映画・ドラマ・本などの感想記事は基本的にネタバレです。ご注意を

2009年05月02日

ガエル・ガルシア・ベルナルとディエゴ・ルナ、新作映画ではサッカー選手に!

ガエル・ガルシア・ベルナルとディエゴ・ルナ、新作映画ではサッカー選手に!
ですと!『天国の口、終りの楽園。』の可愛い二人がまた共演しかも兄弟。またもやふざけてばかりいるみたいで楽しそうです。
ガエルのシュートが見ものですね^^;

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2009年02月07日

『バス174』ジョゼ・パジーリャ

ONIBUS 174.jpg
ONIBUS 174/BUS 174

2000年6月12日、リオデジャネイロで起きたバスジャック事件のドキュメンタリー映画作品である。
実際のバスジャック事件を映しながら乗客や警官そして犯人の叔母、友人などの証言を交えて犯人であるまだ21歳のサンドロのこれまでの生い立ちを綴っていく。
一つのバスジャック事件を元にブラジルの抱える問題を生々しく表現していく力量に圧倒されてしまう。
サンドロという若者が一人で起こしたこの事件は彼が置かれた悲惨な生活からくるものであることは確かだ。そして彼を取り囲んだ警官達もまた働く場所がない為しかたなく警官になった者たちだという説明がなんとも空しい。
そうした警官達は満足な訓練も受けずこうした事件での対処など何もしらず射殺することだけを考えているという。そしてそうした警官達が地域市民からの要請で雇われサンドロたちストリートチルドレンに暴力行為をふるっているという事実。
カンデラリア教会虐殺事件はそうした警官達がストリートチルドレンを虐殺した事件でサンドロもその事件を目撃していたのだった。
親が不在か見捨てられた子供達は仕方なくストリートチルドレンとなって次第に犯罪に染まっていく。社会はそうした子供達を見て見ないふりをし彼らはそこにいるのに「見えない子ども」となってしまう。
人間にとって最も苦痛なのは無視されることだというが彼らは文字通り無視され人間ではなくゴミのように扱われていくうちにますます立ち直れなくなっていく。
サンドロの友人が「金持ちでなくバスなど襲っても意味がない」というのだがサンドロは金が目的というのではなく自分と言う存在を知って欲しいということでバスジャックをしてしまったのだろう。その為に彼はこれといった要求をするわけでもなく、そして自分がもう逃れられないことを予見し自由になれることだけを願ったのだろう。
証言者たちが言うように彼は人質を殺すつもりはなかったのだろうが結局追い詰められて殺人を犯してしまった。このこともそれまでの彼の人生と犯罪そのものように思える。
サンドロも警官も同じような存在なのだ。
それにしても驚きなのが人質の一人であり眼鏡をかけた当時19歳という少女である。
拳銃を突きつけられながらも冷静にサンドロを見つめていて彼に対して思いやりさえ持っている。優しい言葉をかけて落ち着かせ怯える他の女性をは励ますなど大変気丈なお嬢さんである。「この中で一番不幸なのはあなたよ」という言葉は犯人サンドロにも響いたのではないだろうか。
この事件を引き起こすことになった社会の問題は簡単に解決できることではないだろうがこういうドキュメンタリーが作られることはやはり必要なことなのだ。

サンドロが入れられたこともあるという刑務所の牢が凄まじく怖ろしい。10人しか入れない場所に30人以上も入れられ気温50度の中で半分が横たわり半分が立ったままかハンモックに吊られているというまったく人間性を無視した場所だった。

カメラが俯瞰で捉えると高層ビルが立ち並ぶ華やかな都市であるその下にストリートチルドレンが横たわり犯罪が横行しているのである。

幼い時に目の前で母親が殺されたというサンドロはどういうきっかけかある年配の女性を母親と呼んで慕っていたという。
その女性は一室をサンドロに与え彼はその人を本当の母親のようにして甘えていたらしい。一体何が彼を悪の道に走らせたのか。
その女性の願いどおりサンドロがいい家庭を持つ未来はあり得なかったのか。
酷く悲しいドキュメンタリーである。

監督:ジョゼ・パジーリャ
2002年ブラジル
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2008年05月19日

