
小学生の頃はどうしたものか夜布団に入ると様々なことで長い時間悩み苦しんだ。その殆どは「世界の終わりが来たらどうしよう」などという壮大深遠なものでいくら考えても答えが出るはずもなく毎晩繰り返し思考したものだ。そのまま成長すれば哲学者か宗教家になれたかもしれないが思春期も過ぎ大人になる頃にはトンと考えなくなり今ではそんなことで思い悩む夜など一夜もない。布団に入った途端眠りこける日々である。一番の悩みはかつかつの金でどう生活していくかという目の前の日常であり疲れきって眠るだけだ。
そんな自分ではあるがさすがにこの年まで生きているとなんらかの知識はぼんやりと蓄えられている。いつの間にか死についても自分なりの解釈がおぼろげに浮かんではいる。
今日この映像を観ているとおおよそ自分が思っていたものの再確認のような感じであった。無論それは今迄見聞きしたものの総まとめなのであり、自分はやはり仏教的な考え方の方が落ち着くのだなと思ってしまう。チベット仏教はまた独特なものであるらしいが「49日」なんていう死後の大切な数字は日本も同じである。死後49日の法要を終えるとほっとするのだ。
輪廻転生という考え方もごく自然に思える。というか死んでしまうとそれで終わりで何もかもなくなる。魂もない。という考え方はどうしても理解できない。何度考えても死んですべてがなくなるのならこの「思い」はどうなるのか。記憶がなくなるのは理解できるとしてもすべてが無になるというのは想像できない。ただ天国に溜まっていくのではなく新しく生まれ変わる。ここでダライ・ラマが言われるように「古い服を脱ぎ新しい服を着る」という考えのほうがしっくりくる。という感覚的なことしか言えないのだが。
ただそういう風に思っていながらもダライ・ラマというチベットの最高僧侶が代々生まれ変わりであり、前ダライ・ラマが亡くなった後、次代のダライ・ラマを探す、という話を以前聞いた時はさすがに驚いた。本作では他にも人々の為に活動していた徳の高い僧侶の生まれ変わりという少年が登場してくる。不思議としか言いようがない。そういう責任をおって勉強し成長していかねばならない少年というものは大変なストレスだと思ってしまうのだが、信じ切っていれば違うものなのだろうか。
映像がアメリカに移って、エイズで死期を迎えようとしている40代の男性に彼の精神的なケアをしてくれる団体の男性が英訳された『チベット死者の書』を読んで聞かせる場面がある。死期を迎えた男性がそのことによってどのくらい安定したのかは判らないが今迄死について他人と話し合ったことはなかった。これを聞いて死を受け入れるのもいいと思った、などと言うのには少し驚いた。そういうものなのか、しかしそれで彼が癒されたのならよかったが。というかむしろ本を読む男性がエイズの男性の手を握って傍にいてくれていることが何より心の支えのように思えたのだが。
最後に老人と彼の玄孫に当たる赤ん坊が並んで映しだされる。赤ちゃんというのはなんというエネルギーを持っているんだろう。どこかで誰かが息を引き取り、こうして若々しい息吹として生まれてくる。
老人は遠からず命を終えるだろうけど、今抱き上げたような命をまた授かると信じているのだろう。
これを観てると真っ先に『ツインピークス』思い出してしまった。光に包まれるー。
1993年9月23日放送 NHKスペシャル
posted by フェイユイ at 22:44|
Comment(1)
|
TrackBack(0)
|
北・中央アジア
|

|