映画・ドラマ・本などの感想記事は基本的にネタバレです。ご注意を

2009年12月05日

『刺青』増村保造

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久しぶりの増村保造だが、やはり面白い。しっかし恐ろしいタイミングというかまったくの偶然なのだが、昨日観て不満だったナタリー・ポートマンのアン・ブーリン!若尾文子に演じてもらったらよかったねえ。こういう色香を持つ悪女を想像していたんだが、まさか次の日、日本映画に登場してくるとは思わなんだ。

若尾文子が女優として活躍していた頃を知っているわけではないので自分にとっては映像の中だけの存在なのだが、目鼻立ちも体つきもどぎつさのない小作りのまるでお人形のような美しさに見えるのだが、日本女性にしてはちょっと低音の声でそれがまた悪女の色気を持っている。
本作の彼女は特に徹底した悪女となって描かれているのだが、それは彼女の白い背中に彫られた女郎蜘蛛が男の生き血を欲しがっているからだという理由なのである。
裕福な商家の箱入り娘であるはずのお艶は手代の新助と駆け落ちし、船宿の亭主の家へ隠れるが、悪党たちの算段で女郎として売り飛ばされてしまい、新助は殺されそうになってしまうのである。
ここまではよくある話といったところだが、このお嬢さん、まったく怖気づくこともなくまさに女郎蜘蛛の魂が入り込んでしまったかのように男たちから金を絞りとることに喜びを見出していくのである。なよなよとした愛らしい手弱女が人を殺すことすら何のためらいも恐れも見せず己の欲だけを満足させる姿はぞくぞくさせられる。
しかしそのお艶と恋仲になった新助は彼女との駆け落ちでさえすでにびくびくと怖気づき、お艶の変貌に愕然とし、人を殺すたびに焼かれるような苦しみを背負ってしまう。そのくせどうしてもお艶からは離れきれず彼女が他の男と体を重ねることには激しく嫉妬してしまうのである。

ここまで微塵も心が揺らがない悪女の表現というのはブニュエルなんかを思い出すくらいだろうか。
あまりに躊躇いなく恐ろしいことを口にし、行動する美しい女に見惚れてしまうのだ。

映像はきっぱりと計算された美しさがあり、艶が着る着物も今よく見るような類のものではなく、なんともお洒落で可愛らしい。着物を身につけていく様子、また脱がされていく過程も現在ではあまり観ることのできない美しい動作なのではないだろうか。
冒頭から縛られ、薬を嗅がされて気を失ったところをまっ白い背中に刺青をされていく、いかがわしい色欲に犯されていくそのままの表現としか思えない。
実際には彼女の裸も性的な場面もないのだがぬめぬめとした淫猥さに満ちている作品なおである。

このくらいの色香が昨日のアン・ブーリンにあったなら。といってもむしろそれを持つのはメアリ役のスカーレット・ヨハンソンのほうだが。

お艶のような美しい悪女に憧れてしまうのは自分がどうあっても絶対になりえない存在だからなんだろう。それは幸せであるのかもしれないが。

監督:増村保造  出演:若尾文子 長谷川明男 山本學 佐藤慶
1966年日本
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2009年07月13日

『痴人の愛』増村保造

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増村保造は日本でよりフランスなどで人気がある、というようなことを聞いた気がするが、本作なんかまさにそういう感じである。1967年公開時にこの映画はどういう風に受け取られたのか想像がつかないし今観られても変態映画みたいにしか評価されないような気もするんだけどなんだか最後なんてしょうもない二人にじんわりきてしまったのだ。

谷崎潤一郎が原作ということで私は読んではいないがさもありなんという不思議な愛の情景である。
めちゃめちゃ冴えない中年男(といっても30代半ばといってたようだがとにかくカッコ悪い)譲治は酒もたばこもギャンブルもやらず真面目なだけの男だと勤めている工場では評判で上司は心配するほどだが実はまだ10代の女性ナオミを自宅に囲っているのであった。

という設定だけでも今ではちと問題であるし無論彼はすぐに手を出しはしなくともナオミの体を洗ったり裸の写真を撮ったりするのを楽しみにして代わりに彼女が求める派手な色の服を買ってあげたりしてそれを生きがいにしている男なのだ。この辺よくある女性監禁エロ映画みたいなもんで特に女性はとんでもなく気持ち悪い男だと観るのを拒否してしまいそうだが、とにかく増村監督は停止するのができないほどぽんぽんテンポよく進んでしまうのであれよと思う間にどんどん話は展開していく。
男は身勝手にも英語やピアノを仕込んで体を磨き上げ理想の女に仕上げてから結婚しよう、それまでは手も出すまい、などと考えている。
ところがナオミは怠け者で勉強はせず今すぐ結婚したいと譲治に無理やり肉体関係を持たせてしまう。
譲治も満更でもなく結婚を早めてしまった。
さてここらからナオミの本性が現れる。家事など何もせず譲治が要求する勉強もしない。次々と買い物ばかりするので譲治は工場から給料を前借するしかない。
叱りつけるとその場ではしおらしく謝るがすぐにすねたりじらしたりしてついには譲治を馬にしてまたがり部屋をぐるぐる回らせ彼の尻を思い切り叩くのだ。

みっともない中年男と我儘極まりないだらしない女の醜態とも痴態とも言える二人の愛戯(?)なのだが、譲治役の小沢昭一もナオミ役の大楠道代もよくぞここまで激しく演じきれたなと感心して観てしまう。
譲治が怒ってナオミを殴り突き飛ばす場面なんか本当にマジで痛そうで大楠さんを心配してしまった。まあ、その分大楠さんも小沢さんに馬乗りになってわき腹思い切り蹴飛ばしたり尻をたたいたり手綱を口にはめてぐいぐい引っ張って仕返ししてるとは思うが(これもかなり痛いと思うよ)体当たりというのはこれくらいしなきゃいかんだろう。

とにかく他に何のとりえも楽しみもないみすぼらしく堅物の譲治は次第に獣のように淫乱に奔放になっていくナオミに苛立ち怒りながらもずぶずぶとのめり込んでいく。
だが彼女が学生の男二人を自宅に泊め、一つのベッドでナオミと譲治を含む3人の男が寝ることになり、工場でナオミが学生を次々と食い物にしているという噂を聞くと嫉妬が燃え上がりしかもそのうちの一人と海岸で抱き合っているのを見てついに彼女を追い出してしまう。

噂でナオミは次々と男を代え歩いているらしい。譲治が死んだようになっているとナオミ帰ってきて服を取りに来たと言う。そして何度も来ては彼をじらすのだ。
譲治は気が狂いそうになり、再び来たナオミにしがみつく。そしてナオミが求めるままに馬になって彼女を乗せて歩きだす。「言うことを聞くか、金を出すか」ナオミが言いだす勝手な要求を一つ一つ承諾し譲治はやっと幸せになった。

裏切り続けたナオミが帰ってきて馬乗りになったところで「これでやっと夫婦になれた」と泣く譲治さん。あまりに哀れな奴隷状態で笑っていいのか蔑んだがいいのか。こういうのを不快に思う人もいるだろうがこれは無論増村監督の映像なので思えるのだがナオミも言うように他の人では満たされない彼らの愛の形であり、本当によかったなあと心から思うのである。譲治さんは元々お金持ちで遺産も入ったのだからナオミの我儘もかなりきいてあげられるだろうし、こんなに円満に解決できた映画にこちらもほっと胸を撫で下ろして安心した。

これも昨日の映画同様、設定だけ聞けば疑問を持ってしまうのだろうが二人の愛の形がこういうものであるならとやかく言う必要はない。
重くなったナオミの体重を背中にずっしり感じながら譲治さんは幸せをナオミは我儘を聞いてくれる奴隷を取り戻したのだ。

