映画・ドラマ・本などの感想記事は基本的にネタバレです。ご注意を

2010年05月16日

『ピアノ・レッスン』ジェーン・カンピオン

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The Piano

波打ち際に置かれたピアノ、という幻想的な映像の美しさと音楽も心に残るが、設定と脚本の見事さに心騒ぐ。
理詰めでこうも攻めてこられるとわくわくしてくるではないか。

まず女主人公エイダは言葉を話せるのに6歳で話すことを止めた、という。19世紀スコットランドの裕福な家に生まれた女性には当時自分を表現することができなかった。
エイダはその時代に反逆する女性の戯画である。声を出す、というのはそのまま自分を表現することだ。声を出さないと言うエイダは自分を表現することを拒絶しているのだ。そしてピアノを弾くことだけが自己表現になっていく。ピアノの音は言葉ではないのでそれの意味を聞きとるのは難しいだろうが嫁ぎ先の義母は彼女の音を耳障りなものと受け止めた。彼女には判ったのである。そしてエイダは夫にはピアノを聞かせない。また彼女に恋するベインズは彼女のピアノを聞きピアノを媒体にしてエイダとの関係を結んでいく。ピアノの音が彼女の声なのだからベインズの感覚は間違ってなかったのだ。

彼女は父が選んだ縁談を受けてニュージーランドに住む夫の元へ行く。
彼女にはすでに10歳ほどの娘がいる。その経緯を娘であるフローラがある女性に語る場面がある。
「父は音楽家で母とは言葉がなくても通じ合うことができた。父は事故で死に母はそれから話さなくなった」すでにエイダが言う6歳の時から話すのを止めた、という説明と異なっているのだが、他の部分も本当とは思えない。エイダが寝物語に娘に話す場面があるのでこれは彼女の作り話にすぎないのではないか。こうであって欲しかった、という願いなのではないのだろうか。
声を出す、というのはそのまま自分を表現することだ。声を出さないと言うエイダは自分を表現することを拒絶しているのだ。

娘フローラはもう一人のエイダのような役割を担っている。彼女は話さないエイダの代わりに他人と会話をする。反逆児であるエイダと対照的にフローラは彼女の道徳的一般的な感覚の役割でその為エイダが浮気をする場面では追い出され彼女の夫に対する裏切りを知らせにいくことになってしまう。例えエイダにとって情愛が必要だったとしても彼女の道徳は自分自身に罰を与えたのだ。ピアニストにとって最も大切な指を失うという罰を。

エイダが長旅を経て到着した時、二人の男は違った言葉を言う。
夫であるステュワートは「思ったより小さい。発育不良だ」
もう一人の男ベインズは「疲れているんだ」
ここはあまりも判りやすい対比でおかしいくらいだけど訪ねて来た自分を見て容姿を批判する男と体調を心配してくれる男とどちらを好きになるだろうか。
ステュワートはまるきり当時のヨーロッパ貴族男性の戯画そのもので対面だけを案じ嫁いできたエイダが自分を愛するのは当然だが、忍耐強く待つ紳士的優しさは自分にある、と一人思い込んでいる。
ベインズはまるで現地の野性的な男たちの気風が入り込んでしまったかのような野蛮な人格でありエイダに素直に女性を感じ性愛を求める。
彼女の女性を求めたベインズを愛したエイダに世の中の男性は驚きを持つのだろうか。
ベインズがエイダを女性として愛したことでやっと夫はエイダに女性的な魅力があることに気づく。
それでもステュワートは自己を失うほど愛するということができない。エイダに拒否されれば紳士的に自分を押さえる。だがエイダの浮気には逆上し暴力をふるう。そしてまた感情を押さえてベインズとエイダが結ばれることを許すのだ。
エイダが女性として目覚めた時、ステュワートが彼女の愛を素直に受け入れていたらもしかしたら夫婦としてやり直せたかもしれない。が、彼はどうしてもすべてを捨て去るような愛し方ができなかった。それを求めながらもできなかったのである。

エイダは自分の声であるピアノの鍵盤に愛の言葉を書いてベインズに渡そうとする。
ステュワートから許された二人はピアノを乗せて船で別の場所に移るが海の上でエイダはそのピアノを海に捨てるよう頼む。一旦はピアノと共に海に沈もうとしたエイダだが彼女は自分の力で浮き上がり生き延びる。
かつての女性であればピアノと共に死んで終わりだったのだろう。
エイダは古いピアノを海底に沈め夢の中で声を失った彼女はピアノの傍で死の眠りについている。
だが新しく生まれ変わったエイダは新しい指(義指)をつけて新しいピアノを弾き、そして言葉を話そうとしているのだ。彼女が自分を表現するには愛する男の深い愛(それは肉体と精神の両方)が必要だったのだ。

