映画・ドラマ・本などの感想記事は基本的にネタバレです。ご注意を

2010年05月27日

ゲイ映画の名作が次々と発売されるのはいいけれど

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いつも通りチェックが遅い私、今発見。
『アナザー・カントリー』『モーリス』『蜘蛛女のキス』などゲイ映画の名作が次々ニューマスターやスペシャル・エディションで発売されるのだね。
『アナカン』はまだしも『モーリス』は物凄くレンタル枚数が少なくて借りられないし、『蜘蛛女』はなくて観れなかったので楽しみなのだけど結局レンタルはされないのかもなあ。(今購入する余裕全くなしなのだ)
『尼僧ヨアンナ』も『まぼろしの市街戦』も発売されたのにどっちにしろ観れない(泣)(あ、これはゲイ映画じゃないです)
こういういいのを見せてくれよ。貧乏が悪い?
ラベル:同性愛
posted by フェイユイ at 10:29| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

シベリア抑留

先日NHKクローズアップ現代で『シベリア抑留 終わらない戦後』と言う番組があった。私は途中からしか観れなかったのだが改めて考えさせられた。

というのは最近、シベリア抑留について知りたくなり、図書館へ行って本を幾冊か読んだばかりなのだ。あったのは『戦後強制抑留史』というまだまっさらな全6巻とちょうど番組に出演されていた辺見じゅん氏の『収容所(ラーゲリ)から来た遺書』そして斉藤四郎 著 / 船木拓生 編『シベリアの静寂、いまだ遠く』という数冊だった。
抑留史というのは数は多いのだが何しろ中身が統計的記録的なものが殆どなので素人には内容が掴み難い。やはり細かく状況説明がある他の2冊が非常に素晴らしかった。

辺見じゅん氏の著書は受賞もしていると言う作品で山本幡男さんという一人の抑留者を主人公にして彼が極寒でのシベリアの過酷な労働生活の中で仲間を励まし常に前向きで誇り高く生きていたのかを優れた筆致で描き出している。
明日をも知れない状況で仲間と共に芸術や学問を続け必ず帰れるのだと皆に言い続けた12年間。そんな彼に対して仲間の思いと行動に胸を撃たれてしまう。
彼自身はロシアが大好きでそれだからこそロシア語にも堪能だったという人である。なんて皮肉な運命なんだろう。

もう一冊の『シベリアの静寂、いまだ遠く』は実際に抑留体験のある方の文章を別の方が編集されている著書で、もっと生々しい体験が描かれていた。辺見氏のは作家としての一つの作品で読んでいる間はただ感動だったがやや美しすぎるのかもしれない。こちらは男性としての性の問題(と言っても栄養失調で何もできなかった、という問題だが)や餓えた人間はもはや尊厳もなくしてしまう悲劇などが描かれる。また美男子であった仲間がソ連兵や奥さん方に気に入られて優遇され彼だけは食事も衣服も与えられていた、というような事実もあったのだ。多くの人が1年目の冬を越せず、田舎育ちで野草に詳しく体が小さいほうが生き残れる、と書かれていた。

ポツダム宣言などの抑制もきかず、戦後であるのに57万以上の人々が抑留され多大な死者を出すほどの極悪な条件で過酷な労働に従事させられた彼らには何の保証もないばかりか帰国後酷い差別を受けている人も多かったらしい。また中には16歳の民間人もいたという。
戦後65年経っても今だ調査が済んでいないからという答えしかかえって来ない日本社会。本人はもとよりその兄弟子供も高齢化してしまった今ではただ時が過ぎ去るだけということなのだ。

先日ドイツ映画の『6000マイルの約束』というシベリア抑留から脱走した兵士の映画を観たが、日本ではこの題材の作品というのも殆どないようだ。「触れてはいけない」ということなのだろうか。

シベリア抑留 ロシア人の手で初上演
ラベル:歴史 戦争
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2010年05月26日

