映画・ドラマ・本などの感想記事は基本的にネタバレです。ご注意を

2008年04月13日

『ユメ十夜』三夜

ユメ第四夜.jpgユメ代七夜.jpg

さて『ユメ十夜』の続きである。記事タイトルの「三夜」は私にとっての三夜である。

『第三夜』
監督:清水崇
出演:堀部圭亮 香椎由宇

夏目漱石『夢十夜』の中でも最も怪奇風味のある一編である。それだけに印象が強い。
いつしか盲目となってしまった我が子を背負っていくとその子供が子供とは思えぬ言葉遣いで疎ましくなり捨ててしまいたくなってしまう、というくだり自体が恐ろしい。
最もやりがいのある一編だったのではないだろうか。
怪奇ということで担当監督は清水崇。私は他は未見である。このただでさえ面白くゾクゾクとする物語を映画作者のアイディアを混ぜ込みながら恐ろしい映像を作り出した。
ただそれでも原作のなんともいえない恐怖感には届かないのはもうしょうがないことだろうか。

『第四夜』
監督:清水厚 脚本:猪爪慎一
出演:山本耕史 品川徹
この第四夜は10篇の中で正統性を守りながら最も改変した作品になっている。
物語がかなり飲み込みにくいので自分は一度目は雰囲気は好きながらもよく判らないでいた。今も完全に理解しているとは言いがたいのだが。ストーリー自体が原作と大きく違うのでそこから読み取るわけにもいかないのだ。

レトロな味わいで始まる為にうっかり騙されてしまうが、時代は明治ではなく昭和(30年代くらいだろうか)になっている。
田舎町のために時間がよく判らなくなりそれもまた不思議な感覚にさせるのだ。
原作から使われているイメージは、爺さんが手ぬぐいを振り回し「今に蛇になる」と言い、笛を吹きながら歩いていくのを子供達がついて行ってしまう、というもの。
ハーメルンの笛吹き=神隠し、という連想なのであろう。原作では爺さんが河に入っていくが映画では海となっている。
映画では神隠しという言葉を使いながら、一体かつて何が起きたのかが判然としない。
少年時代の漱石が転地療養の為、田舎町で暮らしその時淡い恋心を抱いた少女がいた。
少女は皆と臨海学校へ向かうが熱を出した漱石少年だけは行けなかった。
その時飛行機事故が起こり(ここがいまいち判らないが飛行機に乗っていったのだろうか。この当時に飛行機に乗るというのはちょっと凄いきもするのだが)子供達はみな死んでしまったのだ。
突然友達が皆死んでしまうという恐ろしい体験は漱石少年の中で記憶の中から追い出されてしまったのだ。今度こそは忘れないと漱石は誓う。

第三夜のようなつけたしではなく、漱石原作を時代も変えて作った佳作である。
第六夜が笑わせる衝撃があったのと違い静かな幻想性を保ったままここまで大きく改変できたのは他にない注目点ではないだろうか。
漱石を演じた山本耕史はほっそりとして手足が長いシルエットが美しい。砂浜を転びながら駆け寄ってくる場面が印象的だった。

なお、この夜の清水厚監督がオープニングとエンディングも担当している。情緒を演出できるという選出なのだろう。

『第七夜』
監督:天野喜孝、河原真明
出演:sascha 秀島史香
このオムニバスで唯一のアニメーションである。
さすがにアニメーションそれも天野喜孝の世界はどの実写作品より幻想性があると感じてしまう。
無国籍なイメージが美しい。
但し、これは自分だけの(というか台湾版DVDを買った日本人のみの)問題なのだが、これには日本語字幕が出てこないのである。
まさか、英語発音の作品があるとは(『第六夜』は英語字幕が出るらしいがこれも出てこない。というかついてはいるのだが、自分で操作して出すやつだ。私は全編中国語字幕を出して観ていたのではあるが(消せるけど))つまり私は英語を聞きながら中文字幕もしくは英文字幕を読むしかなかったのだ(日本版は違うよね?)
なのでいまいち内容はわからないというとんでもない状況に陥ってしまった。
多分だが、美しいアニメ映像を観ているだけで充分の作品だったのではないか、とは思うが。
最も美しく迫力ある作品だった。私が子供の時ならこの作品を観る為だけに映画館に行っただろう(アニメオタクだったからだけど)


ラベル:松山ケンイチ
posted by フェイユイ at 19:32| Comment(2) | TrackBack(0) | 松山ケンイチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年04月12日

『ユメ十夜』二夜

ユメ一夜.jpg

一番面白かったのは第六夜だったと書いたがそれ以外は特に順位をつけようとは思っていないが、無論気に入ったものと頭をひねるもの、嫌いなものの区別はある。

今回はまず第一夜から始めるが、監督が実相寺昭雄、脚本:久世光彦という夢先案内人に適役の二人ではないだろうか。

『第一夜』
監督;実相寺昭雄 脚本:久世光彦
出演:小泉今日子 松尾スズキ 寺田農
原作の幻想性を確実に踏まえながら実相寺昭雄監督の感覚がよりレトロにアンニュイに表現される。
大きな広告のついた観覧車のイメージが印象的だ。
薄暗がりと対照的に眩しい日差しが差し込む映像が美しい。
夏目漱石『夢十夜』を映像化するならこうすればいい、というようなお手本のような佳作である。
チゴイネルワイゼンのこもったような古めかしい演奏も心地いい。
夏目漱石が小説『夢十夜』を書いたのが1908年ということでこの物語の中で使われる「百年はもうきていたんだな」という言葉が2008年の今読むとぞくぞくとするものがあるではないか。

『第二夜』
監督:市川崑 脚本:柳谷治
出演:うじきつよし 中村梅之助
こちらも名匠・市川崑ということで緊張感のある作品となっている。あえて無声映画の手法にすることで奇妙な時代感と独特の不思議な味わいが感じられるのだ。
和尚が言い出す「侍なら悟れるはずだが、お前はまだ悟れないのか。人間の屑だ」という言いがかりが突然のことでなにやらシュールなホラー映画のようでもあるし。そのことで「侍なら悟って和尚の首と引き換えにする。駄目なら切腹するまでだ」などと考えるのも日本の侍なら当然の事とはいえ不気味である。
「無を悟るのだ」とあせりまくるのがおかしい。
この辺までは原作ともあいまって面白く、さすが市川崑と楽しんでいたのだが、落ちに和尚が登場し「切腹もできないのか。それでいいのだ」と言葉に出して言ってしまったのは自分的にはやや拍子抜けだった。無論これこそが映画製作者たちの思いいれなのであって漱石原作から出した答えなのだが。
原作は悩んだままで時計がチーンと鳴る、というシュールな雰囲気である。
どうもこれでは漱石のほうが現代風ではないか。映画側の工夫は好きだったが落ちでは漱石の恐怖感が好きだ。声に出さない面白さもあるのだが。
「それでいいのだ」というのはまさか天才バカボンのパパの真似じゃないよね。もしそうならそれはシュールだが(でも判りやすいように和尚がバカボンパパに変身してないと)

ここらでつまらなかった、嫌いだった作品を言ってしまおう。
いくつかある。まず
『第五夜』
監督・脚本:豊島圭介
出演:市川実日子 大倉孝二
なぜ嫌いなのか上手く言えないけど変な嫌悪感がある。
原作は神代に近い大昔の物語というイメージなのだが、裸馬に乗った女というエロティックなイメージなのにここではなぜかそういったエロティシズムは無視されている。私的には『楽園の瑕』で馬に寄りかかるカリーナ・ラウのようなえもいわれぬ色っぽさを出してもいいはずなのだが豊島圭介氏はそういったエロには興味がなかったのだろうか。
代わりにエロティシズムを追っ払うような醜悪な生物が登場する。生物ではないのかもしれないが。
エロティシズムではなく自我が形となって現れたというような。女の傍に現れると男も負けじと出してきた。嫌味な感じだ。
原作を壊すでもなく、生かすでもなく、イマジネーションに興味を持つこともできず、おかしくもなく怖くもないもう観たくない一編である。

