
The Good Shepherd
先日待ち望んで観た『ボーン・アルティメイタム』が観るに耐え難い映像でがっくりしたものだが、こちらは落ち着いた画面を充分面白く観通すことができた。
だからと言って好む、という類の映画作品ではなく非常に神経を磨耗させられる点は同じかもしれない。
それでもこの怖ろしい物語には途中で止められない何かがあった。
いつも笑顔を絶やさないマット・デイモンが終始苦虫を噛み潰したその苦さが残っているような顔をしている。アクションでも恋愛でも派手な場面はなく、難しい話ばかりをしているような内容なのだが、わかがわからなくなったりつまらなくなることがないのは不思議だった。
時系列も複雑で登場人物も多いのにさほど混乱せず観ていけるのは映像が殆ど主人公エドワード(マット・デイモン)の目を通しているからだろうか。
例えば彼が外国滞在中の妻マーガレット(アンジェリーナ・ジョリー)の姿と物語が映像として映されることはない。そのために複雑な話もシンプルに感じられるのかもしれない。
おまけにその為に画面にはマット・デイモンが出ずっぱりで観られることになる。『オーシャンズ13』『ボーン・アルティメイタム』で不満だったファンはかなり長い間彼の顔を観ていられるわけだ。
とはいえ、映し出されるその顔はファンが求めているような明るいいつものあの笑顔ではなく殆ど表情の変化のない渋面ばかりである。しかもこの役は「いい人」のイメージのマットを完全に覆す、と言う以上のものがあると思う。それほど露骨に酷いことをした人間でもないように見えてしまうのだが、これほど人間的に最低・最悪の人間はいない。見せ掛けだけではない本質に捻じれた人間なのだ。
ただし、映像は彼を追い続けているのにも拘らずその心の中は全く見えてこない。これだけ見つめ続けてもエドワードは本当は何を考えていたのか、誰を愛していたのか、何も伝わってこないのだ。それは映画の作りがいけないということではなく、彼は何も考えていない、ということが描かれているのでないか。彼には心がないのだ。
笑顔のまったくない「ジョークを解さない男」と言われることがいけないわけではない。だが彼の心は冷たく冷め切っていて何の感情も愛も持っていない。無感動であり無関心であり虚無感だけが彼の心を支配している。
そんな彼の心を少しだけ動かしたのが耳の聞こえない女性ローラだった。だが彼女との交際中にエドワードは突然クローバー=マーガレットに誘惑され彼女を妊娠させてしまう。
エドワードは愛していたローラをあきらめ愛してもいないマーガレットと結婚する。そして復讐するかのように家を離れ仕事に専念する。この部分を観ると彼が国の為に仕事に没頭していったのではなく、自分を陥れたマーガレットへの復讐・あてつけのためにCIAに打ち込んでいるとしか思えない。
エドワードがもしもローラと結婚できていたのなら、もしかしたらあの時、もしローラがエドワードと肉体関係を持っていたのなら、とこの映画は言いたいのかもしれない、エドワードは変わっていたのかもしれない。ローラの笑顔のせいで明るい青年に成長したのかもしれない。
だが運命は彼をそちらへは運ばなかった。
後にエドワードはマーガレットに対し激昂する「出来てしまった息子のために結婚したのだ」と。結婚したのはマーガレットへの愛情ではなく子供が出来た為の責任に過ぎなかった、と叩きつけるのだ。
だが何と言おうとそれは彼が起こした行為ゆえの結果なのであり、それをマーガレットに対し20年後に叩きつけるなど男として、というか人間として最低の行動ではないか。
エドワードは優秀な人間であり紳士であった。違法を犯したわけでもなく責任も取った。
しかし彼が通してきたやり方は温かみがないのだ。
彼の行為には涙を流してすまなかった、と謝り心を通わせようという気持ちがない。
それを感じてローラと再会した時、妻子も組織も全て投げ捨てて逃げてしまってもよかった。
マーガレットと再会した時、やはり組織から抜けて最初からやり直そうとしてもよかった(どちらにしても組織から抜けるのは当然なのだ。あんな所にいたらいい家庭になるわけない)
そして最後に自殺した父親の遺書を読み、妻に謝罪し、息子に「よき夫、よき父親になってくれ」という感動的な手紙を焼いてしまうエドワード。それは彼自身が妻子に言うべき言葉でもあったはずだ。彼は完全に心を捨て去ったのだろう。
彼は恋人も妻も息子も全て捨ててしまったのだ。
彼は何故心を失くしてしまったんだろう。目の前で父の死を見てしまった時からなのだろうか。
人に見せるべき遺書を隠し、封印してしまった。彼が成長する為に読まなければいけなかった父親の言葉を彼はどうしたことなのか、無意識にか故意にか偶然か葬り去ってしまったのだ。
彼は大学時代には女装劇を演じまだ気持ちに余裕があった。だがFBIに促され恩師の盗作を見つけだしナチスの一員であることを密告する。
彼は思いつめたところがあるもののごく普通の青年だったはずだ。だが少しずつ少しずつ何かに追いかけられるように闇の道を歩み始めるのだ。彼自身はそうだと思わないままに。それとも彼はどこか感じていたのかもしれないのだが。
かなり書いてきたのに物語の本筋には触れてこなかった。これが本筋かもしれないが。
CIAの物語は非常に面白く興味深いものだったが、そのことのみがエドワードの精神を歪ませてしまったというのではないだろう。
他の職業であっても似たような家族の葛藤はできあがってくるものだ。だが国の為という大義名分と国際的スパイの疑惑により心と精神が激しく破綻し家族も巻き込んでしまった。その異常性は他の仕事ではあり得ない極端なものに違いない。
正義、のイメージが強かったマット・デイモンがこの映画の中でここまで屈折した人間を演じているとは思ってもいなかった。
ここでの造形は最低の人間であるので無論好きにはならないが、それでもここ最近のなかで最も力を注いだ役柄であったはずだ。
いつもと違ってマットにきゃっとなる場面が殆どなかった作品だったのだが唯一見惚れたのが補聴器をつけているドイツ女性とのベッドを共にした後、一人ベッドに寝ている箇所。眼鏡を外してこちらを見ているシーンのマットがおや、演じるのを忘れたかのように微笑んでいるのだが、この顔が凄くキュートなのである。無論演じそこねたんではなく耳の不自由なドイツ女性にかつての恋人を重ね心を許していたために出て来た笑顔なのだが、それもほんの束の間、数秒後には彼女の正体を知りもとの能面に戻ってしまうのだった。くー。
本作で興味深かったのはCIAもだが、エドワードが在籍したイェール大学の秘密結社「スカル・アンド・ボーンズ」創作ではなく本当に存在する組織なのらしい。
世界中にこのような秘密結社というのは規模の大小はあれど数多く存在するものなのだろう。特にこれなどは有名大学ということもあって数多くの政治家・著名人を輩出している(ブッシュ元大統領&現大統領父子もだ。これを聞いただけでなるほど、と頷いてしまいそうである)
私は有名なフリーメイソンだとか青幇くらいしかぱっと思い出せないが身近にも同じような組織があるものだろうか。無知であるが。
長尺で堅苦しい内容を飽きさせず見せたのは冒頭からミステリーの形を取っていたこともあるだろう。
謎はおしまいに解き明かされることになりそれがまた苦い結果に導かれる。
非常に面白く苦々しくだからと言って喜びも涙もない怖ろしい映画であった。
スカル・アンド・ボーンズの食事会でマーガレットが「ボーンズマン!」「ここに!」と叫んだ後に神に祈る彼らを皮肉って「任務が先、神は二番目ね」とつぶやくシーンが2度繰り返して出てくる。つまりここを強調したい、ということなのだろう。さらに強調して「CIAには“The”が付かない。GOD(神)に付かないと同じように」という台詞があり、彼ら(CIAとスカル・アンド・ボーンズが神と同等或いは上位なのだと皮肉っている)
エドワードがKGBとの取引を断る場面で「ハレルヤ」が子供達の声で合唱されているのも怖ろしい演出だ。ここでエドワードは問いかけに答えない。
結果、息子の妻と自分の孫を見殺しにしてしまう。神を讃える歌の中で。
グッド・シェパード=国家を守る為に我が身を犠牲にする姿を表している。
よき羊飼いであることはすなわち神のよき僕でもあるはずだが、彼らは使命を全うするために次第に神から離れてしまっているのだ。そしてそれが間違っていることだと認識することすら出来なくなってしまった。
使命のために神への愛も家族や恋人への愛も失ってしまう。
エドワードが床下の隠し金庫の中に父の手紙と共に入れていたのが学生時代に演じた『軍艦ピナフォア』(の招待状かパンフレットのようなものだろうか)
この曲がエドワードがCIAの組織の中になおも深く入っていく最後の場面で流れてくる。
この喜歌劇が本作にどのような意味合いを持っているのかいないのか私はあらすじを読んだだけではわからなかったが、女装して喜歌劇を演じたエドワードはもういない、という別れの歌だったのかもしれない。
彼がこの喜歌劇のパンフレット(?)を捨てずにとっておいたのは彼もそれを忘れたくなかったためか。隠しこんでいたのは人に知られたくない過去だったからか。
この映画はもともとフランシス・F・コッポラが作るはずだったらしい。彼の映画は「孤高の天才の哀愁」というのがテーマの底にあるわけで、この映画もその一つなのに違いない。
監督:ロバート・デ・ニーロ 出演:マット・デイモン アンジェリーナ・ジョリー アレック・ボールドウィン ビリー・クラダップ ロバート・デ・ニーロ ウィリアム・ハート ティモシー・ハットン ジョン・タトゥーロ マイケル・ガンボン ジョー・ペシ タミー・ブランチャード
2006年アメリカ
追記:ま、上でもかなり加筆したけど。
随分長く書いたのに肝腎なことはまだ書いてないような気がする。ていうか、この映画自体が一体この男に賛成なのか反対なのかよく判らないのだ。
観る者によって感想が違うだろう、などと言うとそれまでだがそうは言っても作り手がある主人公を作った時に全く反対であるということはないのではないか。
私は上の文でこの主人公を否定的に書いたけど、結局作り手は男なのであってこうした男の生き様に賛辞を送っているのだ。
思えば、この話が昔の日本だったら、ごく当たり前の話なのだ。男が国のために骨身を削って働き、その妻は銃後の守りを務めるのは当然でそれでこそ良妻賢母なのであり、家庭を顧みない夫に文句を言うだとか、寂しいからといって浮気など言語道断。たまに帰宅した夫には甲斐甲斐しく仕え癒してあげるのが妻の役目というものである。そういう内助の功があってこそ男は懸命に働けるのであるわけで。
しかし実際そういう夫に対し、このような態度を妻たる女がとるわけで、男は孤独なのだと、そう言っているわけなのだ。
子供の時代は終わり、男はさらに働き続けるのだと。
男の理想を追った映画だったわけなのだ。
今頃思ったのだが、他の大勢の方は最初からそう思っていたわけみたいで、自分は徹底して否定した映画だと受け止めていたのである。
だってそんな男にまったく魅力を感じないもんね。
マット・デイモン本人は物凄い家庭人なのにこういう主人公をやるなんて。この撮影後には急いで帰宅してお皿を洗ったり、娘さんにお休み前の本を読んでるんだから、役者のいうのは大したものなのだ。