『NHKスペシャル チベット死者の書 第2回 ドキュメンタリードラマ 死と再生の49日』

チベット仏教経典「バルド・トドゥル」に基づいた中沢新一氏の脚本によるドラマ。
少年僧が老師に生と死と輪廻について教わっていく。

「人は生まれる時泣き世界は歓喜の声をあげる。死ぬ時、世界は泣き人は喜びに包まれる」という言葉が素晴らしい。まさしくそうありたいものである。

これから長い修行を積んでいくのだろう幼い少年僧と老僧との会話という構成がいい。
師弟は村の40代の男性の死に直面する。妻子を持つその男性はまだ若過ぎて、この世と離れることが難しくまだ経典の勉強も未経験だった為に彼は解脱することができないのだ。
老僧は彼の解脱を助けようとするが、幾つもの機会を彼はどうしても掴むことができず再生への道を進んでしまう。
優しい仏の姿も憤怒の像もすべては己の心を映したものでどちらも解脱への道を促す姿だというのが興味深い。美しいものも醜いものも差異はないのだ。
また輪廻の中でいつか目の前の動物が母親であったかもしれないのだから誰にでも何に対しても優しくしなければならない、という。確かにそういう考えを持っていれば誰とでも家族であった可能性があるのだから仲良くすべきだと皆が思えれば一番よいのだがねえ。

アニメーションが不気味なのだがよく観る日本のアニメでないのがよかった。なんと言っても老僧の声である大滝秀治さんの声がいい。

1993年9月24日放送 NHKスペシャル

ラベル:宗教
posted by フェイユイ at 22:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 北・中央アジア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月25日

『NHKスペシャル チベット死者の書 第1回 ドキュメンタリー 仏典に秘めた輪廻転生(りんねてんしょう)』

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小学生の頃はどうしたものか夜布団に入ると様々なことで長い時間悩み苦しんだ。その殆どは「世界の終わりが来たらどうしよう」などという壮大深遠なものでいくら考えても答えが出るはずもなく毎晩繰り返し思考したものだ。そのまま成長すれば哲学者か宗教家になれたかもしれないが思春期も過ぎ大人になる頃にはトンと考えなくなり今ではそんなことで思い悩む夜など一夜もない。布団に入った途端眠りこける日々である。一番の悩みはかつかつの金でどう生活していくかという目の前の日常であり疲れきって眠るだけだ。

そんな自分ではあるがさすがにこの年まで生きているとなんらかの知識はぼんやりと蓄えられている。いつの間にか死についても自分なりの解釈がおぼろげに浮かんではいる。

今日この映像を観ているとおおよそ自分が思っていたものの再確認のような感じであった。無論それは今迄見聞きしたものの総まとめなのであり、自分はやはり仏教的な考え方の方が落ち着くのだなと思ってしまう。チベット仏教はまた独特なものであるらしいが「49日」なんていう死後の大切な数字は日本も同じである。死後49日の法要を終えるとほっとするのだ。
輪廻転生という考え方もごく自然に思える。というか死んでしまうとそれで終わりで何もかもなくなる。魂もない。という考え方はどうしても理解できない。何度考えても死んですべてがなくなるのならこの「思い」はどうなるのか。記憶がなくなるのは理解できるとしてもすべてが無になるというのは想像できない。ただ天国に溜まっていくのではなく新しく生まれ変わる。ここでダライ・ラマが言われるように「古い服を脱ぎ新しい服を着る」という考えのほうがしっくりくる。という感覚的なことしか言えないのだが。

ただそういう風に思っていながらもダライ・ラマというチベットの最高僧侶が代々生まれ変わりであり、前ダライ・ラマが亡くなった後、次代のダライ・ラマを探す、という話を以前聞いた時はさすがに驚いた。本作では他にも人々の為に活動していた徳の高い僧侶の生まれ変わりという少年が登場してくる。不思議としか言いようがない。そういう責任をおって勉強し成長していかねばならない少年というものは大変なストレスだと思ってしまうのだが、信じ切っていれば違うものなのだろうか。