映画の中で『青髭』が上演される。
夫の言いつけを守らず秘密の部屋の鍵を開けた妻達が次々と殺され、その首が飾られている。
これもエイダの状況そのもので非常に判りやすい。これを観劇していたマオリ族の男性が「とんでもない奴だ!」と叫んで舞台上に駆けつけるのがおかしいのだが、なんて素敵な男なのかと惚れてしまう。
実際の上演中こんな男性ばかりいたら困るだろうが女性が乱暴されているのを見て後先考えずやっつけにいく男性に女性は惹かれてしまうのではないかな。
ここで夫と観劇するエイダの横にベインズが座ろうとするとエイダが止めさせる。ベインズを見るエイダの目が今迄の無性なものではなく女性的なエロチシズムに変わっている。ベインズをからかっているのだ。エイダの中で女性が溢れ出して彼女は変化していく過程の演技がすばらしい。

監督:ジェーン・カンピオン 出演:ホリー・ハンター ハーヴェイ・カイテル サム・ニール アンナ・パキン
1993年ニュージーランド/オーストラリア/フランス
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2009年08月22日

『ホーリー・スモーク』ジェーン・カンピオン

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HOLY SMOKE

これは面白かったなあ!!何がどこが面白いのかというと上手く言えない気がするが、非常に変てこで楽しめた。セックスと宗教を絡めて変な展開になっていく辺りはキム・ギドクを思わせてしまう。ということは非常に惹かれる者と毛嫌いしてしまう者とに分かれてしまうのだろうな。こういう性を露骨に描いて異常な愛を見せつけられることを嫌う人は多いから。

カルト宗教というのが胡散臭いならカルト脱会専門家(なんていったっけ?)というのも最初から胡散臭い。
インドの変な宗教家にのめり込む娘がいけないなら娘の若い肉体を女神に見立ててのめり込む中年男も同じこと、っていう話。
やっぱりこれって女性であるカンピオン監督が男性性に対して皮肉っていると思うんだけどねえ。でもそこで単に突き放すだけじゃなく娘にも中年男にも救済を用意してくれる最後にはにんまりだったけど。

狭い路地に人間が溢れだすようなインドの街と全く何もない平原が広がるオーストラリアがまた対照的だでオーストラリアの景色の色合いが奇妙に強烈なのだった。
この物語の中で他にはあまり見られないと思ったのは宗教の扱い方でカンピオン監督がどの宗教に属しているかは判らないがもしキリスト教で育っているのならこの表現は面白い。
若い女性ルースが洗脳されてしまう、という出だしから始まる物語で、インドの宗教など胡散臭い、と思ってしまうのがキリスト教徒なら当然なのだろうが、同じ白人である男がルースに対して持ってしまう欲望と行動を見せつけ、最後に結局ルースがインドでなお一層信仰を深めていく、という結果しかも最初嫌悪していた母親までもがインドで奉仕活動を始めるという落ちはキリスト教民族には恐ろしい結果なのかもしれない。ヒンドゥーを胡散臭いとするキリスト教徒である家族がルースの無事を祈る姿は、つまり捜索するのではなく「祈り」といういわば意味のない行動を取っているのは同じく胡散臭いと言っているように思える。

この映画を観たなら誰もきっとルースを演じたケイト・ウィンスレットの色香がはち切れそうな肉体から溢れているのを眩く観てしまうだろうし、この憐れな「専門家」である中年男に同情と嫉妬を持ってしまいそうだ(特に男性は。私は女だがまったく見惚れました)
彼女と二人きりで過ごす数日は彼にとって神とも悪魔とも過ごした数日だったろうがこの上なく幸せな日々であったに違いない。始めは女を救おうと思った彼が彼女にすがりつき最後には救ってもらうことになる。彼女を女神と思いひれ伏す彼は至高の喜びを感じていたはずだ。
ルースにとっては彼に対しても自分に対しても嫌悪を感じることが多い日々だったろうが打ちのめされた中年男を見て最後には抱きしめる彼女はそこで本当に思いやりの気持ちを持つことになったわけでインドではなくオーストラリアの大平原の中で確かに彼らは真理を見たのだろう。他の者には単に異常行動としか見られない形の真理追究だがそれこそがカルトの異常行動と同じだと表現している。

彼らの究極の真理追究が終わりそれぞれが自分の道を進んでいくことで物語が終わる。
常に胡散臭いと否定されるカルト(と言ってもこの作品の場合どういうものなのかはよく判らないが)に入ることを肯定している作品でもあり、他にない面白さを持った作品だと思う。

監督:ジェーン・カンピオン 出演:ケイト・ウィンスレット ハーヴェイ・カイテル ソフィー・リー ジュリー・ハミルトン ダン・ワイリー ポール・ゴダード
1999年 / アメリカ/オーストラリア

しかし同じカンピオン監督の新作『ブライトスター』(ベン・ウィショー主演)はこの映画とは随分違うストイックな予感がするわけで、カンピオンに激しい性描写を求める方にはどういう受け止め方になるのか。
と言ってもあのポスターで女性に甘えるキーツの図と本作で中年男がルースにすがるシーンは似通ったものを感じるが。
「風変わりな愛」という点は同じものなのだろう。楽しみである。
タグ:宗教
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2009年07月17日

『プリシラ』ステファン・エリオット

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The Adventures of Pricilla: Queen of the Desert

何故こうもドラァグ・クイーンに惹かれるのか。小さい頃、TVで初めて女装の男性を見た時からなんて不思議に綺麗な人なんだろう、とまじまじと見てしまって以来、その存在に言いようのない憧れを持ってしまうのだ。

これは単に好みの問題だが、あまりに女性そのもの、という人より長身でたくましい体の人が女装している時さらに好きになってしまうのもよく判らないのだが。さらに年をとってたり、美形とは言い難い人が女装をする方がより見入ってしまうのである。
さて先日久しぶりにテレンス・スタンプを『イギリスから来た男』で観てその魅力に参ってしまい彼の出演作をと探してこれを最初に観る私も私だがとりあえず自分のテレンスのイメージはこちらの世界であったりするのでこれで正解なのだが。

物語はドラァグ・クイーンの3人が彼女たちが住むシドニーから遠く離れた田舎町のホテルでのショービジネスの依頼で旅立つことから始まるロード・ムービーである。
かつて『レ・ガールズ』という有名なドラァグ・クイーン・ダンスグループにいたというバーナデッドを演じるのがテレンス・スタンプ。と言っても彼らのダンスは別段それほど物凄いってわけでもないんだけど、それでもしっかり魅せてくれるのが不思議でもある。
特にテレンスなんてそうそう動けてないはずなのだがもう顔の表情だけで納得させられている気がする。
とはいえこれは映画ならではだと思うが次々と変化する彼女たちの化粧と衣装は見もので楽しい。
広大なオーストラリアの砂漠を物凄い衣装のドラァグクイーンを屋根の上に乗せたバスが猛スピードで駆け抜けていくのは圧巻。あのどでかい布地がなびくのは人間で支えきれるのか?
ちょっと意味ありげな歌も楽しく、『アバ』が問題になるのもいかにもドラァグクイーンらしい。
ミッチがどうしても告白できないでいた女性の妻と二人の間の息子が彼を快く迎え入れ、特に気になる息子のベンジー(!)が信じられないほどパパを理解し愛してくれるのはドラァグクイーンで且つ父親である彼らの願望なのかもしれないがとても嬉しい結果であった。
そしてバーナデッドは運命の人に出会えたのだろうか。これもまた夢のようなラブストーリーだったりする。

監督:ステファン・エリオット 出演:テレンス・スタンプ ヒューゴ・ウィービング ガイ・ピアース ビル・ハンター サラ・チャドウィック
1994年オーストラリア
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2009年05月23日

『ムーラン・ルージュ』バズ・ラーマン

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Moulin Rouge

なんだろう。こういうお伽話も作り上げた街の風景も(顔のある月とか)とても好きだしお馬鹿騒ぎのコメディも楽しいのに何故か心の底からは愛せない作品だったのだ。

一つはミュージカルと言ってもダンスより歌のほうに重きが置かれている気がするのだが、それがいかにもなよく知ってる歌を寄せ集めているのがなんとなく借り物ばかりみたいで侘しいのだ。かといってビートルズだけのミュージカル『アクロス・ザ・ユニバース』は愛してるのだが、少しずつっていうのがいけないのか。マドンナとビートルズとエルトン・ジョンっていう選曲がいまいち自分には?だった。
一番気に入ったのは、ムーラン・ルージュ支配人ジドラーと公爵という二人のオジサンが歌って踊るマドンナの『ライク・ア・バージン』
オジサンたちが見詰め合って歌いその周りをイケメンたちが踊ってるっていう風景はちょっとツボだったな。
それ以外はなんだかいいようでいまいちなようではっきり嫌とも言えないがさりとてのめり込み見惚れてしまうというほどでもなく。
正直、クリスチャン役のユアン・マクレガーが一番駄目なの。歌が下手とかそういうんではなくて、これって結局お伽話でアニメーション(よくあるフツウの日本のアニメはは止めてね。特に宮崎とかは。幻滅するから。ヨーロッパ風ならいいが)とか、できるなら人形アニメで背景も凝ってやって欲しいような感じ。クリスチャンは少年であって欲しいし、公爵は怖ろしい悪魔みたいな容貌でサティーンは花の様に愛らしい人であって欲しい。
ま、そういうアニメの世界を人間でやりたかったのかもしれないし、だからこそ価値があるのかもしれないがどうしてもぞっこんになれないの。
とにかくクリスチャンが嫌いなのだ。大体マクレガーの年齢でクリスチャンみたいに自分勝手で愛ばかりを歌ったりサティーンを苦しめに行くとかがどうしてもむかついてしまうのだ。何もわからんような13.4くらいの少年ならいざ知らず馬鹿じゃねえのと言いたくなる。ユアンじゃなかったら、なんだかこう違う人だったらこれでもよかったのかもしれないが。あの人だとこういうがむしゃらさが感じられない。
 