ナオミが最初から絶世の美女なんかじゃなく無口で陰気な女だったのを譲治が懸命にいい女にしていくというのが面白い。と言っても『マイフェアレディ』みたいなつまんない権力男の話にはならずどんなに頑張ってもナオミは頭はいつまでも空っぽでぐうたらで体だけが物凄い色っぽくなって譲治がその体に執着し溺れてしまう、というのがよいのだ。
譲治がいくら男性権威を振り回しても体は変わっても心はナオミなのである。
『マイフェアレディ』で帰って来た女にスリッパを求める男とこの物語で馬になってしまう男とどちらがいいかと聞かれればこちらがいいに決まってる。とはいえ譲治ほど幸せな男が他にいるだろうか。

譲治の人格を表現するのに臨終の床の母親に「母さんが悪い」と甘えるのがあっていかに彼が欠落した人格なのかがよく判る描写だった。谷崎の原作そのままなのだろうか、際立っている。

ところでチョイと前に『工場萌え』というのが流行ったが私も少しその気があって工場の景観に惹かれる。本作で譲治が勤める工場が何故か何度となくその素晴らしい機械美を見せてくれて一々見惚れてしまうのだがこれも意味があるのだろうか。つまらない工場と色気溢れるナオミとどちらがいいか、ということなのかな。そうなると私も含め『工場』に欲情する輩はさらに変態かもしれないが。

監督:増村保造 出演:楠道代 小沢昭一 田村正和
1967年日本

若かかりし田村正和氏がナオミにぞっこんになる学生の一人として登場。やはり美男子であった。
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2009年07月07日

『セックス チェック 第二の性』増村保造

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久しぶりの増村保造監督作品。これは特に気になっていたのだけど主演の緒形拳さんが亡くなって借りにくくなったりとかして今になってしまった。増村保造作品はどれも衝撃的なものだがこれは特にタイトルからして過激なので胡散臭くも思えてしまうが昔TVで観たような気がしたのと山岸凉子のマンガ『キメィラ』を読んで繋がりを考えたのだが、こうして観てみると『キメィラ』のような話では全くなかったし昔観たような記憶も引き出されなかったのでさほど印象には残ってなかったようだ。

なにしろタイトルからして挑戦的だし内容的には増村監督作品としては当然だが性的な描写がとことん出てくる。
おまけにぱっと見、非常な女性差別のようにしか思えず、まだ18歳のひろ子を中年男性がいじりまわしているというのはどうにも気持ちのいい映像ではないではないか。
しかしこの中年男のむき出しのエゴといつもの奔放な女性ではないひろ子の姿は(少なくとも当時の)性のあり方と意識への滑稽なカリカチュアのように思えてくる。
つまりスプリンターはエゴイスティックであるべきだと信じ行動し続けた宮路と彼に振り回されたひろ子を憐れんでいながらどこか皮肉に笑っているように思えるからだ。
スプリンターは狼であるべきだと言って次々と女を手籠にしては捨てることを当然と思っている宮路は己がオリンピックに出場できなかった為にひろ子という女性に目を留め彼女をオリンピックでメダルを取るスプリンターに育てようと張り切り、彼女が少しでも男性に近づくよう服装、言葉も男らしく指導する。
が、ひろ子はセックスチェック(診察して性器や卵巣が完全か判断するというもの)で「女ではない」という宣告される。半陰陽だというのだ。
ショックを受けたコーチ宮路はこれまでの男性化計画を止め、今度は生殖器が未発達なひろ子を女性にするため、毎晩彼女を抱くのである。
果たして彼女に初潮が訪れ、女性証明書を手にすることができた。だがその後の陸上競技会でひろ子は平凡なタイムしか出せず、オリンピック出場の夢は消えた。
宮路は「すべてが無になり、一人の女性だけが残った」と笑う。

宮路の言動はいちいち気に障ることばかりなのだが、これらの考え方・行動が当時当然としてあったものなのだろう。
私はスポーツ選手の世界にはまったく無縁だったのでそういう世界の内情は知らないのだが、先日ある有名な男女のスポーツ選手同士が恋人だという噂が立ち、あるスポーツ関係者が「男性選手は恋をすると伸びるが、女性は駄目になるからやめた方がいい」というコメントをしたのを聞いて今頃まだそういうことを言っている人がいるのかと驚いた。その女性選手は今も駄目にはならずむしろ男性選手のほうがやや下降気味になっているようだが(頑張って欲しいが)そういう「女性はこういうものだ」という奇妙な論理がまかり通ってしまう世界なのだろう。
無論私はスポーツ理論が判るわけではないから多くの選手を見てきた人にはそれなりの定義があるのだろうが、今多くの女性選手が恋もし、結婚し、出産しても駄目にはならずトップに存在しているのが実現しているのだから決めつけることもないだろう。

それてしまったが、宮路は最後まで「女性は云々」と言っていてどうも腹立たしい。が、結局は彼のエゴは崩されてしまったわけだ。
最後の最後で「俺はもう狼じゃなく一人の女を守る犬だ」という宮路は却ってもう憑きものが落ちたかのようにさっぱりしている。

ひろ子がいつもの増村映画の女性のように奔放じゃなく性にこだわり過ぎているのが嫌でもあるし、緒形拳演じる男性の性が匂い立つような宮路にも少々辟易はしてもやはり増村保造監督は恐ろしいとこをさらけ出してしまう作家なのだった。
いつものように尺も短くしかもテンポがいいので観やすいことはこの上なし。
緒形拳さんは筋肉が見事である。しかしこの撮影疲れたろうな。

監督:増村保造 出演:大楠道代 緒形拳 小川真由美 滝田裕介
1968年日本
ラベル:増村保造
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2009年03月08日

『でんきくらげ』増村保造

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久し振りの増村作品。この『でんきくらげ』という不思議なタイトル、昔うっすらとなにやらエロテッィクな映画だということで話題になっていたような(さすがに自分の記憶は公開当時ではないと思うが)うっすらとした記憶だけがある。DVDの表紙もちょっとためらわれるきわどさである。

とはいえ無論そこは増村保造作品。いつもどおりの物凄いハイスピード展開の乾ききった映像でたちまち引き込まれて観終わってしまった。
映画の中で起きていく出来事は正直神経が逆撫でされるような嫌なことばかりなのだが日本的情緒の欠落したような(つまりめそめそする余地がまったくない)突き放した語り口なので意外にあっさり観てしまえるのだ。ま、逆に言えばどろどろ感を求めたい向きには不満かもしれないが。
それは主演の渥美マリの持ち味なのかもしれないが、まるきり棒読みの台詞回しがまるで感情のない人間のようにも思えるし、とんでもない事が起きてもすべてさらけ出してしまい隠し事をするということがない。それでこちらはイライラすることなしにどんどん物語が進んでしまうのである。

なにしろこの物語というのが中年ホステスが仕事の間に自分のヒモである男に大事な娘をレイプされ怒ったところ「お前みたいな婆には飽きた」などと言われたあげく娘を連れて行かれそうになったのでかっとなって刺し殺してしまう、という怖ろしく滅入る話から始まる。
真面目だった娘は仕方なく母親が働いていた店のホステスになりやくざから手篭めにされそうになったり嫌な中年社長たちと関係を持ったりしながらとんとん拍子に出世していく、というまあある意味よくある話なのだがテンポがよくてちょっとおかしいのであっという間に乗せられてしまうのだ。

主演の渥美マリという女優は名前は聞いたことがあるがどういう人なのかまったく知らないしこれもうっすらとセクシー女優であった、と言われていたような記憶があるだけだ。出演作品のタイトルを見てもいかにもそれらしいし「軟体動物シリーズ」などというこれまたいかにもな企画名で人気になったらしい。本作はその3作目で監督は入れ替わりで撮影されていて増村監督は6作目の『しびれくらげ』で再監督となっている。またきわどいタイトルだ。
で、多分本作が渥美マリ初見だと思うが、なるほどエロチックで作品中でも言われているように「男好きのする女性」なのだろう。そういう女性が増村監督によって実にあっけらかんとした素直で自由な言動をして男達を魅了していくのだから観ていても凄く楽しい。
結末の彼女の決心にも驚くがそういえばマット・デイモン主演の『レインメーカー』のラストが気に入らなかったのを思い出した。夫から暴力を受け続けている女性を弁護士のデイモンが助け出し弁護士が辞めて彼女と結ばれる、というようなエンディングである。まあ、弁護士デイモンはそれでいいのだろうが、夫の暴力から助けてくれた弁護士と結婚するその女性というのはまた男の支配下に置かれるわけで結婚後その男がまたDVをやらかすかもしれない。なんでこう男に頼らないと生きていけない女なのかとうんざりしたのだ。
渥美マリ演じる由美はそうしたうじうじをぶっちぎってくれた。堕胎というのはさすがに怖気づく決断だったが。