映像がアメリカに移って、エイズで死期を迎えようとしている40代の男性に彼の精神的なケアをしてくれる団体の男性が英訳された『チベット死者の書』を読んで聞かせる場面がある。死期を迎えた男性がそのことによってどのくらい安定したのかは判らないが今迄死について他人と話し合ったことはなかった。これを聞いて死を受け入れるのもいいと思った、などと言うのには少し驚いた。そういうものなのか、しかしそれで彼が癒されたのならよかったが。というかむしろ本を読む男性がエイズの男性の手を握って傍にいてくれていることが何より心の支えのように思えたのだが。

最後に老人と彼の玄孫に当たる赤ん坊が並んで映しだされる。赤ちゃんというのはなんというエネルギーを持っているんだろう。どこかで誰かが息を引き取り、こうして若々しい息吹として生まれてくる。
老人は遠からず命を終えるだろうけど、今抱き上げたような命をまた授かると信じているのだろう。

これを観てると真っ先に『ツインピークス』思い出してしまった。光に包まれるー。

1993年9月23日放送 NHKスペシャル
ラベル: 宗教
posted by フェイユイ at 22:44| Comment(1) | TrackBack(0) | 北・中央アジア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『落ちた偶像』キャロル・リード

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THE FALLEN IDOL

グレアム・グリーンの素晴らしい脚本をキャロル・リード監督が見事に演出した秀作ということで私もそれにはまったく反論はない。非常に面白く楽しめた。
が、なんだか昔の話ってどこかひっかかるなあ、という思いもする。一体それは何故なんだろうか。

主人公はフィリップというフランス語を話す可愛らしい少年だ。彼は大使館の大使の息子でパパの仕事でロンドンに来ていて英語を話しているんだから凄いものだ。
事件は彼のママが病気療養から退院するのをパパが迎えに行くところから始まる。
そして事件に巻き込まれる可愛らしいフィリップ少年がつかなくていい嘘をつけばつくほど大好きなベインズが罠に嵌まっていくという事態になっていく。
状態をかき回す少年に苛々する人もいるのかもしれないが私としては少年は立派に頑張っておると見えるわけで何といっても腹が立つのはベインズのほうだ。犯人はベインズではない、ということになるのだが本当に彼は無実なんだろうか。

ロンドンの大使館が舞台。そこに住むフィリップ少年は執事であるベインズが大好きでベインズも彼を可愛がっている。
フィリップ少年の父親は大使(フランス?フランス語を話してるのは確か)で、入院していた妻を迎えに出かける。館内には召使とベインズ夫妻がフィリップ少年の面倒をみていた。

フィリップはベインズを崇拝していると言っていいくらい好きなのだが、それは彼がフィリップを心から可愛がってアフリカでの体験談などを楽しく話してくれるからだ。一方ベインズ夫人は神経質で何かとフィリップ少年に当たり散らすのだった。
昔の話って何故かこういう「ヒステリーを起こす年増女性」というキャラクターがしょっちゅう出てきてた。今はあまりこういうタイプって登場しないよね。ヒステリーって言葉も殆ど聞くことがないし。何故昔の年増女性はヒステリーを起こす(タイプがいる)と決まってたんだろうか。
その夫のベインズはフィリップをとても可愛がっているいい大人という役割。温厚な彼はヒステリックな妻に失望していて今若い女性と不倫関係にある。恋人には妻と話をつけると言いながら妻に向かうと逃げられる、というよくあるパターンなのである。
そしてベインズ夫人は夫の不倫を嗅ぎつけ外出したふりをして二人が仲良くしている2階の部屋を覗こうと階段脇の飛び出した場所に入り込み落下して死んでしまうのだ。
確かに事故である。
だがこの温厚なベインズがさっさと話をつけていたら少なくとも夫人は死なずにすんだのに。あっちにもこっちにもいい顔をしようとしてベインズ夫人は死んでしまった。彼が殺したのではないけれどそういう風に追い詰めてしまったとも思えるのではないか。無論殺人として立証はできないが。
無垢な少年にも「アフリカで色んな冒険をした」ような嘘をついて英雄視させベインズ夫人が死んだからいい方向に向いたもののもし死んでなかったら恋人にだってそのまま嘘をつき通してだらだら不倫関係を続けたのではないのかなあ。
このベインズ、全くぬらりくらりと食えない奴である。この後、恋人と結婚したとしてもまた嘘の人生を繰り返していくんではなかろうか。

