映画・ドラマ・本などの感想記事は基本的にネタバレです。ご注意を

2010年04月10日

『ナチスの墓標〜レニングラード捕虜収容所〜』トム・ロバーツ

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IN TRANZIT

久しぶりのダニエル・ブリュール、ということもあって観てみた。彼は相変わらずの美形で役柄も単なるいい男でないのが似合っていたが私としては彼にやたらと絡まれる役のトーマス・クレッチマンが素敵であったな。

時は戦後なのだがソ連軍の捕虜となっているドイツ兵士たちと彼らを監視せねばならないソ連の女性兵士たちの物語である。
やはりこれは男女平等である共産主義の軍部だからこそ起き得るお話ということになるんだろうか。他で観る大概の捕虜物語は捕虜も見張りも男だからこういう事態にはなり難いのかもしれないが。
女性兵士だけが管理するレニングラードの収容所。厳寒の地に送り込まれたのはドイツ軍の捕虜だがソ連軍の大佐パブロフは彼らの中に戦犯が紛れ込んでいることを知り、女性医師ナターシャに彼らの一人と肉体関係を持って探りを入れることを提案する(命令というほどきついものではなかったな)
夫がいるナターシャは驚き動揺する。彼女の夫アンドレイは戦争の傷を受け脳に障害を持つ身になっている。彼女はドイツ兵士の中のマックスという男に次第に惹かれていった。
こういう話が実際にあるんだろうか。
男たちばかりの捕虜と女だけの監視。その中で恋が芽生えていく。捕虜たちに楽器が与えられ開催されたダンスパーティで知り合った敵同士のソ連女性とドイツ男性が次々と深い仲になっていく。
だがスターリンとドイツの交渉が済み彼らの帰国が認められ恋人になっていた男女は別れることになる。
そして女医ナターシャは障害を持つ夫が連れ去られマックスは帰国することになり孤独の身となった。

恐ろしい邦題がついているが原題は『IN TRANZIT』マックスが送り込まれまた連れ去られた。そして夫もまた。時は移り変わっていく。戦争は彼女からすべてを奪ってしまった。
何の楽しみも知らない娘ジーナも束の間の喜びを知りそして死んでしまったのだ。
時折訪れては捕虜だけでなくソ連の女性兵士たちにも脅威を与える大佐にジョン・マルコビッチが扮している。いつもながら何を考えているのか判らない狂気を感じさせる役者である。
どういうものか酷く評価が悪いようだが、自分としては結構面白いものに感じられた。女医ナターシャ役のヴェラ・ファーミガの青い目が美しく魅力的であった。

監督:トム・ロバーツ 出演:ジョン・マルコビッチ トーマス・クレッチマン ダニエル・ブリュール ベラ・ファーミガ ナタリー・プレス エヴゲーニイ・ミローノフ ジョン・リンチ
2006年 / ロシア/イギリス

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2010年04月08日

『夏の嵐 Sommersturm』Marco Kreuzpaintner

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なんかごにょごにょ探していたら珍しくこういうの見つけてしまった。私はあんまりネット探し物得意じゃないんで非常に稀な拾いモノだった。たまにはこういうこともあるものなのだねえ。

と妙に落ち着いて書いてしまったが実は見つけた後かなり焦りまくって観たんだけどね。取り繕ってみせた^^;

うむ。なんだかよかったなあ。他愛のないといえば他愛のない話だけど主人公トビ君を演じてるRobert Stadloberがちょっとハリソン・フォードみたいな顔でも少し年取ったらかなりいかつい顔になってしまいそうなんだけどまだ少年らしい華奢さが残ってる為に酷く愛らしい表情に見えたりしてときめいてしまったのだった。
タイトルの『Sommersturm』=Summer Storm:夏の嵐というのも少年期らしい胸騒ぎなタイトルでよいではないか。ボート部に属するトビは同じ部員のアキムに恋をしている。黒髪のエキゾチックでハンサムなアキムの顔をいつもじっと見つめてしまうのだ。
だが表向きには無論仲の良い親友としての関係を保っている。アキムはブロンドヘアのサンドラと相思相愛で彼とトビの関係は次第に彼女が入り込む割合が増えてきているのだ。そういうトビも実はサンドラの友人アンケと恋人同士ということになってしまっている。アンケはとても綺麗な女の子でトビにかなり積極的である。普通の男の子だったらたまらなく美味しい状況であるのだがトビはセクシーなアンケに何も感じることがない。彼女が夢中で迫ってくるほどトビはどうしていいのか判らなくなってくる。

トビのアキムへの思いが切なくて悲しいのだがそういうトビもアンケに中途半端な態度だったりトビを好きになる男の子レオにはちょっと冷たかったりしていかにも若い時らしい自分勝手さが表現されておりまする。
アンケちゃんは綺麗すぎセクシーすぎなんじゃあ。こんな可愛い女の子勿体ないですぜ。
トビを好きになるゲイの男の子レオくんもなかなか可愛いんだけどとにかくトビの片思いの相手アキムが凄いハンサムなんだよねー。

トビ達が属しているボートクラブは競技会での優勝を目指してキャンプ地で練習することになる。
クラブは男女混合でトビが思いを抱くアキムはサンドラといちゃつきっぱなし。トビは次第に離れていくアキムを見つめるしかない。
キャンプ地では彼らの傍に「ゲイのボートチーム」も合宿練習に訪れていた。トビは堂々とカミングアウトしている彼らを観察する。とはいえトビの気持ちはアキムから離れることはない。ゲイの若者たちの出現やアキムがどんどん自分から遠ざかっていく現実のなかで彼の心は揺れ動く。
そしてトビはとうとう片思いを隠しきれなくなりついアキムに軽くキスしてしまい逃げられる。茫然としているトビにゲイチームが近づいてきて慰めるように一日を過ごすことになった。中でもレオという少年はトビに好意を抱いている。
ハッと目が覚める。いつの間にか眠っていたのだ。背中は真夏の太陽で酷い日焼けをしてしまった。そんなトビにレオは優しく手当てをしてくれた。
トビくんてレオから気持ちのいいことをしてもらうのは好きなんだけど心から好きじゃないの^^;肉欲だけなんだなあ。結局アキムが好きなんだよね。
って言ってもそう簡単に心変わりするのもどうだかなんでこれはこれでいいんですよ。って若い時これ観たら「えーどうしてレオが可愛そう」とかぎゃーぎゃー言ったろうけど、みんなまだまだ子供だもんね。ひと夏の恋よ(煙草スパー)こんな美しい思い出を作っただけましってもんだよね。普通もっとしょぼいもんよ(侘しいこと言うなよ)
トビだって若干鼻でか過ぎ(ドイツ人だから(ほんとはオーストリア人みたいですが)こんなもんですか。自分らが低すぎですか)だけど背も高いしかっこいいもん。ソルジャーみたいな顔だ。
女の子にもこんなにモテてさ。先生にも気に入られてるし。レオみたいな可愛いゲイの子と体験できたし。アキムとだって親友だ。
でも恋人にだけはなれない。
そこが辛いんだよね。

夏の嵐は本当にキャンプ地を襲う。そんなに「劇的」ってほどでもないけどこの嵐で壊れたものが少しずつ修正されたりする。
ごちゃごちゃになって駄目になってしまいそうだったトビがまた元の彼に、いや少しは成長できたんだろうか。
そんな感じで夏の嵐が吹き去ったのだった。

監督:Marco Kreuzpaintner 出演:Robert Stadlober Kostja Ullmann Marlon Kittel Hanno Koffler
2004年ドイツ

こちらなど→ Sommersturm

↓で観るとロベルトは全然ごつくなくてキュートで細いです。可愛い。
Robert Stadlober/Hanno Koffler (Summer Storm) - David Lamble/ClaudesPlace.com
ラベル:同性愛 友情 青春
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2010年04月05日

『U・ボート ディレクターズ・カット』ウォルフガング・ペーターゼン

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DAS BOOT

こんな面白い映画観たことないぞ!っていうくらい面白かった。
って、この台詞結構多用してて価値薄くなってるかもしれないけどホントにめちゃ面白かった。

戦争映画で「面白かった」っていうのは何故か後ろめたいというのか、本来ならもっと真摯な態度で拝観しなければならないような、そして真面目に論じなければならないような抑圧があったりするものだが、とにかくこの映画で感じるのは「面白い」という感覚であって無論そこに戦争だからこそあり得る緊張感を前提にしているからこその面白さなんだろう。
だからと言って自分がこの艦に乗り込みたいかと問われればそれはもう絶対拒否する恐ろしさなのである。映画で疑似体験するだけに留めたい。もしいい気になって乗り込んだりしたら中でヴェルナーが言った「自分を極限状態に置いてみたかった。母親も誰も頼る人もいない現実を体験したかった。それが今だ」と言うことになってしまいそうだ。

