映画・ドラマ・本などの感想記事は基本的にネタバレです。ご注意を

2009年11月22日

『エリザベス1世 愛と陰謀の王宮 前編』トム・フーパー

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ELIZABETH I

今夜は全編のみ観賞。ケイト・ブランシェットの『エリザベス』も最近観たような気がするのによく何回も観るものだと自分で思ってしまうがやはり観始めると面白い。
というのはやはり女王役のヘレン・ミレンと愛人ダドリー=レスター伯のジェレミー・アイアンズが上手いからで。
エリザベスがメアリーを処刑することをこんなに躊躇していたなんてなあ、と感心しながら観てしまった。そしてメアリーの処刑シーンの恐ろしさには驚いてしまった。

またケイト版ではローリー卿が恋人だったが、バージンクイーン・エリザベスも実際は恋多き女性だったのだろうね。青年たちにダンスさせて喜んでる場面なんかあるし、結構そういうとこで美少年や美青年を集めて娯楽してたんだろうか。
ウォルシンガムらからは強制され、ダドリーから反対されたフランスのアンジー公との縁談が国民の猛反発によって破談となるのはなんだか哀れだったが、ほどなくして公が死んでしまったので結婚してたとしても幸福は長続きしなかったんだなあとか。

スペイン無敵艦隊の侵攻を迎え撃つまだひ弱な英国軍隊に女王が先頭に立って演説をする場面はやっぱり感動的。女王の白黒の旗を心待ちにしてるのに。最初から揚げてきてくれ。

明日は後篇。楽しみじゃ。

監督:トム・フーパー 出演:ヘレン・ミレン ジェレミー・アイアンズ ヒュー・ダンシー バーバラ・フリン パトリック・マラハイド イアン・マクダーミド  トビー・ジョーンズ
2005年 / アメリカ/イギリス


ラベル:歴史
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2009年11月21日

『赤い影』ニコラス・ローグ

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DON’T LOOK NOW/A VENEZIA UN DICEMBRE ROS

もし当たり前の撮り方をしていたらよくある話と片付けられてしまうのかもしれないが、思い切り70年代風テイストとニコラス・ローグ監督の感性とが相まって他にない独特のロマンチックオカルトに仕上がっている。主演が美しいジュリー・クリスティとこちらも大好きなドナルド・サザーランドであることも手伝ってホラーと一言では片付けたくないしっとりとして尚且つ衝撃的な作品なのだった。

こういうスタイルって当時は結構あったのではないだろうか。時間がすっと流れずに、映像が幾つかの断片として組み合わされていくような見せ方でぽんぽんと間が跳んでいく。現実ではありえない映画ならでは映像が作品のかなりの部分を占めているので観ていると不思議な感覚に陥ってしまうのだ。
登場人物も主人公のバクスター夫婦以外はどこかに謎を秘めたような表現なのですべてが怪しくよく判らなくなっていく。
イギリスからヴェネツィアへやってきたひと組の夫婦ジョンとローラ。夫は絵画の修復を仕事にしている。二人は深く愛し合っているが以前故国で愛娘を溺死で失うという悲しい経験をしていた。
妻はそのショックから立ち直りきれずにいたが、ヴェネツィアで謎めいた中年姉妹と出会ってから元気を取り戻した。盲目の妹がローラに「あなた方夫婦の間に小さな少女の姿を見た。彼女はとても元気で幸せよ」と告げたことで娘の死から立ち直れたのだ。次第に姉妹と仲良くなっていく妻ローラを夫ジョンは快く思わなかった。

原作が『レベッカ』の作者デュ・モーリアと知って納得。『レベッカ』もそうだったが、すでにこの世にいない存在に心が揺れ動き操られていく、という同じ題材がまた違ったストーリーとなってしかも魅力的である。
母親であるローラが姉妹に入り込んでいくのを苦々しく思いながら実は父親ジョンの方がもっと娘の霊的存在に惹き寄せられていく、という表現がうまい。というのは彼の方こそ霊感が強いからだという説明もあるのだが。
なんとも装飾的な演出、映像なので上手くなければ鼻につきそうなのだが、赤いレインコートの少女、ヴェネツィアの古びた物憂げな雰囲気とその時起きる連続殺人事件というミステリーを絡めて大人の映画に作られている。ジュリーとドナルドの絡み合うようなメイクラブシーンも映画のアンニュイさを物語っている。

イギリスよりもっとキリスト教の色合いの濃いヴェネツィアであること、言葉の通じないもどかしさ、夜の闇と運河と石畳で反響する靴音などが効果的だ。
最後のどんでん返しのアッと言う驚き。美しくまた恐ろしい記憶がよみがえる。
旅立ったはずの妻の姿を見た、という事実が最後にどういう意味なのか判るのだ。
悲しみを含む品の良い作品ながら非常にぞっとする恐ろしさも持っている。本作の不思議な映像美を堪能した。

こんな映画があるのも知らなかった。最近ぼつぼついい映画がDVD化されてきているようだ。どんどんやっていって欲しいことである。

監督:ニコラス・ローグ 出演:ドナルド・サザーランド ジュリー・クリスティ ヒラリー・メイソン クレリア・マタニア マッシモ・セラート
1973年 / イギリス/イタリア
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2009年11月16日

『マグアンタナモ、僕達が見た真実』イケル・ウィンターボトム マット・ホワイトクロス

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The Road to Guantanamo

パキスタン系イギリス人である4人の青年たちの一人が親兄弟の住むパキスタンで行う結婚式に参加する為に里帰りする。
結婚式前に彼らは米軍に侵攻されたアフガニスタン難民を救うボランティアついでに経験を積もうと言うような軽い気持ちで国境を越える。
ところが彼らを待ち構えていたのは想像もつかない北部同盟とタリバンの激しい戦闘だった。

イギリスの平和な暮らししか知らない彼らが気まぐれで起こした行動を軽はずみだと言っても仕方ない。
しかし彼らが体験したものは過酷という言葉では簡単すぎる。自分たちで選択した行動によって20代前半の輝かしい時期を彼らは拷問を受け続けることに費やしてしまったのだ。

それにしてもアメリカ軍の「人道的だ」と言い張る尋問の内容を見ていると恐ろしさに震えてしまうが、反面こういうことを繰り返さねばならない兵士たちの青春も虚しいものだ。一体あれらの行為をやり続ける為に「これは国の為だ」と自分に言い聞かせるのだろうか。それとも「仕事だから仕方ない」と?
無論、その拷問を受け続ける収容者たちの方を憐れむのだが、「勇敢な軍人」などと自らを奮い立たせ、行っている行為が真実に正義であると心から信じられるのだろうか。この映画を観ている分にはとてもそう思えないが、それでも「奴らは悪だ。テロリストだ。絶対的な信念を持って彼らに白状させねば正義のアメリカ国民に災いが襲いかかる」と唱えながらやっていることなのだろうか。アメリカ映画に観る正義感溢れる主人公ではなさそうだ。
だがこれが真実なんだろう。
もし自分がこの主人公のような運命にあったら、と思う以外にもしこの兵士の一人だったら、と考えるとぞっとする。同じような虚しい虐待を与え続けるしかない毎日。ナチスを悪魔のように例えながら自分たちも同じような行為を犯しながらそれを正当化する大義名分は自分たちだけは正義だと信じることだろうか。
何の答も出ないことが次第に判ってきても同じ質問を繰り返す。主人公たちが嘘の答えをしてしまうように彼らの信念も虚偽で支えられたもののように思える。
彼らの精神が何の歪みもないまっすぐなものであると信じられるだろうか。彼らもそうすることしかできない軍隊の規律に狂っていっているだけなのではないか。
戦争を描いた作品を観るといつも虚しさに襲われるがこの作品もまた同じである。人間は一体何をやっているんだろう。

ウィンターボトム監督作品を幾つか観てきたが、こういうドキュメンタリーのように思える映像の作り方がうまい。
本人たちよりさすがに役者の彼らがかなりハンサムなのは御愛嬌として。(本人たちも悪いわけじゃないが)

監督:マイケル・ウィンターボトム マット・ホワイトクロス 出演:アルファーン・ウスマーン ファルハド・ハールーン リズワーン・アフマド ワカール・スィッディーキー シャーヒド・イクバル アシフ・イクバル ローヘル・アフマド シャフィク・レスル
2006年イギリス

米軍から見ればムスリムたちは獣のようなものとして「扱う」のが妥当なのだとしか見えない。
中で収容された彼らが「動物園と同じだ」と言っていたがとんでもない間違いで、動物園の動物はもっと大事にされている。
ラベル:戦争 歴史 運命
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2009年11月14日

『美しすぎる母』トム・ケイリン

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Savage Grace

すっごく見せたがらない作品、というのか説明をしようとしかけてこちらが身を乗り出すと止めてしまう、というのを繰り返されていくので消化不良のまま進まざるを得ないのだが、物語が非常に刺激的で映像的にも美味しいものを目の前に出されるので最後まで食いついて観てしまうのだが、結局なにを食べさせられたのか、よく判らないのである。

