映画・ドラマ・本などの感想記事は基本的にネタバレです。ご注意を

2010年05月19日

『愛しきベイルート アラブの歌姫』ジャック・ジャンセン

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We loved each other so much

先日『戦場でワルツを』(原題訳『バシールとワルツを』)という恐ろしいアニメーションを観たばかりだが、その舞台となる15年続いたレバノン内戦の間もベイルートに留まり歌い続けたという。
彼女自身はキリスト教徒らしいが様々な宗教の人々が住むレバノンで誰からも支持され愛されている、彼女への賛辞と敬愛の言葉がそこに住む人々の姿と共に映しだされる。

変な言い方だが、ベイルートと聞くだけでどんな緊迫感のある町の様子が映されるのか、と思ってしまったのだが映像で観れるのはどこででも感じられるような風景であった。とはいえ町に住む人々は年を取っている人ほど昔はこの町がどんなに平和で美しかったかと語る。宗教の差別もなく町に住む人は皆仲良く街並みも文化も素晴らしかったのだと。
一体どうしてそんな平和な町が内戦状態になり『戦場でワルツを』で見せられたような残虐な殺戮を体験しなければならなかったのか。
すでに有名で豊かであったファイルーズ(発音はフェイルーズと聞こえるのだが取り敢えず書かれている通りに書いておく)はそう思えば国外へ逃げることもできたのにその地に留まり歌い続け人々の安らぎとなった。
老いも若きも男女問わずファイルーズを女神として敬愛している。その歌は祖国レバノンへの愛を歌ったものもあり恋人への思いを訴えたものもある。そして類稀な美貌。何故神様は美しい声と美しい容姿の両方を一人の女性に与えてしまったのか。やはりそれは苦しむ人々へのせめてもの贈り物だったのだろうかとつい思ってしまう。一人の男性がファイルーズのコンサートで夜の空が真っ暗であった時彼女が「何故月が見えないの」と歌うとぱっと雲が去り月が輝いたという不思議な話をする。そういう伝説がカリスマには付き物だ。
そういった様々な物語や彼女への愛が苦しい時期の人々を支え続けてきたのだろう。そういう時期には誰しも心を守ってくれる物が必要なのだな。

惜しむらくはファイルーズが歌う映像がたった一つしか収録されていなかった。それは最後だったのでそれまでは人々の話と幾つか見せられる写真でよかったのだが、一つ歌う場面を見せられてしまうとせめてもう幾つか取り入れていて欲しかった。きっと誰もがそう思うのではないだろうか。

監督:ジャック・ジャンセン 出演:ファイルーズ
2003年オランダ
ラベル:音楽 戦争 歴史
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2010年05月13日

『戦場でワルツを』アリ・フォルマン

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VALS IM BASHIR/WALTZ WITH BASHIR

とても変わった手法の作品だった。映画監督である主人公アリが突然友人に不思議な夢の話を聞かされる。26匹の狂犬に吠えたてられる、というものだ。友人は2年ほど前からその夢に苦しめられているのだが、彼にはその犬が何なのかをすでに察している。さらに20数年前に従軍したレバノン内戦での記憶が彼にその夢を見させたのだと言う。
主人公はその話を聞いたことから自分も共に従軍した戦争の記憶を探ろうとする。ところが彼はその時の記憶がすっぽり抜け落ちてしまっているのだ。
主人公アリが失われた記憶を取り戻す為、共に従軍した戦友たちや心理学者などから話を聞いていく、というドキュメンタリー映画でありながらアニメーションである。
それは中で戦友が要求した「絵は書いていいが写真は駄目だ」と言うことからきているのだろう。本人役で出演している人たちもアニメーションになることでこの重く苦しい過去を語る映像に登場する負担がが少しは緩和できるかもしれない。またドキュメンタリーの部分(インタビューの場面)と夢や過去を映像化した部分がアニメーションであることで違和感なく一つの作品にまとめられている。

