映画・ドラマ・本などの感想記事は基本的にネタバレです。ご注意を

2009年07月20日

『チェ 28歳の革命』 スティーブン・ソダーバーグ

CHE-poster.jpg
Che: Part One

チェ・ゲバラ。やたらと革命家のアイコンとして男たちのTシャツやら応援団の旗印になってしまう。そのルックスがあまりにカッコよくてよく知らなくても何だか自分まで男前になってしまうように感じさせてくれる男なのである(自分が男だったらね)

そういうんでいっちょどんな奴か見たろかと言うんでこれだけをいきなり観て感動できた人は結構脳細胞が発達してるんじゃなかろうか。やはりこれはある程度予習を必要とする映画なのだと思う。

という自分も偉そうに言える知識を持っているわけでもないのでまあ微々たる在庫のみで話を進めていくのだが。
つまりこの映画は教科書ではないので一々当時のキューバ情勢がどのようなものだったかを説明してくれるのを期待してはいけない。映画というのは一つの物語を描くものであり、ここで描かれるのは無論チェ・ゲバラその人の物語なのである。
書いてるだけで冷や汗だが、そんな話であった。

と言ってもよーく聞いていればきちっとキューバがどういう状況に置かれているのか、ゲバラがどういう人物なのかは説明されているのだけどね。その辺を映画でばーっと言われてすぐ飲み込める人は凄いのではないだろうか。
まずアルゼンチン人であるゲバラが何故キューバ革命の立役者になってるのか、何故最は兵士の怪我の手当てやらに追われているのか、その辺を知りたかったらまずは『モーターサイクルダイアリーズ』を観てみたら凄くよく判る。(などと言わなくともこれの予習でこの映画を観た人はかなりいそうだ)
というか私自身は『モーターサイクルダイアリーズ』を観たからこそ本作を観てるのである。

さて余談が長くなる。
このブログの前の奴『藍空』は映画『藍宇』からタイトルをいただいたんだがこの『藍空放浪記』はタイトルは違うが(漢字が好きなのだ)『モーターサイクルダイアリーズ』がイメージなのである。あの映画を観た時からその物語と南米の大地をバイクで(途中でぽしゃるが)旅する二人の若者(まだ革命家になる前のゲバラと年上の友人)のイメージにぞっこん惚れてしまった私は『放浪』に憧れてしまった。その旅の中でゲバラは自然の脅威を知り、南米の大地のあちこちで圧政と貧困に苦しむ民衆を知る。元々アルゼンチンの裕福な家の育ちであり医学生だった彼は同じような境遇の年上の親友とともに南米をおんぼろバイクで旅する。そして南米の現実を知り、民衆が一部の資産家の圧政に苦しみ貧困から逃れられないことを知る。そしてまた彼らを苦しめるのはアメリカの巨大な資本主義が関わっているのだ。
キューバにおけるバチスタ政権はアメリカ政府と強く結び付きそのことによって民衆は貧困にあえぐことになる。
『モーターサイクルダイアリーズ』で自分の進むべき道を見つけたゲバラがカストロの要請を受けるのは当然の成り行きだったのだろう。
そしてこの先が本作の物語になっている。

映像のほとんどは華々しい銃撃戦などではなくゲバラの人となりを描いたもの、革命というものがかっこいい戦いの場面などは僅かで泥の上で眠る自然との闘い、または居眠りの許されない見張り番、または隊内でのいざこざ、裏切り、一般人への強奪やレイプなど道に外れた行いをする者への処罰など本来の目的とは離れた問題を一つ一つ解決していかねばならないのだ。そしてまた貧困のせいで勉強をしてない者たちへの読み書き算数までゲバラは細かく気を配っていくのだ。
またモノクロームでゲバラのもう一つの面(アメリカとの対話、という枠組みなのだろうか)が描かれる。泥と血にまみれた革命家のゲバラではなく一人の政治家として国際的に発言するゲバラである。
国際会議場で「アメリカは南米に対しまったく非道なことはしていない」と発言するアメリカ人に肩をすくめるゲバラがいる。
そしてインタビューで「革命とは何か」と問われ「愛だ」と答える。
これはかなりあやふやな言葉なのでぽかんとされてしまいそうだ。それこそ彼が何のために誰の為に戦っているのか、何故銃を持つだけでなく読み書き算数が必要だと兵士一人にも心を砕いているのか、どうして喘息の体で過酷な自然の中を歩き続け戦い続けているのか、この映画で説明されていない部分を(あの映画でもいいから)知らなければいけないのだ。

作品の最後で革命に成功した勝利した、と言わんばかりに浮かれて勘違いした男が真っ赤なスポーツカーを政府軍から盗んで走り去ろうとするのをゲバラが見咎め「返して来い」と叱りつける。随分へんてこな場面で第一部が終わっっているのだが、実際ゲバラはなかなか思い通りにはいかなかったようである。彼を知りたくて若干本をかじったりはしたのだが現実に政治や人間を動かすのは難しいものなのだ。彼があまりに勤勉だと煙たがるというのも当地の人間性の問題もあるわけで。
それはやはり人々の気質というものもあり、ゲバラのように(彼は南米人としては珍しいのか?)実直で勤勉な性格の者ばかりではなかったのだろう。
こういう人々をまとめていくのだから頭が痛いがそここそがゲバラの凄さだったのかもしれない。
びしっと厳しいが大らかな優しさも併せ持つ。「革命は人を愛すること」という言葉を彼こそは体現していたのだろう。

チェ・ゲバラを『モーターサイクルダイアリーズ』ではガエル・ガルシア・ベルナルが素晴らしい美貌で魅了してくれた。
本作ではベニチオ・デル・トロ。なるほど小柄なガエルが演じるにはここだけは足りなかった、本当のゲバラはすらりしているでその点は納得である。顔の方はなんといっても本人が他にないほどの二枚目なのでビニチオさんも苦労なされたろう。なかなかイメージ的には近い気がするがとにかく当人がカッコよすぎなので仕方あるまい。私としてはとてもうまく演じられていたと思う。

チェ・ゲバラ、キューバ革命という題材は是非アメリカ人に観てもらいたいものなのだが^^;これは珍しくスペイン語そのままでやってるわけなんだけどアメリカ人だと英語でないと観ないような。アメリカでは吹き替えにするのかな。余計なお世話か。

監督:スティーブン・ソダーバーグ 出演:ベニチオ・デル・トロ、デミアン・ビチル、サンティアゴ・カブレラ、エルビラ・ミンゲス、カタリーナ・サンディノ・モレノ、ロドリゴ・サントロ、ジュリア・オーモンド
2008年スペイン・フランス・アメリカ


ラベル:革命 歴史
posted by フェイユイ at 23:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 北米 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月19日

『シシリアン』マイケル・チミノ

Thesiciliandvd.jpg
THE SICILIAN

この映画、ただストーリーだけを追うのだったり『ゴッドファーザー』の物語の起伏と比較したらば、もしかしたら面白くない、と感じてしまうのかもしれない。だがこの作品の見どころは別のところにあってそこを観るのであれば非常に楽しめる秀作なのではないだろうか。

マイケル・チミノと言えば『ディアハンター』であり悲劇の美学ともいえるような恐ろしいほどの退廃に満ちた映像に陶酔したものである。
本作もやはりそういった悲劇性に酔いしれる男たちの美学に溢れているわけでその気分に浸れるか単なる成功物語を求めるのか、という嗜好性に左右されてしまう。
大まかなストーリーとしてはシチリア生まれのジュリアーノが貧しさにあえぐ農民たちのために義賊となって殺人強盗を犯していくのだが、農民たちは彼が与えようとして命まで犠牲にした土地を望んではいなかった。
ジュリアーノは人々からは尊敬どころか軽蔑の罵声を浴びせられ、愛する女性とは離れることになり、強い友情で結ばれていたはずの親友から撃ち殺される最後を迎えるのだ。
ディレクターズカットのせいでもあるだろうが、物語としてはやや散漫に思われるし、ジュリアーノの行動は最初からあまりに間違った方向を向いているし、とてもうまくいくとは思えない無謀なものである。
それでもあちこちにチミノの美学が煌めいていて思わず見入ってしまうのである。

まずはイタリアンマフィア独特の礼儀作法でもあるキスの儀式にも感じるのだが男たちだけの絆に心惹かれる。
ジュリアーノが説明する「シチリアには3つの輪があり、一つは公爵のような金持ちの輪、もう一つはその金持ちを守って金をもらうマフィア、そして聖職者。だが自分は4つ目の輪になる」と。
義賊となって犯罪を犯してもジュリアーノは敬虔なクリスチャンである。またシチリアを牛耳るドン・マジーノはそんなジュリアーノを息子にしたいと思うほど彼の力に惚れこんでいる。敵対する立場でありながらジュリアーノとドン・マジーノは互いを評価し、ジュリアーノが死んでしまった時(殺してしまったわけだが)のドン・マジーノの落胆は激しい。殺さねばならないがその存在を愛するという男たちにぞくぞくとするのである。
ドン・マジーノはできることなら彼をアメリカに逃がし、自分の配下に置いて可愛がりたかったのだろう。
貴重な男を失った老体たちの嘆く姿が悲しい。

そしてまた退廃的な貴族であり広大な土地を所有する公爵を演じるのがこの映画鑑賞の目的だったテレンス・スタンプである。
昨日観た『プリシラ』よりずっと以前の作品なので彼もまだ随分若い美貌を保っている。
彼を見たいのだったらこのディレクターズカットでないと観れなかったということらしい。
喘息なので小さい時から走ったことがない、という貴族様。妻がジュリアーノと肉体関係を持っても全く意に介さない器の大きさというのか。常にゆったりと余裕を保ち、ジュリアーノたち義賊に誘拐される際も日焼けよけなのか傘を持参する。優雅さと気品を常に崩さない。
テレンス目的の鑑賞としては(公開当時は殆どカットされていたらしいので)満足いく素晴らしい美貌の貴族ぶりであった。

ジュリアーノは彼らと戦い彼らに支配されるシチリアの貧民を救おうと高い理想を持ち、叶わず殺されてしまう。
ラストシーンで死んでしまったジュリアーノのまたがった馬が高く前脚を上げるのはナポレオンをイメージしているのだろうか。それとも作品中彼が語ったアレキサンダー大王に重ねたイメージなのだろうか。
同じ年で広大な土地を占領したアレキサンダーに対し、ジュリアーノは小さなシチリアのさらに僅かな土地すらも手中にできなかったのだが。

マフィアのおじさんたちが一つテーブルについてスパゲッティを啜るシーンはなんとも可愛らしい。

イタリアの物語なのだがジュリアーノのクリストファー・ランバートはフランス系アメリカ人、公爵とマフィアのドン・マジーノはイギリス人が演じているというのも不思議。主要人物が皆外国人だ。

監督:マイケル・チミノ 出演:クリストファー・ランバート テレンス・スタンプ ジョス・アックランド ジョン・タトゥーロ リチャード・バウアー
1987年アメリカ
ラベル:マフィア
posted by フェイユイ at 01:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 北米 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月14日

『イギリスから来た男』スティーブン・ソダーバーグ

pdvd000uv7.png
The Limey

正直言うとそれほど楽しんで観ていたわけでもなく少々退屈しながらの鑑賞だったんだが何と言っても不気味なほどのムショ帰り親父を演じたテレンス・スタンプがなんとか最後まで観させてくれた。

とはいえ最初テレンス・スタンプの今の顔なんて知らないからこの人誰って思ってなんだかデニス・ホッパーみたいなノリの不気味さだ、と思ってたらピーター・フォンダが出てきたんで『イージー・ライダー』?
もしかしたらホッパーを使いたかったのに駄目だったんでテレンス・スタンプになった、てことはないよな、なんて思ってしまった。
が、しかし観て行くうちにテレンスのよさが見えてきてあーやっぱこの人凄いやって見入ってしまったのだった。

一応、ここでの敵役となるピーター・フォンダとの往年のスター競演ということになるんだろうが私はそれほど『イージー・ライダー』に思い入れがあるわけでもないし、今顔を観てもさほど心が動くわけでもない。
かたやテレンス・スタンプと言えば大方の人がそうであるように私も『コレクター』の彼、というイメージだけだったのだが観て行くうちにこちらはこんなに凄みのある役者だったんだ、と改めて思い知らされ今更他の映画も観てればよかったなどと後悔させられてしまった。
『コレクター』では気に入った女性を部屋に監禁し非常に丁寧な態度で彼女の世話をしようとするのがまたう異常性をさらに高めていたのだが、ここでも犯罪者とはいえ奇妙に堅苦しく見えてしまうのはアメリカが舞台で『イギリスから来た男』であるテレンスでなければ出せない異常な雰囲気が立ちこめているからだろうか。
いかにも軽い感じの音楽プロデューサー役のフォンダとはいい対比である。しかし主人公というのは普通太刀打ちできないような相手を倒すからサスペンスが生まれるのにどう見てもテレンスの方が強そうだし怖いし、最後なんか主人公が怖くて敵が逃げ回って隠れてる、っていうのは変な展開だなあ。ピーターのボディガード役の男性がいい年みたいなのに体を張って闘うのが見ものだったが。
なんだか敵と味方のどっちに同情して観ていいのかよく判らないのだが、それをぶち破って見せてしまうくらいテレンスに迫力があったってことなのか。
とにかく彼の他の映画も観てみたくなってしまった。

監督:スティーブン・ソダーバーグ 出演:テレンス・スタンプ レスリー・アン・ウォーレン ピーター・フォンダ ルイス・ガズマン バリー・ニューマン ジョー・ダレッサンドロ ニッキー・カット
1999年 / アメリカ
ラベル:サスペンス
posted by フェイユイ at 22:45| Comment(4) | TrackBack(0) | 北米 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月12日

『ミリオンダラー・ベイビー』クリント・イーストウッド

million_dollar_baby_front_cover.jpg
Million Dollar Baby

これもずっと気になっていたのだが、イーストウッド監督だということと女性ボクサーというのが何やらいかにも感動的な気がして却って観るのに踏み切れないままになっていた。
観てみればやはり非常に判り易く心に伝わってくる作品であった。と同時にやはりどうしてもイーストウッド監督作品と言うのは私には心から愛せない何かがあるのだ。
だがだからと言って多くの人が反感を持ったこの物語の尊厳死に対してはこの作品としては自分は反対できないのだった。

と言うのは変な言い方だろうが、障害を持つことになったマギーが生きる希望をなくし死を選ぶ、ということ、彼女をさせ続けたトレーナー・フランキーがその願いを聞き届けることにどうしても違和感を持ってしまう人たちもいるのだろう。それは様々なケースがあり様々の当事者がいるわけで「生きよう」と考える場合もあり、彼らの場合はマギーが死を選び、フランキーが叶えてあげたのだ、とだけ私は受け止める。そうした状況で選ぶ道は幾つかあるだろうが彼らはそうだった、のだ。
だから彼女はこういう風だったからこうなった、というような説明はいらないだろう。全く同じような人生を送った人でも違う道、例えばフランキーが言っていたように車椅子で学校に通い始める、という人生を切り開いていく人もいるだろう。彼女はこうしたのだ。彼女の置かれた状況を思えば彼女がそのどちらの道を歩むのも頷ける。彼女がフランキーに殺人を依頼することに反発することもあるだろうが、二人のこれまでの繋がりを見てきてマギーはフランキーの「処置をしてくれる能力」に絶対の信頼を覚えてきたわけで彼女が最後の処置を頼みたくなった気持ちも判るのだ。それまで一人で生きてきた彼女が動けないことが死を意味することだとフランキーには理解できた。2度も舌を噛んで自殺しようとし薬で朦朧とした彼女はもうマギーではない、他人がどう思おうとすべて自分が背負っていこうと思ったフランキーに私は反対しない。
というのはこの作品ではそう思ってしまうように様々に巧妙な設定が敷かれているからだ。この作品に限ってはフランキーとマギーの気持ちは共感できるし、そう思えるように作られている。
それでも尚且つ「死を選ぶこと」に反感を持ってしまう人が多くいる、ということはいいことなのだろう。
誰もかれもが簡単に死を選んでいては困ったことになる。

そして私はやはりクリント・イーストウッド映画が「こういう大きな問題提議をすることに意義を見いだされている」ことがどういうものか好きになれないのだ。
私としてはこの作品が彼女が31歳で下手くそなりにボクシングを始めていくところ辺りまでが特に好きだったし、ちょっと勝ち続けたくらいで何かもっと違う事件が、死んでしまうようなんじゃない小さな事件が起きて世界選手権は狙えなくなったが、それからも彼女はボクシングを楽しみながら暮らした、っていうような地味な話でよかったのに、こういう大きな話になってやはり映画賞なんかを取ってしまわないといけないのかな、とかも思ってはしまうのだ。
アイリッシュを熱く応援させた女子ボクサーがいたね、くらいの物語では満足できないんだな。
とても感動はしたのだが反面強烈な問題提議というのがどうしても必要な監督なのだとも思う。それがまったくいけないわけでもないんだが。

どうもあやふやな感想になってしまったが、つまりこの映画が表現している行為には反対しないが、どうしてもこういう問題を扱ってしまうイーストウッド作品をみると退いてしまう自分がいる。いるだろうけど不快過ぎる敵やいかにも悪い家族の描写も少々興ざめでもある。
それにしてもヒラリー・スワンクのボクサーはかっこよかったし(マット・デイモンにそっくりな笑顔も魅力的だ)モーガン・フリーマンは文句なく素敵な存在でどうしたってこの二人には見惚れてしまうのだけどね。 
設定もうますぎるくらい決まってる。何か過去に酷く重い罪の意識を負った老トレイナーは娘がいるが疎縁であり、友人のような掃除人のスクラップ(なんて名前だ)も過去に大きなタイトルをつかみ損ねたボクサーであり、二人の前に現れるマギーはすでに31歳(すぐに32歳になってしまう)のウェイトレスで才能があるようにも思えない。家族には見捨てられたような存在という3人とも家族や他人との縁が薄い人間たちなのだ。だからこそマギーとフランキーが死を選ぶことにもためらいがないのだ。
物語がスクラップの語りで進行していくというのも実にうまい。文句なしの映画なのではある。だからといってイコール好きとはいかないのが難しい。

監督:クリント・イーストウッド 出演:クリント・イーストウッド ヒラリー・スワンク モーガン・フリーマン アンソニー・マッキー ジェイ・バルチェル
2004年アメリカ
ラベル:愛情 人生
posted by フェイユイ at 23:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 北米 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月09日

『サン・ルイ・レイの橋』マリー・マクガキアン

c101207071_l.jpg
THE BRIDGE OF SAN LUIS REY


有名なアメリカ俳優が多数出ているのだが舞台が18世紀ペルーというちょっと変わった背景のせいか、とても不思議なニュアンスを持った作品だった。

異端裁判にかけられる一人の修道士。彼は数年前、「サン・ルイ・レイの橋」を渡ろうとする寸前に5人の男女もろとも橋が落ちてしまったのだった。もう少しで我が身に降りかかったはずの災難から自分は逃れ、何故その5人が落ちたのだろうか、と彼は考えその共通点を求めて6年がかりで5人のそれまでの人生を調べ歩く。
だが一人の女優と出会ったことがある、という以外にこれという共通点は見いだせなかった。
修道士は異端者として裁きを受けねばならないのだろうか。

異端裁判というとスペインが思い浮かぶが、その植民地であるペルーでも同じようなものだったのか、と当たり前なのかもしれないが今まで考えたこともなかったので妙に感心してしまった。
そこには副王と呼ばれる統治者がいて現地の人々を支配したのだがここではまったくスペイン人である白人たちの物語になのである。
故郷スペインは遠いが貴族たちはまるでヨーロッパにいるようなのも不思議である。そしてキリスト教は頑全たるキリスト教なのだった。

修道士は何故本当に橋から落ちて死んだ5人の人生を調べようとしたんだろう。そこで死ななかった自分の命を確かめたかったんだろうか。
しかし彼は5人の人生を調べた6年後に処刑されてしまうのだ。しかも彼はとうとう5人の共通点を見いだせないままだったのだ。
こういうミステリー仕立ての映画、というのは凄く好きだ。ミステリーといっても人生の謎なので殺人事件のように答えや犯人が見つかるわけではない。観終わった時はなんだかもやもやとしたものしか感じ取れないが時が経つにつれややばんやりと見えてきたりする、そんなミステリーである。例えば『薔薇の名前』だとか『市民ケーン』のような。
ここでは尼僧が大きなヒントを与えてくれる。5人のうち、若い女性と男性は修道院にいた人間で尼僧自身が深い愛を感じていた。アンクル・ピオと彼がおぶっていた赤ん坊は女優ペリチョーレの子供であり、父親のような存在の人、侯爵夫人はずっと仲たがいしていたがスペインに住む可愛い娘が帰郷して涙を流した。尼僧は愛した者もいつかは死んでしまうが愛だけは残るのだ、とつぶやく。
5人の人生の共通点を探した修道士の人生はここでは語られない。5人の為に流された涙が彼には流されなかったのだろうか。誰からも?では彼の人生とはなんだったのだろう。彼が尼僧と違って共通点を見いだせなかったのは誰のことも愛したことがなかったからなんだろうか。

恐ろしい異端裁判の検察(というのか。弁護士はいないが)にロバート・デ・ニーロ。副王はF・マーレイ・エイブラハム、尼僧がジェラルディン・チャップリン、アンクル・ピオにハーヴェイ・カイテル、など凄い面々だが、一番迫力あったのは娘を溺愛する侯爵夫人のキャシー・ベイツ。彼女が最も印象的な人物だった。
彼女の娘への愛は異常だ、奇行だ、と言われ続けていたが、そんなに変かなーと思ってしまったのは東西の意識の違いか。一人娘にこのくらい愛情を注ぐのは普通みたいな気もするが。裕福な貴族で大西洋を隔てていればこのくらい思ってても仕方ない。しかしお金の面はきっちりしてたし。
とにかくあのふて腐れたような容貌で小さいんだけどでっぷりした体つき。膨れ上がった胸。酷く我がままかと思うと「私は駄目な女」と言って女優の足元にひれ伏したり、確かに奇行ではあるが。
橋を渡る前、彼女は自分が歪んでいたと思い直し「もう一度人生を歩みなおそう」と思う。あの直後の事故。
アンクル・ピオは娘のように育てたが、天然痘にかかってしまった女優から赤ん坊を預かってまた大事に育てようと思っていた矢先だった。
5にんはまたこれから新しく人生を歩もうと思っていたという共通点もあるのだった。
処刑された修道士はどんな気持ちだったのか、それもまた明かされてはいないのだが。

監督:マリー・マクガキアン 出演:ロバート・デ・ニーロ キャシー・ベイツ ハーヴェイ・カイテル ガブリエル・バーン F・マーレイ・エイブラハム
2005年 / アメリカ/スペイン
ラベル:ミステリー
posted by フェイユイ at 23:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 北米 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月04日

『ヘルボーイ/ゴールデン・アーミー』ギレルモ・デル・トロ

hellboy2-final-poster-big.jpghellboy2pic5.jpg
HELLBOY II: THE GOLDEN ARMY

ヒューマニズム溢れる、と言いたかったのだが、この物語ではヒューマニズム(人間性)というものが間違っていて(つまり言葉の意味あいではなく人間の精神と言う意味で)モンスターニズム(という英語があるのかどうか知らないが。フェアリーイズムでもゴブリズムでもよいが)こそが世界にとって正しいのであるが、ここでは一応いい意味でヒューマニズム溢れるギレルモ・デル・トロ作品には参ってしまう。
先日もぶーたれたバットマン『ダークナイト』世界には何の魅力も感じないがこちらのヒーロー・ヘルボーイには本気で惚れてしまう私なのである。
勿論彼のファンはたくさんいるのだが、どうしてこう人間はモンスター・妖怪・異形のものに心惹かれるのだろうか。人間が持ち得ない彼らのパワーに、普通の人間から見れば「醜い」と言われる姿に何故憧れてしまうのか。
そしてもう一つは自分たちが正しい、自分たちが一番優秀だと思い込んでいる人間という生物への疑問でもあるのだろう。
人間社会で生活する羽目になったヘルボーイ、エイブ、リズたちは利用される時は利用されてもその異形さや尋常でないパワーを結局は忌み嫌われてしまう。
それでも人間に好かれたいと思ってしまうヘルボーイに「私だけがあなたを好きでもいいじゃないの」と問いかけるリズの気持ちが切ない。
悪役であるヌアダ王子は決して間違ったことを言っているわけではなく、彼の手先となる植物モンスターを倒す羽目になるヘルボーイは躊躇する。そして人間を救ったヘルボーイに対する人間の態度は彼を侮蔑するだけなのだ。
戦いが終わった後、ヘルボーイたちは人間社会から離れる決意をする。ハッピーエンドのはずなのに、どこか物悲しく苦い味がするラストなのだ。

これは無論そのまま人間界とモンスターたちの物語として観ていいのだが私にはなんとなくヘルボーイたちが俗にいう「おたく」たちのように思えてしまう。
世間から疎ましがられ気持ち悪がられる彼らの様子がどうしても「おたく」たちのように見えてしまうのだ。
彼らの破壊的なパワーや優れた頭脳は「おたく」たちが「普通の人」たちに見せつけてやりたいという願望のように思えてしまう。
彼らは彼らの世界においてその異形な存在のままのびのびと自由に振る舞えるのだ。
私が彼らの世界に強く惹かれてしまうのはやはり自分もそこの住人であるからなのだろう。

ニューヨークの街角でそうしたモンスター世界への入り口がある、というのもわくわくする設定ではないか。
日本なら『げげげの鬼太郎』世界への入り口があるような感じ。怖いけどちょっと入り込んでみたくなる。

ヘルボーイのキャラクターが大好きなのだ。男らしくて優しくてちょっとだらしないけどかっこいい。リズが羨ましくてしょうがない。リズにも憧れる。怒ると火となって燃え上がってしまう。ヘルボーイのことをとても愛していてチャーミング。
相棒のエイブも魅力的。今回は彼のラブストーリーが泣けるのだが、二人とも愛する女性に優しくてロマンチックなところがとてもいい。この辺はメキシコ人であるデル・トロ監督の持ち味でもあるのだろうな。

リズがヘルボーイとの間にできたお腹の中の子供が双子だということを告げてエンド。第3話はファミリーでの活躍になるんだろうか。

寂しかったのはTに登場したマイヤーズ役のルパート・エヴァンズが出てなかったこと。南極に左遷ってそりゃないでしょ。あんまり残念がっている人もいなさそうだし。でも少しでいいから出て欲しかったなあ。

監督:ギレルモ・デル・トロ 出演: ロン・パールマン セルマ・ブレア ダグ・ジョーンズ ルーク・ゴス ジェフリー・タンバー ジョン・ハート ジェフリー・タンバー
2008年アメリカ
posted by フェイユイ at 23:00| Comment(0) | TrackBack(1) | 北米 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月03日

『ファニーゲーム U.S.A.』ミヒャエル・ハネケ

funny-games-us-poster.jpg
FUNNY GAMES US

というわけで『ファニーゲームU.S.A.』である。
もしかしたらオリジナルまんまかな、と思っていたが本当にまんまであった。作品自体が「ふざけ」気分を持っておりのだからリメイクもしっかりふざけているのだ。

冒頭のセリフ一連から昨日観た直後なのでまんまなのであるが、やはり少し気になった部分を修正しているが何故的な修正もある。
記憶力が乏しいのでもうすでに忘れかけてはいるが例えば、白い門だとか、キッチンの感じだとかそこでのカメラの位置は同じみたいだ。
だが殺した愛犬をアンが探す場面で車の位置が何故か違ってカメラから縦方向で横のドアじゃなく遠い横向きになっていて死体が後部ドアから落ちることになる。どういうこだわりなのか、気まぐれなのか。
オーストリア映画の時はシェパードだったがこちらでは違う犬種になっているのは御愛嬌だが。
またパパがティム・ロスになって若干弱そうになりママはナオミ・ワッツなので観る者としては少し綺麗どころで嬉しいかも。昨日はヌードなどの見どころシーンはない、と書いてこちらもないのだが、ママが服を脱いだ後あちらバージョンではデブくんがすぐ何かを着せてくれたのにナオミは下着のまま、これが一番の違いかもしれん。
またティム・ロスパパは見た目は弱そうだけど昨日のパパが痛さでかなり悲鳴を上げていたのにこちらはかなり我慢。二人組が途中去った時泣く声もあちらパパは大声で慟哭と言う感じだったのにティムは耐えている感じ。
ママ役としてはあちらママはデブくんの失敗に最初からかなり苛立っていたがナオミママのほうはかなり我慢していて好感度がある。
全体的にはパパはオーストリアバージョンがママはアメリカバージョンのほうがいいかな。
息子君はどちらも同じくらい。気のせいかアメリカバージョンのほうが途中逃げる場面が短かったような。袋をかぶせられた時、顔が浮かび上がるのはあちらはなかった気がする。
さて犯人。実は私はマイケル・ピットが嫌いなんである。あの顔がどうしても駄目で。美形とか書いてあるけどほんとに嫌な顔なのね。ということはかなりそれだけでアメリカバージョンはイライラしたの。相棒もアメリカバージョンの「デブ」は嫌な感じ。オーストリア版のほうが一見よさそうに見えるところが怖いのだから映画としてはあちらの二人組のほうがいいのだが、単に嫌悪感を持つ二人組、ということなら断然マイケル・ピット組。あの真ん丸な目と口がたまらなく嫌だ。オーストリア版の彼のほうが私的にはハンサムに見えるんだが。デブくんも可愛かったし。

後、細かいとこで昨日は「どうしてこの夫婦は携帯を一つしか持ってないの?」と思ってたらUS版ではダンナが「僕のは車の中だ」というシーンがあった。
また御祈りが「お願いですから天国に行かせてください」というのが「朝までお守りください」になってた。
そんなこんなでハネケ監督も少しだけ修正なさったようだが全体的には全く変化なし、と言っていい。とにかく大きな違いはママが服を着せてもらったか、下着姿を暫く見せることになったか、だけだ。

一体なら何故わざわざハリウッド版リメイクをしたのか。
もともとオリジナルがこれ以上ないほど上手くできているのに、「ハリウッドでリメイクを作らないか」と持ちかけられたハネケ監督が「前のどこを変えろと言うんだ。いや変える必要はない」とふざけてそのまんま作ったとしか思えない。
出演俳優たちは多分オリジナルを観ただろうが、まんま同じ台詞演技をどういう気持ちでやったんだろう。舞台なんかだったら同じ芝居でももう少し演出の違いなんていうのもありそうなものなのに。
このオリジナル作品自体がハリウッド映画のパロディというがまさにハリウッドをからかったとしか思えないではないか。
他にもハリウッドはしつこいほど各国のリメイク映画を作ってるわけだが単にオリジナルを観ればよいのに。そんなにアメリカで製作したものでないと観れないのかねえ、と首を傾げるしかないのである。まったく同じものでもアメリカ製がいいのかい、とハネケさんは言いたかったのかも。いいやお金は出してくれるんだし。自分も儲かるし、とかさ。

まったく同じなので今日の作品自体の感想は昨日と同じだ。
ただ同じものを莫大な金額を使ってリメイクする、というふざけた意味は伝わってくる。

監督:ミヒャエル・ハネケ 出演:ナオミ・ワッツ ティム・ロス マイケル・ピット ブラディ・コーベット デヴォン・ギアハート
2007年 / アメリカ/イギリス/フランス/オーストリア/ドイツ
ラベル:ホラー リメイク
posted by フェイユイ at 22:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 北米 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月30日

『ラビリンス/魔王の迷宮』ジム・ヘンソン

labyrinth_movie.jpglabyrinth_jpg_595x325_crop_upscale_q85.jpg
Labyrinth

ジム・ヘンソン監督であのデヴィッド・ボウイがゴブリンの王を演じているという物凄く豪華な作品なのだが、こちらは記憶なく初見なのだろう。
いつもながらマペット達が気持ち悪く不気味で物語も面白く丹念に作られている素晴らしいファンタジー映画であった。

主人公を演じるジェニファー・コネリーが美しくてとても愛らしい。少女期にこういう優れたファンタジー作品の主役ができるというのは恵まれているのじゃなかろうか。
一人でゴブリン世界に浸っているような今ならオタク少女なのだが、変に媚びた設定にせずとても少女らしい魅力にあふれている。
ゴブリンの王がデヴィッド・ボウイのような美貌であるというのは少女の夢を表しているのだろう。金色の長髪にいかにも彼らしい艶やかな衣装を着た魔王は彼の特別なファンならずとも見惚れてしまうかっこよさだ。
映画の冒頭に(ここではサラ自身が)語られる言葉が物語を意味しているというのは昨日観た『神に選ばれし無敵の男』同様ファンタジーの鍵となる。
またサラが自分で言った言葉が弟を魔王のところへ追いやってしまったというのも面白い設定で彼女は我がままだった自分の失敗を自分で償うことになる、という戒めも含んでいるのが子供向けらしく意味深い。

ところで大好きなデル・トロ監督の『パンズ・ラビリンス』も少女が主人公だったわけでやはり迷路には少女が似合うのだろうか。そして醜悪なゴブリンやクリーチャーと美少女という組み合わせはマニアックなエロスも感じられるわけである。
サラが不可解な迷路を探っていく様子は『不思議の国のアリス』のようでもあり色んな謎ときや奇妙な敵と戦いながら可愛いサラが懸命に頑張る姿を楽しめるのである。
ゴブリンから渡された果物を食べて「弟を探している」という記憶を失ったサラがその記憶を取り戻す場面は一番緊迫感のある名場面ではないだろうか。
彼女がそれまでこだわっていたぬいぐるみなどを「がらくた」だと言い、弟を取り戻すことが自分の願いだったと思いだす。

やっと辿り着いた魔王の城の内部も面白く、エッシャーのだまし絵が再現されそこを魔王とサラと弟トビーが歩き回る。
魔王の言葉でこれまでの魔王の仕業は実はサラ自身の誤った願いだったということがわかる。
だがサラが成長し本当に大切なものは何なのかを知ることで偽りの魔王は無力となる。
さてここまでだとそれは正しいことではあるがまるでなんだか少女の夢を全部失ってしまったかのようで寂しいではないか。
最後の最後でサラがゴブリン達をいつまでも必要としている、と言うことでゴブリン達との別れはないのだと示される。これはもうゴブリン達を愛する作者側の願望でもあるわけで決して夢の国を忘れ去ってはいけないよ、と言っているようだ。夢の国を思うことはとても素晴らしいことなのだから。

監督:ジム・ヘンソン 出演:デヴィッド・ボウイ ジェニファー・コネリー シェリー・トンプソン
1986年アメリカ
ラベル:ファンタジー
posted by フェイユイ at 22:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 北米 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月27日

『カッコーの巣の上で』ミロス・フォアマン

r7sx00.pngOneFlewBibbit3.jpg
ONE FLEW OVER THE CUCKOO'S NEST

遠い昔まだ自分が若かりし頃、初めてレンタルビデオ店(やっとそういう店が福岡に出てきた頃だろう。あくまでビデオ店である)でレンタルする、などということを試みようと選んだのがこれだった。
あまり深くは考えずとはいえ気になっていた作品を選んだのだと思うがあまりの衝撃に(まだ多感な頃でもあったし)頭をぶん殴られたようだった。
こんな映画を自宅に持ち帰って観れるものかと次々と借りたがさすがにこれほどの衝撃を受けるものはそうそうなかった。まさに覚醒したという感じ。まあすぐまた寝てしまったようなもんだけど。

とにかくこのむずむずするような感動はなんなのか。とんでもないお調子者の男が精神病院で好き勝手に暴れまわり婦長さんを困らせる、という話だけなのか。
物語というのが目の前で映し出されるものだけではなくその奥に秘められた物語があるのだということをこれで初めて知ったのではないだろうか。

この作品を今回観たのは先日から「ビート・ジェネレーション」を探っていてケン・キージー作のこの物語もビートニクのアイコンともいえるニール・キャサディがモデルだったとキージーが語っていたことからだった。無論ジャック・ニコルソンが演じたマクマーフィである。
確かに破天荒な行動が自分はどう生きるべきかと迷っていた若者たちに大きな影響を与えたニールと本作の主人公マクマーフィが大きな権力下で押しつぶされそうになっている患者たちを勇気づける様は体制側から見ればとんでもない間違った行動なのだとしても彼らに勇気と希望を与えてくれたのである。
そして映画には監督ミロス・フォアマンの意識もまた加わってくる。特にこの作品の中に描かれるわけではないが両親をアウシュビッツで亡くし、自分もチェコ事件の為にアメリカに渡った、という経歴を持つ人ということを考えれば「そんなに町の連中と変るもんか」とマクマーフィに言われる彼らが狂人として扱われ婦長の冷酷な仕打ちに怒るマクマーフィが廃人にされてしまうこの物語が彼にとって歪んだ権力と暴力が弱い立場の普通に人間たちにどんな過酷な運命をもたらすのかを描きだしていることが見えてくる。
その為に登場する人物は戯画化されすぎているきらいもあるのだが(特に婦長の性格は極端に思えるのだが、なにしろ彼女という存在が政治・社会・親・学校などあらゆる圧力・圧政などを体現しているのだから大変なのである)そのことが訴えたいことを明確に表現している。
また作品中語られないが察しなければならない個所もある。一見まともにも見えるビリーを狂わせてしまっているのはどうやら母親の異常な潔癖性にある、ということが見え隠れする。しかも母親と婦長は友人という繋がりを持っているらしい。女性と性的体験をしたことで言語障害もなくなり一瞬正常に戻ったかのようの見えたビリーが婦長の「母親に言いますよ」の一言で引き戻されてついには自殺してしまう。これも圧力の一つである。
そしてなんといってもこの作品の核となるのがマクマーフィと深い関わりを持つことになるチーフと呼ばれるネイティブアメリカンの男である。
彼の生い立ち・両親については彼の数少ない言葉から考えるしかない。正常としか思えない彼が何故この病院に入れられたのか。何故彼は聾唖だと偽ってそこに居るのか。
彼の父親は大きかったが多分恐ろしいほどの差別と過酷な待遇で酒に溺れ死んでっしまったのだろう。それを見ていたチーフは自分が父親以上の存在になる勇気も希望もない。そこに現れたのがマクマーフィであり、彼がチーフに友人として接してくれたこと、彼がどんな困難にも立ち向かったことを見るうちに「大きな人間」になれるという勇気を抱く。マクマーフィも動かせなかった重い石の置物(水道台なのだが)を一人で抱え上げ彼らを閉じ込める窓柵を打ち壊して外へと飛び出す場面は長い時間を経て再び私に心を揺さぶられるような衝撃を与えてくれた。
自由を求めたマクマーフィが思考することもできなくなった姿を見て「そのままでは置いていかない。一緒に行こう」と彼を殺しその魂を連れ去ったのだ。
遠く広がる空と自然の中に走っていくチーフの心にある熱い思いを感じる素晴らしいラストシーンなのだ。

マクマーフィを演じたジャック・ニコルソンがとにかく好きだった。あの顔と目がそれだけでどきどきさせる魅力だった。
アクが強すぎる個性だ。今だったらもう少しおとなしめの顔のほうが受けるのかもしれないがぎんぎんにセクシーで危険な匂いのする男である。今観ると後を知っているだけに若さにも驚く。まだ細くて、でも髪の具合はすっかりニコルソンらしいそり込みとはねっ毛である。あの悪どい目はこたえられない。

監督:ミロス・フォアマン 出演: ジャック・ニコルソン ルイーズ・フレッチャー ウィル・サンプソン ブラッド・ドゥーリフ クリストファー・ロイド ダニー・デヴィート
1975年アメリカ
ラベル:自由
posted by フェイユイ at 23:25| Comment(2) | TrackBack(0) | 北米 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月25日

『ダーククリスタル』ジム・ヘンソン フランク・オズ

untitledTHE DARK CRYSTAL.bmpTHE DARK CRYSTAL.bmp
THE DARK CRYSTAL

先日ジム・ヘンソンのTV作品を観て「セサミストリートは当然知っているがそれ以外は・・・」みたいなことを書いて気になってこれを観たのだが、なんだいしっかと観た作品だった。
まったく度忘れにもほどがあるが観始めたら次々とどの場面も知ってる知ってるてな感じで。でも観るまで思い出さなかったんだよね。
まあ、観てみてよかった。そうそう、これは秀逸な作品なのだ(何を今更)なんというか異世界ファンタジーの手本みたいなものだねえ。

よくこの世界から異世界になんかの拍子で入り込んで冒険をする、みたいな作品があるけれど私はその類はあんまり好きじゃなくて(いいのもあるかもしれないが)その世界だけでまとまっているのを覗き観るような作品のほうがいいのである。
特にこの作品のように主人公が人間じゃない、というのはちょっと上級者コースみたいな感じでとてもうれしくなってしまう。
この物語の主人公はゲルフリンという種族の最後の生き残りの二人。顔立ちは人間ぽいが若干異なっていてそれが確かに異世界な雰囲気を感じさせてくれる。(似てる人もいるかもしんないが)
負のパワーを持つダーククリスタルを手中にし、世の中を支配する悪の種族であるスケクシス族(猛禽類のような外見)は二人が属するゲルフリンから全滅されるという予言があるために彼らを抹殺しようとした。少年ジェンと少女キーラはその生き残りであり。それぞれ別々にミスティック族とポッド族に拾われて成長した。
ジェンはミスティック族の長老が死の床で「ダーククリスタルのかけらを見つけて世界を救うのはお前だけだ」と言い残す。
3つの太陽が再び重なるとダーククリスタルの負のパワーによって悪のスケクシス族は永遠の支配を約束されてしまうのだ。それまでにジェンはクリスタルのかけらを見つけ出し、ダーククリスタルにそのかけらを合わせねばならない。

物語はいかにもスタンダードな少年向け冒険譚だが全体の持つ雰囲気は子供向けだけとは思えないどこか本当に恐ろしいものが秘められている。
スケクシス族が他の種族からエッセンスと呼ぶ彼らの体液を抽出しそれを飲んで若返り、エッセンスを抜かれた者は思考することができなくなって労働を強いられる、という部分はぞっとするものがある。
城に乗り込んだゲルフリンの二人のうち女性であるキーラがとらえられてエッセンスを抜かれてしまいそうになり、さらに性はないらしいのだが男性的な風貌のスケクシスたちに取り囲まれ刃を受ける場面はサディステッィクなエロチシズムを感じさせる。
長老はジェンに世界を救うのはお前だ、と言ったが殆どの活躍はキーラのように思えるのだが。
人間の顔ではないが二人はどちらも綺麗で魅力的な容姿をしている。キーラの金色の髪の乱れ方などとても愛らしく見える。

人間不登場のクリーチャーのみの世界が素晴らしい。『スターウォーズ』の世界とかぶるものがある。両方を手掛けたスタッフがいるので当然かもしれないが。クリーチャーだけでなく恐ろしく深い穴みたいなのも。

善のミスティック族と悪のスケクシス族が元は一つだったのが分かれてしまい、再び一つになるのだが、そうすると彼らはどういう性格になってしまうんだろう。合体する場面もややおかしな気もしたが。
生き残りの二つの種族の人数が同じでスケクシスが怪我した時、また死んだ時のミスティックにも同じ影響が及ぶというのは面白かった。
この作品はできるだけ子供向けに軽くなるよう作られているがこういう世界をもっと追究していけばどんどん危ない世界に入っていってしまうような雰囲気を持っている。

監督:ジム・ヘンソン フランク・オズ
1982年アメリカ
posted by フェイユイ at 23:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 北米 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月24日

『ビートニク Beatnik』チャック・ワークマン

ビートニク.jpgビートニク ジョニー.jpgビートニク アレン・ボブ.jpg
右端のがアレン・ギンズバーグとボブ・ディラン
Beatnik

今夜もまた近い将来ベン・ウィショーが演じるルシアン・カー『Kill your darlings』の為にビートニクスを探していて、彼に出会えることはなかったのだがドキュメンタリー映画『ビートニク』を観ているうち、ルシアンのことは忘れて夢中になってしまう。どうやらミイラ取りがミイラというのではないがすっかりビートニクス信奉者になってしまったようだ。

1999年公開の映画で若くてハンサムなジョニー・デップも出ているというのにレンタルすることができず購入する羽目になったが、私のようにビートニクに興味を持ったのなら後悔はしないと思う。とても優れたビートニク参考資料なのではないだろうか。
(ところで先日も私が「ロマ」を知りたくて探してたらジョニー出演の映画を観ることになった。考えたら同じ世代。興味のあるものも似ていて当然だ)
チャーミングなジョニー目的で観た人は少々物足りないかもしれないがそれでも彼の朗読が聴ける。
私はとにかくビートニクの写真や映像、インタビューなどが目的だったがこちらはふんだんに盛り込まれていた。先日観たバロウズの作品映像、バロウズ、ケルアック、ギンズバーグが出会った若い当時から年を経た姿も、彼らの声、言葉、考え方がぎっしりとはめ込まれている。
そして彼らを取り囲む他のビートニク作家たちも(惜しむらくは期待していたルシアン・カーは見当たらなかった)
バロウズの痩身と哲学者のような(またはギャングのような)容貌は抜群にさまになっている。『クイア』や『裸のランチ』を書き恐ろしいほどのジャンキーでピストルや刃物などの武器を愛し、講演ではいつも強烈な罵りを挟み込む可愛い青年や少年が大好きなゲイの老人である偉大なW・バロウズは滅茶苦茶にかっこいい。
若きケルアックはまるでモデルか俳優かというようなハンサムな顔立ちで確かにこれで天才ならギンズバーグならずとも惚れこんでしまうだろう。そして彼の双子のような相棒であり『路上』のディーンのモデルであるニール・キャサディ。二人とも肉体的にも男らしい美貌なのが不思議なほどで彼らが若者たちのアイコンになるのは当然のことで、ケルアックには才能とニールの人を引き付ける魅力があるということもこの映像を観ているだけで伝わってくる。
そしてこの数日ビートニクを探索しているうちに一番好きになってしまったのがアレン・ギンズバーグである。映像の中で「醜いゲイの眼鏡野郎」と称されてしまう彼だがそのコメントは「そいつがアメリカで最も勇敢な男になった」と続く。
好きになった理由はなんといっても彼の詩集『吠える』を読んで。原題で『Howl』というなんだか日本語と似た響きだ(というか日本語訳した人がうまい)精神病院に閉じ込められたカールという友人の為に作った詩だというがまさに吠えるような激しい言葉が連なる。これを初めて肉声で朗読するのを聞いた聴衆がどんな驚きだったか。ちょっとぞくぞくするではないか。
ケルアックには無論いい男と見ればすぐ好きになってしまうような惚れっぽい人みたいで確かに他の仲間に比べるとハンサムではないのだが、その才能と映像から受け取れる温和な感じ、仲間が彼を罵倒していても優しく手をとるようなところ(どうせそういうのもゲイ的だと言われるのだろうけど)平和を愛し(大概ビートニクのような人は平和主義だろうけど)仏教にのめり込み麻薬もほどほどにやってるようなとこも年取って髪が薄くなりますますおかしい風貌になった様子も皆好きになってしまった(バロウズは年取るほどかっこよくなるが)
時間が経つと過激と思えたビート作家たちも特にギンズバーグは大勢の人に溶け込んでいってしまうのだがそういうその時に応じた柔軟な生き方ができるのも素敵である(かといって彼はずっと思想的活動を続けているのがいいのだ)そしてずっとゲイであってじい様になっても人前でじい様相手にディープキスをしていたのだと(この話は本作ではないよ)
とにかくそういうんで私はすっかりギンズバーグ派になっちまった。かといってケルアックもバロウズも素敵なんでみんなかっこいいんだよね、この方たち。
無論映画作品にするわけでカッコよく捉えているのだろうが、それにしても痺れてしまうビートな彼らである。
社会に対する憤懣を詩にして訴えるなんていうのがまた流行ったりしないのだろうか。

映像の中で写真集が出てくるのでネットで出てくる写真もそれからなのかもしれない、見たことのある写真がいくつもある。
ヒッピーの世代ではないから髪型や服装はそれほど一般と違うわけではない彼ら。
だがその言動は当時の人々から見ればとんでもないアウトサイダーだったわけで。『ビート』という日本語としては掴みにくい言葉だが黒人が話していた言葉から生まれたという。「打たれる」というようなマイナスなイメージを持ってしまうようだけどギンズバーグはそれbeatitude(至福)から出ている言葉だと言うのだ。

作品中、ジョニー・デップ以外にデニス・ホッパーが登場。いかにもクスリと旅が似合う男である。

監督/脚本:チャック・ワークマン 1999年アメリカ
posted by フェイユイ at 22:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 北米 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

Lucien Carr ルシアン・カー

2010年公開となる『Kill Your Darlings』John Krokidas監督作品で
ベン・ウィショーBen Whishawが演じるルシアン・カーLucien Carrご本人の画像を集めてみました。ネット上に出ていたものなので正確であるかどうかは保証できませんが。

lu%20and%20jack.jpg
ケルアックとルシアン

Lucien Carr.bmp
Lucien Carr and Allen at Lucien's wedding to Francesca "Cessa" von Hertz, January 4, 1952.

Lucien Carr + 'The New York Times'.jpg
カマラー事件の記事のルシアン

Lucien Carr2.bmp
Lucien Carr, Jack Kerouac, Alan Ginsberg, William Burroughs in 1944
(ところがとある本ではルシアンじゃなくハル・チェイスとなっていた。もーどうせ判らんし)

beat-span.jpg
William S. Burroughs, Lucien Carr, and Allen Ginsberg

56691305_3b2eb09024.jpg
これもルシアン?
posted by フェイユイ at 14:46| Comment(2) | TrackBack(0) | 北米 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月22日

今夜もビートニク探求

今夜もまたビート作家バロウズのドキュメンタリー『ウィリアム・S・バロウズ/ザ・ファイナル・アカデミー・ドキュメンツ』『ウィリアム・S・バロウズ/路上の司祭』なんかをつらつら観ていたのだが、特に言うようなこともないので困ってしまう。可愛い男の子が幾人も登場。
しかしあれなんだよね。田舎に住んでいるからなのかもしれないが本屋に行ってもビートニク関連本などは全くないんだよなあ。さすがに『裸のランチ』はあったけど。
やはりゲイ作家であることが駄目なのか。と言っても「ボーイズラブ」な本は田舎町でもどっさり並んでいるんだけど。

とりあえず
『ウィリアム・S・バロウズ/ザ・ファイナル・アカデミー・ドキュメンツ』 2002年 / イギリス
『ウィリアム・S・バロウズ/路上の司祭』クラウス・メック 1991年 / ドイツ
短いけど『路上の司祭』のほうがバロウズのインタビューがあって面白かったかな。

Kerouac, Ginsberg & friends in New York

「Silent footage of Jack Kerouac, Allen Ginsberg, Lucien Carr, and others in New York, Summer 1959. The location is in and around the Harmony Bar & Restaurant at E 9th St. and 3rd Ave. Others seen are Mary Frank (wife of film-maker Robert Frank) and children Pablo and Andrea, as well as Lucien's wife Francesca Carr and their three sons, Simon, Caleb and Ethan. Does anyone recognise any of the others? 」

Lucien Carrと書いてあるので映っているとは思うのですがどれなのか?(-_-;)1分50秒くらいの美青年?それとも子供を肩車した人?他の誰かか?

そしてデヴィッド・カマラーってこの人なんですか?
kammerer00.gif
David Kammerer
『Beat』の彼と全然違う〜。ハンサム????!!!!

ルシアンは
Lucien Carr
こんな風だけども。
carr1.gifcarr2.gif
krokidas4.jpg
左からケルアック、ルシアン、ギンズバーグ
ふぇでり子さん、いつも画像Thank Youです!!m(__)m
posted by フェイユイ at 22:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 北米 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月20日

『Kerouac −ケルアックに何が起こったのか?−』と『ポール・ボウルズの告白 シェルタリング・スカイを書いた男』

r167533165L.jpg
WHAT HAPPENED TO KERUAC?

ビートジェネレーションであり『路上』の作者であるジャック・ケルアックについて当時の仲間たちから語ってもらう、というドキュメンタリー。
私の目的は『Kill Your Darlings』でビートニクのミューズ的存在だったというルシアン・カーについて少しでも語られることがないだろうか、というものだったのだが、残念ながら彼についての言及はなかった。ただ途中で朗読されるケルアックの詩の一節に「ルシアンのテーマ」というのがあって、前後に関連するものもないのだがルシアン・カーのことを言ったのだろうか。

さて本作はケルアックについて語ったものであるが、写真を観ても判るが何と言っても若くてハンサムな天才ということで物凄い人気者であり、ファンの女性は皆彼と寝たがりその希望はかなり叶えられるものだったらしいが一方ではそんな彼に対し激しい批判があったということだが彼の生き様や小説の内容からは当然そうなってしまう運命だったのだろう。だがそういったことが(急激な人気と恐ろしいバッシング)が彼をアルコール依存症にしてしまい、精神を歪めてしまったようだ。
無論この映像の中にはコロンビア大学で彼に惚れこんでしまったアレン・ギンズバーグ(『バロウズの妻』で観た彼に酷似していたのは面白かった。ここでも彼が一番まともで知性と人間性があるように思える)や彼らの大先輩であるW・バロウズ御大が登場してケルアックを思い出す。
ケルアックと衝撃的な出会いをして友人となり『路上』の主人公ディーン・モリアーティのモデルともいうべきニール・キャサディの映像もある。彼ら二人は何故かとても似ているのだが、ケルアックはニールの破天荒さに憧れ、ニールはケルアックの育ちのよさや学歴に憧れていたらしい。

ビート作家のギンズバーグやバロウズはゲイでありその周りには同性愛者が多かったのだがケルアックは彼らの仲間であるがゲイではなかった。
また自由な生き方をしたと思えるケルアックだがカソリックの家庭で生まれ育ったために考え方は結構厳格であったらしい。
晩年(と言っても47歳没での晩年)の映像の彼はかなりエキセントリックで危険な感じに思えて痛々しい気もする。
私は昔『路上』をとりあえず読んだものだが、広大な大陸を何度も横断するという行為に日本では体験できない恐ろしい何かを感じはしたが物語自体に心酔するということはなく終わってしまった。
バロウズもまたしかりでゲイであり、麻薬に溺れ放浪する、という生き方にある憧れのようなものは抱いても作品そのものに惚れこむことはなかったのだった。
それでも彼らに奇妙な思慕、自分もそんな仲間であってみたいという気持ちだけはあったのだから変ものだと思う。

仏教が彼らの間では非常に流行っていたらしい。

監督:リチャード・ラーナー ルイス・マクアダムス
1985年 / アメリカ

もう一つは『ポール・ボウルズの告白』
あの『シェルタリングスカイ』の作者で音楽家でもありタンジールに住み続けた人なのだが、この方のことは最近まで名前もよく覚えてなかったのだった。
ビート作家というわけではないがゲイであったこともあり麻薬や買春(男性の)を謳歌できた(?)タンジールに居を構えていたことで(という話であって今どうなのかは知らないが)バロウズやギンズバーグ、カポーティやテネシー・ウィリアムズも訪れていたらしい。なんともゲイの世界。
こちらではまあギンズバーグのコメントを少し聞いたくらい。アメリカでは手に入らない麻薬を楽しめたが買春のほうは上手くいかなかった(と言っていた)

というわけでルシアン・カーの名前を聞くことはできなかったが、確かに酷く心惹かれる世界である。
ビートには女性があまり絡んでないのだがそれは女性だとすぐ精神病院に入れられてしまったからだという。困ったもんだ。

LET IT COME DOWN.jpg
LET IT COME DOWN:THE LIFE OF PAUL BOWLES
1998年 / カナダ

ところでこのドキュメンタリーとは全く関係ないのだが、ビート作家たちの集団とルシアン・カーという美青年のことを考えていたら、突然なんとなく司馬遼太郎『前髪の惣三郎』を思い出してしまった。大島渚監督が『御法度』と言う映画にした短編小説である。
別に惣三郎が新撰組を引き合わせたわけではないからさほど状況が似ているわけではないし、男ばかりの集団に性的魅力のある美青年が入り込んでしまうなら色んな場所でそういうエピソードはあるのかもしれない。ただ一つの時代を作った若者たちの集団に入り込んだ美男に触発され刃傷沙汰が起きてしまった、という物語の相似に興味を持っただけである。
映画『御法度』では今素晴らしい役者になった松田龍平がその役で彼に恋する剣士を浅野忠信が演じていたのだからこんな美味しい配役もないのだが。
この話は司馬氏のフィクションなのだろうが当時の新撰組ではかなり男色が盛んだったと言うし、近藤や土方などその気がない(本当か?)者まで色香に惑わす惣三郎の美貌と実在したルシアン・カーを重ねて考えるのもおかしいことなのだろうけど。
posted by フェイユイ at 23:12| Comment(2) | TrackBack(0) | 北米 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月19日

『ダークナイト』再び クリストファー・ノーラン

THE DARK KNIGHT.bmp
THE DARK KNIGHT

先日ストーン監督の『ニクソン』を観てて『ダークナイト』を思い出した、と書いたのだが何故どこ繋がりで思い出すのか自分でも判らなく、何しろ初見から『ダークナイト』が好きになれなかったのだが、好きにならないとたちまちすべてを忘れてしまうという物凄い頭脳を持っているので(だから幸せなのか)好きでもないのにもう一度観なければならない羽目になってしまった(って誰も強制しとらんが)
さて前に一度鑑賞して評価の高さに期待大だったのに(しかもヒース・レジャーは私も大好きだし)思ったものとあまりに違って書いた記事はどうしようもなく感情が走っていて読み返すのが辛い。いつもなんだが嫌いになった映画の感想文は昂ってばかりでどうしてそう思うのかというような冷静沈着な分析とは程遠い。他の人で悪いと思う映画にも皮肉を込めながらびしびしと指摘していくような大人の批評を見かけると自分との違いに赤面するばかりなのだが、この映画に関しても結局同じような悪口になってしまった自分にはがっくりしてしまう。今回は2回目ということもあって少しは落ち着いて鑑賞し、文章も書ければいいと願ってはみる。

無論2度目の鑑賞で評価が変わって面白い、と思うのではないかという気持ちもあったのだが、冒頭銀行強盗の場面からすでに「たまんなくつまらない」と思い中断しようかとさえ思ってしまうのだった。
つまり私はこの映画に自分の求める面白さ、興味、といったものをどうしても見いだせないのである。
映画を観る時、私はどうしてもその中に「他と変わったもの、不思議なもの、そんなことがあるのかという驚き」を求めてしまう。
この『ダークナイト』は私にとっては当たり前のことばかりが起こる平凡な物語なのだ。平凡であり定番であるからこそ一般的に受ける、ということなのだろうか。
そしてそれは特にジョーカーにおいて非常に感じられる。
ジョーカーは恐ろしい悪の権化、として登場する。だが彼の悪行はいかにもありがちなことばかりである。まず銀行強盗、ナイフを使ってマフィアや警官を脅していく。病院を爆破したり善良な男性の悪の部分を引き出して喜んだりする。
それらはアメリカ映画で表現として許される範囲内のことである。観る者は安心してジョーカーの悪行を観ていられる。決して小さな子供を変質的に傷つけたり、差別されている人、体の不自由な人を特定に痛めつけるような非道なことにしないモラルを持っている。現実にはジョーカーなんぞよりもっと陰惨な悪魔のようなことをしている人間がいるのだがメジャーなハリウッド映画としては許容範囲内の悪行しかできないわけなのだろう。そういう陰湿な悪は観ている者も気持ちが悪くなってしまうからジョーカーが行うのは公共的なテロという大雑把なものになってしまうので直接的に自分が襲われてしまうのではないか、後ろにジョーカーがいるのではないか、というような恐怖は感じられない。
仕方ない。
いかにも悪い奴という演出で銀行強盗をやっている場面を見続ける。マフィアを脅し、警官、市長、検事などという体制側を脅かすジョーカーを見せられる。それは直接私たちには関係しない場所での悪でさほど恐怖を感じさせるものではない。後は金のかかった派手な演出を楽しみながら展開を観ていくだけである。公共を狙っているジョーカーはそれほど直接的な恐怖を感じさせる存在ではないのだ。
むしろそれはハービー・デントが子供にナイフを突き付ける場面で感じさせられる。(とはいえこれもよくあるパターンだ)か弱い母親と子供たちに刃を向けて脅すデントの行為がこの作品の中で最も直接ぞっとする場面になっているのはどうしてなんだろうか。

こうしてデントの最後の行動は別にすればジョーカーの「自分には直接及ばない」犯行を安心して観ていく。彼はバットマンを殺さないし、バトマンもジョーカーを殺さない。予定調和の中で彼らは戦っている。

そうしたことが自分にはつまらなく感じられる。

原作があり、制約があり、そんな中で非常に上手く作品としてまとめ上げた、という技術は凄いのだろうが自分としてはそういう巧妙さに魅力は感じない。結局ハリウッド映画というのはそういうものなのだな、と納得するだけである。
道徳的に許される範囲内で非常にエンターテイメントでありながらなんとなく難しいことを語っているように感じさせ且つ高い技術力で作った映画作品として高得点になるということなのだろう。

さて先に書いた何故『ニクソン』を観てこれを思い出したか、だが、まあそれはこじつけのようなものかもしれない。
観てやっと気付いたのだがつまり「幼い時は厳格なキリスト教信者の家庭で育ち真面目な人間であったはずのニクソンがいつの間にか人から悪党のように言われてしまう」ことといい人間だったハービー・デントが悪い人間になってしまう、ということ。ニクソンの外見が悪くてジョーカーのように忌み嫌われていること。また本人は自分はとても国民のために尽くして戦争をやめさせ国交を促した「善行」をしているのに国民からは誹りを受けてしまう、というバットマンが感じたような疎外感を感じていること、つまり彼一人で『ダークナイト』の3人の主要人物の要素を持っているのである(かなりこじつけだが)
ということは人間は誰しもバットマンでありジョーカーでありデントである要素を持っているかもしれない、ということだ。
『ニクソン』を観ながら覚えてもいないのになんとなくそう思ってしまったのだろう。

これでこの作品がやっぱり好きじゃない、ということを再確認できた。
はらはらすることもわくわくすることもなくよくある出来事を金と技術は駆使した映像が物凄いスピードで展開していく作品。私にはそういう映画である。

再観してよかったのは今度は落ち着いてヒース・レジャーが観れたことだ。といっても私はジョーカーがむかついてむかついてさすがヒースは凄いなあと思いながらも「きゃーヒース素敵〜」などとは一度も思わずほんっとにジョーカーが嫌だった。まったく彼は何かにとり憑かれているとしか思えない。こんなに本人を忘れて嫌悪感を感じさせることができるとはやはりすごい人なんだと思える。一度も一瞬もヒースの柔らかな笑顔なんか思い出させもしない、嫌な奴だった。
それにしても彼が全面に出ている映画はこれが最後なんて悲しい。特に私には意味のない作品だったから。
こんな映画に出なかったら、と思ってもしょうがないことなんだろうか。

監督:クリストファー・ノーラン 出演:クリスチャン・ベール マイケル・ケイン ヒース・レジャー ゲイリー・オールドマン アーロン・エッカート マギー・ギレンホール モーガン・フリーマン エリック・ロバーツ
2008年アメリカ
ラベル:暴力 犯罪
posted by フェイユイ at 01:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 北米 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月17日

『バロウズの妻』ゲイリー・ウォルコウ

バロウズの妻.jpg
Beat

苦情を言っても色んな言い訳を返されそうな作品なのだが、とにかく物足りない作品だった。

トラブルも多かったようだがそんな内情まで汲んで納得するわけにもいかないだろう。
まず冒頭のデイブ・カマラーがルシアン・カーをどんなに素晴らしいか説明する場面でがっくりきてしまった。魅力というのは当人の姿を映すこと、言動や顔かたち、体つきや物腰で観る者が感じることであって「彼は素敵なんだ」と説明されるとはなんなのだろう。
登場人物の説明が極端に少ない映画で彼らのことを知らなければ物語の筋も彼らの存在も理解しにくい映画なのだがあえてそうすることで不思議な面白さを出したいわけではないのか。
ルシアン・カーが彼らのアイドル的存在だということだけは言葉で説明してしまう必要はない。
次にバロウズに何故キーファー・サザーランドなのか。あの丸い顔でバロウズなんて。あの性的な隠微さも精神の際どさも彼から感じることはできない。特に自分はつい先日『裸のランチ』で陶酔し、ピーター・ウェラーのバロウズに見惚れたばかりである。こんなぷりぷりしたバロウズなんて御免である。しかも男の愛人との旅行中、倦怠している、という演出のつもりなのかもしれないが二人に危険な愛の香りも感じることはできないしキーファー=バロウズが若い男に情念を抱いているというのがまったく見えてこないのだ。まるで何十年も前の嫌悪すべきとされていた同性愛を恐る恐る描いていた頃の映像のようで、こんな中途半端な映像ならむしろ撮らずにここも言葉だけでの説明にした方がよほどましだったのではないだろうか。
ルシアン・カーを演じたノーマン・リーダス。特に可もなく不可もなく、という印象である。彼自身は確かによくいう美形の男性と言えるのだろうが先に書いたように彼がどうしてそんなにビートニクと呼ばれた才能ある男たちを惹きつけたのか、ここで描かれるルシアンはちょっとだけ容姿のいい普通の若い男、としか見えない。多分この製作者は彼をそんなに特別な人間として描こうとはいていないのだろう。彼が殺人を犯したのも友人の妻を誘ったのも幾人もの才媛たちを夢中にさせたのも彼がちょっと可愛かっただけのようにしか見えない。彼が天使か悪魔で人を翻弄したようには思えないのだ。(US版のほうがルシアンの気持ちが判りやすいという。そんなこと言われたってしょうがない。だとしてもさほど観たくはない)ここでのルシアンはごく普通の青年がビートニクによって美化されてしまったのだ、と表現されているようだ。だとすれば冒頭映像ではなく言葉だけで彼を誉め讃えた意味が判る。
映画自体麻薬に溺れ自由奔放な生き方をしたビートニク、というイメージではない。ごく普通に愛や生活に悩んだ人々、という映し方である。彼らは上手くいかない愛に疲弊している、というだけだ。
あの『裸のランチ』のような狂気・異常さに満ちた世界ではないのだ。
バロウズが妻を撃ち殺した後の心情がまったく異なっているのが面白い。この作品でビートニクは普通の人々として表現されているのだ。
そういう描き方がいいと思う方には受け入れやすい作品なのかもしれないが、クローネンバーグが好きな自分には悲しい作品だった。

ここでよかったのはアレン・ギンズバーグでルシアンに対しての感情も切なく一番深く描かれていたのではないだろうか。
彼が中心の作品だったら、などと言っても仕方ないか。

また、日本語タイトルに不満がある。『バロウズの妻』となっているので彼女を中心とした作品なのかと思っていたが(まあ映画冒頭で『BEAT』と出るのでああそうか、とは思ったがわざわざ日本語タイトルにしているのだからそういう内容かと思ってしまうではないか)彼女は置き人形みたいなもので彼女の心理というものは殆ど掴めないのである。日本語タイトルが頭に入ってしまっていたので疑問が生じてしまったのだが本当のタイトルは『BEAT』なのだから責任はない。
というのは「妻」が主人公ならもっと彼女に焦点を当てた物語であって欲しいが視点はあちこち彷徨っていて妻であるジョーンは赤い唇と赤いパンツが印象的なだけで彼女の内面が伝わってはこない。何故彼女が殺されたのか、とはまったく考えないが(この内容じゃ殺されて当然のような)何故彼女がバロウズに固執したのか判らないのだ。あの色気を持って貞淑だというのも理解しがたい。(これもクローネンバーグのほうがはるかに判りやすい)これも普通の女性だったと言いたかったからなのか。私としてはもっと彼女に入り込んでビートの作家たちを見つめて欲しかった。
映画の中身より最後に流れる文章が最も興味深かった。

と、散々な批評になってしまったが、これもすべてベン・ウィショーのルシアン・カーを観るためだったのでそれなりに楽しんで観ることができたのだった。
本当にベンがルシアンを演じると知ってから観てよかった。でなけりゃもっと悲惨な鑑賞になっていただろう。
ベンが出演する『Kill Your Darlings』(あれ、これ複数形なのね)がこんな説明だけの映画には絶対ならないと信じたい。というか信じ切っているけど。

監督:ゲイリー・ウォルコウ 出演:コートニー・ラヴ ノーマン・リーダス ロン・リビングストン キーファー・サザーランド
2000年 / アメリカ

バロウズが見たいなら大好きなガス・ヴァン・サント『ドラッグストア・カウボーイ』
William S Burroughs scene in Drugstore Cowboy
posted by フェイユイ at 23:37| Comment(2) | TrackBack(0) | 北米 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月15日

『ニクソン』オリバー・ストーン

nixon.jpg
NIXON

えと、もう『ブッシュ』は日本で公開されたんだよね。なのに私は今頃『ニクソン』を初めて観ているというわけなのだが。

『ブッシュ』も楽しい映画ではないだろうが、『ニクソン』なんだかなあ、判って観ているのに言うのもおかしいがこんなに嫌〜な気持ちになる映画を3時間以上も見つめ続けるのは辛いことである。
恥ずかしながら私は若い人でもないのにニクソンのことを全く知らなくてこの映画でやっとこういう人だったのか、と思った程度の人間なのだが(O・ストーン監督から騙されていたらどうしようもない)とにかくこの映画で描かれるニクソンというアメリカ大統領の惨めさだけが伝わってくるのだった。
ホプキンスの演じるニクソンの醜悪さ。対比として登場するジョン・F・ケネディがカッコよすぎてかわいそうなくらいだが、同情心は微塵も感じない。
物凄く陰湿な表情をしているかと思えばいきなり歯を見せてニカッと笑うのだが、これがあまりに不細工でよくここまでむかつく笑顔ができるものだと(ホプキンスに)感心してしまう。
演説をする時はいつも鼻の下に汗をかいててみっともないし、追い詰められて機嫌が悪くなると周囲の人と物に当たり散らすという徹底した不様である。
ウォーターゲート事件の隠蔽および不法な資金融資、部下への心ない仕打ちなどを見せつけられた後で「私は戦争を終わらせ、中ソの外交を成功させた。私のどこが悪い。私を何故嫌うんだ」と言ってめそめそ泣きだす場面はもう憐れとは思えず腹がたってくるのだからオリバー・ストーン監督の絞り上げ方の徹底ぶりといったら相当なものである。

彼は本気で自分を正しいと思っていたのか。あの時妻の言葉通り政治界から身を引いていればこんな残酷な日々を送ることもなかったろうが、政治家を目指すものはやはり頂点に立つ機会があるならそれを蹴ってしまうことはできないものなのか。
宗教的な意味合いで自分が犠牲となって進みたくない道でも進まねばならないのだと思いこもうとしたのか。
では何故不正を犯してしまうのか、何故誰も信じることができず、憎しみだけが彼を取り巻いているのか。
頂点に立ちながらこんなに惨めな存在が他にもあるのだろうか。それとも多かれ少なかれそういうものなのか。

観ながら何故か私としては好きになれなかったバットマンシリーズ『ダークナイト』を思い出した。何故なんだろう。

監督:オリバー・ストーン 出演:アンソニー・ホプキンス ジョーン・アレン パワーズ・ブース エド・ハリス
1995年 / アメリカ
ラベル:政治 歴史
posted by フェイユイ at 22:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 北米 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月12日

『ジム・ヘンソンのストーリーテラー』 vol.1 第4話・5話

jhstory4.jpgjhstory1.jpg
Jim Henson's The Storyteller

さて今夜は第4話と第5話。これはロシア民話であった。
ドイツのグリム童話に比べると馴染みがないせいかもっと変わっているような気がする。そういえば『せむしの子馬』とか『イワンの馬鹿』(どちらもタイトルに問題があるなあ)が有名でどちらも幸運がどんどん押し寄せてくるような話だがこの2話も同じような筋書きではある。

第4話「幸運の持ち主」THE LUCK CHILDは、占い師の「7人兄弟の末っ子が素晴らしい幸運の持ち主でこの国の王になる」と言うのを信じた王が貧しい農民の7人兄弟の末っ子を殺したつもりになるが実はその子が生きていて(つまり幸運の持ち主)結局王様になり王の娘を妻にする。
ここまではよくあるがその時王がグリフォンの羽を取って来いと末っ子に難問を吹きかける。末っ子は簡単に引き受けるとあっさりとグリフォンの羽を手に入れて帰ってくる。しかもたくさんの宝物まで持って。
この末っ子はあくまでも「幸運の持ち主」なので何も努力をしておらずどちらも出会った強盗に助けられる、という変な話である。
最初強盗は王様から手紙を預かって城へ向かう末っ子から金を奪うつもりなのだが彼が持っているのは王様からの手紙だけでそこには「この手紙を持ってきた若者を殺せ」と書いてある。あまりの酷さに同情した強盗が偽の手紙を書く。そこには「若者を娘の婿にしなさい」と書いてあったのだ。
2度目も同じ強盗がなぜかグリフォンの居場所にいて彼に為に羽を抜いてあげるのである。そんなことをしたらグリフォンに殺されてしまうかもしれないのに何故強盗がそこまで末っ子に尽くすのか、よくわからない。
しかもその後、グリフォンの住む島まで乗せてくれる船頭が「いつまでも舟をこぎ続けなければならないのだ」と悩んでいるのでグリフォンから強盗が答えを聞き出したのを教える。つまり「乗せた客に櫓を持たせてしまうのだ」
末っ子が持ち帰った財宝に目がくらんだ王様はグリフォンの島を目指し、まんまと舟を押し付けられてしまう、という物語である。
結局末っ子は何もしない。
貧しい農民はこのくらいの幸運がなければ王様になることなどあり得ない、ということなのかもしれない。
幸運児:スティーブン・マッキントッシュ
王:フィリップ・ジャクソン
妃:ポーリーン・モラン

第5話「兵士と死神」THE SOLDIER AND DEATH も同じように幸運続きの兵士の話で自分も腹をすかせていたのに施しをしたのが発端ではあるがその後はトントン拍子に幸運を得ていく。
「口笛」と「絶対勝つカード」と「なんでも吸いこんでしまう袋」を手に入れるのだ。
悪魔にも勝って悪魔を袋に吸い込み家来にしてしまう。その上「死神が見えるグラス」というのももらってあちこちで稼ぎ出し死にそうな王様の代わりに自分が犠牲になると言って死神を騙し例の袋に閉じ込めてしまう。
ところがここからちょっと風向きが変わってきて、世の中の人間が死ななくなり老人が溢れて皆死を願い始めるのだ。
仕方なく兵士は死神を外に出し、自分も死を願うが死神は逃げ出してしまい兵士は死ねず骨と皮ばかりの老人になってしまう。
地獄に行っても悪魔に嫌われ、天国に行っても入れてもらえず兵士は地上に戻って彷徨い続けている、という出だしがいい人で途中もいい人には違いないのにかなり残酷な最後になっている。
ところがジョン・ハート演じるストーリーテラーは「そんなことでくじける兵士じゃないよ」と犬に話しかける。犬君は同情しながらもやっともらえたビスケットをおいしそうに頬張る。
死神のキャラクターが寂しげで印象的であった。
兵士:ボブ・ペック
皇帝:ジョン・フランクリン・ロビンズ
死神:アリステア・フラートン

これでvol.1は終わり。これはどれも結構複雑でちょっと怖いのではっきりと子供向けではないのだろう。とても面白かったが結局こういうものって一人でもいいからアイドル的な役者、有名役者が出ているかどうかなのかもしれない。
語り手のジョン・ハートしか知らないからなあ。
全部アニメならそういう問題はなくなるわけだけど。
その時はどのくらい魅力的なキャラが描けているか(人形なら作られているか)である。

統括プロデューサー:ジム・ヘンソン  監督:ジョン・アミール(第4話)、ジム・ヘンソン(第5)
1985年アメリカ/イギリス
ラベル:童話 マペット
posted by フェイユイ at 21:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 北米 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月11日

『ジム・ヘンソンのストーリーテラー』 vol.1 第1話〜3話

storyteller1.jpgjhstory3.jpg
JIM HENSON'S THE STORYTELLER

『セサミストリート』をちらりと観たことは無論あるが(TVが家にある人で全く見たことが無い、という人はいないと思うが)ジム・ヘンソンという名前を記憶してもいなかったのだが、なんだか突然選んでしまった。

どうやらTV番組のようで、夜分、暖炉の前でジョン・ハートがやや奇怪な面立ちになり自分がかつてストーリー・テラーとして各地で話をしたことを犬に語って聞かせる、という構成になっている。ジョン・ハートは本人だが聞き手の犬を始め(犬が聞き手なんてそれだけでもう可愛い。しかも人語を話す!)物語に登場する様々なクリーチャーがジム・ヘンソンのマペットである、という趣向である。昨日のトリュフォーよろしく最先端CGなぞは用いない温かみのあるそしてやや不気味さと愛らしさが混じったようなマペットたちである。
今夜は3話分を観たのだが、何故今まで観なかったかなーと思ってしまう面白さだった。
特に第1話「ハリネズミのハンス」HANS MY HEDGEHOG はハンスの造形といい(これはマペットではなく人間が演じている)物語の深遠さといい、子供期にTVでこれを観たら忘れられない恐ろしさに満ちているのではないだろうか。
物語は子供のいない農家の夫婦がいて妻のほうは子供欲しさについ「ハリネズミのような醜い子供でもいいから産みたい」と言ってしまう。願い事は叶えられ、彼女はハリネズミそっくりの針の生えた男の子を産むのだ。父親は周囲の人々の嘲りに耐えられないが、母親は心からハリネズミのハンスを愛しんで育てた。だが人々の苛めと父親の蔑視にハンスはオンドリに鞍を載せて家を出ていく。
ハリネズミなんて可愛いものだが、確かにハンスの容貌は可愛いものではない。もしかしたらこういう人もいるかもしれない、と思わせるような直視できないようなものがある。
子供ができない夫婦という境遇から生まれたハンスは母からは溺愛され父からは嫌われる。これも何か現実にあることのようである。
家出するハンスに父はほっとするが母親は嘆き死んでしまう、というのが悲しい。
さて父親から鞍と家畜をもらったハンスは10年ほど山の中で一人暮している。そこへ王様が通りかかりハンスに宿と食事を提供してもらう。お礼として王様は城に戻って最初に会ったものをハンスに渡すと約束する。果たしてそれは愛娘の姫だった。
醜いクリーチャーが王の約束で娘の姫を嫁にする、という話はよくあるものだが、結婚したその夜姫は先に眠ってしまう。はっとして目をあけるとそこに毛皮を脱ぎ捨てる美しい男の姿があり、男はそのまま外へ出ていく。そこには柔らかな針で覆われた皮が残されている。
次の晩、姫は眠ったふりをして様子を確かめる。そして残された針皮の上に横たわって寝てしまう。
無論、ここでもう姫は皮を脱いだ時の若く美しい夫に恋をしえしまっている。
夫は人間の姿のまま戻ってきて姫に告げる。
「後一晩、だれにもこのことを話さなければ、私は呪いが解け、人間になれるのだ」
うきうきしてしまった姫はうっかり母親に話してしまいそうになる。母親は娘の変化に気づき、「占い師にきいたのだけど、もしかしてあの男が皮を脱いだのならそれを火にくべなさい」
最後の晩、皮を脱いだ夫が外へ出ていくと姫は母親の言葉を思いだし、その皮を暖炉で燃やしてしまうのだ。
途端に外から夫の苦しむ声が聞こえ、姫が見ると夫は元のハリネズミの姿になっている。
そして妻の裏切りに気づき、オンドリに乗って出て行ってしまうのだ。
童話ではこの「してはいけない」という約束を必ず破ることになる。
読んでる(聞いてる)者ははらはらするが若い姫(や若い女であることが多い)は何気なく約束を破ってしまう。たちまち希望は失われる。
ここでは今まで大事にされてきた姫が鉄の靴を履いて夫のハリネズミを探す旅にでる。お姫様が旅に出るなんて不思議だが、これは普通の若い娘の比喩であるだろうから経験不足で失敗をした娘は苦難の旅をしなければいけないのである。
そして鉄の靴を3足も履きつぶして夫に再会する。娘の謝罪と抱擁で人間になった夫を伴い城へ戻り、二人は今度は本当に祝福された夫婦となる。
呪いによって醜い姿、動物の姿に代えられた者が愛を得て人間に戻れる、という物語はどうしてこんなに惹きつけられるものなのか。
それもそのために厳しい苦難を乗り越えなけらばならない、ということにまた惹きつけられる。
ハリネズミというのも男性の青年期の荒々しさを表現しているもののよにも思えるし、原作はグリム童話なのだが本当に面白いと思う。
子供向けの本で単純化してしまって毒が抜けてしまっているものがあるがやはりでいるだけ恐ろしい部分は残していた方が心に残るものである。
ハンス:エイルザ・バーク
農夫:エリック・リチャード
農夫の妻:マギー・ウィルキンソン
王女:アビゲイル・クリューテンデン

第2話「恐怖を知らなかった少年」FEARNOT
フイアノット:リース・ディンズデール
鍛冶屋:ウィリー・ロス
リディア:ガブリエル・アンウォー
第3話「最後の一話」A STORY SHORT
料理人:ブライアン・プリングル
物乞い:ジョン・カヴァナフ
ストーリーテラーの妻:ブレンダ・ブレタイン
どちらもちょっとおかしさのあるでもまた含みのある面白さもあってとても楽しい。
語り手であるジョン・ハートの声もいいし、何といっても犬くんが可愛いのだ。

統括プロデューサー:ジム・ヘンソン  監督:スティーブ・バロン(第1,2話)、チャールズ・ストリッジ(第3話)
1985年アメリカ/イギリス
ラベル:童話 マペット
posted by フェイユイ at 22:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 北米 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月09日

『ビューティフル・マインド』ロン・ハワード

a_beautiful_mind_5.jpg
A Beautiful Mind

例によって何も知らないまま(もういい加減言わんでいいって)観ていたら、物凄く不思議な世界に入り込んでいく物語だったのでのめり込んで観てしまった。しかも実在の人物だと途中(というかつまりあの最後)でやっと気づき驚いてしまった。

この映画を観ている分にはジョン・ナッシュは気位ばかり高くて大した業績を残してないように思われてしまうのではないのだろうか。無論最後に説明が僅かにあるがノーベル賞を取るだけの大きなそして数々の理論を発表し成功した人物なのだが、何故か映画ではあまりそのことが表現されておらず突然ノーベル賞を受けるので何に対してなのかとさえ思ってしまった。もしかしたら知っていて当然、ということだったのだろうか。(日本でなら湯川秀樹の映画というなら知ってて当然だろうし)

さて私のような者がいるからこういう頓珍漢になってしまうのだろう。
そういう当然のことを知らずに観ても非常に面白い作品だった。
業績に焦点をあてなかったのは話の面白さを引き立たせるためには正しい方法だったと思う。
主人公ナッシュは実に共感しづらいアンチヒーロー的な造形で言うことばかりでかいがさっぱり結果を出せずにいるばかりか人間嫌いで人を見下しているとしか思えない嫌な奴である。
映画の中ではやっと一つの面白い理論を発表することができ何とか教授に認められた、という感じである。彼は常に自分より他人が上手くやっていることに反感を持っていてその為に政府のトップシークレットの任務に就けたことに満足したのだろう。そしてそういう状況の中で結婚、妻の妊娠となり、ここで彼のスパイ活動が彼の幻想によるものだった、と判る。しかも大学時代彼の同室者だった親友チャールズとその姪までも彼が作った幻覚だった。
実際の教授や友人、彼の恋人などの中に彼の幻覚の映像が巧みに入り込んで表現されているので全くそうと思わずに観ていた。私なんぞを騙すのはいかにも簡単なことである。そういえば結婚式に何故チャールズは車から見ているだけなんだろ、とだけ思ったくらいのもんである。

ナッシュの幻覚の混ざった前半部分の面白さから後半は彼が病気であることを知った上での幻覚の表現を見せられ、こちらも混乱してくるみたいだ。
狂った夫に時には怖れを感じ、苛立ちながらも彼を見捨てずにいた妻(現実はちと違うようだが)学生だった彼女がいきなり結婚までして病気の彼を支え続ける物語に「こんな話って変なの」と思いながら観ていたのに、実話とは創作以上に不思議なものだ。
映画的にはさしたる仕事もできないまま、狂ってしまい、妻に世話をされながら何とか生活し無意味のような勉強を続け、また悪化し、さらに妻に支えられ、かつて勉強したプリンストン大学で教鞭を取る友人(といってもナッシュのライバルだった人物)を頼って図書館で過ごすことを許される。
統合失調症により幻覚は消えることもなくただ学生からかわれながら年月が経ちそれでも大学に通い続ける。ある日話しかけてきた学生との会話にナッシュはこれまでにない人との交流を見出し、教える楽しみをみつけやがて教壇に立つことになる。そして彼の業績に対しノーベル賞が贈られることになり、ナッシュは長年彼を支えてきてくれた妻に感謝を述べるのだった。

実際のナッシュ氏の説明を見るととにかく映画のようにしょぼい人物ではなく物凄い才能と成功を果たした人であり、アリシア以外にも子供を成した女性がいるし、ナッシュ氏に男性の愛人がいたためにアリシアとは一度離婚してでも彼を見捨てはせずに再婚、と映画とは全く違う話で(これも事実の方が衝撃的だ)驚くばかりである。
まあここはあくまで映画の感想であるからそちらに絞って言うことにして、なかなか面白い時間を過ごすことができた。ラッセル・クロウは初めてまともに作品を観たのだが非常によかったと思う。

しかし実話のほうを読んでしまうと(またそれが正しいかは判らないが)そっちがあんまり驚きだったので少々作品への驚きが薄れてしまったかもしれない。いかんなあ。
ラッセル・クロウに男の恋人がいるところを観たかった。彼の『人生は上々だ!』を観たいのだがまだ果たせずにいる。
 
追記:なんだか余計なことばかり書いて肝心の『ビューティフル・マインド』な部分には全く触れなかったようだ。
つまり実話を映画化した作品なのかもしれないがここで描きたかったのは純粋に数学を愛し続けた一人の数学者の人生なのだろう。それを実在の男性の姿を借りて表現した、ということなのだろう。
ただそれが他の部分があまりに面白くハリウッドらしい技術力を使って派手な演出をされているので主題が薄くなってしまっているようにも思える。
妻の犠牲的な愛情を強く出してしまったのも受けを狙ったせいなのだろうがもっと数学者の面白さと苦悩と喜び(ここでは生まれてしまった病気も)に焦点を当てて作った方がもっと自分としては好きになれた気がする。受けは悪くなるのかもしれないが。
それにしてもやはり実話の映画化というのは難しいものなのだが、ここまで違うものになってしまうなんてそれこそハリウッド映画を皮肉った映画によくある話である。

監督:ロン・ハワード 出演:ラッセル・クロウ ジェニファー・コネリー エド・ハリス クリストファー・プラマー ポール・ベタニー
2001年アメリカ
ラベル:精神 人生
posted by フェイユイ at 23:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 北米 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。