映画・ドラマ・本などの感想記事は基本的にネタバレです。ご注意を

2009年03月24日

『情愛と友情』ジュリアン・ジャロルド

BRIDESHEAD REVISITED3.jpg
BRIDESHEAD REVISITED

「僕はあの夏、美しい青年に愛された」の美しい青年はベン・ウィショーのほうだったのね。

お世辞にもベンは「美しい青年」ではないと思う。明らかに変な顔だし痩せっぽちすぎてややキモい。私が肉太体型が好きなので余計そう思うのかもしれないけど小柄で痩せ型でかなりファンキーな感じである(と書いてしまってファンクの意味を見たら「怯える」「逃げようとする」「鬱」「臆病」だって。この映画のセバスチャンにぴったりじゃないか)と思うのだが何故か物凄く惹かれるのである。嫌だ嫌だと思いながら目が離せない顔なのだ。
眉は太くて八の字になってるし頬はげっそりとして皮膚が爬虫類みたいだし、首も肩も華奢というより肉がなくて頼りない。目がぎょろりとして鼻ばかりでかいしそういった造作だけではなくなんだか全体から滲み出るものが気色悪いのだ。
この映画ではさらにゲイであり、オネエ的な仕草が加わり、「オゾッ」とする感じがいや増しているのだからもう堪んないのである。
そして私としてはそういうベンが好きだったしこの映画でまたさらにぞっこんになってしまった。
今までの彼の観れる映画は観てきたが大出世作の『パヒューム』は無論のこと、どれをとっても変人な役だ。
本作でもその変人さはしっかり発揮されていて熊のぬいぐるみを抱いて登場する。とはいえそのぬいぐるみは途中でどこやら行ってしまうのでライナスの毛布のような存在ではなかったらしい。且つ惜しむらくは彼は主役マシュー・グード演じるチャールズ・ライダーの回想の人物でその関係は一時期におけるものなので後半次第に消えていってしまうのだった。
とはいえ主人公チャールズ・ライダーの回想という物語の中でベン演じるセバスチャンが最も美しい存在として存在するわけである。
イギリスの貴族であり敬虔なカソリック家族であるフライト家の次男セバスチャンは家族の中で最も威力を持つ母親の支配から逃れようと苦しんでいた。
セバスチャンは自由なチャールズを気に入り二人の友情は次第に深いものになっていく。ある日セバスチャンがチャールズを家に招いたことでチャールズは彼の母、妹、兄と知り合う。そのことが無神論者に近いチャールズとカソリック家族との長い軋轢の始まりとなった。
チャールズは裕福でもなく熱心ではない普通の英国国教会の人間なのでフライト家、特にセバスチャンの母親からは軽侮される身である。
チャールズはセバスチャンに強い友情を持ち、妹ジュリアにも恋心を隠さなかった。二人はチャールズを介してカソリックと母親に対抗するのだが。
なかなか面白く見せてくれる作品だったが、散々言い尽くされた感もあるという感覚は否めない。
ジュリアン・ジャロルド監督は『キンキー・ブーツ』の時もそうだったのだがゲイの要素は見せるのだが結局は女性の方へ行く、という肩すかしなところがあってだからと言って女性との関係がそうそういい感じでもなくどこか物足りないなあという印象を与えるのだ。
原作がそういうものだからなのかもしれないが(未読なので何とも言えない)ところどころ腑に落ちない台詞なんかがあって例えばヴェニスに住む父親の愛人がチャールズに向かって「あなたにとっては一時的な付き合いでもあの子には違うのよ」だとか学友からも「お前が生贄かと思っていたらあいつらが生贄になっていたんだ」だとか、まあ彼らがそう思っただけ、という言い訳はできるが台詞というのはやはり物語を説明するわけだろうし、とはいえセバスチャンがチャールズ一途かといえばそれまでだって仲良くしてた者もいるしチャールズがいなくなっても別の男と関係があるのを見てもチャールズがその言葉で多少動揺してるのだがセバスチャン自身は様々な恋の中の一つだっただけのようだし、しかも学生時代のひと夏にキスを一度しただけにしか過ぎなくてチャールズだけが気に病んでて貴族様は別の恋愛を育んでおられたようだ。ジュリアにしても果たしてチャールズだけがお相手だとは今後を含めば限らない。それにチャールズ自身の愛情もモロッコにいるセバスチャンを僅かな会話だけであきらめて帰国したりジュリアがなびかないのを見てあっさり突き放したり、とさほど彼らに深い愛情を持っているようには思えない。「あなただけを一途に愛します」といった韓国ラブストーリーに慣れてしまった感覚としては実に冷淡に思えてしまう。韓国映画だったら宗教に負けじと尽くし抜くんだけどねえ(『シークレット・サンシャイン』)
実に淡々と過ぎ去った恋愛を思い出すチャールズの物語でさほど燃え上がるわけでもなく本人は愛し抜いたと思っているようだが傍目にはあっさりした愛情と友情のように見える。