アニメが大好きな日本人が作るアニメとは随分違うアニメである。一旦撮影したものをアニメに置き換える、というのもあまり日本のアニメファンの好みではないのではないか。自分もそうだったのだが、この作品ではあえてアニメに置き換えることにも意味があったので納得できたし、またアニメ自体の技法も優れていてとても美しいと感じた。
それにしても巧妙に作られた作品だと思う。
突然の恐ろしい予感をさせる導入部。26匹の吠える犬の理由。この夢にしろアリの中に僅かに残った記憶にしろ何故同じ戦争を体験した彼らの中でこのような形で残っているのかが釈明されていく過程に惹きこまれていく。
つまり私のように何も知らなかった者や知っていたけど主人公と同じように記憶が失われてしまっていた人々は彼と同じように記憶を辿っていくことになる。
まだ何も判らない若者だった主人公や戦友たちは戦争の狂気の中に巻き込まれていく。
そして自分たちもまた残虐な加害者になっていくのだ。
それはかつて愛する家族・同胞に非道な虐待・殺戮を犯したナチスと同じではないかという苦悩となり彼らの記憶から虐殺の部分を抹消してしまう。そうしなければとても耐えて生きていることができなかったのだ。
彼らの犯した虐殺の場面でホロコーストを持ちだすことに反感を持つ向きもあるようだが、両親をアウシュビッツで亡くしてしまう過去を持つ者がナチスの行為と自分の行為を重ねてしまうのは当然のことであるし、それこそが彼らとって最も認めたくない事実だったはずだ。
アリがその時の記憶を夜の海に浸っている自分たち、という記憶にすり替えていまったのは、博士が言う「夜の海は恐怖を意味している」からなのだろう。

祖国の暗部を告白した厳しい作品だが、どこか却ってほっとするような気持ちになるのは今迄記憶の底に抑え隠していた苦々しいもの、醜悪な夢を掘り起こし見つめ直したことで逆に救われたからなのではないか。
私自身イスラエルに対し「何故彼らがナチスと同じようなことを」と最近訝しく思っていただけにこの作品を観てほんの少しだけ救われた気がした。
とはいえ、本当に苦しいのはパレスチナの普通の人々であることは違いない。

監督・脚本・出演:アリ・フォルマン
2008年イスラエル
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2009年03月11日

『迷子の警察音楽隊』エラン・コリリン

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The Band's Visit

英語という第3の言語で会話はできるが互いの言葉は通じないエジプト人とイスラエル人の物語だが、政治情勢から生まれる軋轢・対立などの表現は殆ど見せない作品になっていた。

イスラエルのとある町に呼ばれてやって来たエジプトの警察音楽隊の彼らが緊張しているのは無論そういう背景があるからなんだろう。それでも若いカーレドなんかは早速女の子にちょっかいを出したりして隊長であるトゥフィークに睨まれたりしている。

トゥフィークは堅苦しい表情の規律を重んじる初老男性である。若いカーレドに道を調べさせたが案内係の女性に歌を歌ったりして結局目的地を間違って調べてしまったのだ。
彼らは言葉もよく通じないこの国で間違った町にたどり着いて途方にくれる。コンサートは翌日なのにもうバスも来ないというのだ。
厳格な隊長は渋る隊員を持て余し仕方なくたまたま訪ねたレストランの女性に助けを求める。

トゥフィークはその厳格さゆえに愛する妻子を失ってしまったという悲しい過去を持っていた。そのことを悔やんではいただろうがその性格はまだ消えたわけではなかったのだ。
道先を間違えたカーレドを厳しく叱りつけ、トゥフィークと仲良くしようとするレストランの女主人ディナの心に気づきながらも最後まで拒否してしまう。
ディナが若いカーレドと愛し合っているのを見たトゥフィークはやっと彼が何を失い続けていたのかを気づいたのかもしれない。
その後、カーレドを見てもトゥフィークが怒ったりしなかったのは彼の柔軟な心に何かをこっそり学んだのかもしれない。

イスラエル、という国は一体どんな国なのだろうか。その人々は。
エジプト警察音楽隊が迷子になってしまった小さな町は閑散とした静かな場所ででもそこでも人々は生活し、楽しみを知り、愛を求めている。
それはどの国のどの小さな町でも見られる普通の生活である。
言葉の通じない外国人が来れば戸惑いながらも一夜の宿を与え、グチをこぼしながら会話をし、食事を分ける。
親切すぎもせず追い出すわけでもなく当たり前の感情と行動に思える。
エジプト人という外国人が突然訪れた一夜を描くことで彼らの生活が身近に見えてくる。