つまり何を食したのか判らない者、この味が理解できない者は仕方ない、という作者の思惑なのであろう。
それはそれで気になる料理法であってもう一度食べてみたい気にもなるのだから個性的な調理人として評価すればいいのではないだろうか。
私の好みとしてはもう少しメインディッシュに食らいつきたい不満があるが。
とはいえ、こういう出し惜しみにヒントが見え隠れし、謎解きをさせてくれる映画というのは決して嫌いではない。

さてこの作品は最初から息子の母親殺し、というのが題材であると言われているようなので最後の場面があっと驚く落ちなのではなく、どうしてそのような結末になったのかということを観客は始めから考えながら観るのであろう(と言っても私は実はこういう話だと知らずに観てしまったのだが)
つまりこれは「息子の母親殺し」というより母親によってそうなるようになってしまった息子の話ということなのである。無論父親も関係はするが。
ここで思い出したのは山岸凉子の『スピンクス』というマンガである。と言っても内容は全く違うのだが、この主人公の少年は何もすることができないように部屋の中で女のスフィンクスに見張られている。ところが一人の男性が少年を心から心配しスープを飲ませることによって彼をスフィンクスの呪縛から解き放つことができる、という精神医療の物語なのだ。
本作の主人公トニーは一見自由のようでいて母親から離れてしまうことができないでいる。中で「彼女の面倒を見る、という遺産を受け継いだ」という台詞があるように母親に付き添うことが彼の仕事になっている。それは普通の少年なら面倒くさがってしなような母親に対する朝食の世話や怪我の手当てなどを優しくしてあげることに見てとれる。無論それは少年の優しさ、親孝行と言ってよいのだが、少年が親に持つべき反抗期という部分が欠落しているように思える。それは少年の成長過程で必要なことなのだが。

父親が不在になってしまうことで少年と母親の関係はさらに強いものになっていっただろう。
母親はある程度確信犯だろうが子供である少年にそれは間違ったことで子供は成長すれば親元から飛びださねばならないのだと気づくことができないのは仕方のないことかもしれない。彼にとっては母親の面倒を見てあげる、というのは課せられたことだったのだから。
母親と息子の関係と言えばルイ・マル監督の『好奇心』があるがいかにもフランス的な明るい個人主義に徹したあの映画の関係と違い本作の二人は一見自由そうで実はがんじがらめに緊縛された関係の息苦しさから逃れられることができない。
母親を殺した後、ほっとして空腹を感じてしまうほど彼にとって母親の存在は早く済ませてしまいたい気になる仕事だったのだ。
だが、それでも愛する母親を殺した、ということが彼の精神を歪ませてしまう。というよりもっと前から少しずつ狂い始めていたのだ。母親と交わった時から、母親のセックスの相手と自分も関係した時から、さかのぼっていくと彼の歪み方が次第に酷くなっていったのがわかる。
母と父親ではない別の男が寝ているのを見て彼が「母の為に自分は変わろう」と言って自分も傍に横たわる。それが異常なことであることは確かなのに彼は母親の為にそうするべきだと思ってしまった。母親の為にそう思わなければならなかったのだ。

少し前に観た『ヘンリー ある連続殺人鬼の記録』でも主人公が母親から異常な虐待(母親の性行為を強制的に見せられるなど)を受け続けたことが語られていた。本作の場合は富裕層であることですべてが優雅で母親の容姿も美しく上品に思えるが行為自体は同じなのだ。
また母親の言動は悲しいかな、やはり上流階級の奔放さとは違いやはり貧しい出自の浅ましさが露見している。彼女は上流階級に憧れただけでその中で自由に振舞えるような女性ではなかったのだ。

富裕さだけが目的で結婚した彼女の精神が歪み亀裂がはいっていく結末を息子によって終止符を打たせるなんて惨いことだ。そして彼自身も親殺しという最大の罪を自殺と言う罰で購わなければいけなかったのだ。

息子トニーを演じたエディ・レッドメインがこれ以上望めないほど滅茶苦茶に可愛い。白い肌にそばかすというのが母親役のジュリアン・ムーアとそっくりである。酷く細身でかりっとした硬そうな顔立ちが魅力的である。母親と肉体関係を持ち、最後には殺害して狂っていくという異常な行動も彼が演じていると儚げで愛おしく思えてしまうのは困ったものだ。
また何度となく出てくる同性愛の場面も自然で美しい。ここら辺の場面だけ切り取って保存しておきたい。
私としては母親なんぞ置き去りにしてジェイクと駆け落ちでもして欲しかったのだが、そうなると生活ができない人間なのだからどうしようもないか。やはり人間額に汗して働くのが一番貴いことなのだという教訓も感じてしまう作品であるな。

監督:トム・ケイリン 出演:ジュリアン・ムーア スティーヴン・ディレイン エディ・レッドメイン エレナ・アナヤ ウナクス・ウガルデ ヒュー・ダンシー
2007年 / スペイン/フランス/アメリカ
ラベル:家族 殺人 同性愛
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2009年11月10日

『ピーターラビットとなかまたち こねこのトムとこぶたのピグリン編』ダイアン・ジャクソン

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The World of Peter Rabbit and Friends

少し前にレネー・ゼルウィガーが演じたビアトリクス・ポターの映画を観て思った以上のいい作品で可愛いアニメも共に非常に楽しめた。
それは私もピーターが好きだからなのだろう。ビアトリクスはまさに絵本書きの理想のような生活を送った方のように思えてしまう。(勿論私は絵本書きではないが。もしそうだったらやはり憧れてしまうと思う)

ピーター・ラビットのアニメはTVで放送されていたのをぼちぼちと観る機会が何度かあったのだがどうしてもピーターとベンジャミンの話を観ることが多く、確かにあれは物凄く可愛いし、何と言ってもピーターが主人公なのだから文句はないが一度きりしか見ていないこぶたの話をもう一度観たくてこのDiscを借りてみた。

『ピーターラビットと仲間たち』のDisc2に収録されていて他2話を観ることができた。
またTVで観たのとは違いそれぞれの話の前後にビアトリクス・ポターが緑あふれる風景をスケッチ中に雨が降り出し慌てて家に戻り、留守番をしていたぴーたーと一緒にお茶を飲みながら子供たちに出す手紙の内容を考えるという実写が付いている。なかなか楽しい導入と終わり方である。

まず
「こねこのトムとあひるのジマイマのおはなし」
この物語は何度もTVで観ているが物凄くブラックな怖い話である。
仔猫のトムたち兄妹がいたずらでお母さん猫を困らせる話と着ていた服をアヒルにあげてしまう話は他愛もないのだが、家畜であるあひるのジマイマが自分で産んだ卵を自分で温めて孵したいと思う話が恐怖なのだ。
アヒルは卵を孵すのが下手らしくて鶏が卵を孵すのを自慢げにしているのが気にくわないジマイマは自分でやると決心する。だが飼われている農場の中では自分の思うようには何もできない。
ジマイマは農場の外で一人だけで卵を産み温めようと場所を探す。そこへ現れたのが紳士面した狐で、彼はジマイマとその卵を食べてしまおうと甘い言葉で彼女を騙し自分の家を提供すると言いだしたのだ。
お人よしのジマイマは何も気づかずそこに9個の卵を産み落とす。その途端狐は豹変しジマイマを襲おうとするのだが、勘の鋭い農場の番犬がジマイマを救う。
だが番犬が補佐を頼んだ猟犬たちがうっかりジマイマの産んだ卵を食べてしまうのだ。
ううう。
番犬さんが「これが自然の掟なんだよ」と慰めるのだがなんとも生々しい話で、自分の子供を助けに来てくれた人達が何と自分の子供を食べてしまうというのは狐に食べられるより気持ち悪く感じられるのだが。
ポターの話はこんな風で半端じゃない恐ろしい部分を描いているのである。やらなくてもいいのだが、どうしてもこの辺人間に当てはめて考えてしまいそうな気がする。
「あなたのように親切な紳士はしません」と感謝した相手がこんな恐ろしい計略を持っていて、なんとか逃げだせたかと思えば現実はもっと厳しい、という、苦い話である。
結局ジマイマは農場内で卵を自分で孵すのだが4羽しか孵りませんでした、というまたしてもきつい現実があるのだった。

「ひげのサムエルのおはなし」
またも悪戯仔猫たちの話。一時もじっとしておらず全く言うことを聞かない子供たちにへとへとになる母親だが、そのうちの男の仔猫がとんでもない悪戯心で煙突の中に入り込み、自分よりでかいネズミの夫婦に捕まってプディングにされそうになる、というこれまた怖い話。
仔猫より大きいネズミって考えたくもないのだが、いるんだろうなあ。これもまた擬人化でお母さんの言うことを聞かないとこんな怖い目にあいますよ、というよくある童話なのだが、物凄く太ったネズミと痩せたおかみさんネズミにグルグル巻きにされてプディングにされてしまう、というちょっとユーモラスな光景が怖いやらおかしいやらでやっぱりうまい。
お母さんというのはどこでもがみがみうるさくてでもすぐ子供を心配してメソメソしてしまう。子供たちも言うこと聞かないくせに危なくなるとお母さんに助けを求める。そんなもんですね。

