映画・ドラマ・本などの感想記事は基本的にネタバレです。ご注意を

2009年09月02日

『噂の二人』ウィリアム・ワイラー

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The Children's Hour

ついこの前『ダウト〜あるカトリック学校で〜』を観たのでよりインパクトを強く感じた。どちらも同性愛を扱っているのが問題なのは「人の噂」ということでしかも本作ではさらに「言葉、声に出して言う言葉」と言うものがテーマのようにさえ思える。

どちらも自分では見てはいないのにある疑惑を持った人物から(その人物もまたはっきりした何かを見たわけではない)聞いた「言葉」だけで揺るがぬ確信を持ってしまう。『ダウト』では老シスター(と言わせてもらうが)であり本作では老貴婦人である。そして両人とも自分こそが正義であり子供たちを守る責任者だという信念を持っている。
どちらでもごく小さな疑惑だったものを人間は何故信じ切ってしまうのだろう。あの『オセロー』で描かれるように人の心を揺るがす嘘はより真実に聞こえてしまうのだろうか。

老婦人は虚言癖のある孫娘が言葉を口にした途端、迷うこともなく信じてしまう。ここに描かれていたわけではないが自分の孫娘が嘘をつきやすい性格だとまったく知らないわけではなかったんじゃないかと思うのだが、例えそうでなくても言ったそばから信じてしまう、というのは極端のようだが『ダウト』のアロイシアスが「どうしても信じてしまったのです」と同じ状態になってしまう。
17歳の時から仲のいい女性二人マーサとカレンは力を合わせて寄宿学校を立ち上げ経営していく。カレンには婚約した男性がいるのだが、学校が波に乗るまではと結婚が延び延びになっている。そんな折、学校生活に不満を持つ少女メアリーはこっそり見てしまった小さな事実と色々な言葉から一つの疑惑を生み出す。「カレン先生とマーサ先生は怪しい」
マーサは男嫌いで美しいカレンにずっと惹かれていた。だがそれは友情としてのそれだと自分でも思っていたのだが、メアリーが言った噂「二人は恋人同士だ」という言葉を聞いて自分の気持ちが明確になる。自分の感情が友情ではなく恋だったのだと。思うだけの時は気づかなかった気持ちが言葉になって彼女に認識させるのだ。
カレンの婚約者ジョーももしかしたら微妙な不安と疑惑をずっと持ち続けていたのかもしれない。何故カレンは結婚を延ばすのか、友人であるはすのマーサが何故自分を毛嫌いするのか。叔母から噂を聞き激怒する彼だがその半面事実が表に出たことで真実を突き付けられた反動なのかもしれない。
カレンがジョーに「聞きたがってることを言って」と言っておきながら言いかけた彼の口をふさぎ「マーサとは何もなかったわ」と答え、ジョーが「疑ったことはなかったのに僕はなんということを聞いてしまったのだ」というやり取りは傍目には変なやり取りだが、言いかけた、というだけで彼が疑惑の言葉を持っていたことを二人で話し合い、その疑惑の言葉はもう消すことはできないと確認しあったのだ。

「やり直しましょう」と言葉に出すカレンに対し何も言えないマーサは心を隠したままになっている。
この先のエンディングには私は不満である。
本作はワイラー監督36年製作『この三人』が不満だったための自作リメイクだということだが、当時としては悲劇であることに意味があったのかもしれないが、私はどうしてもカレンの言葉にうなづいてマーサも共に歩き続けてほしかった。
今また映画になるならそうであってくれるだろうか。
カレンもまたマーサと同じ気持ちだったとはっきり言葉にしてくれるかもしれない。

この映画の出演陣で最も印象的なのはオードリーでもシャーリーでもなく虚言癖の少女メアリを演じたカレン・バーキンかもしんない。何しろレズビアンというのをできるだけ控えめに演じてる二人と違って思い切り感情を表現してくるから一番目を奪われてしまう。
ワイラーの演出はこの前観た『コレクター』でも他の大作でも本当に素晴らしいが本作の結末の付け方はやはり後味が悪い。モーターみたいにいくら悪いことをしても平然としてるほうはまだ判るがメアリのおばあ様婦人を叩きのめしてすっきりする落ちはどうなのかなあ。後悔する人々を後に堂々と歩いていくオードリーにあんまり「よくやった!」みたいな爽快感はないしね。案外みんな「そうは言っても本当にレズってたんじゃないの」と笑ってあんな風に謝罪したりしないかも。なんか、「ほーらあんた達が苛めたせいで死んだわよ」って感じで歩いていってるように見えなくもない。と言ってもそれを言いたいが為の作品なのかもしれないからねえ。
結末以外の映像は堪能しました。イライラ感がたまらんです。

監督:ウィリアム・ワイラー 出演:オードリー・ヘプバーン シャーリー・マクレーン ジェームス・ガーナー ミリアム・ホプキンス
1961年アメリカ


ラベル:同性愛 疑惑
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2009年09月01日

『化石の森』アーチー・L・メイヨー

the_petrified_forest_tv_picture_008.jpgThe Petrified Forest (1936) 1.jpgTHE PETRIFIED FOREST.jpg
THE PETRIFIED FOREST

なんとなく以前から気になっていたものでようやく観るに至った。これは面白くて知的なんだか現代の作品みたいな雰囲気だった。

アリゾナのもうこれから先はガソリンスタンドもないよ、という看板の店がある。昔話ばかりする爺様とその息子である頑固親父とフランスに憧れる若い娘(ベティ・デイビス)そして彼女に恋するアメフト選手のマッチョマンが働いている。

『化石の森』というのは実際にアリゾナにある化石化した木や2億年前の地層が観察できるという地区である。舞台はブルー・メサという。
まるでこの世の果てのような場所にぽつんと建つ小さなガソリンスタンド兼食堂の店に作家の夢叶わず妻にも見捨てられた男、逃亡中のギャング一味、黒人の運転手を伴った金持ち夫婦などがやって来てそれぞれの思いを語る、という舞台的な作品である。

何といってもちょっと気取ったインテリでいかにもイギリスから来た雰囲気を持つ厭世家の男アランを演じるレスリー・ハワードが素敵でベティ・デイビスならずともこんな砂漠でこんなインテリ二枚目にお目にかかったら参ってしまうのは当然だろう。背番号42をつけた筋肉ばかりのボーズはいかにもなアメリカ男で気の毒である。
レスリーと言えば『風と共に去りぬ』でスカーレットが恋する男性役で有名だが、あれではあまり目立ってないし、こんなに素敵な殿方だとは思わなんだ。確かにスカーレットも夢中になるだろう(しつこい)私にとってはあのレスリー・チャンが彼が好きで自分にレスリーという名前をつけた、ということで覚えていた名前である。納得。
とても微妙な存在の役である。鬱屈した性格ですべてをあきらめ捨て去ったような心で放浪している。
僻地の食堂で働くかわいらしい少女ギャビーが詩を読み、フランスに住む母親を愛していて自分もフランスに行って絵の勉強をしたいと願っているのを知り心惹かれる。またギャビーもアランに恋してしまうのだが、彼はその恋を受け入れるより、自分の命と引き換えに保険金を彼女に渡したいと考えるのだ。
その為の殺人を依頼される強盗団のボスがまだ無名な頃のハンフリー・ボガート。彼の特徴であるあの低い声で食堂に集めた人質たちを威嚇する。本当はこの役は別の有名俳優がするところを彼と舞台で共演していたレスリー・ハワードが「彼でなければ自分も出ない」と言ってボガートの名を世に出したという。うわ、ハンサムだけじゃなくてかっこいい、レスリー。
ベティ・デイビスもまだ後年のどすの利いた女丈夫じゃなくて夢見る可愛い少女役なのだから相当昔の映画なのである。
しかしこれは全く時代の古さを感じさせない面白さではないだろうか。
未来を夢見る少女とすべてを失ったと感じる中年にさしかかった男。少女から愛を打ち明けられても彼にはもう生きたいという希望を現実として感じられなくなっていたのか。ボガート演じる強盗に「一緒に化石の森で死のう」と笑う。
別に死ななくてもよかったのでは?と思ってしまいそうなのだが、彼の厭世感が化石の森のタイトルになるのだろう。

それに引き換え、開拓者だったと威張る爺様の元気なこと。有名強盗団マンティに会えたと喜び、人を殺すというのに喜々として、命を投げ出すアランを変な奴だと決めつける、いいキャラクターなのである。

監督:アーチー・L・メイヨー 出演:レスリー・ハワード ベティ・デイビス ハンフリー・ボガート ディック・フォラン ジュヌヴィエーヴ・トビン
1936年アメリカ
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2009年08月29日

『幽霊と未亡人』ジョセフ・L.マンキーウィッツ

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The Ghost and Mrs.Muir

先日観た『イヴの総て』がなかなか面白かったのでジョセフ・L.マンキーウィッツ作品をもう少し観たくてレンタルした。
『イヴ』より少し前の作品である。舞台はイギリスで「20世紀になったのよ」という台詞があるからそういく時期なのだろう。馬車と自動車が共存し、貴婦人はきついコルセットのドレスを着用している世界である。

『イヴの総て』もそうだったがとてもテンポがよくあちこちにジョークが散りばめてある楽しい映画である。
未亡人になったルーシーが本来なら夫の家族と住むべきところを「自由に生きたい!」と宣言し、泣きじゃくる義母と怒る小姑を後にする。
まだ幼い娘と何かと彼女を心配してくれる心強いメイドのマーサと共に住むのに選んだ海辺の家はなんと幽霊が出ることで不動産屋を悩ませる家であったのだ。

幽霊はその家の元の住人であるダニエル船長であった。
船乗りだった彼は言葉が荒々しく上品なルーシーとは何かと反発しあうのだったが、いつしか二人は口にはしないが心惹かれあう。
ある日、ルーシーが頼みの綱にしていた亡き夫の株券が紙切れ同然になったと小姑から告げられる。
そうであれば何の蓄えもないルーシー親子は元の家に戻るしかない。
ところがダニエル船長は「わしに任せとけ」と言い切るのだった。

幽霊とか言ってもレックス・ハリソンがそのまま登場してルーシーには見えるけど、他の人間には見えない、という至って簡単な演出である。(つまり役者がそこにいるのに見えないという設定で演技する)
上品な貴婦人がいきなり男の声で下品な言葉を言う(と周りの人間には思える)というのがおかしいし、住む世界の違う船長とルーシーの会話がとても楽しい。そしてルーシーは彼の経験を小説に書き起こすことになり多額の印税を手にすることになる。
そこへルーシーに求愛する男が登場し、胡散臭いと思いながらも船長は彼女のために姿を消すことにする。眠っている彼女に今までの自分との出来事は全部夢だったと暗示をかけて。

大変楽しい前半のコメディから後半は世間知らずの貴婦人ルーシーが既婚者である男の求婚を真に受け、真実を知って打ちのめされ、その後娘が結婚する場面へ移っていく。
そこで実は娘もダニエル船長の幽霊と親しくなったことを打ち明けられる。ルーシーは封印された記憶を取り戻せず、夢だったのよ、と娘に言う。
次の場面は老いたルーシーであり、同じく老女であるマーサに世話を焼かれている。
マーサが部屋を出ていくと椅子に座ったルーシーは息を引き取る。そこへあの時と同じ姿のダニエル船長が現れ、出会った頃のルーシーの姿になった彼女は彼と同じ霊となって家を出ていくのだ。

非常によくできたロマンチックラブコメディで最初思い切り笑わせ、最後でしんみりと涙がこみ上げてくるという仕組みになっている。ヒロインが最初から娘つきの未亡人なので大人の為の作品といえよう。

『マイフェアレディ』でも男っぽい役であったレックス・ハリソンが荒くれ男だがルーシーを心から愛する素敵な幽霊として登場。
ルーシー役のジーン・ティアニーはチャーミングな未亡人ぶりが素敵でちょっと色っぽすぎるかも。
娘が成長した時をナタリー・ウッドが演じている。
とても優れた作品で楽しめたのだが、現在の目で見れば昔の女性特に貴婦人って悲しいものであるなあと言うことも感じてしまう。
これは作品自体への疑問ではない。
未亡人ルーシーが何の支えもなくなった時豊かな経験を持つ幽霊の船長が自分の体験したことを小説にしてルーシーに書かせる、というのは話としては荒唐無稽だがいきなりルーシーがベストセラー小説作家になるというよりは現実的なのだ。
結局「自由に生きたい!」と宣言したルーシーは何もできないままだ。
メイドのマーサに言うように彼女は何もできない貴婦人でしかない。
家事も下手なのでマーサに「支度ができるまで昼寝をしてなさい」なんて言われてる。夫の遺産を頼りにし、それが駄目になれば幽霊男を頼りにする。次は実在の男を頼りにし、裏切られてそのまま男を信じられずに一生を終える。
当時のレディというものはそういう存在だったのだろう。メイドに身の回りの世話をしてもらわねば何もできない。
そんな彼女の得た自由というのは人に気兼ねをしなくてすむよう一人で生きる(メイドは必要だが)ということだったのだ。
海に生きた荒くれ男の船長もまた生きている間は女性への思いやりができない男だったのだろう。孤独の中で死んでいったのだ。
生きてきた世界は全く違うがどこか似通った船長とルーシーは霊になってやっと結ばれるのだ。
今の感覚で見ればどこか歪んだ世界にいる二人なのだがだからこそこの映画のラストの二人に静かな悲しさとそれ以上の幸せを感じてしまうのかもしれない。

この映画で私が一番反応したのはダニエル船長がルーシーに向かってキーツの詩を口ずさむ場面だったりする。むろんベン・ウィショーが『ブライトスター』で演じるのが詩人キーツだからである。
海の荒くれ男で言葉も乱暴なダニエル船長が美しいキーツの詩を暗唱できるほど知っている、というのが驚きだという演出なのだろうから。キーツのいうのはそういう存在なんだなあ、などと感心し喜んでいる無学
の自分であるわけで。
ナイチンゲールという題の「海の最果てで魔法の窓が開きその先には美しい世界が」という一節だった。
(調べてみたら『ナイチンゲールに捧げるオード』という詩で「またその声は時に魔法の扉を開かせ 危険な海の泡を見せた 寂寥とした妖精の土地に」というのかもしれない。かなり違う感じ)

監督:ジョセフ・L.マンキーウィッツ 出演:ジーン・ティアニー レックス・ハリソン ジョージ・サンダース ナタリー・ウッド
1947年アメリカ
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2009年08月27日

『RENT/レント』クリス・コロンバス

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RENT

大変申し訳ないけどまったく心ここにあらず、と言う感じで観てしまった。
どうしても入り込めなかったのでついつい気になっていた作業を片手間に。画面はちらちら観てたのだが、突然目を奪われる、ということもなかったのは残念だった。

有名ミュージカル作品、ニューヨークの貧しい若者たちの群像劇、ゲイ・エイズ・ドラッグ・歌・踊り。題材的には特に以前であれば強く惹かれるものなのだが、今では興味を失ったのか、この作品だけが受け付けないのか。
少し前観た『エンジェルス・イン・アメリカ』はとても面白かったのだからやはり何かが自分と合わなかったんだろう。

こういう作品はとにかく誰かとても好きなキャラクターがいるかどうか、できれば複数であって欲しいのだが、本作の登場人物にどっととり憑かれるような存在がなかったのだ。
白人・黒人・ヒスパニック・ゲイ・ストレート・エイズ陽性・ドラッグ中毒、これらをいかようにも組み合わせて物語を作っていくことができるが中心的な二人の男性がストレートの白人(一人はユダヤ人だが)というのは自分的にはちょいとつまらなかった。

貧しくても病気でも中毒でも友達がいて未来がある、みたいなノリがどうも駄目で非常な熱狂的ファンがいるということらしいのでまあ私まで好きにならなくてもいいかな、とかね。

いまから20年ほど前の物語だからとは言え、好きなものは時間が経っても好きなものなので反りが合わなかった、ということだろう。
これはよかった、というのをあげたくても思いつかない。
ただ、おかげ様で気になっていた作業が片付いたので助かった。

監督:クリス・コロンバス 出演:ロザリオ・ドーソン テイ・ディグス ジェシー・L・マーティン イディナ・メンゼル アダム・パスカル アンソニー・ラップ ウィルソン・ジェレマイン・ヘレディア
2005年アメリカ
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2009年08月24日

『コレクター』ウィリアム・ワイラー

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The Collector

この映画が元ネタでできた作品がどのくらいあることか、と思ってしまう監禁もの元祖といっていいのだろうか。且つ現実でも似たような事件やらストーカー的なものやらは絶えることがない。と言ってもそういう現実を考えるために観ようとかしたわけでは全然なく単にテレンス・スタンプを観たかっただけなのだ。

この作品で彼の存在を知ったし、実を言えばこの後まったく彼の出演作を最近まで観てなかった。美形などという評判のスタンプだけどこの映画では確かに整ってはいるだろうが気持ち悪さがにじみ出ていると思えてとても好きにはなれなかった(つまり素晴らしく演技力があったわけですな)
すっかり老域に入った彼を観て(『イギリスから来た男』である)これも不気味だったがかっこいい、と今更ながら好きになってしまったのだ。

さてこの作品、冒頭辺り、気に入った女性を拉致する場面までさすがにもう知っている話でもあるしどきどきすると言うほどもないかなあと思っていたのだが、次第にすっかり入り込んでしまった。
スタンダードナンバーと言ってよい作品だけに筋書きも演出も実に見応えがあって面白い。ついつい観ながら「こういう場面を使ってパロディができるなあ」なんて不埒な事を考えてしまう。
必見はなんといってもテレンスのいじけキャラポーズ。断トツは階段の上にちょっと首を傾げて膝を抱えて座るポージングだろう。このシーンはミランダも絵の題材に選んだ必殺いじけポーズだ。他にもやはり首を傾げて柱の脇に立つ、首傾げ後ろ向きポーズもあり。彼女と上手くいくと少し調子がよくなって軽く飛んでみたりする。期待に溢れた踊りである。運動神経は悪いんだろうけど、石段の上を歩いてちょっと離れた石にジャンプするのかと思いきや自信がなかったらしく可愛く座ってみたりする。この時足先が子供みたいに下向きにしてるのが可愛い。
一連のお寂し表現が笑えるもとい愛おしい。そして怒ると爆発するんではなくむーっと口を結んだ怖い目になる。
もう楽しんでこのサイコチック変態男を演じてるとしか思えないのだが、きっとこの後、色々嫌なこと言われたんだろうなあ。こういう男だとしか思えないもの。あの青い目が怖い。
囚われたミランダは彼がリスペクトしていると何回も繰り返すだけあって上品で知的ながら素晴らしいスタイルの持ち主。画学生というのも憧れの対象としてふさわしい。そして彼女が地下室で描いたフレディの絵というのも彼のイメージを表現していた。(当時の流行っぽいかっこいい絵だ)
変質的なフレディの演技表現が特徴あるものなのに比して彼女はあくまでも普通の女性という表現である。
突然監禁されたことに怒り、悲しみそして隙あらば逃げようと何度も試み、ついには彼を懐柔しようとするが元々疑い深い性質の彼はなびくわけもない。
多分今作られる『コレクター』疑似ものはセックスを主体にしたものが多いだろうが本作ではフレディは彼女を「リスペクトしているのでそういうことはしない」と言っている。だが思うにこの男は対女性としては性的不能でコレクターする、という行為自体が興奮なのだろう。「結婚しても寝室は別々で」などと一々言い訳しているのがおかしいがミランダが「そういうことをしたいと思う女性」だと考えることが嫌なのだろう。
彼女が死んだ時フレディが見せる悲しみは「愛する女性を苦しめた」ことではなくせっかく捕まえたと思った蝶を逃してしまった時の悔しさに見える。

『ライ麦畑でつかまえて』の主人公を自分と比較して批判する場面も面白い。当時若者の気持ちを代弁していたキャラクターを否定しているのだからいかに彼が世の中の若者とずれているのか、ということなんだろう。
しかし今現在観ているとフレディはまったく古さがない。却ってこういう男性が増えているのでは?とすら思えてくる。セックスではなく趣味の中で生きているというような。
或いは女性にもこういうタイプが出現していくのかもしれない。

監督:ウィリアム・ワイラー 出演:テレンス・スタンプ サマンサ・エッガー モーリス・バリモア モナ・ウォッシュボーン
1965年アメリカ
ラベル:サイコ
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2009年08月21日

『バスキア』ジュリアン・シュナーベル

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Basquiat

冒頭に生涯一枚の絵しか売れなかったゴッホのことが語られ、まだ売れてない頃のバスキアの物語が始まるのだが、対照的に若くして認められ次々と作品が売れまくっていく。
この作品ではそんなバスキアの心の奥まで覗くことはなく短い生涯をスケッチ風に捉えたと言うイメージであった。

例えば女性からもてているバスキアとゲイであるウォーホルが非常緊密な関係になっていくんだけど、その実どういう緊密さだったのかはよく判んない。この作品を観てるとかなり深い関係だったように見えるしウォーホルの死後彼のビデオを観て泣いてたり、まるで彼の死のせいでバスキアの薬物依存が酷くなって言ったかのように見えてしまう。しかも最後辺りは女性の影もなくなってしまう。
バスキアもゲイ的な人だったかのように思えてしまうのだが、どうなのだろう。そこらはあやふやな感じである。

バスキアを演じたジェフリー・ライトが悪いわけではないのだが(私はバスキアの姿とか知らないのですんなり観てしまったのだが)後で彼自身の写真を見るとジェフリーとは比べ物にならないほど(失礼)ハンサムですらりとした若者で確かにこんな青年がしかも天才だったらウォーホルも黙っておけないよな、なんて思ってしまう。
何だかジャン・コクトーとレイモン・ラディゲみたいな感じではないか。
彼らと違うのは死ぬ順番ということになるが、ウォーホルの死後、腑抜けのようになってしまうバスキアを(映画を観てるとそう見える)助けるのが以前からの親友でバスキアが有名になってから喧嘩別れしていた白人の友人である。
そういえばバスキアってこの映画では恋人も声をかける女性も友人になる男性も殆ど皆白人なのだ。

絵画っていうのはやはり受け止めるのが難しい。誰でも一応絵は描ける。描けるだけにそこから技術的に優れた者とそうでない者の区別はしやすいが、芸術的か、他よりどこか優れたものが心をつかむものがあるか、という判断になると途端に素人は絶句することになる。
ゴッホの絵は誰も理解できなかったが、ではこの絵はどうなのか?というわけである。
バスキアが作品中「初めての優れた黒人画家」というような言われ方をしてむっとする。「原始人の絵」みたいな言われ方も。
さて私としては確かに面白くて印象に残る絵画だと思うが、そのハンサムな容貌も含めてウォーホルと言う存在も含めて、やはり彼を取り巻く白人たちの流行やら嗜好に合ったための現象だとこの映画は言ってる気がしなくもない。(ハンサムはこの映画では関係ないか←再びジェフリーさんごめん)