私はエジプト人、イスラエル人の特徴というのが判らないのだが厳格で男っぽい隊長が心を開かないこを描いてトゥフィークをエジプト男性の代表にしてみせてもっと心を開いて会話をしたい、という意味合いも込めて表現しているのかな、とも思ったのだが。

ともあれ、迷子になってしまうという失敗が思いがけなくトゥフィークの心を開き、彼に人生をもう一度やり直してみよう、と思わせたのだ。
そのきっかけはどちらも問題児であるカーレドの行動だった。トゥフィークはもう一度ディナのような女性に出会えるだろうか。

監督:エラン・コリリン 出演:サッソン・ガーベイ ロニ・エルカベッツ サーレフ・バクリ カリファ・ナトゥール
2007年 / イスラエル/フランス
posted by フェイユイ at 23:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 西アジア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年11月23日

『オフサイド・ガールズ』ジャファール・パナヒ

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OFFSIDE

何故女はサッカー競技場で観戦ができないの?
というテーマでドイツ・ワールドカップ出場目指すイランの対バーレーン決勝戦での一日を描いた作品。

イランでは女性が男性競技者のゲームを観る事ができない。例えイランがワールドカップ出場を賭けた試合でも女性が競技場にはいろうとすれば逮捕されるという国なのである。何故なの?と登場人物の女性たちは問う。彼女達を逮捕した兵士たちも明確な答えはできない。「男と女は違う。競技場は男ばかりで女に聞かせられないような罵詈雑言が飛び交っているからだ」サッカーが大好きで自分も選手だという女性もいる。そんな答えでは納得できないのは当たり前。90分ほどの作品の中、殆どしゃべりっぱなしで「何故なの、何故なの」を繰り返しているような映画なのだ。
同じ女としてはほんとうに苛立ってしまう話で冒頭の可愛らしい少女が精一杯男装してサッカー場へ入ろうとする場面など、こちらも同じように緊張してしまった。「女だと判ったら、どんな目にあうと思う」などと言われたら怖気づいてしまう。
可愛い少女はあっという間に捕まってスタジアム裏手の簡単な柵の中に入れられてしまうのだが、なんだか声だけはでかいがちょっと間の抜け加減の人のいいリーダー格の兵士(この人いい人すぎてかわいそうである)とその部下みたいなのがあまり迫力のない感じで見張っている。柵の中の捕まった女達のほうがぺちゃくちゃサッカーがどうだの選手がどうだの話しまくって元気がいいったらない。
イランのサッカー選手といったらアリ・ダエイくらいしかぴんとこないが彼の名前も無論ちゃんとでてきて(トップ選手だから当然)なんだか知ってるぞとうれしくなる。
まあサッカー狂いのサポーターたちというのはどこの国でもおなじようなもんである。
前にスコットランドのサポ少年たちを描いた『明日へのチケット』も面白かったが奴らの熱狂振りというのは傍から見てる分にはほんとに狂気の沙汰である。
しかしイランサポ、これから決勝戦だっつーのにロナウドのシャツを着てる奴が何人もいたぞ。日本だったら考えられんと思うが適当だなあ。
作品中で見れないで悔しがる女性の1人が「日本人女性はこの試合場で試合を観てたわよ」と兵士にくってかかると「日本人は言葉がわからんから、見てもいい」という変な答え。よほどイラン人は酷い悪態をついているのかね。女が男の側に座るのはいけない、と言い張るからよほどイランの男性はいやらしいのかと思ってしまうがこれで観てると別段普通に女性に接しているわけで女性を観れば突然襲ったりするわけでもあんめーに、と首をかしげてしまうのだがなあ。
と言っても少し前までは日本も似たような部分もあったとは思うので、もう少し時間が経てば「あの頃は女はサッカーも観れなかったのよ」という笑い話になればいいなと他人事ながら願ったりもする。
とはいえ、同じく男性も女性競技者のゲームを観る事ができないという。男性監督でも女性チームの指示を外からするしかないというお国なのだ。うーん、大変だなあ。
ま、テーマがサッカー観戦ということなのでそれほど「なんという酷い差別だ!」と怒りの拳を振り上げるほどもないので(勿論腹はたつが、「女性性器切除」みたいなすぐにどうにかしてあげられないのかと苛立つものではないということで)なんだかムカつくよねといいながら笑ったり怒ったりしながら観れるいい作品に仕上がっている。
実際の男女差別はもっと大変なものかもしれないし、もっと深刻な事柄もあるだろう。
「何故女性は男性のサッカーを観れないの?ワールドカップなのに」という軽い雰囲気の作品だからこそ、笑いながら考えられるのだろう。男達もどこか気が弛んでいる楽しさがある。
そして結局試合は観れなかったのにイランのワールドカップ出場決定を大騒ぎして喜ぶ女達の明るさにもうれしくなる。
とんでもないことに町中のお祭り騒ぎに紛れて兵士たちの目を逃れ脱出する彼女達。大勢の男達の群れの中に同じサッカー好きとして混じりこみ騒ぐ彼女達。彼女達がもう少し年を重ねた頃堂々とサッカーが観れるといいのだが。