『ナイン・シガレッツ』ウーゴ・ロドリゲス

ナイン・シガレッツ.jpg
NICOTINA

ディエゴ・ルナがめがねで髭のオタク青年になってしまった。のだが、これが凄く可愛い。
『ダンシング・ハバナ』の前年の作品である。

殆ど画面には登場しない(一度ちらりと)20個のダイヤモンドを巡って様々な境遇の男女が入り乱れ次々と殺人が起きてしまう。その原因が禁煙のイライラだという皮肉なお話。

とんでもない展開がどんどん起きてしまうのでついつい見入ってしまう。いくら何でも殺人しすぎ、なのだが、まあその辺は大目に見て楽しもう。
現実には起きないだろうけど、でももしかしたら起きてしまうかも、ということがどんどんつながっていく。
出だしはパソコンだが出来事は最先端というようなものではなく地道な話だったりする。
昔懐かしい様式の作品なのだ。

とにかくオタクなディエゴ・ルナくんが結構いいなあ、と思ってしまった自分である。仲良し二人組みもよかったし。
殺人が立て続けで起きる割にはのんびり観れる感じが気楽でよろしい。
一番凄いのは理髪店の奥さんだったなー。
迫害を受けていた理髪店の夫と薬屋の奥さんが残ったね。

監督:ウーゴ・ロドリゲス 出演:ディエゴ・ルナ ルカス・クレスピ ヘスス・オチョア マルタ・ベラウステギ マルタ・テノリオ
2003年メキシコ

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2008年05月15日

『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』ヴィム・ヴェンダース

ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ bb.jpg
BUENA VISTA SOCIAL CLUB

昨晩観た『サルサ!』でキューバ熱に火がついて今夜はこれ『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』
無論『サルサ!』もこれをきっかけに作られているのだろう。波の荒い海岸べりの道や古いアメ車が平気で今走っている不思議な光景が印象的である。
自分はライ・クーダー氏自身をよく知らないでいるのだが(すみません)なによりもう引退同然で世界的には無名だったはずの年老いた彼らの音楽をこうして集め聞かせ、見せてくれたことには感謝せずにはいられない。
以前にも観て記事にも(『藍空』)書いていると思うが読み返してはいないので感想は重複していると思う。
特にまとまったストーリーというものはないこの映像作品にはライ・クーダーが忘れられてしまった存在のキューバの老音楽家達を丹念に呼び集め、友人の映画監督ヴィム・ヴェンダースにより撮影されたものである。
殆ど音楽活動をしていなかったはずの彼らはライの要求に嫌がることもなくあっさり演奏を再開している様子で彼らが心から音楽を愛していること、生きていることと音楽とが自然に結びついていることが伝わってくる。
この映像にはコンサートの場面から始まり、そんなかれら一人ひとりの語りとそれぞれの音楽が散りばめられるように収録されているだけなのだが、それでいてまったく退屈することがない。誰一人有名だとか知っているミュージシャンだとかいうのでもないのに。
無論この映画の中で彼らを知り、彼らを好きになってしまうはずなのである。
特にコンパイ・セグンドとピアニストのルベーン、歌手のイブライム・フェレールには参ってしまうのだ。
その音楽の素晴らしさは言葉で語られるわけもないのでまずは観て聞いてもらうより仕方ない。ライはフェレールをキューバのナット・キング・コールだと言う。私にはよく判らないが彼の歌声がスペイン語の巻き舌も相まって素晴らしく音楽的に響くことだけは判る。声の一つ一つが不思議な深みのある響きを持っているのだ。
とにかくキューバ音楽の明るく軽やかなのに重く湿った悲しげなこの音色というのはなんだろう。
なぜこうも懐かしく思ってしまうのか。なぜこうも心の中に入り込んでくるのだろうか。

音楽の美しさに加え、ヴェンダースの映像がさらに郷愁を誘うようなそんな趣がある。
冒頭の道路に打ち上げてくる波飛沫の海岸通りの場面は酷く印象的である。
小奇麗とは言いがたい狭い道と街並みを歩きながら歌う姿。昔あったクラブを尋ねると通りかかった人々が口々に教えてくれる。
冷蔵庫を運ぶ人たちに「手伝おうか」と気軽に声をかけるフェレール。