さて死んでしまった(殺されたと言ってもいいと思う。人格を全否定された存在なのだ)ベインズ夫人は誰が観ても死んでしまってすかっとする、という役割を当てられてしまった気の毒な人でもある。優しい夫に怒り狂い、可愛い少年の罪のない行動にヒステリーを起して暴力をふるったのであるから「死んでしまっても当然」の人なのだ。本当に?
今の人ならこういう表現(ああ、ヒステリー女だな、っていう表現)はされなかったろうに。時代のせいで十把一絡げにヒステリー女というカテゴリにおいて抹殺されてしまった。一体何故ミセス・ベインズはこういう女性になったんだろうか。かつてはベインズも彼女を愛したんだろうに?今の恋人に対するように?
ところでベインズの不倫相手ってベインズ夫人となんだか似てる。痩せて神経質そうな。子供相手にずけずけ文句を言うところもそっくりだ。結局結婚したら第2のベインズ夫人になるだけみたいな気もするのだけどねえ。

もう一つ。最近はあんまりこういうフィリップ少年のような「純真無垢さゆえに空気が読めず物事を撹乱していく」という子供の役はないのでは。子供が純真無垢、というのももう流行らないし、却ってしっかり物事を把握してたりする。不倫関係なんてすぐ見破ってしまい話が作れない、か、違う話になる。
こういう物語ってステロタイプばかりだからこそ成立する話なのだ。

監督:キャロル・リード 脚本:グレアム・グリーン 出演:キャロル・リード ラルフ・リチャードソン ミシェル・モルガン ボビー・ヘンリー ソニア・ドレスデル ジャック・ホーキンス
1948年イギリス
ラベル:サスペンス
posted by フェイユイ at 00:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 欧州 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月23日

『赤軍-P.F.L.P.世界戦争宣言』若松孝二 足立正生

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『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程(みち)』を作った若松孝二が監督の一人であったので興味をそそられ、しかも製作が1971年というまさにその時代の記録とはいかなるものかと観てみたのだが。

まさか、ここまでだるい内容だとは。作品の構成などが単純であるのは予算などの問題もあって仕方のないことかもしれないが語られる言葉があまりにも子供なのだ。
考えてみれば当然かもしれない。当時は自分自身が子供で世の中で恐ろしいことを起こしている若者(というより自分にとっては比較的若い大人)がいるのだとぼんやり感じている程度だった。時が経ち自分が成長した時点では彼らはもう話題になることも無くなってしまった。時折思い出しても彼らのことを語るものが少なすぎた。無論これは自分が本気で調べようとしてなかったせいもあるのだが、ドラマや映画や小説や漫画などで評判になるような作品は暫くの間なかったと思う。
自分が年をとって本作を観ると逆にその未熟さに唖然としてしまう。当時自分がまだ彼らと同調できる年齢でなかった為懐かしさなどという感慨がないせいもあるのだろうか。
言葉を覚えた子供がそれを使いたくて何度も口にすることがあるが、「世界戦争」「プロパガンダ」「武装闘争」などという言葉を何度も繰り返す。通常使う言葉ではない口調で語られる論理はまったく整然としておらず区切りもないままにだらだらといつまでも続けられる。話す方も聞く方も意味が判っていたのだろうか。
悲しいのはプチブルであることを捨てプロレタリアートであるレバノンの人々と同じ生活をすることによって真の闘争ができる、というくだりだ。その土地に住みながら土地を追われた人々は彼らの言葉そのものの「生きる為に戦う」のだが、安全な場所で育ちながらあえて他の国に乗り込んでいった彼らが「生きる為に戦う」というのとではまったく意味が違う。多分裕福な育ちながら貧困層の為にゲリラとなったチェ・ゲバラを理想としているのだろうが、自分たちの思想の表現がこんなにまとまりなく伝わりにくいのではインフォメーションの役割を果たしていない。彼らによるとインフォメーションとは真実を伝えることなのだそうだが。

ただただ当時、ある思想のようなものを抱いたと思い、拙いプロパガンダを抱いて行動を起こし、常軌を逸した数々の事件を巻き起こしていった若者たちがいたのである。
その思想は時を経て聞けば覚えたての新しい言葉の羅列に過ぎなかったのではないだろうか。
平和の為に武力闘争をすると信じ自我をなくして団結し殺人を犯していくことが本当に正しいことだと繰り返す彼ら。
本来なら恥ずべき過去として葬ってしまいたい映像なのかもしれない。
そうした時代を映し撮ったこの映像は確かに翻って考えれば貴重なものなのだ。

監督:若松孝二 足立正生
1971年日本
posted by フェイユイ at 23:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『セントアンナの奇跡』スパイク・リー

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MIRACLE AT ST. ANNA

よく練られた複雑な物語なのであるが、その長さと饒舌な内容に沈鬱な気持ちに襲われてしまう。というのは長さに辟易したと言うより、核心をあまり目立ち過ぎないようこの長さが必要だったように思えるからだ。
第二次世界大戦。イタリアを舞台にしてアメリカ軍とナチスそしてパルチザンの戦いがある。今迄の殆どの映画は白人がほぼ占めていてアメリカ軍であっても黒人兵士が活躍した話などあったのだろうか。或いはかっこいい白人兵士の勇敢さを見せる為に無残に攻撃された黒人兵士を助ける白人兵士なんていう場面の為に登場したかもしれない。もしくは料理担当だったかも。せいぜい一人登場する程度なのでキャラクターも決まりきったものになってしまう。ここで数人の黒人兵士たちにそれぞれの性格分けをしているようなそういう表現など望むこともできなかったはずだ。
タイトルの『奇跡』はイタリア・セントアンナでナチスに襲われ逃げ延びた愛らしい少年を救ったアメリカ黒人兵士が長い時を経て奇跡に出会う、ということを示しているのかもしれないが、むしろ自分にはイタリアで彼らが白人達と何の差別意識もなく交流ができたことを意味しているようにさえ思えた。突然アメリカ黒人兵達に入りこまれたイタリア人家族は怯えるがそれは彼らが黒人だからではなく敵国であるアメリカ軍人だからであり彼らを汚いもののように蔑むアメリカ白人たちの対応とは全く違うものであった。
暫くして落ち着いた彼らは黒人兵達を教会でのダンスパーティに招きダンスに誘う。素晴らしい美人のレナータにも侮蔑の気配はまったくない。彼女の目にはただ異国の男性としてしか映ってないことを黒人兵達は感じてしまうのである。それは今迄受けた白人女性の視線から感じられることのない好意であり彼らにとって奇跡と言っていいのではないんだろうか。私にはこの映画が語りたい部分はまさにここであるのにそれをあまり露骨に表現するのが気恥ずかしく様々な出来事で隠してしまったような気さえしてしまうのだ。しかも黒人兵ヘクターと白人女性レナータの絡みはあまりアップではなく影になってよく見えないキスと服に手をかけたところで終わっており強烈な台詞のわりには気の弱い展開であった。アメリカが舞台で白人女性とこのような場面を撮るのは無謀であるらしいからいくらイタリアであるとはいえぎりぎりの挑戦だったのかもしれない。
またヘクターはイタリア語も上手いのだが、これも白人が主流の映画ではほぼ観れない光景なのでは。無学な黒人兵が白人兵より外国語が上手いわけはない、ということで黒人ヘクターが流暢にイタリア語を話すのも他では観れない特別な場面なのでは。(ここんとこ『イングロリアス・バスターズ』でのブラッド・ピットのど下手なイタリア語を思い出すとより一層面白いかも。大体においてアメリカ人は外国語を話せず相手に英語を話してもらうものだ)
また可愛らしいイタリア少年が大きな黒人兵トレインになついて離れないのもまたしかり。彼をチョコレートと間違えてぺろりと顔を舐めるのも今迄観たことのない行為かもしれない。
そしてナチスとの激しい銃撃戦。これまで第二次世界大戦で黒人兵がこんな活躍をすることもなかったろうし作中での台詞もあるように黒人は掃除か料理をするだけで勇敢に戦うなんて思ってもいなかった、ということに対しての抗議のように見えてくる。
いわば今迄白人兵士であれば色んな映画で表現されていた外国でのラブシーンや子供へのいたわりや敵との勇敢な戦いなどを黒人兵も同じようにできるはずだ、という映画のように思えてなかなか胸が詰まってくるような沈鬱さを感じてしまったのだ。
こういう枷を感じさせず当たり前に自然にさらりと黒人主演の映画というものがアメリカで作られる、差別意識などと言う言葉など全く忘れていた、なんていうことはあるのだろうか。いやまさか、ない、ということはないだろうね。