ゴッホと違ってあっという間にスターになったバスキアよりデヴィッド・ボウイが演じたウォーホルやデル・トロが演じた友人のほうがより魅力的に見えてしまうのはどういうことだろう。

それにしてもあんな広いアトリエで思い切り絵を描けるのは楽しそうだ。日がな絵を描いて過ごす。と言うのが私の老後の夢なんだけど、叶うといいなあ。

監督:ジュリアン・シュナーベル 出演:ジェフリー・ライト ベニチオ・デル・トロ デニス・ホッパー デヴィッド・ボウイ クリストファー・ウォーケン ウィレム・デフォー ゲイリー・オールドマン コートニー・ラヴ 
1996年アメリカ
ラベル:芸術
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『ダウト〜あるカトリック学校で〜』ジョン・パトリック・シャンリィ

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Doubtdoubt01.jpg

殆ど舞台劇を観ているような(実際そうだったみたいだが)幾人かの台詞のやりとりがとにかく面白い、という作品だった。

メリル・ストリープ演じるアロイシアス校長の帽子の奥にはまりこんでしまったような表情から目が離せなくなる。

しかし一体これはどういう意味を持つ物語なのか。

冒頭、あるカソリックといつも私は書くのだがここではカトリックとなってるからそう書こう。
あるカトリック学校に属するフリン神父の礼拝の言葉を聞くことになるのだがそこで彼は「疑いは確信と同じくらい強力な絆になるのです」と言う。
この言葉はその後彼がはまり込むことになる「疑い」というものを自ら肯定していることになるのだが、この最初の礼拝での彼の一連の説教はどこか奇妙なものを感じさせる。
「ケネディが殺される、という社会的悲劇が人々の心をより強く結び付けた」というのは聞き方によっては随分酷い言い方のように取れてしまうがこれも後から起きる事件をそのまま言い表わしている。「信仰に迷いができた時、あなたは一人ぼっちではない」というのはアロイシアス校長に向かって話しているようでもある。
つまりフリン神父は最初に来るべき自分への「疑い」を「人間のあるべき姿」として推奨しているわけではないか。

そしてアロイシアスは神父の教えに共鳴して彼自身にその答えを求めていく。
フリンは自分で自分に疑いをかけてみせたようなものである。

純粋で従順な若いシスターはアロイシアスの言葉に反応し、またフリンの言葉にも耳を傾けて揺れ動く。
フリン神父から性的な関係を求められてのではないかと疑われる少年ミラーの母親は狭量なアロイシアスの判断に苛立ち「あなたが波風を立てなければ上手くいくのに」と逆に恨まれてしまう。
アロイシアスは何の為に戦っているのか。
最後にアロイシアスが「どうしても疑いを持ってしまったのです」と言って泣き崩れることで物語は終わるがこれが戯曲で演出によって演技が変わるなら「どうしても疑いを持ってしまったのです!!」と毅然とすることもありだろう。
アロイシアスは信仰に導かれ星を目指して進んだが迷ってしまった。フリン神父の言葉を借りるなら「迷った時、あなたは一人ではない」のだ。
アロイシアス自身、見て見ぬふり、ということもできたろうし、大概の人間はそうしてしまうのではないか。彼女の戦いはなんという労苦ばかりでなんの見返りもありはしないのだ。
彼女にすれば単なる力なき一人のシスターが上の位にいる男性である神父と張り合ったのだから。
フリンが本当の本当に何もなかったかは判らない。
教会の中でも男性である神父とシスターとの力関係はどうあるものなのか。
結果がどうなるのか。真実が何なのかは誰にも最初は判らない。
フリン神父の言葉「私が何の罪を犯したか、誰も知らない。そんな孤独こそ不幸だ」
アロイシアスが行ったことは間違いだったのか。
少なくとも彼女はもしかしたら人が無視したかもしれない黒人の少年を無視しなかった。彼が「単なる黒人の子」でなく悩みを持つ一人の少年と把握した。
見て見ぬふりの無視ではなく「疑いを持つことで絆は深まる」というフリン神父の言葉は彼女によって遂行されたのではないだろうか。

なんだか物語の台詞や行動の一つ一つに意味があるようでしっかり観てないとせっかくのヒントを失ってしまいそうなほど示唆に満ちてる作品なのだ。
ミサに行く前(帰る時だったかな)の夫婦が「あなたパンを買ってきて。私は朝食の用意をするから」「いや僕が用意をするよ」「今までしたこともないのに」なんていう会話も何だか意味がありそうだ。

本作は確か一応アカデミー賞ノミネートに一枚噛んでたと思うがさすがに渋すぎたのか。ぱっと見て判る、というより次第にじわじわくるタイプの作品なのだ。
それにしても作品中、話が入り込んでくると電話が鳴ったり、電球が切れたり、雷が鳴ったりして邪魔をする。そういう苛立ちを誘う演出も「疑い」という題材をさらに印象付ける。
私としてはホフマンは絶対怪しいと思うんだが(笑)シスターたちが貧しい食事をしてるのに酒や血の滴る肉をかっ食らい下品な話で盛り上がる神父たち。絶対彼ら男だけのなあなあ意識があると思うんだけどねえ。

監督:ジョン・パトリック・シャンリィ 出演:メリル・ストリープ
フィリップ・シーモア・ホフマン エイミー・アダムス ヴィオラ・デイヴィス
2008年アメリカ
ラベル:宗教
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2009年08月18日

『FAKE ID フェイク アイディー』ギル・D・レイエス 

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FAKE ID

なんかうろついてたら偶然見つけたこの映画。どうせ変な代物だろうとおっかなびっくり観始めたんだが、これがとんでもなくキュートな作品だった!しかも最高におかしくて笑いっぱなしにしてくれる。(上の画像だけ見るといい男いなさそうだけどまずは観てみて)

変な話と言えば変な話なんだが。演劇関係の大学へ行こうと思ってる仲のいい二人の男子(高校を卒業したばかり、ということななのかな)デイヴィッドとエリック。うっかり大学の入学願書を提出しそこねて宙ぶらりん状態。町にある演劇集団で練習しながらデイヴィッドのおばさんが探してくれてる大学試験の情報を待ち、なんとなくな毎日を過ごしている。

二人が所属している劇集団というのが変わってて男性全員がゲイなのだ。ストレートのデイヴィッドはゲイに偏見はない、と言ってわざとふざけてゲイっぽい仕草をして見せたりする。それを見ているエリックは複雑な思い。実は友達には隠していたがエリックもまたゲイなのだった。

この二人が二人とも凄く可愛い。特にストレートだと言うデイヴィッド君のほうがゲイに好かれそうな筋肉質のキュートボーイなんだけど。エリックはもう少し細身で優しげな面立ちのハンサム。
エリックが親友にどうやって自分がゲイなんだとカミングアウトするかという問題から始まり、次いでデヴィッドが親友含め周囲の男たちがゲイばかりの中で自分だってゲイじゃないのか?という焦り(?)から突如ゲイ宣言をして劇団のゲイカップルを驚かすというかあきれさせる。
ゲイらしくしようとしてとんでもない女装をして現れたディヴィッドに「無実の罪で逃亡中なの?」と聞くのがおかしくて転がってしまった。
続いてゲイの二人は初心なディヴィッドにゲイとしてのテストをしてからかって遊び始める。途中入った電話での会話でディヴィッドは二人の悪ふざけだと判り飛び出した。

ディヴィッドが遊ばれている間に彼のおばさんから試験を受けられる大学を見つけたので24時間内に(だったかな)やって来い、という留守電が入る。行方不明のディヴィッドを劇団仲間が探し回る。
初体験の相手を見つけて話し合っていたディヴィッドをもう少しで取り逃がした仲間は帰宅した彼に一芝居打って説得する。
エリックはデイヴィッドとともに入学試験を受けて合格。二人の夢がかなった。

というなんだか他愛もない話なんだけど、観ててすっごく楽しいの。出てくる俳優たちがみんな魅力的だから、というのが理由なんだろうな。
こういうのってわりと出演者がどうしてもそろわなくてがっくり、ってことが多いから。ってことはこういうゲイムービーでも出演することに以前ほど抵抗がなくなってきたってことか。
しかし一体このDVDってなんなんだろう。
アメリカで結構こういうタイプの映画はたくさんあるけど日本公開はされなくてDVDだけ出たという奴なんだろうけどなあ。
映画自体もかなりフィルムの質が悪そうで^^;低予算なのだろうと思えるけど。
とにかく私的に凄く好きなタイプの男性ばかり登場してくれて嬉しい。二人の主人公も可愛いけどエリックといい仲になるブレントンもかっこいいしマックスも素敵(初め彼がベン・アフレックに見えた^^;)
よく判らん存在のドラァグクイーン・キャリー・ジョー。やたら目立ってるけど案外存在理由がないのがまた変(笑)

それにしても楽しかったなあ。こういう映画のDVDあちこち隠れているのかしらん。突然見つけるんだもんな。探索しなきゃ。

監督:ギル・D・レイエス 出演:ステュアート・ペレルミューター ジェイソン・C・デッカー ブライアン・グリゴル マーク・フィッシャー ミシェル・シリル・クレイトン ニーナ・バーンズ
2004年アメリカ




この映画DVDはDISCASにはなくて、DMMで借りました→ここ
誰も借りないみたいなのですぐレンタルできました(笑)
ラベル:同性愛
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2009年08月17日

『モ'・ベター・ブルース』スパイク・リー

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Mo' Better Blues

デンゼル・ワシントン&スパイク・リー作品で『マルコムX』よりこちらの方がもっと前のものだったのだね。
といっても35歳くらいの時撮っているわけで、ええっそうか、もっと若い頃だと思ってた昨日も。
とにかくハンサム&素晴らしくかっこいい体。いかにもサービス的に見せつけてくれてるので見惚れてしまうではないか。やばいなあ。
ブラックミュージックといえばR&B、ヒップホップという現在、ジャズっていうのは特にアメリカご当地では過去の遺物になってるんだろうか。本作でも主人公ブリークが「日本人もドイツ人もやってくるが黒人は来ない」って言うのがあってジャズはもうアメリカでは流行らなくて楽しんでるのは日本人とヨーロッパ人というのを聞いたのがすでに遠い昔のこと。まあ今ではもう日本でもジャズって言葉も聞かないようで殆どクラシックの世界なのかもしれないのか。
私自身ジャズを知ってるわけでもないが、なんだかほら夜の匂いがするかっこいいイメージではないか。酒と煙草と大人の雰囲気なのである。やや危険な空気も含まれていて。

というのでこの映画もそういう妖しく危ない世界なのかと思っていたら、案外健全で前向きなスタンスの作品なのだった。うーむ、確かに品行方正な顔立ちのデンゼルでは悪魔的ミュージシャンにはならないか。
毎日規則正しくトランペットの練習をし、父親思いで友達思い、二人の女と付き合っていることだけは欠点だがなんだか悪な匂いがないのだよね。その辺はまだしもサックスのシャドウのほうがいい感じなのかも。
とはいえさすがにデンゼルの熱演は素晴らしく暫しジャズの世界に浸れたのだった。

物語も辛いことがあるとはいえ、極端なまたは大げさな山場があるということでもなく割と淡々と進んでいく。デンゼル演じるブリークが二人の女性とジャズ仲間を相手になんやかやと議論し合うのを楽しんで観る作品のようだ。
彼は長年の友人であるジャイアント(スパイク・リー監督演じる)を借金問題から救おうとしてヤクザに殴られ唇を切ってトランペットが吹けなくなってしまう。
天秤にかけていた女性たち、クラークは彼から離れシャドウとともに独立して歌手となり活躍する。失意の底にいるブリークはもう一人の恋人インディゴにすがる。最初は怒って追い出そうとしたインディゴだが救いを求め続けるブリークにほだされ結婚して子供を産む。
そしてその子供がまたトランペット奏者になる為に練習を始めるのだ。
よくある、音楽を失った為にぐだぐだに落ちぶれて廃人のようになってしまうとかいうのではなく、建設的に行動するブリークは拍子抜けな気もするが(って破滅を期待しとるのか^^;)人生色んなことがあるけど死なないで通り抜ければなんとかまたなっていくもんだ、てな感じで悪くない。
麻薬なムードを求めたい時の作品ではないが、デンゼルの爽やかな美貌には合っている。
私的にはダークな雰囲気の音楽映画がいいけどね。

監督:スパイク・リー 出演:デンゼル・ワシントン ロビン・ハリス ウェズリー・スナイプス ジョイ・リー ビル・ナン ルーベン・ブラデス ジャンカルロ・エスポジート スパイク・リー ジョイ・リー
1990年 / アメリカ
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2009年08月16日

『イヴの総て』ジョセフ・L.マンキーウィッツ

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ALL ABOUT EVE

『ガラスの仮面』でマヤを蹴落とし自分がまんまとその地位にとって代わる少女の話の元ネタが本作だと何かで知ってずっと観なきゃと思いつつ今になった。
なのでまあ若干ネタばれしてたわけだが彼女が怪しいというのはすぐ匂ってくるのでさほど影響がわるわけではないし、判ってた方が最初からより面白く観れるかもしれない。

それにしても一番最初に彼女が胡散臭いと気づいたのはマーゴの世話役の女性バーディなんだよなあ。なにしろまず彼女が自分の仕事を奪われるからなんだろう。
40歳の大女優マーゴの出待ちを毎日してる若い娘に気付いたカレンは彼女をマーゴの楽屋につれていく。
彼女の熱烈なファンで毎日芝居を観に来ているという娘イヴの純粋で熱心な態度にマーゴと劇作家ロイド、そして彼の妻カレンはすっかり好感を持ってしまう。(だが付き人さんは最初っから疑ってる。この人が一番凄かったわけだ)
マーゴはその日からイヴを自宅に泊めて身の回りの世話をさせていく。献身的な姿に皆が感心するばかり。だが付き人のバーディは彼女がマーゴの一挙一動を見習っていることに不審を抱く。最初は笑っていたマーゴもイブがマーゴの恋人に連絡を入れていることを知ってから次第に懸念を持つようになった。

脚本がとにかく上手くて面白い。大女優と若い女優志願の娘が火花を散らして駆け引きをする、なんていうのは他にもあるかもしれないが本作が面白いのはその他の諸々の設定やエピソードなのだろう。
設定が「二人の女優」ではなく「二人の女優と付き人の女性と劇作家の妻」という4人(あとで5人目が登場するが。6人か)の女性の駆け引きが主体になっている。男たちはその間をうろうろするという感じだが、だからと言って間抜けなのではなくきちんとした役割を持っているのがまた面白い。
まず何と言っても面白いのが女優ではなく劇作家の妻としての役であるカレン。彼女がこの物語の案内人ということなのだろうが、まずイヴに同情しマーゴの短気を怒るがそれは友人としてであって心底はマーゴを好いているのだが途中で変な計画を立ててしまいそのことで追い詰められてしまうという過ちを犯してしまう。劇作家である夫を愛し、マーゴに強い友情を持ついい女性なのだ。
そして気位が高い女優マーゴは人気実力ともに認められているのに40歳を迎えたこともあり演出家で8歳若い恋人ビルが自分から離れていくような怖れを振り切れない。エキセントリックな女優をベティ・デイビスがこれでもかって感じで演じている。まさに、というところ。
そして非常にしとやかな美しさで騙していくのがイヴを演じるアン・バクスター。マンガ『ガラスの仮面』では彼女役は判り易く悪者顔だったが彼女の顔だけを観てたらやはり騙されるだろうなあ。
ところでこの映画で最も分岐点となるのがイヴがマーゴの恋人ビルに言い寄る場面だと思うんだけど、ここって他の映画なら若い美人の彼女に普通落ちるよね。男の性ということで好き嫌いというよりつい一度関係をもってしまうだけっていうこともあるはずなのに本作ではビルが「僕が愛してるのはマーゴなんだ」ときっぱり言うわけでこれは今ならこうはできないかもなあ。それはカレンの夫も同じなんだけど随分固い男たちなのだ。女性としてはこの辺嘘だろうがとても嬉しい展開じゃない?新聞記事を読んでビルがマーゴを慰めに飛んでくるとこもそうそうこんないい男いないよって感じでよかったねえってマーゴに言ってやりたくなるじゃないか。
(というかうまい脚本だけどここと冒頭皆がやたらイヴを信頼してしまう場面はちょっとだけ「?」とならなくもない。でも許す!)
 
イヴの本性が段々見えてきて騙されていた4人ともすっかり判ってくると却って彼らの仲は前より強く結ばれていくのがおかしい。特にマーゴとビルはこれで結婚することになったんだから逆によかったのか?
そして彼ら以外の人々が(新聞記者マックスは別として)彼女の演技に拍手を送り騙されている中でイヴが受賞した感謝の言葉を述べるのを4人(とマックス)だけがしら〜と聞いているのも楽しい。

まったく意味合いもテーマも違うのだが、どこか昨日観た『マルコム]』と重なるものを感じるがマルコムが自分の犯した間違いに気づいていくのと違いイヴはますますこの道を歩んでいくわけだ。
第5の女性というのはハリウッドから来た女優役の(なんと!)マリリン・モンローで、そのままの役みたいな新進若手女優という役で美貌と愛嬌をふりまくのだが、ちらりと出るだけなのにまるでとろけてしまいそうな色っぽさ。同じ若手女優でもイヴとは全然違うイメージなのだ。そして第6の女性が最後に登場する女子高校生。すっかりスターになったイヴの留守中の部屋に忍び込み、怒って電話しようとするイヴに言い訳をする。イヴのことを思い返せばどこまでが真実か嘘か判らない、という落ちで実際ぬけぬけと嘘をついてみせるのだ。
こっそりと見えない場所でイヴが着ていた華やかなローヴを身にまとい彼女が受けたトロフィーを掲げた姿が三面鏡に無数に映し出されこういう出来事が果てしなく続くことを暗示している。

上にあげた点だとか他にも作りすぎな感もあるがそれでもなかなかおもしろかった。特に関係が破壊されたとかいうのではないから気軽に観れるかもしれない。

監督:ジョセフ・L.マンキーウィッツ  出演:ベティ・デイビス アン・バクスター ジョージ・サンダース マリリン モンロー ゲイリー・メリル
1950年アメリカ

『ガラスの仮面』ではマヤが乙部のりえに踏みにじられてしまうのだが、それを怒ったあゆみさんが芝居で彼女を叩きのめす、という爽快なやっつけ方をする。この話が凄く好きで、あゆみさんってなんて素敵なの〜となってしまう私だった。かっこいい。

ラベル:サスペンス
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『マルコム]』スパイク・リー

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MALCOLM X

この作品も早く観ねばと思いながら今頃やっと観たというものなのだが、やはり早く観るべき映画だった。とんでもなく面白かった。3時間以上の長さというのはやや恐れ入るが一旦観だせばとてもスピーディに進行していくし見せ場が次々と用意され、緩急のバランスも上手く一気に見せてくれる。

「差別問題」「実在の人物」などということで堅苦しく難しい作品かと敬遠していたのもあったのだが、そういう懸念は必要ない非常に引き込まれる楽しさを持った作品だったのはちょっと驚きだったほどだ。
微妙にくすぐり笑い的な表現が仕掛けられていて、特に刑務所で出会うイスラム信者のベインズとのやりとりはどこか滑稽に見えてくるのでこれは何かあるのか?と思っていたらははあやはりそういうことだったのか、と頷ける。
デンゼル・ワシントンがめちゃ若くてハンサムなのも魅力の一つだが実際の彼も負けないほどの二枚目だというのもなるほどだからこそ人々をここまで強く惹きつけたのだろうか。最後の彼への賛辞で「彼を誹謗するものいるが実際の彼の言葉を聞き、彼の笑顔を見たのか。彼自身が何かの暴力を振るったのか」という監督自身の言葉になるのだろうか、そのモノローグにすべて込められている。その気持ちは充分映画作品としてデンゼルの表現として成功している。

マルコム=レッドという青年が恐ろしい痛みを我慢して髪の毛をまっすぐに伸ばしギャングになってしまうところから始まり、刑務所でイスラム信者ベインズから教えを受けてクスリや銃などを遠ざけ、イスラムの指導者イライジャに献身的に尽くしていくエネルギッシュな布教活動を経て、イライジャやベインズが実は敬虔なイスラムとは程遠い存在だったと気づき自らの考えによる団体を作りあげ暗殺されてしまうまでの彼の行動が描かれていく。
マルコムが信奉したイライジャのイスラムの教えが非常な白人排他主義で「アメリカ黒人はアフリカへ戻るべきだ」と説き、女性差別が甚だしいので最初から「こういう考え方の人物を良しとすることはないだろうが」と思っていたらやはりマルコムがそこから離れることになり実際にメッカ巡礼の旅へ赴き、白人のイスラム信者とも交わって祈ることから本来のイスラムには人種差別はない、という考えに至っていく。
まさにこの作品の中で一人の青年が悩み考え辿り着く行程を共に歩むわけで大変判りやすいし、最初から特別に優れた人物だったのではなく手探り状態で葛藤し迷いながら道を見つけ出していく様子は共感できるのではないだろうか。

彼こそは「ニグロ」ではなく「アフロアメリカン」なのだという言葉に、やっとこの言葉の意味が判ったような気がする。

本作で「白人への怒り」の言葉がいかがわしい教団の言葉として激しく発せられるのだが、彼らの偏った表現だとしながら本音をぶちまけているように思える。
マルコムが最後に見つけた自由と平等の社会になる日が本当に早く来て欲しい。キング牧師が語っているように意見の違いを殺人という行為で解決(戦争もまた同じだろう)するようなことがなくなればいい。そう願いたい。
 
監督:スパイク・リー 出演:デンゼル・ワシントン アンジェラ・バセット アル・フリーマンJr. アルバート・ホール デルロイ・リンドー
1992年 / アメリカ
ラベル:人種差別 歴史
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2009年08月11日

『オーケストラの妻たち』アーチー・L・メイヨ

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↑どーでもいい・・・

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↑これは観て欲しい!!!!ニコラスブラザーズ・タップダンス!!
これだけの為に観よう!ここだけでも!