劇的な映画手法ではなくドキュメンタリーを観ているような撮り方が本当の話みたいだ。どこかのんびりした雰囲気もあり、聞こえてくるのが試合の歓声でバックミュージックみたいなものが使われていないのもいい感じである。
捕らえられた女性たちがそれぞれ個性的であり特に男っぽい彼女はすてきだった。頑張ってほしいなあ。

監督:ジャファール・パナヒ 出演:シマ・モバラク・シャヒ サファル・サマンダール シャイヤステ・イラニ M・キャラバディ イダ・サデギ
2006年イラン

ラベル:女性 差別
posted by フェイユイ at 21:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 西アジア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年12月08日

『パラダイス・ナウ』ハニ・アブ・アサド

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Paradise Now

この映画で最も驚いてしまったことは鑑賞後に監督から聞いた「自爆攻撃は究極のサスペンススリラーになりうる」という言葉だった。
「自爆攻撃」をパレスチナの映画監督が扱った作品と聞けば非常に深刻なものであると受け止めてしまう。無論、そこに描かれる悲しみは深いものである。だが作品を作った監督がそれをサスペンススリラーだと位置づけたことは確かに頷けると思えたのだ。
そしていつも聞いていた「自爆テロ」という言葉ではなく「自爆攻撃」なのだということをここで知った。

若いサイードとハーレドは強い友情で結ばれておりパレスチナのために神の僕となって生命を捧げる「自爆攻撃」の命令が下る事を待っていた。
最初は熱く使命を遂げたいと願うハーレドと対照的に迷いを見せるサイードが描かれる。作戦がうまく運ばず中断した二人は別行動をとるはめになる。ハーレドはすぐ仲間の元に戻り胸に巻かれた爆弾を取り除かれる。一方迷っていたサイードは仲間の車に乗りそこない、一旦はイスラエルのバスに乗ろうとするが子供達の姿を見て決心が鈍る。重い気持ちを抱えたまま、パレスチナに戻った彼は自分の父親が密告者として処刑されたことを考える。
その間、ハーレドは殉教した英雄の娘スーハと語り合うことで自爆の意志を失い、サイードを説得しようとする。
だが再会したサイードはハーレドをパレスチナに帰し、一人、自爆攻撃へと向かうのだった。

私自身、パレスチナ人は宗教の為、国の為と言って悲しむこともなく自爆攻撃を行っているのだと考えてしまっていたのではなかろうか。
無論そんなことはありえない。「神風特攻隊」という存在がいた過去を持つ国民ならそれを考えることはできる。
自分の命、家族・友人の命を平気で捨ててしまえる人間はいないだろう。ここで描かれる若者たちの苦悩と悲しみは胸を打たずにはいられない。もがき苦しみながら彼らは生命を捧げなければならない状況にある。ハーレドのように「帰る」という一言で中断できる立場であってもサイードのように苦しみながら死を選ばずにはいられない者もいるのだ。名誉を失いたくない、という恐れが彼を死に追い詰めていく。
確かにこれはサスペンススリラーである。

財力が乏しいために彼らの勇姿を撮るカメラが古くて壊れてばかりだとか、爆弾もそれを留めるテープも質が悪いだとか、携帯電話を渡すのが遅いだとか、いかにも侘しいパレスチナの抵抗組織である。
若い二人を煽てながら自爆攻撃に向かわせる仲間たちにも疑問を持ってしまう。
イスラエル側からは「テロリスト映画」として攻撃され、パレスチナ人からは「叫び足りない映画」として誹謗されるという本作は他から観れば非常に冷静に「自爆攻撃」という題材を描いた作品として優れていると思える。冷静だとはいっても若い生命を散らせてしまうことへの反発と抑圧され続ける事への抵抗は熱く語られているのだ。