潜水艦という状態で閉じられた狭い鉄の筒の中に男たちがぎゅうぎゅう詰めになって飯を食っては排泄しベッドは交代という毎日を繰り返していく。こんなに食事場面が多い戦争映画もあんまりないような気がする。とにかくすることが他にない。唯一の楽しみはレコードをかけることくらい。その中で特に艦長がかけさせた「ティペラリーソング」はなにせ敵国であるイギリスの歌というのがとても愉快でこの歌が流れる二つの箇所を好きな場面に選ぶ人も多いようだ。
潜水艦の戦争と言うのは敵が見えない。どこに相手がいるんだかもよくはわからない。映像としてはつまり敵を映さなくてもすむ。描かれるのは艦内にうごめいている男たちだけに絞り込まれるので必然締まった物語になりやすいのかもしれない。本作は特に映像をあちこちに移さず艦長達の目線に集約しているのが効果的だ。
狭い艦内を行ったり来たりする兵士たち。なんとか通れるだけの幅しかないその通路ではあちこち食事をしたりしてるのを乗り越えて走り回る。
艦長がかっこよくてたまらない。ユルゲン・プロフノウ。自分が観てた映画にも多々出演してるのに意識してなかった。悔しい。
男らしさが溢れる彼だが、嵐の中で水面に浮上して進む潜水艦の上で叫びながら突進していく様はややおかしくもあっていやそこが素敵だった。彼の信頼を得ていたのに恐怖で突然切れてしまい艦長を失望させ再び活躍してお褒めの言葉をもらう「幽霊のヨハン」も忘れ難い。一体なんなんだろう、このキャラクターって。でも確かに潜水艦の中にはこういう乗組員が一人はいそうだ。そのくらい劣悪な環境なのだ。
そう、もう敵はイギリスだけじゃない。この恐ろしい環境がすでに敵で彼らをじわじわと圧迫してくる。
敵から逃れるため艦長の命令で潜水艦は深く沈み込んでいく。あちこちでうめき声のように艦がきしみだす。ぞっとする音だ。ぎぎぎぎ、という音を聞きながら若い兵士たちはいや何度も体験してきたはずの者ですら死の恐怖を感じる。さらに艦長が艦を潜航させるとボルトが飛び、水が物凄い勢いで入り込んでくる。この恐怖を彼らは何度も何度も味わわなくてはならない。
そして艦長でさえその成功を確信することはできなかった、難攻不落のジブラルタル海峡を渡れという軍部からの命令。艦長は果敢に挑んだが艦は攻撃を受け浮上することができず、280メートルという深さに落ち込んだ。様々な機器が破壊されどうすることもできない。

しかしここからが凄まじく、ドイツ魂というのか根性というのかいや他の誰でもこの危機にならここまで頑張れるのか、判らないがそれでも何とかして機械を修理してしまうのはさすがドイツ人、と言っていいんだろうか。不屈の魂、辛抱強く最後まで諦めない粘りにあっぱれと言いたい(って何故こんな古臭い言い方になるんだろ)めげずに頑張った幽霊ヨハンも偉い。
もう観てるだけでへとへとになりそうで、映画とは言えこの作業にずっとかかりきっていた彼らはさぞへたばったことだろう。

しかし緊迫して場面でも食べ物があちこち登場。緊急事態なのにぶら下げられたバナナが揺れているのが笑える。ソーセージを咥えながら走る兵士がいたり。
結構笑える場面が配置され、その為より緊迫した状態を感じさせられる。そして最後は、喜びに沸いた彼らもあっという間の攻撃にさらされる。そうした皮肉な結末がこの映画作品の最後として優れていた、と私は思う。

監督:ウォルフガング・ペーターゼン  出演:ユルゲン・プロホノフ ヘルベルト・グレーネマイヤー クラウス・ベンネマン ヘルベルト・グリューネマイヤー ベルント・タウバー マルチン・ゼメルロッゲ
1997年 / ドイツ
ラベル:戦争 
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2010年03月31日

『炎のジプシーブラス 地図にない村から』ラルフ・マルシャレック

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BRASS ON FIRE

『耳に残るは君の歌声』という映画も面白かったし、『ガッジョ・ディーロ』『ジプシー・キャラバン』とどれもロマの生活と音楽を興味深く観てその音楽に聞き惚れた。
本作はこれらの中においても最ものんびりとしてもしかしたら一番本当の生活に近いもののような気がするのだが。
とにかく登場するロマの村人の男たちが本気でその辺の田舎のおっさん的ないでたち言動でどこにでもいそうな人々である。

ドイツ人のヘンリーがルーマニアの地図にも載っていない村に住むロマのオヤジさんイオンと出会い、その音楽に惚れ込んで何度も訪問するうちに世界ツアーを計画する。
出だしは凍った湖に開いた穴から少年がホルンを拾い上げる、というとても美しい映像から始まる。まるでメルヘンのような一場面だがそこから始まる物語はメルヘンというよりとんでもなくどたばたしてる珍道中でおかしくてしょうがないでもやっぱりこれもメルヘンなのかもしれない。
何しろなんもないような凄い田舎に住むおじさんたちが楽器なんかも古い奴を修理しながら使っているような状態で街に住む大勢の人々を歓喜の渦に巻き込んでしまうのだから。
彼らに偶然出会ったと言うのも不思議なことであるがヘンリーと相棒のヘルムートは彼らを世界ツアーに連れ出す。が、他の物語とちょっと違うのは二人が二人とも彼らの村に住む女性(しかも従姉妹)たちと結婚し可愛い子供も生まれて大家族でツアーを始めてしまうのだ。子供にはちゃんとロマの血が受け継がれまだ赤ん坊に近いくせに皆に混じってドラムスティックでリズムをとってる。
ツアーはベルリン、ミラノそして東京へと渡ってくる。原宿で踊ろうとした彼らの前に警察の待ったがかかったが5分間のお許しが出た。なんだかなあ。
とはいえ東京での彼らの音楽も燃え上がり、作品的にも締めくくりであったので非常に素晴らしい演奏だった。この中でも特に力の入った熱い演奏だったのはどうしてなんだろう。などと言わなくてもいいか。
そして彼らは再びのんびりしたルーマニアの片田舎に戻る。美しい田園風景。彼らを迎えたのは冒頭、湖でホルンを拾った少年。村の楽器修理のおじさんに使えないほど壊れていたホルンを直してもらったのだ。
物凄く高価な楽器でなくても心底音楽に浸っている彼らの生活とのんびりした村の風景に今日も慌ただしく過ごした自分は憧れてしまうのである。

監督:ラルフ・マルシャレック 出演:ファンファーレ・チォカリーア
2002年ドイツ
ラベル:ロマ 音楽
posted by フェイユイ at 22:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 欧州 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年03月27日

『パリ・ルーヴル美術館の秘密』ニコラ・フィリベール

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LA VILLE LOUVRE

フランス映画の感想記事はいつも必ず「まったく不思議な」「わけわからん」といった形容ばかり書いてしまって我ながら進歩がないのだが映画のカテゴリがドキュメンタリーになってさすがフランスはフランス。やはりわけのわかんない不思議な作品になるのであった。

というか、一般的にドキュメンタリーというと何かを訴えたいのがテーマとしてあってそれをどのくらい観客にくみ取ってもらえるのか、理解してもらえるかが腕の見せ所であり重要性であったりすると思うのだが本作はただ淡々と美術館の裏方さんの仕事ぶりを見せていくだけでありそれらを説明するのは僅かな言葉のやり取りでしかない。無論掃除してるのや絵を運んでいるのやどの絵を選ぼうかと思考してたり絵の修復をしてるのは見りゃ判るだろうと言われればそれまでだが丁寧に事細かくナレーションなりで説明を聞くのになれている身には随分ぶっきら棒にも思えるのではあるが。観る者はとにかく映像に登場する大勢の裏方たちが何をやってるのかはそれぞれの知識と観察力にまかせるとして観ていくしかないのである。それはちょうど作品中で「一つの部屋にダビデとモナリザを置いておけば観客は何の苦労もせずして満足するかもしれないがここには豊富な美術品があることを何時間も歩き続けて見せねばならないのだ」と言っているように単純な説明で知るだけでなく観ることで受け取っていかねばならないのかもしれない。

とはいえ私は(というかそういう人は多いと思うのだが)仕事をしている人を見るのが大好きだ。
子供の時デパートでケーキやまんじゅうを作っているのやら家の前で畳職人さんが畳を修理してるのを飽きもせず眺めていた。映画でも何かの仕事をしている映画はその過程を見てるのがとても心地いい。
本作はそういうのがどっさり集められているのだから私みたいな「作業フェチ」みたいな人間には堪えられない映像ではないか。
掃除してるのも楽しいしどうやったら運べるのか判らないほどでかい絵画を人間の力で持ち上げているのなんかは感心してしまう。そういう人たちに出す食事を作ってる厨房も忙しくてしかも美味そうでなんか突然体を鍛えている人やら空砲を撃って音響(?)を検査してる人達なんかはちょっと不思議である。
そういう忙しく立ち働く人々の間に歴史的名画がちらちらと見え隠れしている。
建造物の大きさ、所有する美術品と数と共に働く人々の数も半端ではなく自分としてはもう少しこじんまりした美術館がいいなあとも思うのだがやはりこれは行って見てみなければ判らないものなんだろう。自分が一生のうちに行けるとは思えないが。
ドキュメンタリーとは言えフランスらしい心構えの、そして美しい映画であった。
個々の誇りを感じてしまう。

監督:ニコラ・フィリベール
1990年フランス
posted by フェイユイ at 20:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 欧州 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年03月26日

『ワン・デイ・イン・ヨーロッパ』ハネス・シュテーア

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One Day in Europe

ヨーロッパ中のサッカーファンが熱狂するチャンピオンズリーグ決勝戦の日に4つの町で起きた出来事を描いたオムニバス映画。
サッカークラブチームの決勝戦スペイン・デポルティボとトルコ・ガラタサライという熱い対決がロシア・モスクワで行われるという架空の設定なのであるが、同じ日の4つの町での物語に共通点が幾つかあり、それがこの試合に熱狂するサポーターの騒動と主人公が何らかの形で強盗事件に巻き込まれること、そしてどの主人公もその土地において異邦人であり言葉が通じないもしくは通じにくいということである。
もう一つはタクシー、警察の車、バス、などという乗り物がアイテムとして使われることもあるだろうか。それはこの作品がジム・ジャームッシュの『ナイト・オン・ザ・プラネット』を意識して作られたと思われるからなのか。ところで自分は話題にもなり評価も高いと思われる『ナイト・オン・プラネット』をどうしても観終えることができなかったのだが(つまり面白くなくて)本作の方が楽しめた。
とはいえ、爆発的に面白い、というのでもなくうっすらニタリと笑ったりするような楽しさである。
ただこうして観てると確かに、外国人の主人公が言葉の通じない状態に置かれるというのは何らかの面白さは出てくるものなのだ。
1話目のロシアにおけるイギリス女性は理不尽な状況で強盗に遭い、親切な女性に付き添われ警察に行くが警察はサッカー観戦に忙しく言葉の通じないイギリス女性の不幸に付き合っている暇などないと言わんばかり。心優しいロシアのおばさんの力強い助けだけが主人公の支えになる。ところがおばさんが呼び出した息子と言うのが・・・と言う話。英語圏の人は話が通じるはず、と思い込んでいるふしがあるがモスクワ警察で彼女の事情を聴きに来た警官は「ドイツ語は話せる?」とくるのである。確かにロシアからすればイギリスよりドイツが近い。

第2話はトルコでのドイツ人。狂言強盗で保険金をいただこうとする男は警察で手酷い目に会う。

第3話はスペインで巡礼の旅をするハンガリー人がカメラを盗まれた挙句、スペイン警察のなんとも杜撰で責任感のない処置に会う。

第4話はベルリンでのフランス人の男女。東ヨーロッパを大道芸をして稼いで行こうと計画したものの身入りはさっぱり。そこで男の方が虚言強盗を思いつく。フランス人の男の方がベルリンの移民の町で強盗に遭ったふりをして保険金をせしめようと考え付く。
「芸は確かだ」と男は自信をもっているのだがそうなのかなあ何だか古臭くてしょぼいようにしか思えないのがますます二人は惨めに思わせるし女性の「彼がいつも失敗するとこが好きなの」というのも優しいと言うより侘しいぞ。私的にはこの物語が一番もっと観ていたい気になったのであるが。

サッカーファンという世界中で最もわけのわからん(いや私もかつてこのようなことをやってたんであえて言うんだけど)群れを取り込みながら侘しくおかしい4つの物語であった。
異邦人とサッカーファン、このパターンでいくと世界中で限りなく物語が作れるし、どれも切なくなりそうだ。

監督:ハネス・シュテーア 出演:フローリアン・ルーカス ミーガン・ゲイ ルドミラ・ツヴェートコヴァ エルダル・イルディズ
2005年 / ドイツ/スペイン
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2010年03月22日

『アグネスと彼の兄弟』オスカー・レーラー

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AGNES UND SEINE BRUDER

悲しいコメディであったなあ。
人は誰しも他人には言えないような恥ずかしい性癖を持っているものなのかもしれない。己にとっては絶対必要な大切なそれであっても他人から見ればただの変態となってしまう。無論私にもあるわけで。言わんけど。
3人兄弟の物語である。3人兄弟の物語って昔話なんかでもよく使われる設定であるようだ。多くの場合は上の兄二人はそれぞれ性格的欠陥が有末の弟が正直人間だったりして始めは兄に騙されたりしても最後には幸せを掴んでめでたしになったりする。
本作でもそういう系統の流れをくんでいるというべきか、確かに二人の兄はかなり変てこな性癖の持ち主で観てるだけでもうへえとなりそうな近づきたくないタイプであるルックス的にも可愛くない。
末の弟はせがすらりとしたハンサムで一番まっとうな性格のようなのだが、性転換をして女性になっているのだ。

ううむ。
世間的に見て性転換したまっとうな人格の弟とかなり問題ありの人格(長男は電話中に(大)を排出し、妻や息子から何かと嫌われている。二男は父親が兄や弟に性的虐待をしていたという妄想だか本当の記憶か判らないものの為に強いトラウマを持っていて美女に異常な執着があり(っていうのはストレート男性なら当たり前?)覗きを止められない)を持つ二人の兄とでは、それでもやはり性転換者を「変な奴」と観るのではないかという皮肉も込められているのか。
しかしラストは童話とは違い、末の弟は病に倒れ死んでしまうという悲劇が訪れ、長兄は修復不可能かと思われた妻子と仲直りし何やら愛を取り戻した幸せな結末を迎え、次兄はなんと父親を殺害した後、念願だった恋人を持つことが叶い、外国へ逃亡して生き延びるのである。次兄物語にはまたもや「父殺し」が扱われ、父を殺した後やっと彼は成長することができる、という展開になる。

おぞましいような(言い過ぎ?)性癖を持つ兄二人が最後に幸せを掴むのに性転換した末弟マーチンそして今はアグネスという女性名の彼はずっと不幸なのである。昔愛したニューヨークのゲイである黒人歌手から捨てられたマーチンは彼がゲイ(男が好き)だからこそ「女になった」のだ。そして今同棲していた男性からは追いだされてしまい行くあてもない。そんなマーチンはかつて女性と結婚して息子がいるのである。
アグネスとなった彼が死を宣告されて元妻と子に会いに行く場面。元妻も彼を優しく迎え、なによりも小さな息子くんが嬉しそうに「パパだった」アグネスに抱きつくのが思わずじわっときてしまった。
そうしてアグネスは死を迎える。まだ幼くて幸せだった頃の小さな自分を思い出しながら笑って死んでしまうのだ。

優しそうだったアグネスの死。変てこな人間である兄達の幸せ。その幸せがどのくらい確固たるものであるかは保証できないが。
世界は混とんとしておかしくて悲しいモノであるのだ。

監督:オスカー・レーラー 出演:マルティン・ヴァイス マーティン・ファイフェル モーリッツ・ブライプトロイ ヘルベルト・クナウプ カーチャ・リーマン トム・シリング
2004年ドイツ
ラベル:家族 人生
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2010年03月05日

『スター・オブ・ソルジャー』クリストフ・ド・ポンフィリー

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L’ Etoile du soldat

ロシア映画のアフガン介入映画『9 rota/The 9th Company』、アメリカ映画は『チャーリー・ウィルソンズ・ウォー』そして外側の目としてのフランス映画である本作『スター・オブ・ソルジャー』を観て、まだアフガニスタン自体の映画は観てない、というのではどうしようもないがレンタルできるのはないかもしれない。
昨日観た『チャーリー』映画では嫌悪すべき存在であるソ連人たちとアフガニスタン人の人格・人間性というものはまったく描かれていなかった。『9 rota』と本作ではアメリカ人というものの人格・人間性が描かれていない。そしてそれぞれにおいての味方側は個々の人格・人間性が生き生きと描かれていく。互いに互いは「悪魔」であって恐ろしい憎悪の的でしかない。それが当然と言えばそう言うしかないがそんな風にしか思えないからこそ戦争というものができてしまうんだろう。

本作では主人公はソ連軍の一兵士であるが物語はジャーナリストであるフランス人ヴェルゴによって語られると言う方式になっている。
フランス人の彼はアフガニスタンの各地を渡り歩いてカメラに収め記録を取っていく。彼はアフガニスタンの兵士たちから強い信頼を受けていて外国人で(多分)異教徒でありながら友人としての待遇を甘んじている。自然ヴェルゴはアフガニスタン側でしかも過激派ではない人々の目で見、判断しているだろう。彼らにとってアメリカ人は姿の見えない武器だけを供給する存在であり、ソ連軍は味方と称して自分たちを武力で抑えつける恐ろしい存在である。そんな彼らの中からアフガニスタンのある部族の捕虜となってしまうソ連人ニコライは脱走しようとして失敗しだが彼の命を奪いはしなかったアフガニスタン人の間に入っていき、御祈りを捧げ言葉を覚え、衣装も変えて彼らの生活に馴染んでいくのだった。

実話をベースにした、とあるが一体どこまでが事実でどこからが創作なのかは無論判らない。平凡なロシア青年だったはずのニコライが辿る運命はあり得ない童話なのか当然起こりうることなのか。
だがどちらにしてもこの作品がフランス人監督によるものでここに彼の考えが反映しているはずである。言葉でも説明しているように彼にとってはアメリカは世界中に戦争をばら撒き自国の経済利益しか考えない国であり、ソ連兵士ニコライは無邪気なロックミュージシャンで、アフガニスタンの戦士たちは誇り高買き男たちなのである。
直接ここに関わってはいない国フランスの人間の視線でありややロマンチックであり過ぎるとしてもそれもまた一つの視線であるのだろう。

監督:クリストフ・ド・ポンフィリー 出演:サッシャ・ブルド ドニ・マノヒン, パトリック・ショーヴェル
2006年フランス/ドイツ/アフガニスタン
ラベル:戦争 歴史
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2010年02月06日

