映画・ドラマ・本などの感想記事は基本的にネタバレです。ご注意を

2009年04月26日

『モーリス』ジェームズ・アイヴォリー

E.M. Forster.bmp
MAURICE

1900年初頭のイギリス。上流階級の二人の青年の愛と友情と人生を描いた作品で最も優れたものの一つだろう。
多分映画を観たのが先だとは思うが、その後E・M・フォースター原作はもう何度も読み返したものだ。
先日観た『情愛と友情』の原作イーヴリン・ウォーの『ブライヅヘッドふたたび』の複雑さに比べると非常にシンプルすぎるほどの内容である。私はむしろ作者自身の後書きに感じ入ってしまったのだが、同性愛であるのか否か論じられるほどの『ブライヅヘッド』と違い『モーリス』は明確に同性愛を描いたものである。極めてシンプルな筆致も隠し立てのない意志が感じられる。だがこの小説が書き上げられたのが1914年、後書きが1960年、活字になったのがなんと私自身生まれて何年も経つ1971年ということで60年近い年月が経ってしまったわけだ(日本語訳は1988年になる)
さて感銘を受けたフォースターの後書きの中でも「ハッピーエンドにするのは必至だった。そうするのでなければわざわざ書きはしない。作品が許す限り永遠に彼らの愛を存続させようと私は決めていた」という部分には激しく揺さぶられるようであった。小説というものがこのような強い願いを持ちながら書かれるものなのかと初めて感じたのだった。そして作者のこの思いが小説の活字化を60年遅らせてしまったわけだ。
物語の結末が心中や絞首刑だったら受け入れてもらえたのだがフォースターはそれを望まなかったのである。
登場人物の造形も作者の思いを具象化する為に配置されたものである。健康優良な主人公は育ちも精神も真直ぐな人格者であり、彼を同性愛の方向に導いた友人は最初非常に魅力的であり彼を欺いてからは俗物に見えてくる。上流階級の人間である主人公の永遠の伴侶となる青年は労働者階級に属する為、話し方は粗野だが明晰な頭脳と美貌を持つ青年として描かれている。台詞も筋書きも構成も細部に渡って作者の願いがこもっている物語なのである。先にもかいたようにシンプルにわかりすぎ、また美しすぎる感もあるのだがすべては作者の思いがそうさせたのだろう。

前置きが長くなったが、映画『モーリス』は当時あの『アナザーカントリー』に引き続いて美形ゲイ映画として話題になったのだが、正直私は主要人物が3人とも外見的に好みでなかったので(『アナカン』はコリン・ファースがメチャ好きだったし『マイビューティフルランドレット』は二人ともマルな感じで)というしょうがない理由でそれほど夢中にはならなかった。むしろ小説の表現に惹かれるものがあった。
そう思ってはいたのだが、こうして観返してみるととてもデリケートないい映画だと思いなおしてしまった。
ジェームズ・ウィルビーは主人公ホールの実直さをヒュー・グラントはクライブの揺れる心をルパート・グレイブスは愛されるにふさわしい青年アレク・スカダーをそれぞれ非常に魅力的に演じている。
監督アイヴォリーはアメリカカリフォルニアの出ながらこの後もイギリスの格調高い『ハワーズエンド』や『日の名残り』も監督しているわけでなかなか興味深い。
本作で公表することなど身の破滅に等しい同性愛の感情を抱く3人(もしくは4人)の青年の葛藤の物語は今観てもなお見応えのある内容であった。惜しむらくはどうしても頭に入り込んでしまっている原作小説の細部と比べてしまうことで特に孤独に苦しむホールが闇にむかって「来いよ」と呼びスカダーが訪れて彼と初めての関係を持った後の朝の描写が物足りないこと(この映画より『藍宇』での雰囲気に近いものを感じた)同じくロンドンでの二人の逢瀬もまたしかりである。
ただラストシーンは原作のクライブが単純な俗物として揶揄されているようなのに比べ映画では彼が大学時代ホールを愛したことを思い出す場面で結ばれており彼もまた美しい思い出を持つ人物なのだと描いているのが監督の優しさのように思われた。
大好きではあるがやはり悲しげな最後になる『アナザーカントリー』と比較すれば『モーリス』は作者が望んだように明るい未来を感じさせるラストなのである。ホールとアレクは勇敢に他者と戦い続けるだろうし(これは『情愛と友情』での台詞だね)クライブにも未来があるのだ。

監督:ジェームズ・アイヴォリー 出演:ヒュー・グラント ジェームズ・ウィルビー ルパート・グレイブス ベン・キングズレー ヘレナ・ボナム・カーター マーク・タンディ ビリー・ホワイトロー
1987年イギリス


ラベル:同性愛
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2009年04月25日

『BOY A』ジョン・クローリー

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BOY A

この映画は作り方で大事なものを隠している。
重要な部分を最初から見せてしまうのではなく少しずつ小出しにしていくので観る者はどうしても主人公に偏った共感を持ってしまうわけである。
彼はどうやら少年期に重大な犯罪を犯したようだ、と思ったらまた現在に戻って彼が懸命に更生しようとする態度を見せられる。そしてまた彼の少年時代を見せられると確かにぼんやりとして勉強は不真面目のようだが友達思いで優しい子のようだ。その友達はどうも不良らしい。そしてまた現在で少女の危機を救うヒーロー的行動を見せられ、また昔犯した犯罪で悪魔と言われ罵られたことが判り、現在の友人と恋人との関係を見せられ最後辺りでやっと主人公が友達と馬鹿な遊びをしているのを少女に咎められ口汚く言われたことに友人のほうが先に怒り主人公が後に従ってどうやら殺害したことが判るが「残酷な」と言われるその現場は映されないし、言葉でもどうやって殺されたかの説明はない。
ナンだか巧妙に主人公を弁護していくような映画である。

映画は映画なのでフィクションである以上映像で見えていることが真実なのかもしれない。
しかしもし殺された少女の立場に立って映画を作ったなら全く違う内容になっていたかもしれないのだ。
少女が生意気な言い方で人を傷つけたかもしれないが命を奪ってもいいほどの内容には思えない。またこの場面は「本当にあったこと」なのか「主人公の記憶の中のこと」なのか判らない。主人公が勝手に少女が「そう言った」と思っているだけかもしれない。本当はまったく違う言葉だったのかもしれない。映画が現在進行でなく過去を思い出すスタイルつまり主人公が思い出しているのか、神様(つまり作り手)が観客に真実を見せているのかは判らないことなのだ。

映画の中の時間軸をこういう風に扱うのはある作品では幻想的で効果的だが、こういう事実を知りたい作品にはまるで嘘を構築しているような思いに捉われる。しかも最後に主人公が愛したミシェルの登場と台詞は明らかに主人公の幻想である。これによってそれまでの過去の場面も主人公の幻想かもしれない、と言っているようだ。

この作品は犯罪を犯した青年が立派に更生しようとしたのにどこからか秘密がばらされて青年を追い詰めてしまうことへの問題提議をしたかったのだろうか。
そういう犯罪者が(この映画をそのまま素直に受け止めるとして)皆この主人公のように悪気はないのに巻き込まれて犯罪を犯していまった者ばかりなら可哀想かもしれないが、無論彼らの中にはフィリップの方もいる。現場が映されてない以上少女を殺害している最中の主人公たちがどんな心境だったのかは考えも及ばない。主人公は何一つ語っていないのだ。彼はガールフレンドとのセックスが上手くいかなかったことも語られている。もしかしたら殺害と言う行動なくして性的興奮を持てなくなってしまったのかもしれない。寡黙で説明はないのだから何も判らないのだ。

映画の作り方で主人公を庇護し、観る者を惑わせる。

彼のアドヴァイザーである男性の描写も疑問だ。息子を責めているが絶対秘密の重要な問題をパソコン画面に出したままだとか、パスワードは側に書いてあったとか、わざと息子にさせたようなもんじゃないか。それで彼を責めるってのも。そういう親父だからこういう風になったということなのかもしれないが。他の子供を大事にして自分の息子はおざなりというのはよくある話だがこの描写ではまるで「こういう犯罪者にかまけている暇があったら自分の子供を大切にしよう」と言っているようだ。

そして最後、主人公は投身自殺しようとみせて登場人物及び観客すべてに脅しをかけている。しかもここでも巧妙に死んではいない!!
参ったね。この主人公じゃなく作り手はどう思っているのか。女の子はずたずたにさせたんだろ?主人公はどうしてずたずたに切り裂かないのかい?