『第八夜』
監督:山下敦弘 脚本:長尾謙一郎
出演:藤岡弘、 山本浩司
これはいいのか悪いのかこのオムニバスの中で最も判らない作品だった。
山下敦弘氏についてはこの前『リンダリンダリンダ』を観てなかなか面白かったし、他の未見のものにも興味があるのだが、この作品に関しては頷けなかった。
少年が短パンのポケットから竹輪を覗かせているのは変なエロティシズムでショタコンなのかと思ったが考えすぎなのか。
笑わせようとしているのも感じられたがちょっといけなかったかな。

『第九夜 』
監督・脚本:西川美和
出演:緒川たまき ピエール瀧
これは最初から西川美和作品と知って観ていたわけではなく「なにやら嫌いな感じだなあ」と思いながら観終わって監督名が出てきて知ったのだが。
戦争に行きたがる夫を止めようとする妻。夫のためにお百度参りをするけなげな良妻の姿だが実はその妻が夫を殺害していたのだ、という話である。
『ゆれる』でも思ったのだが、どうしてもこの監督とはそりが合わないのである。
話のために簡単に殺人してしまうこの感性が。話の為の話なのだ。
それにしてもありきたりの話だと思ってしまう。漱石の小説から感じる夢の創造性がないというのか。
恐怖や笑いも感じなかった。何故つまらなく感じるのかは自分でも上手く説明できない。
もう観る事もあるまい、と思っていたのに、予備知識を入れない見方をしている為にひょんなところで出会ってしまうものだ

以上が十話のオムニバスの中でどうにも感心できない3作であった。
10の内7話は観れたのだからまあまあよかったのではなかろうか。
一旦ここで終わり、また書くことにしよう。

松山ケンイチについてまったく触れてないのにカテゴリが松山ケンイチになってしまうが。
ここで名前だけ出してみた。





ラベル:松山ケンイチ
posted by フェイユイ at 21:43| Comment(4) | TrackBack(0) | 松山ケンイチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年04月11日

『ユメ十夜』一夜

ユメ十夜a.jpg

やっとやっとついに観た『ユメ十夜』台湾版で観たので『夢十夜』だったけど。
観る前にちょとだけ他の人の評を見たら「夏目漱石の素晴らしい原作をこんな風にしてしまって(怒)」というようなものが多かったのでつい侮っていたのだが、これがかなり自分的には唸らせられた。よく吟味して日を改めて記事を書こうと思っていたがどうにも我慢できず少し書いてみる。

先日購入した台湾版DVDを観ようとして原作未読だったのを悔い、今度は慌てて原作小説を注文し漱石先生には失礼ながら急ぎ読み下した(読み込むまでは到らなく筋を追った程度だが)思った以上に短い短編だったので(星新一氏のショートショートくらい)却ってこれを映画にできるのか、と思えたが、なるほど出来上がりを見ればかなり話を継ぎ足してある。もし原作に忠実ならほんの5分もかからないだろうか。つまりは監督陣の思い入れが随分加筆されているわけでそこが見所となっていた。
未読のまま観るのを躊躇してよかった。映画と原作は別ものとはいえ、これはやはり夏目漱石の名文を読んで観たほうが絶対によいのではなかろうか。後読みでもいいと思うが原作を読むと映画化する工夫の面白さがまた格別である。
それにしてもこんなに面白く自分が好きな話をなぜ今まで読まなかったのか。本当に腹立たしい。ま、読む時期というものがあり、松山ケンイチを好きになることでこうして夏目漱石の一名作を読む機会ができたことで良しとしよう。
まったくのところ、この僅かなページ数の原作は面白いの一言に尽きる。これが遠い昔の人の手によって書かれたとは。この生き生きとした文章の上手さは確かに映画にするのは至難の業であろうが、それはそれ。それぞれの映画人があれこれ知恵を絞り技を競い合ったこのオムニバス、心底楽しむ事ができたのだった。

とても今夜一晩で語りつくせはしないだろうが、まあ、書けるとこまで書いてみようか。
記事タイトルの「一夜」は物語の一夜ではなく、私にとっての一夜である。

オムニバスといえば『パリ・ジュテーム』の時も内容の千差万別の面白さに何夜もかかって記事を書いたが、私にとっては『ユメ十夜』もかなり楽しんで書けそうだ。

まずは最も面白かった作品発表。一夜目から追っていては退屈だろうから。
それは『第六夜』
監督・脚本:松尾スズキ
出演:阿部サダヲ TOZAWA 石原良純
これは何と言っても最も原作に忠実に映像化しつつこの自由な発想という飛びぬけた面白さではなかろうか。
これこそ原作と見比べて欲しいがあの僅かな長さの物語を他の作品のような継ぎ足しを殆どしていない、と思えるほどに忠実に再現しているのである。且つその表現は自由であり計算されているという物凄い技巧である。
監督の松尾スズキさんの名は無論知ってはいたが作品は多分知っていない。が、この作品だけでいかに優れた才能であるかは認識させられた。
原作自体、10編の物語の中で最もおかしさのあるものなのだが、その一編を選ばれたのか与えられたのかわからないがこの『第六夜』をスズキ氏がやることになってよかったのではないだろうか。
明治時代に生き残っているはずのない運慶が生きていて仁王を彫っているのを見物するという荒唐無稽な夢の話だが、そのおかしさをブレイクダンスで表現する。阿部サダヲのぶつぶつ悪口を言う様子もおかしくてしょうがない。
「さすがは運慶だな。眼中に我々なしだ。天下の英雄はただ仁王と我とあるのみという態度だ」というとこなんてもう大爆笑。
ここは是非もう原作と読み比べていただきたい。
大体夏目漱石という人は日本の文豪の代名詞でもあるのに凄くコメディがかける人だ。私は昔よく『我輩は猫である』を読んでげらげら笑っていたんだけど、明治時代に書いた文章で笑えるのも凄いんではなかろうか(イや私じゃなく漱石がね)文豪だからコメディも書けるのかコメディが書けるほどでなければ文豪じゃないのか、よく判らないが漱石の文章はとにかくおかしいところが凄い。
そのおかしさを映像に仕立て上げてしまった。漱石なのにパソコンでネット的な文章を書いていくのもおかしいが確かに漱石が今いたらばそのくらいやってそうであるし。
芝居がかった台詞「萌え」なんていう掛け声だとかもうノリノリに乗せられてしまう。
この物語は「夏目漱石の作品は作り物」だと言われた漱石が自分は作るのではなく掘り出しているのだ、という意味を込めているのらしい。
最後の原作にない付け足しもひねりがあって秀逸な作品だった。

『パリジュテ』の時に表第一位と裏第一位があるなどと書いたのだが、本作の裏第一位はどうしたって松山ケンイチ主演の
『第十夜』
監督:山口雄大 脚本:山口雄大、加藤淳也 脚色:漫☆画太郎
出演:松山ケンイチ 本上まなみ 石坂浩二 安田大サーカス
である。
これはもう冷静に判断はできないのでどうしようもないが、『地獄甲子園』を監督しただけあって徹底的にぶっ飛びな作品で徹底的に原作をぶち壊しているのが上と違ってまた最高であった。
また注目すべきは松山ケンイチが今までの主演・準主演映画作品またはドラマと大きく違う美形の嫌な男を演じていることである。
真面目で素朴で何故か本人よりブサ系を演じる事が多かった彼とは思えない変身振りである。
まあ、この時代の2枚目っていうのはもう少し女性的な方がしっくりくるし、展開の無茶苦茶も際立ったのかもしれないが、自分的には嬉しい悪役だった。何となく「豚野郎」って台詞がいまいちまだ板についてない気もしたが。
ロボ以上のハチャメチャで何より本人が楽しんでいるのが伝わってくる。「よかったねー」てな感じでにんまり観終えた一作だった。
町内一の好男子、昔だったら沢田研二がやるとよかったかな。何故か関西弁が使われてたからそう思ったのかもしれないが。

と、ここで明日に(今夜か)に続く。




posted by フェイユイ at 22:51| Comment(4) | TrackBack(0) | 松山ケンイチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

