映画・ドラマ・本などの感想記事は基本的にネタバレです。ご注意を

2009年06月26日

『フレッシュ・フォー・フランケンシュタイン 悪魔のはらわた』ポール・モリセイ

Flesh For Frankenstin.gifFlesh For Frankenstin2.jpg
Flesh For Frankenstein

崇高なるマイケル・ジャクソンが亡くなった夜に関係なく娯楽映画を観る自分に引け目を覚えてしまったが、どうしてもこれを観ないと予定が狂うのである。しかもこれまったく偶然借りたものだが観始めて暫くこれじゃマイケルのことみたいじゃないかと恐縮してしまった。

元々のシェリー原作の『フランケンシュタイン、すなわち現代のプロメシュース』(Frankenstein: or The Modern Prometheus)ではフランケンシュタインの願望は人造人間を造ることだけだったが(その為に造られたその生命体は「モンスター」などと呼ばれ親であるフランケンシュタインからも嫌われ本人もその醜さに絶望することになる)本作のフランケンシュタイン男爵(あくまでも優雅でありたいわけ)の目指すものは今溢れかえる「不完全な醜い人間」を「完全な美しい人間」に作り替えることなのである。
完全な美しい女は作ってしまったフランケンシュタイン男爵は完全な美しい男を造り、二人を番わせて子供を産ませようと計画している。
その為には女と見ればすぐ欲情するような精力を持ち且つ完璧な美貌完璧な「鼻」を持つ男を見つけたいと願う。
美しい体は用意できたが精力的で美しい鼻を持つ男を見つけようと男爵は助手オットーを連れて売春宿へと向かった。そこでなら女好きが見つかるだろうと考えたのだ。
男爵たちが売春宿を見張っていると裸の女が二人飛び出してきてその後から若い男が彼女たちに声をかけた。
男爵は男一人が二人の女を相手にしていたと思い込みさらにその男が完璧な美貌と鼻を持っていたのですぐさま彼を襲いその首を切り落とすことにしたのだった。
実はこれが間違いでその男は確かに美しいが女にまったく興味がなく修道院に入ろうとしていたのを友人に誘われしかたなく売春宿に来ただけの男だったのだ。
友人の男が男爵の妻(と言っても実は男爵の姉^^;ひたすら倒錯してるわけだ)に目を付けられセックス相手の使用人にされたり、その様子を子供たちが覗いていたりと際どい話が次々と繰り出される。
ウド・キアー演じるフランケンシュタイン男爵は己の技術に自惚れ助手オットーをいつも叱りつけている。男爵を尊敬するオットーだがあまりにも男爵の仕打ちが酷過ぎ次第に恨みを覚え人造女に手を出して壊してしまうのだ。
男爵とその姉の子供である息子と娘もまた異常性を秘めていて冒頭では人形を解剖したあげくギロチンにかけてしまう。
そして最後は宙づりにされた男に手術用ナイフを持って近づくのである。

美を求めるあまり歪んだ行動を取ってしまいそのことに何のためらいもなくただひたすら完全なる肉体を造ろうとするフランケンシュタイン。
『処女の生血』と同じくこれも滑稽さと悲しさがあいまった荘厳なほどの品位を感じさせそれがまたおかしくも悲壮なのである。
いつもならそう思うだけだが、今朝未明亡くなったマイケル・ジャクソンがまるでこの男爵とそのクリーチャー両方の姿を示しているようで造られた完全な美しい男が「私はもう死にたいのだ」という台詞にぎくりとしてしまったのだ。

あまりマイケルと重ねるのは申し訳ないのでもうよそう。
作られた順番は逆になるのだが『処女の生血』と本作のウド・キアーの倒錯した魅力に参ってしまった。特にドイツ訛りなのだろうあの力強い発音の英語は印象的である。
『処女の生血』ではウド・キアー演じるドラキュラを召使の身分ながら支配していたアルノ・ジュエギングが本作でも助手という役ながらとても面白い。彼もまた異常な性嗜好の持ち主で内臓に興奮するのである。
ウォーホル&モリセイ映画にずっと出演している二枚目役者ジョー・ダレッサンドロもまたまた美しい肉体を披露している。私には判らないがこの古風なヨーロッパ・ゴシック映画の中で彼だけがニューヨーク訛りでいかにもアメリカ顔なのでとてもおかしいらしい。
またフランケンシュタイン男爵が言うようにセルビア人というのは由緒正しい古代ギリシャの美貌を正統に受け継いでいる民族で背が高く金髪青い目と言うことらしい。それで黒髪のクロアチア人とは争うのだという説明があってそういうものかと思ってしまった。

グロテスクであり裸と性描写と血に彩られた『処女の生血』『悪魔のはらわた』の2作品だが、それでもこの二つは大変楽しめる傑作に間違いない。あくまで古典的な尊大さを保ちながらそれ故に滑稽で倒錯した悲しさに満ちている。それら狂った貴族を演じきっているのがウド・キアーであり、なんとなく朴訥として登場するアメリカ人ジョー・ダレッサンドロがまともな平民として描かれているのも意味ありげである。
「純血(純潔)」とか「完全な美」などというものにこだわり過ぎるのはおかしなことだと思うのだが。さてそういう人間に憧れてしまう気持ちがあることも否定はできないのでもある。

監督:ポール・モリセイ 出演:ジョー・ダレッサンドロ モニク・レ・ボーレン ウド・キアー モニク・ヴァン・ボーレン アルノ・ジュエギング
1973年フランス/イタリア


ラベル:ホラー
posted by フェイユイ at 23:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 欧州 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月21日

『ブラッド・フォー・ドラキュラ/処女の生血』ポール・モリセイ

Udo Kier.jpgUdo Kier 2.jpgUdo Kier 3.jpgUdo Kier 4.jpg
BLOOD FOR DORACULA

遠い昔に同監督スタッフキャスト(らしい)の『悪魔のはらわた』を観て面白かった記憶がある。本作は初観。

なんとも悲しい物語ではないか。『ブライズヘッドふたたび』ではないが落ちぶれていく貴族の哀愁に満ちている。
方やドラキュラ伯爵の末裔はもう周辺に処女が存在せず食糧難で息も絶え絶え。妹も顔色悪く地下室で寝込んでいる。ドラキュラ伯爵自身も何の希望も持てないでいる。だがそんな彼を励ましカトリックの国であるイタリアへ行けばきっと処女の生き血にありつけますと準備を整えるのが忠実な僕アントンだった。
自動車の上に棺桶と車椅子をくくりつけ(つまりそういうものはある時代ね)空腹のために顔面蒼白のドラキュラ伯爵が古風な衣装を身にまとって旅行中なんて、もうコメディとしか思えないが作品は至って真面目にクラシックな態度を崩すこともなく思い入れたっぷりに進行していくのだから吸血鬼ファンにはたまらない作品ではないだろうか(吸血鬼マニアは絶対いるよね。いつもそういう作品作られるから)
だがなかなかこれという処女に出会えず伯爵はさらに瀕死の状態でとある村にたどり着く。そこには没落貴族で貧乏生活を強いられてはいるものの美しい4姉妹がいる家族があった。

伯爵の僕アントンは張り切って一家に近づき、伯爵が花嫁探しをしていると伝える。貧乏貴族の主人と奥方は大喜び。
ところでこのドラキュラ伯爵は処女の生き血しか受け付けないのだが、ちょうど適齢期の娘二人は日ごろから下男の若い男とセックスやり放題。長女は婚約解消された身なので控え目に退いている。4女はまだ14歳で早すぎる。
伯爵は我慢できずすぐに2女と3女に咬みつき血を啜るのだがたちまち非処女の血にもだえ苦しみおえおえと吐き出すのだった。
空腹で痙攣するほど苦しみ、喜んで飛びついた娘は非処女でこれまた物凄い悶絶で血を吐きだす。その壮絶さは恐ろしいほどで目を飛び出さんばかりに開け口から血が溢れだし胸は赤く染まる。こんなに憐れなドラキュラは他にないだろう。
最初っから赤ん坊か幼女にでも手を出せばいいじゃん、と言いそうになるがそういうモラルというものは守らねばならない掟でもあるのか。
若い娘と言われる年頃にはもう処女はいない世の中だよ、という風刺も無論込められているのだろうねえ。
さて14歳の末娘はまだ処女だったのだが、ドラキュラの正体を見破った若い下男が「命を救うため」と言って末娘の処女を奪う。
絶対絶命のドラキュラだったがなんと婚約破綻の長女がまだ処女でその血をドラキュラに与える。
下男は斧でドラキュラの手足を叩き落とし(何故こんなことを?)最後に胸に杭を打ち込んで殺す。それを見た長女は嘆き自ら杭に身を投げ死んでしまうのであった。

一体何がなんだか、という物語なのであるが、これが何故だか滑稽でもあり悲劇的でもあり案外薄っぺらではない伝統的なドラキュラ伯爵の重厚さもあって面白いのだ。
それはなんといってもドラキュラを演じたウド・キアーの不思議な魅力によるものなのだろう。

このアンディ・ウォーホル、ポール・モリセイによる作品はゲイ的な雰囲気があるようなのだが、本作は姉妹によるビアン的な演出はあるが男性同士のほうは皆無であった。ドラキュラとアントンの間にそういう部分があるのかと思ったがそういうのではないようだ。
代わりに下男役のジョー・ダレッサンドロの裸体がそのままゲイ方面へのサービスなのかもしれないが(私はあんまりというか全然・・・^^;)

さて実はそのジョー・ダレッサンドロ主演ポール・モリセイ監督ウォーホル製作の『フレッシュ』も観たのだがこちらはもう全然観れなかった。ゲイとビアンとセックスシーンがたくさん出てくる映画だが、こういうのは観る気になれない(主演が好みならいいんだろうがジョーくんは駄目だわ)彼は下男役みたいなのはいいが、こういうぐうたらして売春している男娼なんていうのはつまらないじゃないか。