監督:ジョン・クローリー 出演:アンドリュー・ガーフィールド ピーター・ミュラン ケイティ・ライオンズ ショーン・エヴァンス
2007年イギリス
ラベル:犯罪 少年
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2009年04月19日

『ペインテッド・レディ 〜肖像画の淑女〜』後編 ジュリアン・ジャロルド

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PAINTED LADY

なかなか楽しめたものの、前編の高い緊張感からかなり滑り落ちた後編、という感じかなあ。

ジュリアン・ジャロルド監督は『キンキー・ブーツ』にしても『情愛と友情』にしてもどこか煮えきれなくて、物足りなさと説明不足を感じてしまうのだが、本作からしてそういう傾向を感じさせている。
前半はね、これはまあ脚本のせいかもしれないけどとにかく美術ミステリーの雰囲気が濃厚で水準も高いのだが、後編になったらそういう美術の香りがなくなってしまったのが残念だ。後編はアクションを見せようということなのかもしれないが、せっかく前半に作り上げた学術的な楽しみを後半で失ってしまうのでは欲求不満になってしまう。
吊り下げられたセバスチャンが矢を射られてここでも「聖セバスチャン」の逸話となるのだがセバスチャンという名前だとこう射られていてはたまったものではないなあ。
ミステリーの元凶が同性愛関係にあった若き頃のチャールズとタッシだったということで物語がヘレン・ミレンと同性愛父子の二つに分かれていてそれがうまくかみ合っているのか、別にこれだとセバスチャンを主人公にして彼はゲイであることを父親に黙っていたが実は・・・というだけの話にしたほうがすっきりいくような気がする。
だってこれだとセバスチャンってぼーっとマギーが解決してくれるのを待ってるだけでどうもカッコ悪い。しかたないよね、ヘレン・ミレンを主役にして、という企画だったんだろうから。そこに同性愛絡みのミステリーを思い切り注ぎ込んでしまってるんだから。
セバスチャンが主人公だったらあそこで殺されたりせず、最後、父の恋人だった男性と対決することになるわけでこりゃなかなか怖い見せ場ではないか。セバスチャンもタッシに恋したかもしれないしね。ちょっと怖い展開だ。絶対そっちがよかったんじゃない?ヘレン・ミレンを脇役にするわけにはいかないだろうけど。
このドラマですごくよかったのはマギーの妹夫妻。ちょっと抜け加減のオリバーと生真面目なスージーは二人ともいい感じだった。しつこいけどこの二人が探偵でもよかったような(ヘレン・ミレンの立場ないな)

とても興味を持たせるけど、何か釈然としない、というのがジャロルド監督の特色なのかもしれない。
それにしてもフランコ・ネロは男らしくてかっこいい。やっぱりそういう系の設定だったのだと納得。『ケレル』の時もぶつぶつ言ってるだけだし、これでも話をするだけだけど、素敵ですわ。

監督:ジュリアン・ジャロルド 出演:ヘレン・ミレン イアン・グレン フランコ・ネロ マイケル・マロニー イアン・カスバートソン
1997年イギリス

追記:というわけでジュリアン・ジャロルド監督作品を3本鑑賞したことになった。3本とも表現は違えど同性愛を描いたものである。
いまだに同性愛をおおっぴらに題材にすることは難しい中でここまで大胆に正面きって表現してくれるのは嬉しいことなのだが、内容としてはやはり(というべきなのか)いまいち腰が引けてるというのか消極的に思えてしまうのだよね。
3本とも監督が脚本を書いていないので監督だけの責任とは言えないかもしれないがそれでも3本が3本ともどこか逃げている気がしてしまうのだ。それだけ同性愛というテーマが表現しにくいことなのか。単に監督の主義なのか。
『キンキーブーツ』でも不満だったのは主人公の男性とドラァグクイーンである男性とが親密な関係にならなかったことで主人公役のエドガートンが「ローラとキスしてもよかったんだけど」と言ってたのにそういう場面を作らなかったのは妙に肩すかしだった。そう言えばフェデリ子さんからも「マシューがベンともっと深い関係になってもよかったんだけど、と言っていた」と教えてもらったのだが俳優たちが大いにその気なのに監督が怖気づくというのも残念なものである。
それと3本とも男達の間に女性が入り込んでくることでゲイ関係が壊れてしまう、という展開になっているのはもやもやしてくる。
特に『情愛と友情』はセバスチャンとチャールズの間にジュリアが入ってきて二人が別れてしまうように思えるが、原作では(まだよく読みこなしてないので違うかもしれないが)チャールズとジュリアが深い関係になるのはもう少し後であり、セバスチャンがチャールズから離れるのはチャールズがジュリアというよりブライヅヘッドの家族特に母親マーチメーン夫人と深い関係になったからのように思える。セバスチャンが酷いアル中になってしまうのも宗教的な苦悩(多分自分がカソリックで禁じられた同性愛者であることに対しての苦悩)なのであってジュリアの存在のせいではないと思うのだが、映画ではジュリアが元凶のように見えてしまう。描き方が原作と映画で違うのは仕方ないとしても「女が原因で別れた」という描き方は陳腐な気がしてしまうのだ。
『ペインテッドレディ』でも父チャールズが恋人の男性から女性に心を移したことがすべてのミステリーの元凶であるわけで、息子セバスチャンにしても男性と性的関係を持つというだけの設定なので伴侶としての男性の恋人は存在しないのが寂しい。
とても興味を惹く題材を映像化するのに、どこか不満が残る作品になってしまうのはせっかくの題材から逃げてしまっているせいではないのだろうか。
男同士が別れた原因が女のせい、というのはこれ以上はいただけない。
posted by フェイユイ at 22:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 欧州 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年04月18日

『ペインテッド・レディ 〜肖像画の淑女〜』前編 ジュリアン・ジャロルド

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PAINTED LADY 

例によって作品の解説をよく読まずヘレン・ミレンが主役なのと名画強盗事件というので面白そうだと(そういうの好き)何気なく観ていたら冒頭のクレジットで監督がジュリアン・ジャロルドと出たのでびっくり。ジャロルド監督1997年TVドラマ作品だったのじゃ。

しかも絶対関係ないと思うが突端に殺されてしまう老人がチャールズ卿で彼の息子がセバスチャン(!)なのである。ちょい怪しい雰囲気の金髪の美男子で確かにセバスチャンの名にふさわしい^^;その上アル中ならぬヤク中だというじゃないか^^;おまけに怪しいなと思っていたらセバスチャンほんとにゲイでして前半の終わり頃に夜のカフェで黒髪の可愛い青年を引っ掛けてヤバいことになる、という展開あり(どこに注目してんだか)絵画ミステリードラマなのに(そういえばあっちのチャールズは画家だったしな^^;)セバスチャンという名前が呼ばれる度にどきりとしてしまう馬鹿な自分であった。

とにかくそういう自分だけの萌え話は置いといて、非常に面白いドラマなのだ。
ヘレン・ミレンはこのドラマの役どころよりはるかに年上とお見受けするがそれでもやはり魅力的で素晴らしい。元、人気歌手でドラッグにも溺れた経験がある男好きのする奔放な女性という設定である。今はもうすっかり人気はなくなったがアイルランドの田舎で音楽作りをしながら気ままに暮らしているというマギー。しっかり若い男もいるようだ。
ある晩、友人の父親で自分も父のように慕っていたチャールズ卿が撃たれて死んでしまう。彼の家からは絵画が一枚盗まれており、ずっとしまいこんでいたはずの絵が飾られていて保険がかけられていたという。
チャールズ卿の息子セバスチャンはドラッグ中毒で6万ポンドという借金を負っていた。
強盗事件はセバスチャンの企みなのか、息子の借金を返す為の父親の命を懸けた計画だったのか。
チャールズとセバスチャン両方に恩義を感じているマギーはのんびりした生活を捨て一肌脱ぐ為に立ち上がった。

ここで彼女が頼りにするのがロンドンで美術商として働いている妹。いくらなんでも都合よく妹が画商っていうのはなんだけど話が早いからどうでもいいや。そして普段はぼやいてばかりという妹のダンナがマギーの「美術商になりすまして盗まれた名画を取り戻す」という計画に普段の自分を忘れて乗っかりすっかり熱くなってしまう。妹スージーは奔放な姉の出現でダンナが豹変したことにややむっとしてるわけなんだが。
つーわけで売れない歌手からロシアのクランジスカ伯爵夫人に変身したマギーは美術の知識もないままにニューヨークの絵画オークションへと乗り込むのだ。

妹スージーの家で入浴するマギーがいるとは知らずスージーの亭主オリバーが入り込む場面が有名なダヴィッドの『マラーの死』のパロディになっているのがおかしい。しかも角度が違うのにさー。
スージーが得意とする絵画と盗まれた絵画が同じものだというのも随分強引だがそれがカラヴァッジオだというのもははーんジャロルド監督の好みでの選択ですな。持ち込んだ素描の絵もゲイだしなあ。
しかしカラヴァッジオ派の女性画家アルテミジア・ジェンティレスキが描いたという『ホロフェルネスの首を切るユーディト』がこのドラマで盗まれる絵画となっているのは何か意味があるのだろうか。ドラマ中でスージーが「この絵は男性には怖ろしい絵なのでしょうか」と話すシーンがあるのだが、ドラマで盗まれる対象となる絵がこれというのは凄まじいような気がする。普通はほら綺麗な女性の絵だとかさ。女が男の首をかき切っている絵というのがアイテムっていうのも。
あくまでもヘレン・ミレンが主人公で彼女が魅力的に撮られたドラマなのだがあちこちにジャロルド好みが散りばめられていてなんだか男性のヌードがよく出てくる。
それにしたって衝撃なのはそのセバスチャンがゲイであって美青年とのベッドシーンが少しながら出てくることで1997年のTVドラマでこれはよかったんだねえ、とそんなことばかり驚いてるのだった。ヘレンのベッドシーンはさすがにカットされてたし^^;一番の見所はセバスチャンvs黒髪君のナンパシーン&キス&局部でしょ。むしろナンパシーンの方がエロテッィクだったが。

時間的に前半だけを観たのだが明日の後半が待ち遠しい。
このドラマあまり借りられてないようだが美術ファン、ヘレンファン、ジャロルドファン&ゲイ場面を観たい方はなかなか楽しめるのではないだろうか。

美術商に扮したマギーが戦うのがニューヨークのトップの美術商でイタリア系のタッシなのだがこれを演じるのがフランコ・ネロ。フランコ・ネロって『ケレル』にも出てたしやっぱりそういう系なのかな?

監督:ジュリアン・ジャロルド 出演:ヘレン・ミレン イアン・グレン フランコ・ネロ マイケル・マロニー イアン・カスバートソン
1997年イギリス

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カラヴァッジオのユーディト

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ジェンティレスキのユーディト

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ダヴィッド マラーの死
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2009年04月16日

『耳に残るは君の歌声』サリー・ポッター

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The Man Who Cried

なんとなく始まりどうなるのか判らないように進行し終わらないところで終わるというどこか散漫な印象の物語構成なのだが、この作品においてはこれがいいのだと思う。人生にきちっと起承転結があるわけじゃなし、一人の少女がどんな風に成長してどんな所を目指していくのか何が目的でどこがクライマックスなのか誰にも判らないのだから。

先日から入り込んでいるロマ=ジプシーが出てくるのだがこれが本当にかっこいい。(ここではロマではなくジプシーと言っているからそちらがいいのだろうが)迫害されながらも自由に生きて音楽を愛する民族として描かれているのだ。その音楽と踊りは情熱的で悲しみを含んでいる。深刻とまではなくても静かな重い雰囲気がある。私が今までジプシー=ロマに対して抱いていたイメージそのままである。それが先日『ジプシーキャラバン』と『ガッジョ・ディーロ』で彼らへの迫害と差別はもっと悲惨なものでありまた彼らの生き様と性格はもっと明るくぶっ飛んだものだと知ったわけなのだが。
つまりはこの作品でのジプシーはかっこいいものだったので「あ、みんな(というか一部の芸術家なんかだろうが)やっぱりこんな風に憧れているのだな」と納得もしたのだった。
主人公のフィゲレはロシアに住むユダヤ人村からイギリスへと逃れてくる。父親はそれ以前に働き口を探してアメリカへと渡っており、その後、貧しいユダヤ人村は迫害を受け焼き払われたのだ。
イギリスの裕福な家庭に引き取られ育てられたフィゲレはスージーと名づけられ英語を学ぶ。だが学校では話ができないことと黒髪であることから「ジプシー」と呼ばれ蔑まれる。
そんな折、旅のジプシーが通りかかりフィゲレ=スージーは彼らを見送るのだった。
90分ちょいの短い映画でありくだくだしい説明が省かれているからよく考えて観なければいけないだろう。
ユダヤ人であるスージーは無論ナチスから睨まれることになるわけだが、同じくジプシーたちもナチスの酷い弾圧を受けるのである。
歴史を知ってこの映画を観ることは怖ろしいことである。早く逃げろと言われているのに何故か留まろうとするスージーを見てるとはらはらしていつナチスが飛び込んでくるやらと肝がつぶれてしまいそうだ。そういう私はダンテと同じドイツ側じゃんということもあるがさ。
ロシア人であるローラもまたナチスを見て穏やかではいられないはずだ。
人種と言葉と宗教とが複雑に描かれた作品でもある。スージーもローラも母国語は隠して英語そしてフランス語を話さねばならない。そしてジプシーの言語も物語に加わる。
スージーは幼い頃歌の上手い父から聞いた歌を心に抱いている。そしてその歌声も父から授かったものでその才能が彼女を生かしていく。
物語が歌によってつながり変化しまたつながっていく。たった一人で生きていかなけらばならないスージーは歌によってどこかへと導かれていく。そしてそれはやがて父のいる所へとつながっていくのだ。
ロシア人であるローラ、歌の上手いダンテ、同郷の出だった大家のおばさん、スージーがそう呼ばれたことで気になるジプシーの人々そしてジプシーのチェーザー。愛したり憎んだりはしてもどこかで彼女とつながりがある人々なのだ。そして彼らにも様々な思い、人生があることをこの物語は細やかに描いている。そして彼らの運命もどうなるのか誰も判らないのだ。

本作でもローラ役のケイト・ブランシェットが魅惑的である。男を利用しようとして自分を見失いかけだがその男の冷酷さにさっと身を引いた彼女だが自由の国へと向かう途中でやはり命を失ったということだろうか。スージーを見捨てようとしながらそうしなかったできなかった彼女にほっとする。
そして何と言ってもこの映画の魅力はジプシー・チェイザーを演じたジョニー・デップだろうね。
ここでのジョニーは他のどれよりかっこいいんではないだろうか(ってこの前も書いたような)ジプシーの悲哀を着込んだ黒いほつれ髪のジョニーの眼差しにはまあ皆さんやられてしまうことだろう。
白馬に乗って走り去る彼、スージーの膝を広げていく彼のなんとセクシーで素敵なことか。
その愛を受ける主人公スージー=クリスティーナ・リッチ。ちょっとファニーな顔立ちが異国的で小さな小鳥であるフィゲレにぴったりだった。いつも睨んでいる彼女がやっと父親に会えて泣き出す時、彼女の願いの一つがかなったことを嬉しく思った。でもその成長する間に彼女はまた色々な思いや願いを持つことになる。
彼女がまたこれからも旅をしていくのだ。彼女の歌がその旅をまたつなげていくのではないだろうか。

冒頭スージーが荒波にもまれる場面はそのまま彼女の人生を表している。彼女は幼い時からずっといつ死んでも不思議ではないような波の中を生き抜いてきたのだ。
父親と別れた後、村が焼け出された時、小さな彼女が一人でよちよちと人並みに飲み込まれてイギリスへと渡った時、学校にも養父母の家にも馴染めずに孤立していた時(養父母は悪い人たちではないのに気の毒だった)パリでも身を持ち崩したかもしれないし、ユダヤ人だとナチスに知れた時は最も死に近づいていたかもしれない。そしてアメリカへ渡航中の爆撃。
だが死んだのは(多分)彼女以上に図太く生き抜いてきたローラのほうだった。フィゲレ=スージーはいつも誰かの助けを受けながら生き抜いてきた。不思議な縁がつながっていく人生なのである。

監督:サリー・ポッター 出演:クリスティーナ・リッチ ジョニー・デップ ケイト・ブランシェット ジョン・タトゥーロ ハリー・ディーン・スタントン パブロ・ベロン オレーグ・ヤンコフスキー
2000年 / イギリス/フランス



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2009年04月15日

『ヘヴン』トム・ティクヴァ

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HEAVEN

『パフューム』を観てティクヴァ監督作品を観ていこうと思い、有名な『ラン・ローラ・ラン』を観て『ウィンター・スリーパー』を観た時点で止まってしまったんだけど(つまりこれがあまり面白くなかった)これを先に観るべきだった。

ケイト・ブランシェットが大好きなせいもあるけどなんとも心惹かれる物語だった。
ティクヴァ監督の描く恋愛は一般常識とは違った形であるようで、ここでも間違いだったとはいえ子供を含む4人の罪なき男女の命を奪ってしまった女と取調べで通う。訳をする若い男の不思議な恋物語である。
始めは男の一方的な一目惚れなのだが、女の方が10歳くらいは年上だろう。彼女が初めての聖体拝領の年齢の年に彼が生まれたというのだから。彼らはそのくらい年齢差があるのだが誕生日は同じだという。そして名前はフィリパとフィリポ。イギリス人とイタリア人なのだが不思議な縁で結ばれているとしか思えない。
フィリポは罪人であるフィリパと出会った時から好きになってしまう。夢に見てシーツを汚してしまうほど(無論、夢精したのだね)
うっかりした間違いでのこととはいえ4人の人殺しである彼女を救い出すとフィリポは決意する。
小柄で一見優しげな風貌の彼だが行動にはまったくのためらいもない。フィリパはそんな助けに最初戸惑いながらも共に逃亡する。
共に坊主頭にして粗末な身なりで逃げていく二人の旅はまるで殉教の旅路のようでもある。
やがて追っ手である憲兵隊が彼らを追い詰める。最後かと思った瞬間、二人は憲兵のヘリコプターに乗って空高く「天国=Heven」へと舞い上がったのだった。

人々を助けようとした行動が罪なき人を殺めることになるフィリパ。そんな彼女に恋しフィリパの正義を信じて救おうとするフィリポ。
外から観る者にはとんでもない行動としか思えない。フィリポの揺るぎなき愛と決意は一体なんなのだろうか。
フィリポの弟くんの愛らしさと賢さ勇敢さ。お父さんもいい人だし。深い絆があって。そんな風な家族なのだな。

ケイト・ブランシェットって見惚れてしまう。かっこいいんだよなあ。ぽっ。
監督:トム・ティクヴァ 出演:ケイト・ブランシェット ジョバンニ・リビジ レモ・ジローネ ステファニア・ロッカ アレッサンドロ・スペルドゥーティ
2002年ドイツ/アメリカ/イギリス/フランス
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2009年04月13日

『裸のランチ』デビッド・クローネンバーグ

裸のランチ.jpg
NAKED LUNCH

なんとなくこの映画を観てしまったのだが、実を言うと観るまでいまいち気が乗らなくてこれにしなければよかった、などと頭の中でぼやいていたのだった。
ところが観始めてしばらく面白さに入り込んでしまった。
バロウズ、及び麻薬を扱った小説の類に若い時は非常に興味があって読み漁ったりしたものだが、自分自身では体験してもないし、する機会も(幸運なことに)なかったし、よくあることだろうが年齢を重ねる内にすっかりそういう世界を覗き込むことから離れてしまった。
だもんだから、この映画ももうすでに過去の興味にしか過ぎないようでまた現実逃避の男の物語かとヒース・レジャーの『キャンディ』で味わった『麻薬撲滅運動』的な内容を予感してしまったのだった。
とんでもなかった。まだ私はクローネンバーグがどういう創作者なのかよく判ってないようである。
1940〜50年代の雰囲気がある種、不思議な異次元感覚を出すものなのだとも感じられた。主人公ウィリアム・リー=バロウズ役のピーター・ウェラーの尖った顔と青い目と痩躯も文句なしに素晴らしい。
害虫駆除の仕事をする主人公が配給される駆除剤の減りが早いので疑問に思っていると彼の妻が麻薬代わりにそれを注射していた、というのにまず驚き、「フッ素」だの「除虫菊」だのが麻薬代わりになるのだという説明が信じ難くも面白い。
ジャンキーの妻と違い主人公ビルはまっとうなように見えていたのに彼が警察署でゴキブリのお化けを見せられた時、すでに彼の脳が侵されていることを知るのである。
このゴキブリのお化けは次に彼の愛用のタイプライターにも姿を変えるがその背中に(人間の)尻の穴があり、それがぺちゃくちゃとおしゃべりをするといういかにもゲイらしい妄想でありグロテスクながらユーモラスでもある。
後はもうビル=バロウズの薬による彼の内的世界=インターゾーンの面白さをたっぷり味わうことになる。
透き通った青い目のウェラーが神経症的に生真面目であるほど世界の歪みの奇抜さが際立って見えてくる。
唐突に登場する奇妙な生物の醜悪さ。普通の生活をしながらそういう異次元の物体が存在し彼の思考を混乱させる話をする。
私がすぐ連想したのは吾妻ひでおの世界でタイプライターが奇怪な虫であるとか気持ちの悪い異世界人の口の中でタイプを打つとかその頭から得体の知れない液体が滴り落ちているだとか吾妻っぽい。ただし吾妻ひでおには可愛い女の子がエロスとして登場するがバロウズ世界ではゲイの表現になるわけで可愛い女の子よりはゲイの表現、話をする尻の穴、美青年を背後から犯す怪獣、ビルと関わる女性が妻のイメージだけ、もう一人の老女はベンウェイの女装だった、ということで強固なヘテロ人間にはロリータよりも気色の悪いことは確かだろう。そういう意味でこの映画に拒否反応を示す場合もあるだろうし。
妻の頭を撃ち抜くことで「作家として認める」という結末も反感を買いそうだが、すべてがブラックジョークなのだと楽しめばいいのである。
(そう思えるか、思えないかが好みを分けるわけで、この作品は私にはジョークとして愉快だが、別の作家だと嫌だったりするのだからね)
そしてまたここでもインターゾーンがモロッコ風だったりするのだが1900年半ばまでのアフリカ北部が欧米人にとっての逃避場であることが(『情愛と友情(ブライヅヘッドふたたび)』でもそうだったように)わかるのだ。

クローネンバーグの描くバロウズ世界が映像で許される範囲内で上手く表現されている。
ビルがドラッグを使用している映像はなく、映像そのものがすでに薬漬けになっている。ビルがあからさまに同性愛行為を行う場面はなくてもビルの言動でそれを拒絶したり否定することはない。
架空の麻薬による幻覚が彼の生活と精神を蝕んでいく。そこには恐怖と嫌悪感と共におかしさも含まれている。人間の脳が作り出す奇妙な異世界を覗き見る興味を自分はまだ失ってはいないようだ。

監督:デビッド・クローネンバーグ 出演:ピーター・ウェラー ジュディ・デイビス イアン・ホルム ジュリアン・サンズ ロイ・シャイダー
1991年 / イギリス/カナダ
ラベル:異世界 麻薬
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2009年04月12日

『いのちの食べかた』ニコラウス・ゲイハルター

いのちの食べかた.jpg
Unser täglich Brot、 Our Daily Bread

日常私たちが食べている肉や野菜の生産現場を映しとったものであった。
インタビューや説明などは一切入らず、字幕なしの現場の音声のみのドキュメンタリー映画だ。

何と言っても圧巻なのは牛や豚、ニワトリの屠殺、解体作業だ。それらの作業の手際のよさには見入ってしまう。
こうした無駄のなさ、清潔感のある一部始終はドイツ近辺の場所だからなのだろうか、昔からドイツの刃物で解体作業をするのは切れ味が凄くて見事だと聞いてはいたが。
とはいえ、監督自身の別撮りのインタビューで「こういう現場を撮影するのは許可がおりない、と言われていた」のだそうで肉食の多い土地柄ゆえそういった仕事に対する差別意識は全くないのだそうだが、さすがに「動物の命を断つ」という行為にはなにがしかの困惑、同情、拒否感、見たくない、見せたくない、という意識が働くのは人間として当然だろう。
ここで監督が何故このドキュメンタリーを撮ったのか、何か問題(BSEだとか毒物混入だとか)があったためか、と聞かれ「そういうスキャンダルのせいではなくただ日常の食べ物に対して知りたい、と思ったのだ」という答えはなるほど、と思えた。
日本人でも魚をさばくことができなくなり、最初から切り身が売られている、という現状である。ましてや牛豚鶏などを解体できるかと言われたら腰が引けてしまうだろう。
果たしてこの工場で働けるだろうか。ここまでオートメーション化されてたらできるかも、初日はかなり震えそうだが。でも臭いが大変だろうし。あの声が我慢できるか。段々慣れてはいくだろうけど。血液、体液がどばああっと出るしね。やっぱり実際にならなければ判らない。

どうしても動物のほうが記憶に残っているが、ひよこたちなんてぽいぽい放り出されて詰め込まれて、子豚もなにやら痛そうなことをされてて、牛の帝王切開はさすがにびびった。種付け、横取りされて気の毒な。乳牛ほんとにおっぱい大きい。
牛は大きいから迫力あって屠殺も一発電気ショックかな。あっという間にのびて吊り上げられ革はがれて縦に切断。
豚や鶏は裸にされて逆さづりされてると人間のようにも見えておっかない。しかしどの作業もすばやい。きれい。あっという間である。後始末も高水圧で消毒。見事。

人によってはどうしても見れない、ということもあるだろうけど、これはやっぱり見る価値はあるんじゃないかな。
さっきまで鳴いてた牛豚鶏が一瞬で食肉になってしまう。そしてそれを私が食べている。
そういうことなのだな。

監督:ニコラウス・ゲイハルター
ラベル: 動物 人間
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2009年04月05日

『昼顔』ルイス・ブニュエル

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BELLE DE JOUR

いつも同じことを書いてしまうのが申し訳ないのだがまた今回も「昨日とどこかでリンクする」作品であった。

というのはまるきりこれは『胡蝶の夢』ではないか。
というよりこの映画の目的は最高に美しい時のカトリーヌ・ドヌーブを最高にエロチックに撮る為にブニュエル監督が仕掛けたセクシャルな「プレイ」なのである。
妄想とごっこ遊びでこの上なく上品な美貌の持ち主であるドヌーブをいかに貶め辱めを与えるかの羞恥プレイを裏テーマとして持ちながら表向きは貞淑な人妻の懊悩を描いていくという、まあそれもまたセクシャルなので2重に楽しめるということなのだろう。

裕福な結婚をした貞淑な妻という存在のセブリーヌはハンサムで優しい夫とどうしてもSEXができないでいる。彼女を愛している夫は寂しさを感じながらもそんな妻を許し慰めている。
だがある日、女友達から「娼館」というものがあることを聞き、彼女は突然そこを訪ねていくのだった。
とはいえセブリーヌはいつも性的な夢を見続けていたのだ(この夢がドヌーブへの羞恥プレイなのだが)夫とのSEXを拒否しそのことを嫌っているかのような彼女が夢の中では淫らな体験をしていく。
実際に売春を始めてからさらに彼女の夢も屈辱的なものになっていく。

しかしどこまでが夢で現実なのかも本当のところよく判らなくなってしまう。
一体、彼女は本当に娼婦になったんだろうか。それすらも彼女の妄想か夢だったのかもしれない。彼女が次第に明るくなったからといってそれもただ妄想による変化だったともいえなくもないし。
が、そうなってしまうと映画自体が妄想、ということになってしまいそうである。
売春をしたことから妄想なのか、マルセルという変な客と関係を持つことからが妄想なのか、或いはマルセルが自宅に来たことか、夫が撃たれたことか、どこからが妄想なのか、現実なのか。
夫が撃たれたことも現実だったとしてもセブリーヌの秘密をしった男友達の見舞いは妄想だと受け止めていいのか。
夫と抱き合い語り合うラストシーンはどちらなのか。すべてが彼女の夢だったのか。

すべてはお客様のお好みで。ということでもあるかもしれない。

キム・ギドクの『うつせみ』も思い出させる。
このどこまでが夢か現実か、というあやふやさがまた作品の不安定な主婦の精神とも重なり合い、ドヌーブの美しさが清純にも淫らにも見え、何ともいえない妖しい艶かしさではないか。
上品だからこそ男心を誘う、というエロチシズムの極みである。
夜に咲く花ではなく、昼にその色香を漂わせるというこれも意味深な名前である。

フランさんから教えてもらったマルセル役のピエール・クレマンティ。うーん、凄いキャラクターだ。
ギラギラの差し歯に仕込みステッキ。只者ではない雰囲気。なんかこう爬虫類的に気持ち悪いところが目が離せない不思議な魅力。暴力を加える事に何のためらいもない様子とか。
この存在もセブリーヌの妄想なのだとしたら彼女の性体験の相手の異常さが彼女の欲望の異常さも物語ってるわけで。
是非彼の他の出演作も観てみたいところなのだが、パゾリーニは全然レンタルできないのだよねー。残念。

監督:ルイス・ブニュエル 出演:カトリーヌ・ドヌーヴ ジャン・ソレル ジュヌヴィエーヴ・パージュ ミシェル・ピッコリ フランソワズ・ファビアン
1966年フランス
ラベル: エロチシズム
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2009年04月02日

『ガッジョ・ディーロ』トニー・ガトリフ

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Gadjo Dilo

フランスの青年ステファンが亡き父の愛した歌手「ノラ・ルカ」を求めて旅をする。「ロマ」の歌手である彼女を探しにステファンは遠い道のりを歩いてロマの村を訪ねたのだが。

ルーマニアらしきロマ=ジプシーの住む村に入り込んだステファンは言葉も通じず『ガッジョ・ディーロ=愚かなよそ者』として嫌われ追い出されそうになるが彼を気に入った老人イジドールのとりなしで彼の家に滞在することになる。だがステファンの目的は歌姫ノラ・ルカを探し出会うこと。暫くして出て行こうとするステファンをイジドール老人は懸命に引きとめるのだった。

この映画の最大の魅力は何と言ってもこのイジドール老人で彼は全くの素人だということが信じられないほどいい顔で素晴らしい演技者である。バイオリンの名手で人懐こくて煩くて酒飲みで女好きで感情豊かなイジドールにステファンは振り回されながら惹かれていく。
そして実際に歌手であるというサビーナ役のローナ・ハートナー。エロチックなまでにセクシーな美貌。最初はステファンを嫌い荒っぽい性格なのだが次第に彼を好きになっていく。酒場で酔っ払ったステファンに歌を歌う場面がぞくりとするほど印象的だ。
ノラ・ルカを探しロマの歌をテープに録音していくステファン。ロマ語を解しないよそ者ながらロマの人々と音楽に魅了される。そしてサビーナを深く愛するようになる。
ロマを愛し理解したと思っていたステファンが最後に録音したテープを叩き壊し自分が『愚かなよそ者』だったと泣く。

先日『ジプシーキャラバン』を観てもっとロマに関する映画を観たくなって手にした。監督自身がロマである、ということもあるのだろう、淡々とした作品ながら何とも言えない深い味わいがある。音楽も踊りも情熱的で素晴らしい。
ここでもやはり自分達が常に泥棒といわれ差別を受けることへの怒りと悲しみが込められている。
「よそ者」と言われロマの人々の間を身を小さくして歩いていくステファンは彼らが受け続けた思いを僅かに体感したようなものだろう。
だからと言ってここでロマたちが善人ぞろいだとか美点ばかりを描いているわけでもなくイジドール自身が笑ってしまうほど欠点もさらけ出している。特に自分がもう死んでしまう身だからと言ってサビーナにまで「やらせてくれ」と頼む場面などはとんでもない爺様である。彼の息子も悲劇を迎えるが彼にもいけないものがあると表現されているのが辛い現実なのだろう。

ステファン役のロマン・デュリスがもじゃもじゃ頭でおかしな笑い方をするのも楽しい。
ステファンが感じたようにこのDVDを観ただけでロマを理解したわけではないが、彼と共にロマの村に紛れ込んだような不思議な体験を感じさせてもらった。

監督:トニー・ガトリフ 出演:ロマン・デュリス ローナ・ハートナー イジドール・サーバン
1997年 / フランス/ルーマニア
ラベル:音楽
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2009年04月01日

『マイ・ビューティフル・ランドレット』スティーヴン・フリアーズ

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MY BEAUTIFUL LAUNDRETTE

物凄く久し振りに観た。というか昔ビデオだかで観たきり観なおしてはいないのではないか。ダニエル・デイ・ルイスがかっこよかったこととラストシーンとランドリーの奥での二人の抱擁シーンだけは記憶に残っていた。

で、今回観なおしてみてがこれは結構渋い作品なのだった。
まずダニエル演じるジョニーよりもオマールが主体になっているのだが、それでもやはり主人公はジョニーなのだろう。
難しいのはこの映像内では描ききれていないイギリスでのパキスタン人の立場を知識や想像で補うしかないことである。
この映画だけ観てるとむしろオマールたちパキスタン人のほうが悪どくてイギリスの憐れな労働者階級の浮浪児どもが可哀想に見えてしまう。
オマールもジョニーが昔の過ちを償おうと頑張っているのに何度も過去を持ち出す嫌な奴に思えてくるし。
ここは多分「オマールはジョニーが好きなのだがそれでもその気持ちを潰してしまうほど辛く苦しい時期を過ごしたのだ」と想像するしかない。ジョニーもオマール親子を裏切ってしまった過去を恥じるからこそここまで尽くしているんだろう。
とイギリスにいるわけではない自分としては納得をして観ていく。
他にも想像を色々働かせなきゃいけない部分がある。最後、ジョニーが押さえつけた男もジョニーの恋人だったのだろうがここでジョニーはオマールを選んだのだ。オマールと結婚するはずだったタニアが突然オマールを嫌ったように見えるのだがジョニーが「奴と寝たのかい」と聞いているので多分オマールはタニアを抱けなかったんだろう。
物語はオマールの側から語れていく。何もまだ知らないような初心な感じのオマールは最初ジョニーとの再会を喜び彼とまた会うことを心待ちにしている。二人の再会が夢を現実にするようなコインランドリー経営に結びついていく。叔父に任された古びた汚いコインランドリーをオマールはジョニーの手伝いもあって(まあ汚い金を作るんだが)新装開店することになる。開店前に店の奥でやった二人のひと時の抱擁を境に二人の関係がおかしくなっていく。
金儲けの手段を得たオマールは復讐するかのようにジョニーに当たりだすのだ。
それに対して反発を覚えながらもオマールを見限ってしまえないジョニーの気持ちが切なくてたまらなくなってしまう。
本当に彼にこんな仕打ちをされたのなら離れていってしまうのが現実かもしれないが、そこがダニエル演じるジョニーの魅力である。荒っぽくて昔は彼に辛い思いをさせたのを後悔して今度はオマールを助けてやろうと誓っている。でもオマールはジョニーを愛しながらもどうしてもグチをこぼさずにはいられなくて段々それが酷くなっていきジョニーを見下すような態度になってしまう。
それをジョニーが懸命に我慢しているのが観ていてあまりに危うく思えてくるのだ。
そしてラスト。他の映画だったらもう少し二人の間が離れていってこれからどうなるのか、というところで終わるのかもしれないが(もしくはどっちかが死ぬか)傷だらけになったジョニーがもう嫌だと去ろうとするのを今度はオマールが引き止めて洗面所で互いの体を洗いながら笑う場面で終わる。こういうタイプ(つまり差別問題とか同性愛ものとか)の映画としては非常に前向きな明るい終わり方だったので当時とても驚いて大好きになった。同性愛もののラストはその多くが「死」か「別れ」だと決まっているみたいなものだから。
人種差別も含んだ同性愛ものでこんなにも未来を感じさせる作品は今でもそう多くないのではないか。
上流階級ものでもないところが当時も今もとても好きな設定である。

昔はオマールくんがそうかっこよくないような気がしてたのだが今観ると長身で細身で可愛い顔だなと思ってしまうのだからしょうがない。
ダニエルはやたら腕っ節の強いパンク野郎というのがメチャかっこいい。オマールへの愛情もいいのだよねえ。
タニア嬢は普通こういう作品で非常に邪魔になるのだがなぜかあっさりと旅立ってくれるいい人である。
オマールのパパ兄弟が仲直りするのもほっとする最後だった。サリームが酷い目にあうのもよかったし。
レイチェルはお腹がかぶれて可哀想だったが総じてとてもいいところに落ち着いた作品だったのではないだろうか。
オマールとジョニーがこれからも仲良くランドリー経営をやっていってくれるといいな、と願うばかりの心やすまる作品であった。

監督:スティーヴン・フリアーズ 出演:ダニエル・デイ=ルイス ゴードン・ウォーネック サイード・ジャフリー ロシャン・セス
1985年 / イギリス
ラベル:差別 同性愛
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2009年03月09日

『ベジャール、バレエ、リュミエール』マルセル・シューバッハ

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B comme Bejart

バレエのドキュメンタリーを幾つか観て来たが、これもやはりダンサーたちの美しさに見惚れてしまうばかり。
練習風景が主なので舞台自体を観たい向きには不満かもしれないが、私はこの練習風景というのを観るのが凄く好きだ。もしかしたらバレエそのものよりこういう練習している彼らを見るのが好きなのかもしれない。
練習風景でのダンサーたちは男女ともまだ化粧もなく衣装もなく素顔で簡単な練習着だけなので却って美しい肉体を素で見ることができるし、作品を生み出そうとして振付師と汗を流しながら苦悩している様子は緊張感がある。
練習着もそれぞれの個性もあるしさっと髪を束ねたりしているのが衣装以上に素敵なのだ。懸命に動きを掴もうと何度もダンスを繰り返している仲間をじっと見つめている周りの若者達のポーズもなんだかかっこいいのである。

ベジャールといえばやはり『ボレロ』である。
この作品は『リュミエール』という新作のドキュメンタリーなのだが冒頭ではやはり『ボレロ』の音楽が流れてきたので素人としては嬉しくなってしまった。通の人ならまたかというところだろうが。
なにしろ殆どバレエ生鑑賞の経験がない私の数少ない鑑賞の一つが若い頃観た『ボレロ』だったのである(前にも書いたかもしれないが)
無論それはあの『愛と哀しみのボレロ』を観たからであり、ベジャールというよりジョルグ・ドンに参った私は貧しい財布からなけなしの金を出して天井に届くくらい高くて墜落するんじゃないかというような席のチケットを手に入れて観にいったのだった。
あの激しく心を揺さぶるベジャールの『ボレロ』は今でも比べることのできない踊りだろう。
私のような素人にはベジャールのバレエといえば『ボレロ』のような激しいものを観るのかと思っていたのだが、このDVDに収められた『リュミエール』はそれとはまったく違う明るい軽やかなものだった。

本作の中でベジャール氏が「私は創造者ではない。創造というのは無から有を作るが私は有から有を作るだけだ。私はいわば産婆のようなものでダンサーが踊りを生み出す手助けをしているだけだ」と言うのだが、私には無から生み出しているとしか思えない。
勿論、優れたダンサーとの共同作業だからこそできるのだということはわかる。ベジャールがこう、と言えば彼らはまだ難しい顔をしながらも信じられないほどの動きを見せる。
とはいえ、私には何もそこになく(つまり脚本だとか、マニュアルだとかがあるのでもないのに)まだ存在しない踊りを作り出していくベジャールとそれをさらに美しく見せるダンサーという奇跡のような作業は創造と言っても間違いではないだろう。

ある時は怒りながら(こちらの方が多そうだが)ある時は笑顔で次々と魔法のような踊りを作り出していく。
ベジャールの『リュミエール』は映画の創始者と言われるリュミエール兄弟を描いた舞台で「光」がテーマとなっている。
ベジャール氏は大好きな映画と最も大切な光というテーマを交わらせてバレエにしていくのである。
旧約聖書で第1日目に神によって作られたのが「光」であり太陽や星や月は後から作られたというのがベジャールにイマジネーションを与えているようだ。「光」というのは様々な意味があるのだ。

一体どうなるのだろうと思えたバレエを生み出す仕事もベジャールと言う優れた振付師と卓越したダンサーたちによって完成されていく。
ダンサーたちも様々な人種がいて皆美しい。私も名前を知っている小林十市さんのハンサムな顔も観れてうれしかった。
 
監督:マルセル・シューバッハ 出演:モーリス・ベジャール ジル・ロマン エリザベット・ロス 小林十市 クリスティーヌ・ブラン ジュリアン・ファヴロー オクタヴィオ・スタンリー
2002年 / スイス
ラベル:バレエ
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2009年03月05日

故ヒース・レジャーの遺作『パルナッサス博士の想像力』配給が見つからずDVD化?

故ヒース・レジャーの遺作『パルナッサス博士の想像力』配給が見つからずDVD化?

そりゃ私はどうせDVD鑑賞しかできないので却って早く観れる、ということなのかもしれませんが残念ですね。(日本版は関係ないか?)

どちらにしてもテリー・ギリアムの映画が好きなので早く観たいです。

この写真のヒースもかっこいい。
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2009年02月28日

『ホウ・シャオシェンのレッド・バルーン』侯孝賢

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Le Voyage du Ballon Rouge

昨日観てその素晴らしさにため息をついたアルベール・ラモリス『赤い風船』へオマージュを捧げた台湾のホウ・シャオシェン監督作品。
一体どんな映画になるのかと少々おっかなびっくりではあったがさすがにホウ・シャオシェンの作った映画は無論単なるリメイクのようなものではなく現在のパリの風景と人々の姿をまさにホウ・シャオシェンらしい映像にしたものだった。

とはいえ『珈琲時光』の時もそうだったが、淡々とした独特の雰囲気をそれこそ美味しい珈琲を味わうように堪能するのだが、彼の作品はなかなかどうこうと説明するのが難しい。メッセージ性がはっきりしたラモリス『赤い風船』とは違う掴みどころのない混沌とした世界であるように感じる。

ラモリス『赤い風船』の少年は孤独で先生からも子供達からも疎外されて風船だけが彼の友達になってくれる。
ここでの主人公の少年には離婚している母親、優しいピアノの先生などがいて少年を愛してくれている。そしてここでも同じように赤い風船が少年の頭の上に現れるのだが、赤い風船は友達になってはくれない。ただいつも少年の側でじっと少年を見守っているのである。

離婚した夫はバンクーバーにいて頼りにならず、家の一階を借りている友人は家賃を払わず仕事はハードで母子家庭のママは少々ヒステリックになってしまう。そんな姿にまだ幼い少年シモンはどこか寂しさを感じているようだ。
母親は人形劇の声優をやっていてとても忙しくまだ幼い少年の面倒を見させるために中国から留学してきた若い女性ソンを雇うのだ。
ベビーシッターとなったソン・ファンはラモリス監督『赤い風船』に憧れてフランスに映画を学びに来ている女性だ。フランス語は話せるが饒舌ではない。物静かででも大らかな感じのする責任感のある女性という印象だ。ママもシモンも彼女のことを気に入っている様子である。

監督の映画もまた饒舌ではない。とても気持ちのいい映画なのだが、それはどうしてなんだろうか。
ソンがもしいなかったらどうだろう。パリの街で忙しいママと寂しさを抱えている少年という物語はよくあるような気がする。
ここではそんな二人の間にソンという女性が入ってくる。ママもソンには気を使って優しく話しかけるし、シモンはソンになついている。
ソンは押し付けがましくはないのだがいつも二人を見守っているような存在である。
ソンは『赤い風船』に憧れてパリに来たのだが、パリに住むシモンとママにとってはソンこそが赤い風船なのではないだろうか。

ソンはフランスの映画に憧れてやって来たのだが、シモンのママは中国の人形劇をやっている、という仕掛けになっている。
ソンはパソコンを使って映画を撮っていき、ママは中国の老人に人形劇を学んでいる。互いの文化を交換した仕組みになっているのが面白い。

最後辺りに、シモンが練習するピアノの調律を盲目の男性が行うのだが乱れていた音が調律師によって正確な美しい音になっていく、というのが今はごたごたして荒れてしまっているシモン母子の生活が美しい音楽になる予感をさせているようだ。
(このピアノの調律、という仕事、映画やTVでしか見たことはないが、酷く惹かれてしまう。とても美しい作業だ。この仕事の映画なんて素敵じゃないか、と思うのだが)

子供達が絵について勉強している。空から見下ろしているような絵の中に赤い風船とそれを追いかける少年が描かれている。向こうに少年を見ている両親らしい姿もある。悲しい絵なのか楽しい絵なのか、の質問に両方と子供が答える「日向と影があるから」
シモンが勉強しているのを見た赤い風船はなんだか安心したように空高く飛んでいく。
ラモリス『赤い風船』では空高く風船と飛んでいく少年がどこか寂しく思えたのだが、この作品では少年は仲間たちの間にしっかり収まって飛んでいく風船を見送っている。
悲しいがゆえに心に残るラモリス『赤い風船』の少年を地上に残したいと思ったホウ・シャオシェン監督の思いが込められているようだ。

『赤い風船』へのオマージュでこんな優しい作品を作ってしまったホウ・シャオシェン監督の力量に感心していしまう。中国人女性ソンがさりげない形でいい役なのもうまい。
そしてなんといってもシモン役の少年が可愛い。とても綺麗な顔立ちでもあるのだが、会話が大人ぶっていて愛らしくてたまらない。
ママが「私には頼りになる男も側にいない」と言うとすぐに「僕だって男だよ」というのがなんとも可愛いのだ。

監督:侯孝賢ホウ・シャオシェン 出演:ジュリエット・ビノシュ  イポリット・ジラルド  シモン・イテアニュ ソン・ファン  ルイーズ・マルゴラン
2007年フランス
ラベル:愛情
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2009年02月26日

『赤い風船/白い馬』アルベール・ラモリス

赤い風船.jpg赤い風船白い馬2.jpg
Le Ballon Rouge

白い馬.jpg赤い風船白い馬.jpg
Crin Blanc

2作品ともほんとに感心してしまう美しく素晴らしい映画だった。

描かれている状況は違うけど語っているのはどちらも自由を願うことと暴力や圧政への反抗、ということだ。
力ない少年が風船や白い馬を手に入れたいと願うのはやはり弱い立場の大衆が夢や希望や平和を求めていることだろうし、悪ガキどもや無遠慮な牧童たちが荒々しく少年や風船や馬を追いかける光景は戦争や悪政によって人々を迫害していく様に思える。
そういう世の中の怖ろしく悲しい事実を身近な例えになぞらえ美しい映像で見せていくという手法はなぜかそのままを映し出す以上に心に訴えるものであるが、この2作品はそういう映画の優れた手本といって間違いないだろう。

ブルーグレーの色彩の街の中を真っ赤な風船を持って闊歩する小さな少年。風船がまるで意思を持っているみたいに自由に動いて少年を追いかけていく。
そんな少年と風船に目をつけた大勢の悪ガキどもが二人を追回し、意味もなく美しい風船を捕まえ、石を投げつけ、踏みつけて割ってしまう。
守ろうとする少年はあまりに小さくか弱い存在で彼らの力に抗うことはできない。少年の目の前で赤い風船はしぼみ、割られてしまうのだ。
こういうわけの判らない暴力は世界中のあちこちで様々な形で弱者に襲いかかっている。彼らは大事な赤い風船を守る術もなく目の前でそれを破壊されてしまう。それは戦争であり、圧政であり、いじめでもある。
弱いものは命を自由を尊厳を失ってしまうのだ。
この先の物語は作者の願いであるのだろう。
大事な赤い風船を割られた時、街中のありとあらゆる風船が少年のもとへと集まってくる。なんという美しく楽しい情景だろう。
たくさんの風船が集まって少年を抱え空へと舞い上がる。

『白い馬』の方はもっと判り易いかもしれない。
自由な野性馬である白い馬はその美しさと尊厳の為に馬飼いたちに追い回され捕獲されそうになる。
だが野性の白い馬は決して彼らの暴力に屈しようとはしない。
白い馬は彼と友達になろうとする少年にだけ心を許す。少年もまた白い馬を愛する。
少年との約束を破り再び白い馬を追いかける馬飼い達から逃れようと少年と馬はどこまでも走り続け、とうとう海に飛び込む。そして人間と馬が仲良く暮らせる国へと行ったのである。

とても美しく夢と希望と自由を求めた作品なのだが、どちらも何故かとても切なくなってしまう物語である。
『赤い風船』はとても明るいイメージはあるが小さな少年はなんだか酷く孤独だ。彼と仲良しなのは風船だけなのだ。たくさんの風船に乗って舞い上がるラストはなんとなく少年がそのまま遠い国または天国に行ってしまうようなニュアンスも感じられる。
同じく『白い馬』も少年と馬が行った国とはこの世にありえない国のようにも思える。二つともはっきりと少年の最後を描いたわけではないがこの物語が戦争や圧政への反抗を描いているのなら少年が或いは命を失ったことを暗示しているのかもしれない。
自由や平和を願いながら簡単にそれらが手に入らないことが二つの作品に溢れる痛切な悲しさなのか。
とはいえ作者が少年の死を描いていないのは観ている者がきっと彼らは生きていて幸せに暮らしているのだ、と信じたいし、希望を持てる余地を与えてくれているのだと思う。

どちらも少年が可愛らしくて見惚れてしまうのだが、特に『白い馬』は(上のようなかっこつけたことを書いてて言うのもなんだが)美少年のイメージそのものである。
主役の少年がとても綺麗なのだが白い馬を見つめる眼差しがはっとするほど素敵なのだ。ほっそりとした手足でなぜかズボンが破れているのが艶かしい。
鞍をつけない白い馬にまたがって疾走するシーンはどうしてこの少年がこんなに走れるのか。本当にこの馬と少年の心が深く結びついているように思えてどきどきしてしまう。
浅い水際の中で白い馬と少年が寄り添って立つ場面、裸馬にまたがって少年が駆けていく場面、まるで神話を観ているかのように美しい。
小船に乗って少年が漕いできて老人の横で居眠りをしたり小さな男の子に亀をあげたりしているところも何気ないものなのだがうっとりと見惚れてしまうのだ。
たてがみをなびかせて立つ白い馬の首筋に寄りかかる少年の美しさ。
馬に乗って走る美少年を追い詰める牧童たち、という構図は上に書いたような自由と平和の願いというよりどこかエロティックであり過ぎ、少年が波間に消えていってしまう、というラストも悲しい。
それで同じテーマでありながら、もう少し純粋無垢なイメージの作品を作ったのかもしれない。
とはいいながら私はどうしても『白い馬』のエロティシズムのほうに惹かれてしまうのであるが。

監督:アルベール・ラモリス  
赤い風船 出演:パスカル・ラモリス、サビーヌ・ラモリス、ジョルジュ・セリエ、ヴラディミール・ポポフ 1956年フランス
白い馬 出演:アラン・エムリー、ローラン・ロッシュ、フランソワ・プリエ、パスカル・ラモリス 1953年フランス

ラベル:自由
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2009年02月23日

『鬼火』ルイ・マル

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Le Feu follet

この年齢になってルイ・マル作品を意識して観ているわけだが、どの作品を観てもとんでもない驚きを感じてしまう。
それぞれで違う驚かせ方をしてくれるのだが、この作品にもまたぶったまげてしまうのであった。

モーリス・ロネ演じる30代の青年は自分自身にも世間にも苛立ちを感じて憔悴しきっている。かつては美男で女からも好かれたのに今の自分はもう若くなく、女性にも欲望を感じない。誰に触っても感覚というのがない、と言うのだ。そしてそういう不安を感じていない周りの人間に酷い苛立ちを感じている。平凡な生活を確信し、落ち着いてしまった自分と同じ年齢の友人たちに怒っている。
友人たちはそんな彼をなだめるが彼は理解することができない。
結婚生活にも金儲けにも失敗しアルコール中毒になって精神病院で療養していた彼を人々は影で嘲笑っている。それを感じてまた彼の心はひりひりとささくれ立つのだ。
自分が若い時にこれを観たらどう思ったろう。自分勝手で高慢でしかもひ弱で卑怯な行動に反発を覚えたのではないだろうか。
だがこの年で観ると彼の苛立ちも判る気がする。
だらだらとした物語にも退屈したろうし、美男とはいえ中年に差し掛かった男の眉根を寄せた鬱な顔を見ているのにも嫌気がさしただろうが、今ではまだ若く美しい顔としか見えない。
そんな彼が様々な知人たちに出会って何かを求め続け、結局何も得ることができず最後己の心臓を撃ちぬいて死んでしまう、というあっけない最期に衝撃を受けた。
心のどこかできっと彼を救ってくれる人が登場するのだ、と信じてしたのだ。
だが彼を救ってくれる人は何人も登場したのだが、彼自身がそれを拒絶したのである。
この映画を単に空しい映画と思う人もいるだろうが、多分ルイ・マル監督自身はこの映画を作ることによって生きなければ、と思ったのではないだろうか。
彼はまだ若く美しくて何の力も失くした人間ではない。彼を愛してくれる女性も友人もいたのにそれと気づかなかったのだ。彼が死ぬことで友人たちの心が傷つくことを願ったが、それはいつしか消えてしまうのである。
物語は淡々と進むがモーリス・ロネの鬱屈した姿がなんとも素敵で見惚れてしまう。
何人もの友人たちに出会うのだが、やはりジャンヌ・モローが登場した時ははっと惹き寄せられる。何度見てもチャーミングな顔なのである。

最初にクレジットが流れ、最期ロネが死ぬところで画面がぱっと終わってしまう。凄い。

監督:ルイ・マル 出演:モーリス・ロネ ジャンヌ・モロー
1963年フランス
ラベル:ルイ・マル
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2009年02月05日

『スパイダー/少年は蜘蛛にキスをする』デビッド・クローネンバーグ

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SPIDER

これも非常に計算された映画で小さな物音が聞こえてくるような静かな作品であった。

偶然昨日観た『息子のまなざし』と同じ少年の犯罪のその後を描いていて導入部に説明がない為に「彼は誰だろう。何が起きたのだろう。一体どうなるのだろう」という謎に包まれながら観ていくことになる。
だが作品自体が表現したいものはまったく正反対といっていいほどで『息子のまなざし』が少年犯罪の問題を考え関わった人々がどうなっていくのかを情緒的に描いているのに対し、こちらは少年の歪んだ精神による世界の中で人々がどんな風に見えているのかを幻想のように映している。自分自身はどうしても教育的なものよりこれのような狂気の世界を垣間見せてくれる作品に惹かれてしまうのだ。

それにしても俳優の演技が見ものである。主人公スパイダー役の少年もその冷ややかな演技に見惚れてしまうが大人スパイダーのレイフ・ファインズの端正でありながらその狂気の姿に怖ろしくなってしまう。
とはいえ一度も態度を荒げる場面はないのだが絶えず何かをつぶやきノートに何かを書き込み、現実と幻想の世界を行き来しているのである。父親も悪の顔といい父親を見事に演じ分けているが何と言っても一番の驚きはミランダ・リチャードソンで優しい母親と娼婦のイヴォンヌを演じ分けているのにクレジットを見るまで気がつかなかったのは私の観察力が悪いのもあるがそれ以上に彼女の演技力によるものだと賛同してもらえるのではないだろうか。

この作品も説明は省かれているのだが様々な出来事や台詞から謎解きができるように巧妙に仕掛けてあるのだ。
例えば少年スパイダーが行ったわけでもないのに酒場で起きたことを記憶しているかのような場面が出てくるのは無論彼の妄想にしか過ぎないことが彼の記憶が嘘であることを証言している。
映像は単なる誤魔化しのための偽物なのではなくすべてが答えに導く為に公正に種明かしをしていきながらもどういうことなのだろうかというスリルを感じさせ最後には最も怖ろしい結末が見せ付けられることになる。

スパイダー=蜘蛛というのがこの作品の象徴になるのだが少年の精神が逃れようとしても逃れられない蜘蛛の糸でがんじがらめになってしまっているような恐ろしさを感じさせる。
自分はスパイダーとはまったく違う人間であるがそれでも彼に共感してしまうのは何故だろう。
自分もまた狂気の世界にはいりこんでしまい街を彷徨うのかもしれない、という奇妙な憧れとも予感ともつかないものを感じてしまうのである。

監督:デビッド・クローネンバーグ 出演:レイフ・ファインズ ミランダ・リチャードソン ガブリエル・バーン ブラッドリー・ホール リン・レッドグレーヴ
2002年 / フランス/カナダ/イギリス
ラベル:精神 少年
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2009年02月04日

『息子のまなざし』ジャン=ピエール・ダルデンヌ&リュック・ダルデンヌ

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Le Fils

『ある子供』で非常な感銘を受けた同監督作品。こちらはそれ以上に面白い作品だった。

この映画を観てると他の映画っていかに説明的に台詞をやりとりしてるのだなあ、と思わされてしまう。
確かに日常会話って前後が不明で突然聞きだすとなにやらわからなかったりするものだろうが通常の映画ではやはり観客というものを意識して物語の設定進行を説明していくわけである。この映画ときたらてんで無口で説明らしい説明ではなくいかにも普通の会話を側で聞いているかのようなやり取りだし、カメラもなんだか自分が彼らの後からついて歩いてるかのような視点で撮られている。効果音だとかバックミュージックなんていう現実にない音もなし。すぐ近くで彼らを見聞きしているかのような感じなのである。
だもんで冒頭しばらくいったい中年男が一体なんなのか、何故少年を付回しているかわからずと言っても私はこういう作業みたいなのを見てるのが好きなのでついつい見入っていたらいきなり一度訪ねて来た元妻らしい女性のところへ行って「奴が来た」と言い出す。そしてその少年が彼らの息子を殺した過去があることが突然ここでわかるのだ。

なんというサスペンス。
少年院を出所したその少年は中年男が勤めている学校の木工クラスに編入してきたのである。
中年男は少年の履歴書を見てすぐ彼だと知るがそのことを伝えてはいない。そして何故か元妻にはそのことを知らせてしまう。
中年男はやるべき教育をし、時には少年に親切な対応すらしながら自分の息子を殺した少年をじっと観察し続けるのだ。
そしてその間の中年男の心理、これからどうしようと思っているのか、の説明は一切なされない。
観る者は男の目や息つぎ、行動などで何を彼が考えているのか感じているのかを察していくしかない。
何故男は学校にも少年にも過去の出来事を告げず、元妻には言ってしまったのか。男の迷いが表れている。彼はここでもう少年を許そうか、と思い黙ったままで、許したくなくて元妻に言ったのだ。
彼は少年を監視しいつか殺そうとも考えたに違いない。だが許したい、と言う気持ちもあって揺れ動いている。
妻に打ち明けたのは彼のもう一つの気持ちでもある「絶対に許せない」という怒りを妻に言わせるためでもあっただろう。わが子を殺した犯人を許すことができるだろうか。この作品への感想は実際に子供を持っている人、特に小さな子を持っている人とそうでない人では違ってくるはずだ。
先日観た『シークレットサンシャイン』ではわが子を殺された母の立場で物語られていた。彼女は本作の元妻と同じようであり、途中からこの中年男のようになり、だがやはり心の奥では許せていなかった、という物語になっていた。
この中年男は少年をどう思っているのか。それは『シークレットサンシャイン』のような説明がまったくないのでつまり観客がどう思うのか、観ている自分が許すのか許さないのか、ということになりそうだ。
それは先に観た『ある子供』でもそうだったのだが、最後に泣いて反省しているような男が立ち直ったと思うのか少女がまた男を愛していると思うのか。あれでは私は男はそのまんまだし少女はやっぱり男と別れるか別れたほうがいい、と思ったのだが、この映画は中年男の葛藤の凄まじさを感じてなんとも言えない気持ちになってしまう。
映画では男の吐息が随分聞こえるのだがその息遣いで彼の気持ちが伝わってくるのだ。
なぜ彼はすでに他の生徒は済んだ木材の見学に少年一人だけを連れていったのか。その時殺意はなかったのか。
少年が男に「後見人になって欲しい」と言った時、男の心に優しいものが溢れたのではないか。
だがその後、少年に少年院に入った原因を聞き、殺人を犯したことをどう思っているのかと聞き、「5年も入ってたら後悔するよ」という答えをどう受け止めたのか。この時男の心に殺意が動いたのではないか。
それでもまだ男は授業を続け少年に木材を見せていく。誰もいない材木置き場。たくさんの木材。。少年は何も知らず男を信頼している。男が殺そうと思えばいつでも殺せる状況だ。少年はまさにこの時死と隣り合わせにいたはずである。
そして突然少年が殺したのは自分の息子だと告げる。とっさに逃げ出す少年。男に木材を投げつける。怖がる必要はない、話したいだけだと男が言う。だが逃げ回る少年を捕まえた時、男は少年の首に手をかけていた。
が、男は少年の首から手を放し座り込んだ。激しく息をするだけで何も話せない。少年もまた逃げることもやめ男の横で座り込んでいる。
やがて男は木材を荷台に積み始めた。ふと気がつくと少年がこちらをじっと見ている。逃げ出しもせず男と共に材木を積み男は持って来た紐で木材を縛る。この紐は少年の首を絞める為に持って来たのではないのだろうか。その紐で男は少年と一緒に木材を積み込む。

男は少年を許したのだろうか。
そう単純に許せるわけはないと思う。自分がもしこの立場だったら。いい子になった。はい許します、とはいかない。それどころか余計に辛くなっていくはずだ。
この作品ではっきりと言葉での解答になってないのはそう簡単に答えがでる問題ではないからだろう。
男はこれからも苦しむだろう。だが少年に二人の関係を打ち明けたことで少年は変わっていくのではないか。
少年の罪を知っても彼と関わりあい、殺せる機会にも殺さなかった。少年が「5年間償ったんだ」と言った言葉がいつか別の言葉に変わることを信じたい。
男の苦悩が終わることはないと思うが少年を殺さないでよかったといつか思ってくれることを願うばかりである。

監督:ジャン=ピエール・ダルデンヌ&リュック・ダルデンヌ 出演:オリヴィエ・グルメ モルガン・マリンヌ イザベラ・スパール ナッシム・ハッサイーニ クヴァン・ルロワ
2002年ベルギー
ラベル:犯罪 心理
posted by フェイユイ at 23:02| Comment(0) | TrackBack(1) | 欧州 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月29日

『リバティーン』ローレンス・ダンモア

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The Libertine

17世紀、チャールズ二世の時代を現代とも重なるような視点で描いていて、ジョニー・デップ自身も主人公ロチェスター伯爵ジョン・ウィルモットとの共通点が感じられる、という皮肉めいた作品である。

ずっと変わった役ばかりを演じていて最もメジャーな『パイレーツ・オブ・カリビアン』ですらアンチ・ヒーローであるジョニー・デップがこの映画の冒頭で「この映画を観ていくほど私が嫌いになるだろう」と言い最後にも「これでも私が好きだと言えるか」と訊ねるのがいかにも実際のジョニデのようでおかしい。
とはいえ、本作のロチェスター伯は放蕩者ではあるだろうが悪党というわけではないし、一人の女性に愛情を注いでいるのに報われない姿などは悲哀も感じられるわけでそうそう「虫けらのような唾棄すべき男」というわけでもないだろう。
先日観た『ある子供』の男のようにいつの時代にもいる適当に悪さをやってはいるが大悪党ではなく善人でもない、という輩であって、逆に悪党の魅力すらない、とは言えるが辛い思いをしているのは当人で観ているこちらが腹を立てるほどではない。女たらしで次々と関係を持った、と説明はあれど映像的には妻と売春婦と女優の3人の女性との関わりだけを描いているのでそれほど放埓に思えず梅毒になったということで悲劇性だけが目だっている。不満なのは時代が性的に乱れていて男色も盛んだったと言い、ロチェスター伯もそうだったと言うだけで女性関係と違い匂わせているだけなのである。途中で殺されたビリー・ダウンズがその相手っぽいが表現としては僅かであるし、どうやらチャールズ二世ともそういう関係があったのではないか、と勘ぐれる気がするがそこまででしかない。
(ところでジョン・マルコビッチってなんとなくホモ・セクシャルな雰囲気のある映画によく出ている気がするのだが)
設定としては性的に乱れた社会なのだが作品自体は非常に上品で正統派なもので危険な悪の匂い、というような隠微な雰囲気がないのが残念である。
元々は舞台劇でチャールズ二世を演じているジョン・マルコビッチがロチェスター役だったということでそちらを観てみたい気がする。
ジョニー・デップはうまいけどやや硬くてだらしない放埓さが足りないのではないだろうか。
つまらなくはなかったが酔いしれるとまではいかなかったのは私がそれほどジョニデファンじゃないからだけなんだろうか。

ロチェスター伯爵がジョンと言う名前だった為に「ジョニー」と呼ばせているのもジョニー・デップにより重ねているようでいて皮肉っぽい。

監督:ローレンス・ダンモア 出演:ジョニー・デップ サマンサ・モートン ジョン・マルコビッチ ロザムンド・パイク トム・ホランダー ケリー・ライリー ルパート・フレンド スティーヴン・ジェフリーズ
2004年イギリス
ラベル:人生
posted by フェイユイ at 01:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 欧州 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月23日

『ペネロピ』マーク・パランスキー

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Penelope

クリスティーナ・リッチは勿論キュートで抜群に上手いし、相手役のマカヴォイくんも負けず劣らずプリティで強いメッセージを持った巧みな映画作品ではあったけどナンだか堅苦しくてていまいちハマれず、しかもメッセージが途中で崩れだしラストには怒りさえ感じる映画であった。

名家のお嬢様ながら、先祖伝来の呪いによって豚鼻(目立ってないけど耳も豚なんだよね)を持って生まれて来たペネロピ。
その呪縛を解くのは「彼女を永遠に愛する人が現れること(但し良家の人間のみ)」
怖ろしい呪いに嘆く両親特に母親はペネロピの呪いを解く男性と彼女が結婚できるように!という思いだけで彼女を育ててきた。
美術や撮影手法や演出も凝りすぎなほど凝っている上、とにかく説明につぐ説明で両親特に母親がいかに自分勝手に娘を束縛しているかということを表現し、娘に身勝手なレッテルを貼って決め付けてしまうことを戒めている。容姿だけで判断する男性や大衆の煩い好奇心に批判をくだす。呪縛を解くのは他人ではなく自分自身であり、「呪いを作るのは僕達の心だ」と子供にはっきりと言わせていて非常に判り易い。
これを聞いた時は「あ、この映画は子供向けなので「判り安すぎる」などとイラついてもしょうがないのだ」とやっと気づいたようなものだ。
とはいえ優れた子供向けの作品はあまり露骨に説教臭くはないものだ、とも思うけれど。

子供向け映画だからしょうがないと納得すべきなのか、ペネロピの豚鼻というのがそれほどまで酷い造作ではないようだ。正直このくらいの鼻の大きさの人はいると思うし結構原田知代に似てるが原田知代さんは綺麗な人である。子供向けだ、コメディだ、と腹の虫を押さえようとするが、あまりに大げさにペネロピが醜くて逃げ出したり吐きそうだと言ったりするのでこの程度の造作でこんなに大騒ぎするのならもっと「他とは違う」ものを持つ人はどうなることかと思ってしまう。
ペネロピがくだらない婿探しにうんざりし、家を飛び出して街を彷徨う部分はちょっと希望を持った。束縛から飛び出し自立しようと頑張るペネロピ。このまま彼女が下町に住みつき「良家の出」ではない男性と結婚して呪縛が解けずたくさんの子豚娘を産みました、というオチならどんなによかったか。
彼女自身が「私はこのままの私が好きなの」と言うことで呪縛が解け普通の人間の鼻になってしまう、という展開はそれまでの自分を見つめ自分を認め好きになっていった価値観を覆してしまうではないか。
これはこの物語としていいことなのか。結局普通になることが個性を失うことが幸せだというのか。ならば「このままの私が好き」と言った気持ちは嘘になる。嘘なら呪縛は解けない、というパラドックスにはまってしまう。
私は断然『シュレック』の最後のようにそのままで愛し合う、というのが好きだ。
そういうラストでないなら、この物語の本質は何なのか、やっぱり普通でありたい、ということなのか。

金持ちは嫌だ、とかママが全部悪い、と子供に言わせるのもどういう考えでなのか判らない。金持ちが全部悪いわけでもなくママが全部悪い人なわけでもない。

そしてこの映画で最も謎なのはペネロピを際最初から最後まで追い続けて写真を撮ろうとする記者が小人ということで、これが他の映画なら(ハンサムな人だったし)それほど気にならないがこの映画であえて彼なのは製作者にとってどういう伝達だったのか。
豚鼻少女を追うあなただって異常な人ではありませんか、という意味なのか。
そう思うと判りはするがなんだか嫌なものを感じてしまう。

本当に「そのままの自分が好き」ならペネロピにはそのままでいて欲しかった。
何故個性を取り上げ普通の人にしてしまったのか。何故豚鼻は呪いでしかないのか。
醜い顔、他と違う造作の人は呪いにかかっているのか、それを呪いとし、呪いを解いてしまうこの作品が私は嫌いだ。

監督:マーク・パランスキー 出演:クリスティーナ・リッチ ジェームズ・マカヴォイ 
2008年イギリス/アメリカ


ラベル:人生
posted by フェイユイ at 23:11| Comment(4) | TrackBack(0) | 欧州 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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