作品中「自分の人生は退屈だ」というサイードにスーハが「あなたの人生は日本のミニマリスト映画みたいよ」と答えるシーンがあって監督はこの言葉は青山真治『ユリイカ』を思い描いて言わせたらしい。
偶然にも直前にこの作品を観ていたことは幸運だった。スーハはサイードが子供たちを助ける沢井のようだと言い当ててるのではないだろうか。そういいながらスーハは行ってしまったサイードに涙を流すのだ。

暴力ではなく声高に叫ぶことでもなくストーリーテリングによって抵抗を表していきたいという監督の意志は素晴らしいことだと思う。
ドキュメンタリーではなくフィクションで若者たちの炸裂した青春を描いた抵抗の作品である。

監督:ハニ・アブ・アサド 出演:カイス・ネシフ アリ・スリマン ルブナ・アザバル アメル・レヘル ヒアム・アッバス
2005年 / フランス/ドイツ/オランダ
ラベル:抵抗
posted by フェイユイ at 23:42| Comment(0) | TrackBack(1) | 西アジア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年10月07日

『ガーダ パレスチナの詩 』古居みずえ

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1993年、パレスチナ、ガザ地区難民キャンプで日本人女性ジャーナリスト古居みずえはガーダと出会う。それから古居がガーダを撮り続けた12年間に及ぶドキュメンタリー映画である。

冒頭、封建的社会で生きる23歳の女性ガーダは結婚で悩んでいる。親が決めた相手とはいえ、伝統に縛られるのは嫌だと思っている、堅苦しい式はやめエジプトへ新婚旅行へ行きたいと願っているのだ。若い女性なら全く考えそうなことでガーダに共感できる。ちなみにガーダより少し前になるとはいえ日本人の私は相手は自分が選んだ相手だったが結婚式をしたくない、という意見は両方の親から斥けられ渋々結婚式をすることになったという苦い思い出がある。新婚旅行は行かなかった(行けなかった、か)相手を選ぶ権利の方が重要ではあるが日本人も伝統に縛られないわけではない。

だが観ててほっとしたのはガーダの夫・ナセルがとても寛容で優しそうな男性だったということ。料理もナセルの方が上手で冗談かもしれないがガーダはまったく料理をしないよ、なんて言っている。
封建的などと書かれているから酷い男女差別があるのか、と思ったら別の男性にしても女性に対して穏やかで優しげなのでパレスチナというところはそういう感じなのだろうか。
男女で交わす愛の歌にも情愛が満ちている。

さて問題はパレスチナにおけるイスラエルとの対立である。本作では無論パレスチナに視点が置かれているので「イスラエル兵」に絶え間ない銃撃を受けるパレスチナ人と投石によって反撃するパレスチナ人という映像が登場する。
まだ幼い少年たちが石を投げ、銃撃を受けて命を落とす。嘆き悲しむ両親。イスラエルへの復讐の言葉が口をついて出る。
長い歴史の中での複雑な確執。詳しいことは知らない私でもそれらが簡単に決着がつくわけではないとは想像できる。
またここで映し出されたことのみが全てではないこともわかるが、それでもこの地でたくさんの人々の血が流れ涙が流れていることも事実のはずだ。
男達は戦い、女性たちは「歌うことで抵抗」するのだという。

しかし一体平和を望まない人々がいるのだろうか。何故報復は繰り返され悲しみは終わらないのか。同じ苦しみを相手にも与えて欲しいと願えばそのお返しがまた与えられるというのに。
日本人である自分はどうしても平和であることが一番大切だと思ってしまうのだがそうではないのだろうか。

教師でもあったガーダは自分を取り続ける古居に触発され自ら難民生活を余儀なくされたパレスチナの人々、特に女性たちの言葉と歌を集めて本にしようと行動を始める。
ガザ難民地区で生まれ育ったガーダがパレスチナの各地で自分のルーツを求める、その様を映し出すというドキュメンタリーとなっていく。
表舞台に立つ男性の姿は多く観る事があるがイスラム圏の女性たちをあらわにしたものはやはり女性監督でなければ撮ることは難しかっただろう。
歌の中に彼女らの悲しみや苦しみを感じることも出来る。