ところでセバスチャンといえばカソリックでゲイと噂される聖セバスチャンから取られたのであろう。裸体で矢を射られ苦しむ姿で有名な聖セバスチャンのイメージはセバスチャンにぴったりである(よく裸体で登場するし、苦悩してるし)
また主人公が青春期にまず同性を愛し、次に異性を愛する(その肉親である場合も)という話はやたら多い。
『トニオ・クレーゲル』『草の花』『モーリス(主人公の元恋人がだけど)』など。わかるけど異性の部分はごまかしのような気がしてしまうのだよね。
やはり本作にしてもノスタルジックな覆いをかけ、また途中から異性を愛することでどこか逃げを打っているような気がしてしまうのである。

などとまあ随分責め立ててしまったがそれでもこれはやっぱり見逃せない映画ではあった。
何と言ってもベン・ウィショーとマシュー・グードを観ているだけで充分だ。
ベンはもう滅茶苦茶可愛かった。さりげなくキスするのもいいし、大好きなパパの横に座ってパパから肩を抱かれるとすっと頭をもたせ掛けるとこなんて可愛いったらない。
じっと見つめる眼差しも愛おしくて切ないんである。
二人の美しいひと夏の思い出を観れるならそれだけでもういいのかもしれない。

監督:ジュリアン・ジャロルド 出演:マシュー・グード ベン・ウィショー ヘイリー・アトウェル 
2008年イギリス


posted by フェイユイ at 01:03| Comment(2) | TrackBack(0) | ベン・ウィショー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月26日

ベン・ウィショー『情愛と友情』Brideshead Revisited

Brideshead Revisited2.jpg
Brideshead Revisited

フランさんのコメントでちょっと気になって調べたベン・ウィショー近況。
日本未公開ですが、こういうDVDが出るのですねー。

『情愛と友情』

僕はあの夏、美しい青年に愛された。

ですか?!
なんだか気になります!!!
監督は『キンキーブーツ』のジュリアン・ジャロルドですし。
ベンはまたまた変な人みたいですねー^^;
ディズニー作品というのがなんとも。
絶対観たいです。



探すともっとありますが観れすぎて困りますので興味のある方はBrideshead Revisited でどうぞ。
posted by フェイユイ at 22:13| Comment(2) | TrackBack(0) | ベン・ウィショー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年11月13日

歌と放浪は続く『アイム・ノット・ゼア 』

im_not_there-poster.jpgI'm Not There2.jpg
I'm Not There

再び観たことでほんの少し混沌の中にも道筋を見つけられたかもしれない。
改めて観てみてやはり素晴らしくですっかりのぼせ上がってしまった。当のボブ・ディランを知らずして映画で表現されたイメージに恋するのも奇妙なものだが、流れてくる歌声を聞き、歌詞を読み、様々に創造された男の姿を観続けるうちにこの歌手がどんなに人々に感銘と影響を与えたのかということに思いを馳せてしまう。
歌というものが大きな力を持ち多くの若者に「何かが変わるのではないか」と思わせた時代。だが目に見えて何かが変化するということを感じるのは難しい。歌うものも聞くものも何かを求め、期待し、裏切られ、傷ついていく。時が流れ、それでも何かが変わっていく。