またまた昔のアメリカ映画1942年ものなのだが、これを観たのはレビューで「中に出てくるニコラスブラザーズ”のダンスは必見!」というのがあったので気になって観てみることにしたのだ。
ところが待てど暮らせど出てこない。あれ、なにかの間違いだったのかなあ、と首をかしげながらそれでもまあ意外に作品自体もそれなりに面白かったので止めはせず観続けた。

とある小さな町の世間知らずの娘が大好きなトランペット奏者がいるバンドを見たいばかりに好きでもない男の誘いに乗ってコンサートに行くのだが、一人きりになった隙になんと憧れのビル・アボットからナンパされそのまま結婚してしまう、というとんでもない始まりからさらにそのまま彼のバンド演奏旅行に入り込み、心配するパパには電話連絡だけをして娘コニーはあっという間にオーケストラの妻になってしまうのだった。
そこには同じくバンドメンバーの妻たちが夫とともに演奏旅行をしていた。新婚でうきうきしているコニーとは違い彼女たちは長年の旅行生活にうんざりしている。そして息抜きとばかり新入りのコニーをいじめようと画策する。
コニーの夫ビルは元々メンバーの歌手ジェイミーと恋仲だったのをコニーにばらし、そのためにコニーとビルはとうとう喧嘩してしまう。
その喧嘩のためにバンドが解散となりビルとコニーは離れて暮らすことになってしまった。
さすがアメリカ的、と言っていいのか、ぽんぽんと話が進むし、田舎娘でおとなしいと言ってもかっとなったらすぐ行動で意地悪されてもがんがん言い返すしまあ鬱憤もたまらずはははと観て行くことができる。
本来なら当人がバンドマスターをやっているグレン・ミラーオーケストラに聴き惚れてもいいのだが、えへへそれほどうっとりしてしまうタイプのものではないからなあ。とにかく楽しそうな明るい演奏だ。
コニーとビルは夫婦喧嘩したものの互いに気持ちは離れておらず解散したメンバーに偽の電報を打って一堂に集めるというコニーの策略(というか多分パパが考えてくれたようだ)がまんまと成功してバンドは元通り。怒っていたビルもコニーの大切さを思い知って二人も仲直り、というハッピーエンドであった。
さて気になっていたニコラスブラザーズ”だが彼らは黒人だというのに物語中まったくもって白人しか出てこない。うーむ、昔のアメリカってホントにそういう世界なのだよね。
そしてホントにラストもラスト。もう数分と言うくらいで、復活したビルたちのオーケストラがとあるダンスホールでの演奏で「カラマズー」という歌の後、いきなりなんの前触れもなくいきなり小さな出口のカーテンの向こうから二人の黒人ダンサーが飛び出してきてタップダンスを披露するのだ。「カラマズー」の歌も歌いながら。
私は恥ずかしながら「ニコラスブラザーズ」という名前すら知っていなくて(観てるのにこういうこと書いてたらもっと恥ずかしいが)これで多分初めて観たのだがあまりのタップの切れの凄さに息を飲んでしまった。
一体これって何の為の映画だったのか。
それまでの白人の演奏やらごちゃごちゃしたコメディが彼らのタップで全部吹き飛んでしまった。僅か数分のダンス。
僅か数分を彼らはこれでもかと見せつけるようにタップし、柱に駆け上がってバック転し踊って踊ってすべてをふいにしてしまった。
「タップで殺せ」というキャッチフレーズがなかったか。
とにかく彼らのダンスがそれまでのどうでもいいような映画を全部消してしまった。
何故この映画は彼らの映画じゃなかったんだろう。
どうでもいい白人たちのしょうもないゴシップや恋愛話を延々とやるくらいなら彼らのダンスの物語をして欲しかった。
ずーっと90分無駄話で引き延ばし、何故最後の最後に何の関係もなく彼らのダンスを入れたんだろう。
まったくまーったく脈絡がない。
この映画は最後の数分を観る為にある。何の関係もないのでいきなり観たっていい。
この監督、この数分を残す為にこの他愛ないコメディ映画を作った、ってことはないんだろうか。
彼らの数分のダンスがそれまでの白人たちののほほんとした音楽と比べ凄まじいほどのエネルギーを感じてしまうのだけど。顔は笑ってるし、すっごく楽しげなんだけどね。彼らのターンやタップやジャンプの恐ろしいほどの切れを観てるとなんだかぐっときてしまうのはどうしてなんだろう。
主人公を吹き消すほどかっこいい、というのは何か意味があるような気がしてしまうんだが。

監督:アーチー・L・メイヨ 出演:(私的には)ニコラスブラザーズ(フェイヤード&ハロルド)ジョージ・モンゴメリー アン・ラザフォード グレン・ミラー リン・バリ キャローレ・ランディス
1942年アメリカ 


この映画ではないけど“ニコラスブラザーズ”凄すぎ。
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2009年08月08日

『私の愛情の対象』ニコラス・ハイトナー

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THE OBJECT OF MY AFFECTION

愛とは何か、セックスとは何か、人生とは生活とは何かというテーマを数人の男女の交わりから描いていくちょっとお洒落な映画、という感じの作品でニコラス・ハイトナー監督でなければ私的には敬遠してしまうジャンルだったりする。
無論この男女はハイトナー監督作品だけあって(と言っていいと思うが)ストレートとゲイが交錯していくのであって、これが単なるストレートだけの物語だったら途中で寝てしまうか、さっさとDVDを取り出していただろうが。
といってもゲイの問題が絡んだといえど人間同士の確執は同じだよ、というのが答えでもあるようだ。
つまりゲイだから悪人でもかいのなら特に善人でもなく、ゲイだから馬鹿なのでもないように逆に神のように特別な答えが出るのでもなく皆同じように悩み苦しみ、間違ったことをしでかしそしてとても素敵なこともやってくれる。(ゲイだからと言って特別に卑下したり、逆に神聖視したりするのではなく)
ごく当たり前の職業で当たり前の人生を生きている、男と女とゲイとストレートの物語である。

無論ゲイとストレートが交流する話になると色んなことがこんがらがってくる。美男美女同士で好き合っているのに完全な友人同士として一生共に暮らせるか、という設定ではほぼ無理なのではと思えてもこれが片方ゲイなら「できるのかな」となってくる。だがストレートである女性にとって好意を持つ男性が自分にこの上なく優しく、理解してくれるのに特別な感情を持たないでいる、というのは次第に困難になってくる。
しかも彼が目の前で男と手を取り合っているのを見せつけられるならルール違反で感情をぶつけたくなってしまうのが正直なものだろう。
橋口亮輔『ハッシュ!』もゲイのカップルと一人の女性の妊娠にまつわる話で非常に面白かったが(正直に比較すれば『ハッシュ!』の方が面白かった気がするがあちらの方が後に作られているので本作が参考になっていることもあるのかもしれない。勝手な想像だが)
本作の主人公二人の言動というのはとても自由でいるようでその実そんなに奔放なわけでもない。ニーナは強がって見せているがやはり一生添い遂げられる唯一無二の存在を求めている。それはゲイのジョージも同じで相手が同性だというだけで彼は浮気な性質ではなく固く結ばれた関係を望んでいる真面目な人間なのである。だからニーナとの生活も彼女と恋人とを同時に愛することはできなかったのだということだろう。
(この辺『ハッシュ!』はできるんじゃない?)という答えを出しているような気もする。女性の考え方一つでかなり変わってくるかもしれない)

悪魔的でも幻想的でもおどろおどろしくもない普通の男女とゲイの恋物語。
ゲイの主人公は小学校の教師。とても教育熱心ないい教師なのであっていかがわしい欲望を子供に持ったりはしない。好青年で確かにこういうゲイでつまり変な下心がなく親切にされたら女性はなんて爽やかなんだろうかと好きになってしまいそう。
ゲイであることに悩むのではなく、ゲイである自分がどう他のゲイでない男女、そしてゲイである男たちと向かい合いコミュニケートしていくか、という物語なのだった。
そしてストレートであるニーナは他の男との子供を妊娠出産しながらゲイである男性を好きになってしまうことでどう解決していくか、という展開だったのだが、ここでの答えは「ゲイの彼とはあくまで子供のおじさんという接し方でやはりストレートの男性と暮らす」ということだった。
これには何らかの反駁がありそうだ。先に書いたように『ハッシュ!』という映画がもう一つ別の答えを出しているし、ニーナ本人が言いだしたことを撤回することにも疑問をもたれそうである。
それでもこの映画のラストも一つの答えであり、ニーナが自分の思ったことに正直に行動して、様々な人々との交流の中で愛する娘を育てていく、という道はとても愛すべきことだと思う。

ジョージの新しい恋人ポールが舞台俳優でその同居人の老人が劇評論家なのだが、ポールが演じている現代的シェイクスピア劇を観て「時代の雰囲気が感じられない」などと批評しているのがおかしく、ベン・ウィショーのハムレットなどもこう言われたりしたのだろうかとつい重ねて考えたりしてしまった。

ヒロイン・ニーナ役のジェニファー・アニストン。TVドラマでちら観する以外では初めてじゃないだろうか。さすが人気のある女優さんだけあってとてもキュートな女性だった。
そんでもって彼女の兄役を演じていたのが、アラン・アルダ。TV版『M*A*S*H』での彼ピアースがめちゃくちゃ大好きだった。彼はその作品の脚本・監督もしている才媛でもあったのだね。かっこよかったなあ。あんな面白いTVドラマっていうのもないよね。

幾つか観てきて。ニコラス・ハイトナー監督作品ってあんまり官能的ではないよね。なんか理屈っぽいというか。なんていうといけないみたいだけど理屈っぽい映画も好きなんだ、わりと。

監督:ニコラス・ハイトナー 出演:ジェニファー・アニストン ポール・ラッド アラン・アルダ ナイジェル・ホーソーン ジョン・パンコウ ティム・デイリー ジョン・パンコウ
1998年アメリカ
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2009年08月07日

『僕の彼女はどこ?』ダグラス・サーク

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HAS ANYBODY SEEN MY GAL?