今、松山ケンイチ主演『銭ゲバ』を観てて今のところどうも迫力がないのだがこの由美の生き方こそ『銭ゲバ』の称号を与えてもよさそうだ。
松ケン演じる風太郎よりよほど徹底したゲバっぷりではないか。

監督:増村保造 出演:渥美マリ 川津祐介 西村晃
1970年日本
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2008年11月29日

『赤い天使』増村保造

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昨日観た『私は貝になりたい』が戦争を題材にしたサスペンスミステリーならこちらは戦争を題材にしたエロチックラブストーリー。常にエロチックであるのが増村保造作品の凄いところでしかもまったく手抜きをしない今観ても衝撃的なエロチシズムである。

昨日はフランキー堺に見惚れたが、今日はまたもや若尾文子さんの色香に惑っておりました。
小作りで整った顔立ちでありながらちょっと低めのどすの利いた声がたまらない魅力である。

筋書きだけ書いてしまうと日本がどうなるかという非常事態にとんでもないことばかりをやっているようなお話で抵抗を感じる人もいるのかもしれない。
なにしろ冒頭から従軍看護婦であるヒロイン西さくら=若尾文子が戦地で看護をしてあげている兵士たちにレイプされるところから始まって戦場のどこへ行っても女日照りの兵隊たちに好色な目で見られてしまう。
さくらが好きになってしまう軍医もことの始まりはさくらをレイプした兵士が瀕死状態で助けを求めた為無駄な輸血をする代わりに軍医殿の部屋へ夜行くと約束させられるところからなのだ。
兵士や軍医に勇敢で清々しいイメージを求めるならば男の性欲ばかりを見せ付けられるこの映画の冒頭はうんざりさせられるのかもしれない。しかも性欲以外は重傷の兵士たちの手術シーンばかり麻酔も覚束ない状態で手足を次々と切断され、うめき声と叫び声が絶え間なく続き、桶いっぱいに手足がどさどさ入っているという有様なのだ。
これを観たらどんな人もさすがに戦争には行きたくなくなるはずだ。

さて面白くなるのはこれからで自分をレイプした憎い兵士を助ける交換条件で軍医の部屋へ行ったさくらはそこで軍医の秘密を知っていくことになる。
軍医は自分にモルヒネを打ってくれるようさくらに頼むのだ。軍医はモルヒネ中毒だった。

戦争は怖ろしく、惨めで、馬鹿馬鹿しいものだとこの映画でもまた思い知らされる。
だがこの映画で描写される物語と映像は観てはいけないと思ってしまうような過激なエロチシズムでもある。
両腕を失った若い兵士が溜まった性欲の辛さをさくらに訴え、彼女の手で処理してもらう場面の悲しさと共に男性だったらきっとたまらない興奮を覚えてしまうのではないだろうか。
他の看護婦には頼まなかった、さくらさんだけ。というのは無論彼女の(つまり若尾文子の)セクシャルな美しさに耐え切れなくなったからだし、彼女にはそれに答えてやろうという優しさと強さがあった。
「天使」というのはこの彼女の優しさと美しさをあらわしているわけで、こういう行動に反感をもつなら「そんなのは天使ではない」ということになるのだろうが両腕を失った若い兵士にとって彼女は天使だったはずだ。
しかもさくらはその兵士を外へ連れ出してさらに快楽と幸せを与えるのだ。
この辺は江戸川乱歩のような世界にも思え、後の映画『盲獣』にもつながっていくようだ。

二人の男を死なせてしまった罪の意識を持ったさくらは好きになってしまった軍医殿と再会し自分の気持ちを伝える。
だが軍医は度重なるモルヒネの使用で性的不能になっていた。さらに前線に救援の指令を受けた軍医はさくらの是非にという願いを受けて共に危険な区域へと向かう。
そこでは従軍慰安婦がコレラに罹っており兵士たちも次々と伝染していたのだ。
ここでもさくらともう1人の看護婦に兵士たちの好色な目が注がれる。とはいえ、男性ならこんな状態に若い女性が来たのを見て冷静ではいられないと思うだろう。コレラに罹ってしまう慰安婦も悲惨である。
その病人がいる同じ部屋で看護婦を強姦しようとする兵士たち。なんという惨たらしい怖ろしい世界なんだろうか。
戦争で最も嫌悪すべきものはなんなのだろう。

兵士たちがコレラで倒れ弱小化してしまったところへ中国軍の攻撃が始まった。
援軍が来るのを必死で待ち続ける兵士たち。その頃やっと休憩を取った軍医とさくらはまた一つ部屋にいた。モルヒネを求める軍医を押し留めるさくら。
さくらは軍医を縛り上げ、一晩中禁断症状で暴れる軍医を抑え続けた。一見いけない遊びごとでもやってるかのように見える美しい看護婦と縛られた軍医のベッドの上での阿鼻叫喚は異常な光景である。
やがて症状が治まった軍医にさくらは自分を抱いてと要求する。自分の性器を触らせできないんだと言う軍医にさくらは自分の体を多い被せる。
やがてことが終わりさくらは「自分が勝ちました」と告げる。軍医の軍服を着て威張ってみせるさくら。
この間あいだに敵軍と睨みあう兵士たちの映像が差し込まれ、戦争の緊迫感と男女の性的欲望が交錯していくのである。

激しい銃撃戦が始まり、やがて援軍が到着する頃、さくらは自分だけが助かったのを知る。周りは皆死んでしまい、愛し合った軍医もまた死んでいたのだ。

やはりさくらは天使であったのだ。だがなんと言う悲しい天使だろう。
戦地で苦しむ男達に瞬時、幸せを与えたのだ。だが彼らの結果は悲惨な末路でしかなかった。

エロとスプラッタと不条理がごちゃ混ぜに押し寄せてくる作品でとにかく増村作品観出してから言うことはいつも同じでただ『凄い』と。
白衣の天使である清純なしかもすごい美女の看護婦さんが性欲で欲求不満の男達にあーされたりこーされたりという欲望満開で観ることもできるだろうし、戦争の悲惨さをこれほど表している映画もないだろう。
若尾文子の素晴らしさはいつもながらだが、次々と兵士の手足を切断していく軍医の芦田伸介、両腕を失ってさくらに性の処理を頼む若い兵士役の川津祐介も見入ってしまった。

ダラダラせずぴしっと終わるエンディング、いつも切れがいい。

監督:増村保造 出演:若尾文子 芦田伸介 川津祐介
1966年日本

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2008年11月26日

『青空娘』増村保造

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このDVDの表紙写真があまりにも印象的でこれはちょっと観たいなと思わせてしまう。
瑞々しい若さと青空が溶け込むようで凛とした横顔と真っ白なブラウスに包まれた胸が眩しい。きゅっと細いウエストに真っ赤なスカートを穿き、髪が風にそよいでいる。
内容もまさしくこの通りで青空そのもののような若い娘を若尾文子が生き生きと演じている。
一連の増村保造監督作品で大好きになってしまった若尾文子でその色香に惑わされてしまうのだが、この時の彼女はほんとに可愛らしくて元気いっぱいである。とはいえその若々しさの中に色っぽさがすでに滲んでいるのだが。この時の文子さんは前歯の真ん中がすきっぱになっていて確か後では矯正しているのではないだろうか。そんなとこも若さなのかもしれない。

増村監督作品はテンポがよくてしかもきっちり台詞で言いたいことを述べてくれるので詮索などせずに映画を楽しめてしまう。
4人兄弟のうち1人だけ何故か田舎で育てられた少女ゆうこが高校卒業と共に父親から東京へ呼び寄せられる。
ところが東京へ行くと父親は不在で彼女は他の家族からは女中扱いを受けてしまうのだ。
実はゆうこだけは兄弟たちとは違う母親の子供だったのだ。
義母と義姉から執拗な虐めを受けてもけなげに頑張るゆうこ、という定番の物語なのだが、ぽんぽんと軽快に話が進んでいくのとほんとにゆうこが可愛くて明るいのでついつい観てしまう。
当時の東京の雰囲気も楽しい(って言っても今の東京も知りはしないのだが)変てこな人がいっぱいいてさすが都会だという気がする。
しかしゆうこが上京していきなり会うのがミヤコ蝶々さん演じる女中さんで関西弁なので混乱してしまった。とはいえミヤコ蝶々さんのおやえさんのしゃべりが面白くて惹きこまれてしまうのだ。
高校の恩師から助けられ、おやえさんに気に入られ、最初は反発していた弟ヒロシを味方にし、義姉が結婚相手と考えてるお金持ちの御曹司からは好意を持たれ、ゆうこは奮闘していく。
どう考えてもこの話、ゆうこの父親が根源で本人は自分が被害者だと思っているから性質が悪い。
ゆうこが父の家を出て病気になってしまった父親にきっぱりと言うのである。「すべてはあなたが誰も本気で愛さなかったからだ」
それまでゆうこを苛め抜いていた義母が夫の謝罪の言葉で泣き崩れるのを観てこの人もずーっと意地を張り通してきて辛かったんだなあと思いすべてが丸く収まり大団円という作品だった。
単純な話なのにとても魅力的なのだ。この作品の力強さというのは他のどれにも同じように感じるものである。

なんとなくこの明るさに高野文子の作品を思い出した。

監督:増村保造 出演:若尾文子 川崎敬三 菅原謙二 品川隆二 東山千栄子 ミヤコ蝶々
1957年日本
ラベル:増村保造 青春
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2008年11月22日

『清作の妻』増村保造

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いやもう凄い。増村保造映画というのは。
どの作品も90分ほどの現代の感覚では短いものなのだが、きりっとしまった密度の濃い作品なので単にダラダラした映画よりはるかに多くのことが描かれているようだ。それはもう私などにはわからない脚本のうまさ、構成、撮り方などのすべてがきちっと計算されたもので成り立っているからなのだろう。
物語もシンプルではっきりと登場人物の考え方が伝わるように描かれているのでとても判り易い。
ただラストシーンでおかねが懸命に畑を耕しているそばで清作が黙ったまま難しい顔をしていてそれを見るおかねもなにかしら心細いように見えたのはなぜだろう。限りないように見える畑で耕しつづけるおかねとその向こうで黙って座っている清作というラストの構図は二人がこれから立ち向かう未来は果てしない困難に満ちていることを示しているのだろうか。

幼い時、両親と共に村から追い出されてしまい、17歳で老人の愛人となったおかねが老人の死後、大金を与えられて母親の要望でかつて住んでいた村に戻る。
おかねは全く愛のなかった老人との生活に精神が参っており村に戻っても妾だった女として嘲られ続ける。
ささくれ立ったおかねの前に村一番の模範青年と呼ばれる清が立派な軍人となって帰ってくる。
村中からあばずれと呼ばれるおかねに清作は次第に魅かれていくのだった。

何と言っても怖ろしいのは村の人々である。清作を模範軍人だ英雄だと誉めそやし宴会を開いては飲み食いするが清作がおかねのせいで目が見えなくなってしまうと「戦争から逃げる為に計画した。売国奴だ」と罵る。おかねに対してもおかねが村人に何か悪事を働いたわけでもないのに金持ち老人の妾だったというだけであばずれだと蔑む。清作が再び戦場へ赴くことになり、うろたえたおかねが「酷い怪我をすれば清作も戦場へ戻らずにすんだ」という言葉のためか彼の目を突き視力を奪ってしまうのだ。
村人はそんなおかねを殴りつけ蹴りつけ警察へ突き出す。
清作が最初はおかねに激しい怒りを持つがおかねの家で2年の刑期を待つという。
戻ってきたおかねに清作は目が見えなくなって村人から蔑まれお前の孤独がどんなものかやっとわかった。目が見えなくならなければ俺はいつまでも馬鹿な模範生のままだった、と言っておかねを抱きしめるのだ。

模範生の清作は村人の規範となるよう鐘を下げて毎朝それを打ち鳴らす。怠け者の村人が早く起きて働くように。
鐘は清作が模範生である象徴だった。村人から卑怯者と蔑まれ清作は鐘を谷底へ落とす。

愛のない生活を送り、金だけを与えられ、村人からは嫌われ続けるおかねを若尾文子が演じている。小作りな、なんともいえない色っぽさがある。『卍』の時は衣服もおしゃれだったのもあるがここでは粗末な格好しかしていないのにどきりとするほど美しい。
それは確かに男だったらほっとけないだろう妖しいエロティシズムもあって真面目な模範青年の清作がのめりこんでしまうのもうなづけるのだ。
おかねも清作も普通より外れた場所に立っている二人なのかもしれない。互いがいなければ生きていけないと言って抱き合う姿は普通の人から見れば怖ろしい外道の愛なのかもしれない。

清作を演じた田村高廣も好青年ぶりがまさにぴたりであった。二人が狂おしいほど抱きしめあう場面は現代でもこんなにもエロテッィクなものはない様に思える。増村保造作品の感想にはエロティシズムという言葉が必要なもののようだ。

監督:増村保造 出演:若尾文子 田村高廣 千葉信男 紺野ユカ 成田三樹夫 殿山泰司
1965年日本
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2008年11月06日

『卍(まんじ)』増村保造

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あんまり面白くて食い入るように観てしまった。谷崎潤一郎を真面目に読んだことがないのだがやはりこれも読んでみなきゃいけないのだなあ。
女性の同性愛が題材なのだが、そうは言ってもこれは同性愛とは言い難いのかもしれない。存在する同性愛の喜びや苦しみを描いたものというよりは美しい女性同士と彼女達に関わる男性達も絡めた独特の美学と夢想を描いた作品と言うべきなのだろうから。とはいえこの作品が一種のファンタジーに過ぎないのだとしてもなぜか強く惹かれてしまうのは昨日観た『好色一代男』と同じように無我夢中で人を恋慕することそのことに憧れてしまうからなのだろうか。
映画としての魅力はみっちゃんと呼ばれる光子を演じた若尾文子のほんとうに愛らしい美貌にあるだろう。「姉ちゃん」と愛する女性に甘えた目で見上げる様子は小悪魔という形容がぴったりである。きりっとしたなかにも甘さのある表情でしかも今みても驚くようなみごとな体つきなのだ。
岸田今日子演じる「姉ちゃん」こと園子は人妻ながら美術学校に通っていて日本画を学んでいるのだがそこで観音様をイメージしたモデルを描く。ところがその絵はモデルよりも西洋画科にいる光子に生き写しで二人は同性愛じゃないかと噂を立てられるという導入部である。
それだけで同性愛だと噂されるというのも変な話だし、同じ美術学校の生徒に園子のような美女がいてあっという間に相思相愛になってしまうのもなんだかそういう場面を描写したいだけのポルノ的な展開のようにすら思えてしまうのだが、どうせそういう場面を描きたいのだから面倒くさい手順は省いてもいいやと言う感じではある。まさにやおいのお手本、古典というべきものだろうか。
園子の描いたみっちゃん似の観音様を園子の夫も絶賛したのを喜んで光子に見せると光子は「顔は似てるけど体が違うわ」と言い出す。ますますやおいである。つまりは園子はまだ光子のヌードを見てないのだから園子の家で自分の裸を見せるわと言うのだ。
二人の女性は家の中に閉じこもる。光子は隠れて裸になり園子ら夫婦のベッドのシーツだけを纏う。
色んな映画でヌードだの水着だのをゴマンと観てきたが、この場面ほどエロティックなものを他に知らない。
全部を見せてしまうわけでもなくいやいやと恥ずかしがるのを園子が剥ぎ取ってしまうのだが女性同士で裸を見るというだけのシーンなのに子の艶かしさというのは今ではもうあり得ないのかもしれない。
そして彼女達が話す関西の言葉が不思議なエロティシズムと自由奔放な意識をより感じさせているように思える。