「こぶたのピグリン・ブランドのおはなし」
さてさてお目当てのこぶたの話。
うーん、豚たちがあまりにお馬鹿で心痛い。この話が一番印象的だったのはやはり物凄く怖かったからで、なんだかピーターラビットの話ってみんな怖いんだねえ。この物語は特にもう物凄く怖かった。
農場にいるお母さん豚が子豚達を世話しているんだけどある日、もう面倒みきれないと言って子供たちを他の農場や市場にいかせるの。これってどういう運命なの。だって豚の運命ってもう決まっているよね。ある程度大きくなってよそに行くっていうのはさ。
泣きながら荷車に乗っている子豚たちが憐れな(いや私だってちゃんと食べてますからね。別に偽善的になるつもりはない。ないが)
そして主人公ピグリン・ブランド(なんつー名前)とアレキサンダーは二人で市場へ行きなさいとお母さんに言われる。
ピグリンは結構賢い子なんだけどアレキサンダーは食いしん坊でそそっかしく落ち着きがないの。大王の名が泣くよ。
お母さんは二人にポターさんからもらったという通行許可証を渡すのだが、これがないと豚が勝手に出歩いて市場へ行くことは許されていないのである。
アレキサンダーは何も考えてないがピグリンは市場へ行くと皆にじろじろ見られるのが嫌だ、自分だけの家を持ってその庭にジャガイモを植えて暮らしたい、と願うのである(ここんとこスタインベックの『二十日鼠と人間』みたい)
彼らが市場へ行くってことはすぐではなくてもいつかは食料となるわけでそれが未来だとしながらそこへ向かって行く、というこれもまたブラックで人間たち、特に私らのような豚的人間たちにとっては恐ろしい表現ではないか。
だがピグリンたちはその未来の虚しさを知りながらもそこを目指すしかない運命を背負うしかない。彼らはそれを把握しながらも打破できないでいる。彼らには結局食べること、寝ることなどの目の前の問題が重要で流されてしまうのである。
しかしここでピグリンは自分よりもっと運命に翻弄されているような少女豚に出会うことで力強く生きること、逃げ出すことを決心する。
いまいち状況がよくつかめていない少女豚を励ましながらピグリンは人間の家を脱出する。
あの橋を越えれば自由になれる。
だがそこに辿り着く前に別の人間に出会ってしまった。彼は挙動不審な豚たちを尋問し調べるからそこで待ってろと脅して行く。
多分それまでのピグリン達はそう言われると動けなかったのかもしれない。
だが今のピグリンは勇気と知恵を絞り、人間が戻ってこれない距離を見計らって自由への橋へと走り去る。
少女豚と共にピグリンは願いだった自由をつかんだのだ。

ああ怖かった。
どの場面もなんだか怖いのだ。ピグリンたちの運命は食べられる為に生きている、ということだから。
市場へ行くことは一人前になって食されるという仕事につくことだ。
それを感じながらピグリンはそこへ向かっている。食べれば太るのだが、勧められるままに食べてしまう。
出会った少女豚は彼よりもっと楽天的で逃げなきゃと言いながらよく判っていない。
なんだかもう現実をここまで違う世界に変化させて表現できるってどういうんだろうと思いながらぞくぞくと恐怖を感じながら観てしまう。
人間たちは「よく太ってきたわい」とにたついている。
ピグリンが少女の手を取って自由への橋へ走りだした時はどんな映画よりどきどきしてしまった。
二人がジャガイモと花でいっぱいの一軒家に住めただろうと信じたい。
子供たちも市場へ行かなくていいのだと。

監督:ダイアン・ジャクソン
1992年イギリス
ラベル:アニメ
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2009年11月09日

『小間使の日記』ルイス・ブニュエル

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LE JOURNAL D’UNE FEMME DE CHAMBRE

一体何なんだよゥ。この映画は???
ブニュエルだから凄かろうと覚悟の上で観ているのに作品は自分のちっぽけな想像力など問題にはならないようだ。
しかしブニュエルだからというか、とにかくいつもフランス映画というもの自体が謎なのであり、その中でも更に凄い人なのだから判らないのが当然なのだろう。

昨日まで観てきたアメリカ・イギリス映画に出てくる貴族対使用人という関係図などなんの意味もなくなってしまうのである。
小間使いがジャンヌ・モローで何と言っても彼女を雇う金持ち連中なんぞより彼女自身が一番威厳があり自由放埓でしかも上品に美しい。権力を振りかざしている連中は皆変態じみている、という構図になっている。
彼女を見た男たちは皆欲望をみなぎらせてしまうのだが、セレスティーヌ(これもまた小間使いとは思えない響き)は主人だろうが荒くれ者だろうが全く臆することなく機転をきかせて彼らを手なずけてしまう。
本作はファシズム批判が土台となっている、ということで確かにその意味は汲めるのだが、とにかくエロチックなやり取りが破格に面白いのだ。
特にセレスティーヌが世話を頼まれる老人の靴フェチはゾワゾワとするものがあって、彼女にぴったりのサイズの(22.5センチって言ってた、小さい!)短ブーツをはかせ部屋の中を歩かせて興奮しまったかと思えば、脱がせたそのブーツを胸に抱いてセレスティーヌのことはもう忘れてしまったかのように隣室へとこもってしまう。靴フェチはあくまでも靴に興奮するのだよねえ。
精力絶倫で妻が困惑する主人も大変だが、恐ろしいのが屋敷の下男で彼は屋敷に出入りしている幼い少女クレールを強姦した後殺害してしまったようなのである。だが証拠が上がらず警察が手をこまねいているのを知ったセレスティーヌは屋敷の仕事を辞めてパリに帰ろうとしたのに再び戻って犯人探しを始めるのだ。
物語が後半からミステリーへと変貌してしまうのである(これもちょっと不思議なんだが)彼女は下男ジョウゼフに疑いを持つのだが、今まで彼女に唯一冷たく当たっていた彼が「君をずっと好きだった。結婚してくれ」と言いだすのである。
私としては今までの彼女への仕打ちと殺人犯と思える男が何を言う、と憤慨ものだったのだが、なんとセレスティーヌは自ら彼との肉体関係を結び結婚の約束もするのである。が、それはクレール殺害の証拠をつかむ為だった。
犯人を探す為に肉体関係を持ち、結婚の約束をするなんて。
理解を越えてる。
しかもベッドに入って「クレールを殺したと言いなさい」・・・絶句。

理解不能(泣)

変な映画が好きなのに。
ここまで理解し難い思考回路って。

セレスティーヌはまんまと彼の靴底の金属片を取り外し殺害現場へ落として警察に彼を逮捕させる。
そして彼女は奴との約束など無視で屋敷の隣の金持ち軍人のプロポーズを受けるのである…またしても理解し難い・・・。
だが、彼女の努力もむなしくジョウゼフは結局証拠不十分で釈放となったのであった。

もーどーでもいい。
とにかくジャンヌ・モローは美しく魅惑的であった。こんな小間使いいるだろうか。魅惑的な小間使いというと筒井康隆氏の七瀬を思い出すがセレスティーヌは超能力者でもないのにそれ以上に超えている。

強姦殺害されてしまう幼い少女クレールもフランス少女らしいおませな可愛らしさとエロティシズムを漂わせる。
ジョウゼフがクレールが森に入って行くのを見送って「狼に気をつけな」と言った後、野獣的な表情になる。
木陰から少女の開かされた脚だけがみえ、白い肌に血が流れて彼女が捕まえていたカタツムリがぬめぬめと這いまわっているのが僅か数秒もないショットなのに恐ろしく印象的であった。

監督:ルイス・ブニュエル  出演:ジャンヌ・モロー ミシェル・ピコリ ジョルジュ・ジェレ フランソワーズ・リュガーニュ ミシェル・ピッコリ
1963年フランス/イタリア
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2009年11月06日

『黒水仙』マイケル・パウエル、エメリック・プレスバーガー

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BLACK NARCISSUS

少し前に尼僧に物凄く興味が湧いて(どういう趣味だと言われそうだが何と思われても別によい。というか元々尼僧に憧れはあるのだが)その中でこの作品を見つけたものの何も読まず観ればよかったんだが、レビューなんぞをちら見したらいいと言われてたり物凄く変な風に書かれてたりでつい躊躇してしまった。先日フランさんに高所恐怖症には怖いと言われ酷い高所恐怖症のくせに怖いもの見たさで観ることにしたという変な経緯である。

しかしこれは面白かった!

というか、本当にこの作品自体が面白いのかどうかよく判らない。ままあるのだが、勝手に想像を飛ばしてしまって面白く感じてしまうのかもしれない。
というのは、作品としては舌足らずで説明不足のような気もするし、芸術的、というには低俗でもありそれほど革新的だとか美しいとか言うには遠い気もする。
ただ、ヨーロッパ文明から遠く離れたヒマラヤの山奥のひっそりと佇むキリスト教修道院に身を置く修道女たち、という不思議な映像が勝手に頭の中で神秘的なイメージを膨らませてしまったようでもある。
問題の絶壁の頂上に何故かせり出して掲げられている鐘を鳴らす修道女、というイメージは強烈である。神につながるはずの鐘を鳴らす為にほんの少し身を傾ければ奈落へ落ちてしまうというその状況はまさに異境の修道院へ派遣された彼女たちの運命そのものなのである。
その地に長い間住みついているイギリス人男性ディーンは彼女らが到着もせぬうち物知り顔に言い放つ「ここへ来た修道士でも長い間は持たなかった。女ならもっと早く逃げ出すだろう」

優秀な尼僧クローダですら到着したその日からすでに忘れていた昔のこと。自分がまだ俗世間にいた若い頃の恋人のことを思い出してしまうのだ。
他の尼僧も同じようにかつての自分を思い出し、神に仕えることとの板挟みになって苦しむのである。
それは大自然の中で遠くが見えすぎることであるとか、始終吹いている風のせいであるとか、自分たちを取り囲む異世界の住民たちや華やかな衣装を着た王子などが彼女たち敬虔な尼僧を神の教えから引き放してしまうのだった。

神の国に近いのでは思えるような高い修道院にはいつも強い風が吹き込んでくる。
ヒマラヤの大自然の美しさは神の掟を守ることより生々しい人間としての生き方を思い出させてしまうのだろうか。厳しい修行に耐えていたはずの尼僧たちは何故この場所に耐えかねてしまうのだろう。
『黒水仙』とは尼僧たちが豪奢な王子を例えて言っていたことからして自惚れ(つまりギリシャ神話のナルキッソスからの連想として黒いナルキッソス(水仙)だと言ったのだね)だと言うのだが、とりわけクローダにも自分なら大丈夫だと言う自惚れがあったという皮肉もあるのだろうか。(日本語的にクローダっていうのがまた)
キリスト教をこの地にも浸透させることができるという自惚れも無残に潰されてしまった。

こういう物語には多いのだが、尼僧たちはあくまでも英語を教え、キリスト教を教えるのであって彼女たちが当地の言葉を覚え、当地の人々の信仰を勉強するということはあり得ないんだよね。それをやってしまうと布教にはならないだろうし。
着るものも格式も故郷にいる時の同じスタイルの彼女たち。物語の中に登場する人物も英語を話せる少年と城を守る奇妙な老婆と色仕掛けで迫る少女と身分違いの王子が現地の人間として描かれるが尼僧たちと心を通わせる話は全くないのである。
一方その地に住み着いているディーンは住民とも打ち解け信頼を得ている。クローダは自分が従うべき他の尼僧までもディーンを頼りにしていることに嫉妬すらしてしまう。

そして最もおかしくなってしまうのがシスター・ルース。尼僧たちは皆ディーンに惹かれてしまうのだが(それは単に異性としてというだけでなく頼りになる男性という価値感がここではイギリスより強く感じられるからではないだろうか)彼女の感情は彼と話す機会の多いシスター・クローダへの嫉妬として歪んでいく。
僧服を脱ぎ捨て化粧をしディーンの元へ走るが彼にはそういう願望は全くなく追い返されてしまう。クローダの背後を黒い鬼のような姿になって階段を上がる彼女の姿がぞっとするほど恐ろしい。この場面はどんなホラー映画より怖かった。
崖の鐘を鳴らすクローダをつき落そうとしたルースはもみ合ううちに逆に崖から落ちてしまう。最初に感じた神へ通じる鐘の場所が彼女を裁いたのだろうか。

実際にヒマラヤでロケをしたわけでもないらしい。山脈の風景ははっきりと判る絵であるし、チベットの僧侶たちだとかインドの王子だとかこの場所もどこなのか自分も判りはしないのでその奇妙さに首をかしげながらもエキゾチックな光景に見惚れてしまうしかない。
信仰心の無力さを描いたような不思議な作品でもある。それでもデボラー・カーの気品ある美しさは孤高の尼僧を演じるのに申し分ないものであるし、最後結局逃げ出してしまうもののこれを戒めにしてまた頑張るという彼女の健気さに打たれてしまう。訝しみながら観賞したもののちょっと奇妙な味わいもあるもののとても面白い作品だった。
ディーンと王子様に色目を使う現地の少女カンチをジーン・シモンズ(キッスじゃないよ)が演じている。

やはり尼僧姿はそそるのであった。あの厳格な白い衣服で身を包んだ姿に参らない男っているのかね。
ルースさんなんて尼僧の時は色っぽいのに普通の服で髪を出しちゃうとセクシーじゃなくなってしまう。

しかし黒田とか彩とか関知とかさぶとか日本語みたいな名前が多いな。

監督:マイケル・パウエル、エメリック・プレスバーガー 出演: デボラ・カー デイヴィッド・ファーラー ジーン・シモンズ サブー フローラ・ロブソン ジュディス・ファース
1946年イギリス

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2009年11月02日

『ジキル&ハイド』スティーヴン・フリアーズ

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MARY REILLY

これもまた皆が知ってる古典サイコな物語。本筋はそのままということで展開は判っているのだがなかなかに凝った演出だし、監督はスティーブン・フリアーズで、マルコビッチ&ジュリア・ロバーツ共演、グレンクローズトマイケル・ガンボンまでも登場でやや地味ながら楽しめる作品だった。

スティーブンスン原作の『ジキル博士とハイド氏』は小学生の時の必須読書みたいなもんだが善人のジキルが薬を飲んで悪人ハイドになるって言うこと自体がジキルが悪に憧れてるわけだしなー、なのである。

本作映画は重くたちこめた霧の都ロンドンの雰囲気がたまらなく、どこか少女のおもざしを感じさせるジュリアと最初っからちょっと目がいっちゃってるマルコの魅力で持って見せちゃうのではあるが、あえて文句を言いたい部分もある。
元々本物のワルのような匂いのあるマルコだが何故かジキルの時は素敵なのにハイド氏の方がいまいちイケてない。
これはマルコビッチの卓越した演技力を買っての二役というか変身ぶりを見せたのだろうけど、悲しいかな、年齢のせいか、説明のようにジキルの落としだねか、という程の若さはないし、ジキルが憧れるような悪を満喫している雰囲気がマルコのハイドに感じされなかったのだよねー。確かにメアリーに変態的な舌使いをするのだとかはさすがにエロチックではあるのだがハイドがどんな風にジキルの欲望を満たすような悪魔っぷりだったかは観客が想像するしかない、という描き方だったのでやや不満気味。もう少し悪の魅力を発揮して欲しかった。
イメージ的には若くて美貌のハイドだが恐ろしい残虐性を感じさせて、初老でもう若いメアリーが惹かれるようなハンサムではないが優しい人柄のジキル、という二人の間でメアリーが揺れ動くようでいて欲しいのだがジキルほどにメアリーがハイドに心惹かれていると思えないのだ。マルコには悪いが若くてハンサムで怖さを出せる俳優と二人で演じたほうがよりよかったんでは。と言ってもマルコビッチを使う以上それはあり得ないのだろうが。
それにまあ原作もそういう設定ではなくジキルの方が容姿端麗でハイドは醜い男だったという記憶がある。ただ映画では若干ハイドがいい男っぽさを出したがっているようだったから、どうせなら思い切り美青年の方が楽しかったのではと思ったのであるが。
(自分としてはマルコで充分ではあるのだが^^;)

この作品の面白さは物語の本筋だけではなく、当時の人々の階級の違いだとか街の様子だとか、生活様式、人々の言動などに格式を感じさせてくれるところだろう。
幼い時は父親に虐げられ、働きづくめで若い娘時代をつぶしていってしまうはずのメアリーが突然出会う体験。
この時代において本が読めるほどの知性を持つ彼女だからこそ不思議な出来事に惹かれ逃げ出すこともできなかったのだろう。

ジキル&ハイドの変身場面はまさかの恐ろしさだった。まさかあんなに大変なことだったとはねえ。

監督:スティーヴン・フリアーズ  出演:ジュリア・ロバーツ ジョン・マルコビッチ ジョージ・コール マイケル・ガンボン グレン・クローズ ジョージ・コール キャシー・スタッフ
1996年アメリカ
ラベル:ホラー サイコ
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2009年10月24日

クライヴ・オーウェン、タクシーの運転手に「俳優はウソをつく職業」と言われショック

クライヴ・オーウェン、タクシーの運転手に「俳優はウソをつく職業」と言われショック

クライヴの物凄いファンと言うわけではないのですが、なんだか真面目な人なんだなあと思えてしまった。
タクシーの運転士さんの言葉を懸命に考えるのもですが、家族思いなのとえり好のみしすぎかな、とまた悩んでるとこも(笑)
えり好のみはできるならした方がいいと思いますが。
『ザ・バンク』はよかったです。
もっさりした感じが魅力的な人ですねー。
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2009年10月23日

『オリバー・ツイスト』デビッド・リーン

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OLIVER TWIST

先日観たベン・ウィショーの動画で彼が「初めて観たミュージカル映画が『オリバー』で」と言っていたのでつい気になって観賞。多分ベンが観たのはこれじゃなくてマーク・レスター主演のだと思うけどレンタルできる『オリバー』映画が3作あってマーク・レスターのは私も観賞済みだし、とりあえず昔のから観てみるかということで1947年作のこれから観てみる。監督はなんとあのデビッド・リーンだけあって、知っている内容とはいえ、非常に見応えのある映像だった。

陰影のきついモノクロ映像がロンドンの貧民街を描くのにはぴったりである。遠くから映した橋のある風景などまるでファンタジックな雰囲気を持っている。
過酷な運命が待っている幼い少年オリバー・ツイストの物語だが、ぽんぽんと進行していくせいかさほど深刻にはならず(と言うのは褒め言葉にならないのかもしれないが)楽しんで観ることができた。
孤児の少年たちにスリをさせているユダヤ人フェイギンのぎょっとするような怪異な容貌だとか、犬を連れた乱暴者サイクスとその愛人ナンシーなどのキャラクターは他の多くの作品にも影響を与えているのではないだろうか。
観賞した『オリバー!』のマーク・レスターはすこぶるつきの美少年だったのでこちらのオリバーはどうだろうかと思っていたのだが、同じように金髪でやや面影も似ているような可愛らしい少年でもっと痩せている分、本作のオリバー君の方がらしい気がする。
物凄く奇怪な鼻を持つフェイギンはなんとアレックス・ギネスであった。フェイギンというのは少年たちの親分と言うことにはなってるがそれほど少年たちを虐待しているわけでもないのだった。そのせいもあってこのスリの一味はなんとなく楽しげに見える。孤児院から葬儀店でのオリバーの生活が悲惨だっただけにロンドンのこのスリ集団は自由で面白そうに見えてしまう。
物語自体は可哀そうな運命に翻弄されるいたいけなオリバー少年が実は・・・というハッピーエンドでそれほど感銘を受けるようなものではないのだが、彼を取り巻く人々や街の描写などが魅力的で観てしまうのだろう。オリバーは何もしないという指摘もあるようだが、一応「お代り欲しい」を訴えたり、母親を侮蔑した男が自分より遥かに大きいにも関わらず飛びかかったり、スリ集団にも興味を持って仲間入りしているとは思うのだが。

映画としては極めて忠実に映像化しているという作品なのだろうが、重厚な味わいのある締まった作品になっているのはさすがにデビッド・リーン監督の手によるものだからだろうか。
細身の美少年を愛でる方にも必見の作品だ。

ところで、ベン・ウィショー、子供の時に演じるなら孤児のスリ少年ならまさにぴったりなのにフェイギンを真似たりしてた、っていうのが面白い。サイクスと比べても非常に陰影のある役だし、優しいような部分もあったり複雑で難しいキャラクターなのだが。さすが、ベン、風変わりな性格を感じさせる。

監督:デビッド・リーン 出演:ロバート・ニュートン アレック・ギネス ケイ・ウォルシュ ジョン・ハワード・デイヴィス アンソニー・ニューリー
1947年イギリス
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2009年10月16日

『青髭』カトリーヌ・ブレイヤ

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LA BARBE BLEUE

カトリーヌ・ブレイヤ監督という存在をまったく知らなかったし、『青髭』というような童話を映像化した作品と言うのは当たり外れが大きいのでできるだけ期待しないようにして観たのだが、これはなかなか好みな出会いだった。ただ解釈としては斬新だとか衝撃的とかいうものではないようだ。

『青髭』というタイトルのみで観たのはこれがシャルル・ペロー原作だという理由ではなく、無論これがジル・ド・レイを意味しているのかも、と若干の狙いもあったのだが。
その点は全く外れていてジル・ド・レイのように少年を集めては惨殺する、という含みはなかったようだ。
ただ幼い少女が姉にぺローの『青髭』を読んで聞かせる(ちょっと変な設定ではあるな)場面が幾つかのパートに分かれて出てくるのだが唐突に少女が「結婚した後、二人は同性愛になるの」みたいな変なことを言いだすのが少しだけジル・ド・レイを意識したのかもしれないし、青髭が結婚相手を選ぶ場面があるのだが、何故か少女たちだけでなく綺麗な少年たちも集まっていたのは無意味だけどそういう含みもあったのか。またマリーたちの家に青髭の招待を告げに来た若者は青髭を好いていたようである。まあ本筋に関係ないことばかり勘ぐってもしょうがない。

さて本作は『青髭』を元にブレイヤ監督が独自の表現をしたということで昔、厳格な私立女子校で寄宿生活を送っていた姉妹が父親の死で学校を追い出され帰宅すれば父の残した借金のせいで家財道具は持ち出され食べるものもない、という生活を送ることになる。困窮した母娘に青髭の招待があり、姉は醜い青髭(と言う設定になってるがさほど醜くはないちょい太めな男性)を忌み嫌うが妹は何故かそんな青髭を気に入り結婚してもよい、と思う。青髭も彼女を妻として招き入れる。
ここまでは確かにかなり違うがこの後の展開は進行としては原作とあまり変わらない。青髭が長い間家を出ることになり妻に大きな鍵束を渡しどの部屋も自由に使って友人や姉を呼んで娘らしく楽しむがいい、という。やがて帰宅した青髭は妻が遊んでいるのを見てやや苛立っている。だが「自由にしていいと言ったでしょう。寂しかったわ」と言う妻の言葉に落ち着く。暫くしてまた青髭は家を留守にすると言いまたあの鍵束と今度は小さな鍵を一緒に渡し「これは地下室の秘密の部屋の鍵でお前は絶対に開けてはならない」と言うのである。
鍵を渡して絶対に開けるな、という童話にお決まりの約束ごとで勿論妻はこれを守らず鍵を開ける。
果たしてそこには青髭の前妻たちの死体がぶら下がり床は血の海になっている。彼女は鍵をそこに落とす。鍵についた血は決してとれないのだ。青髭はすぐに帰ってきて妻の裏切りを知り彼女を殺そうとする。
普通に考えて、これは権力的な夫が妻に従順性を求める、という物語だ、ということになる。
愛していると言う妻の言葉を信じ切れず、本当なのかテストしてみる、そして案の定彼女が裏切ったのを見て怒りで彼女を亡きものにしようとする。まったく理不尽な言動で多くの妻が夫のこういう横暴な言動を経験する、ということなのだろうか。
しかしこの後、青髭は駆け付けた男たちに取り押さえられ殺される。これは原作がそうなっているわけで皿の上に首が置かれている、とうのは絵としては幻想的だが、衝撃というものではない。
本作が独特に思えるのはこの本筋に現代の少女の姉妹の物語を絡ませていることで最も衝撃的なのは小さな妹が『青髭』を読み聞かせるのを怖いからと嫌がっていた姉が部屋の床に開いていた穴から下の階へ落ちて死んでしまった、という描写の方だろう。しかも奇妙なことに母親は落ちている姉にまったく気付かず、かといって「また苛められたの」とか聞いているから姉の存在がなかったのでもないようだ。一体これがどういう意味なのかは判らない。姉の死は、童話を怖がっていた姉が穴から落ちて死ぬという、すぐそばにある恐怖に気づいていなかった、という皮肉なのだろうか。

全体の雰囲気もとても好きだったのだが、青髭がどこへ何をしに行ってたのか、とか、何故彼は前妻たちを殺していたのか、とか何故「私は何の希望もない一匹狼だ」みたいなことを言っていたのか、何故彼はお金持ちなのか、などの解釈も聞きたかった気がする。

青髭、というのは本当の青い髭じゃなく、この映画で観ても判るように黒い髭のことであるらしい。
多分彼は西洋人じゃなく東洋人、極東じゃなくアラブ系なのではないだろうか。そこから来る謎めいた恐怖感や残酷性をイメージさせているのではないだろうか、と思ってしまうのだが。

フランス映画と言うのはいつ観てもどこか感覚がその他多くの国の映画とは違っている。しかもエロチックである。
も少し突っ込んだ表現もあって欲しかった気がするが、それでも非常に気になる映画であった。

監督:カトリーヌ・ブレイヤ 出演:ドミニク・トーマス ローラ・クレトン ダフネ・ベヴィール
2009年フランス
ラベル:童話
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2009年10月04日

『眺めのいい部屋』ジェームズ・アイヴォリー

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A Room With A View

昔、この映画の公開時ではなくてもビデオかTV放送だかで観たはずだと思うのだが、多分さっぱり判らなかったのだろう。まったく覚えていなかった。
今観てみても物凄く感銘を受けるだとか、血沸き肉躍るなんてことは些かもない作品ではあるが、あちこちでクスリと笑える楽しい映画である。少しは大人になれたのかもしれない。

とはいえ、私なんかはジョージよりもダニエル演じるセシルのほうがずっとハンサムな上にキュートで魅力的に思えてしまうのだが、それはダニエルだからということなのかもしれないが。
また嫌なキャラクターのはずのシャーロットが非常に面白くてKYな性格というのか彼女の言動一つ一つがどっか癪に障るのだが、それがこの作品のとてもいい香辛料みたいなもので効いている。
ヒロイン・ルーシーは行動的な現代娘でありながらもやはり当時の規範から抜け出すことは苦しい葛藤なしにはできないことだったのだろう。様々な人に様々な嘘をつき自分を最も偽りながら、危ないところで打開することができた。すべての答えはジョージの父親が親切にも話してくれるわけで「愛する人と別れることこそが不可能」なのであると。

私はフォースターは『モーリス』しか読んでいないのだが、ここでも物語のラストは「こうであって欲しい」という願いがかなえられた形で表現されている。実際はこの逆の「愛する人と別れ」世の中の規範どおりの結婚をし、眺めのいい部屋を人に譲ってもらうより、自尊心を崩さない人生を歩むものだったのだろう。特に女性においては。

ルーシーたち上流階級とは違い好きになった男性ジョージは身分も低く父親の言動はどうも品がない、としか思えない。
セシルはルーシーと身分は釣り合うが「女性の気持ちが判らず、彼女を所有物の一つとしか見ていない」
ルーシーが友人姉妹の為にヴィラを紹介した、と言ってもジョージはもう別の初対面の人に紹介したと言い切って彼女の言葉をまったく問題にせず、彼女が怒っていることも気にしてもいない風だ。
フォースターの物語は『モーリス』にしてもこれにしても(これの原作は読んでないが)非常に説明的で型にはめられ過ぎのようにも思えるがそこに込められている願いを強く感じさせる。描写も美しい。

この映画で初めて顔を知ってから以降様々な作品で活躍を観ることになるヘレン・ボナム・カーター。ジョージにジュリアン・サンズ、婚約者はダニエル・ディ・ルイス。『モーリス』でモーリスの恋人役を演じるルパート・グレイプス、イタリアで知り合う女性作家にジュディ・デンチなど見応えある役者がそろい踏みである。
テーマはシリアスながら語り口は軽快でユーモアたっぷり。ジュリアンとルパートの全裸シーンもありでゆっくりたっぷり楽しめる一作なのであった。

監督:ジェームズ・アイヴォリー 出演:ヘレナ・ボナム・カーター マギー・スミス ジュリアン・サンズ ダニエル・デイ=ルイス デンホルム・エリオット ジュディ・デンチ
1986年イギリス
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2009年09月25日

『歌え!フィッシャーマン』クヌート・エリーク・イエンセン

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Heftig og Begeistret/Cool & Crazy

北国ノルウェーの最北の小さな町。男声合唱団「ストランドボーイズ」ボーイとはいえ何しろ最高齢が96歳、そして弟87歳も含めてかなり高年齢の男声合唱団のドキュメンタリー映画。

男女によって聞き心地というのはやはり違うものなのだろうか。男声合唱団というのは深みのある落ち着いた低音が女性の耳にはとても心地よいのである。
人口も少なく漁業とその加工工場がひとつだけあるという小さな町に住む彼らは口々に住んでいる町を褒め称え他の土地には行きたくないと言う。だってね、自然豊かでのんびりしてて建っている家もみんな北欧の可愛らしいデザインで内装も決して豪華じゃないけどみんなこじんまりとしてきれいなの。まあ、若い時はちょっとつまんないだろうけどこんな可愛い家ばっかりならいいよなあ、なんてよそ者は思ってしまう。
だがしかし。美しい自然はまた恐ろしい自然でもあって高齢のお爺ちゃんたち合唱団をわざわざ外に立たせて歌わせると、髪も目も鼻水もみんな凍っちゃって、うわ死んでしまうんじゃないかと心配になる。いやあ地元住民だから大丈夫。なのか。
吹きすさぶ雪風を観ているとさすがに怖気づいてしまうが。

本ドキュメンタリー。ボーイズの各個人にインタビューし合間合間に歌を歌う。
お爺ちゃんが殆どだが皆口をそろえるのは女性が大好きで若いころは鳴らしたもんだという自慢話。いまも軽く遊ぶんだ、というつわものである。
歌が大好きで、若い時は外国人を見ると歌を歌い、認められたら世界のスターになれるんじゃないかと期待した人、都会へ出てエンジニアになりたかったが目の病気で最初の文字と最後の文字を逆に読んでしまうという人、ずっと愛じ合っている女性がいるが実は結婚していない人、妻との間に子供が二人、別の女性との間に一人と言う人、共産主義者でロシア(というのかソ連というべきか)信奉者、など色々な男性たち。
元クスリ中毒だった人、色んな楽器を演奏するのが好きと言う人、三つ子の孫がいる人。
年齢は高年齢から中年くらいまでとかなり幅はあるのだがみんな仲良しで思いやりを持っている。
ただロシアに合旅行した時だけはロシアびいきの男性に他の者たちがこんな町は嫌だとか口喧嘩になってしまったが。
まあそんな争い事がありつつも年取ったボーイズたちは冬の寒さにも負けず歌い続ける。

わくわくするような展開があるわけでもない。歌が大好きで小さな北の町を心から愛してる彼らを淡々と写し撮っていく。
歌声が凍りつく冬空の下でも高らかに響き渡るのだった。

監督:クヌート・エリーク・イエンセン 出演:ベルレヴォーグ男声合唱団
2001年ノルウェー
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2009年09月21日

『ウェルカム・トゥ・サラエボ』マイケル・ウィインターボトム

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WELCOME TO SARAJEVO

いくつもの戦争映画、ドキュメンタリーを観ても何らかの答えと言うのは私には判りそうもない。どれを観ても無力感と苛立ちが襲ってくるばかりなのだが、それでもやはり何も知らないままではいけないと思い、またがっくりとしてしまう。
この作品はサラエボでの紛争を一人のジャーナリストの目を通して実際の映像も交えながらドキュメンタリーを思わせるタッチで描いている。いくつかの場面を除いては「敵の姿」が見えずいきなり銃弾に倒れてしまう、という光景が多く、その為に何も知らなければ一体誰が何をしているのか理解しにくいものになっている。それは「誰が悪いのか」ということを問いただしているのではなく、一つの街の中で絶え間なく続く紛争によってごく普通の人々がどんなにあっけなく惨たらしく殺されていくのかに焦点を当てたい為なのだろうか。

そしてもう一つはこの地獄の中で生きて行かなければならない子供たち。主人公のマイケルはたくさんの子供たちの中でたった一人の少女の涙に耐えきれず彼女を自分の家族に入れることを決心してしまう。
しかも後に彼女には母親がいることが判るのだがマイケルは母親を説得して絶対にこの地に少女を戻さないと決めてしまうのだ。
このエピソードについてこの表現についてもしかしたら疑問に思う人もいるだろうか、それとも全員少女をこの地獄の街に戻すことは反対だろうか。他の惨たらしい映像を淡々と映し出すのに比べ、少女エミラの描写だけは感情的なものになっているのだが、それはごく当然のことだ。
エミラを絶対にこの場所には戻さない、と誓うマイケルと母親のあきらめにほっとした。マイケルの奥さんの寛容さに対して一番胸を撫で下ろした。状況を見ないまま共感できるというのは凄いことなのではないか。

世界で14番目に悲惨な街、という表現を皮肉に使っている。他にもっと大変な所があるから忙しくてね、少し我慢してくれ、って。

監督:マイケル・ウィンターボトム 出演:スティーブン・ディレーン ウディ・ハレルソン マリサ・トメイ ケリー・フォックス エミラ・ヌシェヴィッチ ゴラン・ヴィシュニック ジェームズ ネスビット エミリー・ロイド
1997年イギリス
ラベル:戦争 歴史
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2009年09月15日

『モーヴァン』リン・ラムジー

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MORVERN CALLAR

いやもうほんとに毎日色んなタイプの映画が観れて幸せといったらないですね。
昨日観た『日蔭のふたり』は「物凄い不幸」のようでそれほど不幸じゃないんじゃないか、と書いたのだが今日の奴は不幸のようで物凄く幸運でしかも不幸なのだ。
これはやはり「昔の話」として離れて観てしまうのと現在を表現したものを観る、ということでも違ってくるだろうし、悲しみをはっきりと示していた『日蔭のふたり』に対して本作の主人公モーヴァンの表情のなさはどうだろう。彼女が幸せな気分でいるのか不幸なのか、じっと観ていてもあまりよく判らないし、もしかしたら彼女自身もよく判ってないのかもしれない。それこそが現代的な不幸なのかもしれないのだ。

しつこく比較していくととりあえず「ふたり」で「日蔭」していられた昨日の作品とは違いモーヴァンは一人っきりである。唐突に冒頭で愛する人を失ってしまう。しかも彼の死因は自殺。その上、意味はない、ときてる。
スーパーの店員で友達も少なく無口なモーヴァンにとって彼の存在は大切なものなのではなかったか。彼の死体に寄り添いその体をそっと撫でる彼女がその後に起こした行動は異常なものに違いない。何故彼女は彼の死を隠してしまったんだろうか。
彼はモーヴァンに銀行の預金を葬式代として託し、また自分の書いた小説を発表して欲しいと頼み、その小説は出版社で破格の金額で契約された。単なるスーパーの店員である彼女には望んでも手に入れることはできない大金が転がり込む。
とても喜ぶ表情を見せるがすぐにその笑顔は硬くなり本当に何を思っているのか判らなくなる。
確かに・・・映画では観客に判りやすいよう人物が感情をすぐ口に出したり泣いたりして見せるが実際は何を考えているか判らないものなのではないだろうか。モーヴァンのように気持ちを出さないタイプの人間は決して少ないわけではないだろう。

しかしなんて陰鬱な作品なんだろう。これに比べれば『日蔭のふたり』は随分明るい作品だった(なんだか物凄く叩きのめされる『日蔭のふたり』・・・)たった一人の親友として出てくるラナも彼女の理解者として描かれているわけでもなくモーヴァンは世界にたった一人きりで生きているような孤独感がある。そして彼女はこれからも誰からも理解されることなく生きていかねばならないんだろう。その重さを彼女は抱えて歩きだしていく。

男が死んで女友達と旅に出る、ということでイギリス版『テルマ&ルイーズ』のような展開かと思っていたらまったく違った。さすがイギリス。この出口のない暗闇はたまらんものがあります。モーヴァンという人物造型の根暗さも救われないものでありながら(というかあるからこそ)酷く惹きつけられてしまう。
母親を亡くした男のエピソードは一体何?死んでしまった彼のことかと思った。

ところで上に貼っているオレンジ色の写真のやつ。私はこれをずっとオレンジ色のチューリップに見えていてそう思いこんでたんだけど、今気づいたらサマンサの顔だったのね。なんでそう見えてたんだろ?

監督:リン・ラムジー 出演:サマンサ・モートン キャスリン・マクダーモット レイフ・パトリッ ク・バーチェル ダン・ケイダン キャロリン・コールダー デス・ハミルトン
2002年イギリス
ラベル:人生
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『日蔭のふたり』マイケル・ウィンターボトム

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JUDE

まずタイトルが陰惨で素晴らしい。いつもは邦題に疑問を持つのだが今回は『ジュード』だけよりも邦題のほうが心してかかれるからよいのではないだろうか。
しかし映画というのは観るタイミングというのがあるもので何しろ昨日観た映画がこれ以上底がないほど陰惨だったので本作は不幸とは言え個人的な問題でどうにでも回避できる範疇の運命であるわけでさすがにほっと助かるような気持ちであった(と言う感想をこの映画を観て言う人はほぼ皆無だろうが『アララトの聖母』を観たあとだったら誰でもそう思うだろう)大虐殺などという逃れようのない事件(テロだとか爆弾投下だとか)でも襲ってこない限り、人間はどうにでも生きていけるのだとこの映画を観てさらに感じたのであった。
などと書いてるとまるでなんだかよく判らなくなってしまうので一応言っとくと別のこの映画はそういう励ましの映画ではない、どころか正反対にいくら頑張っても人生をうまくやっていけない、という重く暗い映画なのである。だがどんなに辛くともテロや爆撃や暴徒が襲ってくるんでなければ人間は生きられるんだよ、少しだけ要領がよければね。自然災害は、難しいが(あ、また全然違う話)

そんなもっと悲惨な問題を持ってきてしまうとこの話の面白さがなくなってしまうので本作のみに話を絞ろう。
この話って一体何だろう。原作はトマス・ハーディの『日蔭者ジュード』という物語。ほぼ忠実らしいがラストは全く違っているようで映画ではジュードが高らかに「世界の終わりが来ても俺たちは夫婦だ」と叫ぶ力強いものになってるが原作では落ち込んだスーの言うとおりそれぞれの結婚相手の元に戻るのだがジュードは病気になって寝込み妻アラベラから罵られながら死んでいく、というもっと悲惨なものになっていて、こちらのほうがより不幸でよさそうだが、映画ではあくまでも「日蔭者」であって欲しいという配慮からよりを戻さなかったのであろうか。映画のアラベラはそんなに悪い女でもなさそうに見える。スーの夫なんていい人としか言えない。他にそう二人に対して理不尽な仕打ちをする人もあまりいない。二人は自分たちで不幸を招いていっているんだから仕方ないんである。
子供の死もまた二人のせいである。他者からの暴力ではなく自分たちで引き寄せた不幸。どうにでもできた運命だったのだが。
とても自尊心の高い二人なのだ。自分たちは他人とは違う高い理想を持っていると自負している。それが悪いわけではないが生きる為にはもっと狡猾になるべきなのだろうが二人はそれをよしとしなかった。中国映画で『芙蓉鎮』というのがあってその中で蔑まれることに挫けそうなヒロインに男が「豚のように生きろ」と言うのがあったけどこの二人にはそういう道は選びたくなかったのだ。
そういえば最初に豚をさばくシーンがあったっけ。生きようともがいた豚は結局縛りつけられ切り裂かれてしまうのだ。この二人は豚のように生きられず豚のように縛られ切り裂かれてしまった、とうことなのかもしれない。
こういう映画はなんの為に作られるんだろう。嫌な映画だと嫌われることもあるがそれでもこういうネガティブな作品がなくなってしまうことはない。色々人生を示唆し考えさせられる為にだろうか。あそこでああしなければよかったのに、と思わせたいが為なのか。それならばジュードはどこで間違ったのか。アラベラと結婚したこと、それともそういう才能もないのに勉学の道を選んだこと自体が間違いだったのか。それならもう生きていること自体が間違いみたいなもんだ。
別に彼らは何も間違ってはいない。自分たちが望んだ行動をし、解決をした。自分たちの力ではどうにもならない災害や人災で運命が狂ったわけではない。結果が華々しいものでなかっただけで自分たちの思った通り生きたのだから充実した人生だと言えるはずで何も文句はないだろう。それ以上を求めるのは欲が深すぎる。

書いてる途中であーこの二人はあの豚だったんだなと気づいておかしくなった。または罠にはまったウサギなのだ。
自尊心が高い人間ということも生きにくいことなのだ。あそこでクライストミンスターに戻らなければよかったのかもしれないしね。でも自分の人格をすべて捨てるわけにもいかないだろう。そうしたかったのなら、それですべてを失ってしまったのならそれはもう仕方ないことなんだ。

監督:マイケル・ウィンターボトム 出演:ケイト・ウィンスレット クリストファー・エクルストン リーアム・カニンガム レイチェル・グリフィス ジャン・ホワイトフィールド
1996年イギリス
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2009年09月12日

『愛の嵐』リリアナ・カヴァーニ

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The Night Porter/Il Portiere di notte

よくもこんな恐ろしい映画が1973年という時点で作られたものだと思ってしまう。ユダヤ人収容所においてナチス将校からおぞましい虐待を受けた少女ルチアが戦後時を経てアメリカ人指揮者の妻として彼の前に現れる。
ナチス将校だったマックスは今は小さなホテルのフロント係となって生計を立てている。彼女の出現は彼のこれからの生活を破壊してしまうものになる。
だが再会したルチアとマックスは激しく抱き合い愛し合うのである。

アウシュビッツでの惨劇を知る者なら二人が愛し合っている、という物語に激しい拒絶反応を感じてしまうのではないか。
冷酷な将校マックスの異常な性的虐待を受け続けていた少女が再会して夫を捨てて彼との性戯に溺れてしまうというのは、しかもここでも彼女は観てる者が憤りを感じるほどの暴力を受けるのにも拘らず彼と離れられなくなってしまうのである。
こういう事態や感情があるということを認めてしまうことだけでも恐ろしいことのように思える。
人間としての尊厳を全く無視したマックスの行為。裸にしたユダヤ人たち特に美しいルチアの全裸をフィルムカメラで撮り続け、銃を向けて裸で逃げ回るルチアを眺める。彼女にナチス将校の衣装を着けさせ、ただし上半身は裸で細い体にサスペンダー、そして帽子というこの映画の紹介の時必ず映されるあのスタイルで歌い踊るルチアにご褒美だと言わんばかりに差し出される箱の中には彼女が嫌っていた男の首が入っていた。
マックスはこれが二人の聖書物語だと言う。もしそれがそのままならあの男はルチアが愛していたことになるのかもしれないが。

マックスは本当に彼女しか愛した女性はいないのかもしれない。ルチアもまたこの異常な愛を受け入れている間に精神が歪んでしまったのかもしれない。
再会してからの二人も愛している、と言いながらの行為は明らかに異常なもので殴打する、素足でいるところへわざとガラスを割ってけがをさせる、鎖でつなぐ、そして極限までの餓えの中で抱き合う姿は狂気としか思えない。
もうどこへも行くこともできない彼らは渡ろうとした橋の上で撃ち殺されてしまう。
二人はそれでよかったんじゃないだろうか。彼らの愛は収容所での数年と再会した数日あまりの中で充分だったのではないか。だからこそマックスは彼女を伴って外へ出たはずだ。死が二人の愛を終わらせてくれると思って。
こんな恐ろしい愛はないだろう。という言い方は決してこの作品を否定しているわけではない。舞台や設定が違えど似た愛情もしくは情欲というものは存在するわけで。ただ多くの人々が最も忌むべき形の虐待・暴力を与えた者・受けた者の間にこういう愛が存在するのだというのは認めたくないものだろうと思ってしまう。
つまり今でも絶え間なく続く苛め、という問題の中で同じように性的嗜好を確立している少年少女もいるはずで。だからこそ苛めはいけない、という言い方はおそらくされていないだろうが。
よく言われる退廃美とかの賛美とはずいぶんかけ離れた言い方になってしまった。
SMというのは他者からは滑稽なものに見えてしまうことが多いがそういうおかしさを出さずに酔いしれさせてくれるのはやはり凄い作品なのだ(どうしても毒を含んでしまうなあ)

この作品は結局シャーロット・ランプリングをいかにマゾヒズムに貶めてしまうか、ということだけで最高に成功しているわけで、それでもういいのだ。
何度観ても裸にサスペンダーの踊りの場面の美しさにはぞっとする。女性的な美しさを捨ててしまったかのように痩せた小さな乳房の裸がこんなにエロチックであるとは。
短く刈られてしまった髪も射るように冷たい眼差しもただもう見惚れるばかりだ。
餓えて瓶からジャムを貪り舐める場面も酷くいやらしい。
少女時代も大人になった時もまったく変わっていない、という描き方に何の違和感もない人なのである。

監督:リリアナ・カヴァーニ 出演:ダーク・ボガード シャーロット・ランプリング フィリップ・ルロワ
1973年イタリア 
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2009年09月10日

『ひかりのまち』マイケル・ウィンターボトム

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Wonderland

いつもDVDで映画を観ていてアクションだろうが大自然が舞台だろうがさほど映画館で観ねばとまでは思わないのだが、この映画は映画館で観てみたいと思ってしまったなあ。

きっと暗い部屋の中に座って画面も暗くて一つの世界のようでたくさんの光が街の灯や花火の光などに包まれてしまうようなそんな気持ちになれるんじゃないだろうか。

誰一人としてぱっとすることのない一家族の周辺での出来事が映し出されていく。誰もが経験するようなことばかり、イライラしたり悲しくて涙がこみ上げてきたりむかむかしたり怒りが抑えきれないほどかっとなったり、そんな情景である。
夫婦は皆(ダレンはまだ夫婦ではない、んだろう)すれ違いばかり。
老夫婦はだれ切ってしまってる。特に老父は動いてるだけの屍のようだ。その妻はそんな夫に嫌気がさし愚痴ばかり。さらに愚痴を聞いた夫は妻がいつも誰でも嫌っていると罵る。それを聞いた妻の顔は「何故そんなことが言えるの。誰が私をそういう風にしてしまったの」とでも言ってるかのようだ。
とんでもない駄目夫と離婚している長女は可愛い息子がいてどうやら週末に彼の父親が迎えにくるのだが何もかも気に入らない。そこで頑張ればいいようなものだが、駄目男はしっかり駄目男で息子と過ごすはずの週末の夜に飲みにでかけてしまう。金もなく息子を喜ばせる方法もない。息子が応援しているサッカーの試合に連れていくだけ。
次女は臨月のおなかを抱えているのに、その夫は妻に黙って仕事を辞めそれが言い出せずに悶々としている。妻が初産で苦しんでいる時にバイクで事故って同じ病院で治療中という最低に情けない状態になってしまう。
三女は独身でとにかく恋人募集中。次々と出会い系サイトみたいなのできっかけを作ろうとするがうまくいかない。
どの話もしょぼくて寂しいものばかりなんだけど、最後にドーンと花火があがるわけでもないんだけど、なんだか少しずついいこともあるような気もして人生なんてこんなもんだけどこのくらいの人生なら小さな幸せも感じられるかもしれない、というような。
赤ちゃんが生まれるのはこれはもう最高に幸せなことだろう。小さな可愛いアリス。ワンダーランドに飛び出してきたアリス。これから彼女はこの不思議の世界で様々な体験をしていくんだ。
(ここで邦題は詰まってしまわないか。原題は『Wonderland』だからこそ“アリス”という名前からこの感想が出てくるんだけど『ひかりのまち』ではアリスに結びつかないし。光が印象的だから気持ちは判るが。しかもひらがなだけっていうのも)

ボケてしまったような父親は(多分愛していたんだろうな)息子のダレンから留守録が入ってて少し元気が出たようだ。娘も訪ねてきてくれたのでますます。
三女は黒人青年とちょっといい仲に。引きこもりだった彼も少し外出する気になったかな。

世界は本当にワンダーランドで一体何が起きるかわからない。変てこで奇妙な人間たちで溢れている。
人生は辛いことや悲しいことばかり。愛し合うはずの家族がよけいに冷たかったり邪魔だったり、でもそんな中に幸せもきっとある。
そんな希望を感じさせてくれる映画だった。

監督:マイケル・ウィンターボトム 出演:ジーナ・マッキー シャーリー・ヘンダーソン モリー・パーカー イアン・ハート ジョン・シム スチュアート・タウンゼント シャーリー・ヘンダーソン
1999年 / イギリス
ラベル:家族
posted by フェイユイ at 22:54| Comment(2) | TrackBack(0) | 欧州 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年09月08日

『イン・ディス・ワールド』マイケル・ウィンターボトム

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IN THIS WORLD

ドキュメンタリーを思わせるような映像なので本当にこの少年の亡命の旅を観ているような緊迫感を感じさせる。

パキスタンの難民キャンプで生まれ育った少年ジャマールは従兄がロンドンに亡命するという話を聞き言葉の通じない彼の安否を気遣う。
従兄よりはるかに年若のジャマール(13歳くらいだろうか)だが彼ほど心強い相棒もいないだろう。英語も話せるし、大人との会話にまったく物おじすることがない。人を見る目があって取引したほうがいいと思えば従兄のウォークマンを贈り物だと言って差し出す。そのことで文句を言いだす大人の従兄のほうはてんで状況を飲み込めていない。緊張している従兄の気持ちをほぐそうとして冗談を思いついては笑わせる。
だが、こんなしたたかな精神の持ち主でも時には無口になってみたり人を信じていいか動揺してしまう、こんな過酷なロードムービーはないだろう。

恐ろしい亡命のニュースを聞くことはある。密閉されたコンテナに詰め込まれた亡命者たちが死んでいた、荒れ狂う海を小さな船でさまよい続ける、密入国を取り締まる兵士たちから発砲される中を逃げ惑う、平和な国(少なくとも平和な国だろう)に生まれ住むことができる人間には想像するだけでぞっとするしかない状況だ。
実際に難民キャンプにいたという少年がパキスタンからロンドンまでの道のりを行くジャマールを演じている。が、演じているとは思えないほどの生々しさがある。
亡命の仲介人からの指示に従って陸路を旅するジャマールと従兄。先々に紹介者がいるとは言え、素性も知れない人間を頼っての旅は常に恐ろしい緊張感が強いられる。そして雪深い山を軽装で越え、見知らぬ家族と共に突然コンテナに閉じ込められて海を渡る。
数十時間の密閉状態で従兄は命を落とす。道連れとなった家族は赤ん坊だけが生き延び父母は死んでしまったようだ。あの赤ん坊はどうなってしまうのだろう。
一人ぼっちになってしまったジャマールだがようやく辿り着いたヨーロッパ・イタリアからなんとか小銭を稼ぎながら時にはかっぱらいをしてさらにフランスそしてイギリスへと向かうのだ。

フィクションであるとはいえ、この作品は監督たちが実際に足を運んで亡命の旅を体験して、そこから生み出した物語だという。
だからこそこんな現実味があるのだろうが、なんという危険な映画製作だろうか。
これを観てスリルを楽しんでしまった批評家としては賛辞を送らないわけにはいかないだろう。ベルリン金熊賞は当然かもしれない。

親の保護下にいるべきの幼い少年が自分の知恵と勇気で生き延びていくこの物語は作り物ではないような面白さでもある。
とはいえ、難民キャンプで毎日を過ごすことだけの人々、子供たちを見ると、当たり前のことしか言えないが何故こんな状況にこの人たちを追いやってしまう戦争や政治があるのかとげっそりしてしまう。
莫大な金額の兵器が使用され、衣食住に配給される金額はごくわずかでしかない。この馬鹿馬鹿しい問題は消えてなくなることはないのだろうか。
ジャマールの頭の良さとたくましさに感動しても願わくばその才能は平常時での勉学やスポーツに使われて欲しい。
至極平均的なことしか言えないが、それが当たり前だと思う。

監督:マイケル・ウィンターボトム 出演:ジャマール・ウディン・トラビ エナヤトゥーラ・ジュマディン
2002年イギリス

それにしても彼らの旅路の風景はイギリス人である製作者たちにとってたまらなく異国的情緒あふれるものだろうが、それは私にとっても同じだ。
家と大地が全く同じ色合いの風景、どこまでも続く見果てぬ荒涼とした大地、パキスタンやイランやトルコのエキゾチックな街並みなど思わず見入ってしまう。
posted by フェイユイ at 22:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 欧州 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年09月07日

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