6人の表現者が1人の男を演じている。1人の男であって、様々な顔を持つ捉え難いイメージだ。
私がぞっこん惚れてしまったのは歌手ボブ・ディランが憑依したかのような(と思われる)ジュードを演じたケイト・ブランシェット。
他の男性たちと比べものにならないほどかっこよくて煙草を吸う仕草、口や鼻をこすったり、ぼんやりとした表情で歩いていく場面なんかもめちゃかっこいいんである。歌っているような話し方、そしてあの眼差し。もうすっかりビアンになってしまったかのように好きになってしまった。
女性なだけあって繊細で華奢で美しい彼である。
私は歌手ボブ・ディランをまったく知らないのだがサム・ペキンパーの映画『ビリー・ザ・キッド 21才の生涯 』でナイフ投げの名人という役を演じた彼を観た。無論有名な歌手であることは知っていたわけだが、「こんなか細い男があんなに力を持った歌手なんだ」と驚いたものだ。
ほっそりとした体にもしゃもしゃとした髪の若者、うつむき加減で内気そうで無口だが話すとどきりとするようなことを言う男。
最後、空中にぷかりぷかりと浮いていたのはケイトだったのだろうか。とても印象的なこれもイメージである。
歌っている顔、ギンズバーグと話して珍しくとてもうれしそうな子供みたいな彼などケイトのジュード=ディランを見たら好きにならずにはいられない。

ちょっと損な役回り、というのかモノクロでバストショットだけの登場。ベン・ウィショーのアルチュール=ディラン。放浪の詩人だったアルチュール・ランボーのイメージと重ねて。
いやこの顔が好きで(笑)
ステキだ。
ただの進行係というような感じ。解説。弁士。でも重要だ。彼の存在も。
可愛いなあ。どう見てもイギリス人だ。
もっと見たかった。

マーカス・カール・フランクリンのウディ=ディラン。なぜ彼が黒人の放浪少年なのか。ウディ・ガスリーというのはボブ・ディランが傾倒した歌手の名前らしい。
孤児院から脱走したさすらいの少年歌手、というのはボブ・ディランのイメージだったんだろうか。実際の彼は普通の家の普通の少年だったらしいのだ。
あてもなく歌を歌いながら彷徨う少年、というイメージは最もボブ・ディランにふさわしいものなのだろう。
ギターという武器だけを持って。

ヒース・レジャーのロビー=ディラン。一番生々しいというのか素の人間としてのイメージの彼。
その分、ファンとしてはもっとも見たくない部分なのかもしれない。といってもどこまでがほんとうでどう虚飾されているかは全然わからない。
歌手ではなく俳優としての彼の姿として登場。私は先に書いた『ビリー・ザ・キッド 21才の生涯 』でのみその姿を観ただけだ。
ヒースファンが名残惜しんでこのロビーパートを観るのだろうな。パートと言っても複雑に織り込まれているからそこだけ観るのは難しいが。
ヒースは一番地味な彼を演じてくれている。と思うのは私がこういう恋愛や家庭の部分に興味が薄いからでそこに興味がある人にとっては一番華々しい部分なのかな^^;かもしれない。一番甘く一番苦い彼のイメージだ。

クリスチャン・ベイルは最も彼の尖った部分を、リチャード・ギアは他のとは全く違う姿を演じている。
というか映画はギアが貨車に乗り込んでいる場面から始まって(というのは、ほんとうは正確な表現ではないが)そこから黒人少年が同じように貨車に乗り込んで旅をする場面へ続くので成長した彼の姿、というイメージなのかもしれない。
そして最後はギアが列車で去っていく場面で終わっている。何かがまた変わっていくことを予感しながら。ギアのパートは特に意味不明でどういう意味のエピソードなのかよく判らない。ほんとうに起きたことなのか。彼が住む山間の村に道路が通ることを村人を代表して反対するという話である。村には仮装した子供達がいっぱいいて、きりんなんかもいたりする。不思議な夢の村のようだ。時代も古めかしく見える。もしかしたら彼が大事にしたいと思っている歌の世界を破壊されることを喩えた逸話の世界なのだろうか。
そこから旅立った彼はどこに行くのだろう。

そういった6つの違ったイメージが時系も真実か嘘かも混沌として時に長く時にワンショットのみで複雑に構成されていく。
自分はそういった構成の作品が凄く好きな上に初めて聞いたのに素晴らしく強烈な歌と放浪の場面が繰り返し続きなにか夢見心地で観てしまったものだ。
もしかしたらボブ・ディランその人を知らないほうが受け入れやすい映画なのかもしれない。またあまりそのことに捉われすぎず観たほうがいいのかもしれない。
ボブ・ディランという人は過去の人ではないだろう。この映画の最後の場面のように旅は続き歌は続いていくのに違いない。

監督:トッド・へインズ 出演:クリスチャン・ベイル ケイト・ブランシェット マーカス・カール・フランクリン リチャード・ギア ヒース・レジャー
2007年アメリカ
posted by フェイユイ at 23:23| Comment(2) | TrackBack(0) | ベン・ウィショー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年09月30日

『ヴェニスの商人』マイケル・ラドフォード

FjXl.jpg

意外と最近作られたものだと後で気づいた。有名な古典名作なので何度も映画化されているのかと思ったら初の映画化ということだ。
やはり人種的問題があったということなのだろうか。

『ヴェニスの商人』と来ればシェイクスピア作品の中でも最も有名な喜劇であり、舞台は観なくとも小さい頃小説化されたものを読んだり、内容を聞いたりしたことはあるという人が多いのではないだろうか。
私も子供時代に簡単な小説になったものを繰り返し読んだものだ。
何と言っても金儲けの権化であり悪役の代名詞のようなシャイロックから苛められるアントーニオ、バッサニオの友情と美しくも賢いポーシャの明裁判に夢中になったものだ。
だが反面ひっかかるところもあって「肉を1ポンド切り取る」というのならそれはアントーニオが切り取って返すべきなのであって「血は含まれない」などと言われてもアントーニオの責任ではないのか、と子供の頃は憤慨していた。どっちの味方かわからないが。
改めて映画で観たらシャイロックが「心臓近くの肉を1ポンド切り取らせろ」と(日本語訳では)言っていた。惜しい。私が思ってたように「心臓近くの肉を1ポンドよこせ」とだけ言えばよかったのだ。そうすればシャイロックに流血の責任はなくなる。
とはいえ、この映画の状況ではどうしたってシャイロックはやり込められていたのだ。
問題は非キリスト教徒であるユダヤ人をどう「苛めるか」だけにあるのだから。

非キリスト教徒でありユダヤ人でもない自分はこの物語を単なる「面白い話」としてしか読んでなかったのだが、欧米では「悪しき物語」として認識されているらしい。
映画を観るとなるほど、と頷けるのだがユダヤ人はキリスト教徒ではない人非人で金の亡者だという刻印を打たれており、ゲットーに押し込められ自由な出入りもままならず、決められた服装を義務付けられているという殆どナチスを思わせる待遇なのである。
いわばキリスト教徒全体がナチスのようなものではないか。一見優しく友人思いのアントーニオらのユダヤ人への蔑視と唾を吐くなどといった態度の酷さを見るとシャイロックがあのような反撃に出たのも無理もなかろうと思わされる。
だがしかしシャイロックの反撃もほんの短い間だけのものであり、結局はキリスト教徒たちに打ちのめされてしまうのだ。
足元をすくわれ「キリスト教に改宗しろ」という人間の尊厳を全く無視した罰を与えられるのだ。「無慈悲に人の命を奪おうとした罰だ」ということになってしまうのだが、無論シャイロックが何故そこまでねじくれてしまったのかは無視される。途方にくれ立ちつくすシャイロックの姿は無残である。

この映画の面白い所は原作をすっかり作り変えてしまうのではなく、(多分)シェークスピアの物語はそのままにしておきながらユダヤ人であるシャイロックの悲劇を描いているところだろう。
それゆえに一応視点はアントーニオ、バッサニオ、ポーシャ側に置かれているのでややもすると誤解されてしまうかもしれない。
これは悪の権化シャイロックを懲らしめた喜劇からどうしてシャイロックがそのように描かれなければいけなくなったかという悲劇になっている。
アントーニオたちは原作と同じように動いているものの、シャイロックの悲しみから見ればいかにも浅薄な連中としか見えない。生まれつき裕福で迫害される事のないキリスト教徒であり、容姿も人間関係も何一つ不自由のない恵まれた者たちである。
シャイロックたちユダヤ人は赤い帽子を目印にされしょっちゅうキリスト教徒から唾をかけられ「利子をとって金を貸すのは悪行だ」と橋から突き落とされるのだ。なのに困った時だけ「金を貸してくれ」と頼みに来たアントーニオ、バッサニオに復讐したくなったとしても無理からぬこととはいえないか。
そしてシャイロックに金を借りたバッサニオだが元々彼は放蕩して金を使い切ったようなだらしのない男なのである。それが金持ちの娘を好きになって求婚したいと思ったのだが、金のないままで行くのは恥ずかしい、と見栄をはっただけなのだ。こいつがその美貌でもってアントーニオに甘えて金を借りなければ(実はアントーニオとバッサニオは同性愛の関係でもあるのだ)シャイロックがあんな目にあおうこともなかったのに、と腹立たしくもなる。
賢く誠実な美女として登場するポーシャも自分への求婚者をあざ笑って見てたり、夫となったバッサニオから指輪をどこへやったのかと問い詰めたり意地悪な女なのである。最後「夫の親友なら歓迎します」と言っておきながらアントーニオをかまいもせずにバッサニオを初夜の床に誘うのは二人の関係を知った(賢いから)ポーシャのアントーニオへの虐めとしかみえない。

アル・パチーノ主演でありながら「反ユダヤ主義」の差別的作品と思われアメリカでは芳しい興行成績ではなかったらしい。
内容は以上のようなユダヤ人の悲哀を描いたものなのだが、それだけ『ヴェニスの商人』のイメージが強いというのとなのだろう。無論シャイロックを悲劇にすることで原作とは違う演出もなされているようだ。
ラストシーン、シャイロックの家から逃げ出した娘が指輪に触れながら悲しみにくれている場面で船の上から矢を放っている者が映し出されていたがあれは何の意味があるのだろう。気になった。

監督・脚本:マイケル・ラドフォード 出演:アル・パチーノ ジェレミー・アイアンズ ジョセフ・ファインズ リン・コリンズ ズレイカ・ロビンソン
2004年 アメリカ/イタリア/ルクセンブルグ/イギリス

これを何故観たのか、というとベン・ウィショーのプロフィールにこれに出てる、とあったからだったのだ。
しかし・・・判らなかった。ポーシャの使用人という話も聞いたのだが、よく判らない。何度も目を皿の様にして見たのだが(一体何を探してるんだか)見つからず悲しかった。
 
アル・パチーノ=シャイロックは見ごたえあった。さすが『リチャードを探して』で頑張っただけのことはある。
ジェレミー・アイアンズ、バッサニオに恋しながらも結婚をお膳立てするため命をかける男を演じていた。
ジョセフ・ファインズ、『エリザベス』では女王に恋され、ここではアントーニオとポーシャの両方に愛されるモテ男である。
リン・コリンズ、ベネツィア的美女の雰囲気確かに。男装してる方が美人だったりして。

追記:ベンの姿は見つけられなかったが、エキストラ的な感じで出演はしているとのこと。
探し出した人いるかな?
posted by フェイユイ at 20:35| Comment(0) | TrackBack(0) | ベン・ウィショー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年09月12日

『ブライアン・ジョーンズ ストーンズから消えた男』スティーヴン・ウーリー

uCAEW[Y.jpg

ミック・ジャガーとキース・リチャーズはかろうじて知ってはいるが(詳しいとはとても言えない)ブライアン・ジョーンズとなると名前を聞いたことがある、という程度。無論彼がどんな人物だったかなど何も知らなかった。

ゆえにこの映画は純粋に(ということはないだろうが)映画として楽しめた。私にとっては『アマデウス』を楽しむのと同じようなものである。
つまり「こんなイメージじゃない」とか「実際の彼は・・・」などという思い込みがまったくないのであるから画面に登場するブライアンをそのまま受け入れられたのであった。

監督が「ストーンズの映画ではなくブライアンの映画を撮りたかった」という言葉通り映像は金色の髪の王子様に見えるブライアンに焦点を絞っている。
そのために知らない者にとっても非常に入り込みやすく判りやすい作品だった。

美貌だけでなく聡明で音楽の才能に溢れていたブライアンは「ローリング・ストーンズ」を創るが目指すものが違う彼は一人違う世界に住んでいるようだ。
ブライアンがいた時のストーンズの演奏を見ても彼がシタールを抱え込んで座り一人異彩を放っている。
ファンだった人たちからは当然の光景なのだろうが初めて(ってわけでもないが)見る者には彼だけが違う空間にいるようだ。

物語はストーンズとブライアンというよりブライアンと彼の家の改築業者であるフランクとの関わりの方に重きが置かれている。
確かにブライアンにとってはアニタ・パレンバーグが重要な女性であって音楽仲間であるキースに彼女を奪われてしまう(といってもブライアンの頼りなさと暴力が原因なのだが)
が本作で描かれるのは、アニタを失ったその後の堕落していくブライアンなのだ。
この映画の中のブライアンは全てを失い人里離れた城に幽閉された王子そのものである。
その美しい家屋はかつて『くまのプーさん』を書いたA.A.ミルンが住んでいたものでクリストファー・ロビンの像もある。童話のような家でブライアンは夢の中に住んでいるのだ。

ブライアンは何故か改築業者のフランクに何かとかまい、からかったりわがままをぶつけたりする。
彼らの関係は不安定で奇妙なものだ。豊かでもなく冴えない外見のフランクは自由奔放でいつも美女を惹きつけているブライアンにのめりこんでいく。
夜中、プールでブライアンと二人きりになったフランクは彼を溺れさせてしまう。実際のフランク氏は死の床でブライアン殺害を告白したそうだが事実はどうだったのかそれは誰にも判らないのだろう。

ローリング・ストーンズファンにはむしろ不満な映画なのかもしれないが何も知らない自分にはとても興味深い作品だった。
異端児ブライアンのその生き様は自分が想像するロックスターのイメージそのままである。「幸せになるのは退屈だ」という言葉通り彼は幸せになることはできない人間だったのだ。

この作品を観た本当の理由はキース役のベン・ウィショー(『パフューム』の主人公)を観たかったからなんだけど。
ブライアンの彼女を盗った男の役なのに見事にちょっとだけだった。さすがにキースのイメージではなくておかしかったがまだキースが非常に若くて可愛い頃なのでこれでいいのかもしれない。
主人公ブライアン役のレオ・グレゴリーはわがままな天才を魅力的に演じていた。本物の映像の方が可愛いとは思うけどそれはしょうがない。

監督:スティーヴン・ウーリー 出演:レオ・グレゴリー パディ・コンシダイン デヴィッド・モリッシー ベン・ウィショー ツヴァ・ノヴォトニー
2005年イギリス

Brian Jones

The Rolling Stones - Paint It, Black
ミックめちゃかわいー(おいおい)

若い頃のキースとベン・ウィショーはよく似てて驚き。
posted by フェイユイ at 22:36| Comment(0) | TrackBack(1) | ベン・ウィショー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年09月09日

『パフューム ある人殺しの物語 』トム・ティクヴァ

pt[.jpg

最も酷い悪臭の街の中で最も素晴らしい香りを作ることができる主人公が生まれたという凄まじい映像の冒頭である。

匂いというのは生を示し、また死も表す。どんな人も死ねば悪臭を放つのである。また生きている間にもその人の匂いというものがある。
主人公グルヌイユは体臭がないという。現実にそういう人がいるのかは知らないがそのこと自体が彼が存在しているのかいないのか判らないという物語なのだ。犬ですら彼が通っても気づかないのである。
彼自身匂いがないというのは存在しないことなのだと嘆く。匂いを追い求める事が彼の生きる目的だった。その方法が普通の人間にとっては間違ったものだったとしても。

人は何によって幸福を感じるのだろう。多くの人は愛する人を見つけその人と愛し合い家庭を築くこと、と答えるのではないだろうか。人間が生物として存在するのならそのことが目的であるのは自然なことなのだろう。
作中で説明もあったが主人公グルヌイユは一度も愛し愛される事を望むことはなかった。
彼を観る者はその姿に哀れを感じてしまうかもしれないがグルユイユ自身はそれを求めてはいないのだ。
彼の目的は最高の香りを保管したい、ということだけ。
そしてその目的にたどり着いたのだから彼ほど幸せな人間はいない事になる。だが人は自分の価値観を他人にもあてはめてしまう。

匂いがない(存在しない)彼は匂いを求めそれを我が身の匂いにすることで存在を確かにしようとした。
だが愛することも愛される事も知らなかった彼はその方法によってもたらされる悲しみを気づく事はなかった。
自分の存在を証明することができればよかったのだから。

グルヌイユが作り出した匂いはなぜ人間の感覚を異常な状態にしてしまったんだろう。
彼はそのことを知っていたのか。なぜ若い女性の体臭を集めたものがあのような事態(最高に幸せを感じてしまう状況)に導いてしまうのか。私にはよくわからないのだが。
ただ彼がその力を何かに利用するということはなかったのだ。
彼がしたのは生まれた場所へ戻って体臭のない我が身に作り出した匂いのエッセンスを振りかけたということだけ。
そのために彼は愛され(食べられた?)この世から消え去ってしまった。それが彼の望みだった。幸せな人生。
望みを完全にかなえることができる人間というのはそういないだろうが、彼は自分の存在を確かめることができたのだ。
その幸せは他の者には理解し得ない幸福だがそれに近いものを感じる人もまたいるはずである。

「いい香り」というのは凝縮すれば悪臭になるという。逆に言えば悪臭とされるものを希薄することで「いい香り」を生み出すことがあるらしい。
好きな食べ物の匂いはいい香りだが他人の好物であっても自分が嫌いだと悪臭となる。
変な臭いが奇妙に好きな場合もある。
男性は女性より異性の体臭を嗅ぎたがる(気がする)そのためかよく変態男は臭いを嗅ぐ姿が表現され女性を慄かせる。
私はこの映画を観ている間中、側に置いたアースノーマットの香りが心地よかったのでどうもこの映画の香りのイメージはそれなのである。

やや長めの映画なのだが退屈することなく引き込まれて観てしまった。異常心理というジャンルほど魅力的なものはないのかもしれない。
その上でやや疑問を持つ点もあった。
グルヌイユは匂いそのものに強い興味を示すという性癖という説明なのに匂いを採取した女性は何故皆美人なのだろう。
美人だけがいい匂いなのか、匂いにこだわる割には美しさを「見てる」気がしたのだが、醜女だがいい香りの持ち主ということもあるのではなかろうか。
結果的に彼はその香りで会場に居合わせた群集を恍惚とさせ至福の感覚をもたらした。
それが現実に起こるかどうかはわからないが、集めたのは「若い女性」の体臭だけなのに効き目は男性だけではなく女性にもあるのだろうか。女性の匂いを嗅いでストレートな女性が恍惚となるのか、それとも若い女性の香りは男女に同じ効き目をもたらすものか。ストレートな女性なら若い男性の匂いの方が効き目があるような気もするのだがそれならグルヌイユは男性の体臭も集めなければいけなかったろう。しかしそれならロリコンや老女趣味の人には効かない気がするし。ショタコンやお爺趣味の人も。
画面上、ビアンの女性達も恍惚となっているのが幾組か見えた(これは解るとして)がゲイの男達の姿は見つけきれなかった(見逃しただけかもしれない。コマ送りにして見つけるか)ゲイの男達も若い女性の体臭ではその気になれない気がする(もっさり熊さんの体臭でなきゃねーウホ)
そしたら老若男女色々なパターンの体臭を集めねばならずグルヌイユもなかなか大変である。13人では追いつかないかもしれない。
風邪引いて鼻が馬鹿になってる人も駄目だが。後、もともと匂い音痴な人もまた。
アニメにしか興味のないオタクにも効かない(18世紀だからそれはいいか)
人間の全ての性衝動を網羅するのは難しい。

しょうもないことを書き並べたがゾクゾクと夢中になって観てしまった。本来なら人間の奥を覗いた恐ろしい作品として真剣に観なければいけないのだろうが。
こんな惨たらしい映画を楽しめてしまうというのは最悪な人格なのだろう。

しかし人を殺して体臭を集める(体を利用する)、などという話をドイツ人はまたもややっているわけでやはり怖い。

監督:トム・ティクヴァ 出演:ベン・ウィショー レイチェル・ハード=ウッド アラン・リックマン ダスティン・ホフマン アンドレス・エレーラ
2006年ドイツ



posted by フェイユイ at 21:03| Comment(4) | TrackBack(2) | ベン・ウィショー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。