本作でガーダは英語を話している。元々彼女は古居監督の通訳という関係だったようだ。
その内にガーダが結婚するこちになり古居監督のカメラが大勢からガーダ個人へと向けられるようになったのだ。
ガーダの導きのため古居監督の存在は外国人という枠を取り払うことになったのだろう。ここに映し出される人々の表情は男女とも和らいだものである。女性だけでなく男性も固い表向きの仮面を取り払っているかのようである。
特典の中で別のカメラマンの手によるガーダの古居監督への感謝の言葉があり、胸をうつ。
同じ女性として自分の考え・思いを公に表現することを教えてくれたことへの感謝であった。

監督:古居みずえ
2005年日本

近々パレスチナのテロリストの若者達を描いた『パラダイス・ナウ』もDVD化されて観ることができる。
ラベル:歴史 戦争
posted by フェイユイ at 21:59| Comment(2) | TrackBack(0) | 西アジア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年04月06日

「チャドルと生きる」ジャファル・パナヒ

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イランでの女性達がどのような立場にいてどう生きていかねばならないのか。
僅か90分という短い時間で幾人かの女性の姿を追いながら問題を提示している。
そして単なる批判映画ということではなくそれらのエピソードを織り込んで作りこまれ円となってつながっていく美しい作品に仕上がっているのだ。

赤ちゃんの誕生という喜ばしい時に娘が生んだのが男の子ではなく女の子だったということで失望し娘が離縁されると心配する母親。
仮釈放のため、警察から逃れ身を隠す3人の女たち。バスに乗ろうとしても女一人では切符も買えないのだ。身分証明がなければ。
表で煙草を吸うのも咎められるし、チャドル(黒っぽいベール)の着用を義務付けられる場所もある。
男達の言葉遣いや態度は常に女性差別を感じさせる。

ヴェネツィア映画祭で金獅子賞を取りながら自国では上映されないという事実。それはここに描かれた女性が決して褒め称えられる存在でなく暗の部分であるからなのだろう。そういう女性達は必ずいるはずなのに。

という本作自体の質の高さと女性差別への不満は確かではあるが、無知を承知で思ったことを言えば、他の女性達の様子も観てみたい。
イランという国がこの映画だけで説明されてしまうわけでもないだろう、と思ってしまうからだ。
アメリカでも日本でも差別的なものは存在する。無論それを皆改善しようと訴えていくわけだけど。
イランの女性達も楽しい事はやってるに違いない。そこらを映画にする方がよほど大変な事かもしれない,という気もする。

実際離縁はされないが、女の子しか生めなかったといって悲観してる知り合いもいるし、外で女性が煙草を吸うのはあまり見かけない。多分私の住むとこが田舎だからだろうけど。
あんまり奇抜なかっこうもできないし。
だからと言ってそれでも生きているし。こんなこと言ってちゃこの映画の主旨がわかってないと言うことになるんだろけど。

シスヨルダンの「生きながら火に焼かれて」のような恐ろしい差別には絶句するしかないが。一体どうなったらあそこまで惨たらしい状況になるのか。想像が及ばない。

この映画がよくできているからこそ余計思うんだけど、もっと知りたい、のである。
そういえばイスラム圏のどの国がどんな風なのかとか全く知らない。イランと他西アジア諸国とはまた違うのだろうし。人の区別もつけてないし・・・。困ったものだ。

とりあえずはこの映画を出発にして西アジア諸国映画を観ていきたいものである。

監督:ジャファル・パナヒ 出演:フレシテ・ザドル・オラファイ、マルヤム・パルウィン・アルマニ、ナルゲス・マミザデー、
エルハム・サボクタニ、モニル・アラブ、ファテメ・ナギヤウィ、モジュガン・ファラマジ
2000年イラン

カテゴリに新しく西アジアを加えた。中東、とも言われるがそういわれると地理がよく判らなくなる。西洋側の呼び方なんだろうがね。

他のイラン映画など観たいのだけど圧倒的に子供映画が多くて困る。大人の女性を登場させること自体、無理みたいなのだ。
子供映画で感動させられるのは苦手なんだよね。
ラベル:女性 イラン映画
posted by フェイユイ at 23:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 西アジア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする