映画・ドラマ・本などの感想記事は基本的にネタバレです。ご注意を

2010年06月18日

The Prophecy - Aymeric Giraudel

The Prophecy - Aymeric Giraudel




The Prophecy – A Digital Masterpiece Of Aymeric Giraudel
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2010年06月15日

英エンパイア誌の「史上最高の外国語映画100本」 第1位に「七人の侍」

英エンパイア誌の「史上最高の外国語映画100本」 第1位に「七人の侍」

1位が黒澤『七人の侍』というのはやっぱり、と言う感じでも嬉しい。22位に『羅生門』これもやはりねえ。
韓国映画は18位でパク・チャヌク『オールドボーイ』中国は28位で張芸謀『紅夢』香港は30位『インファナル・アフェア』へええ。
20位にガエルとディエゴ・ルナの『天国の口、終りの楽園。』25位に『Uボート』イギリスの歌「ティペラリー・ソング」流れるから?
ラベル:映画
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カイリー・ミノーグ『ALL THE LOVERS』ちょっとベン・ウィショー『パフューム』思い出すけどさ

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実を言うとカイリー・ミノーグのことは全然知らないんですが、例によってロシアのゲイサイトで見つけました。

Kylie Minogue - All The Lovers

なんだかベン・ウィショー主演の『パフューム』思い出すんですが、あれよりこっちがいいのはさすがゲイサイトにアップされただけあって女性同士、男性同士のラブもあるところ(左端のお二人)このパターンでもう一度やって欲しいなあ。

ラベル:音楽 同性愛
posted by フェイユイ at 20:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 欧州 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年06月09日

『ザ・デンジャラス・マインド』グレゴリー・J・リード

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Like Minds

WOWOWの番組欄で何となくちらと見つけ何となく気になりながらも何となく忘れ何となく真夜中思いだして慌てて録画しようとしたが時すでに少し遅し。観たらなかなかの秀作で再放送あったらば前半も収録したい。

主人公アレックスを演じるのはかりっと硬そうな顔立ちが魅力的なエディ・レッドメイン。
良家の一人息子で母亡き後父親に大事に養育された。彼は寄宿学校の同級生ナイジェルの殺害容疑者として逮捕され留置所に入れられていた。
司法精神科医サリーは彼から事情を聴きだすよう依頼を受ける。
が、アレックスが語りだした内容は信じ難いものだった。
殺害されたナイジェルは自分とアレックスが「選ばれし者」でありかつて勇敢に戦った十字軍の血を引くものだと信じ二人は運命によって出会い一心同体なのだと真剣に説いた。が、アレックスがなびかなかった為。ナイジェルはアレックスの友人と好きな少女を殺害したのだ。しかもナイジェルは少女の遺体とアレックスが交わることが伝説にかなうことだと主張する。
ナイジェルはその後両親を死に追い詰め、その死にアレックスを巻き込んだ。絶望したアレックスは逃げ出すがナイジェルは銃を持って後を追う。そしてアレックスが銃をナイジェルに向けるよう仕向け引き金を引いたのだ。

すべての謎は解けた。が、サリーの元に一枚のトランプが届けられる。それは彼が十字軍である印だった。
伝説どおり彼の恋人の墓から頭部が奪い去られたことをサリーは知る。
ナイジェルと彼は一心同体になったのだ。
アレックスは恋人の頭部を鞄に入れ新しい仲間を見つける。

ありがちと言えばありがちな物語なのだが。
この前観た『オックスフォード連続殺人』もそうだけどイギリスってこういう小難しい論理から来るミステリーってのが大好きでやはり面白いのだよねえ。こういう分野だけは絶対止めずこじんまりと伝統を守って欲しい。
私自身こういうのは大好きだ。
静かで落ち着いた空気、上演される演劇の様子、厳格で古風な寄宿学校の中で起きる猟奇的でオカルトめいた殺人。そういった諸々が醸し出す雰囲気に酔う。

悪魔的なナイジェルもよかったし、彼に翻弄されるアレックスを演じたエディ、繊細で美しい。
これはDVDにもなってないんでWOWOWの再放送待つしかない。(他のとこでもいいけど)お願いします。

監督:グレゴリー・J・リード 出演:トニ・コレット エディ・レッドメイン トム・スターりッジ
2006年イギリス/オーストラリア

観れなかった。どうしても観たい〜!と言う方で字幕なしでよければこちらで。

続きもありますからご安心を→ここ
ラベル:犯罪 ミステリー
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2010年06月06日

『ベジャール、そしてバレエはつづく』アランチャ・アギーレ

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Le Coeur et Le Courage, Bejart Ballet Lausanne

バレエの歴史の中で偉大な存在であるモーリス・ベジャール亡き後、彼に選ばれて後継者となったジル・ロマンが自らの振付である『アリア』の公演までの苦悩を観る。

モーリス・ベジャールが「彼がいかに自分に近いか」と表現して導いたジル・ロマンが彼の後継者という重責を負う誓いを立てる。
ベジャールが主宰していたバレエ団はスイスのローザンヌにあり「ベジャール・バレエ・ローザンヌ」と言う名前で「BBL」と呼ばれている。
このバレエ団には様々な出資者があるが主にローザンヌの町自体がバレエ団を支えているというのが凄い。タクシーの運転士もベジャールとその後継者ロマンに一家言あるほど愛されている、というわけだ。
べジャールはロマンやダンサーたちに「過去を振り向かず、未来を観る」ことを要求する。ベジャールの振付だけを繰り返すのではなく常に前進することを求めるのだ。
それでもベジャールに教えられ彼に畏敬の念を持っているダンサーたちは舞台にも練習場にもベジャールの存在を感じている。もしかしたら本当に彼の霊がまだそこにいるのかもしれない。
この映像では「彼の死後1年」と言っているからまだまだ彼らの脳裏にベジャールの残像があるのだ。
そんな中でジル・ロマンは彼への誓い通り前進する為に新しい振付を構築しダンサーたちに厳しい要求をする。ダンサーたちが過酷な訓練に耐え新しい舞台を成功させたのはひたすらベジャール・バレエへの情熱なのだろう。

映像にはロマンとダンサーたちの練習風景、ベジャールへの尊敬と感謝の言葉、そしてかつてのダンサーたちのバレエも再現される。
ジョルグ・ドンの『ボレロ』やショナ・ミルクが観れるのも嬉しい。日本人ダンサー那須野圭右の若々しい「恋する兵士」の踊りもチャーミングだった。
世界中の様々な人種を集めたかのようでいて且つ美男美女揃いである。

監督:アランチャ・アギーレ 出演:モーリス・ベジャール ジル・ロマン ジョルジュ・ドン ジャン=クリストフ・マイヨー エリザベット・ロス ショナ・ミルク モーリス・ベジャール・バレエ団員
2009年 / スペイン
ラベル:バレエ
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2010年06月05日

『アンナと過ごした4日間』イエジ・スコリモフスキ

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cztery noce z anną

お婆ちゃんと二人住まいの内気な中年男がレイプ嫌疑をかけられ投獄。出所してからその原因である女性アンナの部屋へ四晩通いつめ再び侵入・泥棒・レイプ未遂(?)の嫌疑で投獄される。再再度出所した男は再再度女性の元へ急ぐが。

主人公台詞字幕が「婆ちゃん」ってなった時、主人公も「ばあちゃん」って言ったんで驚く。ポーランド語も「婆ちゃん」は「ばあちゃん」?実は「バブチャ」であった。へえー。