松山ケンイチについての告白・その6

なんとか他の映画も観ていこうと決意しながらどうしても離れきれないでいる自分なのだが、さらにそうは言いつつ雑誌などを買い集めるのを止められないでもいる。

色々雑誌・写真集も見てきているが特に一つ一つ感想を述べることはないか、と思っていたのだが、一つ衝撃なのがあった。
蜷川実花さんの『蜷川妄想劇場』という16人の男子の写真集である。
話題・人気の男性が蜷川実花さんにより様々なシチュエーションで撮られていて大変嬉しい写真集なのだが、当の松山ケンイチ氏は『若き将校の憂鬱』というタイトルで軍服での撮影。
こ、これがうううなんと言っていいやら表現していいやら、大爆笑。いやいや悪いわけでは断じてない。大体最初から『妄想劇場』と題してあるではないか。妄想なのだ、これは。それなら判る。私だってこういう妄想ありだ。
しかしなあ。似合わない・・・・っていうのか、服ぶかぶかなんだもん。痩せてるんだよなあ。
言わない言わないと言いつつ何度ももう言ってるがなんか。松ケンってどうしても周杰倫と重なるのね。
で、ジェイも軍服写真あるの。あの人割りと戦争もの好きだからさ。私はそこだけちょっとやなんだけど。で、松ケンも戦争モノ出てるし、やっぱこれも『大和』のイメージから軍服、将校だったらしいんだけど。ジェイの方は軍服もサ、決まってるの。これは絶対もう彼の方が財力あるから体にぴったりの服あつらえたからなんだよね。
松ケンのはもー単にどこかの軍服マニアショップで買ってきたのを着込んだ軍人マニアだもん。銃の構え方もまだ入りきれてないっていうのか、軍人オタクの青年がなりきってるだけみたいでさー。大体他の出演者に比べたら金のかけ方が悪いんじゃないのか。背景ないしねー。
この銃持ってる松ケンの目がいっちゃててまた危険な匂いが。この危険さが好きなんですけど。最後の写真なんかコートの下から赤いズボンみえてっからあーやっぱマニア少年だとわかるんだけど。
なんだか悪口書いたみたいだけど全然そうじゃなくてこれはやはり衝撃ですよ。こういうのもありなのかと。
他の被写体の方々と全く違うこの異常性は。

他の写真の色々見てて思うのは顔が同じ人なのか?と思うほど写真によってまったく違う事。
その時その時で何かの役になりきってしまうためなんだろうか。このくらい顔そのものが違って見える人もそういないのではないだろうか。
私的に一番ハンサムに見えると思うのは「Cut」2008,2月号の蒼井優と並んで写ってる奴。ヒゲ好きなので無精ひげに弱いのである。

ついでに松山ケンイチの顔のどこが好きかっていうとやっぱ一番は口かなあのとんがってる唇は魅力的です。大きな口が好きなのでそこもいいし、目の焦点があってないのも好きですね。
それと首が太い人が好きなのでそれもセクシーだと思います。ヒゲはその時で違うでしょうけど好み的にはあるとより魅力倍増です。
あとこれは言うと嫌がられそうですが鼻の脇のほくろが自分と同じ場所にあるのが凄く気になる。ここの位置って時々目にはいるんですよね。ほっぺのも似たような感じであるんですが。
それと声がいいですね。Lの時のしゃべり方はもう耳から離れませんが地のしゃべりの訛りがステキです。よくここまで訛り残せるなーと感心します。絶対なくすまいと思わなきゃここまで残りませんよね。
凄く心地よい話し方だといつも思ってしまうのでした。


ラベル:松山ケンイチ
posted by フェイユイ at 01:12| Comment(2) | TrackBack(0) | 松山ケンイチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年04月10日

『ルナシー』ヤン・ シュヴァンクマイエル

SILENI.jpgSILENI2.jpg
SILENI/LUNACY

松山ケンイチお気に入り映画作品第2弾。
うう、ケンイチさん「エログロとか観ないのかね」などと侮ってごめんなさい。これは最強に醜悪だった。

精神異常の作品に異常なほど惹かれる自分であるがこれは今まで観た中でも醜悪さは貫いている。
だが映像表現としてはそういった箇所を目の前に見せ付けるような下品さはなくあくまでも静謐ななかでのシュール、グロなのであった。
とはいえ冒頭でどういうことが行われるのかを図解入りで説明されるので鑑賞者は自然何が起きたかを想像できるわけでこれ以上の恐怖もないのだ。

悪夢を見て暴れだす頭のおかしな男が主人公かと思ったら、この男が一番まともで次々と奇妙奇天烈な人物が登場してくる。
キリストへの冒涜、女性への蔑視、肉片がアニメーションとして不気味な動くのを見せられては嫌悪感を抱くしかない。
主人公は精神が不安定とはいえ、純真な心の持ち主なのだが、立場は悪い方へ悪い方へと捻じ曲がって進んでいく。
そして彼は最も恐ろしい方向へと連れ去られてしまうのだ。

救いのない展開をどこかで笑っているような、または泣いているのかもしれないが。
最も醜悪な舌と目玉と脳みそ、肉片などといったものを使ってのアニメーションが醜悪なのにもかかわらずおかしい。
一見、大昔の話かと思いつつ見ていると主人公達を乗せた馬車が現代の自動車とすれ違うというのも痛烈だ。
それにしても俳優達はいかにも昔です、という演技をしているのが凄いものだ。
『変態村』もシュールで恐ろしかったがこれはまた違った味わいの恐怖を観る事ができる。

これを好きな映画にあげるケンイチ氏も凄いね。私的には面白かったけど好きな映画とは言いたくないなあ(笑)
とにかく私はヤン シュヴァンクマイエルという監督すら知らなかったのでこんな凄い人を教えてもらえたということでも松山ケンイチに感謝したい。他にもレンタルできるのがあったからそちらも是非観たいと思ってる次第である。

監督:ヤン・ シュヴァンクマイエル 出演:ヤン・シュヴァンクマイエル パヴェル・リシュカ ヤン・トジースカ アンナ・ガイスレロヴァー ヤロスラフ・ドゥシェク パヴェル・ノーヴィ
2005年チェコ
ラベル:松山ケンイチ
posted by フェイユイ at 00:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 松山ケンイチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年04月09日

松山ケンイチ出演NHK「その5分前」[或る夜の出来事]

hi-chanから後紹介いただきました松山ケンイチ出演の NHK『その5分前』[或る夜の出来事]原田知世主演のミニドラマ。
こ、この松ケンは可愛いです(泣)たまりません。



ま、ほんとの友世さんは美人なのでこういうこともないでしょうが、確かにこんな状況どきどきしちゃいますよね。
私も毎晩通ってしまいそうですわ。
出てくる映画も古いのが多いので私も判りやすくてよかったです^^;

とはいえ私の場合だと変なのばかり借りてると嫌われそうではありますが。

しっかし私はやはり疑り深いのか、こんないい展開あり得ないっすよねー、と思ってしまう。
悪徳商法の勧誘か、内臓とられるか、なんてな。

二人とも可愛いのでこういうこともあるかもね、と思い込まされてしまうのでけどね。
ほんと可愛くて素朴な松山ケンイチという感じだった。うれしいなあ。
ラベル:松山ケンイチ
posted by フェイユイ at 20:32| Comment(6) | TrackBack(0) | 松山ケンイチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年04月08日

『ユメ十夜』いまだ観れず

ユメ十夜 日本版.jpgユメ十夜台湾版.jpg功夫灌籃k.jpg
左が日本版『ユメ十夜』真ん中が台湾版『夢十夜』松ケンアップです、右がジェイ『カンフーダンク』

実は今夜は(というか昨日の夜は)やっと手に入ったDVD映画『夢十夜』を観る予定であった。漢字で書いたのは台湾版だからである(リージョン3なのでご注意を!普通には観れません)

レンタルすればもっと早く観れたのだが、ちょうど折りしも周杰倫の『カンフーダンク』を購入予約しようとして運賃無料にするためにもう一枚何かを注文したかったのだが、もうよほどでないと中文字幕で観る気力のない私は買いたいものがない。
そんな時、見つけたのが台湾版『ユメ十夜』である『夢十夜』
日本映画を台湾版で買えるのか?と疑心暗鬼だったが、あっさり注文完了。しかしホントに来るのか心配で記事にもできないでいたのだった^^;