この奇跡に比べれば再会の奇跡はそう奇跡ではないかもしれない。

監督:スパイク・リー 出演:デレク・ルーク マイケル・イーリー ラズ・アロンソ ジョン・タトゥーロ
2008年アメリカ

記者役でジョセフ・ゴードン=レヴィットが出演。可愛いよね。
ラベル:戦争 歴史
posted by フェイユイ at 01:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 北米 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月21日

『オックスフォード連続殺人』アレックス・デ・ラ・イグレシア

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The Oxford Murders

時折、こういう衒学めいたミステリーというのが登場する。ペダンチック、と言う奴である。一般人には何のことやら全く理解不能な定理やら理論やらを展開して文字通りひけらかし、観る者(読む者)を惑わしていく。殺人ミステリーにおいて起こった事件と答えだけを言ってしまえばあっという間に終わってしまう。それじゃ面白くないので作者は事件を隠したりミスリードしたりで犯罪を面白くしていく。その手段がどんどん変な方向へ走っていくとまるで事件と関係ないような、しかし物語に重みを与えんが為に無闇な学説などが飛び交うことになってしまう。
この物語も簡単に話を運べばそれほど驚く筋書きでもないのだが、舞台がイギリス・オックスフォードで老獪な学者と彼に憧れて留学してきたという頭脳明晰な若者が奇妙な理論を振り回すのが楽しいのである。
なのでそういう装飾が嫌いでそのままずばりを見極めてしまう向きにはやや物足りない話かもしれない。
自分としては話を複雑にする為の空論がややしゃらくさい気もするのだが、何しろ昨日観た『マトリックス』と言う言葉も出て来たし(字幕では出なかったけど)ジョン・ハートの老学者とイライジャ・ウッドそして不気味なロシア人(?)も登場してなかなか面白かった。しかし昨日からやたら数字が並び理屈っぽい話ばかり聞いてる。どちらも人を迷路に閉じ込める為の幻惑なのだが、そういうの嫌いじゃない。

監督:アレックス・デ・ラ・イグレシア  出演:イライジャ・ウッド ジョン・ハート レオノール ワトリング ジム・カーター アレックス・コックス ドミニク・ピノン アンナ・マッセイ ジム・カーター ジュリー・コックス
2008年 / イギリス/スペイン/フランス
ラベル:ミステリー
posted by フェイユイ at 22:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 欧州 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『マトリックス』ラリー&アンディ・ウォシャウスキー

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THE MATRIX

作品をきちんと観たことは一度もないのだが、何しろ話題になった映画でTV放送をちら観したり何かと取り上げられているのを何度も観ているので少なくとも見どころ場面はすっかり観てしまっていた。
今回やっと観通すことができたがさすがになかなか面白い映画であった。ただ没頭し熱愛する、とまではならないのではあるが。柔術だのワイヤーアクションだの(柔術と言いながら何故かカンフー)アジアンテイストがかなり入り込んでいて笑える要素が多いのも楽しかった。