コメディからシリアスになる過程もあまり上手くないし、とにかくユアンのコメディは下手なんじゃない?
ミュージカルコメディの最高は『ロッキーホラーショー』だろうけどあの面白さの半分もないと思うのだよね。
物語的には『王の男』を思い出してしまったんだけど。そうだ、これ、こんな普通の話だったら男同士の話にしたらもっと全然おかしかったのにねえ。

悪くないけど、ぞっこんになれない作品だった。

監督:バズ・ラーマン 出演:ニコール・キッドマン ユアン・マクレガー リチャード・ロクスバーグ ジョン・レグイザモ ジム・ブロードベント
2001年 /オーストラリア/ アメリカ
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2008年02月25日

『キャンディ』ニール・アームフィールド

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CANDY

麻薬というものには物凄く惹かれると同時に激しい怖れもある。これは私だけではなく多くの人が同じように思っているのではないだろうか。特に若い頃は興味があってたくさんの本を読んだりしたものだ。結局恐怖の方が強い上に体験するような機会がまったくなかった為に未経験のまま今に到っている。幸運だったというしかないのかもしれないが、常習者にとっては不幸な人間に思えるのかもしれない。
麻薬を題材にした物語は殆ど同じような筋道を辿っていく。軽い気持ちからはいり、いつでも抜け出せると信じ、少しずつしかし間違いなくはまり込んでいく。途中下車してしまう者は殆どいない。やがて無気力になり、麻薬を買う金も底をつき、仕方なく売春を始めるか強盗へと走る。次第にその回数が頻繁になり精神と肉体が壊れていく。

先日観たガス・ヴァン・サント『ドラッグストア・カウボーイ』と本作はまったく違う話でありながらも殆ど同じ筋である。
仲のよい恋人同士がドラッグ漬けになりながら共同生活を続ける。その経過はどちらも上に書いたとおりである。違うのは『ドラッグストア』が他の仲間がいてこちらは二人きりということ。あちらにはウィリアム・バロウズが演じていたジャンキー神父が登場し、ここでは話の判る大学教授が出てくる。
こうも似てるのはおかしいほどだが、ジャンキーの行く道はどこでもあまり変わらないだろうと予想はつく。
互いに相手を叱らないから仲良しでそしていつまでも続いていくのだ。

本作は「天国」「地上」「地獄」と分けられていたが、「天国」と題されているはいえ、非常に不安定で頼りなく彼らの思う天国が他者からはさほど天国には思えない。考えているのはただどうやって麻薬を手に入れるか、ということだけ。障害に当たると自分流のすり替えの理屈で逃げ出してしまう。次第に逃れられなくなってしまってもその時はもうどうしようもなくなっている。

美しい恋人キャンディを心から愛しながらも麻薬からも逃れ切れないダンを演じているのがヒース・レジャーである。
ファンが本作を見れば彼が亡くなった時、麻薬をやっていたという噂とか、麻薬をやっている映像が残っているだとか(彼自身はやっていなかったようだが)そんな話がこの映画と悲しく重なって見えてしまうだろう。
そしてこの映画でもヒースが魂を込めて演じているのが伝わってくる。
本当に麻薬でおかしくなってしまったのでは、と思うほど顔色が醒め、目は落ち窪み、体もわざとたるませているのではないだろうか。焦点が合わず、酷く無気力で呂律も回らない。
そんな中でもキャンディを愛し続けているのだが、その愛が彼らを不幸にしてしまっているのだ。

『ドラッグストア・カウボーイ』では麻薬の幻想をアニメっぽい映像で表していたが、ここでそのイメージはプールの水の中である。
美しい水の中に泳ぐ間、ふたりはこの上なく心地よい。だが溺れてしまえば苦しくなり、あがけばあがくほど浮かび上がれなくなる。
また冒頭の回転遊具で遊ぶ二人の姿もそのイメージなのだろうか。身動きできないほどの回転の中で生まれる浮遊感。喜び笑いあう二人だが、その激しい回転から逃れる事はできない。
この回転遊具からは『大人は判ってくれない』を思い出した。アントワーヌはあの回転の中で逃れられない苦しみを味わっていたのか。

本作と『ドラッグストア・カウボーイ』の違いはあちらは麻薬の苦しみというよりジャンキーというのはこういうものだと醒めた視線でもしかしたらやや肯定的とも思えるかっこよさを描いていたのに対し、こちらはジャンキーの惨めさ、悲しさが強く訴えてくるという所だろう。
特に妊娠したキャンディがそれでもクスリを止められず、死産と言う形で赤ん坊を抱く場面は怖ろしく悲しい。
それでもまだ麻薬を止められないまま売春とクスリを続ける姿はおぞましくさえ見えてくる。