また美しい色彩の窓がある部屋での演奏や人気のない昼間のバーで話をする時、窓から風が吹き込んでカーテンが緩やかに舞い上がるのが涼しげである。
キューバ音楽には悲しげに響く情熱と心を吹き抜けていく涼しさがある。それは暑い国で暮らす人々を安らげるのだろう。

ルベーンの弾くピアノも今まで見て聞いてきたヨーロッパのものとは全く違う音である。
そしてパーカッション!なんて奇妙な不思議な叩き方なのか。パーカッションはうるさくせず極めて軽やかに聞かせないといけないようだ。

ああ、音楽的な言葉を全く持っていないのに判ったかのように書くのは至難である。
どうしたって音楽は言葉ではなく感じることなのだから。

フェレールは歌だけでなく話にも心惹かれる。子供の時に両親を亡くした彼の人生は容易いものではなかったはずだ。
それでも彼の歌声は素晴らしい。彼は母が信じていたという聖ラサロを信じていると言って部屋の壁にラサロを祭り、大好きなラム酒と蜂蜜を捧げ、出かけるときは香水を自分とラサロにふり掛けると言う。そんな信仰心がなぜかじんわりとしてしまうのだ。

フェレールが女性歌手と歌うラブソングがいい。彼らの歌はやはり恋の歌なのだ。
90歳代のコンパイ・セグンドは今なお恋愛現役で「女性と花とロマンス」がないと生きられないという色男である。かっこいい。
『サルサ!』にも描かれていたような恋の力が彼らの原動力なのだ(なんて書いてること自体がもう駄目だね)

『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』夏が来ると聞きたくなってしまうものでもある。熱さの中に涼しい風を感じさせる、打ち揚げてくる波のようでもある。

監督:ヴィム・ヴェンダース 出演:イブライム・フェレール/ルベーン・ゴンザレス/コンパイ・セグンド/オマーラ・ポルトゥオンド/エリアデス・オチョア
1999年ドイツ、アメリカ合衆国、フランス、キューバ
ラベル:音楽
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2008年02月20日

『天国の口、終りの楽園。』アルフォンソ・キュアロン

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ガエル・ガルシア・ベルナル出演作品、再観であるが、これもまた2回目でやっと何かが伝わってきたような気がする。彼の出演作品というのは他にない深さがあって一度ではなかなか把握できないのかもしれない。

人生の終末に絶望した美しい人妻とまだ人生の始まりに立っている二人の少年の話である。

スペインから来た魅力的なルイサに声をかけた二人の若者フリオとテノッチは彼女の気を引くために“天国の口”という名前のビーチがあると嘘をつく。
ルイサは夫の浮気で決心をつけ、彼らとあるはずのない海辺へ向かう旅に出るのだった。

映像と音の美しさに感動する。
太陽の眩しいメキシコなのにどこか煙ったような日差しの翳った曇り空を感じる。自然の音が絶えず聞こえてきてそれが心地よい。道路の車の音も雑多な人の声もどこからか聞こえてくる感じだ。
彼らが運転する車から見える景色は決して美しいと思えるものではない。自然もどこか荒々しく柔かさに乏しい。すれ違う人々は一体何をしているのだろう。事故にあって倒れた人、警察に捕まっている人たち、行列を作って歩いていく人の群れや集まった人たちも何か意味ありげで楽しそうには見えず、危険が迫っているようにさえ思える。
そんな中を3人は馬鹿話ばかりを繰り返しながら酒を飲みマリファナを味わいながら駆けていくのだ。

冒頭からフリオとテノッチが恋人とセックスしているシーンが続き、人妻ルイサとも話すのはその手の自慢話ばかり。
やがてルイサはまだ少年の彼らを誘いセックスをする。未熟な二人はあっという間に達してしまい、いつもの自慢はどこへやら、彼女を満足させるどころではない。
最初観た時はそれらの繰り返しばかりに戸惑いもしたが観返してみると
それらの一つ一つがフリオとテノッチが背伸びしていく初々しさと可愛らしさの表現だと知れてくるし、ルイサが人生に別れを告げているのだという事が見えてくる。
美しく楽しいものと辛く悲しいものが対となって描き出されていく。甘い喜びの日々のすぐ後には苦い涙がこぼれ落ちるのだ。
若いフリオとテノッチのこれからの人生もまたそうして続いていくのだろう。
二人の少年期の終わり、そしてルイサにとっては人生の最後の日々の旅は美しくまた悲しい。
ただルイサがたどり着いた海辺を好きになり波に漂うように身をまかせることが救いのように思えた。
少年たちは今すぐには彼女の存在の意味がわからなくとももっと大人になった時に思い出すのだろう。