それにしても最先端のようなものが題材なのにも関わらず設定物語は大昔からまったく変わらないのだね。「選ばれし者」が「救世主」となり仲間と力を合わせ、人類を脅かす恐ろしい敵と戦う。主人公が勝利を掴むのは敵と違い「愛の力」があったから、という。
そういうスタンダードな筋立てだからこそこのとんでもない世界の表現が飲み込めるのではあるだろうけど。
主役のキアヌー・リーブスは確かに本作めちゃハンサム。

のけぞったキアヌーの上を弾道が走る、だとかまっ白な背景から物体が飛び出してくるだとか何度も映画以外で繰り返し観ることになる特殊な映像が満載である。
しかし人一人殺すのに銃弾の浪費が酷過ぎる。どうしてもしみったれてるんで一弾必殺でやれんのかと思ってしまう。
どうしてもあまり書くことがない。
せめて続きの2・3弾を観ればまたそれなりに思うことがあるかもしれない。

監督:ラリー&アンディ・ウォシャウスキー 出演:キアヌ・リーブス
ローレンス・フィッシュバーン キャリー=アン・モス ヒューゴ・ウィーヴィング ジョー・パントリアーノ グロリア・フォスター
1999年アメリカ
ラベル:SF
posted by フェイユイ at 00:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 北米 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月19日

『愛しきベイルート アラブの歌姫』ジャック・ジャンセン

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We loved each other so much

先日『戦場でワルツを』(原題訳『バシールとワルツを』)という恐ろしいアニメーションを観たばかりだが、その舞台となる15年続いたレバノン内戦の間もベイルートに留まり歌い続けたという。
彼女自身はキリスト教徒らしいが様々な宗教の人々が住むレバノンで誰からも支持され愛されている、彼女への賛辞と敬愛の言葉がそこに住む人々の姿と共に映しだされる。

変な言い方だが、ベイルートと聞くだけでどんな緊迫感のある町の様子が映されるのか、と思ってしまったのだが映像で観れるのはどこででも感じられるような風景であった。とはいえ町に住む人々は年を取っている人ほど昔はこの町がどんなに平和で美しかったかと語る。宗教の差別もなく町に住む人は皆仲良く街並みも文化も素晴らしかったのだと。
一体どうしてそんな平和な町が内戦状態になり『戦場でワルツを』で見せられたような残虐な殺戮を体験しなければならなかったのか。
すでに有名で豊かであったファイルーズ(発音はフェイルーズと聞こえるのだが取り敢えず書かれている通りに書いておく)はそう思えば国外へ逃げることもできたのにその地に留まり歌い続け人々の安らぎとなった。
老いも若きも男女問わずファイルーズを女神として敬愛している。その歌は祖国レバノンへの愛を歌ったものもあり恋人への思いを訴えたものもある。そして類稀な美貌。何故神様は美しい声と美しい容姿の両方を一人の女性に与えてしまったのか。やはりそれは苦しむ人々へのせめてもの贈り物だったのだろうかとつい思ってしまう。一人の男性がファイルーズのコンサートで夜の空が真っ暗であった時彼女が「何故月が見えないの」と歌うとぱっと雲が去り月が輝いたという不思議な話をする。そういう伝説がカリスマには付き物だ。
そういった様々な物語や彼女への愛が苦しい時期の人々を支え続けてきたのだろう。そういう時期には誰しも心を守ってくれる物が必要なのだな。

惜しむらくはファイルーズが歌う映像がたった一つしか収録されていなかった。それは最後だったのでそれまでは人々の話と幾つか見せられる写真でよかったのだが、一つ歌う場面を見せられてしまうとせめてもう幾つか取り入れていて欲しかった。きっと誰もがそう思うのではないだろうか。

監督:ジャック・ジャンセン 出演:ファイルーズ
2003年オランダ
ラベル:歴史 戦争 音楽
posted by フェイユイ at 22:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 西アジア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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