先日観た『エデンより彼方に』を観てから初めて知ったダグラス・サーク監督。別段観ようとは思ってなかったのだが、レンタル機能も親切なもので「こういう関連作品がありますよ」と出てきた。
1950年代アメリカ映画と言えば『ローマの休日』『エデンの東』『十二人の怒れる男』『欲望という名の電車』など多くの名作は観てきたがトッド・ヘインズが誉めていたダグラス・サーク作品は日本ではあまり知られていないのではないか。ヘインズ監督が勧めるのなら面白いだろう、と観てみることにした。

オープニング。とてもお洒落なイラストから始まって確かにわくわくさせてくれる。そして現れた画面にはヘインズ監督が再現していた可愛らしい家や人々のファッション。明るい色彩。典型的主婦のママと働き者のパパ。美しい姉妹、悪戯っ子の犬、といった具合である。
とはいえそれらを観ながら思い出したのは(昔の)アニメ『トム&ジェリー』と高野文子氏のマンガだったりしたけど。
そしてまるで幽霊でも観たかのように驚いたのがなんてことないドラッグストアの一場面にジェームズ・ディーンが出ていたのだ!信じられず、「物まね?」とすら思ってしまった。とんでもない。時代を考えれば判るはずだが、まだ売れる以前のジミーがワンシーンだけ出演していたのだった。売れる前とはいえ、ほんの数秒のシーンで店の主人に長たらしい名前のアイスクリームを注文して文句を言われる、というだけの出番。全く知らずに観たのでびっくりしたのだが、それでもあの個性的な顔立ちは数秒でも印象的だと思ったのはやはり知っているからなんだろうなあ。
そしてゲイだと発表してエイズで亡くなるという当時衝撃的な報道をされたロック・ハドソンが貧しいが真面目で爽やかな好青年という役を演じている。

さてこの作品。非常に道徳的、教訓的なのではあるがとてもおかしくて軽妙でさらりとしているので嫌味にならず大変楽しんで観ることができた。
老人フルトン氏は唸るほどの大金持ちだがすっかり気も体も落ち込んで寝た切りとなり窓を開けるのさえも嫌がる始末。
彼は長年抱えてきた後悔の念があり、それは若い時愛した女性から振られ離れてしまったこと。彼はその為に一代で財をなし、大金持ちとなったのだが、愛する女性は別の男と結婚しもう孫までいるのだが、彼と再会することもなく死んでしまったのだ。
フルトン氏は突然彼女の家族に「10万ドル」という大金を送ることを決意する。そして医者の勧めで運動がてら彼女の住んでいたその家を訪れてみることにしたのだ。

いきなり金持ちになる側の話、というのはよくあるかもしれない(先日観た『リプリー』もそんな感じだ)金持ちの老人が主人公で気まぐれで大金を送って見るか、という方からの目線というのはあまりないのではないだろうか。
しかもこのじい様、愛する人に振られるだけあってそれほど善人みたいな人ではないし、頑固者なのだがやはり年の功というものはあるのか、なかなかの分別を持っているし、寝たきりだったとは思えないほど(映画だからね^^;)縦横無尽に活躍する。
フルトン氏はジョン・スミスと名乗っていきなり愛する女性の家庭に策を講じてまんまと下宿人になってしまう(さすがアメリカ。家が広い。日本でこのアイディアは無理だ)家の主人は小さなドラッグストアを経営して幸せな一家なのだが、主婦であるママは金持ちを夢見ていて娘を貧乏なBF(ロック・ハドソン)から引き離し町一番の金持ち御曹司とくっつけようと算段している。娘はロックの方が好きなのだがママの剣幕に負けて仕方なく金持ちカールとデートする。妹はおませで元気いっぱいでいかにもアメリカの女の子という感じ。いきなり入り込んできたスミス氏を気にいって仲良くなる。
素性を隠しているフルトン氏のジョン・スミスはそんな一家がとても好きになっていく。
だがそこへフルトン氏が匿名で銀行家に託した小切手10万ドルが一家に届けられたのだ。

幸せだった一家は突然何もかも変ってしまう。上流階級に憧れるママの指図通り家も車も仕事も犬もすべてが上流に変えられる。
娘のミリーは貧乏なBFとの付き合いをやめさせられ、ジョン・スミスは下宿を追い出されてしまうのだ。
10万ドルというお金は一体どのくらいのものなのか判らないがとにかく彼らは一躍貧乏生活(とはとても思えない広くて豪華な家なんだが、とほほ)から上流階級への仲間入り。ママは思い切り贅沢を楽しむが株価暴落でまたあっという間にすべてを失ってしまう。彼らは再び大金が欲しいと銀行家に掛け合うのだ。
闇酒場でミリーを救いだし、賭けごとで弟を救いだしたジョン・スミスのフルトン氏が最後に出した答えは・・・「10万ドルをあっという間に使ってしまったのならまた渡してもすぐなくなってしまうでしょう。もうお金は上げられません」というものだった。
一家は豪邸を引き払い元の家、元の小さなドラッグストアに戻ったのだ。
そしてミリーはBFと仲直りし、すべては元通りとなった。

最後に種明かしがあるのかと思ったらフルトン氏は何も明かさず去って行った。金持ちが幸せとは限らん、という言葉を残して。

禁酒法の時代なのである。家の中で酒を飲むシーンがあるのだが、「逮捕されるわ」と言って慌ててカーテンを閉め、ちょうどドアをノックされ警察かと怯えるという社会なのだ。賭博も禁止なのだが、その両方の件でスミス氏が逮捕されるという展開がおかしい。
ミリーがBFに振られたと言ってスミス氏にしがみついて泣いてると傍のご婦人が「ふしだらな」と言って早速両親に言いつける、といった次第である。この辺の映画ではよくされる設定のような気がするが妹のロベルタが明るくて作品を軽やかにする効果を出している。
金持ちに憧れるママはちょっと行き過ぎの気もするが彼女とリプリーは同じ穴のムジナなわけで人間の欲望を端的に表わしてみせている。

やや偏屈な金持ちじい様役のチャールズ・コバーンがとてもいい味で、さすが一代で財を成しただけあってギャンブルも凄腕でてきぱきと手際がいい。今だったら瓜二つの孫娘に恋情を持つような表現もあるかもしれないがそれが先に書いた「仲を疑われる」場面で彼はきっぱりと「娘を思う気持ちしかない」と言うわけなんだろう。

まあ、元の生活がどん底ってわけじゃなく、私の目から見たらとんでもなく裕福な家にしか見えないのだが、あんな馬鹿げた上流階級もどきみたいな集まりより元の生活が(あの水準なら)絶対いいに決まっている。でも10万ドルくれるっていうならもらうけど^^;(今の金額でも凄いよね)

ダグラス・サークの作品としてこの作品がどのくらいの位置なのか、初めてなので判らないが、とにかく思った以上に面白い作品だった。
どのくらい描写が正確なのか、ずれているのか、大げさなのか、よく掴めてはいないのだけどね。

本作の可憐なヒロイン・ミリーを演じたのがローリー・パイパー。実に私と言うのは役者の名前を把握していないのだが、この愛らしい少女はどなた?と検索してがーん!!なんと『ツイン・ピークス』のあの意地悪女キャサリンではないか。
可哀そうな香港女性ジョシー・パッカードを苛めぬくキャサリンを演じたのが彼女だったのだ。ぎゃああ。年月というのは無慈悲なもの・・・いや役者としてはこちらがいいのかなあ。単なる清純なだけの美少女より海千の悪女のほうが魅力的というものか。そういえば確かに意地悪なのにやたらともてる役だった。この昔のイメージがあればそうなるのかもしれん。

監督:ダグラス・サーク 出演:パイパー・ローリー ロック・ハドソン チャールズ・コバーン ジジ・ペルー リン・バリ ジジ・ペロー
1952年アメリカ
ラベル:家族
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2009年08月05日

『カリギュラ』ティント・ブラス ジャンカルロ・ルイ ボブ・グッチョーネ

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CALIGULA

公開当時、アメリカの雑誌『ペントハウス』が製作したということで内容の際どさが話題になったのは覚えているが多分観てない、かな。
あまりいい評価も聞かないようなので観るのもためらわれたが、マルコムを観たいので嫌なら途中で止めればいいやと思い鑑賞。観だしたら結構面白くてかなり長いのに最後まで観終えてしまった。

確かにこれは「ハードコアポルノ」だと言われるだけのことはあって、際限なくポルノシーン、ただもう裸体の男女、男男、女女の絡みやら単に立ってるのやらが物語の進行中あちこちで登場してくる。どうやら主演俳優たちとポルノシーンは別撮りで騙されて出演させられた、ということらしいが自分としてはそれほど怒りまくるほどの低俗なものでもないように思える。
なにせ主要出演俳優がカリギュラはマルコム・マクダウェル、そのお祖父ちゃん皇帝にピーター・オトゥール、家臣にジョン・ギールグッド、カリギュラの正妃にヘレン・ミレン、と何故かイタリア人じゃなくイギリスの錚々たる俳優陣で固められているので壮麗な舞台劇でも観てるかのような重厚さがあるし(アメリカ俳優を選ばなかったのが偉いね。脇はイタリア系が多いみたい)その重い部分とポルノシーンが手際よく見事に層を成していて緩急の配分の上手さで長丁場も耐えきれるのだろう(ポルノシーンを耐えてるような気もするが)そのポルノシーンもアメリカ映画であるにも関わらず男女だけでなく(割合としてはそれが多いが)女女は勿論、男男の口淫も映されているからなかなか本格的だと言っていいのではないだろうか。
それにしても口淫シーンが多い。
そういえばこのDVDは『ヘア解禁版』となってるがあくまでヘアであって性器にはモザイクがかかっている。そこまでするか。
(ちょっと前、ガエル・ガルシア・ベルナルのインタビューで「日本では僕のものが変な風に映ってるんだ。見せちゃいけないんだよ」とか言って大笑いしてるのが恥ずかしくて(ガエルが正しい!)もう今の時代、いい加減にしろよ、と言いたくなる)
とは言え、当時は映画館で大きなボカシが入っていた為、ポルノシーンはクローズアップばかりだから画面全部ボカシで何がなんだかわからなかっただろう。かなりカットもされたようだし。
 
まあいいや。
とにかく、マルコムのカリギュラなんてまさにはまり役なわけで若くて綺麗なマルコムをずーっと観れてとても楽しかった。男女ともに好きでしかも実の妹を一番心体共に愛していて青い目がもういっちゃってるカリギュラのマルコムは素晴らしく魅力的だった。
ところで私は小栗旬を観る度にマルコム・マクダウェルに似てるなあと思ってたんだけど小栗も『カリギュラ』やってたんだよね。あれってやっぱりマルコムに似てるって蜷川氏が思ったのか?彼のも観てみたい。
いっちゃってる目のピーター・オトゥールお祖父ちゃん皇帝もよろしいし、ギールグッド氏は言うことなし。ヘレン・ミレンのカエソニアなんて「ローマ一のふしだらな女」という役なんだけど迫力ある。

そして映画はエロだけでなくグロもかなり強烈で今現在このような映画を製作することはできるんだろうか、とさえ思えてくる。しかもこの大作の規模で。

エログロを楽しむもよし、でもエログロ苦手でも何とかそこは凌いで主要俳優の素晴らしい演技だけに集中するもよし。
私は一般の評価ほど悪くないとても楽しめる歴史劇だと思えたのだが。
マルコム・マクダウェルはやっぱり素敵だった。

監督:ティント・ブラス ジャンカルロ・ルイ ボブ・グッチョーネ 出演:マルコム・マクダウェル ピーター・オトゥール ジョン・ギールグッド ヘレン・ミレン テレサ・アン・サヴォイ
1980年アメリカ

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2009年07月31日

『センターステージ』ニコラス・ハイトナー

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CENTER STAGE

物語自体はこういうダンサーを夢見る学生たちの群像劇によくあるタイプのもので芸術的とかではなくむしろ他愛もないといっていものかもしれないのだが、何故だかとてもすっかり楽しんで観てしまった。
それは登場人物が皆完璧ではなく、しかもとても愛すべき性格を持っていたからなんだろうか。
冒頭、ダンサーたちがトウシューズを傷めつけたりするのが私みたいなミーハーファンは憧れだったりする。傷だらけの足指を保護したり、シューズを自分の足に合うように工夫したり底をひっかいたりあげくは焼いたりはがしたり。そうやって履くとまるで妖精のようにつま先で立つあの美しいシルエットライン。うっとりとしてしまうではないか。

主人公・ジョディは可愛いけど脚の形が悪く(自分としてはどこが?って感じだが^^;)バレエの基本動作である脚を開くことができないという致命傷を持っている。おやおやどこかで聞いたような設定だがやはりこういう欠陥(あくまでバレリーナとして!)を持った主人公というのは観る者の共感を呼ぶのだ。憧れのバレエ学校「ABA」のオーディションに合格したものの常に体型と動きを注意されっぱなしで落ち込んでしまう^^;影練をすれば足は血まみれ豆だらけになってしまうのだ。
そんなジョディを励ましてくれるのがプエルトリコ少女のエヴァ。気が強すぎていつも教師には睨まれ誰とでも衝突しっぱなし。そんなエヴァの口の悪さは自分を固くガードする為の強がりだったのだが。
もうエヴァが可愛くてねえ。ジョディよりやっぱりエヴァでしょ。ダンサーとしては理想的な細さと手足(って書くけど腕脚だよね)の長さ。もっとエヴァを見たかったなあ。
つまりこれって山岸凉子『テレプシコーラ』で言えば六花ちゃんと空美ちゃんみたいだもんね。漫画では反目してるが、っていうか空美が勝手に。

夢に観たバレエ学校の厳しさ、上手くなれないジレンマ、世界一のダンサーの恋人になれたと思ったら彼にとっては遊びだったショック。ジョディはつまづいては踏ん張り突き落とされては這い上がり泣いたり傷ついたりしながら自分の中のダンサーの才能を見つけ出し成長していく。
スタンダードではあるだろうが、ダンスシーンがたっぷり間間に盛り込まれとても判り易く楽しめるバレエ映画なのではないだろうか。
多分きちんとバレエができる人、そして本物のダンサーたちも多く参加しているのが飽きさせず、堪能させてくれる。
最後にきちっとワークショップで成果を見せてくれるのも嬉しいし、なによりバレエの練習風景が好きな自分には物語とダンスシーン、練習シーンがこんなに上手く混ぜ込まれているのは何より御馳走なのである。
ハンサムな世界一ダンサー・クーパーも完璧じゃないのも却ってよかった。クーパーを演じているのは実際にプリンシルダンサーのイーサン・スティーフェル。そして彼とジョディをとりあう優等生チャーリーはサシャ・ラデツキー。さすがにこの二人の役は本物じゃないと無理だろう。二人がバレエで競いあう場面で、カメラがぐーっと後ろに引くのが突然他のカメラ位置と違っておかしい。物凄く飛ぶので最初っから引いとかないとね。
 
最初いがみ合っていたモーリーンとエヴァが仲良くなるのもお決まりで嬉しいが、私なんかモーリーンは勿体ない。やっぱ少しだけ休んで気が収まったらもう一度やり直したがいいよーなんておせっかいに思ってしまうのだが。

極端なドロドロシーンだとか、腹の立つような出来事もなく大怪我で再起不能なんてこともなかったのでとても気持ちよく観終えることができた。「ドラッグ」だとかも出てこないし。
大人の雰囲気を求める人には向かないかもしれないが爽やかな若者たちのひたむきさに(とそれを愛しているのだろう監督の思い入れにも)暫し見入ってしまった。愛すべき作品である。

監督:ニコラス・ハイトナー 出演:アマンダ・シェル、ゾーイ・ザルダナ、スーザン・メイ・プラット、イーサン・スティーフェル、サシャ・ラデツキー、イリア・クリック、シャキーム・エヴァンズ、ピーター・ギャラガー
2000年アメリカ
ラベル:バレエ 青春
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2009年07月30日

『エデンより彼方に』トッド・ヘインズ

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Far from Heaven

アメリカ50年代の物語をいかにも50年代の映画であるかのように作り上げ、しかしその内容は当時とても描けなかった問題であり、こういう作品ができていたら、いやとても公開はできなかっただろう、という作品である。ということかな。

本作の題材はもう言い尽くされた感もあるだろうから、そういう意味では目新しくはないのだろうが、ではその問題がすべて解決しているのかと言えば決してそうではないはずだ。
ここでは同性愛、人種差別そして女性の地位という問題も扱われている。
遠い海の向こうから見ていてもとても黒人問題が少しでもよくなったかのようには思えない、などというと今の大統領は?となるのだろうが彼を見ていてもとても安定しているとは思えないし、むしろ絶えず人種問題で揺さぶられている、白人大統領なら考えられないいつ転げ落ちるか判らない針の先に立っているように見えてしまう。

キャシー・ウィテカー一家は1950年代アメリカ社会でまさに理想の家庭なのだろう。美男美女の夫婦、夫は一流企業の重役、妻は専業主婦で夫や子供の世話、黒人のメイドを使って家事を切り盛りし、パーティを開き展示会へ行き、周囲の人々との交流もそつなくこなしている。
映画はそういう50年代ならではの主婦の日常を丹念に映し撮りながらその奥に隠された秘密を暴露していく。
完璧な男性に思えた夫が実は同性愛者であることを妻に隠し続けて暮らしその欲望が抑えきれなくなってしまったこと。
「初めて人を愛したんだ」という夫の言葉は酷過ぎる。
自らゲイであることを告白しているヘインズ監督は妻である女性に自分のセクシャリティを誤魔化して結婚する男に対し、厳しく批判しているように思える。現実のしがらみが追いこんでしまうとはいえ、一人の人間の人生も人格も否定してしまうこの夫のような同性愛者は物語としては面白かろうが実際の話としてはとんでもなく惨たらしいことじゃないか。本作の出来栄えは申し分ない繊細さで描かれていて素晴らしいが、この夫の存在は仕方ないとはいえ腹が立つ。それは『ブロークバックマウンテン』でも描かれていたクローゼットの中のゲイという存在であの作品ではその夫は報いを受ける(愛する人の死を言ってるのではないよ。貧乏生活をさせられていること)が、本作の夫は妻を犠牲にして自分だけ「愛する人(むろん男性)」と暮らすなんてむかつくし、ヘインズ監督がこの夫を嫌っているのは彼が黒人差別者だと言うことからも伝わってくる。自分だけが辛い立場のように見せつけ、黒人や女性というか弱い存在の者には微塵も同情しないのだ。ゲイであることの苦悩ばかりを言いたて、愛していないとはいえ、偽装して結婚し、愛してもいないのに子供まで作ったあげく男性優位を見せつけ暴力をふるうなんていう最低の見下げ果てた男だ、とヘインズ監督徹底的に夫を攻撃している。絶対こいつは俺の仲間じゃない、と断言しているようである。
一方の妻キャシーは続けざまに起こる異常な事態に翻弄されていく。夫の告白、そんな折ふと出会った黒人男性の優しさに彼女は今まで味わったことのない本当の愛情を感じたのだろう。馬鹿夫と違いレイモンドはとことんいい男性に描かれているのも判りやすい。
背が高くたくましくしかも感受性が豊かで知性的、夫のように見せかけじゃなく本当に子供を心から愛し慈しんでいる。真面目で温厚で声が低音で素敵だ(これはいいなあ)寂しいキャシーの心に温かく微笑みかける彼の愛情にキャシーが惹かれてしまうのも無理はない。しかもキャシーはかなり長い間男性にご無沙汰だったに違いない。レイモンドからは男性的な体臭が感じられるようでくらくらしてしまったに違いない!と思うのだよねえ。
50年代アメリカ映画というのがどんなものかよく判らないが白人女性が素敵な黒人男性に心惹かれる、ということだって実際はあってもそれは許されないことで映画でも描ける題材ではなかったのだろう。
ここでも夫は男性とキスし抱擁してもキャシーとレイモンドのキスシーンも抱擁シーンもない。レイモンドが彼女の手にそっと唇をあてるだけなのだ。

さて今のアメリカは随分変わったのだろうか。ゲイムーブメントはかなり盛んになってきてはいるがそれでもなかなか社会的に公認されるのは難しいようだ。黒人問題となると傍から見てるぶんではさほど変わってきてるようには思えない。キャシーとレイモンドが結ばれる、という社会はまだ成立してはいないのではないだろうか。
少なくともこんな馬鹿ゲイ夫だけは消滅して欲しいものだが、実際はまだまだいるのだと思う。

物語はキャシーが二人の子供を車に乗せて去っていく場面で終わる。
彼女はどうなるんだろう。
はっきりとは描かれていないが彼女を支える黒人メイド・シビルが「金曜日はテーブルを磨く日です」と言ってごしごしこすっているのをキャシーが心強く思っていることが彼女の未来は続いていくのだと私は思いたい。善良でどんな時でも自分の信念どおりまっすぐ行動するキャシーを応援したいのだ。

映画を紅葉が美しく彩っているが、白人から黒人、黒人から白人へと色が移っていくことはとても美しいのだと言う願いが込められているように思える。

これで観ることができるトッド・ヘインズ監督作品3つをみたがどれも物語というよりは一つの時代、一人の人物に注目した作品であった。
どれもかなり偏ったところのある映画なので好き嫌いが激しく分かれそうだが私はどれも大好きである。
どの作品も実に繊細に行き届いた作品だと思う。私としては監督がゲイであることを公表されているのでそういう作品を作ってもらえたら嬉しいのだが。期待したい。

監督:トッド・ヘインズ 出演:ジュリアン・ムーア デニス・クエイド デニス・ヘイスバート パトリシア クラークソン ヴィオラ・デイヴィス
2002年 / アメリカ
ラベル:同性愛 人種差別
posted by フェイユイ at 23:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 北米 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『ディア・ハンター』マイケル・チミノ

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THE DEER HUNTER

昔観た時から忘れられない映画の一つである。もうかなり時間が経っての再会だったが、昔観た時以上に心に響く映画だった。
こういう戦争を描いた映画にはどうしても避けられない評価があるが、それは「本当に忠実にリアルに戦った国を対等に描いているか」というもので、映画というものが絶対にその事項を守らねばならないのかよく判らないがもしそういう規則があるのなら、この作品は合格点は望めないだろう。昨日観たチェ・ゲバラの映画もそうだが結局人間は片側に立ってしか物事を語ることはできないのではないか。現実の問題としてはできるだけ向こう側のことを考えるべきだが、物語として両方を対等に描くことが完璧にできるとは言い難いし、もし描いたとしてもそれが本音なのかどうかはまた別のことかもしれない。
この作品は明確にアメリカ人であるマイケルたち若者側からのみ描いた作品であり、嘘くさく敵側に肩入れして描いていない分すっきりと観れるのではないだろうか。

それが判るのはこの物語のタイトルがあくまでも『ディアハンター』だということだろう。
この映画は3時間以上に及ぶ長さだがマイケルたち3人の仲間がベトナム戦争で実際に「戦争」をしている場面はほんのわずかである。後は彼らがべトコンの捕虜になり強制的にロシアンルーレットをやらされる、というエピソードがあまりに強烈な為にベトナム戦争もの、だというイメージが強く残ることになってしまうのだ。
物語の前3分の1はペンシルバニアの田舎町に住むロシア系住民のマイケルたちの生活風景特に仲間の一人スティーヴンの結婚式の映像である。
彼らは白人とはいえ、裕福な生活だとは言い難い。男たちは過酷な工場労働に従事し、ヒロインであるリンダはスーパーマーケット勤務で住居も生活も豊かには見えない。そんな生活の中で男たちの楽しみは山に入っての鹿狩りである。彼らは鹿を撃ち殺すことで自分たちの価値感と充実感を何とか満たしていたのかもしれない。
じきにベトナム戦争へ赴くことになるマイケルたち仲間は殆ど家族のよな関係に思える。マイケルがしっかり者の長男で後は色んな性格の弟たち。マイケル(ロバート・デ・ニーロ)が一番信頼し気に入りなのがニック(クリストファー・ウォーケン)だ。マイケルは他の頼りない仲間と違う強い絆をニックに感じており、ニックもマイケルを心から信頼しきっている。
スティーブンの結婚式は盛大だがそれは日本のもののような金がかりのものではなく近所の住人が手作りで仕上げ、皆で騒ぎまくる、という類のものだ。馬鹿騒ぎをすることはあっても彼らは実直に貧しい暮らしを生きているのである。

そんな彼らが次の場面でこの世とは思えないほど恐ろしいベトナムの戦地にいる。彼らアメリカ兵はベトナムの人々を焼き殺していく。
そしてマイケルたちは捕虜になりべトコン達の賭けごとの為に「ロシアンルーレット」(ピストルに弾を一つ込めてシリンダーを回し自らのこめかみにあてて撃つ)をやらされる。
この行為が本当にあったかどうかをまた問題にする人もいるだろう。私はそれはどちらでもいいのではないかと思う。
このゲームはロシア系アメリカ人であるマイケルたちにとっての「ベトナム戦争」そのものの比喩だと思うからだ。(マイケルたちの祖国になるソ連(ロシア)が北ベトナム側だという皮肉、ロシアンルーレットで命を脅かされるという皮肉)
自国での戦争ではないのに他の国の戦争に介入するアメリカ兵の一員であり、またロシア系でもあるというマイケルたちにとってベトナム戦争はくるりとシリンダーを回して銃口を自分の頭にあてることと同じなのだ。運がよければ生きて帰れるし、運がなければ負傷または死ぬことになる。また生きていても心の傷は癒されることはないのだ。
マイケルたち3人のスティーブンは体と心を損傷しニックは精神を蝕まれ死亡し、マイケルは肉体的損傷は少なくてももう心の傷が癒えることはないだろう。
マイケルが持ち帰ったのは勲章のついた軍服のみで彼は今までどおり小さな家で貧しく真面目に生きていくだけなのだ。
ささやかだが彼らにも夢があり希望があった。愛する女性がいて幸せな家庭を築く、それだけのこと。
その小さな夢さえも戦争の体験がすべて破壊してしまったのだ。

マイケルはもう鹿を撃つこともできない。銃口を向けられる恐怖、痛みを知ってしまった。
鹿はただの獲物ではなく、自由と生を求めている生き物だと認識してしまったのだ。
彼はニックを救えなかったことを悔い続けるのだろう。
ニックが助けを求めている時、彼はそれに気づかなかった。ロシアンルーレットの店でニックを見つけた時、何故捕まえきれなかったのか。
彼の心にほんの少しでもリンダを争う気持ちがありはしなかったか。
最後にニックを見つけた時、彼を殴って気を失わせてでもどうにかしてさらえなかったのか。マイケルは悔やみ続けるのだ。

ニックと同じようにマイケルもリンダを愛していたが二人の気持ちは揺れ動きどうなったとしても悲しみを忘れてしまうことはできない。

「この杯から一滴もこぼさず飲めば幸せになる」花嫁の胸にワインはこぼれた。
その予言どおり幸せは訪れなかった。

アメリカの中のごく小さな存在でしかないマイケルたち仲間。そんな彼らからごく小さな幸せを奪ったのは他国での戦争。そしてそれから生まれた狂気。
それらが彼らにとって大切な人を奪っていた。

ニックに乾杯、の言葉の後、映像のニックの笑顔がたまらなく悲しい。

この映画でのロバート・デ・ニーロのなんというかっこよさ。超人的な強さを持ちながらそれでも二人の仲間を無事に救うことはできなかった。そして一見タフな彼もまた心に傷を負ったまま生きていくことになる。
この作品で最も印象に残るのがニックのクリストファー・ウォーケンだろう。マイケルを兄のように慕っていたのにその彼のことすら忘れてしまい、ひたすら狂気じみたロシアンルーレットの賭けの対照となって生きていく。最後記憶喪失となって銃口を自分に向けるニックは透き通るような美しさなのだ。何故彼を救えなかったのか、何故、何故。
戦争さえなければ、としか考えられない。
ウォーケンもいいのだが、もう一人繊細な感受性を持つ青年スティーブンのジョン・サベージも好きなのだ。『ヘアー』でのイメージとあまり変わらない純真で少し神経質な表情。
もう一人、嫌な役だが強烈なのがスタン役のジョン・カザール。一々気に触る言動。常にピストルを持っているのが彼の心の弱さを露呈している。こんなにむかつく役をやれると言うのが凄い。
マイケルとニックから好意を持たれるヒロイン・リンダにメリル・ストリープ。この時の彼女の美しさは見惚れるばかり。

寂しく重々しい雰囲気が作品を覆っている。ロシアンルーレットの場面は知っていても恐ろしい。
戦争は人間を狂気に導いてしまうのだ。

監督:マイケル・チミノ 出演:ロバート・デ・ニーロ クリストファー・ウォーケン ジョン・サベージ メリル・ストリープ ジョージ・ズンザ シャーリー・ストーラー ルターニャ・アルダ ジョン・カザール
1978年 / アメリカ
ラベル:友情 狂気 戦争
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2009年07月24日

『その土曜日、7時58分』 シドニー・ルメット

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BEFORE THE DEVIL KNOWS YOU'RE DEAD

昨日に引き続き祟られたのか周囲がばたばたの中で観る羽目になったのだが、これは久しぶりに計算された脚本でとても面白かった。
物語自体は面白い、なんていう代物じゃなくどーんと重いのだがあまりに構成に凝り過ぎているのでサスペンスの方が効いていてとても楽しい作品、に思えてしまうのだが、多分それを狙っていると思われるので家族内の亀裂・苦悩が計算づくの物語に苦味をくわえてさらに深めてくれているようだ。

時間軸が前後するのはもうよくある手段だがそれが少しずつ台詞や状況を隠したり見せたりしていくのがとても上手くそうだったのかと感心しきり、最近ないほどはらはらどきどきしてしまった。
というのも役者陣の上手さが引き出しているのだろう。
兄・アンディのフィリップ・シーモア・ホフマンは言わずもがなだが弟ハンクのイーサン・ホークの情けなさっぷりがこちらまで伝染してきてたまらなく怖い。
金に困った兄弟が企んだのはドでかい強盗ではなく、自分たちの両親が経営する宝石店の強盗。店には保険金が降りるし、誰も死なず怪我もしない、はずだったのだが。
兄アンディは裕福そうだがドラッグにはまり会社の金を使い込んでいる。弟ハンクは離婚していて養育費を払うのもままならない。
そんな大した理由でもない。兄の計画に弟は最初脅えるが些細な見栄から犯罪を決意してしまう。
何事もなく終わるはずの計画が次々と殺人を引き起こしていく。

何故アンディがこんな馬鹿な計画を考えたのか。長男である彼は宝石店を経営する父親に愛されずずっと冷たくされていた。アンディが「あんたが弟を好きなのはあいつの方が外見が可愛いからだ」というのが悲しい。ホフマンが言うとなんだかおかしくも思えるが家族内の愛情のすれ違いというのはこういうしょうもないことなんだろう。
結構いい地位につくまで頑張った兄よりふがいない弟の方が可愛いのだ。それは容姿がハンサムだから。可哀そうに。
妻もまたそんなハンクと浮気をしていた。アンディはもう怒る気力もない。

アンディがドラッグを楽しむのがあるマンションの一室。華奢なゲイボーイ風の男から注射をして憂さ晴らしをするのだが。
犯罪の尻拭いのために金が必要となり襲ったのがその男の部屋。
アンディが押し入った部屋のベッドで寝ていたのがまるでアンディそっくりの太った男だったのがとても奇妙な感覚でまるで自分で自分を撃つかのような光景だった。

「死んだこと悪魔にが気づかれないうちに天国につきますように」
ぞくぞくする言葉である。


確かにイーサン・ホーク可愛かった。びくびくおたおた、あの後どうなったんだろう。

監督:シドニー・ルメット 出演:フィリップ・シーモア・ホフマン イーサン・ホーク マリサ・トメイ アルバート・フィニー
2007年アメリカ
ラベル:犯罪 家族
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『タイタス』ジュリー・テイモア

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Titus

ジュリー・テイモア監督。『フリーダ』と『アクロス・ザ・ユニバース』を観て一気にファンになったくせにもう一つレンタルできる本作を放りぱなしにしてたら、ベン・ウィショー出演『テンペスト』も同監督だと気づいて慌てて鑑賞。
なのに折悪しく気になることがちとあって申し訳ないのだがながら観になってしまった。

なのであまり今回詳しく書けないのだがどうせ難しそうな内容だったのでどちらにしてもあまり書けなかったかもしれない。
しっかしこれ、悪いんですけどなんだかデレク・ジャーマン観てるみたいなのである。
歴史物にも拘らず現代のものがじゃんじゃん出てくるんだとか、若者の雰囲気だとか、ジャーマン作品幾つかしか観ていないのでもっと観てればもっと面白い場面に気付いただろうが『カラヴァッジオ』と『エドワードU』の雰囲気がそのまま反映されているようだ。
ただ、ジャーマン作品はもっと徹底して重く暗く静かなのに比べればさすがアメリカ女性だけあって軽く明るく騒がしく出来上がっていてその分観やすい作品になっている。まあ、これを軽くて見やすいと人には言いにくいがデレク・ジャーマンに比すれば。

現代の少年がいきなりあちらの世界へ連れ込まれてしまうのも不思議な感じだが少女のように可愛らしい少年が危ない世界を観て行くことになる。とてもこんな小さな少年に見せられる世界じゃないのだが。

物語自体も復讐だの許すの許さないので人間の残酷性が描かれるが表現もかなり残酷な映像で溢れている。ただ自分的にはそれほど嫌悪感のある残酷じゃなかったので結構観れた。
秀逸なのはやはりラヴィニアが舌と手首を切られてレイプされてしまう、というところだろうな。レイプ場面も切断場面もないが切られた手首に小枝が一杯刺されて奇妙な指のようになっているのが不思議な絵画でも観てるような気持ちになる。
この作品で印象的なのは主人公タイタスのアンソニーよりゴートの女王のジェシカ・ラングとこのラヴィニアの対比。対照的な女性ふたりだがどちらも物凄く印象的である。
この二人の女性に比べると男性たちはいまいち影が薄いようだ。

さて今回の目的はこの作品を観てベンの『テンペスト』を想像することにあるわけなんだが、同じくシェイクスピア作品でもあるし、こういう現代と昔話が混じり合ったものになる可能性もあるし、一度やったことだから次はオーソドックスになものに。もしくはまったく現代的な物語でってこともあるわけで結局どうなるのか想像つかない^^;
テイモア監督はやはり女性が中心となる作品になると思われるし、『テンペスト』は男性であるプロスペローが女性プロスペラになるのだからますます女性的な作品になるのだろうか。
ベン演じるアリエルはプロスペラに助けられそのお返しとして彼女の命令を聞いていく、という設定なのだが、命令で美しい海の精になったり、プロスペラ(あえてもう女性型で書いてるが)に「可愛い奴」って言われたりするのでどんな容姿になるのか楽しみでしかたない。

何だかホントに『タイタス』自体には触れきれなかったが、ますますゲイ的な要素を持つ女性監督だという確信は持ってしまった。

監督:ジュリー・テイモア 出演:アンソニー・ホプキンス ジェシカ・ラング ローラ・フレイザー アラン・カミング ジェームズ・フレイン ジョナサン・リース・マイヤーズ マシュー・リス ハリー・レニックス アンガス・マクファーデン コーム・フィオール コルム・フィオール
1999年 / アメリカ
posted by フェイユイ at 00:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 北米 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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