ルイサは凄い美女というわけではないが知的でなんといっても体の線が美しい。カメラの前に投げ出された脚線美といったら。セクシーな脚を絵に描いたかのようである。
ルイサと少年たちの関係が恋愛というよりどちらにとっても一種の儀式のようでじめじめしたものではないのがよい。
姉や教師というより母親と息子みたいでもある。だからテノッチは「ママシータ」と叫んでしまったのかもしれない。

でまかせにつけたビーチ“天国の口”に向かう旅、たどり着いたその浜辺で酔いながら騒ぐ彼らが楽しげで羨ましかった。

フリオのガエルがかわいいのはもう言うまでもないが、テノッチ役のディエゴ・ルナの繊細な美しさが印象的だ。
実際にも仲がいいという二人らしいが、いつも一緒にいてケンカしたり、ふざけたり。最後に交わすキスと訪れる別れの切なさ。
髪型も服装もすっかり変わってしまった二人にはっとするようなときめきを覚えながらも寂しく思うのだった。
このときのディエゴ・ルナは本当にまだ少年と言う感じで華奢で女の子のように可愛らしい。金持ち息子が似合っている。

作品の原題は"Y tu mama tambien"で「お前のママとも…」の意である。これはフリオがテノッチに言う言葉。意味はお判りだろう。

監督/脚本:アルフォンソ・キュアロン 出演:ガエル・ガルシア・ベルナル、ディエゴ・ルナ、マリベル・ヴェルドゥ

2001年メキシコ

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2007年04月11日

「NINE QUEENS 華麗なる詐欺師たち」フェビアン・ビエリンスキー ファビアン・ビエリンスキー

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久しく南米映画を観てないので寂しくなって探し出したのがこれ。
レンタルできる南米系映画でめぼしいのってほんと少ないの。
でもこれはなかなか快作だったよ。

コン・ゲームというジャンルで「オーシャンズ11」みたいな、と思ってたらこのアルゼンチン映画は後にジョージ・クルーニーとソダーバーグの共同制作で「クリミナル」という作品にリメイクされたそうな。またリメイクか。

小さな犯罪から始まって騙し騙され、出てくる奴皆信用できないという面白さ。
舞台がアルゼンチンなのでハリウッド物とは違った味が楽しめる。
主人公ファンも確かに人のよさそうな顔つきで可愛いし、相棒もかっこいい。肩肘張らず楽しめる一品であります。

“NINE QUEENS”と呼ばれる高価な切手が登場するなど古風な感じも好きである。
その切手が出てくるまでちょっと退屈するかもしれないけど我慢我慢。
アルゼンチンらしい展開もあって面白い。
弟くんが可愛い顔だった。

監督:フェビアン・ビエリンスキー ファビアン・ビエリンスキー 出演:ガストン・ポールス リカルド・ダリン レティシア・ブレディス
2000年アルゼンチン
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2006年10月22日

「僕と未来とブエノスアイレス」ダニエル・ブルマン

ブエノス.jpg

ブエノスアイレスの小さな商店街でランジェリーショップを経営する母と暮らすニート状態の青年のお話。

ガレリア(アーケード商店街)はアルゼンチンの経済状況をそのまま表してるが如くナンとも沈滞ムードが漂っている。
登場人物も年配の男女が多くてしかも若者(といっても30歳くらい)である主人公アリエルはまともに仕事もせずぶらぶらしながらポーランド人になってヨーロッパに行こうと思いつめてる。そんなアリエルの父親は彼が生まれて間もなくイスラエルへ戦争へ行きそのまま帰ってこないのだ。
そんなある日父親が突然帰ってきてアリエルの心は思い乱れてしまう。

アルゼンチンのごく普通の人々の生活を描いたものなのだと思う。なんだかこうやって観ていると私の周囲の状況とあんまり変わらない。街並みなんかも同じみたいな気もする。
アルゼンチンと言うとサッカーやらタンゴやらそして勝手に治安が悪くて怖い場所のような印象と人間もやたら情熱的なような気がするけどこの町の人々は少なくともご近所さんみたいである。
例えばお母さんが息子にバターナイフを差し出して「これで私を殺してちょうだい」なんて。
再会したお父さんとも意地張って何も話さないまま早歩きで競走したりしてかなり情けなく普通っぽいのだ。
そんな面白い雰囲気を出しているのも主人公がブエノスアイレスでのポーランド系ユダヤ人という設定(監督自身がそういう人物)だからだろうか。
そしてこのガレリアには様々な人種が住んでおりそれ自体がアルゼンチンの縮図なのだという(その辺はうちの近所とは違うけど)
中には韓国から逃げるようにしてやってきたと言う若い夫婦がいてなぜだか風水の店をやっている。しかもそれはアルゼンチンに来てから学んだのだという。それはそうだろう。どう見てもその店はインテリアからして中国風でして周囲の人はどうでもいいんだろうけど東洋人としてはちと気になる。

モラトリアムな時間をすごしている青年アリエルがこの狭い町の中でこれまたいかにも今風に大人になろうとしている姿が映し出される。
長い間会えなかった父親との再会を拒みながらも会いたいと願っている。父親との駆けっこで何かを吹っ切ってしまったのかもしれない。

そしてそれ以上にかつてポーランドでナチスによる怖ろしい迫害を受けた祖母が一度忘れようとした歌声を取り戻しプロの歌手を目指すというラストはなかなか心憎いものであった。

監督:ダニエル・ブルマン 出演:ダニエル・エンドレール(ウルグアイ出身で「ウィスキー」にもカメオ出演していたそうな)、アドリアーナ・アイゼンベルグ
2003年 アルゼンチン、フランス、イタリア、スペイン合作
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2006年10月20日

「ウィスキー」フアン・パブロ・レベージャ、パブロ・ストール

ウィスキー.jpgウィスキー2.jpg

映画の始まりに自動車の内部にカメラを置きゆっくりと走り出して外の風景を映していく、というのは基本なのだろうか。
「私は移動していく映画が好きだな」と思ってから気にして観ていると導入部にこれを使う映画が本当に多いのだ。多分この移動によって観客は映画の世界に連れて行かれるという効果があるのだろう。私なんかすぐこの暗示にかかって恍惚としてしまうのだから簡単なものである。

とても面白い味わいの映画である。なにしろ物語の説明というものがなく観てる者は口数少ない登場人物たちの会話からなんとか情報を得なければいけない。
しかしこれは当然のこと。目の前で行われる会話を聞いているだけなら昔の話をいちいちするわけはないのでごく自然なことなのだ。


主要な登場人物はわずか3人。場所はウルグアイの田舎町。
兄・ハコボはオンボロ靴下工場の経営者。いつも壊れたブラインドを自分で修理している。自宅は広いが独り身のせいで殆ど物置状態。無口でいかにも頑固者。必要なことしか話さない。怖い顔をしているが「ウィスキー」と言いながら写真を撮られる時だけは笑う。
弟エルマンはブラジルで同じく靴下工場をやってるがこちらは羽振りがよさそうだ。新型の機械もいれ手広くやってるのが伺える。
結婚をして子供もいる。幸せそうだ。社交的でマルタにもやさしい。
ただ兄に対しては、母親の看病を任せっぱなしにした上葬式にも出なかった、という引け目がある。
そしてマルタ。最初登場したときはすっかり女らしさも失せてしまった中年のおばしゃんという感じでただハコボに気を使って生活しているような存在だったのが3人の物語が進むにつれ次第に感情も豊かになり(おしゃれもして)エルマンの言葉に心を動かされハコボの態度に思い悩む最後には立派な映画のヒロインになってしまったのであった!すばらしい!