唐突にキャンディは病院に入ったことで地獄から抜け出す事ができた。
最後のダンの姿は何を示しているのだろう。落ち窪んだ目から彼はまだ抜け出してはいないように見える。何も言わず去ったキャンディは彼に何を言いたかったのか。
ここで映画は観る者に判断を委ねているようだ。この後、キャンディとダンがどうなるのか。助かったと思ったキャンディもまた逆戻りするかもしれない。泣きながらキャンディを見送ったダンもやがて更生できるかもしれない。
だがダンが言うように「すべては、はかないもの」彼らがどうなるか、観る者がどう思うか、それはそれぞれが決めることなのだろう。

この作品を観ればまたヒース・レジャーという役者を失った悲しみを覚えるだろう。
最初の頃のまだ明るく体も損なわれていない状態の彼と次第に破壊されていく彼の変化を見ていれば言葉の説明はいらない。
キャンディをひたすら愛し続ける姿も辛い。
冒頭の回転遊具の場面でヒースの首筋に綺麗な書き方でひらがなの「ず」という字が見える。刺青なのだと思ったが次の場面では消えているし、大体「ず」ってなんだかわかんないし、もしかしたら後の文字がシャツの下に隠れているのかも。それでも「ず」のつく文字って何かあるか?ずんどう、ずばり、ずわいがに・・・まさか。
上の写真右側のヒースの首に“ず”の字が。

何故か凄い金持ちでジャンキーの教授役にジェフリー・ラッシュ。アビー・コーニッシュはかわいかった。ヒースと違ってそれほど変化しない、と思っていたら途中から怖ろしく見えてきた。本当にジャンキーで妊娠して、なんて考えただけで辛くなってくる。

世界中にいるジャンキーたちにこの映画を観て更生してもらいたいけど、この映画の主人公達のようにそんなことで逃げ出せる世界ではないのだよね。空しい。

ヒースがアメリカ映画だけでなくこうして母国オーストラリア映画にも出ていたことを思うとまた寂しい。

監督:ニール・アームフィールド 出演:ヒース・レジャー アビー・コーニッシュ ジェフリー・ラッシュ トニー・マーティン ノニ・ハズルハースト
2006年オーストラリア

追記:ほんとは追記じゃなく先に書くべきことだったかもしれないが、親はどうして娘の危機を傍で見ているだけなんだろうか。文句は言うけど羽交い絞めにしても止めさせる、という気持ちはないようで。
ここでは娘と母親の確執があったことになっているが「かわいい娘」とか言ってるし。父親も娘の夫に気持ちをつたえるだけで何が何でも娘を救う、ということはしない。
結果的にこうなった、というラストだったがどうかして助ける、ということはできない、ということなのか。
その辺が少し腑に落ちなかったのだが。
posted by フェイユイ at 22:45| Comment(2) | TrackBack(0) | オセアニア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年02月06日

『ケリー・ザ・ギャング』グレゴール・ジョーダン

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オーストラリアで絶大な人気を持つという実在した人物、ネッド・ケリーをヒース・レジャー、その仲間の一人をオーランド・ブルームが演じている。

オーストラリアの歴史といえば知っていたのは「犯罪者の流刑地であったこと」と「白豪主義」だったということ。
この映画はまさにその歴史の物語である。
教科書だけの知識とこんな風に映画でそれが一体どのような状況だったのかを知るのはまったく違う。
こうして観るとイギリス人の権威は絶対的なもので中国人移民、流刑されてきた人々やその家族に対しての暴虐がとんでもないものだったことが判る。もともとの住民アボリジニに対する描写は殆どなかったが、想像を絶するものであったのではないか。
本国においてもイギリスのアイリッシュに対する差別意識の酷さは『麦の穂をゆらす風』などに表されているが、遠く離れたこの土地でも、というか離れたことでさらに無法状態なまでの圧政になっているのではないだろうか。
ヒース=ネッド・ケリーはイギリス人警察の言いがかりで3年の刑に服役させられたのが10代の時である。
ようやく出所して懸命に働こうとしてもそちらの方がよっぽど無法者としか言えない警官達から馬を盗まれ、妹にちょっかいを出され、母親を投獄され、反抗すれば犯罪者になってしまうというどうしようもない状況に追い込まれていく。あまりのなす術のなさに観ているだけで苛立ってくるがイギリス人自身が法という社会なので虐げられた存在でしかないアイルランド人たちには同じ人間としての発言権など微塵も与えられないのだ。
愛する母親を投獄され行き場もないネッドは3人の仲間を連れ、ギャングとなって銀行強盗などで金を奪い貧しい人々に与えていく。
焦りだしたイギリスは破格の賞金をネッドと仲間にかけ、大勢の捜索隊を構成して彼らを追い詰めていった。

政府にとっては反逆者であり強盗だが、貧しい人々にとっては英雄だったネッド。
ついに捕まった時は3万もの助命嘆願署名が集まったらしいが刑は執行され25歳の若さで亡くなったという。
が、その人気は絶えず忘れられる事もなく次々と映画化されミック・ジャガーもネッドを演じて有名だったということでイギリス圏でのネッド人気というのは相当なものなのだろう。特にオーストラリア本国での人気は不動でオリンピックの時も鉄甲と鎧をつけたネッドのイメージキャラクターが大勢でオープニングを行進したというのだ。