今日届いた2枚の台湾版DVD(イヤ、『カンフーダンク』は香港版だ)

日本版『ユメ十夜』は表紙が10分割され松山ケンイチの姿も10分の1のようだが(実際手にとったわけではないので確信はできないが)台湾版のそれは何故か表紙いっぱいに松ケンが大きく写っているのである。しかも下部の俳優名は“L”松山健一(笑)
やはり“L”の影響大なのだなあ。それにしてもケンイチ君はちゃんと研一って漢字があるのに健一って。
yesasiaの説明ではちゃんと研一ってなってましたけどね。

とにかく表紙に松ケンの顔がアップで印刷されてて、一方の『カンフーダンク』にはジェイ・チョウの顔がアップで(笑)
並べられるとホントに似てて笑ってしまいましたよ。
そうでもない、と思ってたらほんと似てるんだもん。しかも二人とも流し目してるし^^;(今手元で見つめ合っています)

無論日本で買える『ユメ十夜』ですが台湾版だと少し安いようで(レートがどうなるのか。800円くらい安いかな)
中国語を勉強したい人には中文字幕で日本語が聞けますしね。

で、なんで観なかったかというと心待ちにしていたくせにやっと観る段になって「あ、原作読めばよかったなー」って。
もー未読だった私が悪い。普通は原作読んでなくても気にならないんですが何故かこれは読んだ方がいいような気がして。
気にせず観ようと思ったのですが、一度気になると集中できず止めました。
てことで今度は原作読了後に観る予定に。
いやはや。
一体いつ観れるのやら。

てことでこの記事は『ユメ十夜』台湾版『夢十夜』は松ケンびいきだよ、ということでした。松ケンファンならこちらを購入するのもよいかも。

『カンフーダンク』を明日は観るぞ!

この記事、いけないわけではないことを祈りたい。

台湾版『夢十夜』
posted by フェイユイ at 00:49| Comment(8) | TrackBack(0) | 松山ケンイチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年04月06日

『リトル・ランナー』マイケル・マッゴーワン

リトルランナー.jpgリトルランナー2.jpg
SAINT RALPH

松ケン映画をほぼ観終わって(現在進行形の彼なので完全に終わったわけではないが)哀愁状態の自分である。
だがそろそろ社会復帰もせねばなあ、という気持ちもある。観なきゃいけない映画も待機している。
そういう中で何故今この映画か、というと松山ケンイチ写真集『起』の中で彼が好きな映画を3つあげていて(そのどれも未見だった^^;)そのうちの一つがこれ。
松ケンを追いかけるなら彼の好きな映画も観ておきたいということで早速観てみることにした。

1950年代カナダのカソリック私立学校に通う14歳の少年ラルフの物語。
映画だけ観ていてもカソリックの話はどうにも憤慨することが多いのだが、ここでも厳格すぎるカソリックの規則の中でそれでもある時は相手とある時は自分と戦い続けていくラルフ少年の姿が胸を打つ。
病に侵され入院したまま昏睡状態になった母親に奇跡を見せれば必ず目が覚めると信じてラルフはボストンマラソンに参加し優勝することを誓う。
ラルフは横暴な校長と争い、温かく見守ってくれるヒバート神父のコーチを受けながら厳しい鍛錬を続ける。

何の才能があるというわけでもなく、母を目覚めさせたい一心でただひたすら走るラルフに涙がこぼれてしまう。

このラルフ少年、昨日観た『かまち』と似てなくもない。他人とはちょっとずれた感覚で自分が一番になる事を信じきっている。積極的な物言いや行動も似ているのだ。
だが無論感動は全く違う。ひねって作ったあちらの作品と違い、こちらはほぼ古典的ともいえるような撮影・製作手法なのだけど、却ってそのことが直接心に訴えてくる。

かつてマラソン選手だった神父との交流や親友とのけんかを含めたやり取りも楽しい。
なによりラルフが問題児で先生から怒られてばかりいるのが可愛くてしょうがない。性的倒錯者のように罵られるのが今の目でみれば可哀想である。

ちょっと爽やか過ぎ上手く行きすぎな感じはするけど、妙な計算などまったくしていないようなストレートさが気持ちいい作品であった。

松山ケンイチ推薦映画としてはなるほど、という感じで納得。陸上選手だった彼が選ぶのはよく解る。
いたって生真面目で真剣で。好きな映画も真面目なんだなあ。エログロとかは観ないんでしょうか?血がどばどばとか。
ほんとにロボみたいな人である。

本作の日本語タイトル『リトルランナー』って『リトルダンサー』のもじり?
原題は『SAINT RALPH』で映画の中で色んなセイントが紹介されるのだがラルフは「走る守護神」だよ、ということなのだろう。
カソリックという宗教色の濃い映画なのに日本語タイトルでは意味がなくなってしまうよ。

追記:それにしてもカソリックの教えって(この時代のってことだろうと思いたいが)いちいち考えすぎでおかしすぎる。
ロープ登りで股にロープが接触しているだけでいかがわしいと感じるなんてなあ。
でもでもヒバート神父みたいな人って憧れてしまうんだよねー。スポーツマンで神父。優しくて禁欲的で、こういう人に一番セクシーさを感じてしまうのはいけないことだろうか。

監督:マイケル・マッゴーワン 出演:アダム・ブッチャー キャンベル・スコット ゴードン・ピンセント ジェニファー・ティリー タマラ・ホープ
2004年カナダ

ラベル:松山ケンイチ
posted by フェイユイ at 22:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 松山ケンイチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

松山ケンイチについての告白・その5

一番最初に『DEATH NOTE』の記事を書いたのが2月15日でそれから松山ケンイチにどっとはまり込んでしまった自分である。
実際はもう少し前に気になり始めたのだが、彼の出演作品名を見るとどうにも自分の好む範囲の映画でないのがブレーキになっていた。
というのは自分はどうしても暗黒面の映画が好きなのだが、彼の作品は主演になるほど善良な映画のようでぞくぞくするほど観たくなる、という気持ちにはなれないのであった。
そんな中で期待はあまりしてないけども多分狂気というものが描かれているであろう『DEATH NOTE』ならなんとか観れそうだ、という気持ちで観始めた。
結果、そこからもうLを演じた松山ケンイチから離れられなくなってしまった。
たとえ、作品自体がさほど興味の持てないものであっても演じている姿を観られれば満足し、観れない日は悲しくてどうしようもなかった。
とはいえチョイ役を含めればかなりの出演作品があるのでこうして2ヶ月近くも追いかけ続けることになってしまった。
興味のない作品ばかり、と思ってはいたがこうして観て行くと今までに決して観ないような作品を経験できたし、それなりに色々考えることもできて楽しい日々を過ごせた。
特に松ケンを追いかけることがなければ絶対観るまいと思っていた角川映画『男たちの大和』『蒼き狼』を観れたのはよかったと思っている。
この二つの作品での松山ケンイチは本当に素晴らしかったし、『大和』にいたっては彼が事実上の主役であったと確信できた。

彼は今もがんがん仕事し続けているので私のようなDVD鑑賞者でももう次の作品が待ち構えているのだが、今現在DVD鑑賞できる映画作品は『ユメ十夜』を残すのみとなった。
ドラマはまだ色々とあるのでそれらはこれからの時々の楽しみでまた追いかけていこうと思う。

今まで観た彼の映画作品で主演級のものでは『神童』がやはり一番のものだと思う。
というのはこの作品で彼は初めて人とのつながりを持った演技をしているから。
それまでのものにはそういうものがなかったと私には感じられた。それは彼がいけないというのではなく作品自体がそうだった、というだけのことなのだが。
つまりそれまでの作品はストーリーを追うものばかりでその世界の中で精神が交わるということがなかったのだ。肉体もまた、なんだけど。
Lとライトは対峙しているわけで交わってはいないし。
まだ未見の『人のセックスを笑うな』はまた他人との交わりを描いたもののようなので期待している。が、大好きな『カムイ外伝』はまた孤独な男の話なので本質的に孤独な話が好きな人なのかもしれない。
松ケンはセクシーさが足りない、と言われているようなのだけどそれはそうした人との触れ合いを描いたものが少ないからなのではないだろうか。
漫画のカムイは孤独に立っているだけでセクシーではあったけど。
そういった触れ合いという意味ではやや不満だが自分的に最も萌え萌えだったのは『ウィニングパス』なのであった。
あまりにも危険な色気があって書くのすら憚られてしまう。動けない松ケンって魅力的だった。


もう少しすれば『椿三十郎』も観れるし、(ああ、またなんでこの作品に。これも絶対観るまいと思っていたのになあ。三船以外の三十郎見て我慢できるか?)