圧倒されるほど徹底して暗く重い背景が美しい。どの場面を観ても飾られた絵画のようだ。時系列が入り乱れ台詞は殆どなくやや精神を病みもしかしたら知能にも不安がありそうなみすぼらしい中年男が主人公である。その男が「愛」を感じる女性は時の経過とともに年齢も重ねたように見えたが男はずっと中年男としか見えなかった。
時系列がシャッフルされているので混乱するが出所後に病院の焼却炉で働いている為酷い臭いと手の汚れが沁み込んでしまっている。
その男が愛してしまう女性も病院で働く看護師であり男が四晩を過ごす頃には顔にも疲労と年齢が深く刻まれている。
イェジ・スコリモフスキーという名前すら知らなったのだが、緻密に組み立てられた素晴らしい作品だ。重厚でありながらユーモアが隠されている。この感じはロマン・ポランスキーにもつながる気がするが、なるほど1962年『水の中のナイフ』でスコリモフスキーが脚本、ポランスキー監督なのだった。
日本男性の起こした事件がヒントになったという本作は、確かに監督の冷静な目で作られているようだ。
内気な為ストーカー行為に及ぶレオンに対し、甘ったるい救いを与えたりはしない。出所後彼は別に泥棒の嫌疑をかけられ(それがヒントで彼は指輪を贈るのだろうけど)冤罪であるレイプ事件についても侵入についてもアンナは「あなたは犯人ではないけど」と承知した上で指輪を返し二度と会わない、と告げる。
最後思いつめたようにアンナの家に向かって急ぐレオンの目の前に高い塀がそびえ立ちアンナの家に近づくことも覗くこともできなくなっていた、というこのラストは辛辣で何となく監督の意地悪な笑い声が聞こえるようだ。私もつい笑ってしまったんだけど、鬼か。

この冷たい笑いについ司馬遼太郎氏の『人斬り以蔵』を思い出してしまう。全然話は違うのだが、あの小説において司馬氏は珍しく主人公を嫌っている。あまりにも醜く惨めに蔑まれた以蔵の描写なのだ。
あれほど嫌っているわけではないが本作のレオンの描き方も情け容赦なく悲哀に満ちている。一途に愛しても見返りすらない。(これは以蔵が武市を思う気持ちと似てるなあ)
以蔵を読んでいると虫唾が走るのにも関わらず武市への一途さに惹かれ何度も読み返してしまう。レオンもやはり気持ち悪いのだが何故か見入ってしまうのだ。

真夜中のヘリコプターの場面(といってもヘリは映っておらず音と風と光でそう感じる)が印象的だった。

監督:イエジ・スコリモフスキ 出演:アルトゥル・ステランコ キンガ・プレイス イエジー・フェドロヴィチ バルバラ・コウォジェイスカ

2008年ポーランド/フランス
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2010年06月03日

『パリ・オペラ座のすべて』フレデリック・ワイズマン

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Le Ballet de l'Opera de Paris

時々登場するバレエ観賞記事。何しろダンサーについてもバレエそのものについてもその世界についても無知なので感想を書くのは冷や汗ものなのだが、観るのだけは好きなのだよねえ。
バレエ作品そのものもDVDにはなっているのだがレンタルで観れるのはドラマになったものか、こういう練習風景と舞台を織り交ぜたものが殆ど。と言っても自分は練習風景が好きと言う輩なので決して嫌ではない。そりゃちゃんと通しで観てみたいという願いはあるけれど(購入する資金がないだけ)

さて本作、なんともたっぷり160分間、パリ・オペラ座における練習風景とスタッフ陣の会議・運営の模様、舞台の様子などを観ることができる。
この作品も淡々とダンサーやスタッフたちの姿を映すのみ、というスタイルである。一体どうやってカメラに収めたものか、撮影隊の姿をまったく感じさせない。そこにいて観ているかのようだ。
演目は『くるみ割り人形』『メディの夢』『ベルナルダの家』『パキータ』『ロミオとジュリエット』『オルフェオとエウリディーチェ』などクラシックからコンテンポラリーまで様々な踊りの振付を懸命に練習或いは舞台で披露する。
私が一番気になったのは『ジェニュス』という独特な振付のバレエでこれだけはもっとよく観たいのに!と不満になってしまった。冒頭近く男性ダンサーが二人で絡み合うような踊りに奮闘している場面からどっと惹きつけられてしまった。他にも男女の踊りもあり、最後はこの踊りで幕を閉じる。
跳躍がないのだがとてもエネルギーを感じさせる踊りなのだ。

会議の内容やスタッフとダンサーの会話なども織り込まれており楽しめる。
練習風景が好きなのは舞台よりダンサー達が近い位置で観れることだ。表情や息遣い、美しい体の線がはっきり判る。振付家たちと試行錯誤しながら踊りが創作されていく過程を観ているのが楽しいのである。
見惚れるような腕と脚を眺めているだけでもいいんだけど。

ポワントで歩く姿は何度観ても信じられないほど美しい。

監督:フレデリック・ワイズマン 出演:ジェレミー・ベランガール ニコラ・ル・リッシュ マチュー・ガニオ マリ=アニエス・ジロ エミリー・コゼット オーレリ・デュポン ブリジット・ルフェーヴル
2009年 / フランス/アメリカ
ラベル:バレエ
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2010年05月30日

『彼女の名はサビーヌ』サンドリーヌ・ボネール

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ELLE S’APPELLE SABINE

今日観る映画にこれを選んだのは特別意図があったわけではない。
だが観始めて暫くするうち、なんとなく昨日観た『砂の器』と重ねて考えてしまった。
どちらも完全に治癒することは困難な非常に重い病気に家族がかかったことでその絆が思いもよらずほどけていってしまう、ということが描写されている。

無論二つの家族の状況は正反対と言えるほど違うだろう。だが、病気が発症するまでは(本作の場合は何とも言えないが少なくともサビーヌが異常に乱暴な行動を起こすまでは)非常に仲の良い家族であったことは同じで強い結びつきがあったと思える。
本作でサビーヌに異常性が現れ始めたのは姉妹が別れて暮さねばならなくなった時から、という話がある。この監督であるサンドリーヌともう一人の姉妹と別れ母親と二人きりで生活した頃から暴力を振るい始めたのだと。その後、どうしようもなくなった家族はサビーヌを病院に5年間入院させることになり退院した時サビーヌはもう昔の彼女ではなくなっていたのだ。
少女の頃、女優である姉と同じくらい美しくピアノを弾きこなしオートバイにも乗っていたサビーヌ。そんな彼女には確かに小さな精神の歪みがあり「おかしな子」と呼ばれていたのではある。
だが彼女を破壊してしまったのは家族と別れ病院に閉じ込められ多量の薬物摂取、それから病院の厳格な規則を彼女がどのくらい耐えられたのか、もし反抗した時どんな体験をしたのか、そういうことはもう想像するしかないのだろう。
病院内でサビーヌは何度も壁に自分を打ちつけるなどの自傷行為をし、体重も30キロ増え、様々な記憶を失っていたのだという。
退院後、サンドリーヌの努力で新しい施設に入れた彼女はいつもよだれを垂らし、殆ど話せなかったのだ。
映像は若い頃のサビーヌのビデオを映しだし、彼女がチャーミングではつらつとした美少女だったことを示す。現在のサビーヌの外見、どんよりとした目や緩んだ体つき、荒廃した精神と比較すると胸が塞がれる。
妹であるサビーヌを病院に入れたことでこんなに変貌したことを隠すこともなく映しだす姉サンドリーヌの心の強さにも驚かされる。サンドリーヌの淡々とした表現に見入ってしまう。最後「サビーヌと再び旅行することはできるのだろうか」という言葉に彼女の切ない願いが込められているに違いない。

今書いてどきりとしたがここでも『砂の器』と重なるキーワードが出てきてしまった。「旅」である。
若いサビーヌはアメリカに憧れ姉サンドリーヌとアメリカ旅行を楽しむのだ。姉妹だけの旅行は本当に楽しそうで、この時が二人にとって一番幸せな時間だったのだ。
二つの作品で「旅」をする場面が最も幸せであるのは偶然ではない気がする。

そしてその後サビーヌの精神は崩壊していく。家族と離別する悲しみが彼女をより荒廃へと追い立てたのだとサンドリーヌは語る。

『砂の器』において精神が破壊されたのはハンセン病の為病院に入れられた父親ではない。健常者である息子、秀夫=英良のほうだ。
彼は強い絆で結ばれた父親と離されたことを恨み続けたのだろうか。他者から見れば恩人である三木巡査は彼にとっては有難い存在などではなかった。だから巡査の家を飛び出したのだ。(映画では放浪癖があった為か、となっていたが)
願いもしないのに愛する父親と無理矢理切り離された秀夫は持ち前の才能と人好きのする外見で一流音楽家になり政治家の娘との結婚を目の前にするほど登りつめていく。自分はその行動が昨日は醜く感じられ嫌悪感を持ったのだが、彼はそうしなければならないほど精神を荒廃させてしまったのだ。無論サビーヌのような自閉症なのではなく公には優れた人物としか見えないのだが彼の心は父親と切り離された時から腐り始めたのだ。それは彼自身も気づかないことだったのかもしれない。
一流音楽家になった秀夫=英良の前に三木巡査が現れ入院している父親に会いに行こうと言った時彼は拒否した。猛然と抗議した三木を秀夫は殺すのだが、その殺害の動機は登りつめた自分の障害になるからではなく誰からも「いい人、素晴らしい人」と言われる三木が秀夫にとっては最大の恨みの人物、彼がいなければ父親といつまでも一緒にいられたのに、彼が二人を離した、善意という名のもとに、ということなのではないかと、思ってしまったのだ。無論三木の行為は誰が見ても正しい本心の善意なのだ。だが本当の善意が絶対に誰も悲しませないというわけではない。事実この物語では秀夫の精神が大きく歪み、別の道もあるという寛容性を失わせている。社会に対する復讐というものに人生を賭けることが良い生き方だとは思わない。不幸な人生だったのだ。

さて本題に戻ろう。
私が重ねて考えた二つの作品の徹底的な違いは『砂の器』では崩壊したまま終わった家族の関係が本作では再生されていくことである。
本作でサンドリーヌは妹サビーヌに対する一時期の間違いを修正しようと試みている。
彼女のような家族がいること、自分が彼女に対して判らなかったこととはいえ間違った選択をしてしまったことをこうして映像として公開することの勇気に驚く。そして再び妹と交流する決意を持ったことに対しても。

以前の自分を観るサビーヌがふと元に戻ったのではないかとさえ思える瞬間があったのだが。

監督:サンドリーヌ・ボネール
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2010年05月28日

『巨人の神話 ロワイヤル・ド・リュクス』ドミニク・ドリューズ

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フランスのとある小さな町に突如巨人が現れる!
DVDで観ているのにも関わらず、どきどきしてしまった。この場所にいたかった!ついそう思ってしまう。

ある日の新聞に「巨人が落ちてきた」という記事が載っていたという。まさか、と思ったが町の街灯にどでかいサンダルがぶら下がっているではないか。

昔空から巨人が落ちて来た。人々は眠っている彼を縛り起きると鎖をつけて歩かせた。人々は彼が見る夢を怖れ眠らないように光の壁を作った。巨人は壁を破って光の中へ消えていった。

物語のように地面に横たわり縛り留められた巨人の姿。そのあまりの大きさに人々は驚愕する。
無論、これはフランスのパフォーマンス劇団の仕業である。日本でも先だって巨大な蜘蛛を歩かせていたあれだ。私はTVで観ただけだが、そういうのが好きなせいか暫し見入っていた。といってもこれを見るまであの集団の映像だとは気付いていなかったのだが。
やがて、ガリバーのリリパットをイメージそのものに赤い衣装を身にまとい小人に扮した劇団員(というのかガリバーが巨人なのか)が巨大な若い男の像を動かしていく。
巨大な櫓を檻に見立て鎖ならぬ長大な紐につながれ劇団員らが力を合わせ巨人を動かしていく。
壮大でファンタジック。いかにもフランスらしい雰囲気だ。人間達が自分たちの重みを加えることによって動いていく、というなんともアナクロな仕組みになっていて全体の作りと言い、顔の動き体の動き、すべて手作り感覚の簡単で素朴でぎくしゃくしたものであるにも拘らず、巨人の表情も仕草も溜め息もまるで本物のように思えてくる。その顔には巨大でありながら捕えられてしまった悲しみすら浮かんでいるようだ。
また観ている町の人々の感想が面白い。子供達はみな可愛くて感想も率直。怖がったり怖くない、怖がってるのは巨人の方と言ったり、素直に驚いて喜んでいるのだが、傑作なのはむしろ大人たち。
理性では「これは作りものだ!それに間違いない。・・・でもなんだか生きているような気がする・・・もしかしたら少し生きているのか?」とでも言わんばかりに自分たちで必死に作りものだと確認し合い、それなのにどこか不安げな表情なのである。明らかに混乱し戸惑っているのは大人達の方なのだ。実は巨人は本当で作りモノのふりをしていると疑ってでもいるかのようだ。
実際に見たらその気持ちがもっと理解できるのかもしれない。
そして巨人がいかだで去ってしまう時、子供も大人も別れを惜しんでないてしまった。これは一体どういうことだろう。皆それほど奴を好きになってしまったのか。女の子は「恋をしている」とまで言ってたっけ。作り物なのに。・・・やっぱり生きてるんだろうか。
私まで少し涙ぐんじゃったじゃないか。

彼らはアフリカへ渡りそこで巨人の黒人の子供を擁して彼の地の人々を同じように驚かせその子供を連れ再びフランスへ戻る。
巨大なキリンまで登場し黒人の子供を乗せて練り歩く様に皆感嘆の声をあげる。
数年をかけて巨人の神話を作り上げていくドキュメンタリーであった。

あの不思議な動きに見惚れてしまう。息遣いが聞こえると言うのが凄い。皆それが印象的なのだ。
誰もが巨人を見るとそこに物語を感じてしまうのである。
彼らについての感想が素晴らしい。巨人に同化し操る人々を小さく感じてしまう。別れの時は泣き、いつかまた会えると信じていると言う。
大人の方がより心を揺さぶられ感激してしまっているのだ。

監督:ドミニク・ドリューズ
2006年フランス
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2010年05月25日

『落ちた偶像』キャロル・リード

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THE FALLEN IDOL

グレアム・グリーンの素晴らしい脚本をキャロル・リード監督が見事に演出した秀作ということで私もそれにはまったく反論はない。非常に面白く楽しめた。
が、なんだか昔の話ってどこかひっかかるなあ、という思いもする。一体それは何故なんだろうか。

主人公はフィリップというフランス語を話す可愛らしい少年だ。彼は大使館の大使の息子でパパの仕事でロンドンに来ていて英語を話しているんだから凄いものだ。
事件は彼のママが病気療養から退院するのをパパが迎えに行くところから始まる。
そして事件に巻き込まれる可愛らしいフィリップ少年がつかなくていい嘘をつけばつくほど大好きなベインズが罠に嵌まっていくという事態になっていく。
状態をかき回す少年に苛々する人もいるのかもしれないが私としては少年は立派に頑張っておると見えるわけで何といっても腹が立つのはベインズのほうだ。犯人はベインズではない、ということになるのだが本当に彼は無実なんだろうか。

ロンドンの大使館が舞台。そこに住むフィリップ少年は執事であるベインズが大好きでベインズも彼を可愛がっている。
フィリップ少年の父親は大使(フランス?フランス語を話してるのは確か)で、入院していた妻を迎えに出かける。館内には召使とベインズ夫妻がフィリップ少年の面倒をみていた。

フィリップはベインズを崇拝していると言っていいくらい好きなのだが、それは彼がフィリップを心から可愛がってアフリカでの体験談などを楽しく話してくれるからだ。一方ベインズ夫人は神経質で何かとフィリップ少年に当たり散らすのだった。
昔の話って何故かこういう「ヒステリーを起こす年増女性」というキャラクターがしょっちゅう出てきてた。今はあまりこういうタイプって登場しないよね。ヒステリーって言葉も殆ど聞くことがないし。何故昔の年増女性はヒステリーを起こす(タイプがいる)と決まってたんだろうか。
その夫のベインズはフィリップをとても可愛がっているいい大人という役割。温厚な彼はヒステリックな妻に失望していて今若い女性と不倫関係にある。恋人には妻と話をつけると言いながら妻に向かうと逃げられる、というよくあるパターンなのである。
そしてベインズ夫人は夫の不倫を嗅ぎつけ外出したふりをして二人が仲良くしている2階の部屋を覗こうと階段脇の飛び出した場所に入り込み落下して死んでしまうのだ。
確かに事故である。
だがこの温厚なベインズがさっさと話をつけていたら少なくとも夫人は死なずにすんだのに。あっちにもこっちにもいい顔をしようとしてベインズ夫人は死んでしまった。彼が殺したのではないけれどそういう風に追い詰めてしまったとも思えるのではないか。無論殺人として立証はできないが。
無垢な少年にも「アフリカで色んな冒険をした」ような嘘をついて英雄視させベインズ夫人が死んだからいい方向に向いたもののもし死んでなかったら恋人にだってそのまま嘘をつき通してだらだら不倫関係を続けたのではないのかなあ。
このベインズ、全くぬらりくらりと食えない奴である。この後、恋人と結婚したとしてもまた嘘の人生を繰り返していくんではなかろうか。

さて死んでしまった(殺されたと言ってもいいと思う。人格を全否定された存在なのだ)ベインズ夫人は誰が観ても死んでしまってすかっとする、という役割を当てられてしまった気の毒な人でもある。優しい夫に怒り狂い、可愛い少年の罪のない行動にヒステリーを起して暴力をふるったのであるから「死んでしまっても当然」の人なのだ。本当に?
今の人ならこういう表現(ああ、ヒステリー女だな、っていう表現)はされなかったろうに。時代のせいで十把一絡げにヒステリー女というカテゴリにおいて抹殺されてしまった。一体何故ミセス・ベインズはこういう女性になったんだろうか。かつてはベインズも彼女を愛したんだろうに?今の恋人に対するように?
ところでベインズの不倫相手ってベインズ夫人となんだか似てる。痩せて神経質そうな。子供相手にずけずけ文句を言うところもそっくりだ。結局結婚したら第2のベインズ夫人になるだけみたいな気もするのだけどねえ。

もう一つ。最近はあんまりこういうフィリップ少年のような「純真無垢さゆえに空気が読めず物事を撹乱していく」という子供の役はないのでは。子供が純真無垢、というのももう流行らないし、却ってしっかり物事を把握してたりする。不倫関係なんてすぐ見破ってしまい話が作れない、か、違う話になる。
こういう物語ってステロタイプばかりだからこそ成立する話なのだ。

監督:キャロル・リード 脚本:グレアム・グリーン 出演:キャロル・リード ラルフ・リチャードソン ミシェル・モルガン ボビー・ヘンリー ソニア・ドレスデル ジャック・ホーキンス
1948年イギリス
ラベル:サスペンス
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2010年05月21日

『オックスフォード連続殺人』アレックス・デ・ラ・イグレシア

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The Oxford Murders

時折、こういう衒学めいたミステリーというのが登場する。ペダンチック、と言う奴である。一般人には何のことやら全く理解不能な定理やら理論やらを展開して文字通りひけらかし、観る者(読む者)を惑わしていく。殺人ミステリーにおいて起こった事件と答えだけを言ってしまえばあっという間に終わってしまう。それじゃ面白くないので作者は事件を隠したりミスリードしたりで犯罪を面白くしていく。その手段がどんどん変な方向へ走っていくとまるで事件と関係ないような、しかし物語に重みを与えんが為に無闇な学説などが飛び交うことになってしまう。
この物語も簡単に話を運べばそれほど驚く筋書きでもないのだが、舞台がイギリス・オックスフォードで老獪な学者と彼に憧れて留学してきたという頭脳明晰な若者が奇妙な理論を振り回すのが楽しいのである。
なのでそういう装飾が嫌いでそのままずばりを見極めてしまう向きにはやや物足りない話かもしれない。
自分としては話を複雑にする為の空論がややしゃらくさい気もするのだが、何しろ昨日観た『マトリックス』と言う言葉も出て来たし(字幕では出なかったけど)ジョン・ハートの老学者とイライジャ・ウッドそして不気味なロシア人(?)も登場してなかなか面白かった。しかし昨日からやたら数字が並び理屈っぽい話ばかり聞いてる。どちらも人を迷路に閉じ込める為の幻惑なのだが、そういうの嫌いじゃない。

監督:アレックス・デ・ラ・イグレシア  出演:イライジャ・ウッド ジョン・ハート レオノール ワトリング ジム・カーター アレックス・コックス ドミニク・ピノン アンナ・マッセイ ジム・カーター ジュリー・コックス
2008年 / イギリス/スペイン/フランス
ラベル:ミステリー
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2010年05月11日

『カティンの森』アンジェイ・ワイダ

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KATYN

映画には観る者を圧倒するエネルギーを持つ場合がある。
その為には作る者が人に訴えたい大きな思いとそれを伝えることができる技巧とが必要なのだ。この映画にはそれらがあり、時に身がすくむほどの激しい感情と見惚れる美しさがあった。

冒頭、思いつめた表情で一つの橋を渡ろうとする群衆がある。ところが向こう側からも駆けてくる人影がある。
彼らこそがポーランド人の姿で両側にある強大な国であるドイツとソ連から挟まれ追われながら危うい橋の上を行ったり来たりしながら歴史を刻んできたことを物語っているかのようだ。

物語の大半はポーランド将校を夫や父・兄に持つ女性たちを描くことに費やされる。将校たちはソ連兵たちに連行されてしまった。まるで何も抵抗することもないかのような彼らの姿にもポーランドの存在が感じさせられる。

残された女たちの戦いは自分らの誇りを捨てずに耐え抜くことができるか、ということなのだ。結婚すれば有利になれる赤軍将校からの求婚を拒否すること、カティンの虐殺はナチスの所業だという虚偽の証言を脅されても口に出さないこと、墓石に家族がどこでどう殺されたかを記すこと。
しぶとく生き抜く為なら上手く立ち回るのかもしれないが、彼女たちは誇りを捨てることができなかった。(その誇りがある意味弱さであるようにも思えるのだが)

重く苦しい物語の中で束の間きらめく様に若者たちの恋が描かれる。だがその恋も青年のとった小さな反抗の為にあっという間に消えてしまう。彼らには残った僅かの誇りさえ捨てなくてはならないのだ。

そして最後の場面。人間の尊厳も将校としての品格も完全に無視されまるで家畜の屠殺でもあるかのように次々と運搬車から降ろされ殺され運ばれ捨てられる。淡々としたその映し方、その後の暗転。
真っ暗な画面の前で何を思うか。

歴史は繰り返される。
この映画を今観た人はほぼ先日起きたポーランドの大統領の事故を思ってるだろう。
『カティンの森』追悼式典に参加するはずだったその名もカティンスキー大統領の事故死。
これは一体何を意味するのか。
こうした悲劇がポーランドの歴史なのか、とつい思ってしまうのだ。

監督:アンジェイ・ワイダ 出演:マヤ・オスタシェフスカ アルトゥル・ジミイェフスキ マヤ・コモロフスカ アンジェイ・ヒラ
2007年ポーランド
ラベル:歴史 戦争 家族
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2010年05月02日

『ホロコースト-アドルフ・ヒトラーの洗礼-』コスタ・ガブラス

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AMEN. 

なんという大人の映画なんだろうか。先日観た『ミッシング』もその手法の巧さと共に訴えてくる情愛に打たれたが、本作にもまた優れた技法と感情が込められている。
ナチスの非道とユダヤ人の悲劇を描いた映画は数多いがややもすればその描き方に好奇心が現れている場合もある。それはスティーブン・キングが『ゴールデンボーイ』で表現したような恐ろしい情景を観たいという欲望にもなる。本作はその類の趣味嗜好を持つ者をがっかりさせてしまうだろう。なにしろここにはそうしたナチの残虐行為、憐れにやせ衰えた人々が苦しみのたうつ姿や様子がまったく描かれないのだから。
そして機関車はその扉を閉めて走り、帰りは開け放して走る。閉められた扉の中に誰がいるのかは判るはずだ。そして彼らがどこへ運ばれ、どういう運命が待っているのかも。
こうした表現の上で彼らの為に何かをしようと行動をとった二人の男。一人はナチス親衛隊の中尉。もう一人はカソリックの若き神父。二人ともユダヤ人は敵対する存在でありながら同じ人間としてユダヤ人の不幸を見過ごせず権力と戦おうとする。
SSであるゲルトシュタインはヒトラーとナチスが非アーリア人や障害者を収容してはガス室に送り込み殺戮しているのに気付き、この行為を世界に知らせようと奔走する。あえて親衛隊に残り自国の残虐行為を証言しようと考えたのだ。
カソリックの総本山ローマ教皇の側近の父を持ち自らも信頼を受けている若い神父リカルドはゲルトシュタインが親衛隊でありながらユダヤ人を救おうとしている姿に触発されまた自分が傍観者であったことに罪の意識を抱いて我が身にユダヤ人の印をつけ輸送機関車に乗り込むのである。
彼らの必死の抗議がすぐ理解されることは叶わなかった。ゲルトシュタインが家族と別れ命がけで書いた報告書は20年後に認められたという。
自分たちが属するものを裏切ることになっても、目の前にいる人々が殺されていくのを見過ごせなかった二人。その結末がどちらの人生においても無情なものだったことが悲しい。ただこのような人たちの行動が時を経て認められたこと、こういう素晴らしい映画として観ることができ多くの人に感動を与えたことが彼らの魂を少しでも癒せたらと思うのだが。

ゲルトシュタインの友人を装って狡猾に生きのび南米へ逃れる将校こそが昨日観たメンゲレ医師であったのか。

監督:コスタ・ガブラス 出演:マチュー・カソヴィッツ ウルリッヒ・トゥクール マーセル・ユーレス ウルリッヒ・ミューエ ミシェル・デュショーソワ ハンス・ジシュラー
2002年 / フランス/ドイツ/ルーマニア/アメリカ

ラベル:戦争 歴史 愛情 信仰
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『MY FATHER マイ・ファーザー 死の天使 アウシュヴィッツ収容所 人体実験医師』エジディオ・エローニコ

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My Father, Rua Alguem 5555

ほぼ戦争映画ブログと化しつつあるがどうしても気になるので止められない。
で今夜はこれだが本作の場合は映画そのものというより主役のトーマス・クレッチマンを観たいからであった。映画の内容は邦題が示すようにナチス親衛隊将校であり、医師として恐ろしい人体実験を次々と行いアウシュビッツ収容所で死の天使と呼ばれたヨーゼフ・メンゲレの罪を追っていくものではあるが、主軸はその息子ヘルマンの父親に対する懊悩を描くことにある。
クレッチマンが演じるヘルマンは終始父の犯した罪とそれに与えるべき罰を自らが行うか司法へ送り込むかそれとも息子として見逃すべきなのか、を迷い続ける。彼の友人であるロベルトや父親からも「お前は何を考えているのかさっぱり判らない」と言われ続けるのだがヘルマンは最後まで自分の考えを割り切ってしまうことはできないのだ。
残虐非道な人体実験を行ったメンゲレをチャールトン・ヘストンが威厳のある演技で見せ、苦悩し続ける息子ヘルマンをトーマス・クレッチマンがその素晴らしい肉体にそぐわないほど気弱にさえ見える繊細さで演じている。クレッチマンは180センチを超える大柄であるのに父親のヘストンや友人が彼より遥かに大きい為華奢にさえ見えてしまう。また他では多く彼自身がナチス将校を演じて軍服をまとっていたがここではまっさらのTシャツ姿なのであるがそれが却って彼を美しく見せていて他にないほど魅力的だ。思いつめるあまり熱を出し友人のベッドに寝込んでしまう様などなんて愛らしい姿なんだろう。愛しく思えてしまうではないか。
が、気になる、というか若干恐ろしい気がするのは父親の思想と行為を憎み、差別的な言葉を口にする友人ロベルトをたしなめているヘルマンだが結婚相手に選んだ女性がドイツ北部生まれの金髪碧眼であるというまさに父親が選別したかのような容姿であること、ブラジルの黒い肌で黒髪の女性から誘惑されそのつもりになろうとしても接触することすらできず嘔吐してしまうなどヘルマンの奥深い無意識では父親の思想もしくは選別が働いているのではないかと感じられる表現である。これがメンゲレの息子である人の描写であったのか、映画製作者の演出だったのか。
ナチス将校の父と現代に生きる息子。観ている途中ではあまりにも通例どおりの表現なのではないかという気がしていたがこうして思うとなかなか深く考えさせられるのではないか。後々思い出していくのかもしれない。

最初の目的だったトーマス・クレッチマンを観るという意味では文句なしにじっくり観れる。彼はナチス将校を演じるには表情が優しすぎるのだがこの揺れ動く苦悩の青年役はぴったりであった。

監督:エジディオ・エローニコ 出演:トーマス・クレッチマン チャールトン・ヘストン F・マーレイ・エイブラハム トーマス・ハインツ ドニーズ・ワインベルク
2003年イタリア/ブラジル/ハンガリー
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2010年04月27日

『9000マイルの約束』ハーディ・マーティンス

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AS FAR AS MY FEET WILL CARRY ME/SO WEIT DIE FUBE TRAGEN

タイトルが示す通り恐ろしく時間も長い映画でその為やや躊躇してたのだが、観出したら面白くて(って言っていいのか。でもこれは面白いよね)ぐいぐい引き込まれて観てしまった。なんといっても私が大好きな放浪モノしかも最も憧れる(って言っていいのか)ユーラシア大陸横断ものである。この9000マイルという距離はこれまた大好きなアレクセイ・チャドフ主演の『SERKO』で彼が演じた若きコサックが白い小型馬に乗って走破した距離(アムール川流域からサンクトペテルブルグまで)と同じだがこれは乗馬であり本作はなんとほぼ歩いて行ったんだから恐れ入る。無論乗馬では200日だが本作の脱走ドイツ人は1000日以上を必要としている。脱走であるから堂々とはいけないし。
面白いのは二つの話とも途中遭難しヤクーツクの人々に助けられ若い女性に気に入られてしまう、というちょっとしたロマンスがほぼ同じパターンで入っていることである。しかもどちらも実話だというのだがこの部分もそのままなのであろうか。
なんといっても主人公はどちらも美男で遭難してたら若い女性としては放ってはおけない、ただし美形に限る、ということか。とはいえ本作の方は目的が愛する妻子の元に帰る、ということだから、この場面は観る人によっては評価を下げてしまわないか。自分としてはさすがのドイツ人ももうここに居つこうかと思ったのでは、と考えてしまう。あの恐ろしい厳寒の大地を再び歩み出すより暖かで優しい人たちとのんびり暮らしたいではないか、あそこで追っ手が迫っている知らせさえなかったらもう戻らぬ人になってたかもしれない。

ドイツ兵士がシベリア収容所で強制労働をさせられ脱走した物語、というのは彼の国のこれ以前の所業を取り沙汰されたら感動しにくいものになってしまうだろうが、本作ではそう言う部分はできるだけ隠さねばならないのはきついところかもしれない。その分ソ連将校が悪役になってしまうのである。
また彼の国境越えを援助するのがソ連に住むユダヤ人でしかも兄弟をドイツ人に殺されているのである。彼が何故恨むべきドイツ人を救ったのか、明確には答えられてはいない。だが彼の言った「何度でも助ける」という言葉に恨みを復讐で返すのではなく徹底的に助けることで思い知らせる、というような特別な感情があるとしか考えられない。彼の宗教感なのか。

想像することもできない広大なユーラシア大陸を歩み続けた男。絶望の中で観たオーロラの美しさ。彼の頭上を飛び越えていった追っ手の犬ぞりは彼の見た幻影なのか。
彼が行ったことはもっと話せないような事実もあるのかもしれない。神の前で謝らねばならないことが。
これは美談という類のものではなく一人の男がやり通した冒険譚なのに違いない。

それにしてもやはり語学は必要だ。彼がロシア語が話せなかったらこの冒険も無理だったよね」。

監督:ハーディ・マーティンス 出演:ベルンハルト・ベターマン ミハエル・メンドル アナトリー・コテニョフ ハンス・ペーター・ハルヴァクス イリス・ベーム
2001年ドイツ
ラベル:戦争 歴史 家族 冒険
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2010年04月24日

『世代』アンジェイ・ワイダ

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POKOLENIE

ほぼ映画鑑賞をDVDに頼っている自分である。が、どうしても観ておくべきと思える名作ほどDVD化されていないのは一体どういう理由なんだろう。少しずつそれらもDVDなり現在観ることができる形になってくれるのであろうか。私が生きている間にやって欲しいものだ。
それらの一つにアンジェイ・ワイダ監督作品もある。ようやく近々『カティンの森』一つがレンタルもできそうだが他にもまだまだ未見のもの観なおしたいものが数々ある。
昨夜BS2で『世代』が放送され初めて観ることができた。ワイダ監督のデビュー作品ということで確かにまだ初々しい面もちらほら見えるのであるが圧倒される迫力を持つ場面が何箇所も出てくる。
また若かりしロマン・ポランスキーがナチスと戦う警備隊の一員として登場するのが驚きだった。

本作でのナチスは昨日観た『ワルキューレ』のように中にはいい人がいる、とはとても思えない。人間性をまったく欠いた殺人鬼のようでしかない。舞台はポーランドの小さな町のようだが通りに殺されたポーランド人の遺体が高々と吊り下げられていて人々はその下を歩いて仕事場へ向かうのだ。またユダヤ人の住む建物が燃やされ黒煙が空を覆い、その下に並ぶナチス兵士たちの姿が恐ろしい。
映画の前にワイダ監督自身の説明があり彼が画学生の頃、同級生の絵に酷い衝撃を受けたという。その絵は惨殺されたポーランド人を描いたものでワイダ監督は自分もこういう作品を作らねばならないと感じたということであった。吊るされた死体はその絵から受けるような悲しみを感じさせる。
(それにしてもワイダ監督の青年時代は俳優にしたいほどのハンサムであった)

まだ何も知らない若者であった主人公スターショがドイツの石炭輸送列車から仲間と共に石炭を盗もうとする。気づいたドイツ人から仲間の一人が撃ち殺されてしまう。
やがて工場で働き始めたスターショは労働の大変さが身に沁みる。そしてナチスがポーランドをいかに圧政しているのかを知っていく。彼が行く学校もナチスの支配下にあるのだ。
そんな時、スターショはナチスと戦おうと呼びかける抵抗運動家の一員ドロタの演説を聞く。スターショは指導者であるドロタを尊敬しながら美しい女性である彼女に惹かれていく。

立派な軍服に身を包んだドイツ人と違ってスターショの冬服のみすぼらしさ。ポーランド人である彼らがいかに弱い存在なのかが伝わってくる。
やっと愛し合えるようになったドロタがゲシュタポに連行されるのを見てもスターショはどうすることもできない。
だがドロタがスターショに話していた新しい仲間が現れスターショの頬に涙が流れる。スターショの戦いが始まったのだ。

本作で描かれているポーランドの中のカソリック教徒たちとユダヤ人たちの関係の真実については自分にはよく判らないが、ここでカソリックである主人公は友好的な態度で表現されている。ユダヤ人を救う為に戦う、という台詞もある。
『カティンの森』で描かれている大虐殺など歴史は一筋縄で説明がつかない。
一つの映画がすべてを把握することはできないだろう。多くの作品を観ることが大切なことなのだ。

監督:アンジェイ・ワイダ 出演:タデウシュ・ウォムニッキ  ウルスラ・モジンスカ  ズビグニエフ・チブルスキー  ロマン・ポランスキー  タデウシュ・ヤンツァー
1954年ポーランド
ラベル:歴史
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2010年04月18日

『エレファントマン』デヴィッド・リンチ

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The Elephant Man

この映画は若い頃、特に自分に強い影響を与えてくれた作品の一つである。
当時、話題にもなり非常に衝撃を受ける内容だった。仲間内でもこの作品が感動的なヒューマニズムなのか偽善的なのかということでケンケンガクガクもあったりした。
監督のデヴィッド・リンチは今でこそ常に異質で難解な謎の映画を作りだすことで有名な鬼才の監督だが、その頃はまだ無名であったのだ。が、そうこうするうちに同監督の前作映画『イレイザーヘッド』が公開され「おや、この監督はちょいと違ったみたいだぞ」と気づかされ『エレファントマン』が単なるヒューマニズムなどという見解から作られたものではないんじゃないかと馬鹿な若者なりに感づき始めた。まったく無知だった私も世の中にはフリークスと呼ばれる人々とそれを愛する人々がいることがようやく飲み込め出したのだ。それ以前も江戸川乱歩などが好きだったくせに世の中のそういうことにはまったく気づいていなかったのだからしょうもない。
無論リンチ監督がその後、ドラマ『ツインピークス』や『ブルーベルベット』『マルホランドドライブ』などでそうした気質を大いに表現し誰もが認める特異な映画監督になっていった。今となればリンチ監督の作品タイトルの中の『エレファントマン』を偽善的かどうかなど論じる人はいないのではないだろうか。
ともあれ自分はこの作品を観た時から一つの作品がもしかしたら別の意味を持つかもしれないこと、をようやく認識したのであった。

そしてそういう思い出を抱えて久しぶりに(本当に久しぶりだ)『エレファントマン』を観たのだが、思いのほかストレートに感動してしまった。昔あれこれ考えたことなどどうでもいいくらいに。
これは最初に感じたことだが非常に美しい映画なのだ。そう思うのはもしかしたらリンチ監督の持つ特別な感情のせいかもしれない。
この映画の中で特に印象的なのはロンドンの病院から興行主に連れ出され再び見世物の怪物として扱われるメリックが猿の檻に入れられているのを他の見世物小屋の人々から解放してもらう場面だ。巨人や小人などメリックを不憫に思う彼らと松明を持って森の中を歩いていく場面は不思議な夢を見ているようでリンチ監督はこの場面を撮りたいが為に本作を作った気がするのだ。

メリックのことを心から心配するトリーブス医師や彼に希望を与える女優ケンドール夫人などとの会話には素直に涙してしまう。それはやはりリンチ監督が本作に対して真摯に向き合ったからに違いないと思うのだ。
これはDVDの中に収められているメリックがいたロンドンの病院に属する人物の証言とも言えるコメントからよく伺える。彼の説明を聞くと実際のメリックとリンチ監督が作ったメリックとの違いを示唆されながら
この作品が当時の病院と彼に関係する人々をいかに上手く表現していったのかがよく判る。
また実際のメリック氏は映画の彼よりもっと自由で前向きであれほどの酷い待遇は受けていなかったと知れたのにはほっとした。別の監督であればもっと軽い調子の面白い映画にもなれたかもしれない。リンチと言えばこの重く暗いタッチが必定でもありそれがあるからこその感動もある。
若い頃の思い出も蘇りながら再び感動を覚える作品だった。

監督:デヴィッド・リンチ 出演:ジョン・ハート アンソニー・ホプキンス ジョン・ギールグッド アン・バンクロフト
1980年アメリカ/イギリス
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2010年04月14日

『戦場のピアニスト』ロマン・ポランスキー

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THE PIANIST

このブログをずっと読んで下さってる方なら判ると思うのだけど、自分はこのポランスキー監督を食べず嫌いというのか昔観ててよく判らずそのままの価値観でいたのだが、ここ最近ずっと作品を観なおしてきてその映画作りの巧さに観る度ごとに驚嘆し続けているという状態なんである。
この映画も以前ちらりと観て残酷な描写だけを観て逃げてしまったクチなのだがそれはやはり間違いだったと今回気付かされた。
というのか現在もまた勘違いしているのかもしれないが、ポランスキー監督作品というのはいつもサスペンスとユーモアが交錯している。恐怖と笑いが作品の味わいなのである。
本作は監督自身がポーランド人でありユダヤ人の血を持つということでナチスドイツに対する怒りや嘆きの表現とも受け止められるのだが、それでもやはり作品にはポランスキーの持つサスペンスとユーモアによって彩られている。
何しろ特に昨日観たドイツ人監督作品しかもナチスが題材だったものがあまりに稚拙だったので今日のポランスキーの技量がいかに並はずれて優れているのかが(いやもう比較したくもないのだが)よく判る。
この一筋縄ではいかない困難な物語の表現をどうしてこんなに巧みに映し出していけるものか。そしてそれらが退屈することもなく淀みなくサスペンスに満ちている。不埒な表現をしてしまうがナチスに追われるユダヤ人の恐怖ほどサスペンスに満ちたものはないのかもしれない。情け容赦のない恐怖のナチス、という誰もが知っているブランドがありさらに映像によって彼らがどれほどユダヤ人を何の人格もないと言わんばかりにあっさりと殺していくかを繰り返し見せつけられる。
単なるピアニストでしかないシュピルマンは家族とも切り離されなんとかツテを頼って逃げ隠れするしかない。いつどこでナチスに捕まるか判らないと言う恐怖。そして餓えと孤独。
彼に用意された隠れ家は街中でナチスの本拠地の目の前というとんでもない場所でそこから彼は様々な戦いの光景を観ることになる。こういう隠れた位置からのカメラ目線という描写が息をひそめているようで実にうまいではないか。靴音やドアを叩く音がする度にはらはらさせる。
サスペンスは満ちているがさすがにユーモアは少ないかもしれない。が、こんな物語でもおかしさを感じさせる箇所がある。特におかしいのはラスト近くシュピルマンが餓えの中でやっとみつけた大きな缶詰を何とか開けようとしてナチス将校に見つかってしまう。こんな状況で缶詰と格闘しているのもおかしいし将校の前で暖炉の火かき棒を両手に構えてる髭面の男という絵面が笑える。しかも缶詰は開け切れず中から汁が流れ出す。そこにナチス将校の靴から映す、という定番のカメラアングルもちょいとおかしい。
ところがこのナチス将校は毛色が違っててユダヤ人のシュピルマンにピアノを弾かせる。またこの大変な時にシュピルマンは大事に缶詰を抱えてピアノの前に行く。彼にとっては缶詰が何より大切なのだ。
ところがピアノを弾きだしたた途端彼はピアニストとして素晴らしい演奏を聴かせる。感動した将校はシュピルマンにこっそり食料を運んでやる。シュピルマンは彼に向って言う「あなたになんと感謝したらいいのだろう」そんなこと言ったってそのナチスから迫害されてこうなったんでしょう。とんでもない感謝である。監督の皮肉が込められていると思うのである。
その後、戦争は終わりシュピルマンはナチス将校のコートを着込んでいた為にもう少しでソ連兵に射殺されそうになる。早く脱げよと慌ててしまったではないか。ソ連兵から「何故ナチスのコートを着ているのだ?」と聞かれ「寒かったから」(笑)
戦後彼はピアニストに復帰し友人からナチス将校がソ連兵に捕まって彼の助けを求めていたと聞かされる。名前も知ることができずシュピルマンにはどうしようもない。
この部分、実際のシュピルマンはナチス将校に助けられたと言えず探すことができなかった、ということらしいが、映画の描写は違うものを感じさせる。
彼を助けかっこよかったナチス将校が助けを求める、というのが悲しいし、シュピルマンはあまり将校を助けようと頑張った様子には見えないのだ。
この部分は同じようにナチスによって家族を失ったポランスキー監督の感情も入っているように思えてしまう。

美しいピアノの調べを聞きながら戦争の狂気によってどれほどの人が敵も味方も迫害され惨たらしく殺されていったのか、を考える。
何故あんな恐怖を感じ逃げ惑わねばならなかったのか。
戦争にはどうしようもない狂気の滑稽と恐怖しかない。

監督:ロマン・ポランスキー 出演:エイドリアン・ブロディ トーマス・クレッチマン エミリア・フォックス ミハウ・ジェブロフスキー エド・ストッパード フランク・フィンレイ
2002年 / フランス/ドイツ/ポーランド/イギリス

この映画を観たのはポランスキー監督作品だったのもあるけど実のところはナチス将校のトーマス・クレッチマンを観たかったからなのだった。
シュピルマンのピアノに魅了され彼を助けたナチス将校。もうかっこよすぎて一体何の為に観てんだい。って気にもなるがひたすらもうかっこいい。
実際の彼は他にもユダヤ人を助けた、という方であったらしいがそういう人もソ連の収容所で亡くなったわけだ。なんて悲しいんだろう。戦争なんて本当に虚しい。
ラベル:戦争 歴史
posted by フェイユイ at 23:32| Comment(0) | TrackBack(1) | 欧州 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年04月13日

『エリート養成機関 ナポラ』デニス・ガンセル

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NAPOLA/BEFORE THE FALL

これは一体、なんだかなあ、映画作品として完成してない気がする。
ナチスの士官学校。厳格な規律の中で育まれていく強い友情。ハンサムな金髪碧眼の大柄な少年と黒髪の繊細な少年という組み合わせなんかも確かに自分が好きなシチュエーションではありますとも。しかしこの作りでは感動したくてもできないではないか。

すべてが甘くて緩いのである。ナチスというよりナチスごっこをしてる学校みたいなんである。ナチスにかぶれた若い奴が物語を空想ででっち上げたらこういう話になりそうだ。それにしても取り敢えずドイツ人が作ったものがこれでいいのであろうか。
「らしさ」を何とか生み出そうとする工夫はあちこちあるのかもしれない。フリードリヒが学校へ入学する為に髪や目の色を検査される場面なんかにそれが出ているんだけど、そこだけでそれ以上の関連がない。この映画ってそういう事柄の羅列でできていて物語の流れがないのだ。
そしてナチスの士官学校に志願する息子を何の説明もせずただ怒り殴る父親だとか逆に士官学校を毛嫌いする息子を憎悪する父親だとか、学校の教師もすべて大人は嫌な奴ばかり出て来る映画だ。こういう風に登場する大人を全部嫌な奴間抜けな奴としてしか描かないのは今の日本のアニメなんかでも顕著なのだが非常に子供じみた表現に思えてしまうのだよ。
そして主人公のフリードリヒとアルブレヒトをひたすら美しく描く。そういう極端な対比というのはむしろ寒々しく感動に結びついていかない。フリードリヒはエリートを目指すと言ってたのにどうしたんだ。何となくいい思いがしたかっただけなんじゃないか。アルブレヒトの死の描き方も腑に落ちない。あの状態ならまだ助けられそうな気もするし、単に自殺を美化して見せたかっただけのようで白々しいのだ。
二人の置かれた状況がどうしようもないほど追い詰められたように感じられないので投げやりな奴らにしか見えてこない。
フリードリヒの最後も裸にされて放り出される、っていうのは別段ナチス軍隊にそのまま残され戦争に連れて行かれた少年たちの方がよっぽど可哀そうじゃないのか。うまい汁だけ吸って危ないところで逃げだせたみたいにしか見えないよ。

何だか妙に少年愛っぽいムードを出してナチスだって清らかな青春があった、って見せてるのが苛立たしい。
この映画監督はまだ子供過ぎて世の中のことがよく判ってないだけに思えてくる。
この映画内容で最後に「士官学校の半分が戦死した」って言われても主人公の物語と噛み合わないではないか。
も少しよく勉強して大人になってから映画を作って欲しい。

監督:デニス・ガンセル 出演:トム・シリング クラウディア・ミヒェルゼン フロリアン・シュテッター ユストゥス・フォン・ドーナニー ジェラルド・アレクサンダー・ヘルト
2004年ドイツ
ラベル:戦争 学校
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2010年04月12日

『かつて、ノルマンディーで』ニコラ・フィリベール

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RETOUR EN NORMANDIE

昨日観た『日本のいちばん長い日』が事実なのかフィクションなのかよく判らなくなってくる事実だったフィクションなのに対して本作『かつて、ノルマンディーで』は事実なのかフィクションなのか判らなくなってくるフィクションも含む事実、というところなのだろうか。
自分にとっては本作監督ニコラ・フィリベールもまだ観賞2作目のよく知らない人である上、中で語られる彼の師であるルネ・アリオ監督なる人物の名前すら知らないしもしかしてこれって全部フィクション?とまで思いながら観てしまったのだ。まあここまでドキュメンタリーめいた創作をする必要があるものなのかよく判らないがそういう試みなのかな、と半分考えながら観ていったのであった。とにかく何も調べず観るものだからこういう事態がまま起きる。

実際は確かに実際行われた撮影の同窓会的ドキュメンタリーであったようだ。
30年前にフィリベール氏が助監督として参加したルネ・アリオ監督『私 ピエール・リヴィエールは母と妹と弟を殺害した』という映画作品は一部の脇役を除き主要配役を実際の地元農民に演じさせた、というものであった。作品自体が農村部が舞台で主要人物も農民なのである。脇役というのはそこに属さない医師や弁護士という役柄に職業俳優を当てたのだという。
彼らは皆その時限りの俳優でその後は全員俳優ではない職業に従事している。人生の中でたった一度限りの俳優を体験したことを30年を経た今彼らがどんな人物になりどんな感想を持っているのかを当時助監督であったフィリベールが丹念に追っていく。彼が当時普通の村民だった人々に役を与えていったのだ。
しかしその内容はすぐ近くの村である若者が実の母と妹弟を殺害した、という恐ろしい代物なのだ。普通の人々だった彼らは突然殺人事件の当事者及びその関係者という演技を映画撮影されることになったのだ。
素人とはいえ役柄になりきり深く考えたという彼ら。そして周囲の人々の視線を受けることになる。
平凡に生きて来た人々にとってそれがどういう意味を持ったのか、とても興味深い作品だった。

しかしこの作品もまた一番目に観た『パリ・ルーヴル美術館の秘密』と同じく余計な説明をせず淡々と映像が続いていく形式で観る者に感動を押し付けないというのか(と言ってもラストの主人公の登場は演出であったかもしれないが、それにしても華々しくはない)クールなのである。ところがこの映画を作った本当の理由というのがフィリベール監督の父親が実は当の映画に出演していたにも拘らずその場面をカットされてしまった、ということにあったのだ。
そのフィルムは保管されていて今ここで息子ニコラ・フィリベールの映画の中で30年ぶりに公開される運びとなった、という顛末になるのである。
なんという!実に私情を挟まないクールな演出、と思っていたフィリベール監督のドキュメンタリーが思い切り私情のみで作られた作品だったのである。やるなあ。
気が引けたのか、音だけなかったのか?何故か音声なしの映像であったが父親の映画出演がここにかなったのである。
もう一人出演していたのにカットされたという出演者の今の映像もしっかり入っていたわけでフィリベール監督が素人ばかりの主要配役映画の同窓会ドキュメンタリーとして文句はないであろう。
実に楽しくて考えさせられる映画だった。

それにしてもこの元となる『私 ピエール・リヴィエールは母と妹と弟を殺害した』日本未公開らしいのだが、その内容に惹かれる。
『カポーティ』の映画で昔の作品のDVDが出てきたようにこれも便乗して、というほどこの作品自体が話題じゃないか。是非観てみたいのだが。
主役を演じた青年もやはり素人で参加したのだという。非常に内気で繊細な印象の若者で農家のじめじめした自分の部屋に引きこもって文章ばかり書いているイメージ通りの青年なのであった。
しかも当時なかなかの美青年で彼だけは監督にも認められ俳優になる為にパリへ行き他の演技にも挑戦したのだ。だが結局芸能界に馴染めずカナダへ移住した後、なんと神父になっていたのだ。
映画の中でのこととはいえ殺人者を演じた若者が宗教家になるなんて出来過ぎである。彼もまた殺人者になった青年になりきってその心を深く考えたのだった。
30年前に一度だけ他の人間になった経験を持つ普通の人々。
その時の思い出を楽しそうに語り合う彼らを観てると本当に羨ましいようなでも怖いような気持ちになってしまった。彼らの中に一人でも勘違いして変な方向に行ってしまった人がでなかったのも(まあそれはそれでいいけど)幸いだったんだろう。殺された母親の愛人役をやった男性の娘さんが「何故パパは愛人役なのよ」と言ってパパを苛めるのがおかしかった。パパも満更じゃなさそうだったけど。
フランス人だからこそのこの内容が受け入れられるのか。
殺人事件の主要配役、素人が地獄を覗き込むのは怖い気もするのだけどねえ。
でも興味は、湧いてくるねえ。

監督:ニコラ・フィリベール
2007年フランス
posted by フェイユイ at 23:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 欧州 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする