映画・ドラマ・本などの感想記事は基本的にネタバレです。ご注意を

2009年09月07日

『ボクと空と麦畑』リン・ラムジー

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Ratcatcher

子供の時ってなんだか悲しいこと失敗したこと怖かったことの繰り返しばかりみたいでそりゃあ楽しかったこともあるんだけどそういった影の部分のほうがより鮮明に記憶に残っている。
幸せなことにはここまでゴミがたまったことはないし、ネズミくんの姿は見ずにすんだが自分も狭い団地に住んでいて周りには同い年の子供たちがたくさんいて、すぐそばに川が(っていっていいのかちょうどこの映画くらいのやつ)あった子供時代だったのでこういう映画を観るとその頃に戻ってしまう。現在はぼおおとして昨日のこともよく覚えていないのだが、何故か年を取ると遠い昔のことのほうがはっきり覚えている気がするのは、多分繰り返し昔のことを思い出しているからなのだろうか。
自分もまたこの主人公の少年のように内省的でやせっぽちだったので余計に自分のことみたいに思えてしまうのだろうか。

この作品の主人公ジェイムズは男の子がよくやってしまいそうなちょっとしたことから友達を水死させてしまう。彼自身はそのことに気づいているが誰かにそれを言うことはできない。彼はその後も何度も繰り返しへまをやってしまう。彼がわざと引き起こそうとしているのではないのだが、どうしても何か事故だったりまずい失敗をやってしまう。
こういう失敗の記憶って何故消えてしまわないんだろう。いや勿論すっかり忘れているものの方が多いはずなのだが、特にまずい失敗は強く記憶に残ってしまうのだ。ぼんやりして夕食のおかずを焦がしたとか花瓶を割ってしまったとか塀の上をぼんやり(こればっか)歩いてて落っこちてしまったとかいい気になって自転車をこいでたらよそのおばさんにぶつかってしまったとかそんなものなのだが。
それにしても本当に自分はジェイムズがやってしまったような恐ろしい人身事故を引き起こさずに生きてきたんだろうか。まさか気づいていないだけではないのだろうか、と時々思うことがある。自分はそんな無茶な遊びはしてなかったんだから大丈夫だろうと自分に言い聞かすのだが。
自分の子供時代にも団地だったために3階から子供が落ちてしまう事故があった。自分の周りには危険がたくさんあるのだと思い知った。

また近所にケニーみたいな男の子もいて時々遊んだりした。

子供時代というのは一つの閉じられた空間のような気がする。
私はいつもそこではやせっぽちの無口な少女でいつまでもぼんやりと空想にふけったり虫をいじって遊んだりしている。世界は団地と小学校を含むごく小さな限られた範囲内で自分は大人になることもなく駄菓子を食べたり本を読んだり探検ごっこをして遊んだりするだけでいい。少しだけジェイムズより幸せだったかもしれない。
我が家も新しい家に移り住むことを願っていた。多分団地に住む者は皆同じなんだろう。
私の子供時代もまた新しい家に移り住むまでだった。

ジェイムズが酷く辛い気持でバスに乗り雨粒が降りしきる窓ガラスに顔をつける場面がせつない。
ゴミだらけのネズミが溢れる場所から離れ新しい家に住むのが自分願いなのに。再び訪れたその家は閉じられ彼を受け入れてはくれない。
またネズミの住むアパートへと戻った彼は川の中に入る。そこでジェイムズは家族と共に麦畑の中に建つ新しい家へと引っ越し、初めてにっこりと笑うのだ。

窓から麦畑が見えるのもジェイムズの幻想なのだろう。重く悲しい映画なのだが私には懐かしい時間を思い出させる作品だった。
冒頭のライアンがカーテンをぐるぐる自分に巻きつけるのもやったよね。

監督:リン・ラムジー 出演:トミー・フラナガン マンディー・マシューズ ウイリアム・イーディー リーアン・マレン ジョン・ミラー リン・ラムジー・ジュニア
1999年イギリス



ラベル:子供時代
posted by フェイユイ at 22:56| Comment(4) | TrackBack(0) | 欧州 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年09月05日

『ドクトル・ジバゴ』デビッド・リーン

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Doctor Zhivago

再観とは言え、昔観た時は殆ど意味が判っていなかっただろう。何しろ全くストーリーも覚えおらずところどころの印象的な場面のみが記憶に残っているだけだったのだから。
今こうして観てなんて美しく面白いドラマだったのかとやっと涙をこぼすことができた。

大河ドラマの醍醐味とはこういうものなんだろう。大きく動く歴史の中で様々な人間たちは愛し合い憎しみ合いながら戦い続けるが小さなその存在は時のうねりの中に飲み込まれていく。
そしてまた何と言っても主人公ユーリ・ジバゴを演じるオマー・シャリフの素晴らしさはもとよりそれぞれのキャラクターがとても個性的で魅力ある。
オマー・シャリフは昔観た時、何故『アラビアのロレンス』でアラブ人なのにこれでロシア人がやれるのか彼は一体何者?となんとも子供っぽい疑問に包まれたが今観ても黒髪に大きな茶色の瞳、背が高くがっしりした体格で見惚れるほど彫りの際立った顔立ちはロシア人だと言われればそうなのかと思ってしまうから不思議だ。実際はエジプト人でおられるようだ。熱情のこもったまなざしで知性的、ラーラを愛してしまいながらも幼馴染で従姉妹でもある妻トーニャのことも愛しんでいる。他の男だったら絶対許せないのだが、純粋で一途で真面目なユーリを見ていると彼の愛は間違っていない、と思わせられてしまうのだ。これはもうオマーのあのまっすぐな眼差しに騙されているに違いない。さらっとした前髪にも。
彼を愛し愛される二人の女性もまたどちらもいい人なのだ。とはいえ、これはこの激動の時代だからこそ三者とも激しく熱い愛を持って相手のことも納得できるが平和時であれば逆に成り立たないものではないだろうかねえ。ユーリがあの状況を越えてきたことを憐れむからこその許容であると思うが。
ユーリだけでなくコマロフスキー、パーシャ=ストレルニコフ、ユーリの兄からも愛されることになる美しいラーラを演じたのがジュリー・クリスティ。金髪と青い目がとても清純でありながらコマロフスキーが母と関係のある男と知りながら彼の手に落ちてしまう。この悪党もラーラを侮蔑する言葉を言いながら彼女を助けようとするのはやはり彼女の美しさを認めていたからなのだろうが。
彼女とは対照的にユーリだけを愛し家庭的な女性として描かれるのがトーニャ。演じるのはジェラルディン・チャップリン。ホントはもっと複雑な心境だったと思うのだが。ユーリの優しさと美貌は捨てがたいよねー。
ラーラの友人として登場し彼女の夫となるパーシャ。ロシア革命の為にその情熱を捧げる。丸眼鏡に顔の深い傷。そしてその表情もいかにも革命の闘士といった面持ちである。トム・コートネイが演じている。ちょっとかっこいいんだよね。
そして悪党、ヴィクター・コマロフスキー。ユーリが受け継ぐはずの父の財産を横取りしたり、ラーラの母とラーラを同時に騙して肉体関係を弄び、口汚く罵って捨てる。かと思えばそんなラーラを心配して遥かなる大地を渡って助けにきたり、かと思えばラーラとユーリの娘カーチャを騒乱の中で手放して行方知れずにしてしまったり(わざとなのかよく判らない)というとんでもない薄汚い輩なのだが、そのくせあちこちに人脈を持つ。つまりこの物語をあらゆる場面でかき回しているのがこの男なのだ。演じているのがロッド・スタイガー。彼なしでこのドラマの面白さはあり得ない。
謎の人物エフグラフ。ユーリの兄でありボルシェビキの幹部でもある。物語はまず彼の登場から始まる。彼は亡くなった弟とラーラの遺児を探しているのだ。極東の地ではぐれてしまった娘トーニャに伯父として出会いたいと望んでいるのだった。
彼はこの冒頭と最後の場面のみ言葉を話す。途中何度か弟ユーリと出会うシーンがあるのだが、全く会話をしない、という演出になっている。
この演出はむしろ不自然にすら感じるのだが、同時にその為非常に印象的な人物として意識させられる。愛にあふれた豊かな感情の持ち主ユーリと対照的に兄エフグラフを冷徹なボルシェビキとして印象付けるために血の通う会話を一切させなかったのだろう。(とはいえ、彼は弟に同情し助けの手をのべているのだから冷酷には見えない)時間が経過し弟の娘が行方知れずになっているのを探し保護したいと思う彼はもう人間的に会話をするのである。

裕福なのユーリとトーニャの家庭。ユーリは医師であり有名な詩人でもある。ラーラの母娘はまずまずの家庭だが裕福なコマロフスキーの支援を望んでいる。パーシャは貧しい出で苦学生である。
そんな彼らがロシア革命という時代の中で生き方も存在も何もかもが変わっていく。豊かだったユーリたちは大きな屋敷も家具も平等に分けていくという共産主義にすべてを奪われていく。
医療で知り合ったユーリとラーラは互いに惹かれあう。ラーラと別れたユーリは家族と安全を求めての遠い地への旅、そしてユーリは馬賊に捕えられ家族と離れ離れになる。
凍りつく大地を歩き続けるユーリ。ラーラとの再会。そしてまた別れが。
裕福な育ちのユーリは決してロシア革命を望んでいるわけではなくただ医療と詩作に熱心で妻思いの家庭人なのだ。そんな彼がラーラとの許されないはずの愛に落ちたのも時代のせいだったのだろうか。
そしてまた時が過ぎ成長した彼らの娘がユーリの兄によって見出される。父母の記憶を何も持っていない彼女は突然のエフグラフの申し出に戸惑う。これという確かな証拠は何もないのだ。
だが最後にエフグラフはトーニャがバラライカを背負うのを見る。エフグラフたちの母はバラライカの達人であったのだ。「血筋は争えない」と彼はつぶやくのだった。

作品中繰り返し流れるバラライカが奏でる『ラーラのテーマ』そして親子のつながりを感じさせるバラライカが時代の証人であるかのように絶えず画面に登場するのだ。

監督:デビッド・リーン 出演:オマー・シャリフ ジュリー・クリスティ トム・コートネイ アレック・ギネス ジェラルディン・チャップリン リタ・トゥシンハム ロッド・スタイガー エイドリアン・コリ イングリット・ピット シオバン・マッケンナ
1965年 / アメリカ/イタリア
posted by フェイユイ at 23:09| Comment(2) | TrackBack(0) | 欧州 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

映画ランキングのいろいろ

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先日見たニュースでこういうのがあった。

「イギリス映画トップ25」を、英ガーディアン紙が発表!

1984年以降にリリースされた最近25年間公開の映画、ということで私が映画をまったく観れなかった時期とほぼ重なっているので(前と後の若干年だけが観てた)知らないのが当然なのだが本当に知らない作品ばかり。と言ってもこの数年色々観れるものは観てきたが、あれ、結構いい作品が外れているような。

1.「トレインスポッティング」(D・ボイル、96)
2.「ウイズネイルと僕」(B・ロビンソン、87)
3.「秘密と嘘」(M・リー、96)
4.「遠い声、静かな暮し」(T・デイビス、88)
5.「マイ・ビューティフル・ランドレット」(S・フリアーズ、85)
6.「ニル・バイ・マウス」(G・オールドマン、97)
7.「セクシー・ビースト」(J・グレイザー、00)
8.「ボクと空と麦畑」(L・ラムジー、99)
9.「スラムドッグ$ミリオネア」(D・ボイル、08)
10.「フォー・ウェディング」(M・ニューウェル、94)
11.「運命を分けたザイル」(K・マクドナルド、03)
12.「戦場の小さな天使たち」(J・ブアマン、87)
13.「コントロール」(A・コービン、07)
14.「ネイキッド」(M・リー、93)
15.「アンダー・ザ・スキン」(C・アドラー、97)
16.「Hunger」(S・マックィーン、08)
17.「THIS IS ENGLAND」(S・メドウス、06)
18.「ショーン・オブ・ザ・デッド」(E・ライト、04)
19.「Dead Man's Shoes」(S・メドウス、04)
20.「Red Road」(A・アーノルド、04)
21.「リフ・ラフ」(K・ローチ、91)
22.「マン・オン・ワイヤー」(J・マーシュ、08)
23.「マイ・サマー・オブ・ラブ」(P・パブリコフスキー、04)
24.「24アワー・パーティ・ピープル」(M・ウィンターボトム、02)
25.「イングリッシュ・ペイシェント」(A・ミンゲラ、96)

第1位は私はそうでもなかったんだけど確かに評価されるのは判る。2位のタイトルは聞いたことがあって私も観たかったんだけどまだ観れてない。
後、観たのは5.「マイ・ビューティフル・ランドレット」(S・フリアーズ、85)25.「イングリッシュ・ペイシェント」(A・ミンゲラ、96)だけである。とほほ。3つしか観たことない。
え、だってそれじゃ、ケン・ローチ『麦の穂をゆらす風』とか大好きな『スイート・シックスティーン』だとか、ポール・グリーングラス『ブラディ・サンデー』ニール・ジョーダン『プルートで朝食を』テリー・ギリアム『未来世紀ブラジル』なんかは駄目なんだ。『フルモンティ』『キンキー・ブーツ』ベンの『情愛と友情』もダメ?『スナッチ』『007』シリーズ『クイーン』?
ガーディアン紙というのの色もあるんだろうけどなんだか不思議な選択でもある。他にもなんかなかったか?

英エンパイア誌が「落ち込む映画」ランキングを発表というのもあった。
1.「レクイエム・フォー・ドリーム」(00)
2.「ひとりぼっちの青春」(69)
3.「リービング・ラスベガス」(95)
4.「道」(54)
5.「21グラム」(03)
6.「火垂るの墓」(88)
7.「ダンサー・イン・ザ・ダーク」(00)
8.「冬の光」(62)
9.「リリア 4-ever」(02)
10.「ミリオンダラー・ベイビー」(04)

1位のはミッキー・ロークの『レスラー』なのね。こちらも6.「火垂るの墓」(88)7.「ダンサー・イン・ザ・ダーク」(00)10.「ミリオンダラー・ベイビー」(04)の3つしか観てない。
これは確かに、って気はするがでも落ち込む映画って結局自分にとってむかつく映画が落ち込むのでよくできていればそう落ち込まない気もするが。何この馬鹿馬鹿しい考え方、とかいうのが一番落ち込む。

 米エンターテインメント・ウィークリー誌が、史上最高(最悪)の悪役キャラクター20人を発表した
これは楽しい。「本当に最悪なのは・・」とかあまり深読みするんじゃなく。

1.西の邪悪な魔女(マーガレット・ハミルトン)/「オズの魔法使い」
2.ダース・ベイダー/「スター・ウォーズ」
3.ハンニバル・レクター(アンソニー・ホプキンス)/「羊たちの沈黙」
4.ジョーカー(ヒース・レジャー)/「ダークナイト」
5.アレックス・デラージ(マルコム・マクダウェル)/「時計じかけのオレンジ」
6.バーンズ社長/「ザ・シンプソンズ」
7.キャサリン・トラメル(シャロン・ストーン)/「氷の微笑」
8.ヴォルデモート(レイフ・ファインズ)/「ハリー・ポッターと炎のゴブレット」
9.ドラキュラ(ベラ・ルゴシ)/「魔人ドラキュラ」
10.ラチェッド婦長(ルイーズ・フレッチャー)/「カッコーの巣の上で」
11.J・R・ユーイング(ラリー・ハグマン)/「ダラス」
12.ノーマン・ベイツ(アンソニー・パーキンス)/「サイコ」
13.フランク・ブース(デニス・ホッパー)/「ブルーベルベット」
14.アニー・ウィルクス(キャシー・ベイツ)/「ミザリー」
15.女王/「白雪姫」
16.ハンス・グルーバー(アラン・リックマン)/「ダイ・ハード」
17.マイケル・マイヤーズ/「ハロウィン」
18.ゴードン・ゲッコー(マイケル・ダグラス)/「ウォール街」
19.アレックス・フォレスト(グレン・クローズ)/「危険な情事」
20.ジャック・トランス(ジャック・ニコルソン)/「シャイニング」

うーむ。これはほとんど判るというのは。やはり私もアメリカのほうが理解しやすいのね。
1.西の邪悪な魔女っていうのはいいね。私は小説でしか知らないが、確かに。
2.ダース・ベイダー/「スター・ウォーズ」
3.ハンニバル・レクター(アンソニー・ホプキンス)/「羊たちの沈黙」
4.ジョーカー(ヒース・レジャー)/「ダークナイト」
5.アレックス・デラージ(マルコム・マクダウェル)/「時計じかけのオレンジ」
文句なし。ははは。レクター博士は絶対です。マルコム入ってます(笑)

6.バーンズ社長/「ザ・シンプソンズ」ッ(笑)受ける〜。
10.ラチェッド婦長(ルイーズ・フレッチャー)/「カッコーの巣の上で」おお!根強い人気。怖いもんねー。
11.J・R・ユーイング(ラリー・ハグマン)/「ダラス」
「JRは悪い奴だ!」(笑)
12.ノーマン・ベイツ(アンソニー・パーキンス)/「サイコ」
悪い奴っていうかかわいそうな奴なんだけど。

13.フランク・ブース(デニス・ホッパー)/「ブルーベルベット」
デニスいいね。やっぱり入れてほしい。
14.アニー・ウィルクス(キャシー・ベイツ)/「ミザリー」
怖ーい。怖い怖い。
15.女王/「白雪姫」
日本で言うなら「舌切雀」のおばあさんとか。
20.ジャック・トランス(ジャック・ニコルソン)/「シャイニング」ジャックも入ってます。あの笑顔が怖い。

英エンパイア誌が「史上最高の映画キャラクター100人」を発表。第1位は?
ちょっと前のだけど。もう何が何だかよくわかんない。この時のブラピはかっこよかったっす。
以下、あれ悪い奴とかぶってないか。みんな悪い奴になりたいんだねー。
1位 タイラー・ダーデン:ブラッド・ピット/「ファイト・クラブ」
2位 ダース・ベイダー:デビッド・プラウズ、ジェームズ・アール・ジョーンズ(声)/「スター・ウォーズ」シリーズ
3位 ジョーカー:ヒース・レジャー/「ダークナイト」
4位 ハン・ソロ:ハリソン・フォード/「スター・ウォーズ」シリーズ
5位 ハンニバル・レクター:アンソニー・ホプキンス/「ハンニバル」シリーズ
6位 インディアナ・ジョーンズ:ハリソン・フォード/「レイダース/失われた聖櫃《アーク》」
7位 ザ・デュード:ジェフ・ブリッジス/「ビッグ・リボウスキ」
8位 ジャック・スパロウ:ジョニー・デップ/「パイレーツ・オブ・カリビアン」シリーズ
9位 エレン・リプリー:シガニー・ウィーバー/「エイリアン」シリーズ
10位 ドン・ビトー・コルレオーネ:マーロン・ブランド/「ゴッドファーザー」
11位 ジェームズ・ボンド:ショーン・コネリー/「007/ゴールドフィンガー」
12位 ジョン・マクレーン:ブルース・ウィリス/「ダイ・ハード」シリーズ
13位 ゴラム:アンディ・サーキス/「ロード・オブ・ザ・リング」シリーズ
14位 ターミネーター:アーノルド・シュワルツェネッガー/「ターミネーター」
15位 フェリス・ビューラー:マシュー・ブロデリック/「フェリスはある朝突然に」
16位 ネオ:キアヌ・リーブス/「マトリックス」
17位 ハンス・グルーバー:アラン・リックマン/「ダイ・ハード」
18位 トラビス・ビックル:ロバート・デ・ニーロ/「タクシードライバー」
19位 ジュールス・ウィンフィールド:サミュエル・L・ジャクソン/「パルプ・フィクション」
20位 フォレスト・ガンプ:トム・ハンクス/「フォレスト・ガンプ/一期一会」

まー、なんだかよく判んないけどこういうの見てぶつぶつ考えるのは楽しいものです。
ラベル:映画
posted by フェイユイ at 00:55| Comment(2) | TrackBack(0) | 欧州 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年08月26日

『ルー・サロメ/善悪の彼岸』リリアーナ・カヴァーニ

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Al di la/ del bene e del male

こういう映画があったとはまったく知らなんだ。DISCASでリリアーナ・カヴァーニで検索してもいかなる仕組みになってるのか出てこないの。どういうわけか判らないけど偶然出てきたのでここで逃したらもう捕まえられないと慌ててチェックした。(なのであそこで探そうと思ってる人は問い合わせたがいいかも)

19世紀末期固い道徳観に縛られている社会に反抗するかのように自由に生きたいと願う3人の男女の出会いがあった。
美しく聡明なルー・サロメは壮年の知識人フリッツと彼を尊敬する若きパル・レー、二人の男性を強く惹きつけるのだった。

実はこの作品の途中でフリッツが「ニーチェ」と呼ばれるまで何の物語はさっぱり判らず観ていた。
この道徳で固まったヨーロッパ社会で自由を気取る3人の男女の話と思って観てたら超人ニーチェだったのでひっくり返った。物事を知らないのは恥ずかしいことだ。
無論、ルー・サロメ(ザロメ)、パウル・レーらも実在の人物とは知らず眺めていたわけで。

ルーを演じるドミニク・サンダが素晴らしく美しく魅力的だ。旧弊な女性の生き方に反感を持つ彼女は裕福なユダヤ女性で後にフロイトに師事したとも書かれているのだから相当な知識人であり、また奔放な女性だったのだろう。写真で観ても確かに美女で男たちが参ったのも頷ける。
自由な思想を持つルー・サロメがすべての束縛を嫌って二人の男だけでなく後に結婚することになるカールや若い男の子たちとも遊んでいるのにもかかわらず男たちがぞっこんになってしまう、というところまでは他にもある物語かもしれないが、監督はリリアーナ・カヴァーニであちらこちらでとんでもない映像が入り込みそれが進むにつれて過激になっていく。
ニーチェがゲイだということも知らなかったのでルー・サロメに求愛するフリッツ=ニーチェが次第にゲイに変換していくのであれれれと思ってたらもう一人のパウルもゲイで死後霊媒師に呼ばれ「実は女になりたかった」とカミングアウトする。幽霊になって告白させられ貴婦人に「恥知らず!」と罵られるなんてあんまり可哀そうだ。

確かに最初からパウルとルーがイタリアの街を歩いているとゲイの男たちが乱交している場面にでっくわすのだから、物語がそういう方向へ進むのも予見できたろうが。
ルーにふられ、ニーチェは次第に狂気の世界へ入っていく。彼が存在するはずのない全裸の悪魔(?)と男が部屋の中で妖しいバレエを踊るのを恐怖の中で見ている場面は圧巻である。またこれも妄想の中でルーと悪魔(?)が若い男の胸を切り裂くのを見るのだが実は自分が髭を剃りながら自分自身を切って血だらけになっていたのだ。
馬に話しかけてぶっ倒れるシーンもあって彼は完全に狂人になってしまう。
パウル・レーもルーと別れ貧しい人々の医者となるが、彼もまた妄想の世界へ入ってしまい、ならず者の男たちに暴行されるが彼の妄想ではもと淫らに鉄塔につながれレイプされまくるのだが、これが彼の願望だったということになるのか。
3人とも実在の人物なのにここまででいるのか、と思ってしまう(外国人だから?)

まったく知りもせず、偶然の出会いだったのだがとんでもない作品もあったものだ。
リリアーナ・カヴァーニ素晴らしい。

監督:リリアーナ・カヴァーニ 出演:ドミニク・サンダ エルランド・ヨセフソン ロバート・パウエル 
1977年イタリア/フランス/ドイツ
ラベル:思想
posted by フェイユイ at 23:20| Comment(2) | TrackBack(0) | 欧州 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年08月23日

『リプリーズ・ゲーム』リリアーナ・カヴァーニ

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RIPLEY'S GAME/IL GIOCO DI RIPLEY

ベン・ウィショーがパトリシア・ハイスミスが好きだというのでこの映画を思い出そうとしたのだが、困ったことに記憶がない、んでもう一度観ることにした。
ほんの少し前に観たものなのに、忘れてるくらいなので実をいうとあまりよく理解しておらずつまりそれほど面白さが判ってなかったんだろう。以前の記事でどう書いたのか覚えてもないし見返してはいないのだが違いない。

で、今回観なおして、これは面白い!と感嘆しましたねえ。

ハイスミスの小説もそうだけどなかなかすんなり飲み込めない独特の味わいがあるんだけど、これもそう。
以前観た時はマルコビッチが演じたトム・リプリーがいまいちよく判らなかった。マルコビッチは大好きなんだけど、何せトム・リプリーというとアラン・ドロンかマット・デイモンが演じた彼のイメージしかないのに全く違う大人の男なのである。
マットが演じたおどおどとしたリプリーの姿はなく何が起きても誰が来ても微塵も動じないクールに徹した男。
すでに結婚し郊外の豪奢な邸宅に住んでいる。妻は美しいハープシコード奏者で彼自身も巧みに弾きこなす。料理も上手く妻を愛し尽くしている。メイドのおばさまにも好かれ何をやってもそつがない。
しかし彼には隠された一面があり、画商にスケッチを高額で売り込み反抗されれば顔色一つ変えず殺害してしまう。
ヨーロッパに住むアメリカ人で優雅な紳士でありながら冷酷な殺人者であり犯罪を犯すことに何のためらいもない。
そんなトム・リプリーのあるエピソードをリリアナ・カヴァーニ監督とマルコビッチが静かな冷たい空気の中でひっそりと行われる犯罪を描きだした、という作品なのである。
そしてこれに一人の純朴な一般人が巻き込まれてしまうのだ。
それというのもドイツの美しい邸宅に移り住んだトムがアメリカ人なのを低俗だと馬鹿にしたからなのだが。
この作品の中でトムが何故ここまでジョナサンを追い詰めるのか明言されてはいないのだが、私としてはトムが同性愛者であることが作用しているのでは、と感じてしまう。
というのはトムは会った時からジョナサンが気に入ってしまって、だからこそパーティにも顔を出したのに「低俗だ」と陰口を言われているのを聞いてしまった。プライドの高いトムとしては二重に屈辱だったのだ。好きだと思ったからこそ。なので何の汚点もない純朴なジョナサンを自分と同じ犯罪者へと突き落とし、おろおろと慌てふためく姿をみて溜飲を下げたのだろう。ただ好意を持っていたからこそ彼があまりに打ちのめされてしまうのを見て助けに入る。
ジョナサン自身は多分トムの悪口のこともあまり意識せずに言ってしまっていたのかもしれない(イギリス人の性格だ、という説明がある)
トムのせいでジョナサンは体験しなくてもいい残酷な経験をしていくのだが自分を助けに来てくれたトムに対し今度は自ら危険を承知で助けにいく。そして敵に撃たれそうになるトムをかばって死んでしまうのだ。
この行動はジョナサンがトムに奇妙な友情というかもう離れられないつながりを持ってしまったことも意味しているし、余命もしれない自分の病気と妻に犯罪を見られたことでもう生きていく気持ちが薄れてしまったことなどが絡み合っているのではないだろうか。
リプリーもまた自分をかばって逝ってしまった奇妙な関係の友人を記憶に留めることになるのだ。

大げさに目立つ犯行ではなくまるでひっそりと日常の中で誰も知らず誰からも予測されないような人間の恐ろしい犯罪と凶行。
そんな血塗られた犯行を綱渡りのように鋭い緊張感と静けさの中で行ったトムは直後にコンサートを開催する妻へ牡丹の花を5ケース贈ることを忘れない。
コンサートホールで妻が奏でるハープシコードの美しい調べを聞きながらトムは束の間の友人の姿を思い出すのだった。

2回目観てやっとこの味が判ったのだった。
それにしても
マルコビッチのトム・リプリーのかっこよさといったら。
外見は確かに原作の美貌のトムとは違うのだろうが、そんなことは全く関係ない。
妻に対する扱いが昔風の保護者的な男性のそれなのだが、それもまた大人びて素敵なのである。
リリアナ・カヴァーニとマルコビッチでリプリーシリーズもっとやって欲しいのだが、さすがにもう無理かな。

マルコビッチって本当に不思議な魅力の人であの目が物凄く怖い。ほんとに変な人に思える。
初めて認識した時(『太陽の帝国』)から髪が薄いのだが、彼の場合それがまた不気味に魅力になってしまうのだ。

監督:リリアーナ・カヴァーニ 出演:ジョン・マルコビッチ ダグレイ スコット レイ・ウィンストン レナ・ヘディ キアラ・カゼッリ
2002年 / アメリカ/イギリス/イタリア
ラベル:犯罪
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2009年08月20日

『フェリーニのローマ』フェデリコ・フェリーニ

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ROMA

フェリーニの映画はかじるほどしか観ていないのだけれど、この作品の桁外れの面白さにはすっかり参ってしまった。

邦題どおりこれは「フェリーニの」『ローマ』であり、それは彼が子供時代から青年期に味わったかつてのローマなのだ。なので現代(70年代)の若者たちは男も女も同じ格好をして何の衒いもなく抱きあう輩として表わされ、昼間たむろしているか夜中に遺跡や美しい建造物の間を暴走する集団として十把一絡げに描かれている。

フェリーニが愛するローマとその人々は下品なほど騒々しいが皆知り合いだというように声をかけ外にテーブルを広げて美味そうなパスタをかっくらう。子供がはしたないことを大声に出してもげらげら笑う鷹揚さがあって心からくつろいで人生を楽しんでいるような人々である。

それにしてもこれはすべて現実なのだろうか、それともフェリーニの幻想の世界なのだろうか。
素人の歌謡ショーみたいな会場で野次を飛ばす男たち、売春宿には次々と現れる女たちと品定めする男たちで熱気に溢れている。教会では奇怪なファッションショーが行われ司祭やシスターの異様な服装を見せられる。
ゴア・ヴィダルが「ローマは無干渉だから好きだ」と言っているが確かに自由だけれど絶対に黙ってはおれないのだ。

フェリーニ独特の巨大な女性たち、いつも喧しい音に満ちていて、美味そうな食事とワイン、好色な男と女、歴史的建造物の荘厳な美しさの中でごちゃごちゃとした人々の生活ぶりを観ているのが楽しい。

監督:フェデリコ・フェリーニ 出演:: ピーター・ゴンザレス ブリッタ・バーンズ ピア・デ・ドーゼス フィオナ・フローレンス アンナ・マニャーニ
1972年 / イタリア
posted by フェイユイ at 00:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 欧州 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年08月13日

『地獄に堕ちた勇者ども』ルキノ・ヴィスコンティ

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La Caduta degli dei:The Damned

こういう映画を観ると一体映画って何だろう、などと今更ながらなことを考えてしまう。これを観てストーリーがどうだとかクライマックスがどこだとかテーマだとかモラルだとかそういうことだけを明確に伝達している作品など何の意味もないようにすら思えてくる。
一体何がどうだというのだろう。無論この作品と時代背景などを仔細に考慮して深淵に追及していくことも悪いことではないだろうが、それがさほど重要なことではないのではないか。映画には正確な答案など無意味だという気がしてくるのだ。

この映画を観てまず皆思うのは「退廃美」という言葉であってもうそれだけで充分なのだろう。
つまりこの時代と貴族階級に退廃を観るのではなく、退廃を描く為にこの時代と貴族たちであるのだろうから。

登場してくる人物造形が素晴らしくて、いやもうどの人を観ても唸ってしまうのだが、まずはヘルムート・バーガーの美しさを今やっと知ったかのような気がした。昔観た時は確かに美形だろうけど、どこか腐ってしまったような顔立ちだと思ってたのだが(ファンの人、すまん)今観るとこんな美しい顔ってあるんだと物凄く遅れて見惚れてしまうのだから、情けない。自分が若いせいでよく判ってなかったんだろうが、慄いてしまうような若さが溢れた美貌で彼の顔が画面にある度にヴィスコンティ監督がいかにこの美しさを刻んでおこうかと願っているかのように感じられてしまうのだ。少女を愛する顔も母親に甘えそして憎しみを持ち表情もあまりに甘美ではないか。ディートリヒに扮した女装した姿もいかにも貴族の青年らしい上品で気取った仕草物腰と脆弱な行動も突然なりきってしまうコスチューム的なナチス軍服もヴィスコンティが彼に演じて欲しいがための一連の物語と演出に過ぎないのにここまで作り上げてしまうのはやはり貴族的な傲慢さと贅沢なのだろうか。

ユダヤ人少女の幼いのに不思議な色香を感じさせるまなざし。突撃隊兵士たちの放埓な馬鹿騒ぎの中にいる兵士たちの完璧な若々しさと肉体美。アッシェンバッハのうすら笑いとともに行われる陰謀の数々。翻弄される若者ギュンターの動揺。権力を欲し権力によって抹殺されるフリードリヒ(平民ということで自己卑下しているが大王の名前というのは皮肉?ニーチェの名前でもある?)そして息子マルティンの精神と人生を歪ませてしまう破壊的な威力を持つ母親ソフィーをイングリッド・チューリンが演じている。
観る者はそうした大きな権力を持つ上流階級の美しく彩られているが腐敗した精神によって行われる様々な行為に危険な味と匂いを感じながらそれに酔い痴れてしまう自分をまた恐れるだろうか。

この映画で知るのは教訓でも美談でもなくいかがわしい欲望によって成立している世界に憧れてしまう自分ということなのか。例え道に外れたことであっても美しいと感じてしまうものに陶酔してしまうのが人間というもの少なくとも自分がそうなのだと気づいてしまうのだ。

まあそういうこともこの年になれば重々判ってはいるのだが。

ここまで重厚な耽美に酔わせてくれる作品というのも今ではあまり望めないものになってしまったようだ。こうした素晴らしい作品を観て暫しその世界に浸れることが喜びである。

監督:ルキノ・ヴィスコンティ 出演: ダーク・ボガード ヘルムート・バーガー シャーロット・ランプリング イングリッド・チューリン ウンベルト・オルシーニ
1969年 / イタリア/西ドイツ/スイス


ラベル:退廃美 歴史
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2009年08月11日

『サロン・キティ』ティント・ブラス

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Salon Kitty

先日観た『カリギュラ』同様この作品もポルノ映画に属されているようなのだが、確かに本作は冒頭部分にはグロテスクな映像とともに性的描写が続くのだが、次第にエロチックではあるが単なるポルノとは言い難いような不思議なニュアンスを帯びてくる。

それは本作のヒロインであるマルガリータを演じるテレサ・アン・サヴォイの存在のせいだろうか。
『カリギュラ』ではその妹ドルシラを演じて兄と性的な関係を持ちながら毅然とした態度を持ち続け、真にカリギュラを理解し愛し続ける不思議な存在だったが、ここでも彼女の演じる女性は同じような精神性を持ちまた外見はきつく髪をゆっていたドルシラの時に比べ金色の髪を豊かに波打たせているこちらでの彼女がはまだ少女のようにも見えて売春婦として体を売りながら清らかな処女のようにも見えるのだ。

ヘルムート・バーガーがナチス将校を演じ、イングリッド・チューリンがタイトルロールとして『サロン・キティ』の女主人を演じる本作は『地獄に堕ちた勇者ども』のパロディでもあるのだろうが本作にも低俗のように見えて、しかしこれが実際本性かもしれない、とも思わせられる。
近々そちらとさらに『愛の嵐』も再観してみようかと思う。

冒頭の豚屠殺場面は惨たらしく見えるがこの場面でその後のナチスの行為を暗示しているのだろう。
また、国家社会主義労働党の強い支持者である美しいアーリア人の女性たちが売春婦の館で奉仕する、という内容の是非は知らないがナチスが様々な「製作」を行っていたのは確かだろう。私は観れなかったのだがNHK/BS『金髪のヨハネス・ナチにさらわれた子どもたち』の話からも本作の内容より常軌を逸したことが行われていたのだから。

さて本作ではテレサ・アン・サヴォイを堪能できたがヘルムート鑑賞としてはやや物足りないかもしれない。彼の危うい魅力がテレサの影に隠れてしまったかのようだ。
やはり彼を観る為なら『地獄に堕ちた勇者ども』の危険なヘルムートをもう一度観てみたい。

監督:ティント・ブラス 出演:ヘルムート・バーガー イングリッド・チューリン テレサ・アン・サヴォイ ティナ・オーモン ジョン・アイアランド
1976年 / イタリア/フランス/西ドイツ
しかしこの映画をイタリア/フランス/ドイツ共作でよく作れるものだ。
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2009年08月06日

『オーロラ』ニルス・ダヴェルニエ

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AURORE

表紙絵があまりにロマンチックすぎるのと他の評価がさほど芳しくないようなので殆ど期待せず、というかちょっと高を括って観てしまったのだが、意外にも始まった途端入り込んでしまって王女と画家の踊りの場面では涙が溢れて止まらなくなるほど感銘を受けてしまった。この映画で泣く人いるのかなあ。ちょっと没頭しすぎか。

いかにも童話めいた物語で単純な進行なのだが、そのシンプルさゆえか、16歳の王女と若い画家の純粋な愛に他にないほど切ないものを感じてしまったのだよ。
童話というのは大概現実の物語を架空の設定に置き換えて表現しているというものだが、父王は「踊ってはならない」と国の掟を定め、娘のオーロラ姫にも「踊ること」を禁じている。
(これはあのオーロラ姫つまり「眠れる森の美女」という童話もまた自由を束縛された王女=少女を眠りという表現で表わしていたのに通じるのだと思うが)
とはいえかつてオーロラの母である妃もその美しさと踊りの巧みさで王の心を射止めたのだが。結婚と同時に王は妃に踊ることを禁じ、そして、王女である娘にもまかりならんと命令する。
これはもう単に女性が自由に行動することを意味しているわけで妃は愛する王の為に自由=踊りを捨てるわけだ。だが娘オーロラが妃の血を受け継いでやはり美しく踊るのを見て妃は娘には絶対踊らせてやりたい=自由であって欲しい、と願うのだが。
父王が禁止しながら娘が踊っているのを望遠鏡で覗いてるのはどうも危ない行為にしか思えんが、父親というものは危ういと思いながらも娘が美しく大人になっていくのを覗いてみているというものなのである。
だがそれが公になるのは気に入らんという独占欲にかられてしまう。
だが、側近の「財政難を救う為に王女に金持ちの王子と結婚してもらわないといけません」という言葉で渋々王女の結婚相手を探す為に舞踏会を開くことにする。
国の掟として「踊りを踊ってはならない」と定めているのに舞踏会を開く、というのはどういうことなのか。これもまあ不純異性交遊はならんが結婚相手を探すのはまた別のこと、っていうことで。
実は側近は国の財産をどうやら横領しているようで、なおかつ国は財政難だとして金持ちの王子との縁談を勧め、3度の舞踏会を開く。
(私としては一人ずつ呼ばず一斉にたくさん呼んで姫に選ばせてもよさそうなもんなのに、と思ったのだが。これもまあお見合いの意味を持ってるんだろう。いくらなんでも多数の男性とのお見合いってはないもんね)
アラビア、日本、ヨーロッパの王子の誰もオーロラを惹きつけない。怒った王子たちは帰ってしまった。
実はオーロラはそのお見合いの為の肖像画を描く若い画家に心惹かれていたのだ。少しずつ。
初々しい美しさを持つオーロラに画家は恋をする。その見つめるまなざしにオーロラも次第に惹かれていくのだ。
画家の描いた自分の肖像画を見て「本人より美しく描くのね」とオーロラが言うと画家は「いい鏡をお持ちでないようですね」と答える。オーロラは着ていた重々しいドレスをするりと脱いで下着姿になり「美しい私はこれよ」と言って踊りだす。
肖像画を描かせる為にじっと動かない彼女ではなく自由に美しく踊るオーロラに画家は我を忘れて見惚れてしまう。
オーロラはそんな画家に自分の美しさを見せつけるように優雅に踊るのだ。
この場面がまず見事で明るい日差しの中貧しげな画家と美しいが重苦しいドレスを着こんだ王女オーロラがその服を脱ぎ捨て踊りだす瞬間のなんという軽やかなことか。
様子を見守っていた、オーロラの弟である王子は二人の間に恋を感じて居たたまれず飛び出していく。
下着姿、と言ってもそれがまあ今のバレエの稽古着みたいなデザインなのだがオーロラのほっそりしたからだと若々しく跳ね上がったお尻のラインが艶めかしい。
途中、母妃が側近の悪だくみで毒を含ませられ死んでしまうのだが、形見となったトウシューズを履いて画家の前で踊る場面で泣けてしまったのは一体何故なんだろう。トウシューズを履いた脚でゆらゆらと体を揺らしながら画家の方へと近づいていく。画家はもうオーロラの美しさに囚われたように動くこともできない。
オーロラの自由になることの許されない運命と限られた短い間の儚い美しさ。彼女の美しさは確かに若いからこその危ういものだから感じる美しさなのだろう。(もっと年を取ればどっかと肝の座った貫禄がついてしまうのだろうが)

果たして二人の許されない恋は見つかり、引き離され、オーロラは閉じ込められ、画家は逃走した後殺されてしまう。

オーロラは母妃の言葉を思い出す「悲しい時も踊れば雲の上に行ける」そしてオーロラは雲の上で愛する画家と踊ることができた。だが母との約束で弟王子を見捨てられず戻ってくる。
弟王子は画家を目指して放浪に出る。
オーロラはもう地上に戻ることもなく雲の上へと舞い上がっていく。

愛を全うしたオーロラと画家の悲恋物語。書いてるだけで涙がこぼれてしょうがないんだけど、そんなに泣かなくてもいいのに何がこんなに悲しくなってしまうんだろ。
ただもうオーロラの美しさと画家の一途な愛に参ってしまったのか。

弟王子が物凄く可愛いのだ。オーロラって父からも危ない愛情、母からも愛され弟はしっかりシスコン。悪い側近からも狙われててみんなから愛された存在なのだ。いいにしろ悪いにしろ彼女を嫌っている人は一人もいない。

日本の王子の登場はちょっと驚いた。殿様髷じゃなくてよかったかも。披露する踊りがまたおっかないんだけど、その国のイメージというのをこれも表現しているんだけど、明らかに閉じ込められて身動きできない女性と彼女を押さえつける恐ろしい男たち、ってイメージだった。判るけど、今の日本はそれほどでもない?フランス人から似ればまだまだ束縛されてるのかな(当人が気づいてなくてどうする。まあ、私も束縛されてるか)
王子がしっかり「従順な姫でないと」って言ってるしオーロラも酷い王子だったって。

監督:ニルス・ダヴェルニエ 出演: マルゴ・シャトリエ ニコラ・ル・リッシュ キャロル・ブーケ フランソワ・ベルレアン カデル・ベラルビ
2006年フランス
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2009年08月03日

『ヒストリーボーイズ』ニコラス・ハイトナー

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THE HISTORY BOYS

先日観た『センターステージ』がとても好きな作品だったので今まで全く意識したことのなかったニコラス・ハイトナー監督作品に手を伸ばしてみた。いやあ、もう何故今まで観ようと思わなかったのかね?いつもながら自分の目配りの悪さにがっくりしてしまうのだが、とにかくこれはもう素敵な作品だった。

イギリス・シェフィールドのグラマースクール生である8人の少年たち。進学クラスにいる彼らは校長からも「ケンブリッジを目指せ」と励まされ彼らも合格する為に日夜努力を続けている優秀な生徒たちなのだ。
だが校長は彼らには教える教師たちの力不足で優雅さがないと不安を持っている。そこで彼が急遽教師として迎え入れたのがオックスフォード大学卒の若手男性教師アーウィンであった。
それまで少年たちに教養を学ばせていた老教師へクターは入学試験とは無縁な文学・詩果ては映画の一場面を演じさせたり歌わせたりといった具合。でっぷりと太った体格で憎めないが実は妻帯者であるにも拘らずゲイで生徒たちをバイクのタンデムに乗せては股間を触ることを楽しみにしている(優等生諸君はそんな彼の趣味を甘んじて受けている、というのがさすが優秀な頭脳のせいか)という困った人物でもある。
一方アーウィンはケンブリッジ合格に必要な機知を生徒たちに学ばせる。優秀な彼らはみるみるアーウィンの変化に満ちてスピーディで含みのある教え方に刺激を受けていく。
古い型の教師へクターと最新式といったアーウィンの教育のどちらもとても面白いところがいい。つまりこれはどちらかが正しいというのではなくどちらも必要なのだ。少年たちもアーウィンに惹かれつつもへクターの教えも利用していくのがそつがない。
そして実はアーウィンもゲイだったのだ。

8人の少年たちも様々でとても魅力的なのである。この映画は元々舞台でトニー賞を取ったものらしい。しかもキャストはそのままであるというのが驚きだ。
一番目立っているのがドミニク・クーパー演じるデイキン。ちょっとディカプリオを若くして黒髪にしたようなハンサムで勝気な表情が可愛らしい。ストレートにも関わらずゲイのポズナーが近づくのも構わないし、へクターにはサービスだといわんばかりに触らせ、アーウィンの頭の良さにすっかり参って「彼とならやってもいい」と不敵な笑顔を見せる豪放な男なのである(少なくともぶってる)そんな彼に思いを寄せる同級生ポズナー。ユダヤ人でちびで(そんなこともないが)ゲイでどうしようもない、と嘆く。デイキンに並ぶ優秀な頭脳を持っている。デイキンが嫌がらないせいもあって堂々と彼に恋の歌を歌ったりする。同じユダヤ人のスクリップス(ジェイミー・パーカー)に悩みを打ち明ける。そのスクリップスはポズナーのデイキンへの思いを聞きながらデイキンといつも一緒にいるのが彼だったりして。まあ、その気がないからデイキンも傍にいやすいのだろう。
その3人が特に多く登場するが、シニカルなスポーツマンのラッジ、イスラムの少年などの人種や宗教、人生観などを語らせながら彼らの受験勉強の日々が過ぎていく。

イギリスの学校ものに顕著な、女性が殆ど登場してこない作品だがあえて色もの的に出されるより(その役目の女性はいるが)このくらいきっぱりと排除されている方がマシだと思う。
何より背伸びした少年たちの生意気な言葉のやりとりが楽しくてしょうがない。
どうしてもポズナーのデイキンへの恋心に惹かれてしまう。珍しくもデイキンという奴はとんでもなく出来た少年なのでポズナーを毛嫌いしないのがいいとこだし、それゆえ余計ポズナーは辛い。しかもストレートのはずのデイキンがアーウィンとならやってもいい、なんてかなり本気で言いだすので彼の心は千々に乱れるのだった。最後に「ご褒美だ」なんて言ってポズナーを抱きしめるのもますます切ないものがあるがなんだかこれも青春の一こまという奴なのであろう。
めちゃくちゃ切れてかっこよかった転入教師アーウィンが実は、というネタばれがありゲイでもある彼はデイキンの誘惑に揺れ動いていくのがなんとも寂しいが完璧なかっこよさに描いてしまわないのがまたよいのかもしれない。

舞台劇だけあって言葉の応酬が醍醐味の作品。久しぶりにこういう感じ。とても堪能できてこの作品もまた大好きなものになった。

監督:ニコラス・ハイトナー 
出演:リチャード・グリフィス
スティーヴン・キャンベル・ムーア
フランシス・デ・ラ・トゥーア
サミュエル・アンダーソン
ジェームズ・コーデン
アンドリュー・ノット
ラッセル・トヴェイ
ジェイミー・パーカー
ドミニク・クーパー
サミュエル・バーネット
サッシャ・ダーワン
クライヴ・メリソン
ペネロープ・ウィルトン
エイドリアン・スカーボロー
ジョージア・テイラー
イアン・ミッチェル
2006年イギリス

なんだか昔懐かしい作品だった。と言ってもそういうばりばりに有名大学目指して勉強した、なんて過去を持ってるということでなく昔はちょっとこういう勉学に励みながら若者たちが人生や世界について様々に論議し合う青春時代、なんていう話がよくあって自分もそういう仲間みたいのに憧れていたのだが、現実にはこれほど小難しいテーマを論議し合うなんてこともなくただなんとなく過ぎ去ってしまった。今ではそういう若者を描いた作品すらあまりないような気がする(私が知らないだけかもしれないが)アメリカや日本の目にする映画やドラマは不良モノばかりで世界や歴史について議論する少年たち、なんていうのはお目にかかれないようだ。

とはいえこういう少年たちは現実にいるはずなのだが日本ではあまりこういう類の少年たちを散り上げて作品にすることがないようだ。あっても「勉強だけが大事なのか」みたいなどーでもいいようなテーマだったりする。よく知られているのでは『デスノート』がちょっとだけ頭のいい少年たちの話だったのかもしれないが。
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2009年08月02日

『エトワール』ニルス・ダヴェルニエ

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Etoiles: Dancers of the Paris Opera Ballet

一日空いてしまったが続けてバレエ作品。こちらはドキュメンタリー。先日のは架空のアメリカバレエ団付属学校の生徒の物語だったが、こちらは実在のパリ・オペラ座の団員達とやはりそこを目指す生徒たちの物語も添えられている。
小さい時から入学しほぼ同じ顔触れで成長していくのだというオペラ座の団員たちは心を許しあえるわけではないライバルでありながら、同時に家族のような連帯感も持ち合わせているような不思議な集団に思えた。無論熾烈な競争の中で勝ち残ったものだけが団員として残るのだから単純な仲間意識というわけにはいかないはずだ。とはいえ男性ダンサーが「小さい時から同じ女の子ばかり見続けて」というと女性がすかさず「男子も同じじゃない!」と言い返すのがおかしい。そりゃそうだ。
それにしても14歳くらいの生徒バレリーナたちの愛らしさといったら。みんな細くてお人形さんのように可愛らしい。少年たちの綺麗さも見惚れるばかりだが、小さなお尻が強調されるタイツだとか少女たちの初々しいレオタードになんだか危ない色香を感じてしまうのは私がいけないのだろうな。
先日観たドラマ映画よりドキュメンタリーの本作のほうが綺麗なイメージに溢れているのは場所がパリオペラ座だからなのか。綺麗な部分ばかり狙った為か。
自分が日本人だからだろうがフランス製作なのだが幾つか日本関連のものが。一つは冒頭のオペラ座日本公演。う、いきなり映った日本の街並みがお世辞にも美しいとはいえない。率直にいえばごちゃごちゃの乱雑ないかにも日本的な都会風景(そこの方ごめんなさい)「日本のファンは金髪ダンサーが大好きでマイケル・ジャクソン並みの騒ぎなんだ。日本だけの光景だね」と言われるのも苦笑いであった。(私も同じ穴のムジナ)
次はオペラ座団員のミテキ・クドー。はっきりオリエンタルな顔立ちでクドー?すみません。とても有名な方だったのだ。すでにCMなどで顔を見ていたはず。振付家の工藤大弐を父に、70年代にヌレエフのパートナーを務めた伝説的な元エトワール、ノエラ・ポントワを母に持つというだけでなくとても美しい印象を与えてくれる女性。同じくオペラ座団員の夫との間の二児の母親でもある(ダンサーでもあり母親でもある!凄いことだ)エトワールだった母親の娘を誇りに思うと言う言葉もよいなあ。この誉め方とかいかにもフランス女性らしく親子でありながら一人のダンサーとして評価している感じが素敵なのだ。
もうひとつが最後辺りに登場した藤井美帆。時間的には僅かだったがオペラ座バレエ学校に途中から編入して団員となったということなのだから才能もだが大変な努力だたのだろうな、と想像してしまう。

パリオペラ座には最高位のダンサー「エトワール」を頂点にして、プルミエ・ダンスール、スジェ、コリフェ、カドリーユという厳格な階級があるのも初めて知った。クドーさんはスジェに位置する。カメラは最高位のエトワールだけでなくカドリーユの男女にも向けられる。彼らの仕事は群舞や代役なのだろう。代役は無論出演できるかどうかわからないのに演目を把握していなければならないのだから大変な仕事に思える。そして結局出番がないことが多いに違いない。こんな辛い役目はやはり
バレエへの愛情・情熱がなければ絶対やっていけない。「出番は多いのよ」と笑ったり、出れなくて「慣れてるわ」と笑顔を残して去る姿はやはりどこか寂しげなのだが。うーん。こういう位置の人に注目してしまう。映画としてもこういう役目の人は題材になると思うのだけど。なんだかスペースシャトルの代役の為に訓練し続けて飛べない人とも重ねてしまう。

クラシックバレエ、コンテンポラリー、イリ・キリアン演出、モーリス・ベジャール演出など様々な映像がありこれも非常に楽しめる作品だった。

特典にピエール・アルフレッド・リシャール監督、ジェレミー・ベランガール振付・出演『ランデヴー』が収録。
『オペラ座の怪人』を新しく演出したものでダンスとともに映像も斬新で素晴らしい。音楽はビヨークというのもまた格別な。
ジェレミーはプルミエ・ダンスールなのだそう。2001年作品。

監督:ニルス・ダヴェルニエ 出演:マニュエル ルグリ ニコラ・ル・リッシュ オーレリ・デュポン ローラン・イレール エリザベット・プラテル
2000年フランス
posted by フェイユイ at 22:56| Comment(7) | TrackBack(0) | 欧州 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月28日

『チェ 39歳別れの手紙』スティーブン・ソダーバーグ

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Che: Part Two
このゲバラの肖像って「僕は理想を掲げているけど周りは見てないのだよ」という説明のように思える。何故うつむいてるのか。そこが問題。

前篇同様、まるでチェ・ゲバラの傍でゲリラ隊に参加しているかのような忍耐を強いられる、重く辛い鑑賞である。
映画でよくいう息抜きだとか色ものだとかそういった現実にあり得ない配慮なんぞはなくただ飢え渇き、疲れ切り、歩き続けることだけ。
そうだ、まるで何のために戦うのさえよく判らなくなりただ命令に従って自分がいかに辛いか愚痴を言ったりする。
このまま上の人間たちに支配されているだけでは貧困も無学も病気も改善されることはない、今戦い自分たちで変えていかなければならない、というゲバラの理想がそこに生きる人々に浸透していない、という空しさ。

前篇はすべてに勢いがあり、ゲバラの活躍も華やかなものだったが、後篇のボリビアでの戦いはまるで底なし沼にはまっていくかのように身動きも取れなくなっていく。
私は南米の歴史やゲバラの活躍を詳しく知るわけではないのでこの映画を観た限りでだが、その大きな理由はやはりカストロという指導者の有無なのだろう。
キューバでのゲバラは一人の参謀であればよかった。キューバ人の指導者は同じキューバ人であるカストロが担っていたわけで彼のカリスマ性と指導力があるからこそ、彼と緊密な関係でいたゲバラの働きが大きな効果を生み出していく。やはり外国人であるゲバラの信頼性というのは偉大なカストロが見込んだ男である、という人々の認識によって成立していたはずだ。
ところがボリビアでの戦いではカストロの存在が全くない。それは最初に登場した「ゲリラに反対する」モンヘら共産党であったのかもしれないが、キューバでの成功を再現しようとしたゲバラは彼らと離反してゲリラ戦を展開していくことになる。
そのことが果たして正解だったのか。
同国人の指導者カストロの存在がないゲバラは結局後見人のいない外国人で彼は孤立無援だったように思えてならない。ゲバラは一人でカストロとゲバラ二人分を演じようとしたがカストロにはなりえるわけもなく、「外国人の指導者であってもいいじゃないか」と話しあうシーンにやはり人々の本音が見え隠れしているようだ。
何故外国人が入り込んでくるのだ、いざとなれば逃げてしまうのじゃないか、というような気持ちがあるのかもしれない。実際一番本気なのがゲバラだったのだが、その気持ちがどこか空回りしている。
後篇の物語でゲバラが誰かと心から親しくしている場面がまったくなく、唯一それを感じたのは彼がボリビア軍ぬ捕まった時、彼の見張り番であった若い兵士との会話だけだった。このシーンが事実なのかはわからないが。

前篇ではさほど感じなかったのだが、後篇は果たして本当にリアル、なんだろうか。これはゲバラだけの視線なのではないか。
そういえばゲバラが死ぬ時、彼の目線で死が語られた。
この映画はゲバラが見て感じたボリビアでの革命の映像なのかもしれない。実際彼と戦った人々、また農民たちはどう考えていたのか。
勤勉実直で忍耐強いゲバラに対し、ゲリラ兵士たちはしょっちゅう空腹を訴えている。そして農民たちを引き込むにはどうしたらいいのかという話し合いもしていない。
ゲバラには自分の理想だけを追い求め、彼らの姿が見えていなかったのかもしれない。
この作品では英雄となったゲバラが理想を追うあまりに皆を置き去りにし、自分だけが舞い上がり耐えきれず墜落してしまうような、そんな悲劇が映し出されているのだ。

監督:スティーブン・ソダーバーグ 出演:ベニチオ・デル・トロ、カルロス・バルデム、デミアン・ビチル、ヨアキム・デ・アルメイダ、エルビラ・ミンゲス、フランカ・ポテンテ、カタリーナ・サンディノ・モレノ、ロドリゴ・サントロ、ルー・ダイアモンド・フィリップス、マット・デイモン

2008年スペイン・フランス・アメリカ

ソダーバーグ監督作品なので『ボーン・アイデンティティー』フランカ・ポテンテとマット・デイモンが出演。
マットは最近すっかりお見限りでこういうゲスト出演みたいなのしか観れずちょっと寂しい。
私的にはボーンシリーズや『グッド・シェパード』みたいのより、昔やった『すべての美しい馬』『ジェリー』とか、ちょっとマニアック(?)な感じのをやって欲しいんだけど。
勿論一番好きな『ふたりにクギづけ』だったらまたうれしいし、『リプリー』ならば、ちょっとおじさんになったリプリーをやってくれたら感激なのだがなあ。
ラベル:革命
posted by フェイユイ at 23:29| Comment(2) | TrackBack(0) | 欧州 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『世にも怪奇な物語』

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HISTOIRES EXTRAORDINARIES / Tre passi nel delirio

凄!
エドガー・アラン・ポー原作の3つのオムニバス映画だが3作とも滅茶苦茶に面白くしかも最後のフェリーニはとんでもない暴走的面白さで他を圧倒している。
他の二監督ロジェ・バディム、ルイ・マルも名監督という誇りがあるだろうに、いくらなんでもこのフェリーニと比較されるのは気の毒というものである。
そう思ってしまうほどフェリーニが凄すぎる。順番がこれでよかった。逆だったらあまりにも悲しい。
とはいえ本当に他作品も面白いのだよ。

T「黒馬の哭く館」
エロチックホラーと言うべきなのだろうか。とにかくジェーン・フォンダ演じる富裕な伯爵令嬢の装いがエロチック過ぎて衝撃なのだ。とはいえやはり時代が変わったせいなのか、それともやはり秀逸なデザインであるせいか、見惚れてしまうのだ。
J・フォンダもまだセクシーである時の彼女で(後ではすっかりイメージが変わってしまったものね)豊かなブロンドヘアー、気の強い美貌、切れのあるプロポーションもこの上ない女性的な魅力に溢れている。時代設定はいつなのか判らないが完全に60〜70年代ファッションがかっこよくジェーンの化粧やら奇抜にエロなコスチュームにくぎ付けなのだ。このファッションショーを観るだけでも十分な価値がある。
物語は莫大な財産を受け継いだ伯爵令嬢フレデリックがその高慢さと身勝手な性格・性癖のまま自由奔放に自堕落な贅沢を享楽していたが、すぐそばに住む厳格な性格の従兄弟・ウィルヘルムに突然胸騒ぎを感じてしまう。それが彼女にとって何なのかよく判らないうちに、傲慢な彼女は彼女に反抗するただ一人の存在の従兄弟ウィルヘルムが何より大切にしている馬がいる厩に放火させる。
ウィルヘルムは愛する馬を救おうとして命を落としてしまうのだ。
フレデリックは彼が残した気の荒い黒馬に毎日乗り続ける。
そしてある日馬とともに燃え盛る火の中へと身を投じてしまうのだ。

彼女が気づかぬまま恋する従兄弟を実の弟ピーター・フォンダが演じているというのも倒錯しているというべきか。
まあ別に何事もなかったのだからその辺りの遊びの欲求はなかったのだろうがヴァディム監督の妻であったジェーンの色香そのものがこの映画の見どころなのだろう。
ジェーンの髪型がすてき。どうしても『ルパン3世』の最初の頃を思い出してしまうわ(私のルパンは一番最初のアニメの幾つかだけ)

とにかくこんな風でこの作品一つなら滅茶苦茶秀逸の作品なのだ。

監督:ロジェ・ヴァディム 出演:ジェーン・フォンダ ピーター・フォンダ

U「影を殺した男」
3作品で最もストーリーが判りやすく面白い。というのはこの場合特に賛辞じゃないかもしれないが。
非常にサディステッィクでありながらいつも人を惹きつけている男、という役柄がアラン・ドロンにはぴったりなのだろう。
悪辣な男が最後の一線を越えようとする時、何故かいつも現れるもう一人の自分。
彼を殺すのは自分を殺すのと同じこと。美しいが異常なサディズムを持つ彼自身が生んだブレーキのようなものだったのかもしれないがまた彼自身の手によってそれを破壊してしまう。一見自己破滅のようでいて最後に自分を守ったのかもしれない。

私的にはアラン・ドロンより彼と対決しようとしたブリジッド・バルドーのあの目がたまらなく好き。
「負けたら俺のいいなりになれ」と言って鞭打ちが目的だったとは。確かにこの男、二人きりだと全然駄目で人前でサディズムを発揮するのが喜びだったのかも。
勝ち続ける彼女も素敵だったがゲームに負けて鞭打たれるブリジッドもエロチックでかなり危険な趣味に傾いている作品である。いきなり若い娘を解剖しようとして腹を刺しているのにお咎めなし?
今からミサだと言ってるのに神父さんに無理やり懺悔して長話というのもはらはらさせるが(それはしないのか?普通)教徒でもないのにいきなりこんな告白されちゃ神父も困惑だ。
私がドロンファンだったらも少し見惚れたろうがどうもドロンはなあ・・^^;
バルドーが出てきたことで評価アップ。
ルイ・マルなので子供時代の映像が秀逸。ドロン役の子もいい。
この時はもう一人のウィルソンは顔を出しているのだよね。
短編ならではの面白さでもある。

監督:ルイ・マル 出演:アラン・ドロン ブリジッド・バルドー

V「悪魔の首飾り」
これは一体どう賛辞したらいいのか、説明していけるのか、途方もなくぶっ飛んだ作品である。一場面一場面にぎょっとしてしまう。
それにもましてテレンス・スタンプの壮絶な美貌とこのダメージの表現はなんといっていいのか。
イギリスの人気俳優がイタリアに招待されキリストが絡んだ西部劇の主役に抜擢され、映画人の授賞式に呼ばれる、という物語なのだが、一体どこまでがテレンス自身を意味しているんだろう。
そしてこのアルコール中毒者になりきった憐れに切ない姿は一体演技なのか、と思ってしまうほどやつれきっている。そしてそれなのに妖しいまでの子の美貌。青ざめた顔の痛々しい美しさ。男も女も夢中になるという設定そのものに魅力的なセクシーさ危うさは他の誰にも変えられない。
そしてそしてまたそんなテレンスをさらに引き立てるフェリーニの不思議な世界はローマそのものなのか彼の作り上げた世界なのか。
ローマのTV局に招からテレンスが「これは真面目なのか」とつぶやくのがおかしい。フェリーニ描くローマの人々は騒々しくて艶めかしく混沌としている。
それらが現実なのかテレンスの酔いしれた頭が生み出した幻影なのか判らなくなっていく面白さ。
際どいまでのへんてこな男たち豊満な色気の女たち。
アル中のテレンスはますます青ざめ酔いどれていく。
テレンスの頭の中は幻想を生み出していくのだがその中でも最も恐ろしのがボールで遊ぶ白い服の少女。テレンスはどうやらこの少女にエロチックな感情を持っているようだが少女は綺麗な髪の隙間からテレンスを笑って見ているのだ。

どうやらこの3部作はエドガー・アラン・ポー原作という以外にもう一人の自分が自分を見つめている、というものでもあるのだろうか。
少女はそれまで抱いていた白いボールの代わりに死んだテレンスの首を抱きあげるというのが不気味である。少女が面白い遊び道具を手に入れたのだ。
今やっとその魅力に気付いて夢中になっているテレンス・スタンプ。『コレクター』もちらりと観たのだが私としてはこの時のテレンスはそれほどカッコよくないのだ。無論役柄としてかっこよくしてないのでもあるだろうが。
2年後の本作の彼には凄まじいほどの美貌を感じるしさらに数年後の『ランボー』の彼はもっと綺麗だった。年齢を重ねるほど魅力的になるタイプの人なのかもしれない。結局彼を好きになったのは60歳になった彼だったんだもんね。

フェラーリの暴走シーン、たまんないものがある。
それにしてもイタリア・ローマってこんなにクレイジーな場所なのかなあ。

監督:フェデリコ・フェリーニ 出演:テレンス・スタンプ

1967年フランス/イタリア
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2009年07月26日

『ランボー 地獄の季節』ネロ・リージ

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Una Stagione All' Inferno

『イギリスから来た男』を観てから突然テレンス・スタンプが気になって仕方ない。昔から美男子と知っていたのに全く観ようとは思ってなくこんなおじい様(失礼!)になってから好きになってしまうというのはどういうものなのか。その後観た『プリシラ』で決定的になってしまった。

さらにその後観た『シシリアン』では確かに美男の面影があり、本作は物凄く若返って32歳公開作品(くらいだろう)
このテレンスは本当に絶世の美男子で今更ながら滅茶苦茶好きになってしまった。昔ハンサムと言われた人を今観ると仕方ないがどこか古めかしくておかしく思える時もあるが彼の美貌というのは今観ても何の遜色も感じない。スタイルも素晴らしいし、ランボーのパリ時代というのは1870年代で当時からちょうど100年前になるのだがこの服装というのは何だろう。シルクハットは別としても細身のズボンにマフラーなんて格好だし髪型なんかもとても素敵(特にアフリカの時の)なのだ。
こんなにカッコイイ男性だったんだなあと今頃になって夢中になってしまった。ランボーがパリに着いたばかりで浮浪者たちに「初体験かな」と言われながら男色をいたされてしまう場面はテレンスのアップのみ(しかも痛そうとかじゃなく茫然としてるだけ)なのだが青い目が物凄く綺麗でそういえばアルチュール・ランボーの写真は目が印象的だった。

さて本作はアルチュール・ランボーの伝記と言っていいのだろう。彼の短い人生はちょうど半分のヨーロッパでの詩人である期間とヨーロッパを捨てアフリカ/エチオピアで武器商人として生きた半分に分かれるが作品構成はそれらを繰り返し織り交ぜて進行していく。
もしかしたらランボーのアフリカ時代にはさほど興味のない人がいて後半は観ない、なんてことになったら勿体ないからこのやり方でいいのかもしれない。
ただ時代的なことと予算的なことで難しいのかもしれないが、私としてはもう少しエチオピア時代を念入りに描いてヨーロッパでの出来事、特にヴェルレーヌとの関係を印象的なカットで挿入していく、なんていう方が嬉しかった気がする。
エチオピアでの背景が他の映画で観られるようなロマンチックなものでないのも少し寂しい。
ラストシーンだけは文字通り詩のような幻想的なものになっていて、さすがに高慢な白人のエチオピア人に対する見下した態度というのは今観れば腰が引けるが、どこまでも続く砂漠を白い覆いをかけた駕籠に横たわり腐りかけた片足の痛みに耐えながら脚の細長いシルエットの黒人たちに担がせて走らせる場面は不思議な絵画のように見惚れてしまうものだ。

このブログの映画感想で何度も「ヨーロッパに倦んでアフリカへ逃げる白人」という文章を書いたがランボーもまた同じ、というか先駆けの存在だったのか。
それにしてもヨーロッパからエチオピアに逃れた彼が病の為にヨーロッパへと戻らざるを得なくなり結局逃げ出したかった故郷で死ぬことになるというのも皮肉なことだ。

私が思うような挿入のカットではなくランボーとヴェルレーヌの物語も同時進行していくので二人の話もかなり描かれているが、表現としては台詞と軽いキスくらいのものだった。とはいえ、二人の関係の描き方としては申し分ないもので深い関係があったことが感じられるし、ヴェルレーヌがランボーの才能と美しさの両方を愛していたことが伝わるものだったので自分としては満足いく描き方だった(こういう同性愛関係の話でなんだか妙にがっかりさせられる表現の時もあるからねえ)

とにかく最初から最後までテレンスの美貌に見惚れっぱなしだった。脱ぐと意外に筋肉質のようで服を着てる時は凄く細身というまさに理想的なお姿である。年齢的にぴったりのせいか、パリ時代よりエチオピアでの彼がより素敵であった。
美貌といっても男性的な感じで髭が凄く似合うのもとても好きなのだ。

アルチュール・ランボーの映画と言えばディカプリオ主演のは当時どういう媒体であったか観たのだが、何故かもう忘れてしまった。今のところあまり観たくないのは何故だろう。

今凄く気になってるベン・ウィショーの主演映画はジョン・キーツという詩人を描いたものだがかなり対照的な人生のようだ。どちらも若くして亡くなったのではあるが。
 
ところで本作のエチオピアでの女性という存在は事実なのかな。なんとなく違う気がするが。

監督:ネロ・リージ 出演:テレンス・スタンプ ジャン・クロード・ブリアリ フロリンダ・ボルカン
1971年フランス/イタリア
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2009年07月22日

『ザ・ローリング・ストーンズ シャイン・ア・ライト』マーティン・スコセッシ

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Shine a Light

十代の頃、自分の興味を一番占めていたのは本、小説次にマンガ、であってそれが自分の中ではかなり大きなものだった。次はそれほど入れ込んではいなかったが映画だろうか。その次辺りに音楽と絵画など後は色んなものがごちゃまぜに。
そういう自分、TVなんかはあまり見ずに本ばかり読んでたような自分に不満はないが時々もっと音楽にはまってればよかった、なんてしょうもないことを思ったりもする。音楽なんていつハマってもいいけどね。
でもこんなローリングストーンズのステージのDVDなんかを観てしまうともう一度十代をやり直したくなるのだ。
ま、ローリングストーンズにはまったかどうかは判んないけどね。
(いろいろ浅く好きになったミュージシャンはいるが本気で好きになったのは20代になってからブルーハーツだけ。今ならそこから発展して他のパンクバンドにも興味を持っただろうけどあの頃はそこまでだった。音楽にはいったのはむしろ20代になってからなのかな。10代の時はほんと適当だった。あ、普通女子なら一番はおしゃれかもしんないけど、私はおしゃれなんぞまったくしなかった。これは30代になってからの方が凝ったものだ^^;)

私の中のポップミュージックやロックというのはその時代に生きていればそして若者であれば当然知っている程度の断片的なものでしかないのが悔しいのだ。もう少し自分がどれか一つでいいからのめりこんでいるものがあったらなあ、なんて思ってしまうのである。
さてそんな音楽に疎い私でももさすがにローリングストーンズくらいは知っている。無論表面的なとこだけで。
ミックとキースかっこいいなあ、くらいな感じで。
もちょっとちゃんと観たくなったのと監督がマーティン・スコセッシというのもどういうものになるのか気になった。つまり製作者の罠にまんまとはまっているわけであるな。

このストーンズのDVDが彼らの音楽世界でどういう辺りを表しているのかなどはさっぱり判んないし、スコセッシならではみたいなものも私には全くわからんかったがそれでも彼らがどんなにかっこいいのか、本当にかっこいいのか、若くても年をとっても変わらずにそれ以上にかっこいいのか、だけはびしびし伝わってきてしまったのだ。
もう観た人はみんな口をそろえて言うにきまってるんだけど、一体何故彼らはこんなにかっこいいのか?
あのエネルギーとセクシーさは一体どこから溢れてくるんだろう。
4人ともみんな細くって若々しいなんて言葉は不釣り合いなほどただのやんちゃ坊主にしか思えないではないか。
ミックが信じられないくらい細い腰を振り腕は絶え間なく動き続け、声は青年のように甘い。
もし自分が彼と同じ動きを1分でもしたらぶっ倒れて呼吸困難に陥りそうだが鍛錬のたまものなのか、秘密の薬でもあるものなのか。

私は前に書いたとおり、だから彼らの歌は最もミーハーなところしか知らないのでこのDVDを楽しめるかどうかもちと不安だったのだが、歌、というよりやはりパフォーマンスの素晴らしさにくぎ付けになってしまう。いつまでたっても、というか完全に怪しいロックの妖怪の如きキースの顔とスタイル、遠目にはまるで少年のようなミックの動き、あの腰の細さって一体何?信じられないんだけど。いや今までも見てたけどさ。なんかを眺めてたらあっという間に終わってしまったのだった。
特にかっこよかったのはバディ・ガイを呼んで歌った『シャンペン&リーファー』Champagne & Reefer (Muddy Waters) である。いやもしかしたらバディ・ガイのほうに参ってしまったのかもしれないが。ミックの倍以上ある声量困るでしょ。いやいやもう彼も含めてかっこよかった。こんな歌ばかりだったらたまんないね。キースが咥え煙草を唾も灰も一緒に吹き飛ばす場面には崩れそうだったし。ギターがリーファーって鳴ってるし。ミックの歌い方もめちゃかっこいい。ハモニカも。こういうのが好きだ。バディの声が素敵で。キースが彼と競いあうようにギター弾くのもいい。音楽のこういうセッションってきちゃうよね。
ここをもっと観てたかったなあ。

昔の若いストーンズが合間に入るのもうれしい。変わらない、とか言っても若い時のミックの可愛らしさってないよね。キースもかっこいい。段々凄い容貌になってくる。煙草を吸わないと死んじゃうのかな?
ロニーとどっちが上手いか聞かれて「二人とも下手だけど、二人合わせると最強だ」っていうのが泣ける。キース、ほんとにあまり上手くない気がするが^^;そんなのどうでもいい。煙草が似合う。煙の中のギタリスト。あちこちに吸殻捨てまくってる。
それにベン・ウィショーが『ブライアン・ジョーンズ ストーンズから消えた男 』でキースやってから余計気になっちまうのだよ。もしかしてだから観たかも(笑)

監督:マーティン・スコセッシ 出演:ローリング・ストーンズ(ミック・ジャガー、キース・リチャーズ、チャーリー・ワッツ、ロン・ウッド) バディ・ガイ クリスティーナ・アギレラ ジャック・ホワイト
2008年アメリカ 2006年に行ったビーコン・シアターでの慈善コンサート

スコセッシ監督でニューヨークで撮った奴なんで最初に観客としてクリントン夫妻なんかが登場してミックたちにあいさつしてる。確かビルはサックスなんかが得意だったような。
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2009年07月11日

『さよなら子供たち』ルイ・マル

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Au Revoir Les Enfants

いつも始めに「何も知らず観たが」と書いてしまう私だが、この映画の設定は判っていたし、二人の少年の顔が大きく写っているジャケット写真は数えきれないほど眺めたものだ。有名な作品でもあるから観たいと思いながら機会がなく今になってしまった。期待する長い時間の間にルイ・マル監督の他の作品を幾つも観たせいでこういう映画だろうか、という想像もしていたものだ。
果たして観た感想は。不思議にも初めて観たはずなのにもう観たことがあるような気さえするのだった。

というとまるで駄目なものだったように思えるがそれは全く違う。
長い間少年たちの顔を眺めてすっかり覚えていたし、もしかしたらこの映画の影響を受けた作品を観てきたのかもしれないし、いくつもルイ・マルの映画を観てきてそのニュアンスを覚えてしまったのかもしれない。
だがそれは私の思い込みであり、私が想像したものではなく、こういう映画であって欲しいと思う映画そのものだったからかもしれない。

ルイ・マル監督自身であるらしいジュリアンはとても頭のいい少年だが少し繊細な部分がある。
ナチス占領下にあるフランス。パリから離れた寄宿学校で生活する12歳のジュリアンたちのクラスに突然ジャン・ボネという少年が編入してきた。
ジュリアンに負けないほど頭がいい上にピアノも上手だが無口で仲間に溶け込めないジャンに対しジュリアンは何かと意地悪なことをしてしまう。
だがそれはどこかで彼に惹かれているせいなのかもしれない。何故かとても謎めいた転校生の秘密をジュリアンは探ろうとする。
彼は変名を使ったユダヤ人だったのだ。

物語の多くは思春期の少年たちの生活を淡々と描くことで費やされる。憧れや妬みや互いの探り合い。ジュリアンはまだ甘えたい年頃でママと離れるのが辛いのだが、ジャンはママの行方さえ判らないということを知る。
思春期に少年たちが必ずすること。けんかや欲しいものを手に入れるための取引、綺麗な少女への憧れ、自分より才能を持つ者への嫉妬。そういう毎日の中でジュリアンは次第にジャンに惹かれていくことを認める。
そうして彼らがじゃれ合ったりふざけたりしているのを観ていてもナチスの脅威を知っている観る者はどこか不安を覚えずにはいられない。
森の中で学校の仲間と宝探しをしているうちにはぐれてしまうジュリアンとジャン。怖い猪にも怯えてしまう二人の姿はそのままこの映画の彼らの状況を表しているようなものだ。
そこへ現れたドイツ兵士を観た時はこんなにも早く別れが来たのかと思ってしまったが彼らはただ二人を学校へ送り届けてくれただけだった。

レストランにジュリアンと彼のママと兄さん、そしてジャンを連れて行った時、ユダヤ人を探す兵士たちが入り込んでくる。
ジャンとは別のユダヤ人の紳士が兵士たちに目をつけられてしまった時、レストラン中のフランス人が口々に叫ぶ。それは兵士たちへの反発、ユダヤ紳士への助言など。そこへどうしたわけかナチス将校が兵士たちを追い出してしまい、その場は収まる。フランス人たちがただおとなしくしているだけの性格でないことが見える。
そしてジュリアンのママの「私たちはユダヤ人ではないけどユダヤ人は嫌いじゃないわ」という言葉でジャンが嬉しそうにほほ笑むのが痛々しい。彼は何一つ話さないのである。

映画はジュリアンの目から見た物語になっているのでユダヤ人であるジャンの心は語られることがない。
空襲のさなかにこっそりとピアノの連弾をして楽しむ二人。大声で笑う二人。戦争さえなければ、ユダヤ人狩りさえなければ二人はそうやっていつも楽しんでいられたはずなのに。
いやジュリアンはジャンに出会うことはなかったのかもしれない。
戦争という恐ろしい出来事が二人を引き合わせ、そしてあっという間にその繋がりを断ち切ってしまった。
ナチスがユダヤ人を探しに学校へ来た時、ジュリアンはついジャンを見てしまう。
何故、ルイ・マル監督はこの場面を入れたんだろう。それは恐ろしい瞬間だった。ジャンは「いつかは捕まってしまったんだ」とジュリアンにつぶやく。
この場面を入れることはルイ・マル監督にとって非常に過酷なことだったんではないだろうか。彼の一瞥で運命が決まってしまった。
あの場面をいれないこともできただろうが、はっきりとそのことでジャンが気づかれたことを表現している。
これはルイ・マルの告解であったんだろうか。

最後、ユダヤ人とアーリア人ではない少年たち、そして彼らをかくまった神父が連行されていく。生徒たちが口々に「さよなら神父様」と叫び神父が答える「さよなら子供たち」
ジュリアンはジャンと別れ、そして自らの子供時代にも別れを告げた。

ジャンの寂しげな表情。いつも自分を隠していなければならない。無口で他の子供たちと隔たりがある。子供にとってなんという重い枷なのだろう。ジュリアンと彼が別の時に生まれ出会っていれば彼らは好きな本を読みピアノを弾き、頭のいい友人同士らしい生意気な論議を戦わせただろう。彼らが普通の少年たちでごく子供らしい学校生活を送っている中に突如として入り込む戦争という得体のしれない恐ろしいものが美しい時間も思い出もすべてを破壊してしまった。

それまでは普通の人間だった学校の料理人の若者がゲシュタポに密告してしまうのも神父の厳格さが引き起こした結果だというのも皮肉な運命である。戦争は何もかもを狂わせてしまうのだ。悲しい。

監督:ルイ・マル 出演:ガスパール・マネッス ラファエル・フェジト
1988年フランス/ドイツ

ラベル:ルイ・マル 戦争
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2009年07月10日

『イースタン・プロミス』デヴィッド・クローネンバーグ

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EASTERN PROMISES

これはクローネンバーグ監督らしい黒い雰囲気が立ちこめる滅茶苦茶に面白い映画だった。これはイギリスにおけるロシアマフィアの人身売買という暗部を暴きだした物語、ということらしいがそれもこれもマフィアの「若(手下が「わか」って呼ぶあれ)」に献身的につくす謎の男、若の方も男にぞっこん頼りきりなのだ、という男同士の関係を危なくも妖しく描きたかっただけでこの設定にしたんじゃないかと思うのだ。そのくらい我儘キリルに影のように寄り添うニコライという構図が素敵なのである。

今までヴィゴ・モーテンセンがそれほど好きではなかったんだけど、これを最初に観てたらぞっこん惚れてたのに惜しい。ヴァンサン・カッセルは『ジェヴォーダンの獣』で初めて観た時から陰湿で変態な悪役ぶりが魅力的で忘れられない人となったが、本作ではさらに屈折しまくった男ぶりを見せてくれますます点数が上がってしまったのである。

ロンドンを舞台にしたロシア・マフィアの人身売買契約それが『イースタン・プロミス』の意味であるという。
ごく普通の看護師であるアンナは病院に担ぎ込まれた少女が妊娠した身で麻薬注射を打っておりそのまま死んでしまったことに衝撃を覚える。
とり上げた赤ん坊は生きており、少女はロシア語で書かれた日記を残していた。アンナ自身ロシア人の血を引いていてロシア語の判る伯父がいる。だが口の悪い伯父と仲たがいしている間にアンナはロシア・マフィアのボスと知らず知り合った男に日記のコピーを渡してしまった。
少女は人身売買で売られた「奴隷」でありマフィアのボスにレイプされ妊娠。絶望のうちに死んでいったのだった。

ロシア及び近辺の女性が貧しい環境の為に身売りしているのは日本でも聞く話であり、白人種でしかも北方の美貌は買い手がつくわけである。
ヴィゴが演じるニコライは謎の男で彼の語った言葉がそのまま真実なのか、どうかはよく判らない。ただその謎めいた描き方が彼のこれまでの人生を想像させてくれるようだ。
彼が悪の仮面を被った天使の優しさを持ち合わせているのは見えるがその実、今のボスの代わりに立とうという意志もあるのだ。
その為に馬鹿息子キリルに献身的に仕えているのだが、何故かニコライにはそれ以上の気持ちがあるように思えてしまうのはどういうわけか。
ボスが失脚した後、彼は言葉通りキリルをボスにするわけではないのだろうが、この物語の中でニコライが横暴なキリルに好意を持っているように見せているのは彼を騙すための演技なのか。少なくともクローネンバーグの映像は抱きしめ合うキリルとニコライの関係を非常に美しく映している。
駄々っ子のように泣くキリルを優しく抱くニコライには彼を慈しんでいる感情があるように思えてしまうのだが。

無論一般の観客なら看護師アンナを助けるニコライ、という関係そして最後のキスに二人の愛情を感じてしまうのだろうが、私としてはニコライはあくまで苦しんでいるロシア女性に同情し、赤ん坊を引き取ろうとするアンナに感謝している、としか見えない。
ニコライとキリルはどうなっていくんだろう。ニコライはキリルに「俺と父親とどちらを取る?」と問い、「二人でボスにとって代わろう。お前がボスで俺たちは相棒だ」と甘い言葉をささやく。
ゲイであるキリルは屈折していてニコライに女を抱けと命令するが、女を背後から抱くニコライに欲情しているのは明らかである。ニコライも充分それを判っているし、キリルが彼に恋情を抱いていることを利用してマフィア内部に入り込んでいるのだが、こうした我儘な坊ちゃんをあやす頭の切れる部下、っていう組み合わせはヨダレものだし、クローネンバーグは明らかにそこを描きたくて映像化していると思うのである。
なのでこの映画の終わりが唐突のように思える人もいるようだが、監督はキリルに献身的に仕えるニコライを描きたかったので物語がここで終わるのは当然だ。彼の献身の謎が明かされてしまったのだから。

途中サウナでニコライがチェチェン人にキリルの身代わりとして暗殺されそうになる場面がありそこでのヴィゴのぼかしなしの全裸での格闘が話題だったらしい。確かに全裸の格闘は痛そうだ(そういう意味じゃないか)あそこもいつどこかにぶつけてしまうかわからないし(だからそういう意味じゃない)まあこれもクローネンバーグがヴィゴの肉体美を存分に見せたい為の(見たい為の?)お楽しみだったのであろう。
チェチェン人とナイフ、と言えばこの前観たロシア版『12人の怒れる男』を思い出す。
とにかくヴィゴの大事な部分が格闘で揺れまくっているのに女性&ゲイメンは目が釘付けであるのは間違いない。

ナオミ・ワッツは小柄で普通っぽいとこがこういう役にはぴったりだし、いまだに『マルホランドドライブ』でビアンな役だったのが印象的で好きなのだ。この前観た『ファニーゲームUSA』でも可愛らしかった。

いつものようにどんな映画かまったく知らずに観たのだが、こんなに惚れこんでしまうとは思いもしないほど楽しんで観てしまった。
ヴィゴの良さが判ったのも嬉しいし、今まで自分は男っぽい映画が好きな割にはどういうものか暗黒街ものが苦手で(『ゴッドファーザーTU』と『インファナルアフェア(あくまで香港版のほう!!!)』以外はどうも入り込めなくて)マフィアのドンパチには興味が持てなかったのだがこれは例外だった。と言っても確かにいつも嫌いなドンパチや目をむいて脅迫するようなアホなシーンがなかったのだ。虫唾が走る男の美学みたいなのも皆無だったし。ただもう私はヴィゴとヴァンサンのキスしようでしないみたい触りあいにどきどきしながら見入っていたばかりであった。
続編ができる、という話を見たが二人はどうなってるんだろ。まさか一緒にはいられない、と思うからヴィゴに新しい相棒ができてるっていうのもいいんだけど。

監督:デヴィッド・クローネンバーグ 出演:ヴィゴ・モーテンセン ナオミ・ワッツ ヴァンサン・カッセル アーミン・ミューラー=スタール イェジー・スコリモフスキー シニード・キューザック
2007年 / イギリス/カナダ
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2009年07月06日

『ベルベット・ゴールドマイン』トッド・ヘインズ

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Velvet Goldmine

もともとポップミュージックに詳しくもなくグラムロックなどと言われてもデヴィッド・ボウイくらいしか思いつかない程度の人間なのだが、そういった知識は別としてぐちゃぐちゃ感がとても心地よい作品だった。

そのデヴィッド・ボウイをモデルとするブライアン役のジョナサン・リース=マイヤーズくんはとても可愛いのだがイギー・ポップ=カート・ワイルドのイアン・マクレガーはかっこいいのか悪いのかよくわかんなくてちょっと笑えたが(かっこいいのか?)なんだか不細工な感じがするとこが却って愛らしくも思えたりする。
彼らに憧れ彼らの姿を追いかけやがては新聞記者となってその後の彼らを訪ねるという企画を任される内気な青年アーサー役をクリスチャン・ベールがこれもまた初々しく演じているではないか。
化粧をし、女とも男とも言えないような奇抜な衣装を身につけ、「男も女も好きだ」というバイを表現した彼らは70年代前半のイギリスでは無論異端な存在として登場し大人たちをしかめ面にするに充分であったが女の子たちを夢中にさせ、ゲイの男の子たちには神のような存在であっただろう。
私は昔からゲイに惹かれるもののどういうものかボウイ的な存在だとか化粧する男性というものにそれほど魅力を感じなかったので(今のほうがむしろいいと思っているのだが)グラムロック世代でないのもあるがそれほどここらを追及しようとは思わなかった。
今こうして観ても化粧をし、クスリをやり、男女ともに興味がある、とは言いながらやや同性への嗜好が強いように思えるが奔放で自堕落な生活に憧れはしてもやはり心底好きな世界とは言わないが、ファンは自分ができないことをやって見せる彼らだからこそ憧れているのであろうし、とにかくこの作品自体の陶酔感はとても好きである。

とはいえ自分がもしこの時代にいて彼らを10代の頃に共に生きたなら思い切りこういう世界にはまりこんでしまいたい、と願ってしまう。
私はむしろテクノポップ世代なのだろうが、あの音楽を映画化したものはまだ観ていない気がする。果たして感動するのだろうか。
先日坂本龍一の本を読んだりしたのだが映画音楽の彼は別としてそれほどあの音楽(YMOってこと)にひたれない。が、あまりにも聞かされたのですぐ頭の中に流れてくる。
そうした自分にとってのノスタルジーとは違うところでグラムロックには惹かれるものはある。今のビジュアル系バンドとは違う精神的解放が主題であることや後にパンクロックとして続いていく流れとしては自分も気持ちが動かされてしまうのだ。

あまりに遅すぎる鑑賞になってしまったが『アイム・ノット・ゼア』も素晴らしくよかったし、トッド・ヘインズ監督も気になる監督になってしまった。もっと作品作って欲しい。

監督:トッド・ヘインズ 出演:ジョナサン・リース=マイヤーズ ユアン・マクレガー クリスチャン・ベール 
1998年イギリス

これの主演ってユアン・マクレガーってなってるけど、どう考えたってジョナサンかもしくはクリスチャンのほうだよね。
posted by フェイユイ at 23:55| Comment(2) | TrackBack(0) | 欧州 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月02日

『ファニーゲーム』ミヒャエル・ハネケ

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FUNNY GAMES

かなりのキワモノという評判のようだったのでどんなブチ切れ映画かと恐る恐る観始めたのだが以前観た『隠された記憶』でもそうだったように巷にある単なるスプラッタやゲテモノ趣味のホラーなのではなく静謐な中に突然不協和音が響くような、やり過ぎない(と言うと語弊があるかもしれんがもっと残酷なことやることのみに興味があるならできるのだがここまでで抑えているのが奇妙な品格さえ漂わせて気持ちが悪い)でいるのも恐怖をさらに増しているのではないだろうか。

幸せそうな家族の楽しげな休暇に出会った二人の青年の言動に主婦が感じたちょっとした違和感と苛立ちが始まりで家族はとんでもない異常な事態に陥っていく。
ハリウッド製スリラー映画のパロディらしいが自分としてはこういったごく普通の人々が突然関係もない人間によって殺傷されるという事件が次々と起きる昨今においては映画とパロディというより現実を写し撮ったという風にしか見えない。
若干、作中の人物がカメラ目線で観客に語りかけたり最後にはこの映画こそが虚構であり虚構こそが現実だ、などということで「これは映画だ」と現実に引き戻されはするがもしかしたら今のこういった犯罪者はどこかで映されていることを感じ、カメラ目線でこういう台詞を現に言っているかもしれない。

虚構のような犯人たちに比して家族たちの恐怖と怒りと悲しみは極めてリアルに表現され、悪ふざけのような男たちの残酷ないたぶりを観る者はイライラしながら眺めているしかない。ハリウッド映画なら男たちの悪行は途中までで最後は彼らが完膚なきまでに叩きのめされ撃ち殺されることですっきりするわけだが、そういうカタルシスは微塵も与えてはもらえない(そういうカタルシスっていうのも酷いもんだが)
映画とはこうあるべきだ、という欲求は全く無視され最初から最後まで観終わっても何一つ救いのない作品にむかっ腹が立ち怒りの置きどころもないわけなのだが、よくもここまで嫌悪感だけの映画をしかも品位を落とさずに作れるものだと感心してしまう。
何しろ暴力をふるう場面、レイプシーン、裸をさらす、殺害場面など普通こういったホラー映画の見どころになる場面はまったく映されないのだ。そういう場面はなしにほぼ会話のみで観る者にこれ以上ない嫌悪感・不快感を与えてしまうのだから。
映画に癒しだの教訓だの愛だのを求める方は鑑賞後憤死してしまいそうだ。

ラストに次の家庭のドアを開け意味ありげな男の表情で終わるなどいかにも「次はあなたの番かも」みたいな(そんな楽しげに言われても)んで非常に上手くまとめられたサイコホラーの秀作の一つだと思うのである。

次は同監督の『ファニーゲーム U.S.A.』を観る予定。ハネケ監督もよくやるが私ももの好きかな。

監督:ミヒャエル・ハネケ 出演:スザンネ・ローター ウルリッヒ・ミューエ フランク・ギーリング アルノ・フリッシュ
1997年オーストリア
ラベル:サイコ ホラー
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2009年06月30日

『神に選ばれし無敵の男』ヴェルナー・ヘルツォーク

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Herzog

この映画はタイトル的にとても気になっていたのに何故先延ばしにしてしまったのか、本当に悔やまれる。
と言ってもこんないい作品がまだ未観であったというのも嬉しいことではある。他にもまだまだ早く観とけばよかったというのがある、と期待できるからだ。

とにかく面白い、いい作品だった。映画というのはこういう風にリアリティのある落ち着いた物語でありながら謎と不思議を含んでいるものであって欲しい。そういう欲求を満たしてくれる上質な映画なのである。実話でありながら童話のように感じられる味わいがとても素晴らしいのだ。
実在の人物を題材にしているわけなのだがナチスドイツが台頭してくる前夜という時代背景も興味深いし、何といっても主人公ジシェとハヌッセンの対照的な位置づけに惹きつけられる。

ベルリンで「オカルトの館」を経営するハヌッセンと言う男は実はユダヤ人でありながらドイツ人であると装いしかもナチスの「オカルト相」に任ぜられることを望んでヒットラーらの占いをし勝利を収めると予言するのだ。細身の男でありながらナチス軍人たちを牛耳っているかのような堂々とした立ち居振る舞いをしいつも華麗であることに誇りをもっているが、同じチェコ出身のピアニスト女性にはサディステッィクなまでの暴力をふるう謎の男であり狡猾な男である。
一方のジシェはポーランドの田舎町で父親と鍛冶屋をしているユダヤ人である。彼はユダヤ人であることをナチスの前ですら隠そうとはしない。人前で話すことが苦手な純朴な青年であり誰にも負けない怪力と見事な肉体を持つ。
ユダヤ、と言えばイメージするのはハヌッセン的な人物かもしれない。利口で金儲けに長けていてきちんとした服装の男である。ジシェのような怪力男がユダヤ人だというのはピンとこなかったのだがなるほど「サムソンとデリラ」のサムソンを思い起こさす男だったのだ。

冒頭でジシェが自慢にしている利口な弟が兄に聞かせる話がある。海辺の岩礁にびっしりとうごめく蟹の中をジシェが弟ベンジャミンを抱えて歩いていく。そしてベンジャミンは兄の手を離れて空へと舞い上がる。
ジシェが現代のサムソンであるということ、彼が己の脚にくぎを打ちつけて死んでしまうこと。様々な暗示が込められているのだ。

狡猾な悪の男ハヌッセンは俳優ティム・ロスが素晴らしい演技を見せているが善良な大男ジシェを演じるのは素人であるヨウコ・アホラである。その筋肉にも見惚れるが印象的な純朴さは彼でなければ表現できないものだったのだろう。小さな弟ベンジャミンとの兄弟愛にも打たれるのだが、いつも神を信じて行動するジシェの純粋さに心惹かれるのである。

ヘルツォーク作品は短編を除けば今回が初めてだった。この作品は申し分なく大好きな作品になった。


俳優としては素人のヨウコ・アホラの魅力は掛け替えのないものだ。
DVDの表紙絵が彼だったらもっと早く観たかもしれないのだが(笑)
と言っても今回みるきっかけになったのはウド・キアーが出演していたからなのだが。粋にこだわるドイツ貴族を演じていたが独特のハンサムぶりは健在だった。

監督:ヴェルナー・ヘルツォーク 出演ティム・ロス ヨウコ・アホラ ウド・キアー
2002年ドイツ/イギリス
ラベル:歴史
posted by フェイユイ at 01:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 欧州 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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