人妻である園子と実は婚約者がいるのに騙していた光子はみるみる恋にはまり込んでいく。映像としての肉体的接触というのは僅かに軽いキスと抱きしめあうということしかないのだが肌着のような着物を着て布団の横で何かを食べていたような様子などが二人の女性の肉体関係を想像させる。
この二人に光子の婚約者(川津祐介)と園子の夫(船越英二)が関係してくる。光子の婚約者はEDであり園子の夫とはセックスレスのようなのだ。この婚約者と夫も普通の常識とは随分変わっているのだが4人ともそういう意識はないのである。傍から見ればけったいでも当事者はそのようなものなのだということかもしれない。
婚約者は光子と園子の同性愛関係を容認しながら自分と光子の結婚を認めさせようと画策する。夫は妻が同性愛に溺れていくのを心配しながらいつしか光子の体に溺れてしまい、やがて夫婦ともども光子を崇拝するようになってしまうという奇妙極まりない方向へ向かってしまうのだ。
「僕たちは光子観音の脇仏や」という台詞には参ってしまった。
とうとう仏教世界へ入ってしまうとは。昨日も思ったがこういう考え方だと幸せなのかもしれない。

物語は園子1人が小説家と思しき男性に自分の体験を語っていくという方式で進行していく。とても好きな形式だ。
岸田今日子の語り口はすばらしいし、魅惑的な二人の女性ととんでもなく変な二人の男性の奇妙に艶かしい物語だった。

監督:増村保造 出演:若尾文子 岸田今日子 船越英二 川津祐介
1964年日本
 
卍というのはやはり二人の女性が絡んでいるということなんだろうなあ。言葉の響きも。
ラベル:同性愛 増村保造
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2008年11月05日

『好色一代男』増村保造

『好色一代男 増村保造.jpg好色一代男  .jpg

この映画、私は観てないと思っていたのだが、途中で「あ、これだったんだ」と思い出した。
というのは船越英二演じる貧乏侍が恋焦がれた花魁を世之介の計らいで身請けしてもらい結ばれてはみたものの10年後には美しかった花魁は生活苦で酷くやつれ愛らしかった面影もなくなっていたのである。気の毒がる世之介に貧乏侍が女房を罵ると「それはお前のせいや。女は男次第で弁天様にも夜叉にもなる。女房が本当に夜叉ならとっくにお前を見捨てていた。それが見捨てずこうして側にいるのだからもっと優しくせいや」みたいなことを言う場面を覚えていて「この台詞は雷蔵様だったんだあ」と記憶が蘇ったのだった。その後の気位の高い花魁を体重と同じ重さの金で買う、という場面も思い出した。
金持ちのぼんぼんの女性遍歴という内容で市川雷蔵がとんでもなく軽いノリのお調子者ででもやっぱり色男で女にはいつももてもてというふざけた役を演じている。
次から次へと様々な女性に「女はええなあ、美しくて柔らかで」と言い寄る姿は軟弱そのものなんだけど雷蔵さんがやっているせいなのかどこか筋の通った清廉さを感じてしまう。「女ほど可愛いものはない。女の為ならわしはなんでもする」という台詞は言い方や言う人が違えば却って女を見下げているようにも聞こえるはずだが雷蔵さんの世之介が言っていると本当にそう思っているように聞こえるし、うれしそうにそう言う世之介こそ可愛い男に思えるではないか。
女好きと言う男、言われる男はいるだろうがこんな風に無我で無欲で一筋に女を求める男というのは結局は存在しないものなのかもしれない。

世之介の西洋版といえば『カサノバ』になるのだろうがカサノバを演じたヒース・レジャーに私は記事で「素朴な雰囲気が持ち味のヒースがそういうキャラクターに変身しきれているとは見えなかった。」などと書いてしまったのだが、いつもはクールで男らしいイメージの市川雷蔵はどう見たって女ったらしの世之介になってしまっていて比較に出されたヒースには申し訳ないが雷蔵さんの凄さというのをここでも再確認させられてしまったのだった。

物語自体、物凄くスピーディでテンポよくとんでもなく明るいのだが巧みに昔の女性たちの業とか悲しみを色んな女達に寄せて描いていっているのも面白い。世之介との出会いでその女達が本当に幸せだったんじゃないかなと思えるのは雷蔵さんの魅力によるものだろう。

世之介は女を愛し、女を傷つけるものをとことん嫌う。特に侍のように無意味に女を貶めるような仕打ちをすることを憎んでいる。
世之介のように純粋であったらまったく世の中は幸せなのかもしれない。

監督:増村保造 出演:市川雷蔵 若尾文子 中村玉緒 船越英二 水谷良重
1961年日本

カサノバも世之介もほんとはふたりとも両刀遣いだったらしいがさすがに映画ではそこらへんまでは描ききれてなかったね。
ヒースのでは皆無だったと思うが雷蔵さんのでは一応陰間さんが登場したり世之介が牢で男に言い寄られるシーンがあったのだけどね。
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2008年11月02日

『華岡青洲の妻』増村保造

華岡青洲の妻.jpg

これも短い映画なのだが内容の重さと巧みな脚本の面白さで非常に惹き付けられる作品だった。

原作は有吉佐和子で大変話題になったものであるらしいが自分は未読である。ただこの作品の内容は自分が子供と言っていいくらいの時期だったと思うがマンガで読んで知っていた。多分真崎守の作品ではないのかと思うのだが確かではない。読んだのはそれ切りだったのに今に到るまで忘れることができなかったのは作品への感動というより人体実験を行う描写への恐怖感で自分としてはむしろ一種のホラー作品として記憶に刻み込まれ忘れたくても毒薬に等しい麻酔薬を飲むことや確証がないのに乳癌の手術を行う恐怖でマンガの幾つかの場面が今も脳裏から離れられずにいる。マンガ自体は全く話題にもならないようなので大した評判でもなかったのだろうか。自分にとっては最も忘れられないマンガの一つになっている。

なので原作は知らずとも内容はほぼ知っていてかなりの恐怖感を持ちながら映画も鑑賞することになった。
そして知っていてもやはり怖ろしい作品だった。
この作品に描かれたものを表現すると嫁姑の確執と戦いということになるのだろう。そして映画の中で小姑が言うとおり「怖ろしいの争う母と義姉さんの気持ちを知らん振りして利用した男の身勝手さです」
華岡青洲は利口な人間だから嫁姑の嫉妬を人体実験に上手く利用したのは確かだろう。
でも私としては華岡青洲さんはまあどうでもいいのであって、やはりここで描かれているのは二人の女性の戦う姿である。
嫁姑の争いというとなんだか単に醜いもので片方からは息子であり片方からは夫である1人の男性の愛情を奪い合っている妙なもの、ということになってしまうのだが、この作品はまた少しその感情が違った所から生まれてきているのが面白いのだ。
姑と嫁である二人の女性は青洲がいない所で最初に結びついているのである。
嫁になる加恵はまだ少女の時美貌で評判の華岡家の奥様を見たくて覗きに行っているのである。そして噂どおりの美貌に魅かれ是非華岡家の嫁になりたいと願うのだ。
当の夫になる男性は無視で姑さんに惚れて嫁になる、と言う話を初めて知った(マンガではなかったのか覚えていない)
夫になる青洲が京で医学を学んでいる間、加恵は先に華岡家に嫁入りし美しい姑に見惚れながら懸命にいい嫁になるのである。また姑於継もそんな加恵を我が娘のように可愛がるのだった。
そんな二人の関係が歪んだのは青洲が帰宅してからで彼の関心を惹きたい二人はそれまでの仲睦まじさは嘘のように崩れてしまう。
そして日本の華佗になりたいという青洲の夢をかなえる為、二人は争って麻酔薬の実験役になることを願い出るのだった。
青洲は母親にはさすがに毒薬を薄めたものにすぎない麻酔薬で実験するのはためらわれ眠り薬程度のものを使用。妻の加恵には本来の実験を行った。そのため母親は無事に目覚めたが、加恵は2度にわたる実験の性で盲目となってしまう。
母・於継は息子・青洲が自分と違って加恵の実験には細やかに気遣うことに嫉妬し、また自分の実験は無意味なものだったことを知って激しく泣き崩れる。
妻・加恵は盲目となっても夫の役にたったことに満足する。

だが血液の癌を患った義妹が「私は結婚できなくて幸せだった。義姉さんの苦しみを見ていると。兄は母と義姉さんの気持ちを利用して実験をした。男というのはそういうものだ」と話す。

加恵の夫・青洲は医者として成功し立派な診療所をつくり多くの弟子を抱えた。村人は加恵の犠牲によって青洲が出世したと褒めたが加恵はそれを嫌ってひっそりと暮らした。

少女の時、姑になる於継を初めて見た曼荼羅華の花が咲き乱れる中に盲目となった加恵は身を潜めた。

加恵の於継に対する感情というのは一体なんだったんだろう。結局、加恵は於継に「立派な嫁です。誇らしい嫁です」と認めてもらいたかっただけなんじゃないだろうか。
それが青洲という男の存在で本来の目的が混乱してしまった。
男女の愛というものより「家の存続」というものが大切だった時代というのも加恵の価値観に作用しているのだろうが。
今の時代の嫁姑の争いというものではなく女性と女性の強い愛情と同時に生まれた競いあう心を鋭く描いた物語だと感じてしまった。
だからこそ心惹かれた姑が亡くなり夫の夢もかなえた後、加恵はひっそりと姑の暮らした部屋で過ごし続けたのだろう。
男同士の戦いがあるように女同士の戦いにも戦った相手への涙があるのだと描いているのではないだろうか。
青洲自身への愛というより二人の女性が競い合うことそのものが深く描かれそこにある悲哀も感じられるのだ。

監督:増村保造 出演: 若尾文子 高峰秀子 市川雷蔵
1967年日本

作品中登場する曼荼羅華。加恵はこれをキチガイナスビと呼んでいて於継から「朝鮮朝顔。曼荼羅華ともいうのよし」と教えてもらう。今では主に「ダチュラ」「エンジェルトランペット」と呼ぶ花である(細かく言うと違う種類とかであるのかもしれないが)有毒なので気をつけねばならない花であることは間違いないようです。

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2008年10月16日

『黒の報告書』増村保造

黒の報告書.jpg

なかなか面白い作品だったのだがそれと気づくのに時間がかかってしまうというちょっと癖のある作品だった。

ある社長の殺人事件、社長の秘書であり愛人である女性、社長の妻と浮気相手の元秘書、痴情と金が絡み悪徳弁護士が乗り出してくる。
いかにも、という法廷サスペンスもので主人公はまだ経験の浅い若手検事という設定である。
今これを観ていると問題になってしまうのが未熟な若手検事を演じているのが宇津井健だということなのである。
なにしろこの「若手」検事が血気盛んなばかりで「東京転勤」という褒美欲しさに与えられた事件の犯人を必ず「有罪」にしてみせると張り切る。がんがん証拠を握っていく過程は調子よかったが東京から来た敏腕悪徳弁護士が敵に回り法廷では証人が殆ど弁護士側に行ってしまい、窮地に立たされては物凄い感情的に叫びだしてしまうのだ。
観ていると一体これはどういう愚かな検事かと呆れてしまい映画としても退屈を感じてしまうのだが無論これは「若手」検事の未熟さという演出なのであって宇津井健が下手だとかいうわけではないのだろう。
ただし今これを観ているとなかなか同情すべき「若手」検事さんに共感がしにくい。
というのは宇津井健さんの印象のせいなのだろう。こうして観ていても宇津井演じる若手検事が結構年齢が行っていて(検事としては若いのかもしれないが)「若手」という印象が持ちにくい。その上、どうしても宇津井健さんという方は経験深い年配というイメージがあるので「どうして彼がこんなに未熟で愚かなんだろう」と首をかしげてしまうのだ。
例えば立場は違うが『レインメーカー』で老獪な弁護士(ジョン・ボイト)と懸命に戦った若手弁護士のマット・デイモンに対するような感情移入がしにくい。
せめて宇津井健があんなにわめくような追求をするのではなかったらもう少し共感しやすかったのではないかと思うのだが。
あんなに感情的な質疑をする検事がいるのだろうか。
私はほぼ最後近くまで彼の意味がよく判らず、最後の最後で「これは裁判や法律というものは老練の知識があるものが勝つ」という話をやっていたのだと気づいた。
未熟な若手検事は最後まで女性への態度も未熟であり愚かである。ここでも経験ある先輩検事に諭されて大人しくなるという不恰好さを演じて終わる。
とても面白い内容だったのだがどうして宇津井健にこの役をまかせてしまったのか、当時としては彼でよかったのか、彼がこの役であった為に訴えたいことが伝わりにくいと感じられたのだが。

この作品で凄くよかったのは若手検事を「息子のように」思って懸命に証拠を探し回る津田刑事を演じている殿山泰司。
ほんの脇役ではあるのだが唾を飛ばして目をむいている若手検事とは逆にひたすら歩き回って証拠を集めようとする老刑事の姿が渋かった。落ち込む若い検事を励ます優しさがかっこいい。

とにかく宇津井健じゃなかったらもっと(せめて知らない役者さんだったら)面白かったろうに、と残念である。

さて犯人を有罪にできたら東京へ栄転となるはずだった彼はこの失敗により「青森へ転勤」となってしまう。宇津井健のがーんと落ち込んだ顔
。うう、青森転勤ってそんなに嫌なことなのね。
「なんとか2,3年で戻れるようにするから」とか言われて。青森だっていいとこかもしれないじゃないか。ぷんぷん。ま、当時はそういう感覚だったのだろう。
かくして未熟な若手検事は青森で修行することになり幕は閉じたのだった。

物語は今観ると陳腐にも思えるがこの作品が後の法廷ものやサスペンスに影響を与えているのかもしれない。
それにしてもやはり展開の早さは小気味いい。冒頭の殺人現場の死体に大きな花瓶と花が散らばっているなど印象が強い。但し散らばっている花が白菊に彼岸花というのはやはり昔っぽい。
昔の映画を観ていると当時の様子が色々と伺えてそれだけでも楽しいものだ。主人公がいる建物の部屋なんかが物凄く狭いのだがこれは普通だったんだろうか。異常なほど狭いのだが。

監督:増村保造 出演:宇津井健 殿山泰司 叶順子 高松英郎
1963年日本
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2008年10月11日

『くちづけ』増村保造

くちづけ.jpg

『陸軍中野学校』『兵隊やくざ』『ある殺し屋』と大好きだったのに増村作品を追うことはしてなかった。先日『盲獣』がダメ押しに面白くこれはやはり増村作品を観ていくべきだとやっと思いついた次第。
この作品が映画監督デビューである。
1957年の作品で初作品ということでかなり荒っぽいのだがつい引き込まれてしまう疾走感がある。物語自体はなんともあっさりし過ぎてそれで終わりかいと突っ込みたくなるものだ。
それでもいい映画を観たなという気持ちになってしまう爽快感がある。

主人公欽一の拗ね方と生き方は今の若者とそう変わらない軽さがある。貧乏そうに見えてワリにあっけらかんと金のつてがあるのも昔の映画によくある貧相さがなくて明るいのだ。
二人の男女が出会う場所が刑務所の面会室の廊下というとんでもない所なのである。
二人の父親は両方とも10万円の保釈金を必要としている。欽一は父親と離婚した母親が今は羽振りもよくなっているのを見かけ自分を担保にして金を貸して欲しいと頼む。
欽一と出会う少女のほうは病気の母親を抱えヌードモデルの仕事でなんとか稼いでいる。こちらは何のあてもない為仕方なく金持ちの画家の息子と付き合う(つまりは体を売るという)ことで10万円を手に入れようとする。
こちらもあっけらかんとした明るいちょっと風変わりな少女でしかもすばらしいプロポーションで魅力的なのだが仕方ないとはいえ金持ち息子に金を要求した後びくびくしたりどら息子を追い出して10万円の小切手を渡そうとする欽一に何故どうしてと問い詰めて「くちづけ」をされ「これで理由ができただろ」と言われ「愛していると言ってほしいの」と言って泣き出したりする部分は欽一じゃないけど面倒くさい女と言う感じで興ざめである。特にあの変な泣き方は不気味だし。この辺は「昔の女ってこれだからやだ」って感じなのだ。
むしろ欽一と母親の関係がちょっと面白い。自分を抵当に入れて金を借りるとか息子が好きになった少女を見て「おもしろそうな娘だね」と言ったり少女とその父親が刑務所から歩いていくのを「送ってやろうか」と母が言うのを欽一が「へー」と感心して見せる箇所なんかは「進んだ母子関係」という感じでちょっとかっこいいのである。

タイトルの「くちづけ」はすれ違っていた欽一と少女が最後(のちょっと手前)で行うわけだが、モノクロームの画面に光と影が交錯する中、最初激しく続いてゆっくりと唇を重ねる、という演出でこれもとてもキレイなものだった。しかしこれって結局欽一は無理矢理「好き」と言わされたみたいにしか見えないんだけどね。まあ女は言葉が欲しい、ということなんだろうか(私も女ですが)

それにしても昔(1957年頃)の映画というのはそれだけでも面白いものにはなってしまう。
いきなり競輪場で当たって金儲け。友人のバイク屋で他人が預けているバイクを借りて乗り回す欽一。ヘルメットなしでスカート横座りのタンデム。海に行って水着を買い少女の水着姿を見て「すげえいい体してんなあ」と言う。物凄い人混みの中で泳ぎまわり水着のままローラースケート。
しかも増村監督の映像はぽんぽん変わっていくのでめまぐるしい。ちっともじっとしてないのだ。人間の動きもやたら早い。
単純な物語ではあったけどこの展開の早さと二人のキャラクターがなかなか面白かったのでついつい観てしまったというところだろうか。
少女がもう少し違ってたらなとは思ってしまうが。

欽一役の川口浩と少女役の野添ひとみは後に実の夫婦になってしまうわけである。
この時の二人は本当に若々しい魅力に溢れていて増村監督初作品にふさわしい初々しさである。

欽一がなんでもあっけらかんとやってしまうのが凄いとこで誰に対してもまったく物怖じしないし、バイクもローラースケートもやれてピアノもしっかり弾けてしまう。当時の独特の三輪車に乗っていてもかっこいい男なんである。今はなんでもダメ男を演出するんだけどね。

監督:増村保造 出演:川口浩 野添ひとみ 三益愛子
1957年日本
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2008年09月26日

『盲獣』増村保造

盲獣.jpg

先日も江戸川乱歩原作のオムニバス映画『乱歩地獄』を観たわけだがそれより遥かに昔勝るとも劣らない迫力ある作品である。
江戸川乱歩の映画化というのはまず興味はそそるが原作を知る者ほどがっかりしてしまうことがある。この作品はそういう類ではないのは確かだ。
というのは原作『盲獣』のイメージだけを取り上げて複雑な内容を思い切りシンプルにまとめてしまったせいもあるのだろう。
舞台は展示場とアパートと隠れ家の3箇所のみで登場人物も美しい女性と彼女を誘拐する盲人の男とその母親の3人だけである。
ヌードモデルをしている女性アキの魅惑的で奔放なヌードが写真展示場で示される。当時の革新的なヌード写真のイメージがよくわかる。単なるヌードではなく革命的な女性という意味を持つものらしい。
まだ人の出入りもない頃に彼女のヌードを元に彫刻家が作った裸体像を撫で回している男がいた。それが盲目の男・道夫で彼はアキの裸体像の美しさに惹かれ彼女を誘拐する。
と、ここまではよくある(?)異常者の話なのだが盲目の道夫の共犯者が彼の母親なのだ。
彼女は母親の持つ異常な情熱で持って息子の犯罪に手を貸し、逃げ出そうとするアキを取り押さえ息子が特技である彫刻がうまくはかどる様手助けするのだ。
盲目の道夫のアトリエの異常な造形が凄まじい。道夫が目が見えない為に灯りのない部屋で懐中電灯で照らすことで浮かび上がらせより恐怖感や異常性を印象付けている。巨大な女性のオブジェの上でもつれ合うアキと道夫の姿はなんとも言えずグロテスクである。
そしてさらに物語はおかしな方向へ向かっていく。監禁された無力の女性であるアキが道夫を取り込み始め母親にたてつくよう仕向けていくのだ。女性を知らない道夫に心を開いて愛しているかのように見せかける。今まで寄り添って生きてきた盲目の道夫と母親がいがみ合う様子を見つめるアキの目は嘲笑っているかのようで立場が逆転してしまったかのようだ。
息子のために誘拐してきた女性が途端に煩わしくなった母親はそれまでいつも従っていた息子に背いて彼女を逃がそうとする。
アキに夢中になっていた道夫はついに母親を殺害してしまう。
そして二人はさらに異常な性愛へと溺れていってしまうのだ。
盲人を卑下していく描写や監禁された女性が男を愛してしまうという筋書き、さらに互いの体を切り刻んでいくという惨たらしい結末のどれをとっても今では映画になどできそうにもない。教訓めいたこともなくまるで人間は誰でも何かのきっかけで異常な性愛に目覚めてしまうのだ、といわんばかりであり、その先には死しかないということが彼らの愛の行き止まりを確認させるだけである。

道夫を演じた船越英二が鬼気迫るねちねちとした嫌らしさであり、どうにも気色悪いが無論それでいいのである。
アキ役の緑魔子のもしかしたら彼女の方が盲獣なのかもしれない。監禁され触感の喜びを知るようになってから彼女自身も目が見えなくなり触覚だけが研ぎ澄まされていく。そして体が受ける感覚だけが快感になり次第に痛みを求めていくようになるのだ。
閉ざされた部屋のオブジェの上での二人の絡みは映画というより舞台劇のようでもあり暗闇の中で互いの体を弄ぶことだけが快楽となった男女の性愛が描かれる。
「痛み」を扱った映画をこれまでも観てきたがここまで直接ではっきりと表現したものもあまりないだろう。
江戸川乱歩の原作でありながら古き時代のエロティシズムなどという逃げ方ではなくこれもはっきりとした変態性愛としかいえない形で表している。道夫の盲人である悲しさと滑稽さと恐ろしさも隠すことなく暴かれてしまっているのである。

監督:増村保造 出演:緑魔子 船越英二 千石規子
1969年日本
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2007年03月25日

「兵隊やくざ」増村保造

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昨日観た「陸軍中野学校」と同じ監督と知らず観てしまったのだが、こちらはうって変わって目茶目茶面白いものだった。

「中野学校」の方はやたらと規律だの面子だのが重要視され人の命が軽んじられて嫌悪感がつのったものだがもっと以前に作られたこちらの方が人情味溢れて生命を大切にしているのは不思議だ。天皇陛下のため、国のためという言葉もここでは皮肉に使われている。(というか後になる方が妙に懐古趣味になるものか)

日本の戦争映画というのをそれほど観ているわけではないが、こういう爽快感があるものというのは珍しいのでは、と感じた。戦闘シーンは全くなく、関東軍兵舎における内部での人間関係のみに焦点が置かれているのもシンプルで面白い。

ソ連(ロシア)国境近くの満洲・孫呉のその兵営はまさに巨大な刑務所だという。そこでは連日新兵が上官に殴られ続けていた。
(ちょうど読売新聞で亡き城山三郎氏が志願して入った海軍で朝から晩まで殴られずくめの絶望を味わった話を読んでいた)
そこへ新しく入ってきたのが浪曲師になりそこねヤクザをやっていた大宮貴三郎だった。殴られてもちっともこたえず、滅法荒っぽいこの男の面倒見を上官は三年兵・有田に押し付けてしまう。
大学卒のインテリで戦争を嫌い、幹候試験をわざとすべった上等兵・有田はこの常識はずれの荒くれ男をすっかり気に入ってしまうのだった。

現在の感覚では全く理解しがたい、何の根拠も秩序もなく拳を受け続けなければならない新兵たち。
人並みはずれた頑健さを持ち(スタミナはなかったけど)嬉しくなるほどの腕力を持つこの大宮という男は当時暴力を受け続けていた人にとってはヒーローなのではないかと思ってしまう。こんな男がいたらさぞやすかっとするだろう。なにしろ元ボクサー相手でも最も手強いという炊事兵(炊事兵ってそんなに強いのか)が束になってかかっていってもぼかんぼかんやっつけてしまう。だがそこは規律のある軍隊、暴れた後は制裁が待っているが大宮を可愛がる有田は持ち前の頭脳で彼を守り続ける。荒くれ大宮もそんな有田を上等兵殿と呼んで慕うのである。

有田がなぜそこまで大宮を好きになりいちいち構うのか、ちょっと奇妙ですらあるのだが、自由を求めるインテリ有田が奔放な大宮に何かを感じるものがあったのだろう。
シリーズで続く為もあるが(ははは)大宮が南方戦線に送られそうになっても「ずっと一緒だ」「離れない」などと言い合って深い絆を結んでいくのである。

大宮を演じる勝新太郎は他に考えられないほどはまり役で確かに可愛い(と有田さん曰く)が、田村高廣のインテリ有田のメガネ顔が素敵なのである。ヤクザな大宮を気にかけ可愛い奴というその思いもステキなのである。それにインテリで腕力なしと言っても度胸はあるし口がうまいし不思議な調合の男らしさを持っていて凄くかっこいいのであった。

戦闘シーンはなくとも戦争によって生み出されていく理不尽さ、冷酷さはこのような形の映画のほうがより伝わるような気がする。戦争しないで内部でこうも潰しあっていてはしょうがないと思うのだが、事実このようなものだったのだろう。
必ず上等兵殿を救う時が来る、という大宮は戦況が悪化して日本に戻れなくなった有田を脱走させると誓う。
強奪した機関車の先頭部に大宮と有田が乗り大陸を走っていく。最後もかっこいい。

監督:増村保造 出演:勝新太郎、田村高廣、淡路恵子、成田三樹夫
1965年日本

成田三樹夫がここでも嫌ーな役で登場してたのがうれしかった。

ところでこの話、ちょっと「盛夏光年」思い出させます。だって荒くれとインテリでインテリが荒くれの面倒をみろと上官におしつけられるんですからね。正行と守恆みたいでしょ。
でも有田さんは大宮が気に入っちゃうし、大宮も有田さんと離れたくなくて、南方戦線に送られそうになると二人とも悲しくなってどうにかしようと画策するし、こんな深い友情というのか結合というのか他にはありませんね。なんとかして二人一緒にいられるよう滅茶苦茶頑張って成功するんですから凄い。
そういえばちゃーんと慧嘉役の娼婦(いや慧嘉は娼婦じゃないですけど)も出ています!そういえば二人と仲良くなってるし。
不思議だなあ。こういう話って結局そういう風になるのかな、それとも私がそういう話が好きっていうだけかも?

「軍隊は階級じゃねえ、襟の星の数よりメンコの数のほうがものをいうんだ」
メンコってナンなのかわかんないんですけど、とにかく階級より長く兵隊やってる方が偉いらしい。つまり伍長で2年兵より上等兵の3年兵の方が格上らしい。ははあ。

追記:メンコというのは「めし・食器」のことらしい。つまり軍隊生活が長いというなのだ。なるほど。
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2007年03月24日

「陸軍中野学校」増村保造

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日本で初めての諜報機関員養成学校を題材とした作品で昭和十三年、緊迫した世界情勢の中での物語であるが私にはそうした政治的歴史的背景とこの映画をつなげて論じるような事はできないので単純にこの作品についてのみ考えてみる。

実在する諜報部員養成施設の成り立ちを描いているわけで物語は極端にシリアスである。
その誕生は草薙中佐という一人の男の夢・英国諜報部に負けないものを日本にも作りたいという熱意のみで成されたものなのだった(映画の中では)
陸軍からは認められていない個人の寺子屋的施設ということでまるで学校内で無認可で部活をしているかのような侘しさがある。
集められた青年達はいずれも将来有望な才能溢れる者ばかりということでますます少年漫画でよくある才能ある奴を集めて野球部を作る的な雰囲気である。
主人公は次郎演じる市川雷蔵だが多くは青年達の青春群像劇として物語られていく。
草薙中佐は青年達にスパイがいかに過酷であるか、だが自国のために必要であるかを説くのだが、ここではすべて口頭のみの説明に過ぎないのでスパイに関する数少ない自分の知識を思い浮かべるしかない。
スパイというとすぐに思い起こすのはそれこそ英国諜報部員007だがあの華やかなる世界と違い、本作の学校は貧乏でしんみりしてしまう。私はまだ観てないが「カジノロワイヤル」と見比べてみてもいいのかもしれない(そんな人いないか)
最初は乗り気でなかった青年達が草薙中佐という先生の熱意にほだされ次第に愛着を持っていく様も運動部のノリを感じさせる。それにしても登場人物たちの考え、行動に対して強い反感を持ってしまうのは同時代を生きていないからなのだろうか。
スパイにとって大切なのは誠の精神だとか盗みを働いた仲間に「先生に迷惑がかかるから」と腹切りを強要したり恋人を思ううちにいつしかスパイ活動をする羽目になってしまった婚約者を憲兵に突き出そうとしたり(先生に止められ、殺してしまう。どっちもどっちだ。好きな人の手にかかって死ぬ方が幸せですと)そういったエピソードが当たり前のように出てきて「やはりこの時代の日本は怖い」と暗澹たる気持ちになったりする。

主人公・次郎を演じる市川雷蔵があくまでもクールで二枚目であるためにますますこの狂った状況が恐ろしい。
それでも雷蔵はやはりかっこよくて話の云々より彼の美貌を観る為にのみ鑑賞したほうがよいのかもしれない。

だがこの映画はとても観たかったものでやはり観てよかったと思う。この不条理な世界は今作ろうと思っても作れそうにない。
ストーリー自体は諜報部員になる為、親も恋人も切り捨て訓練に没頭する次郎と音沙汰なくなった恋人・次郎を探す雪子がいつしか英国のスパイになるという皮肉を絡ませ面白いものであった。
一流のスパイになるためにダンスを習得したり女性の性感帯を勉強したりなどという箇所もある。この辺ばかり興味をもつ人もいそうだけど。

この作品はシリーズで5作品あるようだ。2作以降は全く違う娯楽作品になるらしい。一応007シリーズを意識して製作されたということでこれらも観ていきたいものである。

監督:増村保造 出演:市川雷蔵、小川真由美、加東大介、村瀬幸子、早川雄三、待田京介、仁木多鶴子、三夏伸、仲村隆、ピーター・ウイリアムス、E.H.エリック
1966年日本

小野田 寛郎さんが陸軍中野学校卒業生だったと今頃気づく。
ラベル:戦争 増村保造
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