わけあって『ユメ十夜』が最後になりもう少し後日になりそうなのだが、とりあえず松ケンの現在までのDVD映画作品を観終えたというところで書いてみた。
ラベル:松山ケンイチ
posted by フェイユイ at 21:52| Comment(8) | TrackBack(0) | 松山ケンイチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年04月05日

『かまち』望月六郎

かまち.jpg

松山ケンイチ出演映画で現在観る事のできるDVD作品も終わりに近づいてきた。
この『かまち』には彼の出演は僅かなのだが、主人公である山田かまち自身にも興味があった。
山田かまちの名前は無論知っていたのだが、どういう人だったのか詳しく見聞きしたわけではない。
この映画でどういう人物だったのか初めてわかるのかな、という期待もあったのだった。

それでも彼が詩や絵をたくさん残していてエレキギターで感電死したことだけは聞いていた。
自分より少しだけ先に生まれた人物で若くして亡くなったこと、天才といわれ惜しまれたことなど。

だがこの映画では彼の思いというものが伝わってくるようには感じられなかった。

この映画で何となく思ったのは結局「かまち」という少年は特別な天才などではなくごく当たり前のただ少しだけ表現することが好きな少年だったのだ、ということである。
画面上に書かれ朗読される詩も時折映し出される絵も彼の歌も特段天才的なものは感じられない。
それでも自分の可能性を信じ、表現したい、美しいものを愛したい、という気持ちだけは伝わってくる。
それは本当はすべての若者が持っていて当然のものだけど大概の少年少女は恥ずかしい、自信がない、ということで公にできないでいるだけなのではないか。
こうして彼の言葉を聞いて遠い昔の自分を思い出すとさほど変わらないような気さえしてくる。
ただ他の人間と違って(特にこの時代なら)ここまで真直ぐに力強く自分を表現していた若者はいなかっただろう。
正直彼の考えは若いがゆえに陳腐だし、思いばかりが先走って表現する技術には欠けている。
が、これは映画なのであり、彼が真の芸術家か否かが問題なのではなく、少しだけ他と変わった普通の若者の思いを表現していく、という形で描くのなら素晴らしい青春物語になり得たのではないか。
だが映画の構成を現在の若者と重ねながら作り上げていく、という試みがかまちの物語を中途半端にしてしまった。

もしどうしてもこの形でやるのなら、最初に現在を映し、現在の少年を主人公にすべきだろう。
そうして女先生との関係からかまちの話がつながっていくのなら理解しやすいが、せっかくかまちに入り込もうとして時点でぶつりと現在へ持って行かれては欲求不満も甚だしい。
知りたいのは「かまち」の事なのだから、現在の少年の話など持ち出す必要もないのだ。
どうしてもやりたいなら↑に戻る。
かまちの苦しみも今の君たちの苦しみと同じなんだよ、と言いたいのかもしれないがそれは観た者が感じ取れればそれでいいではないか。

かまち役のLeadの谷内信也という人だろうか。恐ろしい棒読みだが私はなかなかこの奇妙な天才少年を演じていて悪くない、と思った。大体が風変わりな少年なのでこの変てこなしゃべり方はむしろ面白い気がするし、容貌も天才少年の傲慢さが表れていて可愛らしい。
自転車で走るシーンや自分の体に色を塗っていくシーンなど時々印象的な部分もあるのだが。
1970年代という時代も今の感覚で観るとかなり風変わりに感じられて面白かった。
現在の部分は殆ど好きになれないが、かまちの詩をラップ調に歌う場面だけは結構よかった。

さて松山ケンイチ君は。パチンコ屋で女性に声をかける謎の男。一見ただの与太者かと思いきや、翌日のニュースで殺人事件となって報道される犯罪者なのだった。
この出演場面で彼を好きになれる人は少ないだろうなあ。
こうやって少しずつ少しずつ今の松ケンに近づいていったのかと思うと感慨深いとすら言える。
いつか本当に犯罪者の主人公なんかもやることがあるのだろうか。そういう彼も観たいものである。

監督:望月六郎 出演:Lead( 谷内伸也 古屋敬多 鍵本輝 中土居宏宜 ) 大沢あかね 奥田瑛二 風吹ジュン
2004年日本


ラベル:松山ケンイチ
posted by フェイユイ at 22:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 松山ケンイチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『DEATH NOTE』現場記録映像

デスノ コンプリートセット.jpg

最後に特典映像を観た。後編の松山ケンイチのとこだけだが。
といっても藤原竜也の演技に再度感激。

特典映像についても竜也・松ケンのコメントが。かなりこなれて来て冗談交じり。
特典映像では竜也・松ケンがいかに作品に取り組んで行ったかが熱く伝わってくる。
松ケンは噂に聞くとおりかなり演出に口出ししているのがわかる。Lの性格も投影されているようだ。
Lというと甘いものを食べ続けだが、松ケンも相当食べたらしく受け付けずに食べては吐き食べては吐き、だったということで気の毒だ。
私自身、甘いものが苦手なのでLのお菓子シーンにはやたらコーヒーを飲み続けていた。観てるだけで口が甘くなってしまう。
対照的にライトがポテチを食べるシーンでは凄く食べたくなって次の日食べた。せんべい・ポテチ系が好きなのだ。

それにしても藤原竜也は本当に本当に綺麗な人だなあ。まさに悪魔にぴったりの美しさである。
それなのに小憎らしいL=松ケンのほうが好き、というのは一体どういうことなんだろう。自分でもよくわからない。

こうやってメイキングを観るといつもそうだが本当に映画作りというのは楽しそうでもあり、滅茶苦茶大変そうである。
監督の心労というのは物凄いものだろう。
監督始め出演者が『DEATH NOTE』の細やかさ、素晴らしさを語っていたが、自分的にはこの作品の物語自体がいいものだとは思わない。
ただしそれがどうでもいいと思えるくらいの魅力はある。
その魅力は竜也・松ケンが殆ど生み出しているものだろう。

藤原竜也の凄さはもう確認済みだったが、松ケンがLを演じる為葛藤し続けている様子は見ものだった。
松ケンとしてはなんとしてでも竜也くんに追いつきたい意地があったんだろうなあ。
その為に二人が話すこともないのかと思いきや意外に会話をしていたのもちょっと驚きだった。
「Lが舐めていたんだよ」といいながら竜也くんがキャンディを舐めていたり松ケンが合コンに竜也くんを誘ったり(これは冗談ですね)してるのがおかしい。

作品として仕上がった状態ではなく現場で演技している二人の姿を見るとさらにその面白さがわかるようだ。

ラベル:松山ケンイチ
posted by フェイユイ at 01:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 松山ケンイチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年04月04日

そして『DEATH NOTE』に辿りつく・後編

デスノートd.jpg

『DEATH NOTE』は話が薄い、などということを書いた罰があたったのか、昨晩は後編の感想を書こうとしてまとめきれなかった。
今夜とて自信はないが、まあ書いてみよう。
ここに書くのはすべて映画の『DEATH NOTE』についてである。漫画に関しては全く知らないし、今のところ読む気はない。

『DEATH NOTE』の物語には様々な矛盾点があるし、ストーリー自体が好きなわけでもない。思想とそれから産み出た結論も取り立てて驚くようなことでもないだろう。それらの欠陥は物語自体のものであるのにも関わらずこの作品に酷く惹き付けられてしまうのは何故だろう。

まずはライトの思想というものが大概の人間なら一度は考えたことがあることだから。凶悪な犯人をTVニュースで見て「こんな奴は死んでしまえばいい」と考えたことが一度もないという人間は少ないだろう。
そういった殺人衝動を抑圧する為に登場するのがLである。
先日Lが左でライトは右なのか、と書いたがこの二人がつまりは一人なのではないか。特に意味はないが右脳と左脳のようなものであり、またジキル博士とハイド氏を意味している(無論この二人は一人だから)
Lがキラ(ライト)は自分によく似ている、というのも当たり前である。
こうして自分で殺人衝動を感じ、自分でそれを抑えようとする。だが二人は同じ人格なのでL自身もその殺人を止めるために別の殺人を犯すという行動を取っていく。全く違う人格による思想というものがそこには感じられない。
Lとライトがチェスをする場面があるが一人でゲームをしているようなものでぐるぐる同じことを繰り返していくばかりなのではなかろうか。

この物語で最も衝撃的な話はライトが父親を殺害する行動を取る場面だろう。父殺し、というテーマは西洋文学で繰り返し描かれているものであるが、優秀で正義感溢れる父親に対し、ライトが表面上は従順で尊敬を持っているように見えてその実どのような屈折をしていったのかは想像してみるしかない。完璧な正義感を持つ父親に対し同じように優秀であるがゆえにライトの精神はなんらかの歪みを持ってしまったのかもしれない。本来ならこの部分こそもっと深く描かれるべきなのだろうが。
(それにしても物語を創作する上で西洋的なモチーフというものが多く使われるし、自分も思いついてしまう。例えばここでライトがリュークに与えるリンゴは旧約聖書で蛇が人間に知恵の実だと教えたものをイメージしているのだろう(リンゴではないと言う説はあるがイメージとしては定着している)ここではライトではなくリュークが食べているのだが、能力を持ったという意味でライトの傍に出てくるイメージなのだと思われる。
この話と関係ないが日本的なイメージを描くなら悪魔というか悪鬼払いとして桃を投げつけたりしてもよいが漫画でもそういうことをやるのは諸星大二郎さんくらいだ。桃じゃ絵にならないというのか。可愛すぎるのか。どうしても西洋的なイメージの方が「かっこいい」ということなのか)

そして最もほっとする場面はLがライトの父親に対し「あなたは立派な父親です」と言ってまるで彼の息子にでもなったかのような微笑を浮かべるところだ。
息子が父親に対して反抗心を持つと同時に愛情も持っていることを表現しているかのように思える。

映画の中でライトとLの死期が近いのも当然なのだろう。Lは自己の死の覚悟なしにはライトを消せなかった。
ジキル博士とハイド氏の結末も死によるものだったはずだ。
Lとライトが同じような年齢で背格好が似ているのもまた当然のことになる。

上に書いたことはLとライトが役割として一つのものが二つになったということなのであって、二人が同一人物だったと言っているわけではない。当たり前だが。

この物語、娯楽映画としてこのようにミステリー的に描いていったのは成功だったと思うが、藤原竜也が主人公の為か舞台で語りと仕草だけで演じていくのも面白そうである。
無論ライトは絶対藤原竜也しか演じられないと思うが、もしかしたら舞台ならLも藤原竜也が同時に(というのはおかしいが)演じてくれるかもしれない。

Lを演じた松山ケンイチはもう何者にも取り替えられないものになってしまった。
年齢も彼の経験もちょうどぴたりの時期だったのだろう。
細い体も白塗りのせいで華奢な女の子のように見える顔も今の時期を逃したら違ったイメージになってしまう。
独特のしゃべり方も仕草もLという人格そのものになって観る者を魅了する。
だがそれにしたって藤原竜也のライトは素晴らしい。
こうして見返してもこの役はなまじっかでは演じきれるものではない。
この映画が「観れる」映画になったことについて藤原竜也の演技なしには語れないだろう。
一見天使のように見える美しい顔が本当は悪魔の心を持っていたことを藤原竜也は演じきってみせた。

楳図かずおの『神の左手 悪魔の右手』というタイトルを思い出した。漫画を読んだわけではないが。しかし「我が右の手は悪しき者を滅ぼす悪魔の右手」というのはちょっと通じる所があるような。



ラベル:松山ケンイチ
posted by フェイユイ at 22:03| Comment(5) | TrackBack(0) | 松山ケンイチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年04月03日

そして『DEATH NOTE』に辿りつく・前編

deathnote.jpg

松山ケンイチ探求も現在あるDVDでは終わりに近づいてきた。ドラマも含め後もう少しあるが、ここで松ケンとの出会いである『デスノート』を観直してみる。

ということで「DEATH NOTE デスノート / DEATH NOTE デスノート the Last name complete set」なるものを購入。
前編をまず見ようとしたら、ライトとLが並んで作品紹介。この二人が仲良く作品を紹介するっていうのはどうなのか、いいけど。
なぜだか二人とも大きく右(向かって左)に体がかしいでいる。ずっとそのままの姿勢なので藤原くんが逃げてて松ケンが藤原くんを追いかけてるような感じになってる。松ケンは相変わらず地のしゃべりだと訛りが強くて可愛い。ほんとに直して欲しくないよね。松ケンがちらっと藤原くんを見るとこもいじらしい。
並んで見ると藤原くんってほんと顔が小さくて綺麗なんですよね。だから松ケンより背は少しだけ低いけど遠目で見るとむしろすらりと背が高く感じるのだ。松ケンって逆に背高いのに頭の大きさで損をしてる。
おまけに服装もなんだかなあ。藤原くんのはまさに若手人気役者というお洒落さだけど松ケンのって作業服?わざと?藤原くんを引き立てるためのあえての格好でしょうか。
最後松ケンが「ごゆっくりご覧ください」と言った後藤原くんが笑うのは何故だー?

今頃思ったんだけど、LってLeftのLなのか。ライトがRightで。
っていうのは単に松ケン=Lが左側で藤原くん=ライトが右側に座ってたからなんだけど。
無論ライトは夜神月のLightなんでライトもLでかぶってるよな、と思ってたもんだから。
右くん、でもよかったんだろうけどまあ日本語的にはLightもRightもライトの発音おなじだからいいやということで(英語的には全く違うんだけどさ)
LはレフトじゃあんまりだからまあLということになったのかな、と。(ヒダリくんってのもいいけど)
ライトがRight(正義)じゃないことだけは確かだけどね、本人は信じてっけど。
で、二人の間にいるのが渡りというのかな、右と左の。
でもってライト=月って言うのはいったいどういう当て字なんだろうって気がするがここでライトがRightじゃなくライト=月=Luna=狂気、っていう説明になってるわけかな。

しかしこうして見返してみるとほんっとにこの映画って薄い。作品としては上手くまとめてあるし見やすいし飽きさせないし娯楽としていい出来栄えなんだろうけど、作品の主題、描き方は子供っぽいのだよね。
って子供向けの作品を観ている自分がいけないのだから文句を言う筋合いではないのだがね。
中学生の妄想というくらいの内容なのがわかりやすい、ということなのだろうし。
それにしてもその程度の物語でしっかり魅せてくれるのはやはり藤原竜也、松山ケンイチ、 鹿賀丈史 、 藤村俊二などの役者陣の上手さゆえだろう。
藤原竜也は今までかなり見てきたのでこの映画でのライト役の素晴らしさを観ても当然納得だったのだが、松山ケンイチは初見だったのとそのキャラクターの特異性にやはり強く惹き付けられてしまったのだった。
観返しても藤原竜也のよさは格別である。やや強めの感情の出し方なのだが、それが解りやすく物語を説明していく。
後半から出場のLも印象的な登場でライトとの対比が際立っている。
松ケン初見だった前回鑑賞時と違いずっと松ケンを観てきての今回は随分印象が違うのだ。
大体が大柄で男っぽい姿の松ケンなのだがこれで観ると女の子のように細くてきゃしゃで小柄に見えてしまうから不思議だ。
かなり猫背にしているため、藤原くんより小さく感じるくらいだ。
真っ白な顔でばさばさの髪も一役買ってるが確かにこのL役で松ケンがまったく違う人格に変わっているのが判る。
それまでの松ケンを知って観た人には衝撃を感じさせたことだろう。
特に声としゃべり方はそれまでの彼と全く違った力がある。

物語自体には共感も感銘も受けないがそれだけに個々の役者の演技に見入ってしまうのかもしれない。



ラベル:松山ケンイチ
posted by フェイユイ at 01:06| Comment(4) | TrackBack(0) | 松山ケンイチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年04月02日

『NANA』大谷健太郎

NANA.jpg

『NANA』はなぜかもう何度か観ているのだが、どういうものか松ケンの印象がなくて(出ていたシーンを観た記憶もあるのに)もう一度観る事にした。

ナナがベースを募集してやってきたのがシン=松山ケンイチなのだが一目見て爆笑。
いくら愛していても出てくるたびに笑ってしまうの。うーん、これは演技派松山ケンイチが「ベーシストを目指して上京してきた屈託のない田舎の若者が精一杯ロッカーになろうと装っているがいかんせん屈託のないままである」という青年になりきっているのであろうか?
いくら銀髪ツンツンにしても唇鎖つけてもロックな顔じゃないのなー。そのあまりな純真さに却ってじーんとしてしまうのだが。他の方の引き立て役に徹している松ケンなのだ、きっと。(それだけに『デトロイト・メタル・シティ』はいいかもしんない)
翻って松田龍平のかっこよさ。まったく重みというもののない超軽な映画さが彼の存在でなんとかそれらしい雰囲気を出しているのではなかろうか。とりたててかっこつけているわけではないが、なにげにこんなギタリスト(ベーシスト)いそうだな、という感じだとかあの陰のある眼差しもロックではないか。

この映画を何度となく観ていたのは無論主人公達、ナナと奈々の魅力である。
ちょっと小憎らしいくらい可愛らしい宮崎あおいの奈々と思い切りハスキーボイスな中島美嘉のナナの美貌には惹きつけられる。
ちょいビアン的な雰囲気のあるのもまた好きである。
ナナ=中島美嘉のあの目と信じられないくらい細い肢体あのしゃがれた声で話す乱暴な言葉、強いようでいて奈々よりも壊れやすい危険性のある感じがステキである。
宮崎あおいはこれ以上可愛い女の子はいないよね、と思わせてやっぱりうまい。甘えて泣き虫のようで実はしたたかではないかというのも女の子らしい要素なのだろう。

漫画が原作で2もあるし、ということでなければこの作品の終わり方というのは随分奇妙な感じなのではないか。一つの物語として観るにはあまりにも中途半端な気もするが。
またロックが主題であるのにこの明るい普通の映像というのも却って驚きだ。普通ならわざと荒い画像にしてみたりハンディカメラにするとか、陰影を濃くしてみたりだとかありそうなものなのに少女マンガだから、ということなのか。
それにしても北国で倉庫のような建物を住居にしてあの風呂だとあっという間にぬるくなってしまいそうだが。
それでもいきなり物凄いビッグスターになってしまうような話ではなく意外と地味だったりするのは結構好きである。
これから、という段階を描いているのが救いかもしれない。

でもやっぱ松ケンかわいくてしょうがない。似合わなくってもどーでもいいっす。
奈々とナナがキスしてびっくりするとこなんて物凄く可愛いぞ。

監督:大谷健太郎 出演:中島美嘉 宮崎あおい 成宮寛貴 平岡祐太 丸山智己 松山ケンイチ 玉山鉄二 松田龍平 木村了 伊藤由奈 サエコ
2005年日本

posted by フェイユイ at 01:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 松山ケンイチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年03月31日

『翼の折れた天使たち 第二夜 ライブチャット 』

ライブチャット.jpg

Yoshi原作のフジテレビドラマの第2話。
『渋谷怪談2 デラックス版』に引き続き殆ど堀北真希のアップを見続けているようなドラマなのだが、なかなか面白く観た。

かつての過ちから引きこもりになってしまった少女の唯一つの外部との交渉がライブチャットでのアルバイトだった。
その殆どが性的な目的であることに少女は反感を持ちつつも止める事もできないでいる。
が、ある時他とは全く違う「タロー」との会話で少女はいつしか安らぎを覚えるようになった。

物凄いどんでん返しがあるわけでもないが何となく見入ってしまった。
堀北真希は松ケン鑑賞をして知った女優さんだけど結構見ていて飽きない人なのではないだろうか。
『ウィニング・パス』に続く共演で松ケンが車椅子という設定も同じなのが面白い。『ウィニング・パス』では兄妹。『渋谷怪談2』では松ケンの片思い状態。ここでは恋人という感じかな。

松ケンは前髪がかなり短いという奇抜(?)なヘアスタイルで表情も頼りなげで初々しさが感じられるが2年前の作品でそんなに昔でもないんだな。っていうか彼自身がまだそんなに経験浅いわけだけど。もっと前のかと思ったので。松ケンってホントにこの数年で物凄く変化したのだということが判る。
松ケン探索としては観れる作品でよかった。

2006年日本
ラベル:松山ケンイチ
posted by フェイユイ at 22:22| Comment(4) | TrackBack(0) | 松山ケンイチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『セクロボ』去り難し

昨晩、『セクロボ』最終話を見て何気なく感想記事など書いてしまったが一晩過ぎて日中仕事をしながらウツウツと思い出し切なくなってしまった。

あまりドラマを観ないせいもあるのか、一旦好きになるとその世界に深く入り込んでしまうようである。
かなり少ない回数のドラマだがいつしか自分も『セクロボ』世界に住み着いていたのか。
物語自体が主人公であるニコとロボが別れてそれぞれの道を歩み出す、という話だったためにちょっとした感傷に侵されてしまったようだ。
オタク人間ロボのただ一人の理解者であるニコが大人へと成長することで彼と共通の言葉と目をなくしてしまった。
たとえ地蔵堂がなくなったとしても同じものが見えていたならまた会いにいっただろう。
ニコはロボとはもう同じものを見ていないのだ。

不思議な才能を持った女子中学生とオタクサラリーマンと謎の骨董品店の女主人とその使い、という彼らの交流はほんの短いものであったに過ぎないのだが。
例えドラマが終わってもその世界はそこにいつもあることを願っていた自分にはこのラストはちょっとした衝撃だったようだ。

それでも彼らの人生が終わってしまったわけではなく、今またこれからも続いていくわけで。
ニコにはニコのロボにはロボの、真境名と名梨にもそれぞれの物語があるのだ。

当たり前のことを書いてしまったが、すっかり好きになってしまい居心地よくなった住処を去りがたいように『セクロボ』から離れるのが寂しくなってしまったのだ。
ドラマというのは映画とは違い、そこの住人になってしまうものなのかもしれない。
ラベル:松山ケンイチ
posted by フェイユイ at 20:40| Comment(3) | TrackBack(0) | 松山ケンイチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『セクシーボイスアンドロボ』Lastvoice ロボ

色々文句も言ったけど松ケン最高の楽しみが終わっちゃたよーん。短すぎる。とはいえ、前回で書いたように言いたい事は終わったんだよね、きっと。

今回は最終回だけあってなかなか見ごたえあり。第1回目の出演者でニコロボ出会いのきっかけとなった三日坊主が幽霊となって登場。しかし脚はちゃんとあるぞ。

他人とちょっと違うニコには死んでしまったはずのセキセイインコが見える。家族には見えないインコをロボも見ることができた。二人のつながりを感じさせる。
そんな時、死んでしまった三日坊主が幽霊となって現れる。最初は黙ったままだったのが次第に話せるようになり、3人はまた不思議な関係となる。

ニコは学校で自分以上に孤立している転校生を見て他人との共存を考える。
ニコにはセキセイインコが見えなくなった。そしていつしか三日坊主の姿さえも見ることができなくなったのだ。

いつまでも幽霊が見える子供のままのロボと成長して見えなくなっていくニコ。
二人の道が分かれていく。

おいおい、前回二人が将来結婚するのを考えるのが普通、なんて書いたのによう。
でもまあそういうんじゃなく未来予想図としていつまでもボスと手下的な関係でスパイ活動を続けるニコロボ、というのがいいのかもしれないね。どっちでもいいけど。

このドラマで描かれている「起こしたことは取り消せない」とか「人は成長し変わっていく」とか「自分と世界はつながっている」はま、当たり前のことだし、頷けるけど、肝腎の最後の決め言葉「自分を救えるのは宇宙で私だけだから」っていうのは疑問だなー。
当然の屁理屈を言ってるようで「そうでもないんじゃない」って思うがね。「そういう意味じゃなくてー」って言い返されそうな気はするが、自分が一番救えなくて他の誰かに救われるという事の方が多いかもよ。
例えば赤ちゃんとかね。ニコでいうなら幸子だね。

それにしても楽しいひと時であった。
スンごく楽しかったなあ。
Lから入った松山ケンイチで色んな彼を観てきたがロボは一番好き。可愛くてせつなげで。
(近々変わる予定もありだが)
他の作品ではおとなしいか結構荒っぽいかだったりするが、ロボは弱っちいけど懸命にがんばる感じが愛おしい。
コメディがこんなにはまっているというのも他の作品からはちょっと信じられないくらい。

このドラマでも言ってる様にいくら楽しくても別れもあるということで。

真境名マキと名梨の最後はいいな。
ラベル:松山ケンイチ
posted by フェイユイ at 00:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 松山ケンイチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年03月30日

『セクシーボイスアンドロボ』voice10幸子

明らかにロボ恋愛事件を引きずっている気がするが・・・。ニコロボ世界が崩れていく。これも仕方のないことかな。

何とはなしに最初の頃のロボパワーがなくなっていくような・・・(笑)
ニコちゃんも自分にまとわりつく事件のためか、歯切れが悪い。

10万・20万程度の金額だと切実に聞こえるが2億だとか50億だとか言われるとなんだかよくわかんなくなるね。

篠井英介氏が漫画家の役で登場。なにげにうれしい。
松ケンとの絡みが観れてこれも嬉しい企画であった。


だけども話的には特に記すことも思いつかない。
もう表現したいこと終わっちゃったって感じなのかな?
幸せを感じてない漫画家とその奥さんの話はもっと突っ込む事もできたはずなのにこの辺で終わりでいいものか。
ニコのパパとママだけは同じテンションでいてくれているような。

幸子はどうなった?
posted by フェイユイ at 21:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 松山ケンイチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『セクシーボイスアンドロボ』voice9 プッチーニ後編

ロボットオタクのロボが年上女性への恋慕からオタクをやめてしまった。地蔵堂の女主人は生きる事をあきらめてしまった。どうなる、どうなる?の怒涛の前半から後半はすべてがうまくまとまる為の解決編ということでTVドラマはTVドラマらしく最終回でもなければ無茶な展開はないもので。

なんだかニコちゃんだけが苦しみをすべて背負ったような話だったなあ。女子中学生にすべてを負い被せて大人はずるいね。

恋する松ケンの顔は可愛くてずっと見たくはあったけどやっぱりロボはロボでいて欲しい。
理想としては10年か15年かこのままのお馬鹿な関係が続いて大人になったニコちゃんとロボが結婚するという陳腐な夢を見てしまうのが素直なドラマ鑑賞者の常ではないか。
ロボってまあ物凄くバカなんでニコちゃんくらいの天才でないとバランスがとれんだろうし。
今回、やっと恋の呪縛から少しだけ目覚めたロボが「俺の声が聞こえるだろう。ニコ」というとこは感動的だった。

さらにまた長い間植物人間状態で寝たきりの元恋人が地蔵堂女主人に「許す。友達だから」という一言をいうために目覚めるというのもまたじわーっときてしまう。
彼女と部下のよっちゃんの関係もよいなあ。

今回ロボが壊れてしまって元に戻る、というそれだけの話なんだけど、こういう事件が人間関係を壊すようでより強いものにしていくんだろうなあ。
ニコちゃんはロボが単なるオタクでなく一人の男であることを認識してしまったわけだし、ロボは自分が時になにより大切なはずのマックスロボを捨ててしまうことがあることを知ったわけで。
ロボの帰りを待つマックスロボは確かに奥さんのよう(ってあんなにけなげに帰宅を待ってる奥さんいないか)である。

予定調和とはいえどもこのドラマが言っているように何事もなかったということはなく覚えているものだし、それぞれが世の中と関係しているのだ。
時が留まる事はなく何事もなかったかのようでいて何かが起き、変わっていくのである。

名梨が口ずさむ「プロフェッショナ〜ルな〜」というのが気になるがこれが甲本ヒロトが作った歌だというのを知ってちょっとうれしくなる。

ラベル:松山ケンイチ
posted by フェイユイ at 20:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 松山ケンイチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年03月29日

『茶の味』石井克人

『茶の味』.bmp

とぼけていてふざけすぎで散漫で冗長なエピソードの羅列のようでいて結構なんだかちゃんと芯が通っていたのが不思議な映画。

キャラクターの一人ひとりが憎めないのがなんといっても救われるのか。
冒頭、恋する男子高校生くんの額から電車が飛び出してきて、まるでルネ・マグリットではないか。
舞台はのんびりのどかで現実的な田んぼ風景なのだが次々と摩訶不思議な映像が織り込まれていく。
なかでも巨大な自分が自分を見つめているという現象に悩み続ける少女は誰にも言えない苦しさを秘めている。
こういうことって少女の時はあったりするのじゃなかろうか。
不思議の国のアリスでは自分が大きくなってしまったりするのだが、西洋の子供にはこういう一種の障害(自分が突然大きくなったり小さくなったりするように感じる)が多いそうで日本人にはあまり見られないものだそうだが、この少女は稀なそういう感覚を持っているのだろうか。

綺麗な転校生の女子が自分が好きな囲碁のクラブにはいったので異常に興奮してしまう男子高校生くんが可愛い。
雨の日、傘を持たずバスで帰る彼女を見送りバスのドアが閉まる直前にさっと傘を投げ入れちゃうなんか、素敵ではないか。なかなかこうかっこよくできないよ。

石井克人監督は浅野忠信・我修院達也が出演していた『鮫肌男と桃尻女』で強い印象を受けたが本作でも同じく二人が共演していて楽しかった。
浅野忠信はこういう親戚のお兄ちゃんみたいなのでもかっこいいなあ。しかし『鮫肌男』の時もそうだったが我修院の強烈さにかなうものはない。

CDを製作する漫画家の話だとかロボットの格好をしてるオタクだとか、ママはアニメの優秀な動画家だとか、好みがかなり偏っているのも自分的には共感できたり。

もしかしたらミュージカルだったのか、と思わせるほど、ダンスのシーンが記憶に残る。
茶の味、ってかなり強烈な茶の味だな。

さてさて松山ケンイチの出演場面はてえと。
物凄い引きで殆どわかんないくらいだなー。細いです。「松ケン」さんという名前の短気な先輩として登場。後輩たちと「ロマンチ」という名前の喫茶店(?)で馬鹿話をしている。
「先輩好きな子いますか」「中一のリンダ」「は、先輩ロリコンすか?」別の男子が「先輩をロリコンて言うな」と言うと松ケンそいつを叩いて「馬鹿。俺はロリコンだよ」「認めた!」
っていうような会話。
まったくこれだけのために一本観てしまうからね。面白かったからいいけど。
それにしても私は映画業界の事ってよく解らんのだけど、「松山ケンイチ」という役者の映画を観てると同じ役者陣が出てくるのだね。
そんなもんなんだ、と今頃納得。
寺島進氏なんて何回も見てるし。手塚里美とか。

この家の感じっていいよなあ。お爺ちゃんの生活なんか羨ましい。あんな部屋があって最後みんなそれぞれにぱらぱらマンガ(っていうには綺麗な絵だったが)残して死ぬとかいいもんだ。

監督:石井克人 出演:坂野真弥 佐藤貴広 浅野忠信 手塚理美 我修院達也 土屋アンナ 中嶋朋子 三浦友和
2003年日本
ラベル:松山ケンイチ
posted by フェイユイ at 22:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 松山ケンイチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。