この映画では色んな謎が放り出され答えは与えられず観客は置き去りにされる。
彼らの過去や関係の謎もあるが最も気になるのはマルタの思い、彼女がこれからどうするのかどうなっていくのか、である。
マルタが上司ハコボから頼まれた偽の妻の役を演じて気づいた自分の存在。(しかしこのマルタの状態って結婚して長年たってしまった妻そのもののようである。髪型を変えても気づかれず、やさしい言葉もかけられず、他の男性の言葉にはっとしている)(私の実生活はそんな風ではない、まだ)
冴えないマルタの特技は言葉を逆さまに言える、ということ。例えば「ハコボは怒っている」なんていうのをぱっと逆から言えるのだ(日本語では割と言えるけど向こうは子音と母音があるから難しいのかな?)
これは何となく偽の妻というのをさっとやってのけるマルタらしい特技なのかもしれない。

マルタが長年続けてきたハコボとの関わりをどうするのか。これからどうなっていくのか。
マルタはエルマンに「ブラジルに行ってみたい」と言い帰り際の彼に手紙を渡した。その中に何が書いてあるのか。
さてマルタは大きな冒険の旅に出るのか。それとも再びハコボの要求に答え、繰り替えしの日常にもどるのだろうか。
答えは観る時の気分によっても変わりそうだ。

デコボコ3人が連れ立って歩くとこもおかしいし、金を使おうと思って賭け事をしたら逆に儲けてしまったり(世の中は思うようにならないね)このなんてことない(悪党でもないしね)おじさんおばさんがたが面白くおかしく寂しくて凄くよいのだった。
ウルグアイ映画なんて初めての経験(しかも若い監督らしい)こんなによい映画があるのだ。

監督:フアン・パブロ・レベージャ、パブロ・ストール
脚本:フアン・パブロ・レベージャ、パブロ・ストール
   ゴンサロ・デルガド・ガリアーナ
出演:アンドレス・パソス、ミレージャ・パスクアル
   ホルヘ・ボラーニ
2004年/ウルグアイ=アルゼンチン=ドイツ=スペイン
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2006年10月15日

「そして、一粒のひかり」ジョシュア・マーストン

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男女問わず主演のカタリーナ・サンディノ・モレノの美しさに射止められてしまうだろうな、と見惚れつつ鑑賞。
確かに困ってはいるが、どうしようもない状況と言うわけではない17歳の少女がちょっとしたきっかけから怖ろしい道行へと向かってしまうのだ。

多分この映画を観るような人はニュースなどで麻薬の密売というものを少しなりとも知っているのではないだろうか。
私もテレビで平凡な主婦が金に困り、かと言ってコロンビアではこれという収入のあてもなくこの映画のように麻薬のカプセルを飲み込んで密輸したという告白のVTRを見た記憶がある。
言葉による説明だけでもその苦痛を思うと怖ろしかった。

どうも主人公に感情移入しやすいのか普通はそうなるものなのか、カタリーナの演技のせいか自分までカプセル状の物を飲み込んでしまったような不快感でたまらなかった。
第一、マリアがボーイフレンドをそっちのけで屋根に上った時から高所恐怖症の私は胃袋がおかしくなったのだ。あれはマリアがとんでもないことをしでかす前触れだったんだろうがあーゆーことはやめて欲しい(どっちが怖いんだ私は)

コロンビアという南米の国を扱った映画だが、監督はアメリカ人のせいか計算された(きちっと伏線を張っていたり)まとまりのあるアメリカ映画であった。
むしろところどころ実際はもっとわけわからんかったり過酷だったりするんではないか、とも思えた。金も手に入れ新天地で生きようとするラストはアメリカ的に明るさを感じさせるものでほっとはする。が、無論マリア自身がルーシーになったかもしれないししかるべき場所に放り込まれた可能性もあるのだ。売人の男達が金を渡したのは謎だった。受け取ろうとした時撃たれるのかな、と思ったのだが(優しい人たちなのか?)(リサーチによる映画ということなのでそういうこともあったといわれればそれまでなんだろうけどさ)
カルラの友達の世話人さんが警察に知らせるとか言ってたのはどうなったのか不注意でよく判らない。また彼女達が麻薬を持ったままだったのも驚いた。

はらはらしつつのめりこんで観たもののそういう蟠りもあったりする。
つまり一人の女の人生の一過程を切り取った作品としては面白いが、麻薬映画としてはハッピーすぎだし(もうちょっと脅した方がいいような)南米映画好きとしてはさっぱりしすぎてしかもやっぱり最後はアメリカ万歳っていうことか?ってふてくされたりするのだ(とはいえ、このような問題を映画にできるのは結局アメリカだけなんだよな、とも言えるのだが)

コロンビアについてまったく不勉強で実情を知らないんだから情けない。(コロンビアって言うと麻薬密売とサッカー選手バルデラマ、最近話題になった歌手ファネスくらいしか知らないものなあ。荒っぽい話しか聞いたことないし)
コーヒーは有名だが(エメラルドの産地でもあるが無縁すぎて何も言えん)

という褒めたんだか貶したんだか自分でもよく判らないが書いてるうちにこうなってしまった。書き出す前は結構面白いつもりでいたんだけどね。
そういうこともあります。

アメリカ映画に入れた方がいいとは思うのですが一般的にコロンビアの映画と思われそうなので一応南米映画にしておきます。

監督:ジョシュア・マーストン  出演:カタリーナ・サンディノ・モレノ 、イェニー・パオラ・ベガ 、ギリエド・ロペス 、ホン・アレックス・トロ 、パトリシア・ラエ
2004年 コロンビア

バルデラマ.jpg
バルデラマです
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2006年08月16日

「モーターサイクル・ダイアリーズ」特典を観て

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「モーターサイクル・ダイアリーズ」特典を観て
まずウォルター・サレス監督、凄くハンサムなのでびっくり。「セントラル・ステーション」をまだ観てない(観れない)のが悔しい、是非観たいものです。
当たり前かも知れないけどサレス監督自身もゲバラとその著書が好きだったというのがうれしい。

ガエル・ガルシア・ベルナル。いつもそうですが、とにかく屈託ない笑顔で可愛い人なのだ。中南米のブラッド・ピットと言われてますが、と言うインタビュアーに驚いてた。魅力の質が全然違うし、作品も全く違うよな。でもまあこういう言い方はいつもの事なんで目くじらを立てる必要もなし。ガエルも失笑してただけです。
日本の皆さんへの挨拶では日本語を披露。挨拶の他に「ちょーかっこいい」とか言ってる。きっと言われたんだな。
ガエルもやっぱりチェ・ゲバラには感銘を受けていた、ということ。サレス監督の話に戻るけど彼のゲバラの映画を撮っている、といったらみんな協力してくれるらしい。本当の英雄なのだなあ。

ロバート・レッドフォード。この南米映画のプロデューサーがバリバリのUSA俳優&監督のロバート・レッドフォードなんてね。今の人はさほど驚かないんだろうけど、私達世代には二枚目俳優っていったらレッドフォードだった。私にとっては「明日に向かって撃て!」かな。後「スティング」と「華麗なるギャッツビー」だあ。
ゲバラの家族が映画を気にいってくれてほっとしたらしい。インタビュアーが「カストロ議長も試写を観たそうですね」と言うのに答えて」「噂を何でも信じちゃだめだよ。しかも僕がカストロとスキューバダイビングをしたとか(笑)」スゲエ噂だ。でもホントにカストロ議長とは試写が終わった後出会ったらしい。やはり彼としてはゲバラの映画は気になったらしい。でもゲバラの奥さんが怖くて逃げたそうな、ほんとかな。
アメリカ人のレッドフォードがアメリカにとって敵のようなチェ・ゲバラの伝記映画を作るなんて難しいのでは、という問い(そんな言い方じゃなかったけど)には確かに政治がらみの映画を撮るときは細心の注意が必要だけど出資者はすぐ集まったらしい。そのくらいチェ・ゲバラは人気があるんだって。なるほど。

ゲバラの友人、アルベルト・グラナード。小柄でとても可愛らしい(失礼ですが)雰囲気のある方です。映画のイメージがぴったりですね。
ゲバラより6歳くらい年上なんですが彼の凄さをちゃんと感じ取っているのが凄い。グラナードの著書「トラベリング・ウィズ・ゲバラ」は読みやすくて彼への尊敬と好意が溢れていて素晴らしいものです。

「トラベリング・ウィズ・ゲバラ」もう一枚の特典映像。ノートン500のレプリカに乗ったセルナとベルナルが本当のグラナードに会いに行くというものだ。今は年とった彼をバイクに乗せ映画の話をする。とても興味深く質問するグラナードさんとベルナルたちの会話が楽しい。

ゲバラとグラナードが南米縦断の旅に出た時、ゲバラの母親だけが二人が完走すると信じていたと言う。他の者はみな挫折して帰ってくると思ってたのだ。自分たちがどんなに頑固かみんな知らなかったんだ、とグラナードは笑う。
posted by フェイユイ at 22:49| Comment(2) | TrackBack(0) | 中南米 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「モーターサイクル・ダイアリーズ」ウォルター・サレス

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このブログの始まりをこの映画にしたかった。
なぜならこの映画を観て以来、「放浪」と言う言葉あるいは「旅」でもいいのだがどこかへ行く事もない自分がよりそういうことへの憧れを確認させられたからだ。

この映画は「藍空」の時に一度観て記事にしている。2005年6月12日日付なのでもう一年以上前だ。
その時も深く感銘を受けたのだが、その後少しずつ私はチェ・ゲバラに興味を持ち出しこの映画の原作であるゲバラ原作の「モーターサイクル南米旅行記」そして相棒のグラナード原作の「トラベリング・ウィズ・ゲバラ」を繰り返し読むことになった。
特にグラナードの旅行記は映画を思い出させるもので素晴らしい記述である。後に革命家として有名になるチェ・ゲバラは勿論だが、その友人であるグラナードの青春もまた美しいものなのだ。

原作と映画があるとどちらがいいとか悪いとかすぐに言い出してしまうものだが、(この件は映画が先で原作を読んでまた今回観たのだが)これに関してはどちらも深く心に残り響いてきたのだった。

原作を読んで再度映画を観てよりゲバラ(ところで原作を読んでるとつい彼をフーセルと呼んでしまう)の南米大陸への強い思い、そこに住む人々の生活の過酷さ悲しさが理解できる。
が、映画では彼らの旅の物悲しく感じるほどの風景の美しさや壮大さが伝わってくる。

南米を旅することでエルネストはグラナードと共に貧困と差別に苦しむ人々の姿を見てある時は怒り、ある時は無力感を持つ。
が、映画の中ではエルネストはまだハンセン氏病の勉強をしている若い医師の卵にすぎない。
将来チェ・ゲバラと呼ばれ革命家となる姿はここでは明確に提示されていないだけに妙な押し付けがましさもない。

二人の旅が映し出される。荒涼とした風景、厳しく長い道のり、「怪力号」と言う名前だが壊れかけたオートバイが何度もひっくり返る。風に舞い上げられるテント、そういったものが青春の一場面として残るのであろうが、またチェ・ゲバラがこれから歩まねばならない苦難を示しているようにも感じる。だがそれらがなんと美しく心に焼き付けられることか。
そしてハンセン病診療所での人々がエルネストに贈ってくれた筏も彼らに礼を言うために川を泳いで渡ったエルネストも未来に続いているのだろう。(なにしろこの川にはピラニアが泳いでいるのだ)

映画中、フーセルとミアル(ゲバラとグラナードはしょっちゅうけんかしているがとうとう別れの時が来るとフーセルはもういないグラナードの姿を見ようと何度も振り返るという記述がある。
この後チェ・ゲバラはキューバ革命を成功させる一人となりそれからも革命家として命をかけることになる。グラナードはそのゲバラの意思を受けてキューバのハバナ大学の教授となるのだ。

「トラベリング・ウィズ・ゲバラ」の最後にゲバラがグラナードに送った手紙がある。きみの手紙に対して、お手軽な哲学で返事を書くつもりはない。返答するには、マテ茶を二杯、多少のエンパナーダ、ちょっとした木陰が必要だ。そして話をしよう。
きみに大きな抱擁を送ろう。きみのマッチョな威厳も私からなら抱擁を受け入れるだろう」
進む道が分かれてもずっと友達でいる、そんな気持ちを感じさせる手紙である。



2005年6月12日/「モーターサイクルダイアリーズ」
posted by フェイユイ at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 中南米 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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