ヒース・レジャーはネッドに似た部分があると言う。家族思いで反骨精神があり、信念のために戦う勇気を学んだと。
同じように20代半ばで命を失ってしまったとは。

ネッドの死に逝く時の様子は奇妙でさえある。不恰好な鉄の鎧と甲を身につけピストルを撃ちまくる。
生い立ちと状況を知らないなら笑ってしまいそうだ。
その姿はどう抵抗しようもない強大な圧政に何とか立ち向かう力なき者の反逆の形なのだ。
そんな格好をしても結局は負けてしまうとわかってはいても彼らはそれしかなかったのだ。
乗りこなせない荒馬を撃ち殺せとイギリス人が命令する。「どうにかします(から、殺さないで)」と申し出るネッドの言葉を無視して馬を撃ち殺してしまうイギリス紳士。
この時、ネッドはその馬と自分を重ねただろう。

ネッドが10歳の時、溺れかけた少年を助けたお礼として与えられたサッシュ(腰に巻く布)をずっと巻いていた為に博物館に残されたそれには血が付着しているという。

語り継がれた英雄譚の映画化のためか作品自体はそれ以上の何かを訴えるまでにはいっていないようで、この歴史を知ったうえでの方が感動が湧くように思える。
どうしても日本と重ねて観る時、圧制を強いていた側という歴史があるため、このような作品により心を痛めてしまう。
理屈もなく人間の尊厳を無視したこういう社会がないことを願う。

本作のヒースは大柄で髭面のネッドになりきっている。『ブロークバックマウンテン』にも伺えるが、荒くれた生活を送る無口な男を演じるのが似合う。本人は非常に繊細な人のように思えるのだが。
オーランド・ブルームという人気俳優が出演しているのも面白い。女性にモテモテの二枚目という役だ。勿論、抜群に似合っている。
ナオミ・ワッツ。ネッドと恋に落ちるイギリス人・人妻。人種差別もあるが女性の立場も悪そうだ。他に13歳の少女と同衾している男も登場するし。何もかも荒れているように感じる。

監督:グレゴール・ジョーダン 出演:ヒース・レジャー オーランド・ブルーム ナオミ・ワッツ ジェフリー・ラッシュ ジョエル・エドガードン
2002年オーストラリア
posted by フェイユイ at 22:26| Comment(2) | TrackBack(0) | オセアニア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年07月31日

「世界最速のインディアン」ロジャー・ドナルドソン

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いいなあ、やっぱりこういうの。感動するだろうと思ってそのとおりいい映画だった。男の子との語り合いから始まる、というのも老人映画のセオリーみたいなもんだけど、思いは受け継がれていく、ということが言わなくても伝わってくる、そんな気持ちにさせられる。

アメリカから見ればニュージーランドなんて地球の果てみたいなもんで訛りのきつい爺様が物凄く時代遅れのバイクをえっちら運んできて申し込みもしそこねて参加しようなんて大笑いだったはず。
でもそんな爺様にもそこにたどり着くまでの歴史があるわけなんだよね。
まだ若い時に購入したバイク・インディアン。最初は時速90キロも出なかったそれを長い年月をかけて爺様チューンナップ。そのやり方はお手製・自己流もいいとこなんだけどバート・マンローは持ち前の技術で見事にレース用バイクを作り上げてしまう。
とはいえ、他の最新式レースマシーンに比べれば前世紀の遺物。恐竜時代などと呼ばれてしまう。
心臓はいつ発作を起こしてしまうかわからない、前立腺にも問題を抱えている老人がニュージーランドを出発し、アメリカ・ボンヌヴィル(干上がった湖があり、どこまでも塩を含む平地が広がっている)でのバイクレース(直線を走りその最高速度を競う。遥かに平たいその地だからできる)に一生の悲願をかけて出場する。

バイクの騒音で近所迷惑。庭は手入れもせず荒れ果て草は伸び放題。息子は変人爺さんに肩入れして入り浸っている、となっちゃ隣人は大迷惑だがバート・マンロー氏は一向意に介せず。
ガールフレンドの勧めもあってついに夢だったアメリカ・ボンヌヴィル・バイク大会に出場する決意をする。
貧乏なバート・マンローにカンパをするためパーティをしたり爺様を馬鹿にした暴走族も餞別をくれたり、バート氏、女性にはモテモテだし、男性からもいつも何かと世話を焼かれるのだがそれはバートの飾らない子供のような人柄のせいなんだろうな。
大体。アメリカに到着して何人かの意地悪に会った以外はみんな良い人ばかりである。
モーテルで知り合った女装の男にもだだっ広い平原の道路で出会ったネイティブ(つまりインディアンね)にも取締りをする警察にも好かれてしまうのである。
後で考えるとうまく行き過ぎてるような気もするが観てる時はそんなこと気づかない。
それはバート役のアンソニー・ホプキンスのうまさもあるんだろけど、こんな変なことにこんなに一生懸命頑張ってる人間(爺様だというのも勿論助けたい条件の一つだが)をそんなに無情にホッテはおけない。よかったなー、と素直に思ってしまう。(他の映画だとあんまりうまくいってると文句つけたくなるへそ曲がりなのだが)
そうやって人情にほだされてほわほわんとなってるとこへ爺様バート・マンローのあの走りぶり。
ただただ一直線を早く走る!
小さな田舎町の倉庫で男の子とおしゃべりしながらこつこつと作り上げたオンボロマシーンがなんと時速300キロを越えた時、思わず(知っているのに!)涙がぐっとこみ上げてきてしまい困るのだ。
ボロのブレーキしかなく速度を落とす為のパラシュートもついておらず、身を守るスーツもブーツもなく(そのために足が焼け焦げてしまう)古びたヘルメットしか身を守るものがナイバート・マンロー。怖くないのかと聞かれバイクで走る5分間は一生に匹敵するのだと答える彼はその言葉通り時速300キロのスピードの中で人生の全てを出し尽くしたんだろう。と言っても老人の彼はその後もレースに出場し続け9回もボンヌヴィルで走り、何度も記録更新をしたそうな。
1000cc以下のバイクではいまだに(2007年まで)その記録は破られていないという。まさに世界最速なのだった。

ボンヌヴィルでの走りは物凄いが故郷ニュージーランドで暴走族相手に競走した場面は爽快だった。
やはり誰かを追い抜くっていうのは気持ちのいいことなのだ。それもぶっちぎりで。その後、こけたとしてもね。

監督:ロジャー・ドナルドソン 出演:アンソニー・ホプキンス クリス・ローフォード アーロン・マーフィー クリス ウィリアムズ ダイアン・ラッド パトリック・フリューガー ポール・ロドリゲス アニー・ホイットル
2005年ニュージーランド/アメリカ
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2006年12月25日

「マッド・マックス」ジョージ・ミラー

マッド・マックス.jpg

昔、とにかく惚れこんでしまった作品だ。観たのは「マッド・マックス2」が先でべた惚れだったのだが、本作もまたシンプルな迫力に満ちている。
当時の走り屋たちにはSF感の強い「2」より走りに徹底した本作のほうが人気だった。
車に詳しい知識はないがそれでもマックスの乗り込むインターセプターのかっこよさは解ったし、それ以上に不死身のグースの走りにはゾクゾクする快感があった。(マックスよりもグースの人気が高かったような気がする)

全く車とバイクの走りそのモノを映す為に作られたような映画であってその辺の感覚は「イニシャルD」にも感じられたがあちらがコーナリングの繰り返しによる快感なのに対し、こちらは果てしなく続く直線での単純なスピード感だ。一体何キロ出ていればこの疾走感が出るのか。物凄いスピードで追うカメラの乗った車の前をバイクが走りぬき去っていく。
その信じがたいスピード感をカメラワークも助けている。
私は全くカメラ用語などわからないので説明できないのがもどかしいが怖ろしいほどの速力を感じさせるのがカメラの位置や動かし方にもある。その感覚は当時「アメリカ映画では感じたことがない」と思い心酔していたのだった。

「マッド・マックス」はSFというより西部劇と言ったほうがいい。馬が車とバイクになっただけだ。
人物はマカロニ・ウェスタンの雰囲気に似ていてやはりそういう映画が好きだった私が好きになるのは当然だった。

もう一つ私が好きだったのは勿論マックス役のメル・ギブソンで私は「マッド・マックス2」の時のメルほどかっこいい男は他にいない、と思っている。本作のメルはやや若いせいで顔が甘く「2」ほどのかっこよさには達していない。そのせいもあってグースに軍配が上がるのだが、それはいいとして大好きなのはマックスの上司フィフィ隊長なのだった。
つるつる頭に髭のマッチョな隊長でオーストラリア男にしては(アメリカ生まれだが)小柄なメル・ギブソン=マックスをいたく気に入って可愛がっている様子なのだ。
警察を辞めようとするマックスを引き止めるときなんか上半身裸にネクタイ(?)である。「ひざまずいて泣けというのか」というマックスへの深い愛もステキでマックスXフィフィ隊長はやたらセクシーな関係に見えたのだ(これは私だけです、念のため)

まあ、そういう淫らな妄想を抱きつつも「マッド・マックス」の爆走は最高に刺激的なのだった。

妻子を失い復讐を誓う、というのはメル・ギブソンが監督になってもやった設定だが、確かにヒーローの心を燃えさせる為に必要な悲劇なのだ。
しかし車の疾走感は徹底しても残虐な場面を映す事はない。そういった演出と言うのも気に入ったことなのだが。