『TOKYO!』「インテリアデザイン」ミシェル・ゴンドリー

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「インテリア・デザイン」
ミシェル・ゴンドリー監督作品というとガエル・ガルシア・ベルナルが主演していた『恋愛睡眠のすすめ」しか観てないのだが(『ヒューマン・ネイチャー』も観る予定だったのだがまだ予定の段階)それとかなり似たテイストのある作品であった。
出だしちょっとかったるそうなんで飽きるかな、と思ってたら意外にも面白くてはいりこんでしまった。
『恋愛睡眠』と同じように田舎(メキシコを田舎とすれば)から東京(あちらはパリへと)にやってきたお上りさんな主人公が都会の雑踏にもまれながら自分の夢を見る、みたいな思い切りオタク的なファンタジーですっごく可愛らしいのである。

もしかしたらこれは東京に住んでいる人より私みたいな外部の人間の方が素直に楽しめるのかもしれない。
信じられないほど狭いアパートに住む友人のところへ転がり込む田舎者の二人。一応恋人同士で男の子の方は加瀬亮が細っこい体つきに優しげな話し方でとてもフェミニンな感じに演じている。女の子は藤谷文子。知らないと思ってたが『ドモ又の死』に出てたのだ。父上がスティーブン・セガール氏なのだ。普通のだと女の子がしっかりしてて男が駄目駄目っていうのが日本映画は多いけどここでは逆で一見ひ弱そうで変な映画を作ってる男子のアキラのほうが案外器用になんでもこなしていく。一方のヒロコはアキラに「自分の存在を示そうとしていない」と言われたことにカチンときて拗ねて見せたりするけど気づいたらホントに自分は何もできない存在ででも周りの悪口には耐えきれなくてある日目覚めたら胸にポッカリ穴が開いている(つまり空虚さを感じてるわけね)そして足が棒になるほど歩き続けて行くうちに(ほんとに足が木の棒になってしまう)手も木になりそしてついに木の椅子になってしまう。
木の椅子になったヒロコは今までと違って色んな人から求められる。座ることができるから。
そしてある男性に拾われその人の家に落ち着くことになるのだ。
ヒロコを拾う男性を大森南朋が演じていて椅子がヒロコであることにはまったく気づいていない。彼は椅子であるヒロコに座り食事をしパソコンをし楽器を弾くのである。
ヒロコはやっと自分が人の役に立つ存在になれたのだ。

ヒロコが木の棒になっていくとこなんて凄く愉快なのである。アキラの映画ではヌードになれなかった彼女が思い切り往来で裸になってしまう(椅子は裸だからね)
難しいことを言う恋人の言うとおりの存在になれなくても自分は自分の好きなことをしながら存在していけるのが「東京」と言う町なのだ。

ゴンドリー監督の感覚はほんとに可愛い!っていうのがぴったりなんだけど、主人公ヒロコの拗ねかたも椅子になってしまう、っていうのも凄く可愛らしい。ゴンドリー監督は江戸川乱歩の『人間椅子』も御存じなのかな。あれでの椅子はあくまでマゾだが本作の椅子はあまりマゾっぽくはない。のんびり自分らしく生きている、と言う感じ。
映像のあれこれもキュートなものが多いのだが、ヒロコが入浴中にナオさんが帰って来て浴室を開けると風呂の中に椅子がいた、っていうのが滅茶苦茶好きだった。そんな椅子ヒロコを優しく拭いてくれるナオさんもいいなあ。一体彼の中でどう納得したんだろうか。

当たり前の感想だけど外国人が日本を撮るとやっぱり変なことに気づいて面白いんだよね。
一番の驚きは狭い部屋で、泊めてくれた友人が文句を言いたくても言わずにむっとして見せているだとか、アキラのバイトがラッピングだとか物凄い量を包まなきゃならない、と文句を言いながら結局真面目に働いてたり。
華奢な男の子とむっとしてる女の子の組み合わせだとかもとてもありがちでキュートで楽しかった。
妻夫木がおかまさんたちにからかわれている場面もよかったよ。

監督:ミシェル・ゴンドリー 出演:藤谷文子 加瀬亮 大森南朋 伊藤歩 妻夫木聡
2008年フランス/日本/ドイツ/韓国
ラベル:存在
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2010年02月05日

『マリア・カラスの真実』フィリップ・コーリー

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CALLAS ASSOLUTA

オペラを聴きとる耳など不幸にも持ち合わせていないが無知な私でもその名は知っているマリア・カラスという女性を知りたくて観た。
舞台でさぞ見栄えがするであろうと思える迫力のある美貌と3オクターブという類稀な美声を神から授けられた女性はその幸運と引き換えにしたのかと思うほどの寂しい人生を送ったのだ、としか思えない彼女の物語だった。

そのまま映画にできる、というのか、こんな起伏の激しいドラマチックな人生というものがあるのだ。
ギリシャ移民の両親の間にニューヨークで生まれたマリア。母親はちょうどその前に亡くしてしまった可愛い息子の代わりとして男子の誕生を願ったが生まれたのはマリアであったことから彼女の存在を拒んだという。
悲しい誕生である。その母親は同じ女でも先に生まれていた姉のことは大事にしていたようだがマリアには酷く冷淡だったようだ。だが彼女の歌の才能に気づき条件付きで愛するようになる。

人間にとって何が一番不幸なのか、といって親に愛されないより不幸なことがあるだろうか。結局マリアと母親の確執は最後まで続きついに許し愛し合うことはなかったみたいだ。
では人間にとって何が一番幸福なことかと言えば両親に愛されその存在を誇りに思ってもらうことなのだと思う。
マリアにはそれが欠けていた。彼女の人生にはアイドルとして崇められることはあったが個人として愛されることがなかった。それは父と母の両方の愛を知らない為、彼女は愛される、ということができなかったのではないだろうか。無論両親の愛を知らなくても人に愛される人はいるだろうけど、親に愛されなかった人は他の愛も受け取ることができないように思えるのだが、どうなんだろう。

伝説の歌姫として名高いマリア・カラスだがその歌手の歴史はそんなに長い時期ではない。その上、彼女はその間にも度々声が出なくなるなどの理由で上演をキャンセルしてしまっている。
その為に傲慢だという罵声を長く浴び続けてしまった人でもあったのだ。
その当時を直接知ることもできないので彼女が身勝手だったのか、繊細なあまりに歌えなかったのか、想像するしかないが、完全でないなら歌えないという態度だったからこそ、彼女の女神のような美貌や気高さに惹かれたのではないかとも思えるのだけど。
彼女が愛した男性というのは他にもいたのかということも判らないがこの作品の中では僅かに3人が登場する。
夫だったイタリア人男性とかの海運王オナシスの共通点は金持ちっていうことだ。マリアはそれなりに二人からちやほやされるのだがそれが彼女に揺るぎない愛をもたらすことはできなかった。
3人目の同僚、歌手の男性はすでに下降線になっていたマリアに復活のコンサート活動へと誘うのだが、それは彼の娘の病気の為で仕事が終われば別れが待っていた。
よくは判らないが彼女は真面目な女性で他に男性もいなかったのだろう。この美貌があっても、彼女には寂しい愛情しかもたらされなかったのだ。
女性というのはやはり何かに打ち込んでしまうとそれと結婚することになり男性の愛までも欲することはできないものなんだろうか。
彼女自身若い頃求婚されて「私は音楽と結婚するのです」と答えている。それがすべてだったのかもしれない。

プードルだけが彼女を裏切らなかった。と言われても。

彼女は死んでからもその遺灰を盗まれ、その後見つけられて海へ散骨されるのだが、その灰が彼女自身のものか判らない、という説明。死んでもまでも彼女の願いはかなえられなかったのか。

たび重なるいざこざを繰り返しながらも彼女は長くない期間にその歌声を残した。その美貌も確かにミューズの名にふさわしい。

とは言え初めて彼女のことを聞いた時、日本人なら皆この美貌の歌姫の名が「カラス」って不思議な感覚にならないか。最も不格好で悪声の鳥の名を持っているなんて。日本語だから仕方ないとはいえ、この名前だからこそ覚えてしまう。髪も真っ黒だからますますイメージが重なる。

伝説の歌神は劇的な人生を送っていた。
が、そのドラマは酷く悲しく寂しい物語だった。
何故愛されない子供、という存在があるのか。悲しくてしょうがない。

監督:フィリップ・コーリー 出演:マリア・カラス アリストテレス・オナシス ルキノ・ヴィスコンティ ピエル・パオロ・パゾリーニ グレイス・ケリー ジャン・コクトー ジャクリーン・ケネディ マリア・カラス グレイス・ケリー トゥリオ・セラフィン ヘルベルト・フォン・カラヤン グレース・ケリー
2007年 / フランス
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2010年02月01日

『テス』ロマン・ポランスキー

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Tess

これを観るまで(という恐ろしく長い時間)『テス』という作品は、ナスターシャ・キンスキーが主演だったので(しかも監督もスキーなので)ロシアか東欧かポーランド辺りの物語だと思ってたらトーマス・ハーディ原作のイギリスが舞台だったのだ。しかしナスターシャの顔からイギリス女性が連想できなかった。

ポランスキーという人はとてもユーモアを持っている監督でどの作品にもどこかおかしさがあるのだけど、この作品でとてもおかしかったのはテスの夫になる牧師という人がとても不運なこと。多分観客としてはテスに共鳴して観てしまうのでこの男はとんでもない悪い奴ってことになるんだけどこの男の目線で見たらとても笑える。というのはナスターシャ=テスの美しさをそのまま清らかさと勝手に思いこんだ彼が結婚した後告白されたのがすでに性体験済みで子供を産んだ後その子を死なせてしまった、という辛い過去を背負った女性であったこと。そのことに衝撃を受けた彼はテスを放り出してしまうのだがこの弱気な坊っちゃんの唯一の性体験はロンドンでの年上女性との2週間だったわけでしょ。偽りの愛だった、なんてかっこつけてるけど実際は坊や過ぎて捨てられたのかもしんないしそれを誤魔化してたのかもしれない。せめて今度は自分より幼い少女だったら負けないだろうと思ったらどっこい彼女の方がウワテだったんで泣きっ面になったっていうことはないのかな。その後もテスから何度も手紙で帰って来てと言われてもなかなかセックスに自信が持てなかったのかもしれん。なにしろこの二人まだいたしてないわけですよね?この坊っちゃん牧師、怖れていたのかも。
その後なんとか体験を増やしたのだろうか。テスにやっと再会する牧師。テスに「遅すぎる」と怒られるけど彼としては男になるのに時間がかかったのだよ。それにテス自身きっとプレイボーイ風のあの一番目の男より坊っちゃん牧師みたいな可愛い男子が好きだったわけでしょ。テスって本当にあの一番目の男が嫌いなんだよね。徹底的に嫌ってる。何故あそこまで?
で、坊っちゃん牧師がやっとテスに再会して「僕はあの時の僕じゃない!(経験積んだってこと?)今度こそ君を離さない!」って言ったらテス「彼を殺してきた」って(爆)どこまで先につっ走るんだテス。正直ここで笑ってしまいそうになった。牧師の身になって考えたらやっと彼女に追いついたのに彼女はもっと凄い人になっちまった。もう牧師さん目が点になってたけど。ここでまた茫然としたらもう駄目っ点でなんとか自分を立て直して逃亡し途中でついに性体験を終えた。よかったよかった。しかし汽車に乗った牧師を窓からテスが覗きこむんだけど、あのシチュエーションは駄目なの。どうしてもドリフ思いだして笑ってしまうんだよね。どんだけ足速いんだ(いや汽車はまだ走ってないと思うんだけど)

いや私が突っ走ってしまって申し訳ない。決してこの映画を笑おうとしたわけではない。ポランスキーの手腕がここでも光る素晴らしい映画作品なのだ。
でもでもどうしても考えてしまう。ポランスキーといえばホラーと笑いが常にある。この映画もその高い格調の中に隠れた笑いとホラーがあるのではないか。無論エロチシズムもまた。
テスが一番目の男に苺を食べさせられる場面は非常に印象的でエロチックなのだが、頑固に「自分で食べます」と拒否しておきながら結局は男に咥えさせられてしまうのがテスの特徴で彼女の生き方そのままになっている。
真に清純で美しい少女テスが父親の聞いた「お前の家系は由緒ある名門なのだ」という貧乏人にとっては何の意味もないような一言から間違った道へと歩き出すことになり殺人者にまであってしまうとは、なんという恐ろしい一言だったのか。それはどんなホラーより恐ろしくまたおかしさも含んでいる。そしてそんな不幸な運命に弄ばれ悲しみと苦しみの表情を見せる美少女という設定はちょうどホラーの物語の中で叫び逃げ惑う女性にエロチシズムを感じてしまう男性にはこれ以上ないセクシャルなものであるに違いない。
そんなテスを演じるという生贄にナスターシャの美貌と初々しさはぴったりなのである。
彼女がボロボロの服を着て髪を乱している時ほど嗜虐的な思いを抱いてしまうのではないだろうか。

テスは何故あんなに一番目の男が嫌いだったんだろうか。女を見下したあの物言いが腹立たしかったのか。
それに引き換え何故牧師は好きなのか。さほど彼の方がより素敵とも思えないが。観客としてあんなにむかつく男もないが彼は彼で不幸なのだ。許してもいいはずのテスの過去をどうしても許しきれず貴重なテスの若い期間を捨ててしまった。やっと踏ん切りがついて戻ったら彼女は元の木阿弥一番目の男のモノになっててしかもそいつを殺害した罪で死刑。彼がテスを自分の愛する人として傍に置いたのはほんのわずかな時間だけ。不幸な男である。

さておとといの『青いパパイヤの香り』昨日の『細雪』と本作『テス』女性年代記という3作を続けて観ることになった。
どれも素晴らしい映画である。自分としては『細雪』の倒錯性に最も惹かれてしまうものである。

監督:ロマン・ポランスキー 出演:ナスターシャ・キンスキー ピーター・ファース レイ・ローソン リー・ローソン デヴィッド・マーカム アリエル・ドンバール
1979年 / フランス/イギリス
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2010年01月29日

『青いパパイヤの香り』トラン・アン・ユン

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L'ODEUR DE LA PAPAYE VERTE

昨日と同じくトラン・アン・ユン監督作品。絶えず苦痛に呻き血が溢れ出る昨日と違い、静謐で美しい玉を見てるかのような本作なのだがその実どこまでもゆったりとして曖昧な表現はまったく同じなのであった。

ベトナムを舞台としながらまるで異空間にいるように思えるのはやはりセットで作られた世界だからだろうか。地面を造形するのは人間には難しいのかもしれない。(何故わかってしまうんだろう。本当の地面は柔らかいものなのか。作品の中の道路はいかにも固そうなんだ)
人工美として表現されるその世界はそのまま夢の中のベトナムなのであろうか。そう言えば少女期のムイの世話を焼いてくれるメイドの女性が「お前は夢を見ていたね」と言う台詞がある。
物語は2部に分かれており、最初は小さな少女ムイが御屋敷の小間使いとして働く姿を描きながらその家の悲劇を描いていく。次に10年後、別の家で働くことになったムイが美しく成長しその家の若い主人と親しくなっていく様子がどちらも淡々と美しく映し撮られていく。
どちらの家も楽器を演奏する男性がいてその音楽が流れている。人工的に作られた暑いサイゴンの情景が描写される。
軽い風が吹く中地べたに座り込んで野菜を切り料理をし、地を這う蟻を見つめるのが好きなムイ。
少女のムイに優しく接してくれる同じメイドの女性やその家の女主人。特に女主人はムイと同じ年齢の娘を幼くして亡くしておりその姿をムイと重ね慈しんでくれるのだった。
成長したムイは新しい主人となった男性の婚約者から嫉妬を受けてしまう。主人は婚約者からムイへと愛情を移してしまったのだ。

前の女主人の夫は一体何をやっていたのか。本当に自分の妻を疎ましく思っていたのか。何か秘密があるのか。ゲイだったのかもしれないしね。ムイをいじめる男の子の気持ちも結局わからずじまい。
成長したムイに好意を寄せる男性も婚約者を無視するような態度をとって別れるなどろくでもない男でムイに対する気持ちがどんなものなのかなどは疑ってしまう。字を教えていることで自己満足しているだけの男なのかもしれない。
だがムイはどんな時も流れに身を任せるようにしながら凛として生きて来たのだ。その男がどんな人間であったとしても彼女の美しさを汚すことはできないだろう。
ムイが最後に読む詩の言葉「どんなに水が渦巻いても桜の木は凛として佇む」(というようなもの)が彼女の存在を表現しているに違いない。

作られたベトナムの街の雰囲気の心地よいこと。きっと本当は暑くてたまらないんだろうけど映像ではその激しさが多分緩やかなものになっているのかもしれない。
ムイの見つめるまなざしと滴るような緑がうっとりとした時間を感じさせる。
大人になったムイも綺麗だけど、やはり少女のムイに心惹かれてしまう。慣れない屋敷の中で男の子の悪戯を我慢しながら裸足で健気に食事を運び、家の掃除をするムイ。そんな忙しい間でも虫を見つめたり切り開いたパパイヤの中の種を見て驚きを覚えるムイ。屋敷の長男の友人に恋心を覚え、優しい女主人の花瓶を割ってしまいその破片を頬に当てるムイ。小さくてかわいらしいムイに誰もが惹かれてしまうだろう。

作品に登場する男性はどの人物もまるでその心情が判らないのだが、たった一人自分の気持ちを表現するのが屋敷の大奥様をずっと愛し続けている老人である。
何かの理由で彼は愛しい人(今はもう同じお婆ちゃんなわけだが)に会うことができないという。彼女が引越しをしてもずっと後を追い続けてきたという彼だけが本作で心を表した男性であった。

監督:トラン・アン・ユン 出演:トラン・ヌー・イェン・ケー リュ・マン・サン グエン・アン・ホア クエン・チー・タン・トゥラ
ヴォン・ホイ
1993年 / フランス/ベトナム
ラベル:女性 少女
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2010年01月28日

『アイ・カム・ウィズ・ザ・レイン』トラン・アン・ユン

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I COME WITH THE RAIN

想像してた以上になかなか見せてくれる映画だった。

3人のイケメンアイドルが揃い踏みの映画、というのが宣伝文句になるのだが自分的には3人とも嫌いではないがだからと言って観たくなる、というほどの面々でもない。ところが他の感想を覗いてみるとこれが驚くほどの叩かれ方である。途端に興味が湧いてしまったのはなんたるへそ曲がりか。

そしてこれが結構面白かったのだ。
どこが、と問われると確かに即答はできない。退屈はしなかったが、本作の奥に隠れている何かをすぐにみつけることはできなかったし、無理かもしれない。ただ登場する男達を見ていることが気持よかっただけである。

酷い残酷性に反感を覚えた方が多いようだが、私も苦痛なのは嫌いだがこれはそれほどの嫌悪感を覚えなかった。
というのは作品中、苦痛の芸術家である男ハシュフォードが説明するとおり苦痛こそが最も美しい、という思考をそのまま映像化しているのだなあ、と思われたからで3人が感じる苦痛はそのままエロチックな感情を引き起こすものとして表現されていたからだろう。
夥しく流れる血も体中に刻まれた傷跡もセクシャルな観念と重なっていく。
これをもっと見やすく感じやすく表現していたのは高河ゆんの『子供たちは夜の住人』なのではないかと思うのだが他人の痛みを引き受けてしまう柴の感じる苦痛、という表現に衝撃的なエロチシズムを感じてしまった。彼女の漫画も血が流れ苦痛をセクシャルな表現として用いていることが多いのだが絵柄の愛らしさのせいでこの映画のようなグロさは感じない。それが彼女のよさなのだが、実写においてはこのような生臭さに変ってしまうのである。
と言っても自分としては同じ目線で観ていたので「キムタク痛そーふふん」という感じだったのだが。
キムタクも痛そーだったがハスフォードに殴りまくられ裸にされ何故か腕を噛みつかれるジョシュも痛そーだった。しかも殆ど男色強姦光景のようであった、
私はジョシュにそれほど注目してたのではないがこの映画では最もエロチックに思えたのである。しかも物語が香港が舞台だとは思わなくてしかもジョシュがショーン・ユーと相棒状態になるとは思わなんだ。
おいおい、イケメン3人じゃなく4人の間違いだろ。ショーンも充分仲間入りする資格あると思うんだがなあ。
ジョシュを助手席に乗せて(シャレではない^^;)反対方向に走り去る車のビョンホンに話しかけながら、逆走するシーンがあざといながらかこよくってさ。こういうのってアジアンテイストだよねえ。ジョシュとショーンが仲良く魚の浮袋を食べてる場面だとかの街の雰囲気もよろしくて、さらにサム・リーが登場した時はイケメン5人・・・ま、そこまではないか。
あまり肉体的苦痛を感じることができなかったイ・ビョンホンは何やら物凄く重い精神的ダメージを背負っているようで。美しいリリ(監督の奥さんだと。ほー)に抱きしめられる時の悲しみに満ちた目はビョンホンの18番なのであるがさすがだった。すてきだった。エロだった。

というわけで3人は思い切り苦痛の美学を表現してくれたのだった。
表現を補佐してくれたのがフランシス・ベーコンの絵画、とりわけ頭が口を大きく開いただけのもの、というあの奇怪な生き物である。
彼の絵をそのまま持ってきてしまうのはさすがにどうかなと思わなくもないが気持ちは判る。
というかあのオブジェがすべてを物語ってしまうのである。
と同時に私としては『ゲルマニウムの夜』を思い重ねてしまう。あの作品もまた苦痛と神を描いたものであった。

この中で木村拓哉演じるシタオは奇跡を起こす。苦痛に苦しむ人々の苦痛を我が身に引き受けてしまうという奇跡である。
その行為はキリストが起こした奇跡を思い起こさせる。そして最後シタオ=キリストは悪の権化ス・ドンポによって磔にされる。
シタオは死んだのか。放浪する芸術家(サム・リー)によって彼はキリストとなり、クラインの手によって復活するのである。

トラン・アン・ユン監督次回、松山ケンイチが主演する『ノルウェイの森』も監督するので気になって観てみたっていうのもあったのだった。『シクロ』だけは観たんだけど。あれもこれも独特の世界で『ノルウェイの森』も私的には大いに期待だけど評価がすでに分かれそうな予感が。そのくらい突きつめたのがよいのだけどね。

監督:トラン・アン・ユン 出演:ジョシュ・ハートネット 木村拓哉 イ・ビョンホン トラン・ヌー・イェン・ケー ショーン・ユー イライアス・コティーズ サム・リー
2009年フランス
ラベル:苦痛
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2010年01月27日

『ナインスゲート』ロマン・ポランスキー

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THE NINTH GATE

ポランスキー監督を最初腐していたのはどこへやら今では立派なポラファンの私だがこの作品もまた面白かったねえ。

『ローズマリーの赤ちゃん』の時に書いたと思うんだけど悪魔の物語ってキリスト教徒以外の日本人からすればあんまり面白くないんだと思う。悪魔っていうのはつまりは同じ宗教での神を信じるから恐ろしいんであって宗教が違えばただの変な奴でしかない。悪魔物語を読んだり観たりする時は頭の中でこれは神に敵対する危ない者だと確認しながら観ていないと恐怖ではなく滑稽にしか思えないので(向こうの人もそう感じてるのか?)結構大変なのである。
作品としては『ローズマリーの赤ちゃん』のほうがシンプルで完成度が高いのではないかとも思えるがあの時不満を感じていた「女性がやたらおどおどしてやだ」っていうのは本作ではすっかり消滅し女性こそが悪魔になっている。いわばローズマリーが悪魔へと成長してしまったのだ。
そして本作では男性のコルソ(ジョニー・デップ)がおどおどとまでしないがかなり苦労しながら悪魔への道を辿っていく。それこそが『ナインスゲート=9つの門』なのかもしれない。
ロマポラの作品に続けて登場する彼の妻でもあるエマニュエル・セニエはここでもその妖しいまでの美しさを披露しコルソを気に入って「悪魔の本」を探す手助けをする。そして最後には彼と交わるのだがつまりこれ悪魔の花嫁ならぬ魔女の花婿になってしまったのだな。あの場面でジョニー演じるコルソが精力を吸い上げられてしまうのではないかと心配してしまった。

とにかく他ではあまり好きになれない悪魔ものだが、本作の描き方は申し分のない面白さでぞくぞくさせてくれた。
悪魔に取りつかれた富豪の男から世界に3冊しかない「悪魔の書」のうち手に入れてない残り2冊を調べて欲しいという依頼を受けたコルソが不審な連続殺人などに怯えながらも探訪の旅に出る。突然現れた謎の美女はどういうわけか常に彼の味方となって助けてくれる。そして信じ難いほどの能力を持っているのだった。
飽きずに観れた要因の一つはコルソを演じたのがジョニー・デップだからというのもありで、ここでの彼は髭と眼鏡が知性を感じさせるスタンダードな二枚目になっている。腕力に乏しいのが心もとないがそこを助けてくれるのが舌足らずな英語を話す美女なのである。
彼女が初めて登場する場面で椅子に座る彼女の脚がアップになったので何やら魔女の印でもあるかと凝視したのだが判らなかった。緑の目というのがもう悪魔的であることを示しているのだろうが。

ただ悪魔の話、というだけでなく悪魔について書かれた古い書物を探すという部分に惹かれる。固い装丁や上等な紙と印刷、描かれた3冊の挿絵の違い、などというミステリーがわくわくするものであってそれ以上に悪魔になる部分がなくても充分楽しませてくれるものだった。

ところでこれも偶然だが昨日観た『ミッドナイトトレイン』の箱の中の宝物こそ悪魔の仕業であったのだろう。どちらもそれが多くの人の死を呼んでしまうのである。
無論「悪魔」というのは単に言葉であってそれが何に姿を変えても「悪魔的な存在」なのだということだ。昨日のそれは「箱の中の何か」であった。
多くの場合は金だったり、権威だったりするというわけで。

本作ではそれを悪魔学という形でおどろおどろしく見せてくれた。やはり「金(カネ)」というんじゃちょっと殺風景過ぎる。
おぞましい思想と乱れた性という危険な描写が映画には必要なのだね。

監督:ロマン・ポランスキー 出演:ジョニー・デップ フランク・ランジェラ レナ・オリン エマニュエル・セニエ ジェームス・ルッソ バーバラ・ジェフォード
1999年 / フランス/スペイン
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『第一容疑者 1』

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PRIME SUSPECT 1

70年代アメリカ警察物『コロンボ』を観てるのに90年代イギリス警察物に手をつけてしまった。主演はヘレン・ミレンさすが20年前なのでかなり若い、と言ってもそんなには若くないので(笑)あるが。
いやあ、70年アメリカ警察物と違って暗い暗い。思い切り惨たらしい裸の死体が出てくるし。独り舞台で事件をあっという間に解決してしまうコロンボと違って(約100分ほど)前後篇合わせて180分という長丁場。前篇だけ観て止めればなんてこたないのだが、気になって気になってそんなこたできまへん。せめて今回だけでも、と観通してしまった。
警察内部で信頼され切ってるコロンボ警部と違い、本作ヘレン・ミレン扮するジェーン・テニスンは今回からその座に就いたのであるが前警部の急死による急遽着任というか彼女がごり押しでその地位に就いたという陰口を叩かれ以降女性蔑視の差別の中で初仕事に取り組んでいく。
アメリカ警察物に比べるとどことなく日本の警察物に似た感のある地道な捜査活動。これぞと思う容疑者はいるのだがそれを実証する為に四苦八苦する。ここではコロンボ的名推理はないのだよねえ。
というか、一人コロンボ並みに閃いたのはジェーンでも彼女の相棒的存在の男性でも他の男たちでもなく署内でこまごまとした雑務をこなす女性なのがちょっとおかしかったりもしたのだが、多分これは女性が活躍する、ということでの彼女の閃きだったのだろうな。だってあれが全てを決めたわけで、どうして他の奴はピンとこなかったのやら。やれやれ。

なにしろヘレン=ジェーンはプライベートでは、これってやっと一緒になれた、みたいな関係なんだよね、みたいな彼から「仕事仕事でまったく俺のことなんかこれっぽっちも考えてくれないっ」てんですったもんだの挙句逃げられてしまったようなのだ。とほほ。
仕事では彼女を目の敵にしていた嫌〜な奴が実は犯罪と関わりがあって途中から消えてしまい、そいつに焚きつけられて女性上司に不満だった部下たちも次第にジェーンを認め一丸となって容疑者を追及していく。最後は男性部下たち皆から事件解決の祝福を受けることになるのだが、容疑者は依然己の無実を言い張る、という苦い後味がイギリスものらしい感覚であった。

実に渋い作品で昨日観た『劔岳』の幼稚さの真逆のような味わい。あの作品もこういう大人の苦さを持っていて欲しかったねえ。この渋さ、止められなくなりそうだ。
女性差別ってここまで酷いのか、と思ってしまうのだが、実際もっと辛いものなのかもしれない。
途中突然登場するテレンス・アムソンは一体何者?子役の少年が可愛かった。

監督:クリストファー・メノール 出演: ヘレン・ミレン トム・ベル ジョン・ベンフィールド ジョン・ボー トム・アダムス ジョン・フォーゲハム ジョン ハウ ゾー・ワナメイカー
1990年イギリス
ラベル:犯罪 警察
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2009年12月11日

『赤い航路』ロマン・ポランスキー

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Bitter Moon

この前観た『チャイナタウン』ですっかりお気に入りになってしまったポランスキー監督、この作品はどうかと思ったがなんだかもうまったく問題なくロマン世界へと入り込んでしまった。こういう物語を語って聞かせながら展開していく、という形式が非常に好きなこともあるのだが、いつ観ても(好きになれない作品でも)本当に映画作りの巧さは追随を許さぬものだと思う。私には技術的な説明をする能力がないので上手くは言えないのだが、歯切れの良さというのか過不足なく説明していく展開の妙というのか冒頭から観客の気持ちを誘いこんでみるみる妖しい国へと連れ込まれてしまう。やや長めの作品であるのに冗長にならない。他の映画でそういうことを特に考えないのだが彼の映画を観てると点数をつけても百点満点、みたいな気がしてしまうのはどういうものなんだろう。エロチックで残酷でありながらユーモアも含んでいるのも特徴なのだ。独特の残酷な愛の形、というのでキム・ギドクを思いだしてみたりもするがギドク監督が気の毒なほど制作貧乏で技術的に弱さを露呈してしまうのと比較すれば(そこも含めて好きなのだが)遥かに大人の仕事なのである。
無論エロティシズムの作品なのでポランスキーの主義嗜好がくっきりと描かれてしまうわけで、つまり対象がエロチックな少女なのでありサディズム・マゾヒズムでないと性的な欲望を満足させられないのである。
そこらが嫌いならどうしようもないが、私としては自分の欲望をここまでさらけ出して描いてしまえるロマンにもう脱帽するしかない。『吸血鬼』や『ローズマリーの赤ちゃん』で不満だったものが『チャイナタウン』『赤い航路』ではすっかり解消されて逆に非常に魅力的なものになってしまった。見れば前の2作は67,68年の作品で後の2作は74年、92年と分かれているのだからそういうものなのかもしれない。『オリバー・ツイスト』には反感がなかったわけだし。というわけでますます他の作品にも俄然興味が湧いてくる。

が、まず本作。
極めて上品で申し分のない優等生の夫婦フィオナとナイジェルが結婚7年目の旅行に出る。船上で知り合ったのは若くて美しい妻と車椅子に乗った初老の夫という夫婦。
大人しく優柔不断なナイジェルは妖しいほどの色香を持つミミに心惹かれる。その様子を見た彼女の夫オスカーはナイジェルを自分の船室に呼び、魅力的なミミと自分のこれまでの経緯を話し出すのである。
彼の話すミミはまるで男の夢のような女性なのである。少女のようなあどけなさと滴り落ちるような女の性を併せ持っている。そして溢れるような愛情をオスカーに与える。まだ少女と言っていいミミは金持ちというわけでもない売れない小説家のオスカーと激しいセックスの日々を送る。やがて欲望が褪せてくればますます二人の性の欲望は異常な方向へと向かいながら激しさを増していくのだ。だがついにオスカーの欲望がミミの美しい体に反応しなくなり彼はミミを捨てようとする。そんな薄情な中年男に対して愛らしいミミは「捨てないで」と自虐的な態度で懇願するのである。
ナイジェルが途中つぶやくようにまるで作り話としか思えない。若くて他にいないほど魅力的なミミが何故何の取り柄もない中年男にすがり続けるのか。
何故なのか、ということはよく判らないし、ここでその意味が必要であるわけでもない。
二人の性愛はサドマゾの関係を交代しながら繰り返しているのである。
初めは男が優位であり、美しい女性に虐げられたいと願うオスカーの為にミミはサディスティックな女性を演じる。そして倦怠期がくれば被虐的な存在となりオスカーのサディズムをけしかけることで関係を続け、さらにオスカーの欲望が行きつけば今度はまたサドの看護師となるのである。
今まで「健全」という名前の味気ない夫婦生活を送りそれに甘んじていたナイジェルは彼の物語とミミの堪え難い魅力に己を見失ってしまう。突然愛していたはずの妻フィオナに疑問を持ち、ミミとの性愛を夢見てしまう。だが筋書きは思わぬ方向へと向かってしまう。ミミが相手に選んだのはナイジェルではなくフィオナの方だったのだ。
ナイジェルは手に入れたと思った欲望をとんでもない形で奪われてしまう。
味気ないが健全な夫婦であったはずのナイジェルの目前で妻フィオナが彼の浮気相手になるはずだった美しい女性と愛し合って眠っている、それを見つめる夫たち。不可解な構図である。
その歪んだ構図を銃弾で破壊したのは車椅子の夫オスカーであった。彼ら夫婦の性愛はもうこれ以上どうしようもないほど膿み爛れてしまったのだろうか。
それとも、作者がこれ以上物語を続けられないほど描き尽くしたんで殺しただけかもしれないが。めんどくさくてさ。もういいや、とか。

導いてくれる二人を失い寒い船上でめそめそ泣き続ける夫婦には愛欲にまみれた生活を送る能力はないだろう。
それが幸せなんだってことだ(笑)よかったね。

監督:ロマン・ポランスキー 出演:ピーター・コヨーテ エマニュエル・セニエ ヒュー・グラント クリスティン・スコット・トーマス ヴィクター・バナルジー
1992年 / フランス/イギリス
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2009年12月05日

『ブーリン家の姉妹』ジャスティン・チャドウィック



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THE OTHER BOLEYN GIRL

いや、凄く面白く楽しんで観たのには間違いないがそれにしてもこれってなあ、なんだかお子様向け大河ドラマなのだった。

ホントはこういう大河ドラマってTVで毎週じっくりゆっくり時間が流れて行く方がちょうどいいのかもしれない。
とにかく物凄い駆け足で走り抜けていくのが時々おかしくてドラマと関係ない部分で笑ってしまえる。特にアンが王に嫌われフランスへ勉強してこいと追いやられたら2カ月で帰国する、という慌ただしさ、しかも大変身して今度はすっかり王のお気に入りっていう展開はさすがに苦笑を禁じ得ないぞ。
その上、史実とは(そりゃまあ色んな説があるだろうが)大きく異なったフィクションになっているようだが、そういう諸々があるとしてもなかなか面白く観てはいたのだが。

これはブーリン家の姉妹を対比して描いたものだろう。実際は姉妹が逆でアンが妹のはずだが、何故か本作では逆になっている。これは元々この話が史実そのものではない、という意味合いなのだろうか。
別に史実そのものでなくてもいいが(紛らわしいから本作での)妹メアリー(スカーレット・ヨハンソン)の優しく控えめな女性としての描き方は魅力的で納得できるが姉アンの傲慢さや上昇嗜好の演出は甘すぎてもっと豪胆で放埓だったのでは、少なくともどうせそのままではない対比ならもっと極端に描かなければいけないのではないだろうか。
それはナタリーがあまりに可愛いすぎるせいかもしれないし、記述では小柄でやせてて色黒系の不美人だったようなので、それでもなお王を惹きつけてしまう演出をしなければならないのに王がアンにそれほど夢中になっている気がしないのは致命的じゃないだろうか(3か月の付け焼刃フランス留学ではなあ)もっとえげつない悪女に仕立ててもよかったと思うのだがどうにも中途半端にいい人なのがつまらない。どうして弟との近親相姦はしなかったことになっているのか。

ヘンリー8世の描き方も甘々でどう考えたってこいつが元凶なのにハンサムな容貌でいい人に思わせられるのは変な気持ちである。

それにしてもヘンリーとアンの娘エリザベスはやっぱりこうして観ると女性でよかったんだろうな。美形好きなのは父母ともの影響のようだが女王であるからこそ自制ができたのかもしれない。

エディ・レッドメインはここにも出演。やはり血筋の良さということでの起用なのだろうなあ。しかもいいとこだけ持っていくお得な役どころであった。

監督:ジャスティン・チャドウィック 出演:ナタリー・ポートマン スカーレット・ヨハンソン エリック・バナ デヴィッド・モリッシー クリスティン・スコット・トーマス マーク・ライランス ジム・スタージェス ベネディクト・カンバーバッチ アナ・トレント エディ・レッドメイン 
2008年アメリカ/イギリス

ラベル:歴史
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2009年11月26日

『WE LOVE BALLS!!』シェリー・ホーマン

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Manner Wie Wir/Guys and Balls

ドイツ、ブンデスリーガはボルシア・ドルトムント周辺にあるマイナーチーム・ボールドラップは最後の試合で引き分け昇格を逃してしまう。
PKを取り損ねたゴールキーパー・エキーはストライカー・ウドーから目の敵にされる。
傷心を抱えたエキーはつい皆の前で仲の良いチームメイトにキスしてしまう。
エキーはゲイだったのだ。
それからというものエキーは皆のつまはじきにされてしまう。最も彼を苛めるウドーの侮蔑の言葉にエキーは、サッカーのゲイチームを作り1カ月後に試合で勝つことを宣言してしまうのだった。

なんだか面白いようなさほどでもないような話で^^;そのまんま『少林サッカー』以外の何ものでもない。散々侮辱され仲間を集めて復讐戦でやり返す、という。ただしあれほど面白くもおかしくもない。
というか、ドイツってゲイ的な方向は随分進んでいてゲイだというだけでこんな無茶苦茶に侮辱されるとは思ってなかったんだよねー。実際どうなんだろう。ゲイだとカミングアウトしてる人なんてゴロゴロいるのかと思ってたんだが^^;ウドーくんなど何故あそこまで徹底して苛め抜くのかな。
『少林サッカー』ではその苛めの部分もおかしかったんだが、本作の苛めは強烈過ぎてコメディとしてはむかむかさせ過ぎる気がするのだが、これもドイツ風味わいなのか。
そんな苛めに負けじと立ちあがった主人公が共に闘ってくれる(と言っても目的は隠してて単なるサッカー試合ということになってるのだが)ゲイのサッカー仲間を集め1カ月後の試合に向け猛練習。様々な困難もありつつ、試合に臨むと言う物語で、なんとも定番よくある話。それでも最後まで観通したのはドイツのこういうゲイ映画は初めてで、よくある話であっても風味がやはり違ってくるのが目新しかったのである。
なんというか。まず全員でかい。性同一障害というビアンの女性(?)を除けば皆大きい。父ちゃんも誰もかれもなんかごついのだ。
なよっぽい男性はいるが女装癖ゲイは入れてもらえず。代わりに皮製品愛好者のハードゲイトリオが幅をきかしている。
主人公はハードでもなくなよっぽくもない普通タイプ。最初あまりハンサムじゃないような気がしてたがだんだん可愛く見えてきた。恋人役も似たような金髪ハンサムくん。
トルコ系のゲイ君が一番なよっぽくて何故かイングランドのベッカムを愛している。多分ドイツ選手にしたらまずいからかもしれない。ベッカムって色んな映画で登場してくるなあ。さすが色男。
やはりブラジル人選手が一番上手い。
あまり直接的なエッチシーンはないんだけど(主人公とハンサム君のエレベーター内でのキスシーン&絡みあり)何故か全体的に本物っぽくゲイっぽいムード濃厚。やはりハードゲイの彼らのせいか。
色んな男が出てくるが一番かっこいいのはパパがハードゲイになってしまった小学3年生の男の子ヤンくん。
ゲイのパパが(本当は規則で近づいてはいけないことになっている)訪ねて来たのを嫌がらず受け止めてサッカー試合を見に行く約束をする。途中でママに止められているにも関わらずパパのハードな家を訪問し挫けているパパを叱咤する。再びママの禁止を破ってパパの試合を見に来てハードなオヤジ達に混じって観戦。怒って飛んできたママにはっきりとパパを応援すると告げる。
うーん、小さいのに凄く男らしくて素敵なのだ。絶対かっこいい男になると思う(笑)

主人公エキーたちゲイチームは勝負に勝ち、パパにはっきりとスベンが恋人だと告げてハッピーエンド。
というお話なのだが(笑)
息子がゲイだと知って親父は怒り、母親は寛容だというのも普遍的だなあ。
ボルシア・ドルトムントサポーター応援はハンパねえ。

ゲイチームのコーチを引き受けるオヤジがなんかのパロディ?

監督:シェリー・ホーマン 出演:マキシミリアン・ブリュックナー リサ・マリア・ポットホフ デヴィッド・ロット ディエトマー・ベア ロルフ・ザッカー
2004年 / ドイツ
ラベル:同性愛 スポーツ
posted by フェイユイ at 23:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 欧州 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月23日

『エリザベス1世 愛と陰謀の王宮 後編』トム・フーパー

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Elizabeth I

他のレビュー見てたら「前篇はまあまあだが後半は面白くない」みたいな感想が多かったので何となく自分でも流して観るか、くらいの気持ちでいたのだが、なんの!後半メタクタ面白くて大体前半もまあまあでなく面白かったんで、まあ人によって面白がり方も違う、ということだ。

前半はケイト版『エリザベス』で観てた感じだったので歴史の大まかな流れを再確認するのとヘレン&ジェレミーのやり取りでわりと落ち着いて観れたが、後半は自分的には怒涛の110分、と言ってよく、レスター伯を愛人としてもやや年老いた感が否めないヘレン=エリザベスがさらに若い20歳そこそこの青年(レスター伯の義息子)エセックス伯(名前がレスター伯と同じロビン)との恋に溺れ、まさに醜態をさらしてしまうという観るのも憚られるはらはらどきどき、なのだった。
無論、若き男女が観賞するならばキモイ老婆の色狂いとしか見えないのは仕方ないだろうし、これを我が身に置き換えてげんなり苛々やがてほっとするのはやはり年老いた女性でなければできないのかもしれない。年若くてしかも男性でこれを面白く観れる人はかなりスゲエ人である。

年老いた王が若い美貌の持ち主を寵愛するのは男王であればさほどの躊躇いもないのだろうが、こと女性しかもバージンクイーンの称号を持つ女王としては己の欲望と王としての権威と責任のはざまで悩み苦しむのは男王の比ではないだろう。
エセックス伯ロビンを演じるヒュー・ダンシーはそれほど私的には好みじゃないが祖母と言ってよい年齢の女王の寵愛を受ける表情と態度はそういう青年らしい愛らしさと傲慢さがにじみ出ていてなかなか見惚れてしまった。しかしよく彼の魅力をつき放すことができたものだ。
ロビンと結託するのが哲学者フランシス・ベーコン。そして女王の寵愛を受けて横暴に振舞うロビンと行動を共にするサウサンプトン伯がエディ・レッドメイン。ここでは長髪をなびかせているのだが、短髪が似合う顔なのか、他の出演の時よりあまり美男子に見えなかったのだが。
彼らはエリザベス女王の継承者ではあるがメアリーの息子でまだ彼女の支配下にあるジョージ6世(後のイングランド王ジョージ1世)と結託した疑惑が女王への反逆とされてエセックスは死刑、サウサンプトンは投獄される。
ところでジョージ6世はエリザベス女王との会見の後側近セシル(息子)に自分が王になったら美青年を侍らせて、という希望を打ち明ける。エセックス伯もハンサムで有名とのたまっていてこの辺のジョージ6世+フランシス・ベーコン+エセックス+サウサンプトンはどうやら同性愛的な結合であったような。はっきりと描かれてはいないがロビンは妻子もあるしエリザベスに言いよってもいるがゲイだったようでサウサンプトンと関係があったみたい(な空気だった)常にエセックスに寄り添い裁判を受け弁解する時もまだ愛情を持ち続けている様子なのがちょっとよかった、とかそういうのばかり観てる。
そういうところもあり、でさらに物語は白熱してしまうのだが、エリザベスに甘えきったロビンとその愛情を失いたくない思いと必死で戦う老女王エリザベスとの愛がなんとも虚しく儚いことか。
また女王から若干疎まれながらも支え続けてきたウォルシンガムの死、そしてバーリー卿父子。女王はバーリー父にねぎらいの言葉をかけ、息子セシルの格好悪さを「ピグミー=ちび」とあだ名しながらも次第に頼りにしていく。息子セシル役はトビー・ジョーンズ。日本公開されなかった、もう一つのトルーマン・カポーティ映画『Infamous』でカポーティであった。私はシーモア・ホフマンも悪くないが彼の方がカポーティらしいし映画もよかったと思ってる。

後編はつまり歴史的な出来事よりエリザベス女王の内面に入り込んだ内容になっているのである。老醜という悲しい形容をしなければならないのであろうか。おいてもなお少女のようにはしゃいで美しい恋人のキスを待つエリザベス。
とうとう最後まで彼女は国を夫として全うしたのである。後篇でも国民を前に女王らしい演説をして彼らの心をつかんでしまうエリザベスなのである。彼女が男性であったら恋も結婚も許されたのかもしれないが。
だが男性であればここまで登りつめることもなかったのかもしれない。
どちらが幸せであるかはまた別のことだが。

監督:トム・フーパー 出演:ヘレン・ミレン ヒュー・ダンシー パトリック・マラハイド  エディ・レッドメイン トビー・ジョーンズ イアン・マクダーミド
2005年 / アメリカ/イギリス
ラベル:歴史 愛情 同性愛
posted by フェイユイ at 23:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 欧州 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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