監督:ポール・モリセイ 出演:ジョー・ダレッサンドロ ウド・キアー ビットリオ・デ・シーカ ロマン・ポランスキー
1974年フランス/イタリア/アメリカ
ラベル:ホラー 吸血鬼
posted by フェイユイ at 22:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 欧州 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月19日

『柔らかい殻』フィリップ・リドリー

Reflectingskinposter.jpg
The Reflecting Skin

フィリップ・リドリー作品。ほんとにこちらを先に観ることができたなら心底後悔してしまう。
というのはレンタルできるのが同監督作品では『聖なる狂気』というので以前これを観て記事としてただもう「つまらない」としか書いてないからなのだが。こちらを先に観ていたら絶賛とまではいかなくても世界観が掴めていたのにと思ってしまう。

とはいえ、昨日も書いたことだがつまらないと思うとすぐ忘れてしまう私だが、この2作品では監督の初作品であるらしいこちらの方が断然判り易く面白いのではないかと思う。
どうやら風変わりな監督として評価されていいると後で知ったが『聖なる狂気』では唐突に奇妙な場面が出てきたりするが『柔らかな殻』にはあまりそういう変な演出がなく(変な声を出して歩いてくる双子の尼僧くらいか。といっても二人の尼僧というのは「縁起が悪い」という意味があるわけで)

イギリス人監督が作り上げたアメリカ田舎の物語、という世界なのだろう。現実ではないような奇妙な感覚がある。
麦畑(?)の中にぽつんと建つ家の風景はワイエスの描いた『クリスティーナの世界』みたいだ。
主人公の少年もアメリカ映画によく出てくる悪ガキよりも少し線の細い子が選ばれているように思える。カポーティの小説に登場する少年みたいかもしれない。
物語は非常に断片的なのだが伝えたいことがクリアで面白く観れる。この辺は次の作品である『聖なる狂気』より優れているのではないだろうか。
ただどちらの作品でも感じたのだが、効果音だとか演出だとかが時々突然わざとらしくなってそれまでとても品格を感じさせているのを壊してしまうような個所がいくつかあってそれがこの監督の味だとも言えるのだろうが自分の好みとしてはやや幻滅を感じさせてしまう。
少年たちが吸血鬼と思う女性宅に侵入し目が合って「あーっ」と叫ぶとことセスがショックを受けた後大きな効果音が入る場面なんか、そして特にラストの夕日に向かって叫ぶのはなんだか急に大げさになって冷めてしまう。この辺のおかしな感じは『聖なる狂気』でも感じられるものだったので確かに監督の持ち味なのかもしれない。

蛙のおなかを膨らませ爆発させてしまうような残酷な遊び、顔色の悪いイギリス女性を吸血鬼だと信じたり、大きな車で徘徊しては子供や女を殺して楽しむような男たちに出会ったり、少年期が謎と恐怖に満ちているあの独特の狭くて奇妙で物悲しい感覚が描かれている。
途中で帰郷してくる兄は太平洋で核実験を行っていた兵士でどうやら本人も放射能に侵され病気になっているのだ。
兄が見せる不気味な写真、セスが小屋の中の卵のような容器から見つけた胎児、彼はそれを友人が天使になった姿だと思い持ち帰ってベッドで添い寝する。
セスがまだ何も知らない子供であり、その為に大人だったら恐怖する行為を恐怖と感じないことが恐ろしいことなのだ。

セスが車の男たちのことを黙っていたせいで父と友人と兄の恋人を死なせてしまった。原因の一端はセスが握っていたのに子供らしい思い込みが大事なものを失わせてしまう。
少年期の無垢がどんなに恐ろしいことか。
しかし大概の人間はセスのように理解したことで衝撃を覚えることもなく大人になってぼんやりと思いだすのかもしれない。

監督:フィリップ・リドリー 出演:ジェレミー・クーパー リンジー・ダンカン ヴィゴ・モーテンセン
1990年イギリス

ふぇでり子さんから教えていただき、にこにこ動画で鑑賞しました。ありがとうございます。
どこかでベン・ウィショーを思い浮かべながら観ていたような気もします。9歳の少年セスの役、ベンがそのまま演じてもいいような気がしてしまうのです。ヴィゴはそのままお兄さん役でやって欲しいんですけどねえ。
ラベル:少年 恐怖 犯罪
posted by フェイユイ at 23:14| Comment(5) | TrackBack(0) | 欧州 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月16日

『動物農場』ジョン・ハラス&ジョイ・バチュラー

animalfarm.jpg
ANIMAL FARM

ジョージ・オーウェルも読まなくてはならないなあと思いながら読まないま今日に至ってしまったのだがこうしてアニメで学ぶことができるのは何とも有難いことだ。
アニメ自体1954年公開のもので確かに現在の日本のアニメと比較すればあまりに単純な絵と技術と演出だろうがそれだけにより生々しく明快に訴えてくるのではないだろうか。
最初はあまりに動物たち(人間も)が稚拙のように思えたがすぐに慣れてしまってそんなことより内容の恐ろしさが気持悪く、この絵だからまだ観れるがもっとどうにかした絵だとおぞましくて観ていられないのではないかとさえ感じられてくるのだった。

人間に支配されていた家畜たちが劣悪な環境に対し反逆する。この運動は成功し人間を追い出すことができた彼らは豚たちを先導者、特にスノーボールがそのリーダーとして他の動物たちを引っ張っていく。
動物だけの農場が案外うまく運営できるようになった時、スノーボールは彼らのためによりよい環境を作ろうと立案する。だがそうしたスノーボールの地位を奪おうとする豚ナポレオンは隠れて犬たちを手なずけ自分だけの武器にし、スノーボールを殺害するのだ・

なんて判り易い革命の過程、そして権力の移り変わり。虐げられていた者が立ち上がりいつしかその中からさらなる反逆者が生まれる。
圧政を憎んでいたものがさらなる圧政を他にかけようとする。
いい豚だったメージャー爺さん、スノーボールの死後はナポレオンを頂点とする豚たちが他の動物たちを下等と見なして過酷な労働を強いていく。
動物農園のシンボルとなる風車の建設という重労働を苦にすることもなく働き続ける馬のボクサーと仲良しのロバ・ベンジャミン(!)(単純にもロバがベンジャミンだったのでどうしても彼がベン・ウィショーのような気がして^^;親友ボクサーと仲良く働く姿が可愛いのだ)の二頭が自分たちが頑張ることでいい農場ができると信じている姿と家の中でのうのうと寝そべっては食ってばかりの豚たちの対比が歯がゆい。
しかも人間たちの侵入と暴力で風車が破壊されボクサーは傷を負った体で風車の再建に耐えて働く。ついに力つきたボクサーを豚たちが売り飛ばしその死と引き換えに手に入れた酒を飲むのを観た時はいくらアニメの豚の話とはいえむかむかしてしまうではないか。
ボクサーがにかわ工場へ運ばれて行くのを見た親友ベンジャミンは泣き叫びながら彼を追いかける。
その後もベンジャミンは豚たちの圧政の下で働き続けるのだが豚たちの「下等な動物をもっと低い条件のもとで働かせる豚たちに励ましの勲章を与えられる」光景を見た時、痩せてあばら骨の浮いたベンジャミンは動物たちとともに再び立ち上がる。

スノーボールが掲げた動物たちが幸せに暮らすための法律をナポレオンたちが次々と自分らの都合のいいように変えていく。
この物語は当時のソ連を批判しナポレオンはスターリンを意味しているらしいが様々な国の指導者に似た姿を見ることができるのだろう。
多分私が思ったことは殆どの人が感じることなのだろうが、それでもまた同じような権力と圧政が繰り返されてしまうのか。ボクサーがかわいそうでならないし、卵を取られて反抗したことで殺されるめんどりたちが哀れだ。

監督:ジョン・ハラス&ジョイ・バチュラー
1954年 / イギリス
posted by フェイユイ at 22:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 欧州 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月10日

『華氏451』フランソワ・トリュフォー

fahrenheit-451-DVDcover.jpg
FAHRENHEIT 451

これは観ねば観ねばと思いながら延び延びになってやっと今になって鑑賞。
というのはすでに内容が判っていたからでもあるし、演じる俳優たちがそれほど観たくなる欲求を抱かなかったからだが。
しかしやはり原作レイ・ブラッドベリ。監督フランソワ・トリュフォーとロマンチスト双璧と言いたい創作家たちの手になる作品ゆえ観始めるとこれはもう見入ってしまうのである。

何といってもまず素晴らしいのはその当時にあるものをそのまま使っただけ、のSF的背景・衣装・小道具。
やたらと予算だけは高いCGだのなんだのの豪華さだけが際立つ作品にはさほど興味はわかないが、なんとか工夫して未来的なイメージを出してみせるこの手作り感が愛おしい。
とはいえ赤い車で疾走する黒い服の男たちの外観は充分不気味に思えてくる。
モンターグの変化がとても興味深い。初めは政府側の消防士の中でもめざましい活躍を見せて昇進も確約されている男である。
(ところで日本語で消防士というのは凄く訳として困るね。ファイヤーマン、だとそのままの意味でいいのに)
彼らの仕事は「人々に余計なことを考えさせてしまう『本』というものをすべて焼却してしまうこと」
家は皆防火されているのでファイヤーマン(消防士)の仕事は消火ではなく『本』を燃やすことなのである。

彼は一人の若い女性クラリスに出会う。彼女は本の大切さを知っていてモンターグに目を付け仲間にしたいと近づいたのである。
モンターグには妻がいて一日中TV番組を見ては薬を飲んで何も考えてもいないし、覚えてもいない。そんな妻とクラリスをジュリー・クリスティが両方演じているというのも面白い。
何も考えずに生きていたモンターグは本を読みたいと思ってしまう。
そしてたちまちのめりこんでしまい、「追い付かねば」と読みあさるのである。
こんな世界には生まれたくないが、彼のその時の喜びを考えるとぞくぞくする。
ディケンズを読む楽しみ。
今までそれを知らなかった。なんということだ。
字を読み、物語が頭の中に入り込んでくる喜び。彼らの姿が浮かび彼らの心が自分の中に伝わってくる。喜びも悲しみも怒りも。文字が物語となるのだ!
ここでTVはすっかり悪役となって登場する。TVの中の人々は自分の「いとこ」であり、自分もTV番組に参加できることが何よりも楽しみとなる。
そしてついにモンターグが本を焼き尽くす消防隊長に我慢できず殺害してしまうのだが、政府はモンターグを追いかけることをあきらめ、だが大衆を満足させるためにモンターグを追い詰め撃ち殺す偽の映像を放送するのである。
まさか、ここまでは、と思うのだが、今のTV番組で実際やらせだの誇大表現だの偽りの映像だのと騒がれるのを見てると満更ありえなくもないのかもしれない。

TVに脳を侵されていく人々と対照的に「本」を愛していく人々が描かれる。
TVにも面白くて為になる番組もあるよ、とふて腐れる御仁もおられようがここでの「本」を愛する人々の描き方がとても素晴らしいので我慢していただきたい。
本を燃やす隊長を殺したモンターグはクラリスから聞いた森の奥の「本の人」(ブックピープル)のいる場所へと向かう。
その人々は一人ひとりが自分の好きな本を暗唱できるように覚え込んでいるのである。
たとえ政府が本を焼き尽くしても彼らの頭の中には「本」が入っている。死にそうな老人は孫に自分の「本」を伝承する。
モンターグは持ってきたエドガー・アラン・ポーを懸命に読み始めるのだった。
一人ひとりが図書館である、というなんともロマンチックな発想ではないか。大好きな本を覚え、次に伝える。いつかまた本にできる日が来るだろう。そしてまた禁じられたらそれを覚えて伝えるのだ、という彼ら。
もうラストも知っていたのになんだかじんわりしてしまう。美しいラストシーンなのである。

監督:フランソワ・トリュフォー 出演:オスカー・ウェルナー ジュリー・クリスティ シリル・キューザック アントン・ディフィリング アン・ベル
1966年 / イギリス/フランス
ラベル:思想
posted by フェイユイ at 23:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 欧州 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月07日

『気狂いピエロ』ジャン=リュック・ゴダール

PIERROT LE FOU.jpg
PIERROT LE FOU

ゴダールを今までなんとなく観てなくてやはり少しは意識して観てみるものかと思ったのだが、これがどうもうまく乗れなかった。
無論難解と言われているゴダール作品なので理解できたのかどうか、ということもあるのだろうが理解したいと思うような気持にどうしてもなれなかったのだった。

ちょうど気にかかっている事柄があって、大したことではないのだが、気が乗らないと映画鑑賞に集中できないものだ。
何故こう気が乗らないのかというと、フランスという国の文化に反感と抵抗を感じるものが凝縮しているようで元々フランス好きな人にはいいのだろうがこの軽さみたいなものがどうしても気を殺いでしまうようだ。
ベルモンドという俳優は確かにかっこいいんだけどそれがさらに観る気を失わせてしまうし彼を狂わせてしまう女性にも魅力を感じない。というかこういう女性の描き方、扱い方をする作品には心底反感を感じる。
サム・ペキンパーのような犯罪者の物語は好きだがこういうオシャレ系にまとめられてしまうとどうしても楽しめない。
どうせフランス語はわからないのだが、二人で詩を読むようにセリフをいうのも歯が浮いてくる。なんだか一つ気に入らないとずるずる駄目になってただもう悪口になってしまいそうだ。
その上、愛情も何もない、という作品で一体何が評価につながるのだろうと思ってしまう。
何につけてもふざけた様子、愛情はないが嫉妬はあって、人種差別や肉体的欠陥の差別などが感じられ、風景は全く美しくないし(なぜ美しくないんだろう)基本的にギャングが出てくる話が嫌いなうえに、登場人物を一人も好きになれない、ドキドキするようなことは何もなく、フランス語とフランス人自体を嫌いになってしまいそうな映画である。(ルイ・マルがいるからそんなことはないが)
難解とか嫌悪感を感じてもどこか一つくらい印象に残るいい部分がありそうなものだがすべてが嫌いだ。
そういうすべてが嫌いになるほど嫌な映画を作れるということが凄いのかもしれない。

ラストの爆破シーンはむかつくほど嫌いだが松ケンの『銭ゲバ』ラストシーンを思い出した。どおりでどっちも嫌いなはずだ。(ごめん。松山ケンイチは悪くないんだ。ただこういう破滅型っていう人間がきらいなだけ)

もし私が男でしかも年寄りでこのヒロインのような若い女性に憧れて映画を作るんでもこういう作品を作るような男にはなりたくないもんだ。自分をベルモンドに投影させて若い女に翻弄され破滅させられたって。勝手にしんでろ。

監督:ジャン=リュック・ゴダール  出演:アンナ・カリーナ ジャン・ポール・ベルモンド サミュエル・フラー グラツィエラ・ガルヴァーニ ダーク・サンダース ジミー・カルービ
1965年 / フランス
ラベル:犯罪
posted by フェイユイ at 23:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 欧州 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月05日

『永遠のこどもたち』J・A・バヨナ

EL ORFANATO.bmp
EL ORFANATO/THE ORPHANAGE

監督の名前はJ・A・バヨナだが製作総指揮のギレルモ・デル・トロの名前に惹かれて観た人も多いだろう。私もその一人である。
デル・トロ作品というと幻想的でありながら人情味溢れる物語であるというイメージが強い(あの『ヘルボーイ』も!)
さすがに総指揮の息がかかっているのだろうこの作品もまさにそういう類の作品になっている。

どうしても軽んじられがちな幽霊という題材で度々脅かしのシーンがあるのにも関わらず全体に厳かな品性があるのは作り手の持ち味なのだろう。
それにしても我が子(血のつながりはないとしても)を救うために髪を振り乱して見えない敵と命がけで戦う覚悟を決めるのは母親であるのは古今東西変わらぬことだが、彼女がよし、と腹を決める場面は確かに強い意志を感じさせてしまう。父親はどうも逃げ腰なのだがそういうところ、男性陣としては反論はないのだろうか(ないのだろうな)
母親が子供を助けるために必死で戦う、という物語は数えきれないほどある定番ものにも関わらず感動を呼んでしまうのは皆がそれを求めているからなのだろうな。映画『リング』も『ターミネーター』も『ダークウォーター』もそういう話だったが、アンデルセン童話の中で死の国へ連れ去られようとする我が子を追いかけ母親が目玉や若さを失っていく、という物語は最も恐ろしく心に残っている。特に薔薇の木に「私を抱きしめてくれたら道を教えてやろうだとか言われ全身に刺が貫くのを堪えて血を流すという場面はおぞましくもある種のエロチシズムさえ感じさせて記憶から消えることがないのだ。

見えないものを探す、という物語なだけにどうしてもいろいろと考えてはみる。これは本当に彼女の思い込みではないのか、本当は彼女が子供を殺したのだとは思われないのか。
突如登場する女性霊媒師も怪しいと思えなくもないがなにしろジェラルディン・チャップリンが偽物を演じるとは思えない、ということで納得せざるを得ない(そんなんでいいのか?(-_-;)
「母親であるあなたが信じれば必ず見つかる」
その一言で彼女は腹をくくってしまう。
もう彼女は何も恐れていないのだ。
ゲームで探し物を見つけたら願い事がかなうという。
彼女は言う「シモンに会いたい」
願いはかない彼女はシモンと再会する。
それは彼女自身が彼らの世界へ行くことだった。
物語の最初に「ママ=ウェンディはネバーランドに行けないの」とシモンが問いかけ「こんなに年取ってはいけないわ」と彼女が答える。
かつて自分もいた孤児院の中の残虐な方法で殺されてしまった自分以外の子供たちは大きくなることはない。彼女は年をとったウェンディとなって永遠の子供たちのいる場所へと行くのである。

監督:J・A・バヨナ 出演:ベレン・ルエダ フェルナンド・カヨ マベル・リベラ ジェラルディン・チャップリン
2008年スペイン/メキシコ
ラベル:愛情
posted by フェイユイ at 23:08| Comment(0) | TrackBack(1) | 欧州 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月29日

『ガンジー』リチャード・アッテンボロー

gandhi-movie.jpg
GANDHI

最近TVで放送されていたのだが自分は(いつものようにDVD鑑賞していたので観ていなかった。相方が「面白かったよ」と言うので残念になり観てみることにした。

さて何十年ぶりだろう。当時映画館で観たのではないだろうか。その時も感動したが今観なおした方がより衝撃を受けたのではないだろうか。

観た者は誰でもこんな人が本当にいるのだろうか、と思ってしまうのではないだろうか。
無論私はガンジーのことを他で調べたわけではないので、この映画で描かれたガンジーとして感じるしかない。
南アフリカにぽつんとやって来た若きガンジーは弁護士としてはやや頼りない存在だったのかもしれない。だがそこに住む差別されるインド人のために立ち上がった彼にはすでに強い信念がある。
「暴力をふるわれても決して暴力で返さない。しかし絶対に抵抗をすることは止めない」絶対に誇りを失うことなく戦い続けるがその方法は非暴力である、という揺るがない信念をこの時からすでに持っている。
そういう考え方をどこから学んだのだろうと思う。上位カーストの生まれでイギリスで弁護士としての資格を取っていて広い視野と高い知性を持っているからと思っていたら幼い頃寺院でいつも歌っていた歌が彼の考え方の基礎になっているのだという描き方がとても素晴らしかった。
ガンジーの思想であり自由を勝ち取るための戦法は単なる心優しさというだけでなく非常に効果的であるということも驚きである。だけどこのやり方はなんといっても人々を信じる心と忍耐が必要であるし、まま道を外れてしまいその度にガンジー自身が生命をかけて断食することで人々の心に訴える、というのだから生半可な信念では成立しない両刃の戦法なのであり、彼以外にこういう試みをやろうとはしないだろう。
肉を切らせて骨を断つ、とは言うが自分の肉を切らせることができる人などいないだろう。
しかもその苦しみを何度も味わうことを選んだガンジーという人は一体どういう人間だったんだろうか。

悪い人間を描いた作品はどう評価してもいいが、いい人間を描いた作品を批評するのは難しいものだ。
でも彼の考え方が実に合理的で論理だっていて数学的であることは確かだろう。なのに人間はどうしても合理的だけではすまないから厄介なものだ。
彼の言うようにすべての宗教が共存していく、という形はあり得ないのだろうか。
ヒンズーの男が「ムスリムに息子を殺されたから、ムスリムの子供を殺した」とガンジーに言う。ガンジーは「では親を亡くしたムスリムの子供を引き取りムスリムとして育てなさい」と答える。
すべての宗教は同じことを言っているはずなのにと彼は言う。なのに何故争いは絶えないのか。

彼を慕う欧米人が次々と現れる。カリスマ、という言葉はあまりに軽々しく使われ過ぎたようにも思えるが、彼にこそこの名前はふさわしい。
宗教も人種も越えて彼の考え方に動かされた人は数知れないはずだ。
ミーハー的に言えば、彼のスタイルもまた心をつかんでしまう。痩せて小柄な体でひょいと一枚の白い布切れをまとっただけで杖をついて物凄い速足で歩きまわる。後は丸いメガネだけ。
いかにも何物にもとらわれないいでたちでインドの聖人によくいる大げさな髭でもないのが親しみやすい。
また彼がいつも糸を紡いでいるのも印象的な姿である。無論糸紡ぎはどこの国でも女性の仕事だから随分稀有な存在だろう。
糸を紡ぐのは歴史を紡ぐことに重なるのだろう。すぐに糸をちぎってしまった女性カメラマンにガンジーが言う「私のように忍耐強くゆっくりと紡ぐのだ」
そういう姿はもう時代遅れなのだろうか。

監督:リチャード・アッテンボロー 出演:ベン・キングズレー キャンディス・バーゲン ジョン・ギールグッド マーティン・シーン ダニエル・デイ=ルイス エドワード・フォックス ジョン・ギールガッド トレヴァー・ハワード
1982年 / インド/イギリス

たくさんの見知った俳優が出ていた。悪い役のギールグッド氏などもいたがなんだか憧れの目で出ていた人が多かった気がする。
ダニエル・デイ・ルイスが若いガンジーにいちゃもんをつける嫌な役で出ていた。

こういう自分が悪役である映画をイギリスと言う国はよく作るところが凄い、と思ってしまう。他の国ではあまりないのではないかな。
ラベル:歴史
posted by フェイユイ at 22:29| Comment(2) | TrackBack(0) | 欧州 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月25日

第62回カンヌ国際映画祭【優秀脚本賞】 メイ・ファン 『スプリング・フィーバー』(ロウ・イエ監督)

第62回カンヌ国際映画祭

ハネケ監督『ザ・ホワイト・リボン』とても観てみたいですね。

【優秀脚本賞】
メイ・ファン
『スプリング・フィーバー』(ロウ・イエ監督)

【審査員賞】
『フィッシュ・タンク』(英国)
アンドレア・アーノルド監督

『サースト』(韓国・英国)
パク・チャヌク監督

気になってたロウ・イエ監督の『スプリングフィーバー』脚本賞です。おめでとうございます。
パク・チャヌク監督は審査員賞。これもすばらしい。

どちらも早く観たいものです!!

あと、ケン・ローチの『ルッキング・フォー・エリック』が全キリスト協会賞でしたね。凄い賞だ。


ベン・ウィショー主演『ブライト・スター』は残念でした。

アン・リー『テイキング・ウッドストック』、タランティーノ『イングロリアス・バスターズ』もどんな作品になったのでしょうか。気になります。

コンペティション部門
ていうか、観たい作品ばっかです。
ラベル:映画賞
posted by フェイユイ at 14:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 欧州 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月21日

『ウェールズの山』クリストファー・マンガー

englishman_who_went_up_a_hill_but_came_down_a_mountain.jpg
THE ENGLISHMAN WHO WENT UP A HILL BUT CAME DOWN A MOUNTAIN

90分ちょっとの短めの作品だが話自体は面白昔話ていう感じのコラムくらいの分量だと思うのにそれをこの長さに引き伸ばしてしまい尚且つ結構楽しく観せてしまうのが凄い。

こういう風に山を高くしてしまう、というのは案外世界中あちこちにお伽話とかではあるのではなかろうか。
うっすらとした記憶なんだけど教科書である男の夢に山の女神様みたいなのが出てきて「隣の山より高くなりたいから石を積み上げて欲しい」とか言われてしまいその願いをかなえる、とかいう物語があったような気がする。
ここでは隣の山というのではなくイギリス人の基準で305メートル以下は丘とされてしまうと言われたことに始まる。
ウェールズの村人が誇りにしている山がイギリス人の測量で299メートルと判り「丘」として地図に載ることに対しウェールズ人としての誇りを傷つけられたくないという傍から見たらおかしいようなこだわりと頑固さで村中の人々がふもとから土を運んで盛り上げてしまった、という実話なのが恐れ入る。
戦争中のことで青年男子がいない中、年寄りと子供と女たちで土を運んでいったわけである。作品中皆が口々に言うようにイギリス人に馬鹿にされたくないという意地がそうさせたのだ。82歳の牧師はホントにこれで5.6回往復して死んでしまったのだろうか。彼の場合は神の声も感じていたわけで殉死といえる。牧師は皆が盛り上げた土の中で眠るのである。

さてこのとんでもない企みの言いだしっぺが「好色モーガン」と皆から呼ばれ牧師からは特に睨まれている男で彼は村のあちこちで女性と関係して子供を産ませている酒場兼宿屋の主人でコルム・ミーニーが演じている。お馴染みの顔だ。
測量士の一人がヒュー・グラントでイギリスから来た紳士という役柄でもう一人の依怙地で少々怒りっぽい性格のカラードとは違い、この村に好意的なのである。
ミス・エリザベスと結婚することになったのは実話の一部なのだろうか。いくらなんでも違うと思うが本当だったらこれも凄い。

最後にその当時土を運んだというご老人方が山の上に整列。
昔の人は何でも力を合わせて偉いなあと思っていたら、映画撮影時に計測したらまた山が低くなってしまってて、盛り土の上で眠る牧師の怒りの声が響く。そこで今の村人たちがせっせと土を運ぶ所で終わるということで拍手喝采となるのだろう。
歴史、ウェールズ人のイギリスに対する気持ち、戦争、石炭労働者の過酷さなども織り交ぜられて独特のちょいと湿気のあるユーモアも楽しめる作品だった。

監督:クリストファー・マンガー 出演:コルム・ミーニー ヒュー・グラント タラ・フィッツジェラルド イアン・マクニース イアン・ハート
1995年 / イギリス
ラベル:歴史
posted by フェイユイ at 22:34| Comment(0) | TrackBack(1) | 欧州 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『ククーシュカ ラップランドの妖精』アレクサンドル・ロゴシュキン

KUKUSHKA.jpgTHE_CUCKOO.jpg
KUKUSHKA/THE CUCKOO

「不思議な」と形容したくなる映画は色々あったが、これはまたとても不思議な作品だった。
名前は聞いたことはあれどラップランドという馴染みのない土地が舞台である。すぐに思いつくのはムーミンが住んでいる場所というくらいだが、確かに彼らが住んでいそうなとても綺麗な風景である。観ているだけでも空気や水が冷たそうに感じられる。

冒頭部分は結構忍耐を強いられる。説明がないまま若いフィンランド兵士が岩場に鎖を杭につながれ置き去りにされる。彼は何とかして鎖を外そうと様々な試みをする。(この彼、マット・デイモンに物凄く似てる)
もう一つのエピソードが始まる中年のロシア兵士が秘密警察に捕まり車で連行される途中味方の誤爆で負傷してしまう。
この部分がかなり長く重苦しいので随分暗い映画なのかと思ってしまうのだが、そこに女性が登場する。
彼女はラップランド人で4年前戦争に行った夫の帰りを待っている。
タイトルどおり妖精がいて当たり前のような美しい自然の中にぽつんと彼女の家があるのだが丸太作りで何とも可愛らしい素朴な家である。高床の小屋もあって童話の世界みたいなのだ。
さて彼女アンニは負傷したロシア兵士を家に連れて帰り介抱する。そこへ杭から鎖を外すことができたがまだその鎖をぶら下げたままのフィンランド兵士がやってくる。

フィンランド兵士ヴェイッコとラップランド人アンニとロシア兵士はまったく言葉が通じない。しかもヴェイッコは裏切り者としてドイツ兵の軍服を着せられていたのでロシア兵は彼をナチスだと誤解して罵るのだった。
美しい大自然の中でたった3人しか生き残っていないような状況にすら思える。しかし時折認識できる単語はあるがまったく言葉が通じないということは本当に滑稽でもあり怖ろしい状態にも陥ってしまう。
アンニと若いヴェイッコは戦争を嫌い仲良くしようと思っているが中年ロシア兵士はアンニには好意を持ってもヴェイッコには敵対心しか抱けず、名前を聞かれても「パショール・ティ(くそくらえ)」としか答えない。ロシア語を聞き取れない二人は彼の名を「ショルティ(クソクラ)」と思い込みずっとそう呼び続ける。
すれ違うばかりでどうも頼りない二人の男に対しアンニは一人でさっさと家事をこなしていく。その力強さには見惚れてしまう。先日観た『コールドマウンテン』のルビーのような感じである。
実際人間に必要なのはどんな状況でも生きる為の食事を準備できる逞しさなのである。
そして傑作なのは4年間夫不在だったアンニが「いきなり二人も男が現れるなんて」と大喜びしていることで、特に若い兵士ヴェイッコのいい男ぶりに見惚れ彼が仕事を手伝おうとすると「触らないで。濡れてきちゃうじゃないの」と怒ったりする。無論言葉は通じてない。
アンニは決して美人じゃないがさすがに女に無縁だった二人の男はアンニに惹かれてしまう。
アンニが求めたのはヴェイッコだったのでロシア兵は嫉妬でおかしくなってしまう。
ある日、飛行機が墜落するのが見え、ヴェイッコとショルティはその場へ走る。それはフィンランドの飛行機でヴェイッコはそこにフィンランドが終戦しロシアと協定を結んだことを知り喜ぶ。だがショルティはいまだに彼をドイツ兵だと罵って飛行機にあった銃で彼を撃ってしまうのだ。

アンニは不思議なことを始める。撃たれて死にそうになっているヴェイッコの魂を死の国から呼び戻すのである。
彼は岩場に立っていて綺麗な少年(少女?)から呼ばれて下へと向かうのである。
この場面はとても不思議で日本人は日本の死後の世界のように感じてしまうのではないだろうか。
また私はル・グィンの『ゲド戦記』の第1話の中でゲドが死の国へ向かう者を戻しに行く場面を思い出した。とはいえル・グィンは『ゲド戦記』にアジア的なものを含めているのだから同じことではないだろうか。薄い太鼓を叩くのも仏教のそれに似たものがある。

ヴェイッコとショルティ(本当はイヴァン)は結局はアンニの元を離れ故郷へと帰る。
アンニはショルティとも関係を持ったのだが不思議にも双子の男の子が生まれそれぞれヴェイッコとショルティと名づけられたのだ。
ヴェイッコはいいがショルティ=クソクラと名づけられた方は気の毒だ。どうせ判んないとはいえ。(しかしクソクラって訳絶妙)

冒頭の重苦しい雰囲気を吹き飛ばしてしまうアンニの登場。日本人から観たら全然判らないことだが言葉の通じない3人が通じないまま生活をしていくおかしさ。通じなくても仲良くしようとするアンニとヴェイッコに比べロシア人ショルティの頑固な敵対心は馬鹿馬鹿しく思える。これは監督がロシア人だからこその設定なのだろうが他を侮蔑し攻撃する人間の浅ましさを描いている。一方素朴なアンニは彼らを時折叱りはするが二人の男が助け合っていたと思いこんでいる。ショルティがヴェイッコを撃ったのを後悔して慌てて彼女の家に連れ戻ったのも彼の優しさだと信じているのだ。
彼女の夫はとうとう戻らなかったのだろうか。
二人の男の子を産み二人の名前をつけて育てたアンニ。
素直に自然に生きることの素晴らしさを感じさせてくれる。

言葉の違う3人は考え方も違う。遠い国で馴染みの薄い場所だけに色んなことが面白く思える。
キノコが大好きなロシア人とキノコを食べるとおかしくなってしまうと信じてるラップランド人。サウナに一緒に入ることで少し仲良くなるフィンランド人とロシア人に対し垢を落とすと病気になると言うラップランド人。
作品中でヴェイッコがスウェーデンの大学に行ったがフィンランド人は馬鹿にされるという台詞がある。スウェーデンの小説マルティン・ベックシリーズの中でラップランド人の悪口を言う場面があり「僕の妻はラップランド人だ」とむっとする人物が出てくる。そういうことくらいしか知らない。
この映画を観たら皆この場所に行ってみたくなるのではないだろうか。誰もいないような静かで美しい自然の国。憧れる。

アンニの本名はククーシュカ=カッコウなのだ。他の鳥の雛を蹴落として自分の雛を育てさせるというカッコウの名を持つアンニ=ククーシュカが他人の子供を育てるという意味が込められているのだ。

監督:アレクサンドル・ロゴシュキン 出演:アンニ=クリスティーナ・ユーソ ヴィッレ・ハーパサロ ヴィクトル・ブィチコフ
2002年 / ロシア
ラベル:戦争 人種 言葉
posted by フェイユイ at 00:38| Comment(3) | TrackBack(0) | 欧州 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月18日

『ミス・ポター』クリス・ヌーナン

Miss Potter.jpg
Miss Potter

昨日に引き続きレニー・ゼルウィガー。どちらも彼女が出演してることは知らずにレンタルしたというとんでもない私だがもうすっかり大ファンなのだ。

私はワリと普通の年齢で結婚したので上手く言えないが、これは働く独身女性が観たら憧れの作品なのではないだろうか。というより既婚者である自分が余計に憧れているのだな。
いい家柄でありながら32歳独身、お見合いは次々と断り母親を苛立たせる娘は父親譲りの絵の才能と共にお話を生み出す力と自然を愛する心を持っている。
何不自由なく暮らせるお嬢様のビアトリクス・ポターが自分が書き溜めた絵を出版社へ売り込みに行くところから始まって(よく判らないのだがこの時代、女性がたった一人で(お付きの老婦人はいるが)出版者へ持ち込むとは度胸もいるのでは。今だってそうだろうけど)その場で弟のおねだりを聞いてやる為というのが動機とはいえとんとん拍子に出版が決まって訪ねてきたその弟編集者がすごくかっこいい上にいい人でミス・ポターの絵を心から気に入って彼女の為に熱心に働いてくれる。
なんだかこちらまでいい気持ちになって嬉しくなってしまうのは元々自分自身ずっと昔からのピーターファンだからだろうか。
私はこのブログで色々書いてるときはどうも極悪な感じだが告白するとこういう可愛いものに物凄く弱い。ピーターがお母さんに怒られている絵なんか見るといじらしくてたまらない。この映画でもところどころアニメーションになってピーターが動き出すのなんてニヤニヤして観てしまう。TVで放送されるピーターのアニメもポッターの絵を損なわず描かれていて素晴らしいし、彼女の原画はやっぱり可愛らしい。彼女の絵の中の動物達が動き出す、というのは頷ける演出だと思う。
とにかくビアトリクスとノーマンが互いの初めての仕事に熱中し次第に惹かれていく過程は本当に羨ましい。恋愛がこんなに互いのことを思い互いをよく知ることでより深まっていく、というのは素敵なことだと思う。
そしてノーマンのプロポーズ。こんなにはっきりと早く申し込むのだと思ってもなかったので驚き、両親の反対でやっぱりと思い、「3ヶ月離れて暮らしそれでもまだ思い合っていたら結婚してもいい」というビアトリスの両親の言葉にまさかノーマンが裏切ったりするのだろうか、とびくついてしまったのだった。
まさか、彼が突然に死んでしまうなんて。
まったく思いもしない展開だったのでビアトリクスと同じように(と言ってはいけないか)衝撃だった。映画でこんなにあっと思ってしまうなんて。親の出した条件なんか聞かずにさっさと結婚すればよかったとビアトリクスは何度も思ったのではないだろうか。あの時、離れなければ彼は死ななかったかも。死んだとしてもその日々を共に暮らせたのに。
彼の死後、ビアトリクスが家を出る時、父親に何も言わないがそういう気持ちがあったのではないだろうか。親の言うとおりだけ行動していたら後悔するだけだ。

イギリス田舎の丘陵地帯は何度見ても美しい。本が売れて印税でたくさんの農地と可愛い家を買ってそこに住んで絵を描く。
そして田舎に住む彼女に何かと世話をするヒーリス氏。彼もまたいい人で8年後に結婚。
もう夢のような話なんだけどビアトリクスの真直ぐさを見てると彼女だったらそうなるのも不思議ではないような気がする。

ピーター・ラビットの世界そのままの美しい作品だった。

ここでもレニー・ゼルウィガーの演じる女性像に惹かれてしまう。飾らないまっさらな感じがとても羨ましい。それでもやはり自分が愛するお話と描いた動物への愛着とそれらを生み出す誇りを感じさせる。ちょっと癖のある話し方が芸術家らしく思えた。
彼女を深く愛したノーマンを演じたユアン・マクレガー。彼の作品をそれほど観たわけではないがこんなに愛すべき優しい紳士という彼は珍しいのではないだろうか。髭のせいでより柔らかなイメージになっているのかな。

ヒーリスの少年期を演じたジャスティン・マクドナルドが可愛かった。

監督:クリス・ヌーナン 出演:レニー・ゼルウィガー ユアン・マクレガー エミリー・ワトソン ビル・パターソン バーバラ・フリン
2006年イギリス/アメリカ
posted by フェイユイ at 22:57| Comment(2) | TrackBack(0) | 欧州 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月14日

『プライドと偏見』ジョー・ライト

PRIDE & PREJUDICE.jpg
PRIDE & PREJUDICE

なんという情けなく空しい映画だろう。何もかもが嫌になってしまいそうだ。
多分こういう話が一番嫌いである。有名な作品なのでもっと深みのある硬質な物語だと誤解していた。
自分が女だから言ってしまうけどほんとに女が好きそうな話だ。広大な領地と屋敷と莫大な財産を持つハンサムな若い男が突然現れ、すぐにくっついては財産目当て(体目当て?)と観客に侮られそうだし、映画が終わってしまうから男がミステリアスで内気ということにしてすぐに心を開かないからヒロインは誤解して彼を嫌ってしまう。だが実は彼はいい人で彼女のために人肌脱いで見せヒロインも彼の真摯な心がわかって精神的な和解の後、結ばれる。
時代が時代なのでという言い訳もあるかもしれないが、そうは言っても今でも恋愛ものはいっぱいあってついた離れたという話が繰り返される。身分が低いとは言ってもそこそこの家には住んでいるのだし、キーラ・ナイトレイが演じて特上の美貌を持つヒロインが真直ぐな性格で運命を(というか婚活を)切り開いていく。
一体なぜコリンズ氏をあんなに軽蔑するんだろうか。この映画を観ている分には悪い所はないと思う。その上財産もあるのだから申し分ない。人に馬鹿にされて不器用だから夫にするのが恥ずかしいだけじゃないのか。リジーがコリンズ氏ををあんなに酷く言うことはない。結局彼が背が低くて顔がそれほど良くなくて(だからといって醜いというほどはない)あまり話が上手くないからなのだろう(と言ってもダーシー氏だって話は上手くない)リジーが「誤解してました」と言ってコリンズ氏と結ばれる展開なら(つまりコリンズ氏が後でいい人だと判って)私も少しは頷けるけど、ダーシーじゃ結局金目当てとしか思えないしね。妹と近親相姦なのの偽装結婚だとか、何か裏があるといいのに。むかむか。

しかし私がこんなことで怒って書き散らしても「ラブストーリーは綺麗なヒロインがハンサムで金持ちと男性と結ばれることでしょ。ナニ怒ってんの」と嘲笑われるのが落ちである。つまり私にはラブストーリーを観る資格がないのだ。

本当に悲しい時代である。女は結婚のことしか考えてはいけない。リジー以外のベネット家の女性たちは皆愚かしい存在として描かれている。
リジーだけがヒロインとして賢い存在として登場するが結局結婚のことしか考えてはいない。いや、本当につっぱねている妹がいるようだったが、それはそれでやっぱり嘲笑されている。
嫌な設定だ。両親は長女と次女リジーは美人で結婚の見込みもあるが他の娘は不細工で性格も悪いと見放している。何故そんなに嫌うのか。嫌っているから性格も悪くなったのか。今だったら三女の不細工で生意気なことばかり言う娘を主人公にするかもしれない。
世間体を考えてとんでもない悪党と結婚できるよう手配をしてくれるダーシー氏の思いやりはいいことだったんだろうか。
友人とリジーの姉の結婚は?リジーと結婚する為に取り返しのつかない酷い手配をしてしまったのではないのか。
それを感謝してる親子。なんでもいいから結婚することこそが幸せな時代だったのだと納得しなきゃいけないんだろうか。

それともこの物語、結局女は容姿で男は金というのが世の中の真実なんだと皮肉って見せているんだろうか。
だったらこの最後「かっこ悪いー」と笑うのが正しい見方なのかもしれない。もしそうならそうで嫌な話だ。
どちらにしても私はこういう作品は好きになれない。心底つまらない。

ダーシー氏の叔母に「婚約しないと約束しなさい」と言われ「そんな約束はしません」じゃなく「婚約はしません」というのは変だが。

唯一嬉しかったのはドナルド・サザーランド。年取ってもちっとも変わらずかっこいいんだもん。きゃ。

監督:ジョー・ライト 出演:キーラ・ナイトレイ マシュー・マクファディン ドナルド・サザーランド ブレンダ・ブレッシン ロザムンド・パイク ジュディ・デンチ サイモン・ウッズ ルパート・フレンド
2005年 / イギリス
posted by フェイユイ at 23:05| Comment(4) | TrackBack(0) | 欧州 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月12日

『真珠の耳飾りの少女』ピーター・ウェーバー

Girl with a Pearl Earring.jpg
Girl with a Pearl Earring

昨日に引き続き(またまた偶然)画家映画。これもまたフェルメールの絵からイメージを膨らませて作られたお話、ということですな。あの一番有名な『牛乳を注ぐ女』ではないというのはやはり少女の方が話が作りやすいからであろうか。もう一人の太った使用人女性がこちらのモデルではなかろうか。

冗談はさておき、映像美としては最高の出来栄えである。何と言っても『真珠の耳飾りの少女』であるグリートを演じたスカーレットのアップが殆ど占めているような映画なのに幾ら観てても見飽きない美しさである。女性のチャームポイントである髪をすっぽりと覆い隠し殆ど化粧もしていないようなのに(髪で殆ど顔が見えず目の周りが真っ黒な少女だちとは大違いだな、いやそちらがどうとは言わないが)表情もあまり変わらないような感じで笑顔も少ないのに真っ白な素顔と透き通るような眼差し、ふっくらとした唇に目が奪われて他のことはどうでもいいような気持ちになってしまう。おまけにこれもしっかり覆い隠してはいるのだがほっそりとしているのに胸がはちきれそうに膨らんでいて男だったらのぼせてしまいそうな若い魅力に溢れている。とにかくスカーレット・ヨハンソンを堪能する為の映画と言っていいのではないだろうか。
では他の要素、例えば物語はというとあまりに通俗的に過ぎるのではなかろうか。別にあっと驚かせるのだけがいい作品ではないが、入り婿(らしい)で義母が圧倒的権力を持っていて嫁にも頭が上がらず絵画以外にはまったく無能のようだとか、パトロンに牛耳られているとか、モデルの少女が新入りの使用人で娘や妻から激しい嫉妬を買うとか、パトロンの男が少女に言い寄ってくるだとかいかにもありそうなメロドラマ風でいただけない。『必殺仕事人』みたいにすっかり嫁姑に首根っこ押さえられているフェルメールのいつもぎゅっと口を結んで我慢してるのだとかがどうも情けないし、彼の人格というものが掴めない。
また(それが目的で観たとは言え)その男をコリン・ファースが演っているというのもハンサムすぎて納得できないのである(どうも画家はある程度不細工でないとしっくりこない。その点、昨日のゴヤは満点だった)
グリートがせっせと働く場面、フェルメールに顔料や絵画の技法について学ぶ場面は申し分なく楽しい。それだけにそれらを形作る物語が物足りないのである。その辺、先日観た『敬愛なるベートーヴェン』に似ている。
ただ『真珠の耳飾りの少女』を映像化するために彼女の純潔な美しさを壊すまいとパトロンの男から危うい所で助かったり、フェルメールとも肉体関係を持たせないという配慮がされているように感じてしまう。
それは全く成功しているわけだが、物語に驚きを求めてしまう自分としては物足りない作品になってしまった。

とはいえ、本当に美しい映像であることは確かだ。(物語は醜いと思うが)
昨日と同じ画家映画だが昨日のゴヤが簡単なスケッチから創造した歴史ロマンだったのにこちらは有名な一枚の絵画から極めて狭い家族内の物語になっていること、あちらのヒロインが心も体も破壊されたのにこちらの少女はその凛とした美を全うしたことなどの違いが面白い。
私はやっぱり醜さも美も吐き出したような『宮廷画家ゴヤは見た』に惹かれてしまうが。

フェルメールは好きです。ゴヤとは違いすぎて比べられませんね。

あ、この映画で一番好きなキャラクターはゴッドマザー的存在のフェルメールの義母さまだ。
被り物のせいで悪魔のようにも見える凄い迫力の方。財政難で金が欲しいために婿が娘以外の女(しかも少女)に近づく手伝いをするしたたかさ。孫娘といえど盗みをすれば罰を下す正義派でもある。

この少女の絵より『牛乳を注ぐ女』の方に際立って使われてうる深い青。映画の中でもウルトラマリンとして登場したがこの顔料が「ラピスラズリ」という高価な鉱石から取れるということでパワーストーンとして美肌効果があるらしい^^;心を浄化するとも。なるほどそういう色に感じられますね。


監督:ピーター・ウェーバー 出演:コリン・ファース スカーレット・ヨハンソン キリアン・マーフィ 
2003年イギリス・ルクセンブルグ
ラベル:美術
posted by フェイユイ at 23:20| Comment(2) | TrackBack(0) | 欧州 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月11日

『宮廷画家ゴヤは見た』ミロス・フォアマン

goyas_ghosts_.jpg
GOYA'S GHOSTS

ゴヤの映画といえばまずスキャンダラスな「裸のマハ」及び「着衣のマハ」そして怖ろしい「わが子を食らうサトゥルヌス」だとか突如変わって可愛らしい「ドン・マヌエルの肖像」とか「巨人」(最後の最後に出てきたが)とかの絵画が出てきそうなものだが、そういうメジャー系でなしにスケッチ画を元にした歴史ロマンに仕立て上げているのが面白い。
 
タイトルロールは「ゴヤ」だが主人公は彼ではなくバルデム演じるカトリック修道士ロレンゾと裕福な商人の娘イネスであり恐怖の異端審問にを通して教会と市井の人々の生活と思想が描かれていく。
かつてのカトリック教会の異端審問は怖ろしい。この作品ではやや下火になった異端審問を修道士ロレンゾがもう一度復活させようと進言することから始まる。
ロレンゾの人格描写の人間臭さ、嫌らしさは見事としか言いようがない。ハビエル・バルデムが見惚れるばかりのあの図太い顔立ち(あの横顔!)で演じてくれる。神を信じれば拷問を受けても神が耐える力を下さる、と言った側からあっという間に自白してしまうのは苦笑いだったが(修道士を逆拷問というのは驚いた。凄い肝っ玉の父親だがそれでも娘を救えなかった)美しいイネスの色香に惑わされ、教会から逃げるようにフランスへ赴き、フランス軍側に立って財産家となりカトリック教会の復活により結局裁判にかけられることになる。
だがここでロレンゾはもう逃げることをやめてしまう。それが何故だったのかはっきりとは判らないが家族と対立する立場にはなりきれなかったのかもしれない。
裕福な商人の娘イネスは力なき民の姿として描かれていく。罪もなく捕らえられ拷問によって異端者だと告白し修道士ロレンゾの子供を産む羽目になり子供は取り上げられそのまま牢に15年間閉じ込められる。出てきた彼女は長年の劣悪な環境とさらに拷問も受け続けたのか顔は歪み精神も磨耗しきっている。
彼女を強姦したも同じロレンゾをずっと慕い続ける姿は悲しい。最後、処刑されたロレンゾの手を握りしめて他人の子供を抱いて歩いて行くイネスが幸せそうであるのが痛々しい。
イネスに天使の美しさを感じた画家ゴヤはここではロレンゾと対照的な存在にする為に全くの善人として描かれている。実際はもっと享楽的な性格もあったらしいが。イネスへの愛はまったく精神的なものだがずっと彼女を思い続けている。絵画に対してもイネスに対しても献身的で真面目で情愛に溢れているが、あの皮肉たっぷりの悪辣な絵画やエロティックなマハなどを見てるともっと激烈な変わり者だったんじゃないかと思うのだが本作はゴヤが主人公ではないからこういう温厚な人間として登場したんだろう。ところでゴヤが最初出てきた時、チェ・ミンシクかと思って驚いた。よく観れば違う(当たりまえ)が、ずっと観ててもミンシクにしか見えない。ただ物凄く背が高そう(ミンシクも背は高いが、この人はバルデムを見下ろすほどでかい)
画家の目を通して歴史を描き出すというのは他にもあるがとても効果的で好きだ。

監督:ミロス・フォアマン 出演:ハビエル・バルデム ナタリー・ポートマン ステラン・スカルスガルド ランディ・クエイド ミシェル・ロンズデール ホセ・ルイス・ゴメス マベル・リベラ
2006年 / アメリカ/スペイン
ラベル:歴史 宗教
posted by フェイユイ at 23:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 欧州 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月10日

『オルランド』サリー・ポッター

ORLANDO.jpg
ORLANDO

女って大変だなあ、と自分も女ながら思ってしまう。男性であるオルランドが女性になった途端すべてが変わってしまう。外見も中味も変わっておらず変わったのは性別だけ、の彼女(彼)は男性である時は自由であり男性からも敬われていたのに女性という性になり女性としての外見=装いをした時から単なる観賞用の飾りとなってしまうのだ。男子を産まなければ財産も取り上げられてしまう。つまり女性というだけでは絶対にこの世に存在することができずいつも男性から養われる身でなければならない。
そういった女性としての条件を巧みに操りつつ生きていくのが女性なのであってだからこそ「女性は強い」などという言葉を揶揄を込め皮肉に笑いながら言われてしまうのだが、そうでなければ生きていけないのである。そういう男の見下した言い方を聞き流してさらに逞しく生き延びる女性もいるのだが(そういう女性が大半であるからこそ世の中成り立つのだが)どうしても反発を感じる女性もいるわけで、そういう女性たちが何らかの表現者になった時、どうしてもこのテーマを出したくなってしまう。「人間は何故男性と女性なのか」
女性作家でこういうテーマを元に小説なりマンガなり映画なりを作る人は多いが男性では少ないのではないだろうか(違うか?)
男性では男は男らしく女は女らしくあって欲しい人が殆どだと思うが女性がこのテーマに触れると「何故男の美徳と女のそれは違うというのか」「何故女性が子供を生むのか」「男と女が入れ替わることができたらどうなるのか」というような物語を作ってしまう。アーシュラ・ル・グインや萩尾望都の物語にもそういう問答が強く感じられる。

オルランドを演じたティルダ・スウィントンの確かに男女を超越したような美貌に見惚れてしまう。
ヴァージニア・ウルフの原作は知らないし今のところ読もうとは思わないがこの映画はとても魅力的な作品だった。ただ男性としてのティルダがあまりに麗しくてロシア少女とのラブシーンも女性同士と判りつつもというか判るからこそエロテッィクでもう少し長く観ていたかった。
しかし女性になったティルダもまた素敵なのだ。

こういう物語を映像化するために何とも豪勢で美々しい衣装と時代の描き方にはため息。貴族ってあまり居心地よくはなさそうだ。

監督:サリー・ポッター 出演:ティルダ・スウィントン ビリー・ゼイン シャルロット・ヴァランドレイ ヒースコート・ウィリアムス ロテール・ブリュトー ジョン・ウッド
1992年 / イギリス/ロシア/イタリア/フランス/オランダ
ラベル: 歴史
posted by フェイユイ at 22:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 欧州 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月09日

『アーネスト式プロポーズ』オリヴァー・パーカー

THE IMPORTANCE OF BEING EARNEST 2.jpg
THE IMPORTANCE OF BEING EARNEST

ジュディ・デンチ出演作を観たくて探してたら、そうそうこの作品があったのになんとなくスルーしてしまってたんだけど、観てみたらなかなか面白かった。
私は知らないで観てて「シェイクスピア風に物語を作ったのかな」と思ってたら原作はオスカー・ワイルドだったのね。どちらにしてもシェイクスピア劇をもじったような感じである。
「アーネスト」(つまり正直者っていう名前だね)という名前を使って人々のトンチンカンな騒動を面白おかしく描いた小作品。
 
田舎に住む紳士ジャックは町へ行きたくなると「不肖の弟アーネストがまた金の無心だ」と使用人及び後見をしている少女セシリーに説明し出かける。そして町では自らがアーネストを名乗っている。彼をアーネストと信じる都会人アルジーは都合が悪くなると友人バンベリーが病気だと言って田舎へ逃げ出す。
ジャックはアルジーの従姉妹グウェンドレンに夢中で求婚するが彼女の母親は出生に謎があるジャックを信用していない。
一方アルジーはジャックの留守中に屋敷に入り込んで彼の弟アーネストだと嘘をつく。そしてジャックが後見をする娘セシリーに恋をする。
そういうわけで話はもつれこんがらがっていく、というふざけた笑い話である。おまけにグウェンドレンはジャックに対し「私はアーネストという名前の男性と結ばれる運命なの」と言い出すので当のアーネストであるはずだが実はジャックは面食らってしまう。
名前なんぞどっちでもよさそうだがジャックとしては愛するグウェンドレンが愛しているのがアーネストという名前の男である、ということには我慢がならない。だが真実を打ち明けるわけにもいかない。

こんがらがってもつれた糸を最後に解きほぐしていくがちょっとした誤魔化しもあったりする。(原作では違うらしいが)
軽い調子のコメディなのだがこれって演出さえ変えればサスペンスだのミステリーだのになってしまいそうだ。
『アナザーカントリー』に耽溺した者としてはコリン・ファースとルパート・エヴェレットの共演だということがなにより嬉しいことではある。私はコリンが大好きだったのだが年齢をとってもちっとも変わらない気がする。昔の面影を見てしまうからなのかなあ。でもとても素敵だし、あの眼差しが可愛らしい。口が好き。
ここでは堅物であまり話が得意でないという性格がまた可愛かった。
労働者階級と貴族階級ははっきりとした一線があり結婚も許されないというのが建前だが案外内部を覗いてみればみんな何か問題や秘密を隠している、という皮肉めいた物語でもある。

ジュディ・デンチはやはり文句なしに素晴らしい。小さいんだけどこの迫力。凄い。

監督:オリヴァー・パーカー 出演:ルパート・エベレット コリン・ファース フランシス・オコナー リース・ウイザースプーン ジュディ・デンチ
2002年 / イギリス/アメリカ
posted by フェイユイ at 22:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 欧州 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月05日

『ヘンダーソン夫人の贈り物』スティーヴン・フリアーズ

Mrs. Henderson Presents.bmp
Mrs. Henderson Presents

いい映画だなあ。少し調子がよすぎて話が進みすぎる気もしたし、ヘンダーソン夫人が最初からそのつもりだったというのだったっけ、という気もしたけど、そんなことはどうでもいいくらいだし、変に意地っ張りの夫人だから心を出さずにいたのかもしれない。

物凄い金持ちの未亡人が友人の勧めでお遊びがてらに劇場を買い、改装、すぐさま支配人を選び、あっという間に評判の劇場となり、すぐに他から真似されて落ち目になってしまう。そこで考え付いたのがイギリスにはまだないパリのレビューのような女性のヌードを舞台に出すことだった。そのためにはヘンダーソン夫人の友人でもあるチェンバレン卿の許可が必要となる。お堅い卿の条件は「ヌードである以上絶対に絵のように動かないこと」だった。

一日中ノンストップの演しもので服を着たミュージカルの中に決して動かないヌード女性を配するというなんとも不思議な演出だが、彫刻風やら絵画風やらと工夫を凝らして様々に観客を楽しませる。
折りしも風雲急を告げ欧州は大戦へと突入しロンドンは激しいナチスドイツの空襲を受ける。
一番人気のヌードガール・モーリーンが「もう恋はしない」というのを聞いたヘンダーソン夫人は彼女に恋する若い兵士と引き合わせる。
彼女は妊娠して仕事を辞め若い兵士には別の恋人ができたという知らせを受ける。失意の中外へ出たモーリーンは空襲を受けてしまう。

チェンバレン卿の劇場閉鎖勧告を受け、ヘンダーソン夫人の強情さが最後に何故だったのか解き明かされる。彼女は先の大戦で息子を21歳の若さで失い、彼の死後エロ写真を隠し持っていたことを知る。息子が女性の本当の裸すら見ずに死んだことに母親である彼女は憐れんだのである。そして目の前の若い兵士たちに同じ思いをさせたくないとヌード・レビュー劇場をなんとしても閉鎖しないとはねつけるのだ。

ヘンダーソン夫人を演じるジュディ・デンチ。上手いのはもう判りきっているがやっぱりいい。ユダヤ人である支配人ヴァンダムと丁々発止とやりあいながら心の奥では彼に惹かれていて実は結婚していたことに衝撃を受け奥さんに冷たく当たってしまう。
夫の死にも人のいない場所で泣き声を上げ、人目を偲ぶようにして息子の墓参りに行く。いつも口が悪くて我儘と謗られてしまう彼女。行き過ぎたおせっかいを焼いてしまう彼女。完璧な貴婦人とは言い難いけど、とてもチャーミングな女性なのである。21歳の兵士に息子の姿を重ねた場面と最後にヴァンダム氏とダンスをする場面はちょっとしんみり。でもやっぱり口喧嘩はやめないとこがいいところ。
ヘンダーソン夫人に未亡人の手ほどきをする、という親友夫人がまた可愛い。
やっぱりどうしても見逃せないのが歌手バーティ役のウィル・ヤング。いかにもフェミニンなゲイ風だけど歌は凄くうまい。彼は地でも同じ話肩だった(笑)事実ゲイだとカミングアウトしてるらしい。可愛いっす。
見もののヌードレビューは本当に見惚れてしまう。動かない絵画や彫刻のようなヌードという演出が却って美しい。
登場する女性たちは当時の雰囲気を出すために今流行りの体型ではなくやや丸みのある手足でとても可愛らしい。
 
戦争の悲劇を描いた作品は様々にあるが、本当、ヘンダーソン夫人がいうように若い人たちが可哀想だ。兵士もそれを見送る女性も。どんな空襲があっても上演を続けるという意気込み、ガタガタ揺れる舞台で演じ続ける彼女達、劇場で寝泊りし、戦場へ赴く兵士たちに暫しの喜びを与える。
事実を元に作られた作品。ヘンダーソン夫人の思いもユダヤ人であるヴァンダム氏の思いも演じ続ける役者達の思いも込められていて、しかもなんとも楽しく力強い希望を感じさせてくれる(モーリーンやヘンダーソン夫人の息子さんの死は悲しいが)
スティーヴン・フリアーズ監督作品これもまた素晴らしかった。

監督:スティーヴン・フリアーズ
ラベル:歴史 戦争
posted by フェイユイ at 22:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 欧州 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月01日

『愛をつづる詩(うた)』サリー・ポッター

yes.jpg
Yes

台詞が多くて説明的過ぎる映画は面白くないがこれはもう台詞を聞かせる為の映画なのであった。
ベルファスト生まれでアメリカ育ち、イギリス人の夫を持つ裕福な生活をしている科学者である主人公は宗教に疑念を抱き細胞の研究に明け暮れていた。夫との仲は冷え切り会話もない。孤独に佇む彼女に声をかけたのはレバノン人の男だった。彼は学んでいた医学を捨てベイルートを離れてイギリスで一人コックとして生計をたてている。宗教、人種、置かれている立場や生活が全く違う二人だが互いに惹かれ愛し合うようになる。

イギリスで白人女性にいきなりレバノン男性が情熱的な愛の告白をすることがあるのかどうかは判らないが、それ以後の二人の会話、そして主人公の夫と少女も関わってきて愛憎劇が繰り広げられる。そしてそれらの物語を家や他の場所での掃除婦たちが見つめていくという形式になっている。特に家の掃除婦は「何も残さないでいられることはない。すべては“NO”ではなく“YES”なのである」「私たちは神に忘れられた寄生者」というような言葉を次々と話しかけ、掃除婦である自分たちの存在は見えてないものと同じであると言うのだ。

この作品は実にたくさんの問題を投げかけていて次々と様々なことを考えさせられる。
一つに、主人公とレバノン男性は全く異なった生活環境で愛し合っていてもいつしか人種、宗教、生活水準の違いが二人の間に亀裂を生んでしまう。だが思いをぶちまけ聞いていくことで理解しあう。それと違って夫は自分の美徳は感情を抑えることだと言って何も言おうとしない。それでは理解し合えない、と言うことも語っている。ここでは主人公側の言い分だけでなく夫の妻への思いも訴えられていて確かに主人公の欠点も見えてくるのである。
 
それにしても最後の彼女と彼のキスシーンが細胞の動きと重ねられ「よく見ると何も消えてはいない。形が変わるだけ」という台詞はその前に語られた「右から左へ動いただけ」という台詞も含めて何か皮肉っぽく聞こえる。

不倫も恋人たちが互いを罵る言葉も叔母の死も非常に苦々しい状況ばかりを描きながらやはり引き込まれてしまう。
二人が愛を取り戻したのが遠いキューバの浜辺だったのは互いが対等で見つめあいたいということだったんだろうか。それにしてもキューバの雰囲気って素敵だ。行ってみたい。

レバノンの彼が彼女に「君を洗いたい」と言って彼女が「私は穢れているの」と言って怒り出すところがある。まさに彼女は穢れているのだがそれを気づかない。彼にとって彼女の態度言葉はやはり傲慢なのだが彼女には判らないのだ。同じことを叔母も死の床で思っている。彼女が自分の死を見て泣き出し清められることを。
叔母の死には間に合わなかったが彼は生きている。彼女が彼との愛を長らえるよう願いたい。

この作品の原題は『Yes』だが、「Yes」という言葉について以前思ったのはこの言葉の意味って私にはまだつかめていないということ。
日本語では単に「はい」と訳されてしまうが英語圏の人々には「Yes」と言う言葉はとても重要な意味を持つようだ。「No」=否定、何もない状態、ではなく「Yes」=肯定、そこに存在すること、話したり行動したことは消えてしまうことはなく印を残すと掃除婦である女性が言う。掃除をし続けることが仕事だがすべてが消え去ってしまうことはないのだと。この地球で生きていて様々な民族の間でも、また夫婦の間でも絶えず何かの言葉と行動があり、それらの記憶を消してしまうことはできない。だがそれでもやり直すことはできるしそのためにはまた言葉と行動が必要になる。悲しいYesから喜びのYESに変えることはできるのではないだろうか。

監督:サリー・ポッター 出演:ジョーン・アレン シモン・アブカリアン サム・ニール シャーリー・ヘンダーソン シーラ・ハンコック
2004年アメリカ/イギリス
posted by フェイユイ at 23:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 欧州 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年04月30日

『ヴェロニカ・ゲリン』ジョエル・シュマッカー

VERONICA GUERIN.bmp
Veronica Guerin

これはもう何の文句もつけようのない優れた実話映画作品ではないだろうか。
アイルランドは麻薬がらみの映画が多いなと思ってはいたもののこういう状況だったとかこういう新聞記者がいたとかいう話はまったく知らなかった。
相変わらずケイト・ブランシェットはめちゃカッコいいがヴェロニカ本人の写真を見てもさほどイメージが違わないのが驚き。そしてケイトが演じたと同じように勇敢に突き進んでいく女性だったんだろう。
女性が活躍する作品だと女性映画というようなカテゴリに入れられてしまいがちだが彼女に関しては全くそういう次元の話ではないと思ってしまう。無論、彼女にも仕事と家庭の板ばさみの悩み「家族を大事に考えなければいけないのでは」というものはあるのだが、それはこの物語の主人公が夫であっても考えるだろう事柄である。女性の目からすればヴェロニカのダンナさんの包容力にまず感心してしまうし、仕事ばかりする妻に拗ねる夫に甘えてみせるヴェロニカにだからこそ夫の愛情と協力があるのだろうなと納得するのであった。
無論小さな坊やはまだお母さんに甘えたい年頃で可哀想だし、本当は母親を失うなどということと引き換えにできるわけはないのだがそれでもきっと母に誇りと尊敬と愛を持っていることは間違いないことだろう。

妖精の国アイルランド・ダブリンで麻薬に溺れ死んでいく子供たち、道路に散乱する注射器で遊ぶ幼児たち、子供たちを食い物にして金持ちになっていく悪い大人たち、そして他の大人はそれらを見て見ぬふりをしていると新聞記者ヴェロニカ・ゲリンは駈けずりまわるのである。
勇敢そのものに見える彼女も自分や子供を襲うと脅されれば震えあがってしまう。だが夫にすがりながら「絶対に私が怯えたと言わないで」と訴える彼女の強い意志と夫の「絶対に怯えたりしていない」と答える優しさと強さに打たれてしまう。

悲しいのは結局は彼女の死によってしか人々が動き出さなかったことだ。それまでも彼女は撃たれ殴られ脅されたが命を捧げなければ人々を動かすに到らなかった。なんという犠牲であることか。
彼女が死ぬ前に何故人々が動き法律が改正しなかったのか。命を投げ出さねば世の中というのは変わっていかないものなんだろうか。それでも自分の死によって国が変わったことを彼女が知ったら頷いてくれるだろうか。

最後に彼女以外にも多くの記者が仕事によって命を失っているのだという言葉がある。
人々に我々に物事を伝えるという仕事は命を犠牲にしてなされていくことなのだ。起きている事件を知ることはそれほど大切なことなのだ。
役者にも製作者にもこの作品を作り伝えようという情熱がこもっている訴えのような映画であった。

路上で窓越しにTVのサッカーを見てる酔っ払いみたいな青年役でコリン・ファレルが登場。ヴェロニカと他愛ない話をするだけの刺青男なんだけど。

監督:ジョエル・シュマッカー 出演:ケイト・ブランシェット ジェラルド・マクソーレイ シアラン・ハインズ ブレンダ・フリッカー ドン・ウィーチェリー バリー・バーンズ サイモン・オドリスコール
コリン・ファレル
2003年アメリカ
ラベル:犯罪 麻薬
posted by フェイユイ at 22:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 欧州 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。