監督:ジョージ・ミラー 出演:メル・ギブソン、スティーブ・ビズレー、ロジャー・ワード
1979年オーストラリア


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2006年12月10日

「シャイン」スコット・ヒックス

シャイン.jpg

エロスとバイオレンスをテーマにしたものに偏って観ていたため、久し振りにピアニストを題材にした映画で最初戸惑いさえ覚えた。だが自分の子供に対して厳格というより偏執的にピアノ教育をする父親を見せつけられ、これも暴力には違いない、と感じた。

「自分はバイオリンをやりたかったのに理解のない父親のためにそのバイオリンを叩き壊された」と父親ピーターは息子デヴィッドに何度も繰り返す。そしてデヴィッドに「ピアノが弾ける僕はラッキーな子供だ」と何度も言わせる。デヴィッド自身もピアノを弾くのが大好きなのだ。何とか父親の願いをかなえようと優勝を目指して進んで練習を続けている。
だが父親の欲望は奇妙に歪んでいる。デヴィッドの努力で勝ち得たアメリカでの勉強の道を断ち切ってしまうのだ。父ピーターは自らの指導に固執し他人の教えを嫌っている。デヴィッドの才能を認めた教師にも胡散臭い目を向けている。「私が最もお前を愛しているのだ。外へ行くのは許さん」
ピアノの勉強を欲するデヴィッドはついに父親を振り切って次に来たイギリスでの奨学金を受ける決意をする。

「エクソシスト」で「ホラーには母親がつきもの」という事を書いたが、実際には父親の脅威というのも怖ろしいものなのだ。
ここでは母親の存在と言うのはないと言っていい(ちゃんといるのだが)疎み憎んでもデヴィッドは父親に愛されたい、理解して欲しいと願っている。何のことはない、父ピーターは「父親の理解がなくて音楽が出来なかった」というが自分自身も理解せず音楽の道を絶ってしまっているのではないか。
私は実在の人物であるデヴィッド・ヘルフゴッドのことは知らないのでこの映画に関しての感想になるが、彼がどうして何がきっかけで精神に異常をきたして行ったのか映画では詳しい説明はない。
ただここで描かれたものがある。精神が侵されピアノを弾く事を医者に制止されたデヴィッドが再びピアノに向かい人々から喝采を浴びるようになり彼の前に再び絶縁していた父ピーターが現れるのだ。ここでまた父親は自分が好きだったバイオリンの父にどうされたか、とデヴィッドに問う。デヴィッドは何度も繰り返してきた答えを言おうとしない。この時のデヴィッドを演じるジェフリー・ラッシュの表情が正常なそれになり父親に背を向ける。そして帰って行く父親に窓から「お休みパパ」とつぶやくのだ。そこがこの映画の父ピーターへの返事なのだろう。

素晴らしい才能を持ちながら父親の呪縛から逃れられず精神病院に入ることになるデヴィッド。しかし屈託のない明るい性格で人を惹きつけ様々な出会いから退院して再びピアノ演奏をすることになる。
そして知り合った女性に求婚するデヴィッド。驚いて去っていく彼女の車をいつまでも飛びながら手を振るのだ。
ここで思いもよらず涙がこみ上げてしまった。
そして彼の求婚を受け入れたギリアンにもびっくり。彼らはそれから力を合わせて演奏活動をしていくのだ。
かつての天才少年に長い年月が過ぎてしまった。が、人々の拍手に涙するデヴィッドにまた胸をうたれた。
最後にギリアンと共にデヴィッドは父の墓を訪れる。
「僕は生きている。途中で捨てずに生きていく」
いいラストシーンだった。

デヴィッド・ヘルフゴットの半生なので3人の役者が演じるわけだが、どのデヴィッドもよかった。
無論アダルト・デヴィッドは見ごたえある。精神が侵されてしまったデヴィッドだがいつも明るくて人に好かれる。酷く早口のおしゃべりだ。散らかし魔でヘビースモーカー。タバコを吸いながらピアノを弾きまくる姿はちょっとかっこいい。
そんな彼が求婚したときはさすがに怖気づいたがまさかの結果。うん、人生は捨てたもんじゃないのだ。
しかしパンツをはかずにトランポリンしてたり、彼女のおっぱいを何かと触ったりほんとに面白いデヴィッドである。
映画中の演奏は実際のデヴィッド・ヘルフゴット氏の演奏によるものらしい。音楽の聴く耳をもたないがやはりラフマニノフを聞きたくなったりする(笑)

デヴィッドが行くことになったイギリスの音楽学校の教師がジョン・ギールグッドであった。イギリスってことで彼、というのはあまりにものキャスティングだがやはりこの顔を観るのはうれしいことだ。

監督:スコット・ヒックス  出演:デヴィッド=ジェフリー・ラッシュ&ノア・テイラー&アレックス・ラファロヴィッツ 、アーミン・ミューラー・スタール 、リン・レッドグレーヴ 、 ジョン・ギールグッド
1995年オーストラリア
posted by フェイユイ at 22:33| Comment(2) | TrackBack(0) | オセアニア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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