練り直していった根性は褒める値打ちのあるものだが結局ニクソンの負けはニクソン自身が生み出してしまった結果と側近ジャックに語るように「告白しないままでいることは辛い」ことだったのかもしれない。一見頑健に見えたニクソンが最後に疲れ切った表情になってしまうのはフロストの攻撃というよりニクソン自身が自分を崩壊してしまったように見えてしまう。とはいえ誰もやれなかったことに挑戦したフロストはそのこと自体が凄いことだったわけで、作品中語られるように製作された番組のほとんどは顧みられなくても最後のニクソンの表情を捕まえたことこそが彼の功績となるのだろう。
それにしてもこの作品の面白さは大統領だった男にインタビューそれも彼の悪行を暴くというインタビューをすることがどんな恐ろしいことか、というのを想像できるか否かで全く価値が違ってくるだろう。しかもニクソンという何100万という人間を死に導いたそれこそブギーマンのボスみたいな男で彼の背後には怨霊がどれだけ取り付いているやらという存在の人間に対して娯楽番組の司会者であるフロストが立ち向かうことがどんなに無謀なことか。何故彼がニクソンに勝ち得たのかこれを観てもよく判らないが、最後の最後まであきらめてはいけないという真面目な作品でもあった。ブザービーターの面白さというのだろうか。

しかし私は確かに彼らの人生を賭けた戦いにも惹きこまれたが、何といってもぞわっとしたのはケヴィン・ベイコン演じるジャックのニクソンへの熱い視線なのだったりする。彼のニクソンへの献身的な愛。ニクソンの危機を感じた彼があっという間に会談を休止させてしまう。彼の行動が打算的なものではなくニクソンへの心からの思慕だという描き方になんだか打たれてしまうのである。
(ジョン・バードのフロストへの信頼にもちょっと打たれたが)

オリバー・ストーンの『ニクソン』でのアンソニー・ホプキンスはもっと醜悪な姿を演じていたが本作のニクソンはやや好意的に描かれているような気がする。それはやはり時間が経ったということもあるのだろうか。

監督:ロン・ハワード 出演:マイケル・シーン フランク・ランジェラ ケビン・ベーコン トビー・ジョーンズ オリバー・プラット サム・ロックウェル
2008年アメリカ
ラベル:政治 歴史
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2009年09月06日

『ハメット』ヴィム・ヴェンダース

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Hammett

自分でもどちらかというと男っぽい物語が好きなのではないかと思っている為、かつて『ハードボイルド』なるものを好きになるべき、であったらかっこいいのではないかと考え何度も挑戦してみたことがある。
が、どうしてもハードボイルドの世界、というのに心から入り込むことはできずとうとう諦めてしまった。
今こうして観てみてもこの世界が大好きにはなれないのだが、それは当然だろう。この世界はあくまでも男が男の為に作った世界なのであって女が共感するのを望んではいないはずだ。とは言え、女性でこの世界が大好きなのだという人がいたとしてもそれはそれでいい。彼女たちが見ている場所は私とは違うのだろう。
思うにこの世界の主人公がそのままで女性だったらきっと好きになるに違いないし、それを観た男性はどこか男が疎外されているような気持ちになってしまうのではないか。
今ではそういう女性版ハードボイルド的な作品も作られているのではないかと思うしハードボイルドとは違うが先日観た『テルマ&ルイーズ』はまさに男性がすなることを女性もやってみるなり、な世界であり、やはり女性として共感しすかっとしてしまうのだから、主人公が男性なのか、女性なのか、だけのことなのかもしれない。
そういえば面白いのはダシール・ハメットはあのリリアン・ヘルマンと恋人関係だったわけで、彼女のことを描いた『ジュリア』は女版ハードボイルドとは言えないだろうか。

さて本作はどうやらハードボイルドを愛読し同じく映画も愛している諸君にはたまらない作品なのではないだろうか。
ハードボイルドの代表的作家の一人ダシール・ハメットを主人公にしてまさに彼の作品そのままの世界を彼に演じさせているような物語なのだろうと推察する。
ハメットを演じるフレデリック・フォレストもハメットを彷彿とさせるような名演技なのだろう。彼を知らなくても充分渋さを感じられる。荒っぽい言動でどこかこの人生に疲れたような大人の雰囲気はこの世界になくてはならないものなのだ。
ハードボイルドが好きではなくともそういう美学に酔い痴れるが為の物語、謎めいたチャイナタウン、胡散臭い秘密組織、愛している女性、酒を流し込み煙草を離せない男っぽい男が描かれる。

私にしてみればこの世界より、これも先日観たクローネンバーグの『裸のランチ』のほうが断然好きなのであるがああいう奇妙な世界が好きな人間とハードボイルド人間は相容れないものなのだろうか。中には両方好きな人もいるかもしれない。

監督:ヴィム・ヴェンダース 出演:フレデリック・フォレスト ピーター・ボイル マリル・ヘナー ジャック・ナンス シルヴィア・シドニー ロイ・キニア
1982年アメリカ

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2009年09月04日

『テルマ&ルイーズ』リドリー・スコット

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THELMA & LOUISE

こんな爽快な映画を今まで観たことがあっただろうか。女なら絶対もう興奮間違いなし!!と血沸き肉躍るのである。

男バージョンでこういうロードムービー、アウトローになった男二人が手を組んで逃亡する、という話は数々あっただろう。そういった物語を女性版として作り上げたという感じではある。いわばこの映画は女版『明日に向かって撃て!』なのだ。

そして二人の女はアメリカンマッチョを振りかざす亭主に抑えつけられた主婦とそういう事態になるのを恐れているのだろうか若干その予兆もある男を恋人に持つウェイトレス、といういかにもありげな設定である。
そんなアメリカのどこにでもいるだろう女二人がせめて2日羽を伸ばそうとドライブに出たことが発端であった。

特にやや興奮気味の主婦テルマは酒場で男に声を掛けられすっかりハイになってしまうが、その男はテルマとのセックスが目的で抵抗するテルマを殴りつけレイプしようとする。ルイーズが助けに入り事なきを得たが男の捨て台詞にかっとなったルイーズは男を撃ち殺してしまう。平凡な生活を送っていた普通の女二人の逃亡劇が始まる。

初めはまるきり頼りなくルイーズの足を引っ張り続けている甘ったれたテルマが逃走劇の間にみるみる本当のアウトローになっていくのが面白い。男同士だと大体兄貴役と弟分みたいなのが決まっているがめそめそしていた主婦テルマがどんどん変身していくさまが小気味よくまた怖くいほどだ。私を含め同じように毎日の生活に縛られ、大切とはいえ家族に縛られて動けない主婦たちはテルマの成長に熱くなってしまうに違いない!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
すんごく引き締まった体が見惚れてしまう美味しそうな若いブラッド・ピットが演じる「若い男」
純朴そうに見える可愛い若者にテルマが惹かれた時、厭〜な予感がしたのは誰でもだろう。しかもわかりやすく強盗だと告白しその手口まで教えてくれる。逃げる為に絶対必要な金を(しかもウェイトレスでこつこつ貯めた金なんだろうに)テルマののぼせ上がったうっかりで盗まれたルイーズの落胆は見るに忍びない。
だがここからテルマが変わっていくのである。
レイプされそうになった自分を助け、男の言葉にかっとなったルイーズが犯した殺人。テルマはそれが自分のせいなのかとルイーズを責めてしまうのだが、それもこの盗難も自分が甘かったせいだと目覚めたテルマは泣き崩れるルイーズを守るためにそれまで彼女が思いつきもしなかっただろう「強盗」をやってしまうのだ。あの若者から聞いた通りの方法で。
ルイーズが犯した殺人は情状酌量の余地がある、がテルマは自ら強盗を犯し、その後彼女らを逮捕しようとした警官に銃を突きつけ脅迫する。ここに一人の刑事が登場し、彼女たちに同情を寄せる。罪もない弱い立場の女二人がたまたま遭遇してしまったレイプ魔(みたいなもんだ)の為に犯罪を重ねていくことに心を痛めるのである。彼は一体何なんだろう。この作品の中で一人変な立場の人間である。思うに、製作者が男たちであるために出てくる男が全部悪人なのはどうも肩身が狭いと一人「話の判る」男を登場させたのではあるまいか。彼以外の男は本当にしょうもない奴ばっかしだ。だけどもそんな彼の存在はなんだかこの作品の中で異質に思えてしまうのだが。

それまで一方的に面倒を見る側見られる側と決まっていた二人がいつしか微妙なバランスで互いを助け合う形になっていく。
ルイーズを助ける恋人のほうはまだいいとしてもテルマの亭主の情けないこと。しかしあちこちでうちの亭主にそっくり、という声が聞こえてきそうだ。
腐りかけたような生活に嫌気がさし旅に出たもののとんでもない事件を起こしてしまっておどおどびくびくと逃げ始めた女二人が旅を続けるに従いそれまで自分が味わったことのなかった自由を感じ、エキサイトしていく。アメリカの広大な大地を車を駆って走り抜ける彼女たちがなんて羨ましいことか。こんなに興奮する逃亡があるのか。

しかしメキシコって遠いんだなあ。今まで観た映画では案外あっさりメキシコに辿りついてたのに、行けども行けどもまだ道がある。景色はもうメキシコみたいに見えるんだけどまだなのだね。アメリカの犯罪者がメキシコへと逃げる物語を今までどれほど観たか。メキシコ人にとっては迷惑な話だが。

下品なトラック野郎をとっちめる二人はもうすっかり本物の悪党だ。「お前ら地獄から来たのか」と叫ぶ男。まさしくそのとおり。

大勢の警察官から追い込まれた二人。「捕まりたくないでしょ。行って」テルマの言葉に車を走らせるルイーズ。その先は断崖絶壁。二人は飛んだ。
昨日観た映画のラストの死に不満を感じた自分がこの二人の死には自由への熱い思いを感じてしまう。不思議な感覚だった。

夫の傲慢さにびくびくしながら生きているテルマを演じたジーナ・デイビスの変身ぶりのかっこいいこと。物凄い長身なのも素敵だ。177センチって言ってるけど絶対180あると思う。逆さばだきっと。
めそめそしてルイーズにたよってる彼女も可愛かったが目覚めてしまった後のテルマはホント男前なのだわ〜。

突然通りすがりの若者ってな登場のブラピの細いこと。まだ無名だったのだねえ、この頃は。キュート。

この映画を観て思い出したのが桐野夏生『OUT』
発表されたのは『テルマ&ルイーズ』の随分後だからもしかしたら影響もあったということはないだろうか。
内容は全く違うが平凡な主婦(本作は片方独身だが)が暴力的な男を殺し家庭を捨て逃亡していく、という筋書きと女が自由を求めていく感覚が同じように感じられる。
せっかく絶賛した本作をやや批判してしまうことになるが、後年出ただけあって『OUT』には本作より以上の面白さがある。というか本作を改良していったような。
一つは本作の主婦テルマに子供を持たせなかったのはやはり子供がいたら観客の感想は正反対のものになっていただろうと思えるから。
『OUT』では子供のいる主婦、介護が必要な老人を抱える主婦が主人公になる。より不自由な生活を強いられているわけだが、そういう存在を抱えた女性が犯罪と逃亡を続ける映画であったら疑問を持たれてしまうだろう。『OUT』では設定をあえてそういう責任を担った主婦があえて犯す犯罪という形にしている。また殺すのは通りすがりの見知らぬレイプ男ではなく夫である。テルマも(と言っても殺すのはルイーズだが)本当に殺したかったのは夫だったのではないか。これも夫を殺す、というのではテルマへの共感が薄れそうなために行きずりの男になってしまったような気がしてしまうのだ。
しかし鬱憤のたまった主婦の多くは子供がいるわけで、子供を持った以上はもうテルマにもなれない、ということになてしまう。もし子持ちでこの行動をとっていたら「子供がかわいそう」という感想のほうが上回ってしまうはずだ。そういう意味で『OUT』は本作の進化形になっているのだろう。だが確かに子供との関係をうまく成立できないでいる『OUT』の物語は苦い味がする。その味が現実、ということなのか。
夫を殺す設定にしなかったのも昔は自分も愛したはずの夫を「殺してしまう」とまでしてしてしまうと何故そこまでするのかという理由づけの話をだらだらと加えることになる。行きずりのむかつく男のほうが簡単でいい。
そしてラスト。犯罪者になってしまった二人の結末は死だということで納得させてしまのではなく『OUT』ではさらに進む物語へと変化している。これも自由を求めた主婦の最期に不満を持った為の反抗のような気がしてならない。

監督:リドリー・スコット 出演:スーザン・サランドン ジーナ・デイビス ハーヴェイ・カイテル ブラッド・ピット マイケル・マドセン クリストファー・マクドナルド
1991年アメリカ
posted by フェイユイ at 00:59| Comment(5) | TrackBack(0) | 北米 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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